日本の批評2

3|震災以後の批評 古市憲寿の登場 東 ここからは震災以後の批評について討議していきたいと思います。まず、これはむしろ震災前の流れが続いているのだと思うのですが、二〇一一年はかなり豊作な年です。宇野さんの『リトル・ピープルの時代』、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』、與那覇潤130『中国化する日本』、そしてぼくが『一般意志2・0』を、佐々木さんは『未知との遭遇』を出しています。また、ゼロアカ優勝者の村上裕一『ゴーストの条件』も出た。もし震災がなければ、この延長線上で新しい人文ブームがやってきたかもしれない。  しかし、むしろ震災後の新しい状況につながっていくのは、古市憲寿さんの『絶望の国の幸福な若者たち』と開沼博131さんの『「フクシマ」論』です。後者は修士論文をもとにしたもので、震災前に出版が予定されていたらしい。けれど、結果的に震災直後、まさに福島原発を主題にした本ができることになった。運命的としか言いようがない。 大澤 古市さんの『絶望の国の幸福な若者たち』の半年前には、福嶋麻衣子(もふくちゃん132)といしたにまさき133の共著『日本の若者は不幸じゃない』が出ています。日本の若者の自己認識としては幸福なんだという論調はすでに広がっていて、それを結果的に震災後の空気のなかで古市さんがうまくパッケージ化した。それが「朝まで生テレビ!」で大きく取り上げられもしたわけです。 東 古市さんの本は、震災で自信を失った日本人への慰撫装置として機能した。 佐々木 将来不安があっても、日本はまだまだ捨てたもんじゃないと。 大澤 別の角度からも見ておきましょう。開沼さんはそのあと『漂白される社会』(一三年)というルポ本を出しますね。もともとルポ業界でライターもしていたとのことですが、震災後は『「フクシマ」論』の著者として書けるようになった。同年、古市さんは世界の戦争博物館をレポートした『誰も戦争を教えてくれなかった』を出す。ここに、中島岳志の『秋葉原事件』(一一年)などを加えてもいいけど、それらはかつてであれば、どれもルポライターやジャーナリストの領分だったはずです。ところが、九〇年代以降、出版業界に金銭的な体力がなくなり取材費を出せなくなる。その空いた席に、大学に所属する若手研究者たちが参入していく。批評のアカデミズム化と批評のノンフィクション化が重層的に進行します。  それ以前から、社会学のトレンドとして素朴な参与観察が流行していました。本を出す若手の多くは参与観察ものですね。社会学における当事者=現場主義化と新書のワントピック化とが合流した結果と言ってもいい。古市さんの『希望難民ご一行様』はピースボートの参与観察だし、この流れの走りである阿部真大134の『搾取される若者たち』(〇六年)はバイク便ライダー業界の参与観察。それらはいい仕事だと思うけれど、後続する若手たちは時事性とインパクトを備えたニッチな現場を探すのに血眼になっている。ここでも理論の更新は置き去りのままです。あらゆる学問領域で進んでいる事態ですね。 さやわか エビデンス主義でもある。 大澤 そうです。そして、現場至上主義的な社会学はあっさりと実存化していきますよ。鈴木涼美135の『「AV女優」の社会学』(一三年)や北条かや136『キャバ嬢の社会学』(一四年)は、やはりそれぞれ参与観察によって書かれた修士論文が原型ですが、その後は社会学の装いすらかなぐり捨てて、女性のリアルを扱ったエッセイに流れていく。そうなると、峰なゆか137や雨宮まみ138などの「こじらせ女子」本と同じ括りになるのは当然だし、それを本人たちもよしとしている。実存を語ることと社会を語ることとがそのまま直結していて、構造的にはセカイ系と同じだという話をしましたが、その実存パートが批評家ではなくて、なんちゃって社会学者や女性コラムニストへと移行した点がゼロ年代と一〇年代の差異なんだと思う。いずれにせよ、社会学がエッセイへのステップになるなんて笑えないところまで来てしまった。 東 さきほど『当事者主権』に触れましたが、日本でそういった「当事者の社会学」を切り開いたのは上野千鶴子さんですよね。古市さんにせよ開沼さんにせよ、実際に上野さんが師匠なわけです。荻上チキさんも上野さんを尊敬してますね。ぼくは3・11以降の論壇は「上野千鶴子の時代」といえるんじゃないかと思うんですよね。それくらい上野さんの存在感が大きい。 大澤 上野さんの門下生が作った論集『上野千鶴子に挑む』(一一年)が出たり、『現代思想』で特集が組まれたりもした(一一年一二月臨時増刊号)。 佐々木 しかし疑問なのは、古市さんはある時期までまともなリベラルにも人気があったことです。いまから見れば古市さんが反動なのはあきらかだけれど、少なくとも『絶望の国の幸福な若者たち』が出たころはリベラルからも期待されていた。 大澤 右も左もロマンに浸っている時代ですから。小熊英二139も帯文で「修行を怠らなければ有望株」と評価していた。 佐々木 そう、みんなに大事にされていた。 大澤 主張や結論はともあれ、資料の読み方も独特だし、テーマ設定も悪くない。 さやわか 古市さんは、じつは速水健朗さんの路線に近いんですよ。参与観察を行い、すこし斜に構えておもしろい本を書く。本の読み応えはあるから、すぐれた書き手になるのかもしれないと、みな思っていた。 大澤 震災後の捩れた高揚感が古市現象を生み出したのかもしれません。ここでも底は抜けたままです。 東 3・11以降の日本はちょっとおかしくて、おれたちはまだまだ行ける、という本しか許されなくなっている。いまでも多くのひとがそういう強迫観念に囚われているんじゃないかな。 130與那覇潤(1979~)歴史学者。日本近代史、現代史、東アジア史。『日本人はなぜ存在するか』『史論の復権』 131開沼博(1984~)社会学者。『はじめての福島学』『漂白される社会』 132福嶋麻衣子(もふくちゃん)(1983~)音楽プロデューサー、実業家。でんぱ組.incプロデューサー。ライブ・バー、アニソンDJバー運営。 133いしたにまさき(1971~)ライター、ブロガー。ブログ『みたいもん!』運営。『あたらしい書斎』 134阿部真大(1976~)社会学者。労働、家族、福祉。『地方にこもる若者たち』『働きすぎる若者たち』 135鈴木涼美(1983~)社会学者、タレント、作家。元AV女優、元日経新聞記者。『身体を売ったらサヨウナラ』『おじさんメモリアル』 136北条かや(1986~)著述家。『整形した女は幸せになっているのか』『こじらせ女子の日常』 137峰なゆか(1984~)漫画家、作家。元AV女優。『アラサーちゃん』『セクシー女優ちゃん ギリギリモザイク』 138雨宮まみ(1976~2016)ライター。『女子をこじらせて』『東京を生きる』、『愛と欲望の雑談』(岸政彦との共著) 139小熊英二(1962~)社会学者。『単一民族神話の起源』『1968』『首相官邸の前で』 リベラルの閉塞 東 二〇一二年に入ると、国会前の反原発デモが膨大な動員に成功したこともあって、ついに運動の季節がやってきます。書籍でも津田さんの『動員の革命』、五野井郁夫さんの『「デモ」とは何か』が出る。『「デモ」とは何か』は、毛利さんの『ストリートの思想』のアップデート版といえる重要な本です。そして、小熊英二『社会を変えるには』がベストセラーになる。 大澤 「社会を変える」ための方法がゼロ年代後半の実存からデモへと移行した。各者の反原発の立場も鮮明になる。 東 しかし一二年一二月の衆議院選挙では、原発はほぼ争点にならず、民主党は大敗して政権が自民党に戻ることになる。それ以降の小熊さんは、すでに社会は変わったんだという主張に移ります。一三年の春にゲンロンカフェで小熊さんと対談する機会がありましたが、彼は反原発運動は十分に社会に影響を与えたのだし、それゆえ「勝った」のだと言い続けていた。しかしこれは、たんに現実を直視していないだけではないかと思う。 大澤 柄谷さんも同じロジックです。それだと精神勝利法の罠に嵌ってしまう。 佐々木 白井聡さんも同じですね。リベラルはじつは勝っているんだと。 市川 リベラルの「じつは勝っている」論法は、いまに始まったものではないですよね。「みんなが選挙に行っていれば勝ったのだ」とかもそうです。しかし実際には、いま投票率が九割になったら、リベラルはさらに負けるでしょう。「支持政党なし」とか「態度未定」を都合よく解釈することが、最大の問題なんです。実際はそのほとんどは、リベラルに対しても保守に対して以上にうんざりしているか、あるいは、たんに政治に興味がない保守層かですよ。しかし、リベラルはそのことに気づかないし、気づきたくない。なぜなら、彼らは自分たちが「正しい」と思っていて、「正しさ」が存在基盤になっている。それが「正しさ」である以上、いつか現実に証明されると信じているから。 大澤 無限遠点に到来する勝利が措定される。ここでも結局はロマン主義です。 市川 戦後日本の理想主義は、そうしたスタンスとも相性がよかったんですよね。いまはまだでも、理想的な状況ではそうなるのだ、と。いわばそれは、リベラルにとっても幸福な時代であって、その最後の花火が「柄谷行人という、永遠のプリンス」だったのだとも思います。 大澤 しかし、精緻な状況分析や理論によって優位を保っていた左翼がそれを手放してしまっては、あとはほとんどなにも残らないですよ。 佐々木 少なくとも負けたという事実は認めてもらわないとまずい。でも彼らはその出発点にも立ってくれない。 