日本の批評上

はじめに  本書は、ぼく(東浩紀)が編集し出版する批評誌『ゲンロン』において、二〇一五年一二月刊行の『ゲンロン1』から二〇一六年一二月刊行の『ゲンロン4』まで、足かけ二年をかけて行われた連続座談会「現代日本の批評」の前半部分をまとめ、単行本化したものである。座談会は、「昭和批評の諸問題 1975-1989」「平成批評の諸問題 1989-2001」「平成批評の諸問題 2001-2016」とそれぞれ題され、三回に分けて実施された。本書にはそのはじめの二回と関連年表が収録されている。近日中に最後の第三回を収録した続巻も刊行される予定である。  本書と続巻収録の座談会は、タイトルが示すとおり、一九七五年から二〇一六年までの約四〇年間の広義の批評の歴史を振り返り、総括することを目的として行われたものである。この企画は、いまから三〇年ほどまえ、柄谷行人と浅田彰が中心となって進められ、『季刊思潮』『批評空間』の二誌に足かけ三年にわたって掲載された連続座談会「近代日本の批評」に示唆を受けて構想された。というよりも、その三〇年まえの座談会に、次世代の批評家の観点で勝手に「続編」を付け加えてしまおうというのが、企画の中心にあった発想である。このアイデアはじつはぼくのものではない。参加者の大澤聡がぼくにもちかけた。大澤は三回にわたり年表制作を手がけ、座談会の基礎も整えている。企画監修者としてクレジットされているのはぼくひとりだが、実際は彼には監修に準ずる役割を担ってもらった。深く感謝したい。  勝手に続編を作るというのは、オリジナルの批評誌に対して、ぼくの著作『動物化するポストモダン』の言葉を借りれば「二次創作」を試みるということであり、また『観光客の哲学』の言葉を借りれば「観光客」の態度で接するということである。二次創作と観光客の流儀にしたがい、本企画はオリジナルの許可をとっていない。つまり柄谷の許可も浅田の許可も取っていない。ただ、彼らの精神を勝手に換骨奪胎し、勝手に継承を宣言しているだけである。最後の座談会が『ゲンロン4』に掲載されたとき、浅田には同時掲載のインタビューで登場いただいた。氏には笑って読んでいただいた。柄谷氏にも理解していただけると嬉しく思う。  なぜいま批評史の総括が必要なのか。否、それ以前になぜいま批評について考えることが必要なのか。それらの疑問については、三回の座談会で、参加者全員で繰り返し話題にしているのでここでは繰り返さない。とりわけ後者については、ぼくは『ゲンロン4』所収の「批評という病」という文章で、ひとつの結論を出している。じつは本書帯に印刷されている「批評とはなにか。それは戦後日本固有の病である」という言葉は、座談会からではなくその文章から取られている。同文章は本書および続巻には収められていないので、興味ある読者は探して読んでもらいたい。  ただひとつだけ、ここで記しておきたいことがある。それは、なぜぼくたちの「二次創作」が一九七五年から始まるかということである。あるいは言い換えれば、なぜ本書の批評史が、徹底して『現代思想』以後、柄谷行人以後のパラダイムで語られているかということである。  それは、ひとことで言えば、ぼくたちが本書で焦点をあてたかったのが、批評の本体である文芸批評そのもののストレートな展開ではなく、むしろその拡散と変容の歴史だからである。あらためて指摘するまでもなく、日本では明治以降、文芸批評が長いあいだ特別の尊敬を集めてきた。批評は、文学と政治をつなぐ重要な言説だと考えられてきた。ところが、戦後その役割は失われた。文学と政治はまともな関係を結べなくなり、批評は足場を失い浮遊し始めた。一九七〇年代は、その「文学と政治がまともな関係を結べない」問題が、あらゆるひとの目にあきらかになり始めた時代である。柄谷行人は、まさにその問題を引き受ける批評家として現れた。柄谷は一九六九年に漱石論でデビューしているが、そこでは彼は文学と政治の乖離を、「存在論」と「倫理」の乖離という言葉で語っている。そして一九七〇年代の彼は、その問題をどこまでも突き詰め、精神に不調まで来してしまうのである。  柄谷行人は、この点で批評史の大きな屈曲点に位置している。一九七〇年代以降の批評家は、文学を通して政治を語る、あるいは逆に政治を通して文学を語ることができなくなる。むろんそのような語りを維持する書き手がいなくなるわけではないが(二〇一七年のいまもいる)、むかしのように広くは読まれなくなる。ではどうすればいいか? 本書の批評史はここから始まる。本書および続巻を読んでもらえればわかるが、そこからの四〇年の歴史は、まさに批評が生き残りをかけて拡散と変容を試みる苦闘の歴史であり、また失敗の歴史である。批評は、あるときは大学に近づき(『現代思想』)、あるときはメディアに近づき(ニューアカ)、あるときはサブカルチャーに近づき(ゼロ年代)、またあるときは政治運動に近づいて(デモ)生き残りを図ったが、そのいずれも大きな成果は挙げていない。  本書の企画は、その状況への深い反省のうえで、批評の新たな未来を構想するために行われたものである。