さやわか 原発事故のあと、反原発は絶対に正しいということで結集した。そこまではまだわかるとして、それが、こっちは正しいことを言っているのだから、最終的にはなにが起きても勝てるはずだという思い込みに変わっていく。正義は勝つ、なぜなら正義だからだという理屈です。 東 このとき素直に反原発運動の限界を反省していたら、リベラル勢力はいまほど衰退していなかったと思う。この数年はリベラルの自滅ですよ。この夏(一六年七月)の都知事選での鳥越俊太郎140の惨敗も、結局のところそういう傲慢さに端を発している。 市川 ロシア革命がそうであったように、左派が「遠い未来の理想郷」を先取りして現在に無理やり適用しようとすれば、「現実で失敗し続ける」こともまた自明なんですよね。理想は大事ですが、それと現実を混同してはいけない。 東 理想を掲げることと、現状で勝利することは両立するはずですよ。いまの日本のリベラルはたんに現実逃避を続けている。 140鳥越俊太郎(1940~)ジャーナリスト。『サンデー毎日』元編集長、「ザ・スクープ」元キャスター。 政治化するネット さやわか 批評史の話に戻りましょう。さきほど、ネットの活用については保守が先行しているという話をしました。震災後は左派もキャッチアップします。二〇一一年には「TWIT NO NUKES」という、ツイッター発の反原発デモが起こる。はじめは自然発生的なものでしたが、野間易通141さんをはじめサウンドデモの関係者が絡むようになっていく。二〇〇〇年代初頭からあったサウンドデモのスタイルが、まるごとSNSメディアに吸収されていったわけですね。それによって動員が進む。一方で、二〇一二年には保守系まとめサイトの「保守速報」がオープンし、愛国的な展示でおなじみの「ニコニコ超会議」も始まる。ベタな右傾化もどんどん進んでいった。 東 もうひとつ。一二年にはグリーンアクティブが発足します。中沢さん、宮台さん、そしていとうせいこう142さんが呼びかけ人。発足声明はUstreamで中継までされた。左派のあいだではかなりの期待感がありましたが、さしたる成果もなく消えてしまった。あれはだれか総括しているのかな。 さやわか 社会運動の盛り上がりで言うと、たとえば反原発運動のピークは一二年ということになるでしょう。以後は急速に沈む。この時期に論壇と関係するネットの動きとしては、キュレーションアプリが登場します。それと並行して、「東洋経済オンライン」(一二年)や「NewsPicks」(一三年)のように、読み応えのある経済系の記事がネットでも読めるようになってきた。日本のネットが商業ベースで成り立っているせいで経済系の記事が主になってしまうわけですが、それでもようやくネットが、本格的な言論のプラットフォームになり始めたといえます。 市川 とはいえ、この時期からインターネットで無数に流れる言説が、量的に多すぎて読み手にはフィルタリングできなくなってくる。そのときに、一方では「SmartNews」のようなサービスを利用し、情報の選択とロンダリングを他人に委ねるようになる。あるいは「Yahoo!ニュース 個人」の登場が象徴するように、怠惰な読者たちは、無数の匿名の情報からいちいち自分で調べるのは面倒だと、いちどは消去したはずの著者性に再度依存しようとする。読者のリテラシーの退化が進み、送り手の編集の責任も放棄されているわけで、事態はあまりいい方向には向かっていませんし、ぼく自身も含め、そういう状況で言葉を紡ぐことへの絶望感もきわめて大きくなっています。 さやわか 「アゴラ」(〇九年)や「WEB RONZA」(一〇年)のように、論壇雑誌の廃刊を補うようにして論壇系のウェブメディアが立ち上がっているわけですが……。 市川 「アゴラ」も、おもしろい記事はありますが、その一方で名誉毀損レベルの事実誤認を平気で流しますよね。以前のメディア環境だったら、謝罪の繰り返しが信用を低下させ、メディア自体がとうに維持できなくなっているはずなのに、責任を取る主体が明確でないのと、情報がフローで見えなくなるのをいいことに、謝罪すらせず同じことを繰り返している。もはや炎上マーケティングなのかもしれませんが。 さやわか いや、最近はそういうデマと炎上を煽るような論壇系サイトも飽和気味だと思います。たとえば「NewsPicks」をやっている佐々木紀彦143さんは、もともと「東洋経済オンライン」の編集長で、紙メディアに対しても愛着があるひとです。アルゴリズムによる判断と編集者のキュレーションを両輪として組み合わせるひとが現れている。さきほども言ったように、経済系のメディアという端緒があるので、どこまでそれを脱することができるかが課題になっているのだとは思いますが。 東 とはいえ、ネット論壇の本質的な問題は、コストのかかった良質な記事や論説も個人のたんなる感想も、すべて等価に一エントリに還元され、ページビューで勝負するしかなくなってしまうことでしょう。それを解決しないと、なかなかうまくいかないのでは。 さやわか 二〇一二年に佐々木さんが「東洋経済オンライン」編集長に就任すると、四ヵ月で一〇倍のアクセス数を記録します。それに対して、ブログ的な記事が多くなったとか、アクセス稼ぎのためにページを分割しすぎているという批判があった。結局、佐々木さんは二年で辞めて「NewsPicks」に移ってしまう。こういうメディアの運営のやり方がどうあるべきなのか、まださきの見えない状況です。 大澤 新聞でたとえると、すべてがベタ記事になった状態ですね。広告代理店が芸能人にステマを働きかける動きが問題になりましたが、まさに文章があからさまに商売や別の目的に奉仕するものにしかならない。 東 あと重要な動きとしては、一三年の野間易通さんによる「レイシストをしばき隊」の結成かな。SEALDsを生み出した功績は高く評価されるべきだけど、彼らはどっちかというと、もはや言論なんていらないという立場で、批評とは無関係ですね。他方で一四年には家入一真144さんが東京都知事選に出て「インターネッ党」を結成するけれど、これはあっという間に笑い話で終わった。 さやわか となると、震災後のネットにも、結局は批評の居場所はやはりないという結論になりますかね。一三年一月には小林よしのりさんがブログを始めます。でもこれも、既存メディアの有名言論人がブログを書くと拡散されやすく、「Yahoo!ニュース」にも転載されるのでページビューも伸びるという話でしかないですね。結局、二〇一六年現在のブログ論壇はこのモデルに集約した感じがします。 141野間易通(1966~)編集者、活動家。「レイシストをしばき隊」(のち「対レイシスト行動集団 C.R.A.C.」)結成。『「在日特権」の虚構』 142いとうせいこう(1961~)小説家、作詞家、タレント、クリエイター。『想像ラジオ』 143佐々木紀彦(1979~)編集者、ジャーナリスト。『米国製エリートは本当にすごいのか?』『日本3・0 2020年の人生戦略』 144家入一真(1978~)起業家、投資家。株式会社CAMPFIRE(クラウドファンディングプラットフォーム)代表取締役。『こんな僕でも社長になれた』『我が逃走』 雑誌の機能不全 東 直近数年で最大のヒット作を挙げると、やはり『永続敗戦論』ですかね。しかし、さきほども議論したとおり、このヒット自体が閉塞感を表している。 大澤 それでも、『永続敗戦論』はまちがいなくシーンを形成していますよ。固定読者もいる。他方、二〇一三年には、ゼロ年代批評の流れを存分に踏まえつつ、それを切断する傑作として、千葉雅也145の『動きすぎてはいけない』と、福嶋亮大の『復興文化論』の二作が同月に出たわけですが、それにもかかわらず、シーン形成になかなかつながらない。 さやわか かつてシーンが生まれたのは、雑誌が機能していたからでした。 大澤 千葉さんや福嶋さんを掛け合わせる場所がない。相互言及の機会もネットだけになってしまった。 さやわか 文芸誌もその役割をはたしていない。 東 いまや編集者はだいたいぼくより年下ですからね。この共同討議で扱ってきたような批評の記憶は、ほとんど受け継がれていないと思う。「思想」といっても、彼らにとってはそれはマイノリティや貧困の当事者が書いたものや、政策提言の書物を指しており、千葉さんや福嶋さんのような抽象的な議論をおもしろがるメンタリティはないんでしょう。 大澤 『ユリイカ』の特集「10年代の日本文化のゆくえ」(一〇年九月)には千葉・福嶋対談が載りました。一三年に続編があってもよかった。 東 いまはそんなのうちしかやらない(笑)。 大澤 こと思想方面に関して言えば、『ゲンロン』とゲンロンカフェだけが、かつて雑誌が持っていた「雑」性を体現している。厳しい言い方かもしれませんが、どこの雑誌も特集が特集として機能せず、同系の個別論文を集めただけの論集と化している。それは雑誌でもなんでもないでしょう。 市川 根本的に編集者が本を読んでいない。特集のテーマを立てたら、軸となるひとを見つけ、そのひとに書き手全部をお任せしてしまう。それではおもしろくならないに決まってますよね。 大澤 『PLANETS』創刊あたりまではかろうじて伝承されていた編集知の遊びの要素もこの五年で完全に潰えた。 さやわか 雑誌の衰退は、単純には読者がそれを読まなくなったからです。求められていないのだから仕方がない。 大澤 いっそ開き直って古いタイプの自由な編集に戻ったらいい。もっと適当でいいんですよ。雑誌が好きで雑誌の編集をやってるんじゃないのかよ、と思う。 佐々木 今後編集を機能させるには、人材の幅を増やすしかないと思います。いまは全体のヴォリュームが縮小した結果、ひとつのイシューやひとつのジャンルについて、どこもひとつの意見を持った集団くらいしかなく、意見の対立も起きない。映画批評なんてわかりやすくて、昔は實一派がいて、『キネマ旬報』の一派がいて、『映画秘宝』系のカルト映画好きのひとたちもいるという構図だった。その場合、シネフィルとカルト映画は対立していました。しかし映画批評の全体が撤退戦に入ると、みんななかよくするしかない。世界が小さくなった結果、みんななかよく力を分け合い、外側に対して自分たちの存在感を示していこうという戦略に変わっていった。 市川 縮小された護送船団方式ですね。 大澤 雑誌には読者を育てる機能があります。これは出版史的に見てもはっきりしている。それまで存在しなかった読者層を生み出し、それをコミュニティに育てていくことが雑誌の力だし存在意義なんです。雑誌がその魔法のような力を手放したらおしまいだと思う。これはそのまま批評にもあてはまる。 145千葉雅也(1978~)哲学者。現代思想、表象文化論。『勉強の哲学』『別のしかたで』 若手論客の保守化 東 ここまで、二〇〇一年から現在までの一六年間の批評について語ってきました。しかし、最終的には暗い結論というか、ゼロ年代にはまだかろうじてなにかが変わるという希望があったし、新しい批評の萌芽も出てきていたけど、震災後は一気に潰えて、もはや批評それ自体が忘れ去られようとしている。 大澤 批評にも雑誌にも新しい読者を開拓する力がなくなった。というか、その力が忘れられてしまった。そしてどんどん保守化していく。 東 その点では古市憲寿さんも同じです。ゼロ年代には、批評家が既存メディアからあるていど自律し、自前のメディアを持とうという動きがあった。いまはテレビやラジオで活動が目立つ宇野さんや荻上さんだって、最初は自分のメディアで存在感を示していた。けれども古市さんは、自前のメディアを持とうとしたことも、既存のメディアに対して抵抗しようとしたこともいっさいない。この一六年の批評史からすれば、彼は保守反動のきわみです。彼は、日本の論壇のあり方を、一気に九〇年代以前の状況まで戻してしまった。にもかかわらず、彼はたまたま若いから、あたかも古い言論界を刷新しているかのような幻想を与える。 市川 テレビしか見ないタイプの人々にとって、古市さんは安心を与える存在なんでしょうね。 東 ただ、そういう傾向は古市さんだけではなく、左派の開沼博さんや木村草太146さん、あるいは保守系ですが三浦瑠麗147さんにも感じます。みな震災後に出てきたひとたちですが、彼らに共通するのは、若者代表にしろ護憲派知識人にしろ、メディアに与えられた役割を忠実にこなす賢さです。鈴木謙介や宇野常寛は、いい意味でも悪い意味でも、そんなに「賢く」はなかった。 市川 「若手論客」は左右関係なくそういう志向だと。 佐々木 ゼロ年代はネットの時代になり、既存のメディアの枠を越えて批評のゲームが広がっていきました。そこで色々とおもしろいことが起きた。けれども、いま名前が挙がったひとたちが相対的に目立っているように見えるのは、ゼロ年代の方法論では「サヴァイヴ」できない状況になったということです。結局ネットは既存のマスメディアを乗り越えられなかった。それにとどめを刺したのが3・11だったと思う。そこで昔に戻る戦略を取ったひとが勝っている。 大澤 いまでこそ「若手論客」のテレビ出演はあたりまえになっていますが、一二年元日の第一回「ニッポンのジレンマ」あたりまではけっこう新鮮なことでした。若手が出るだけでツイッターがざわざわするかんじがあった。第一回放送には宇野さん、荻上さん、萱野さんらが出演して総花的でした。つまり「ニッポンのジレンマ」はニコ論壇なりネット論壇なりの文脈をテレビがいっぺんに簒奪する企画だった。それ以外にも震災前後には若手を起用した番組がいくつか組まれたし、「朝まで生テレビ!」も津田さんや荻上さん、東さんらを登用していくようになる。けれど、いまやそれも自然な光景になった。それと並行するように、ニコ論壇が衰退していきます。 市川 しかし、産業として見ると、テレビも出版も終息に向かっているのは確実です。もちろん現時点ではテレビを見るひとは数千万人いて、最大のメディアではある。しかし、それが一億三〇〇〇万人を覆うかというと、それはもう絶対にない。二〇二〇年代にいまの高齢者世代が消えていけば、どうしても構造変化が起こらざるをえない。そこで古市さんのように、現状のシステムに乗った若手論客はどうなっていくのか。 佐々木 もちろん、必ずしも彼らが勝ち続けるわけではないでしょう。ただ、問題はその対抗軸にあたるもの、つまりわれわれが批評や思想と呼んできた伝統が、いまや空洞化し、だれにも求められなくなってしまっていることです。 東 別の視点で言えば、保守論壇人が強くなったということなんですよね。いま若手論客と呼ばれ注目されているひとは、本質的に保守です。政治的にはリベラルでも、結局はメディアの選択が保守的なんですよ。そして保守は目的も出口もはっきりしている。平たく言ってしまえば、権力を取り、金を稼ぐことがゴールです。だから、そちらに向かって戦略的に活動を続けているひとはいまだに元気がいいのだけれど、そうではない対抗軸はガタガタになっている。それがいまの批評や思想の苦境だと思います。ひと言で言えば、批評や思想がだれのためになにをやっているのか、書き手も読み手も編集者もわからなくなっている。かつてはそれが「左翼」ということでなんとなく目的があった気がしたのだけど、いまやそれが維持できない。 市川 左派はよい意味でも悪い意味でも構造的に普遍主義にしかなりえないので、その時代その時代への対応力や、権力やお金、商業との結託では、どうやっても保守に勝てないんですよね。 佐々木 まさに「ニッポンの文化左翼」の問題です。若手論客の行方は、二〇二〇年を越えるとはっきり見えてくるでしょう。 146木村草太(1980~)法学者。憲法学、公法学。『憲法という希望』『テレビが伝えない憲法の話』 147三浦瑠麗(1980~)国際政治学者。『シビリアンの戦争 デモクラシーが攻撃的になるとき』『日本に絶望している人のための政治入門』 4|「観客」を復興する 「観客」の不在を超えて 東 三回にわたる長い共同討議を終えるにあたり、最後に今後の批評の展望を語りたいと思います。  まず自分から口火を切ると、ぼくとしてはやはり、批評の読者、というよりも「観客」を増やすことが大事だと思うんです。さきほど若手論客の保守化の話をしましたが、事態は別のレベルでも深刻です。ゲンロンカフェを経営しているとわかるのですが、じつは若手論客には集客力がないんです。テレビに出ていても、お金を払って話を聞きに来るかといえば、そうでないひとが本当に多い。 佐々木 読者を作れていないということですね。 東 大学で教えたりテレビに出たりするだけでは、本当に読者が作れているのかどうかはわからないんですよね。ましてブログのアクセス数はなんの役にも立たない。かろうじて見えるのは単著を出したときです。でもそれも最近だと、「本が売れない時代だから」であいまいになってしまう。つまり、いまは若い書き手が読者の数を実感する機会が乏しい。それを再起動しないといけない。 大澤 日本の場合、批評がサロンに向いていなくて、どちらかというと臨席するというか立ち聞きするというか、盗み聞きというか、対話を観戦することによって発展してきた経緯がある。対談・座談会文化が異様に発展したのはそういうことです。日本語の特性がそうさせるんだと思いますが、いまはおいておきます。  対談に関して言うと、ゼロ年代には、東さんが大澤真幸や北田暁大、宮台真司とそれぞれペアになった「考える」シリーズがありました(『自由を考える』〇三年、『東京から考える』〇七年、『父として考える』一〇年)。双風舎も宮台さんとほかの書き手を掛け合わせるかたちで連続的に対談本を出していた。動画配信前夜で書店イベントが激増した時代でもありました。姜尚中148との『挑発する知』(〇三年)、仲正昌樹との『日常・共同体・アイロニー』(〇四年)、北田暁大との『限界の思考』(〇五年)などです。若い読者はああいうものをぱらぱらと読んでなんとなく批評の地図やトレンドをイメージできたわけですね。耳学問的に。考えてみれば、宮台真司と宮崎哲弥149の「M2」、福田和也と坪内祐三の「これでいいのだ!」、浅田彰と田中康夫150の「憂国呆談」などお決まりのコンビの対談シリーズもゼロ年代には長く続きました。しかし、下の世代になるとそうした対等な対談を成立させること自体が難しい。これも固定読者の不在に起因します。 東 そもそも対談を作るためには、観客の視点を意識することが重要です。ゲンロンカフェの経験で思うのですが、観客がいる場と比べると、観客がいない場のほうが仲間内だけで自由にしゃべれるので、出席者は確実に楽しいんです。しかしそこに対話は生まれない。じつは対話を生み出すために、観客こそが必要なんです。だからうちはイベント形式でやっている。しかし若手論客にはそもそも観客がいない。  さらにもうひとつ加えると、司会の役割も重要です。論壇誌でも文芸誌でも、もともと対談や座談は編集者が司会をやって成立していたはずなんです。それが最近の雑誌では、場所と出席者だけ揃え、録音機材を回してあとは勝手にしゃべってくれと言うだけでしょう。あの怠慢はすごい。本来ならば、別ジャンルの論者を強引に会わせて対談を収録する場合は、編集者が出席者と同じ量しゃべるぐらいじゃなければ成立しないはずなんですよ。そういう常識が編集側でも継承されず、また若い出席者も意識しない。