だからぼくたちの批評史は、一九七〇年代以降の、批評が文学と政治をつなぐ役割を失い、それでもゾンビのように生き残り続けようとする過程に、いわば批評そのものが批評の二次創作へと変質してしまう過程に焦点をあてることになる。ぼくたちはその苦闘から教訓を引き出そうとしている。そう考えると、本書の批評史が、柄谷らによる批評史の二次創作として構想されたことには、すでに本質が現れていたと言えるかもしれない。  だから、本書の批評史は、文学と政治はいまも不可分に結びついている、文学は時代を代表している、批評はその表象の政治に切り込むものだし、いまもその伝統は失われていないと信じるひとからすれば、偽史にも見えることだろう。しかしぼくは、その信憑こそ誤りだと思う。ぼくたちはそんな健康な時代に生きていない。文学と政治がまともな関係を結べない、にもかかわらず関係を結ぼうとしてしまう、その苦闘をぼくは前述のテクストで「批評という病」と呼んだ。その病はいまだぼくたちを蝕んでいる。  三回の座談会は、それぞれ『ゲンロン』掲載時には、参加者以外のも含めた関連論文やコラムを伴っていた。またぼく自身も、各巻にこの企画に絡めた文章を寄せていた。そのひとつが前述の「批評という病」である。本書と続巻収録の座談会は、もともと雑誌企画のひとつであり、単独のコンテンツとして収録されたものではない。本書を読み興味を引かれた読者は、初出に戻り全体像を辿っていただけると、ぼくは『ゲンロン』編集者としてたいへん嬉しく思う。  しかしまた同時に、その三回の座談会が、個別『ゲンロン』という媒体の読者を超えた、より広い公衆に向かって開かれるべきものであることもまた確かである。少なくとも、座談会参加者は全員、ここで語られていることは個別批評史の問題であると同時に、また戦後日本史一般の問題でもあると感じていた。ぼくたちは、本書が、批評に関心のある読者にとどまらず、より広い公衆に読まれることを望んでいる。そして、日本における文学と政治の関係を論じるとき、基礎資料のひとつとなることを望んでいる。  その点において、この企画が講談社によって単行本化されたことは、監修者としてたいへん光栄なことである。講談社は、長いあいだ文学と批評の本流を担い続けてきた。いまも担っている。柄谷行人は講談社の『群像』からデビューした。本書が着想を得た「近代日本の批評」シリーズもまた、講談社文芸文庫から刊行されている。本書の企画は、講談社からのこの単行本化を経て、ようやく二次創作として完結したと言えるかもしれない。  三回で二十万字近い座談会の収録、構成、事実確認、関連資料の整理などは予想以上にたいへんなものだった。企画を支えてくれたゲンロンのスタッフに感謝したい。 東 浩紀  目 次 はじめに  東 浩紀 現代日本の批評 1975-1989  【基調報告】批評とメディア──「史」に接続するためのレジュメ  大澤 聡  【共同討議】昭和批評の諸問題 1975-1989  市川真人+大澤 聡+福嶋亮大+東 浩紀  年表 現代日本の批評 1975-1989 現代日本の批評 1989-2001  【基調報告】一九八九年の地殻変動  市川真人  【共同討議】平成批評の諸問題 1989-2001  市川真人+大澤 聡+福嶋亮大+東 浩紀  年表 現代日本の批評 1989-2001 デザイン 宮口 瑚   現代日本の批評 1975-2001 現代日本の批評 1975-1989 Criticism in Contemporary Japan 1975-1989 基調報告 批評とメディア──「史」に接続するためのレジュメ Criticism and Media: An Outline for Historical Grounding 大澤 聡    報告者の手元の賭金としては、いまのところ、上梓されてまもない『批評メディア論』(二〇一五年)一冊があるだけだ。とにもかくにも、ここから考えてみることにしよう。 「戦前期日本の論壇と文壇」と副題をつけられたこの本の直接の対象時期は、じつのところずいぶん限定されている。一九二〇年代中盤から三〇年代後半がそれである。元号に換算するなら、「昭和初年代(+α)」に相当する。当該期間のジャーナリズムには、日本的批評のプログラムの数々が凝縮的に折り畳まれていた。たかだか十数年でしかないにもかかわらず、ほとんどすべての起点をかかえる。そこで誕生した批評のスタイルやインフラたちはさしたる改修も施されないまま、以後連綿と運用されつづけ、現在にいたっている。『批評メディア論』の主眼はそれらが誕生する場面の発掘と解析にあった。だから、同書が別の時代へのアドレスも咥えこんだ、一種のメタ批評として受けとられることは当然のなりゆきなのであって、もちろん著者もそうした読解の誘発を企図して書いた。第二章のキータームである「多重底構造」をこの本自身がそこここに大小問わず配備している。  だとすれば、すくなからぬ書評者たちの洞察はまったくただしい。いわく、本書で執拗に試行されるのは「ゼロ年代」総括にほかならない、と。けれど、宛先は二〇〇〇年代にかぎられない。たとえば、一九七〇年代中盤から八〇年代後半。いいかげん、あの時代の批評や思想の生態を再審に付さなければならないし、その作業はほかならぬ私たちの世代のミッションである。