若い書き手が対談とはなにかの肌感覚を知らないまま育っている。 大澤 部室トークになる。 東 ゲンロンカフェで宮台さんや茂木健一郎さんと対談をすると、毎回ほぼ満席になります。そこに来るのは宮台さんや茂木さんの読者のうちごく一部でしょうから、これは本当にすごい。彼らはつねに大量の観客=読者に囲まれている。それが彼らの発言の批評性を支えている。 大澤 観客=読者を作ろうとする東さんや宇野さんらの活動に対して、数の話ばかりして恥ずかしくないのかという批判が見られました。でも、そう非難する人たちがたいてい好きな小林秀雄だって吉本隆明だって実際には数や金の話ばかりしていますよ。そこを無視して次世代に批評を残すなんてできるわけがない。 148姜尚中(1950~)政治学者。熊本県立劇場館長。『マックス・ウェーバーと近代』、『アジア辺境論』(内田樹との共著) 149宮崎哲弥(1962~)評論家、コメンテーター。『新書365冊』、『M2:ナショナリズムの作法』(宮台真司との共著) 150田中康夫(1956~)作家、政治家。元長野県知事。『なんとなく、クリスタル』 思想としての観客 東 観客の問題は理論的な問題でもある。ウィトゲンシュタイン151によれば、すべては言語ゲームです。そして、ウィトゲンシュタインのクリプキ152による解釈の柄谷による再解釈によれば、ゲームの規則はプレイヤーによっていくらでも変わる。ではそこで、柄谷さんがいうようにゲームは完全に無根拠なのかといえば、ぼくはそうではないと思うんです。ゲームの一体性や一貫性を支えているのは、じつは規則ではなく、第三者、すなわち観客です。ぼくはクリプキの哲学は本当はそう解釈すべきだと思います。哲学や批評は観客がいないと成立しない。プレイヤー(書き手)だけでは支えられない。そういう意味で、この長い連続共同討議で語られてきた一九七〇年以降の批評の崩壊というのは、つまりは観客の崩壊の歴史なんですよ。「これが批評だ」というのは観客が決める。観客がいなくなれば批評は終わりなんですよ。売れる売れない以前に、なにが批評なのだか、アイデンティティそのものが失われる。 佐々木 批評とは、われわれ書く主体が決めるものではないと。 東 そうです。それこそゼロアカは、観客が不在でプレイヤーだけで批評をやってみたらどうなるか、その実験のようなものです。規則も観客もなければ、なにをやっても批評ということになってしまう。クリプキに「クワス算」という有名な思考実験がありますね。一緒に足し算をやっていたはずの相手が、突然2+2については5と答えた。それは足し算としてはまちがいでしかないのだけど、そこで、おれはじつはいままで足し算をやっていたのではなく、2+2以外はすべて足し算と同じ演算結果で、2+2だけ答えが5になる「クワス算」なる新しい演算を行っていたのだと答えられたら、これは原理的に反論できないのだという思考実験です。ザクティ革命は、まさにこのクワス算だったんだと思う。でもそれは観客がいないからできたわけで、そのさきに批評の未来はない。 市川 でも、批評の今日的な困難は、観客がみなプレイに参入し、ゲームがプレイヤーだけになってしまうということにあるのではないですか。 東 ぼくは必ずしもそんなことはないと思う。観客が少ないから全員がプレイヤーであるように見えてしまうだけです。実際、みながみなブログやツイッターをやっているわけではなく、その外にサイレントな観客はたくさんいる。 さやわか 内容的にもプレイヤーの語りと観客の語りは区別できますね。 東 スポーツの世界でも、プレイヤーにもプロとアマチュアがいて、その外側にプレイはしないが解説を語るひとがいて、さらにその外側になにも語らず見ているだけのひとがいるという階層構造がある。批評でも同じ構造が必要です。批評を引き継ぐためには観客を増やさなくてはならない。  これは具体的な話です。たとえば『ゲンロン』でも、ぼくがいて、書き手がいて、友の会会員がいて、さらに外側に完全なサイレントな読者がいるという階層構造がある。この階層構造を意識せず、書き手や友の会会員だけを見て作るのであればなんでもできる。気分で特集を組むこともできる。しかし、サイレントな観客を考えるとそんなことはできない。『ゲンロン』のアイデンティティを最終的にジャッジするのは彼らだからです。同じように、たとえば『ユリイカ』であれば、『ユリイカ』のアイデンティティを決めるのは、編集者でも書き手でもなく雑誌の歴史を追ってきた読者だと思うんです。その観客をいまの雑誌がどこまで意識しているか。 さやわか なるほど。 東 編集長が替わっても雑誌が一貫性を持つのは、読者が一貫しているからです。アイデンティティは自分の内側にではなく外側にある。この外側のアイデンティティ=観客をどう作るかが、雑誌の肝であり、またあらゆるジャンルの肝だと思う。だから批評は観客を作ることで再構築するしかない。これはお金の問題ともちがう。 さやわか 東さんのいう観客というのは、同じものを見続けているひとたちですね。そういう存在が表現のサステナブルな環境を作る。 東 そうです。大事なのは観客集団の時間的継続なんですよ。個人単位で見れば、読者はどんどん変わり、離れていく。でも集団は持続している。そこを軽視すると、ジャンルがアイデンティティを失ってしまう。いまの批評の苦境は、読者なんてどんどん入れ替わるとみなが思い込んでいることに起因すると思います。でも、三〇年間、なんとなく批評を読み続けてきた読者もいるはずです。そういう観客を再発見し、彼らの視線に晒されることが大事なんです。だからぼくは、この「現代日本の批評」シリーズを立ち上げた。 大澤 いい媒体だからこそ例に出すのだけど、いまの『ユリイカ』はそこを放棄してしまっているんじゃないでしょうか。一回一回の特集で、それぞれ別の読者層にターゲティングしている。つまり、ムックと化している。 東 アイドルの特集をすればアイドルのファンが買う、新海誠の特集をしたら新海のファンが買うという構図で、一貫したユーザーを想定しなくなっている。 佐々木 どんな雑誌もいまは売れなくなってジリ貧です。そういうとき、これまでやらなかった特集をやると、新しい読者が買って一時的に部数は増える。でもこれは麻薬みたいなものです。いま東さんが言ったことは重要で、二〇年、三〇年と読んでいくひとのことを考えなくてはいけない。  もうひとつ、若い観客を引き入れるために重要なのが教育です。今日の全体のテーマと関わりますが、いまの時代に人文知に興味を持つことはそもそもハードルが高い。余暇が必要だし、前提の知識も求められる。かつては大学がそういったハードルを越える学びの場になっていたはずですが、いまとなっては期待できない。そこでスクール機能が重要になってくる。ぼくはいまゲンロンで「批評再生塾」の主任講師を務めていますが、じつは一回一回のゲンロンカフェのイベントも一種のスクールだと思うんです。読者があるイベントを見に行くのは特定のテーマへの関心からなんだけれど、回数を重ねていくうちに、横断的な知識や教養が積み重なっていく。そういうことしかないと思う。 さやわか 書き手として擁護すれば、『ユリイカ』だって本当はそういうことをやりたいはずですよ。一回一回の特集を積み重ね、固定読者を作っていく。 東 問題はバランスですよね。新しい読者の獲得と既存の読者の維持のバランス。最近の『ユリイカ』はそのバランスが壊れている感じはする。 さやわか かつてはミニ特集を連続でやるなり連載をやるなりしていて、一応機能していたんですけどね。 大澤 さやわかさんも、『ユリイカ』の個々の特集の依頼に応えながら、同時に連載的に自分のストーリーを担保している。そうやって連続的な観客を意識しているわけです。『キャラの思考法』(一五年)にまとめることが決定するまえから『キャラの思考法』の読者がちゃんと意識されていた。 さやわか ジャンルを横断しながらも、文脈を接続し積み重ねていくしかないと思っています。斎藤環さんも同じような意図があるかもしれない。あるいは、『ゼロ年代の想像力』で宇野さんが志した横断性もそうでしょう。九〇年代からみな、横断が重要だと言っていた。だからぼくは過剰に複数の分野を横断しながら、連続的に読めるものを書こうとしているつもりです。ただ、ひとりでやっていることなので、どこまでシーンを作れるかは未知数ですが。 東 むろんこれは特定の雑誌の問題ではなく、一般的な問題です。リアルタイムの影響力を確保すべくテレビ文化人になるのでもなく、あるいはロマン主義を選び復古的な知識人像に閉じこもるのでもなく、いかにして批評の読者を再起動するのか。 大澤 いま小林秀雄を再検討するのであれば、こういう文脈において以外ありえない。自分たちの『文學界』の同人に三木清153を入れて『人生論ノート』を書かせたり、中野重治154を取り込もうとして泣いて断られたりと、異文脈の人間をひとつの雑誌に取り込み統一戦線を構築しようとしていた。もちろん、反ファシズムのアジールを作らねばという責務もあったと思います。しかしそれだけじゃなくて、新しい教養読者を生み出すという発想もあったと思う。文学の世界に三木清の読者を連れてこようとしたんですよ。小林が数の話をするというのは、具体的にはそういうことです。 東 ぼくが小林よしのりさんを連れてくるようなものですね。 大澤 そうです。だから、当初から「呉越同舟」じゃないかと非難されたし、「強者連盟」と揶揄されもした。それでもやったわけです。 東 ゲンロンがなぜそれができるかといえば、そこで読者が考える「ゲンロンらしさ」を裏切ってないからだと思います。小林よしのりさんがイベントに来ても、アイデンティティは揺らがない。でもそれはぼくが決めるものではない。ゲンロンカフェの客が決める。その点でカフェの存在が重要です。実際、ゲンロンのアイデンティティをぼくが自分の視点で決めていたときには、アイデンティティはゆらゆらと揺らいでいた。『思想地図β』はそれで行き詰まった。 大澤 なにをサステナブルと見るかですね。 東 同じかたちが反復されているからこそ、いくらでもちがうものを受け入れることができる。デリダ155はそういう存在を「コーラ」(場所=器)と呼びました。いま求められているのはそういう場だと思います。小林よしのりと組むのであればゲンロンを変えよう、などと思うとダメになる。 151ウィトゲンシュタイン Ludwig Josef Johann Wittgenstein(1889~1951)オーストリア(ウィーン)出身のイギリスの哲学者。『論理哲学論考』『哲学探究』 152クリプキ Saul Aaron Kripke(1940~)アメリカの哲学者。『ウィトゲンシュタインのパラドックス』『名指しと必然性』 153三木清(1897~1945)哲学者。治安維持法違反で投獄、終戦後、獄死。『読書と人生』『人生論ノート』 154中野重治(1902~79)小説家、詩人、政治家。『むらぎも』『甲乙丙丁』 155デリダ Jacques Derrida(1930~2004)フランスの哲学者。『グラマトロジーについて』『声と現象』 批評を継続するために 大澤 短期的に読者を増やす方策も長期的には読者を失います。しかし、いまの雑誌はどれも目先のカンフル剤に頼ってしまう。たとえばこの一、二年、多くの文芸誌が特集主義に走っていますね。それ自体はいいんです。しかし、総合誌化することで文芸誌としてのアイデンティティまで手放してはいないか。 東 それは編集者にもわかるはずなのにね。 さやわか 現行の出版制度では、自分の首を締めるやり方でもそれに乗らざるをえないのでしょう。ゲンロンに似たやり方がほかの出版社にできるかというと、難しい。東さんは自分で会社を作り、あるていど出版市場から自由だからできている。 東 ただ、ゲンロンもまだまだ理想には遠いんです。本当はゲンロンというブランドがぼくの名前より大きくならなくてはならない。じつはスクールはそのためにやっています。佐々木さんの批評再生塾や大森望さんが主任講師を務めるSF創作講座の受講生は、ゲンロンが東浩紀の会社であることをあまり意識していないはずです。そういう試みをもっと増やしていきたい。 大澤 システムが主体性を持つことで永続性が発生する。 東 システムというよりブランドですね。ブランドになってはじめて継続性が生まれる。ぼくが引退したとして、ゲンロンをだれかが引き継ぐ。ただ、引き継いだひとは完全に自由にできるわけではない。なぜならぼくが作った『ゲンロン』の観客に制限されるからです。それこそが観客=外部が作るアイデンティティです。このような視線がなくては継続性は生まれません。さやわかさんは、ゲンロンは東が責任を取っているから自由にできるとおっしゃったし、実際いまはそうなんですが。将来的にはその関係を逆転したいんです。 佐々木 個人のカリスマから、システムそのもののアイデンティティとサステナビリティに移行していく。 大澤 『文藝春秋』が菊池寛156という固有名から離陸して、媒体や社の主体性を持ち始めるプロセスをもういちど見直すべきです。 市川 この三回の討議の全体と関わることですが、批評について語ろうとすると「だれがなにを書いた」とか「どの本をどう評価するか」という話にとどまらず、その時代の書き手たちがなんらかのかたちで共有する、さまざまな階層での統整的理念のようなものが浮かんでこざるをえないと思います。ちがう言い方をすれば、議論そのものが、統整的な理念を事後的に構想するのだと言ってもいい。この終盤でみなさんがしていた、雑誌や座談といった「批評メディア」の話も、まさにそうした統整的理念の話なのだと思います。ただ、おもに〇〇年からの一〇年弱に雑誌、それから大学やテレビ、フェスティバルなどのちがったカタチのメディアに、それぞれ作り手側として、批評性を基盤に渡り歩くことを選んだ身としては、逆に「批評メディア」の正解が見えなくなっている気がします。というのも、〇〇年以降のメディア環境の変化は、統整的理念よりも、個人の感情や愛着のほうを勝らせてしまったから。そのなかでどう「批評を取り戻す」かについては、それを観客と呼んでもいいしアーキテクチャと呼んでもいいけれど、近代の残光の失われたさきでは、まるでちがう制度が必要になるように思えています。ぼくの研究室でもこの数年、その議論をしているけれど、まださきは見えてこない。そうした批評のかたちのひとつ、あるいはいくつかがゲンロンにあるだろうということには、もちろん、異存はないです。 東 こだわるようだけれど、そこで統整的理念というのは、書き手や作り手ではなく、読者が勝手に決めるものだと考えなければいけない。ぼくたち批評家が統整的理念を持っているわけではない。言い換えれば、超越論性は他者が勝手に押しつけてくるものであって、われわれ自体に超越論性はないんですね。もともとこのようなことを鋭く指摘していたのは柄谷さんでした。ただ、柄谷さんの他者論は他者との関係を一対一で考えてしまう。でも他者はthe otherではなくて、othersで考えるべきだと思うんです。このothersこそが観客です。観客が主体に超越論性を押しつけてくる。 佐々木 まさに『一般意志2・0』の議論ですね。 大澤 いまは選択肢過剰の時代だから、一貫性を守ること自体が再帰的にならざるをえません。変えないという選択に意識的になる必要がある。ゼロ年代に群生した批評誌の弱点はあきらかで、長期スパンで持続したものが出なかったことでしょう。ポコポコ生まれては消えていく。ローンチの連鎖があるだけ。『新現実』は表紙も判型もころころ変わってすぐに終わったし、『重力』も「分離と再創設」の製作委員会方式を採用していたからこそ始められたものの、それゆえ短命に終わる。不定期刊行というのはやはり難しいものですね。 東 ぼく自身、『思想地図』も『思想地図β』もすぐ終えているので耳が痛いです。とにかく『ゲンロン』は九号までは確実に続けます。経営が順調ならばさらに続く。 大澤 五ヵ年計画みたいな中期的スケールの導入が必要なのかもしれない。五年ごとに更新しては、綱領が降ってくる。 佐々木 実際最低五年単位くらいで見ていないと、二〇二〇年も通過できないわけです。 東 具体的な話になってきました。 さやわか 雑誌メディアだけではなく、ウェブメディアにも当てはまる話です。ウェブメディアが批評メディアとして立ち上がらなかったのは、要は続けることがうまくできなかったからです。ネット座談会(「はてなダイアリーの時代」)で「マル激」の話をしましたが、あれが一五年間続いているのはまさに「続けているから」だと思うんです。その意志が重要です。「ナタリー」もそうです。大企業に買われ、いまは「お笑いナタリー」とか「ステージナタリー」とか色々なナタリーが現れて、内容的にもスタッフ的にも最初のナタリーからはだんだんと変わってしまったけれど、絶対に名前だけは変えていない。だからブランディングにも成功している。結局のところ、大事なのは気合いですかね。 大澤 矜持とか意地とかね。 東 そう、気合いで続ける。 市川 四〇年の批評史を総括して、最後は「気合い」が結論になるの?(笑) 東 いやいや、意外といいんじゃないかな。一九七五年以降の批評史の総括というこのプロジェクト、普通に考えれば「昔はよかった」の回顧で終わるしかなかったはずですが、なんとか未来志向で終えることができたと思います。これでひとまず「現代日本の批評」シリーズは完結となりますが、今後も批評の現在と役割について、議論を深める機会を持ちたいと思います。佐々木さん、さやわかさん、本日は長時間ありがとうございました。そして大澤さん、市川さん、およそ一年に及ぶ討議への参加、ご苦労さまでした。 156菊池寛(1888~1948)小説家、劇作家。文藝春秋社の創設者、芥川賞、直木賞の創始者。『父帰る』『真珠夫人』 二〇一六年八月一三日 ゲンロンオフィスにて(構成=峰尾俊彦+『ゲンロン』編集部) 補遺 はてなダイアリーの時代──批評とネットの交差点 The Age of Hatena Diaries : Intersections between Criticism and the Internet 大澤 聡+さやわか+東 浩紀   東浩紀 「現代日本の批評」第三回の時代の批評史は、ネットとの関係抜きには語れません。そこで、その関係について三人で補足するミニ座談会を行おうと思うのだけど──まず、今回さやわかさんに作っていただいた年表を見て印象的だったのは、二〇〇一年がいきなり「インパク(インターネット博覧会)」の開催に始まり、「侍魂」「カトゆー家断絶」と懐かしい名前が並んでいること。あのころはたしかに「個人ニュースサイト」の時代だった。 さやわか インパクからゼロ年代のネット史が始まるのは象徴的ですね。もちろん悪い意味で、ですが(笑)。いまではみな忘れてますけど、インターネットは場所に依存しないことが特徴であるにもかかわらず、それを博覧会会場に見立てるという発想がダサいし、しかも博覧会なんて近代の権化みたいなものですからね。あまりに前時代的だった。個人ニュースサイトも、当時爆発的なページビューを集めていましたが、ほとんど現在のシーンには残っていません。  