そんなモチベーションも同書の執筆を支えた。そう、今回の共同討議が対象とする「昭和末期」──そのまま「虚構の時代」(見田宗介1)に該当する──への目配りも不言のうちにたえず維持されていた。このあたりの条件を逐一開示するところから報告をはじめたい。シリーズ「現代日本の批評」の始動にあたって、データベースではなくクロノロジーを回復させ、そこに現状をきっちり接続させるためにである。討議で言及すべき固有名やトピックを、レジュメ的に可能なかぎりその文脈に配置していく。  ──自己解説? それが批評とおよそかけはなれた態度であることは報告者も十分に承知してはいるものの、各所現場で註解の提出が要求されざるをえない程度には前提共有のモメントが欠落して久しいこともまたたしかなのであって、この状況全体が二〇一〇年代後半の批評に課せられた「前提」のひとつを構成しているように思われるのだ。むしろ、いまの批評界隈の惨状はそうした遠回りの作業を野暮だと徹底して小馬鹿にしてきた帰結にほかならない。 1見田宗介(1937~)社会学者。筆名・真木悠介。『現代日本の精神構造』『人間解放の理論のために』 1  戦前期日本の批評の履歴を概括した場合、いわゆる文芸復興期がひとつの分水嶺となる。これは定説だ。共同討議「近代日本の批評」(實重2、三浦雅士3、浅田彰4、柄谷行人5)が積極的に打ち出したパースペクティブでもある。彼らの発語のピークも当該期周辺に集中している。 「文芸復興」という呼称は通用的に一九三三年末から三六年までの文壇状況を指す。直前にはプロレタリア文学陣営による文壇制圧がある。それはマルクス主義に深く規定されたものだ。直後には日中戦争勃発(一九三七年七月)に起因する文壇の時局的変成がある。こちらは日本帝国主義の膨張と連動し随時推移していった。つまり、文芸復興はふたつの「政治の季節」の間隙に浮上した、いってみれば政治的にはどこか消極的な現象だった──だからこそ「小春日和」と形容されもする。けれど、というよりも、であるがゆえに、そこには文学なり批評なりのバラエティに富んだ成果がぽこぽこと産みおとされ、それらは批評の輪郭を集合的に画定させていく。  この間、新進批評家が陸続と頭角をあらわしている。ランダムに、春山行夫6、深田久弥7、古谷綱武8、矢崎弾9、唐木順三10、藤原定11、板垣直子12、保田與重郎13といった固有名を例示しておけばたりるだろう。彼ら彼女らは一九三三年から三四年にかけてこぞって批評活動を本格化させた。ときをおなじくして、他領域の有能な書き手たちが文芸領域に大量参入する。たとえば、哲学方面の三木清14や谷川徹三15、戸坂潤16、岡邦雄17。経済学方面の大森義太郎18や石濱知行19。彼らは「局外批評家」と総称され、その存在の是非が文壇内でしつこく問われもした。  当時、論壇と文壇をクロスオーバーさせ、議論のメガアリーナを立ちあげる性格の論争が頻発した(行動主義論争、知識階級論争、自由主義論争……)。界面に位置し、相互の侵襲作用をうながしたのが新人批評家や局外批評家たちだった。個々が出自とするジャンルはシャッフルされ、議論の外延は言論空間全域にひろがっていく。空前の批評ブームとして結実した。  もちろん、大半は時間性に耐えない、瞬間的に消費されるだけのテクストだ。いまでは手にとることもままならない。が、層状になってその時どきのジャーナリズムをおおいに活性化させていたし、現象全体として事後の世界に、それと気づかれぬかたちで決定的な影響をおよぼしてもいた。というのも、偶発的な交差点にハイブリッド型の想像力が隆起し、そこに強靱な系譜を後続させ、それがスタイルとして定着することも往々にしてあったからだ。当人さえ感知しえないところで、批評類型の地図が瞬時に組み替わる。  そんな文芸復興期の覇者が小林秀雄20だった。彼らに数年先行する。一九三三年一〇月、『文學界』を創刊し、この動向が文芸復興の決定的な要因となった。旧来の文脈の求心力衰退により非属領化された固有名たちを回収するツールとして、同誌が最大限に活用された(数度にわたる同人拡大)。小林は文壇領有化の実現に邁進していく。〝近代批評の始原に君臨する小林秀雄〟という神話=物語はこの時点でセットアップされることになる。  そこからちょうど五〇年。一九八三年三月、小林秀雄が死没する。小林のデビュー作「様々なる意匠」(一九二九年九月)から、晩年の代表作『本居宣長』(一九七七年一〇月)、そして柄谷行人と中上健次21の『小林秀雄をこえて』刊行(一九七九年九月)前後までの五〇年間でもかまわない。いずれにせよ、戦前─戦後を貫く昭和期の大部分、批評空間の中心地には文学が自明のものとして鎮座しつづけていた。それを体現したのが小林秀雄だった。おかげで、批評史もずいぶんスケッチしやすい。文芸批評史が批評史としてそのまま通用する。それは文芸ジャンルがつねに先導となって奇怪な進化をとげてきた日本型ジャーナリズムの構造的な帰結でもあった。  ところが、一九七〇年代半ば以降に相当する批評史は途端に成立が困難になる。史的叙述の定番もまったく存在しない(ポストモダン=ポストヒストリー?)。討議の開始に際して、なにをおいても、この点を入念に確認しておく必要がある。