年表にはネットに関係が深い社会的な事象も入れています。たとえば〇一年の「野家オフ」はかなり重要です。ネットで呼びかけたひとたちが集まって牛丼を食べるというだけのもので、これはいまでいうフラッシュモブのはしりでした。このときは政治的な意図はないんだけど、翌年の日韓ワールドカップのときに嫌韓ムードと野家オフの手法が結びついてしまう。なんでもいいから祭りがしたいという雰囲気と韓国を嫌う感情がオフ会というかたちでつながり、リアルな空間に出てきてしまった。遠くSEALDsなどのネット動員による運動論にも通じている。〇一年はその後長く続く流れが準備された年でした。 東 実際、翌〇二年の一月に、津田大介の「音楽配信メモ」が、二月に宇野常寛の「惑星開発委員会」があいついで開設される。〇三年には切込隊長こと山本一郎(やまもといちろう)のブログが始まり、前後して「きっこの日記」と「極東ブログ」が開設。ほか、「はてなダイアリー」が盛り上がり始め、速水健朗、栗原裕一郎、仲俣暁生、町山智浩1、荻上チキとつぎつぎに日記を開設。ぼくがはてなダイアリーに参入したのもこの時期ですね。 さやわか 他方で政治的なサイトも増えていきます。同じ〇三年には、のち在特会の会長となる桜井誠がサイトを開設しています。前年に日韓の自動翻訳掲示板「enjoy korea」ができ、日本人と韓国人が掲示板で直接争うようになっていたんですが、桜井氏はそこに投稿したコメントを、自分のサイトで公開し始める。さきほどのワールドカップも含め、このあたりにいまのネトウヨ勢の萌芽が見られます。 東 〇二年から〇三年にかけて、急速にいまの「ネット論壇」の主要プレイヤーが出そろってますね。 大澤聡 佐々木俊尚の『ブログ論壇の誕生』(〇八年)の巻末にある「著名ブロガーリスト」には、一〇頁以上にわたってかなりの数のサイトのURLが一覧化されているわけですが、〇八年の本であるにもかかわらず、結局のところゼロ年代初頭にサイトを開設したひとたちがリストの大半。アーリーアダプターたちがゼロ年代後半に「アルファブロガー」と化していくわけですね。それから、プラットフォームとしては、はてなダイアリーのプレゼンスが圧倒的に高かった。 東 それは当時の実感にあっています。でもまだ人数は少ない。〇四年ごろのはてなダイアリーは、たしかアクティブユーザーが三〇〇〇人くらいだった。でもそのぶん全体が見渡せた。そのため議論や応答がたいへん活発で、ぼく自身ほとんど自分の読者のIDを覚えていた。 さやわか 『ユリイカ』が〇五年四月号で、「ブログ作法」を特集するんですね。ぼくは当時、編集の一部を担当した栗原裕一郎さんに対して、ブログといってもはてなの内輪ノリの話ばかりじゃないかと批判した記憶があるのだけど、いま振り返れば逆に、はてなが中心で正しい。  はてながコミュニティを維持できなくなってきたときに、ほかの要素がわっと出てきて急速に「ブログ論壇」が壊れていったのがよくわかります。ネトウヨだとか、「きっこの日記」的なものが増える。あるいはケータイ小説や「電車男」が登場し、どんどん商業性を前面化した、現在につながるインターネットに変わっていく。〇四年が転機かなという気がします。眞鍋かをり2が「ブログの女王」なんて呼ばれ始める。 大澤 キャズムではないけど、ムラ的共同体の閾値がそのあたりで踏み越えられたわけですね。 東 そもそもはてなダイアリーの隆盛には前史があって、日本のネットにはもともと静的HTMLで書かれる日記サイト文化があった。大森望さんなんかはそのころからの古参の書き手です。それが九〇年代後半で、それを受けてゼロ年代のはじめに日記を書きやすくするサービスが出てくる。「さるさる日記」や「tDiary」、そしてはてなダイアリーですね。  これは、同時期にカリフォルニアから入ってきた、いわゆる意識の高い「ウェブログ」──ブログツールのMovable Typeを自分でサーバーにインストールして使うもの──とは、外見こそ似ているものの、出自はまったくちがう。初期にはその認識がかなり共有されていて、はてなダイアリーも当初はブログとは言っていなかった。またそこに集まるひとたちも、ネットユーザーというよりも「物書き」のように自分たちをとらえていた。ちなみに余談ですが、濱野智史はそのころ慶應SFCのサーバーでMovable Typeを使った「意識の高い」ほうのウェブログを個人でやっていて、ぼくはそれをきっかけに知り合いました。 さやわか 日本発の日記サイトとカリフォルニア由来のウェブログの差異が顕在化したのが、〇二年の「ブログ騒動」ですね。伊藤穰一3や武邑光裕4が日本の日記サイトを無視してブログ論を展開し、叩かれました。でも結局、〇四年から〇五年にかけて、日本でも「ココログ」のような商用ブログサービスが出てきて「ブログ」のほうが認知されることになります。そして、これによって日記サイト時代とはぜんぜんちがう層のユーザーが、大量にブログ界に流れ込むことになる。だれもが簡単に文章を投稿し、情報を発信できるようになり、ウェブ2・0と呼ばれる現象が起きる。そのイデオローグとして活躍したのが梅田望夫ですね。書籍としては『ウェブ進化論』(〇六年)がベストセラーになる。  この動きは実際にビジネスの成功とも連動し、ゼロ年代のなかばになると、ライブドアやサイバーエージェントのようなブログ運営企業が企業買収をさかんに行うようになり、六本木でヒルズ族と呼ばれるノリになっていきます。堀江貴文が衆院選に出るのが〇五年。逮捕されるのが〇六年の頭。 大澤 近代文学の拡散期にツールとしての私小説や日記文学がはたした役割を、ネット上でブログサービスが辿り直したと言ってみてもいい。 東 日本のネット史を考えるうえで、HTMLの日記からはてなダイアリーへという部分はあまり強調されない。普通は、「2ちゃんねる」からSNSという感じで、ゴミ溜めだったネットがみなも便利に使う表舞台の場所へと変化してきたというストーリーで語られるのだけれど、そのあいだに、一部の出版人のアジールとして機能していた時期があるんですよね。〇三年くらいに、短い「人文系の時代」があった。政治的には小泉政権の前半ですね。 大澤 まさに〇二年あたりを下限として、出版ベースでは論争らしい論争が見られなくなっていきます。文学でいえば、大塚英志と笙野頼子の平成版「純文学論争」、思想でいえば、高橋哲哉と加藤典洋の「歴史認識論争」の終盤あたり。だけど、もちろん論争それ自体が消滅したわけではなくて、紙からネットへと主戦場が移行したんですね。 『批評メディア論』(一五年)にもすこし書きましたが、メディアの発展法則として、即時性と無媒介性の追求が指摘できます。それに照らすなら、即時的なコメント機能やトラックバック機能の充実によって、ブログ(のちにはSNS)が論争の場となるのは必然でしょう。そのさきに訪れる変化はふたつ。ひとつは、応酬の短期集中によって議論が深まるまえに事態が収束してしまうということ。もうひとつは、無媒介性の効果として外野や一般からの参入が容易になるため、収拾がつかなくなるということ。そして、もはやそれらは「論争」とは呼ばれない。とくに後者は「炎上」と名指されます。  話を戻すと、論争の「炎上」化の直前に、人文系の時代があったわけですね。そのあたりまでは、ネットがサービスとして未成熟であるがゆえに参入者もかなり限定されていて、出版文化や物書き意識とも親和性を保っていた。だからこそ、論争らしさもかろうじて成立していた。 東 ぼくは〇四年に「波状言論」の発行するメルマガで、はてな創業者の近藤淳也5さんにインタビューを取っています。彼にはisedの議論にも参加してもらっています。当時すでに出版人がはてなダイアリーへ参入していて、ぼくにはそのインパクトは大きいように見えた。だから話をむけたんだけど、近藤さん自身がそのことにまったく興味を抱かなかったんですよね。代わりに彼が関心をむけていたのは「主婦が使うようなサービスを作りたい」だとか、そういう方向だった。  もしあのころ近藤さんが、はてなダイアリーが作った新しい人文系コミュニティに関心をむけていれば、いまのネットの状況もすこしはちがったかもしれない。 大澤 それは佐々木俊尚の「ブログ論壇」論の限界でもありますね。あの議論はアメリカ型のブロゴスフィアの萌芽を時評的に日本のネット空間からピックアップして回るものでしかなかった。それだと、ネット言論の一断面しかとらえられない。本当は、あの時期に日本的言論とネットの、幸福なクロスポイントがあったはずです。とにもかくにも、ネットの批評空間を語るとき、参照可能な文献がいまだに『ブログ論壇の誕生』しかないという状況はちょっとまずい。 東 まったくそのとおりで、伊藤穰一、梅田望夫、佐々木俊尚といったひとたちが理想としたブログ論壇のイメージは日本では虚構でしかなかった。そもそも単純すぎる。けれども、かといって2ちゃんねるがすべてだったわけでもなくて、じつはそのまんなかにはてなダイアリーという人文系に近い世界があった。そこではまさに批評とネットが接点を持ち、貴重なコミュニティが生まれていたのに、ある時期から育たなくなってしまった。それはブログのせいでも2ちゃんねるのせいでもなく、はてなダイアリーというプラットフォームの失敗で、そこにこそ日本のブログ論壇の悲劇があったんだと思う。 大澤 「たけくまメモ」にも残っているはずだけど、竹熊健太郎6は一時期、ひろゆき7に過度な期待をしていましたね。マスコミなり言論人なりが2ちゃんねるの功罪にばかりとらわれてしまったことが、実際の遠近をゆがめる結果につながったのでしょう。 1町山智浩(1962~)映画評論家、コラムニスト。雑誌『映画秘宝』を創刊。『〈映画の見方〉がわかる本』『トラウマ映画館』 2眞鍋かをり(1980~)タレント。東洋紡水着キャンペーンガール、日テレジェニック。 3伊藤穰一(1966~)ベンチャーキャピタリスト、エンジェル投資家、MITメディアラボ所長。『9プリンシプルズ』(ジェフ・ハウとの共著) 4武邑光裕(1954~)美学者。『季刊インターコミュニケーション』責任編集。『記憶のゆくたて』 5近藤淳也(1975~)株式会社OND代表取締役社長、株式会社はてな取締役。 6竹熊健太郎(1960~)編集者、ライター。『サルでも描けるまんが教室』(相原コージとの共著) 7ひろゆき(西村博之)(1976~)「2ちゃんねる」開設者。未来検索ブラジル取締役、元ニワンゴ取締役。『無敵の思考』 リアルタイムウェブの影響力 さやわか いずれにせよ、日本ではカリフォルニア・イデオロギーがもともと根づいていなかったので、たんなる起業家がお金を儲ける手段としてのみネットをとらえ、アーキテクチャの構築に乗りだしてしまった。彼らもアメリカ由来の企業理念を語ろうとするわけだけれど、根底にあるべき思想がないから、倫理意識も育たない。はてなダイアリー「以後」は、その貧しさがあきらかになっていく歴史ですね。 大澤 以前、ぼくとの対談のなかで大塚英志が「ウェブ倫理」の立ち上げが必要だと発言していて(「文学のリハビリテーション」『atプラス』第26号)、まぁそのとおりだよなと思ったんですが、それをいま、ことさらに考えないといけない窮状の遠因もあのあたりにありますね。 東 IT系が論壇の可能性に冷たかったという話になっているけれど、とはいえ当時、本当は紙のひとたちのほうにはるかに問題があって、度し難いほどセンスがなかった。メールアドレスを持っていない編集者すらざらにいたんだから。 大澤 なんと……。その後も出版業界はネット文化に関して奥手であり続けますね。自分たちと対立関係にあるという誤った認識が拭えなかった。 さやわか 〇三年から〇四年にかけて、ブログ発の書き手がたくさん出てきて、旧来のメディアが彼らに注目し、紙に連れてくるという現象が起きた。ところが批評や人文系ではその流れがとても遅かった。荻上チキが『ウェブ炎上』を書くのも〇七年になってからですね。それでも衝撃だった。あの「成城トランスカレッジ!」のチキが新書を書くのかと。 東 すこし別の話になるけど、小林よしのりはゼロ年代に入っていちど存在感がなくなったでしょう。それが最近また復活している。これは要は「BLOGOS」に小林さんのブログが転載されるようになったからだと思うんです。彼は紙からネットへ活動の場を切り替えて、ようやく復活した。これをマンガからブログへと言ってもいい。九〇年代は『ゴーマニズム宣言』をみんなが読む時代だったけど、いまはブログしか読まない。 大澤 九〇年代後半に小林と罵倒し合った宮台真司も長年、個人サイトを公開していますね。「ミヤダイオンザウェブ」(のちの「MIYADAI.com」)の開設が九九年。ブログの導入が〇三年。あのサイトの管理人charlieとして鈴木謙介を知ったひとも多いはず。宮台さんの投稿テキストは別の紙媒体で発表したものの転載が大半を占めます。対談記事も自分の発言部分だけを抽出して載せる。こうした用途は一般のブログ的発想からはかなりズレている。 東 宮台さんはネットをアーカイブとして使っている。この使い方の点では、年表には名前がないけど山形浩生8さんの存在がじつは重要です。 さやわか 山形さんは九〇年代から活躍しているので、逆に掲載できなかったんですね。同じ理由で抜け落ちているひとはたくさんいます。 東 彼のサイトはひとつの雛形になっていた。クールでデザインがミニマムでテキストのアーカイブを目的としている。ぼくも最初のサイトを真似て作った。  最近のネットはリアルタイムウェブ、つまり「いまこの瞬間に話題のもの」を世界へ発信するためのメディアになっているでしょう。けれど、SNSの普及まではちがっていて、サイト制作者のおもな目的はむしろ情報のアーカイブにあったんですね。本や雑誌に載せた原稿を蓄積し、公開するストックとしてネットを使っていた。  じつは初期の日記サイトの特徴もそういう「情報のアーカイブ化」にあります。あまり有名じゃないけど、タニグチリウイチ9さんというライターの方の日記がよい例です。彼はある新聞の記者なんだけど、九六年から二十年間、オタク系の業界話をまったく同じフォーマットで書き続けている。日記がずらりと並んでいるのはなかなか壮観で、ぼくの名前も九〇年代から登場します。過去の日記ページが「縮刷版」と名づけられているのがおもしろい。 大澤 そのタイトルがすべてを物語っていますね。結局、そのあたりのひとたちはネットを使ってはいても、あくまでも紙のアナロジーでとらえていて、ネットの持つストックメディアとしての側面に特化した利用者です。正直にいうとぼくは、フローとして即製され、たまにその場で流れを変えては流れ去っていく言論の可能性にそこまで興味が持てず、無限にストックできる特性のほうを重視してしまうので、宮台さんや山形さんに近い。ことに批評とSNS的なフローとの食い合わせにはかなり懐疑的です。なにより、「史」が形成されない。 東 ぼくも同意見ですよ。ネットはもともとストックのメディアだったのが、途中でフローのメディアに変わってしまった。それで見えなくなった可能性がたくさんあると思う。そもそもいまのリアルタイムウェブでは、情報がどれほど残るのか心もとない。 さやわか ゼロ年代前半がはてなダイアリーの時代だったとすれば、後半はリアルタイムウェブの時代だったといえるでしょうか。その変化では、SNSとは別に動画サービスも見逃せません。「ニコニコ生放送」の開始が〇七年。〇八年には「東浩紀のゼロアカ道場」でも動画中継ブーム、いわゆる「ザクティ革命」が起こる。そして〇九年に「ケツダンポトフ」が始まります。そらの10さんが「ダダ漏れ女子」を名乗り、活動し始めた。 東 ザクティ革命はともかく(笑)、ダダ漏れは大事だよね。事業仕分けやオープンガバメントの動きとも関係していた。津田大介も絡んでいた。 さやわか 東さんも対談してますよ。 東 してた! なんか広告代理店の仕切りで高級な店に連れられていった記憶がある……。 さやわか 彼女は当時かなり活発に活動していて、二〇一〇年には「朝までダダ漏れ討論会」を主催して、田原総一朗さん、津田大介さん、河野太郎さん、上杉隆さんらが出演しています。これは同時期に東さんがやられていた「ニコ論壇」と絡んで、人文的なものをストックではないところに、つまりフローの場に出そうという試みだったのだけれど、結局彼女はそのあと炎上につぐ炎上によって潰されていく。要は、起こったことがそのままリアルタイムで流れていく現実に、彼女自身が耐えられなくなっていく。 大澤 当初は「よくわからないままやっちゃいました」という素人くささが売りになったし、批評性もあったはずなんだけど、認知度が増すにつれて正当性や手続きが求められ、プロ化してしまう。最後はずいぶん規制されたなかでの自己目的化の隘路にはまり込んでいった。 東 ネットに対応できたかどうかのつぎに、リアルタイムウェブに対応できたかどうかというフィルタがあって、そこで言論人はかなり振り落とされる。 大澤 だからこそ、はっきりとそこから距離を取る言論人は少なくない。 さやわか リアルタイムウェブは属人性が高いので、いままでとは桁ちがいにアクセスを稼げる人間がたくさん出てくる。けれどもそのことの意味がわかっていないひとたちが、彼らにわざわざ紙で文章を書かせて玉砕する……というのも繰り返されています。そのせいで紙のメディアが先細った。  本当にしなきゃいけないのは、彼らがウェブで書いているものをどうやってアーカイブ化可能なものに変えていくか、ネットとは別の価値をつけることができるかという話だったのに、ネットの活動をそのまま紙に持ってくるようなことばかりやってきた。それだとフロー的な情報をストックに置き換えるだけだからうまくいかない。だから、たとえばネットでネトウヨが流行っているからといってネトウヨを紙に連れてきても盛り上がるはずがない。〇八年に創刊され、三号で終わった『mg.』はその典型ですね。 大澤 ネット発の左寄りの言論人としては、津田大介や荻上チキがいるわけですが、彼らはともに出版でもネットでもなく、テレビやラジオに日々の活動の舞台を見出している。これはわかりやすい現象ですね。 東 ネットではマネタイズできない。結局は放送メディアに頼らざるをえない。逆にリアルタイムウェブでの情報拡散と政治活動は、マネタイズなんて必要ないボランティアベースのものへと収斂していく。それが二〇一〇年代のなかばになって、反原発デモを経てSEALDsに雪崩れ込むわけです。そこではもはやメッセージはなくて、音楽と身体があればいい、共感が伝わればいいという運動論が強くなって、言説は逆にほとんどなくなってしまう。要するに日本のネットは、リアルタイムウェブにメッセージを乗せることに失敗したんだと思うんです。そういうふうにウェブを使える人材を育ててこなかった。 大澤 まさに左も右もみんなワンフレーズでぶつかり合う。ワンフレーズはツイッターとも相性がいい。しかし、それは対話や討議とはほど遠いでしょう。日本の紙メディアのほうも、マクルーハン11の有名なプローブ「メディアはメッセージである」を愚直に体現しています。ウェブのひとを連れてきましたという形式だけがメッセージと化していて、そこになにを盛るかは二の次。 