文芸批評が批評の全体性を代表しえぬ時代。その象徴が、七〇年代末の現代思想ブームであり、それにつづく八〇年代前半のニューアカ・ブームだった。そこで進行した事態はあきらかだ。〝批評の居場所〟の移動と拡散である。記述の線形性が担保されることはほとんどなく、のっぺりとしたデータベースの集積が延々と横にならぶ。  私たちは共同討議「近代日本の批評」とおなじようにはやれない。批評がジャーナリズム単体では完結せず、アカデミズムの動向も視野に、それどころか場合によっては議論の中央に、くり入れざるをえなくなる(報告者があわせて担当した年表作成のむずかしさもこの点につきていた)。しかし、それは「批評」と呼ばれるべきなのか。批評の線引きを遂行的に随時決断していく。それが今回の討議のポイントとなるのだろう。このかぎりにおいて、「近代日本の批評」のふるまいはいくらか再演されてしまうのかもしれない。  柄谷行人はくだんの共同討議のなかでこう発言していた(ただし、この部分は初出時には存在せず、単行本化に際して追加された)。「ぼくにとって七五年以降の批評というときには、直接の相手は文学ではなくなってきた」。そして、「批評に関して自覚的になったのは、七五年以降」である、と。今回の討議がなぜ「一九七五年」を出発点に設定するのか、という疑問にむけてはとりあえずこの発言をそのまま転送しておけば済む。一九六八年の衝撃のあと、九〇年代後半にいたるまで、この国の批評シーンの趨勢を一身に体現したのはまちがいなく柄谷行人だった。一九七五年の渡米を経由して以降の柄谷の転回は周知のとおりだ──三浦雅士が中野幹隆22と入れ替わるかたちで雑誌『現代思想』の編集長となるのもこの年のことである。  これは小説界の潮流とも相即する。というのも、一九七五年は「内向の世代」の下限にあたるからだ。これを最後に、文壇から集団的な位相が急速に剝がれおちていく。翌年一月には、戦前からの文壇的伝統を保持した舟橋聖一23が死去。その四ヵ月後には、村上龍24が「限りなく透明に近いブルー」でデビューする(のちに芥川賞受賞)。同作は「内面」というフィクショナルな先験性を欠落させた描写をつきつめる。明治二〇年前後以来、近代日本の小説に課せられつづけたミッションからの切断と解放がそこに露呈していた。  ともあれ、私たちの共同討議は一連の「以後=ポスト」から出発する。「批評」というマジックワードの輪郭についてあらためて再帰的に吟味することが課題の中心となる。それは九〇年代時点(つまり「近代日本の批評」)での査定とはおのずと異なったものでなければならない。 2實重(1936~)仏文学者、批評家、小説家。第26代東大総長。『「ボヴァリー夫人」論』『伯爵夫人』 3三浦雅士(1946~)文芸評論家、編集者。『青春の終焉』 4浅田彰(1957~)批評家、哲学者、現代思想。『構造と力』 5柄谷行人(1941~)批評家、哲学者。『探究』『世界史の構造』 6春山行夫(1902~94)詩人、評論家。『詩と詩論』を創刊。『植物の断面』 7深田久弥(1903~71)小説家、登山家。『日本百名山』 8古谷綱武(1908~84)文芸評論家、古谷綱正の兄。『宮沢賢治研究』 9矢崎弾(1906~46)文芸評論家、『三田文学』同人。『近代自我の日本的形成』 10唐木順三(1904~80)評論家。筑摩書房設立、『展望』創刊。『中世の文学』 11藤原定(1905~90)詩人、評論家。『距離』 12板垣直子(1896~1977)文芸評論家。東京帝大第一回女子聴講生。『事変下の文学』 13保田與重郎(1910~81)文芸評論家。『日本浪曼派』創刊同人。『日本の橋』 14三木清(1897~1945)哲学者。治安維持法で投獄、終戦後、獄死。『パスカルに於ける人間の研究』 15谷川徹三(1895~1989)哲学者。谷川俊太郎の父。林達夫、三木清と同期。 16戸坂潤(1900~45)哲学者。唯物論研究会の創立者の一人。敗戦直前に獄死。 17岡邦雄(1890~1971)科学史家。唯物論研究会の創立者の一人。 18大森義太郎(1898~1940)マルクス経済学者、ジャーナリスト。 19石濱知行(1895~1950)マルクス経済学者。 20小林秀雄(1902~83)文芸評論家。『無常といふこと』『考えるヒント』 21中上健次(1946~92)小説家。『枯木灘』『地の果て 至上の時』 22中野幹隆(1943~2007)編集者。『日本読書新聞』『現代思想』『エピステーメー』編集長、『週刊本』編集。 23舟橋聖一(1904~76)小説家。『花の生涯』『お市御寮人』 24村上龍(1952~)小説家。『コインロッカー・ベイビーズ』『13歳のハローワーク』 2  小林の死去から半年経った一九八三年九月、浅田彰『構造と力』が刊行される。中沢新一25『チベットのモーツァルト』はその二ヵ月後のことだ。両者は異例の販売部数を記録し、相乗的にマスコミを巻きこみながら、むしろマスコミが扇動するかたちで、「ニューアカデミズム」ブームを牽引した。その渦中に無数の若手批評家がフックアップされていく。  ここでもランダムに、四方田犬彦26、丹生谷貴志27、松浦寿輝28、三浦雅士、細川周平29、西成彦30、渡部直己31、絓秀実32といった固有名を並べておこう。当時、中森明夫33がコラム「あまりにも『おそ松くん』な現在思想」(『GS』二号)で彼らの一部を六つ子のおそ松兄弟になぞらえたように、「誰が誰やらわからない!」その言論状況は、一九八〇年代前半の記号論的な差異化ゲームを原動とする高度消費社会にそのまま対応していた。メディア上で批評家たちのシミュラークル化が進行し、思考の情報化と商品化が極限まで加速する。読者の手元において批評家も思想内容も容赦なくカタログ化され、批評市場は「情報誌の時代」と結託していた。  彼らだけではない。柄谷行人や實重、あるいは山口昌男34や栗本慎一郎35をはじめ先行世代の記号的な存在も(自己認識との懸隔はさておき)ブームの圏内へとどんどん引きずりこまれていく。一九七〇年代半ばから八〇年前後にかけて、構造主義/ポスト構造主義のインパクト──その受容の時差がもたらした効果もどこかで測定する必要がある──に応対する思考が領域横断的に浸潤しつつあった。それが現代思想ブームとして可視化された。ここでは便宜上、この期間をあえて転倒的に「プレ・ニューアカ期」と名指しておこう。  記号論(山口昌男や丸山圭三郎36)、都市論(磯田光一37や前田愛38)、身体論+演劇論(市川浩39や渡邊守章40、中村雄二郎41)、情報論+メディア論(中野収42や粉川哲夫43)といったトピックが盛りあがりを見せた(固有名は一例だ)。いずれも特定のトピックに拘束されず、グループ知を形成する。その過程で個別の専門領域の融解が進んだ。痕跡の一端は当時の書籍や雑誌のいたる局面にいまでも垣間見ることができる。後接する「ニューアカ期」には、そうした交配が早々に前提と化し、系譜の延長を集団ではなく個人が担うことになる。となれば、専門的基盤の衰弱は必然だろう。むしろ、アマチュアリズム(=局外性)こそが称揚された。  さて、プレ・ニューアカ期の論者の一部は、老舗出版社である岩波書店の主宰で研究会を組織した。横断性や混淆性を協働的に追究する。一連の成果は『叢書 文化の現在』全一三巻(一九八〇~八二年)として提出されもした。いまでは定石となった学問や批評の手つきの源流をそこにいくつも発見できる。豊饒な批評の成果が一九七〇年代後半には詰まっている。その意味では、一九六〇年代(論)なり一九八〇年代(論)なりのリバイバルや再検証の蓄積とくらべた場合の一九七〇年代(論)の空無状態はなにゆえか、あらためて精査する必要がある。よかれ悪しかれ、一九七〇年代は「大正的なもの」をどこか抱えている──「大正」はふたつの激動の時代、「明治」と「昭和」の狭間に位置する。  叢書の編集委員は次のとおりだ。磯崎新44、一柳慧45、井上ひさし46、大江健三郎47、大岡信48、清水徹49、鈴木忠志50、高橋康也51、武満徹52、東野芳明53、中村雄二郎、原広司54、山口昌男、吉田喜重55、渡邊守章。当時の『現代思想』や『ユリイカ』の常連執筆陣とも重なる。このプロジェクトはニューアカ期には雑誌『へるめす』(一九八四~九七年)へと発展した。さらには、編集者の山村武善に雑誌創刊を持ちかけられた鈴木忠志が柄谷行人と市川浩に声をかけて一九八八年に誕生したのが『季刊思潮』である。この三名の編集同人に第三号からは浅田彰が加わる。  プレ・ニューアカ期の一連の成果は既存出版社とアカデミズムの互酬関係に支えられていた。かたや、ニューアカ期のアイテム群はおもに新興出版社の前衛性によって演出される。知の現場は段階をふんで大学アカデミズムの圏外へと徐々に移行していった。新規媒体としては、『エピステーメー』(朝日出版社)や『カイエ』(冬樹社)、『GS たのしい知識』(冬樹社→UPU)、『W-Notation』(UPU)、『季刊哲学』(哲学書房)などがあげられる。そこではエディトリアルデザインの実験的な開拓が追究された(後述)。  ようするに、ニューアカデミズムはアカデミズムではなくジャーナリズムの現象として出来した(一九九〇年代にはそれをふたたび還流させ、アカデミズムによる馴致=制度化が進行する)。そこに、一〇年越しのラディカリズムが凝集する。ただし、学生運動から現代思想へとベクトルを転轍させるかたちで。それは『朝日ジャーナル』の編集方針の転換にそのままあらわれていた。同誌は一九六〇年代後半、全共闘運動に伴走するメディアとしてプレゼンスを高めた。それが筑紫哲也56の編集長就任にともなって、全面リニューアルへと踏み切り(一九八四年一月)、ポストモダン+サブカル路線へと急旋回する。インタビュー連載「若者たちの神々」(一九八四~八五年)はその典型だ(後続連載「新人類の旗手たち」一九八五年)。  狭義のニューアカ・ブームは、一九八三年から八六年の期間に相当する(ちなみに、『朝ジャ』の筑紫体制は八七年まで)。ここに、ひとつの仮説的な見立てを導入してみたい。すなわち、ニューアカはぴったり五〇年前の文芸復興(一九三三~三六年)の反復であった、と。もちろん、これじたいは粗雑なアイデアにすぎないし、「五〇年」という数字のキリのよさに過剰な物語を読みこむべきでもない。けれど、昭和初年代のアングルを下敷きにすることによって、昭和末期の批評の成立条件がきれいに整理されていくのだ。 