東 リアルタイムウェブはひとを動員する装置でしかないから、そのさきにコンテンツを持っていないと本当は意味がない。最終的な商品なりメッセージなりがあって、そこへの導線としてリアルタイムウェブは使うべきなんだと思う。リアルタイムウェブそのものが目的になってしまったら、メッセージはなくなるに決まってるんですね。  その点で残念なのは、もしいまでもはてなダイアリーのような言論圏が残っていれば、少なくとも一部はツイッターをその宣伝のために使っていたはずなんですよね。はてなダイアリーへの導線として活用できた。でもいまは導線のさきがないから、たんにSNSで「いまここ」でウケるワンフレーズを拡散するだけになってしまった。 さやわか はてなダイアリーのなかで、いま社会へのアプローチができる場所として生き残っているといえるのは、はてな匿名ダイアリーだけですね。今年(一六年)はそこで「保育園落ちた日本死ね!!!」が書かれ、国会での議論まで引き起こし話題になりました。 東 たしかにあの動きを、いちブロガーの投稿が世の中を動かした、市民から政治家への新しい声の届け方として評価する声もある。けれども実態はいわゆる「炎上」でしかないと思うな。 さやわか 匿名の書き込みですからね。2ちゃんねるとそんなに変わらない。 東 あの問題をいち早く紹介した駒崎弘樹12さん自身は、ネットを活用する新しい言論人といえそうだけど。 大澤 そうやって、「言論人」の輪郭というかイメージが組み替わっていくわけですね。 8山形浩生(1964~)評論家、翻訳家。『訳者解説』、J・オーウェル『動物農場〔新訳版〕』(翻訳) 9タニグチリウイチ(1965~)新聞記者、ライター、書評家、ラノベ評論家。自身のホームページに96年2月から「日刊リウイチ」を掲載。 10そらの(1987~)株式会社ソラノート元社員。ライブ動画配信サイト「ケツダンポトフ」で編集なしの映像を一人で制作し、そのまま(「ダダ漏れ」)生配信した。 11マクルーハン Herbert Marshall McLuhan(1911~80)カナダの英文学者、批評家。メディア研究。『グーテンベルクの銀河系』『メディア論』 12駒崎弘樹(1979~)起業家、ブロガー。NPO法人フローレンス代表理事。『社会を変えたい人のためのソーシャルビジネス入門』 メディアのサステナビリティ 東 日記サイトがあって、2ちゃんねるが出現して、その傍らにはてなダイアリーがあって、ブログ論壇の可能性が生まれて消えて、動画とSNSの時代が来て……とここ一五年ほどの歴史を駆け足で見ているのだけど、いまぼくたちが語っているのは、要は、本当ならありえたかもしれない別の世界の可能性なのかなと。別の並行世界でははてなダイアリーが栄えていて、はてな出身の論客も活発に議論していて……。 さやわか 悲しすぎる話ですね(笑)。 大澤 まぁ、種や萌芽はいくつかあったはずなんですけどね。ただ、どれもサステナブルではありえなかった。良質のプラットフォームを立ち上げても続かない。技術的にも感情的にも手軽に立ち上げられるだけに、矜持が持てないんでしょう。いつ消えるともわからない、だれが読むともわからない、そんな投稿だけが場所を転々としながら飛び交う。 東 そうでなければ山本一郎やイケダハヤト13(〇九年ブログ開設)のような「炎上系」ブログですよね。いずれにせよ、いまこの瞬間に売ろう、話題にしようと思うと、まず変化が求められる。事業にしてもローンチの際には金が集まるんですよ。注目されるから。けれど継続にはひとが集まらないし注目もされない。そういうものだと思ってやるしかないんだけど、ネットはそういう地味な継続にはたいへんむかない場所です。 さやわか 多くのひとは継続できないですよね。とくに動画サイトは軒並みそういう感じで潰れている。そう考えると、今日は話題にならなかったけれど、〇一年に立ち上がり、いままで続いている神保哲生と宮台真司の「マル激トーク・オン・ディマンド」は驚異的です。 東 あれは本当にすごい。そもそも少額課金制での動画配信としては圧倒的に先駆的でしょう。ただそのぶん孤立感はある。 さやわか 他方で、継続していてかつ大きな影響力を持った例というのは、たとえば「チャンネル桜」ですね。〇七年、つまりニコニコ動画などネットが動画文化に移行し始めたタイミングですぐにネット配信を開始。やはりいちど経営が傾き、お金をカンパしてくださいという状態になったんだけれど、異常に強い意志があっていまも続いている。そうすると、長く続けているというだけで支持者が寄ってくるし、批判的な者も言及せざるをえなくなる。そういうやり方で在特会につながっていくんです。 大澤 保守は支持者も熱心。 東 保守はそもそも保守だから継続性には強い。リベラルはその点ダメですね。以前ゲンロンの経営が傾きかけたとき、数年で崩壊した柄谷行人さんのNAMへの失望が頭をよぎりました。NAMと同じ失敗をぼくが繰り返してはいけない、借金があろうとひとが離れようとなんだろうと、ぎりぎりまで続けなければいけないと。 大澤 歴史的に見ても、続けたひとが最後は勝利するんですよ。あたりまえだけど。 さやわか 言論とはいえないかもしれないけど、宇川直宏14さんの「DOMMUNE」はそういう意味ではとても自立した組織ですね。トーク番組も配信している。二〇一〇年に始まり、いまも続いています。 東 ああいう意志力を言論人も持てればいいのだけど。ほかは津田さんかな。ツイッターでの知名度獲得を経て、「メディアの現場(津田マガ)」の創刊が二〇一一年。「シノドス」も〇七年開始だけど、荻上さんはいまは主戦場はラジオになっている。 さやわか 岡田斗司夫が「オタキングex」を始めるのも二〇一〇年ですが、彼もいまは失速しています。彼は自分がコントロールできる範囲でのクローズドなSNSの可能性を探っているように思います。 大澤 ゼロ年代後半の若手批評家たちは文章を書くと同時に、それを編集し流通させることにかなりのリソースを割いていました。東浩紀の例の「営業」発言(共同討議「いま批評の場所はどこにあるのか」、『批評空間』第Ⅱ期第二一号)の延長にあると言ってもいいのかもしれません。宇野常寛にしても荻上チキにしても評論家兼編集者を名乗り続ける。二〇一〇年代のゲンロンはそれを具体的な場の編集というかたちで運営しているわけですが、他方で、批評家自身が場を作ったりシーンを作ったりといったモードが後退しつつあるようにも見えますね。たとえば、國分功一郎でも白井聡でもいいんだけど、いまの彼らがゼロからメディアを作ることはちょっと考えにくい。再び分業化に回帰している。 東 むろん、プラットフォーマーが理解のあるひとだったらそれでもいいと思いますよ。でも理解がないところでコンテンツだけ作ろうとしても、結局は彼らの要望に沿ったものしか作れないし、ゼロ年代の問題は本当はそこにあったんじゃないかな。國分さんにせよ白井さんにせよ、あるいは本編の共同討議で言及するはずの古市憲寿や佐々木中にせよ、ほとんど反動的なまでにメディア側の期待を満たしているから活躍できるわけでしょう。だからそれとはちがうことをしたければ、自分でプラットフォームを作るほかない。 大澤 反対に、場の設計にこそ批評性を見出して、それに専念するタイプは出てこないんですかね。IT系プラットフォーマーの倫理性の欠如の問題も踏まえたうえで。 東 場だけを作るといったときに、そのモチベーションはなにか。ぼくがゲンロンを作っているのは、自分のやりたいことをやるために作っているのであって、場を作ることそのものが目的では続かないと思う。 大澤 なぜこんな話をするのかというと、歴史的に見ると、一九三〇年代や五〇年代にそれを夢見たものの未完に終わったひとたちがいたからなんです。いまは書き手だけど、将来的には場を作ることに徹するようなひとがいてもいいと思う。ぼくがいつも言う批評的編集/編集的批評が実現するのはそのときでしょう。 さやわか いまだとシェアハウスがそれに相当するんじゃないですか。ギークハウス(pha)や渋家(齋藤桂太15)が誕生したのが〇八年ですね。家入一真や坂口恭平16なども同じ動きに分類していいでしょう。とりあえずひとを集め、それが結果的にムーブメントを作っていく。ただ、たしかに批評界隈ではそうした動きは例がありません。 東 ぼくからすれば、それを強引にやったのが前出のゼロアカ道場です。実際、ギークハウスや渋家と同じ〇八年のことです。けれどうまくいかなかった。祭りの力だけでは批評は立ち上がらなかった。ゲンロンはその失敗のうえで作られていて、伝統的な出版とリアルタイムのツイッターと現実空間のカフェと放送のアーカイブという複数の媒体をミックスさせることで、それぞれの強さを倍加させようとはしています。でもこれが成功するかどうかは、さっぱりわからないですね。 13イケダハヤト(1986~)ブロガー、ライター。『なぜ僕は「炎上」を恐れないのか』 14宇川直宏(1968~)現代美術家、グラフィックデザイナー、映像作家。日本初のライブストリーミングスタジオ兼チャンネル「DOMMUNE」主宰。 15齋藤桂太(恵太、恵汰)(1987~)アーティスト、キュレーター。「渋家」を制作、株式会社渋家監査役。 16坂口恭平(1978~)建築家、作家、画家、ミュージシャン。『0円ハウス』『徘徊タクシー』 二〇一六年七月一三日 ゲンロンオフィスにて(構成=川喜田陽+ゲンロン編集部) 年表 現代日本の批評 2001-2016

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