25中沢新一(1950~)人類学者、宗教学者、思想家。『虹の理論』 26四方田犬彦(1953~)批評家、エッセイスト、詩人。『モロッコ流謫』 27丹生谷貴志(1954~)文芸評論家。『ドゥルーズ・映画・フーコー』 28松浦寿輝(1954~)詩人、小説家、批評家。『折口信夫論』『花腐し』 29細川周平(1955~)音楽学者。『ウォークマンの修辞学』 30西成彦(1955~)文学者。比較文学、ポーランド文学。『耳の悦楽』 31渡部直己(1952~)文芸評論家。『「電通」文学にまみれて』『小説技術論』 32絓秀実(1949~)文芸評論家。『小説的強度』『反原発の思想史』 33中森明夫(1959~)コラムニスト、編集者、作家。「おたく」を命名。 34山口昌男(1931~2013)文化人類学者。『文化と両義性』『「敗者」の精神史』 35栗本慎一郎(1941~)経済人類学者。『幻想としての経済』『パンツをはいたサル』 36丸山圭三郎(1933~93)哲学者。言語哲学。『ソシュールの思想』 37磯田光一(1931~87)文芸評論家。『鹿鳴館の系譜』『左翼がサヨクになるとき』 38前田愛(1931~87)文芸評論家。『成島柳北』『都市空間のなかの文学』 39市川浩(1931~2002)哲学者。『精神としての身体』『〈身〉の構造』 40渡邊守章(1933~)仏文学者、演出家。バルト、クローデル、ラシーヌ、フーコー等翻訳紹介。 41中村雄二郎(1925~2017)哲学者。『共通感覚論』『魔女ランダ考』 42中野収(1933~2006)社会学者。メディア論、記号論。『メディア人間』 43粉川哲夫(1941~)評論家。都市論、メディア論。『メディアの牢獄』 44磯崎新(1931~)建築家。〈つくばセンタービル〉〈ロサンゼルス現代美術館〉 45一柳慧(1933~)作曲家、ピアニスト。ジョン・ケージに師事。〈ピアノ・メディア〉 46井上ひさし(1934~2010)小説家、戯曲家。『吉里吉里人』『四千万歩の男』 47大江健三郎(1935~)小説家。『芽むしり仔撃ち』『万延元年のフットボール』 48大岡信(1931~2017)詩人、批評家。『現代詩試論』『折々のうた』 49清水徹(1931~)仏文学者。『ヴァレリー』『書物について』 50鈴木忠志(1939~)演出家。早稲田小劇場結成。富山県南砺市利賀村の合掌造りの民家を劇場にして活動。 51高橋康也(1932~2002)英文学者、国際シェイクスピア学会副会長。『橋がかり』 52武満徹(1930~96)作曲家。現代音楽、映画音楽。〈ノヴェンバー・ステップス〉 53東野芳明(1930~2005)美術評論家。美術評論家連盟会長。『マルセル・デュシャン』 54原広司(1936~)建築家。〈京都駅ビル〉〈札幌ドーム〉 55吉田喜重(1933~)映画監督。『秋津温泉』『エロス+虐殺』 56筑紫哲也(1935~2008)ジャーナリスト。朝日新聞記者、TBS「筑紫哲也NEWS23」キャスター。 3  一九六〇年代から七〇年代初頭にかけて「政治の季節」が到来する。一九六八年の大学闘争にそのピークはある。思想が政治と密接に連動していたし、書評紙はオピニオンの場としてしっかりと機能した。六〇年代については議論の蓄積があるから指摘におよばないだろう。  一九八〇年代をはさんで一九九〇年代はどうか。九一年の湾岸戦争勃発、およびそれをうけて発表された「文学者の反戦声明」(もしくは「「文学者」の討論集会」の開催)を象徴的な画期として、それまで非マルクス主義的なポジションをとってきた知識人たちが、本流のマルクス主義が後退したことで発生した空席を埋めるべく、急速に反権力や反資本主義を標榜するアクティビズムへと舵をきる──仲正昌樹57のいう「ポスト・モダンの左旋回」が観測された。バブル経済の終焉とともに、ポストモダン思想は清算され、政治方面に次々と転用/再整序されていった。人文・社会科学系アカデミズムにおけるカルチュラル・スタディーズやポストコロニアル理論の流行がその典型的な現象だ。こうして、知的空間の再‐政治化が進行した。  つまり、ニューアカ・ブームもふたつの「政治の季節」の間隙に浮上した現象にほかならない。ついで、二〇一〇年代の社会全域の政治化傾向を考えあわせるならば、ゼロ年代も同様に「小春日和」的だったと評定されるだろう(ただし、どこまでも経済回復を欠いた異形のそれ)。  文芸復興とニューアカ。それらはともに、既往のマルクス主義や具体的な政治運動からの表面上のデタッチメントが新奇さをもった。この「表面上の」をめぐるニュアンスは事後的に復元不能になるから注意を要する。あるいは、両現象が共有する「大正的なもの」への拘泥(「再興」であれ「切断」であれ)は本来こうした構図のなかでのみ理解されうる。  なにより、ふたつの現象はともに、発話の連鎖によって構築される、いわばメディア先行型の劇場的現実だった。文芸復興期の終盤、青野季吉58は「文藝復興の呼び声が、その[現象の]気運をつくつたといふ事実は蔽ふことが出来ない」とその転倒性を指摘しているし、谷川徹三にいたっては「文藝復興はむしろヂヤーナリズムの作つた一つの伝説であつた」と断言してしまっている。メディア・イベント的な仮構性はリアルタイムに看破されていた。文芸復興の生成モデルはこれらの評言につきている。  八〇年代前半の潮流も、「ニュー・アカデミズム」「ニューアカ」というそれじたいきわめてジャーナリスティックな、そして偶然のレッテル=「呼び声」のもとに一大ブームと化した。差異をはらんだ思考同士が新規のカテゴリにしまいこまれる。この点も文芸復興とおなじだ。浅田彰と中沢新一のあいだの共通理念の不在が商業ジャーナリズムのうえではたやすくキャンセルされてしまう。  とすれば、私たちはまず両期のジャーナリズム状況にこそ照準を設定しなおしてみるべきなのだ。内容以前の形式へ。これは批評を発表形態の物質性において捉えかえすスケールの導入を意味する。批評を批評たらしめている下層構造や諸装置へと関心をそそぐこと。批評内容の分析はその先にこなければならない。これ以上の問題関心の詳述は『批評メディア論』の序章にゆずる。  文芸復興は「雑誌の時代」が可能にした。そもそも、それは一九三三年秋におきた『文學界』『行動』『文藝通信』『文藝』など一連の文芸誌の同時創刊に由来しているのだから。時をおなじくして、『改造』『中央公論』『文藝春秋』『経済往来』といった主要総合雑誌が競合するように物理的なボリュームを増大させていく。どの雑誌も創作系コンテンツ(小説や戯曲、詩)だけでは誌面を埋めきれない。まさに、新人批評家たちはそこを充塡すべく要請されもしたのだ。広義の批評が目次の大部分を占めるようになる。「批評の時代」「批評家の時代」といった当時の惹句は、こうしてメディア史の側から説明することができる。『出版年鑑』の当該年度版にはこう記されている。「[昭和]八年度[の雑誌業界]は順調に好転したと云ふ事が出来る」。雑誌売上部数は前年度比一一パーセント増を記録した。  ニューアカはどうかといえば、まさにこれと相似形をなす条件を備えていた。方々のジャンルで創刊がブームと化し、やはり「雑誌の時代」にあった。たとえば、ニューアカ最盛期に相当する一九八四年をふりかえると、前述の『GS』(一九八四~八八年)や『エピステーメー』第Ⅱ期(一九八四~八六年)、『へるめす』(一九八四~九七年)などの思想誌がこぞって創刊されている。『別冊宝島44 わかりたいあなたのための現代思想・入門』をはじめ解説ムックも評判を呼んだ(一九八六年には続編も出た)。八四年度の『出版年鑑』が概括するとおり、「創刊活動が旺盛なのはもはや恒常化」していた。月刊誌の発行部数は全体で前年度比五パーセント増だ。そして、創刊点数は以下のとおり。一九八〇年=二三〇点、八一年=一八八点、八二年=一八一点、八三年=二五七点、八四年=二六七点。  ふたつの現象は雑誌創刊ブームに支えられている。それぞれ出版界では「雑高書低」が観測された時期にあたる。いうまでもなく、その背景には相対的な景気回復がある(広告収益の問題)。とすれば、こう定式化できそうだ。「批評の時代」は経済的好況が可能にする、と。一九八五年のプラザ合意を契機にバブル景気が到来、八〇年代末までそれは持続し、「批評の時代」を奇妙なかたちで延命させた。  一九八〇年代をとおして出版大衆化(=知の大衆化)が進行する。一九二〇年代半ばに発動し(円本ブーム)、三〇年代前半に最初のピークに到達したそれが、八〇年代前半にあって幾度目かの加速期をむかえていた。ニューアカはその前線に発生した現象だ。そして、一九三〇年代の「昭和教養主義」に対応する最後の(?)教養主義としても、ニューアカは駆動していた。ここではそれを「昭和末期教養主義」とでも名指しておこう。「わかりたい」大衆が膨化したが(『別冊宝島』創刊は一九七六年)、もちろんパロディとしてしかありえない。  出版大衆化と教養主義。このふたつは大正末期から昭和初頭にかけて急進した高等教育の大衆化とも相関している(潜在読者の急増)。そして、それによって醸成された知的中間層のボリュームこそがその後長きにわたって日本の言論ジャーナリズムを存立させつづけた最大の要因だ(新書や叢書のような刊行物がかくも売れる文化は世界的にもごく稀である)。それが一九八〇年代前半に最終局面へと突入する。ちなみに、一九八〇年には、当時の首都圏の大学生の日常を先駆的に戯画化した、田中康夫「なんとなく、クリスタル」が発表されている。『構造と力』が大学の書籍部で売上げをのばしたという数々の証言もここで想起しておきたい。  さて、出版の成熟は編集行為の前景化を帰結する(システムの自己言及)。これも両期に共通するポイントだ。一九三〇年代をとおして、編集技術が批評の俎上にのせられ、大宅壮一59や杉山平助60、青野季吉といった一部の批評家たちはその種のテクストを量産した。当時の批評空間はそうやって自己修正のオペレーションを確保することに成功していた。たとえば、春山行夫は詩人であり批評家でもあったが、それにとどまらず、むしろ編集者としてシーン形成に寄与した。モダニズム詩の牙城となった季刊誌『詩と詩論』の単独編集は周知の話題に類する。そこで試行された斬新なデザインのボキャブラリは、やはり春山自身の手で総合誌『セルパン』の編集刷新にあますところなく投入され、戦後の編集文化にまで多大な影響をおよぼすことになる(ちなみに、この時期の春山周辺の書籍はいまなおコレクションの対象でありつづけている)。  これと対応するように、一九七〇年代後半から八〇年代にかけても、やはり編集行為に批評的な視線がそそがれていた。その結果、編集者が固有名化(=スター化)する。機能は多方面へと拡張し、プロデューサーに近接した。個別組織のみならず、シーン全体のマネジメントもつかさどる。松岡正剛61や中野幹隆、三浦雅士、高田宏62、安原顯63といった固有名をあげておこう。特集の企画やページネーションにおいて批評性を存分に発揮した。  実験的な装幀やレイアウト、タイポグラフィがそれに連動する。これも一九三〇年代の再演といっていい。じっさい、この時期には三〇年代が参照点として何度も再発見された。デザインがテクストと共鳴/拮抗する。一九七〇年代後半以降、雑誌編集者ではなく、デザイナーによるアートディレクションが一般化していった(出版工程の分業体制化)。杉浦康平64や戸田ツトム65、鈴木一誌66、菊地信義67らをあげておこう。思想の商品化をヴィジュアル面から補強する。写真植字/オフセット印刷への移行がデザインワークの自由度を飛躍的に向上させた。それは一九二〇年代後半における印刷・製本の技術革新に次ぐ。こうして、出版業は何度目かの転形期をむかえていた(さらなるテクノロジーの進化を経た現在の出版環境における逆説的なデザイン上の貧困さについては別途議論の余地があるだろう)。  考えてみれば、ニューアカのテクストじたいが編集的思考に貫かれている。春山が理想とした「批評的編輯」と「編輯的批評」の同時遂行をそこに見ることもできる。理論が政治的コンテクストから剝離され、意想外の文脈へと自在に接続していく。その手さばきの軽快さにおいて、ニューアカは記号消費型の社会動態にきっちり適応していた。その意味で、大学よりもむしろサブカルや広告などの文化産業に調律されていた。  一九三〇年代前半、戸坂潤は大学の外部に生起する知性に無限の可能性を見た。彼の夢想する「紙上インターカレッヂ」は自身の批評スタイルの肯定でもあっただろう。戸坂はそれを「理論的ジャーナリズム」と呼んだ。アカデミズムからの「理論」の簒奪。人的配置の再編にともなって、「紙上」の空間が着実に成長をとげつつあった。ところが、日中戦争の勃発とともにそれも途絶してしまう。いわば、プレ・ニューアカ/ニューアカは、その未完のプロジェクトを五〇年越しに期せずして実現しようとする現象だった。  浅田彰「子供の資本主義と日本のポストモダニズム」(一九八七年)が一九三〇年代の「近代の超克」論と一九八〇年代のポストモダン状況との重なりに与えた「グロテスクなパロディ」という形容は、こうした文脈においてのみ捉えかえされうる(廣松渉68『〈近代の超克〉論』の刊行は一九八〇年のことだ)。ただし、二度目はファルスとして。 57仲正昌樹(1963~)哲学者。法哲学、政治・社会思想、独文学。『ハイデガー哲学入門』 58青野季吉(1890~1961)文芸評論家。プロレタリア文学、『文藝戦線』派。『文学五十年』 59大宅壮一(1900~1970)評論家、ジャーナリスト。「一億総白痴化」「太陽族」などの流行語を命名。 60杉山平助(1895~1946)評論家。生田長江に師事。『春風を斬る』『文学的自叙伝』 61松岡正剛(1944~)編集者、文筆家。「編集工学」の提唱者。『松岡正剛 千夜千冊』 62高田宏(1932~2015)編集者、随筆家。『エナジー』編集。『言葉の海へ』 63安原顯(1939~2003)編集者、著述家。『海』『マリ・クレール』編集。『まだ死ねずにいる文学のために』 64杉浦康平(1932~)グラフィック・デザイナー。『エピステーメー』『噂の真相』等表紙デザイン。 65戸田ツトム(1951~)グラフィック・デザイナー。『d/SIGN』責任編集。 66鈴木一誌(1950~)グラフィック・デザイナー。杉浦康平事務所を経て独立。『d/SIGN』責任編集。 67菊地信義(1943~)装幀者。広告代理店勤務の後独立。講談社文庫、講談社文芸文庫、平凡社新書他ブックデザイン。 68廣松渉(1933~94)哲学者。物象化論。新左翼運動に大きな影響を与える。『マルクス主義の地平』 4  かくして、「批評の時代」の検討はメディアの問題、とりわけ雑誌運営の問題へと収斂する。それは経済の問題にほかならない。この点を具体的な事例で考えておこう。ここで例示するのは二系統の雑誌群である。ひとつは一九七〇年代の新左翼系総会屋雑誌。もうひとつは、八〇年代のメセナ/企業PR誌だ。  前者には、『現代の眼』(一九六二~八三年)を筆頭に、『新評』(一九六六~八二年)、『月刊ペン』(一九六八~八六年)、『流動』(一九六九~八二年)、『構造』(一九七〇~七一年/後継=『創』)、『世界政経』(一九七二~八二年)などが該当する。一九六〇年代後半に簇生し、七〇年代に隆盛をきわめた(詳細は拙稿「新左翼系総会屋雑誌と対抗的言論空間」を参照)。いずれも、(元/現)総会屋をオーナーにもつがゆえに、入広告の大半はあからさまなまでに企業広告や賛助広告の類で埋まる(銀行、証券会社、鉄鋼関係、電力会社、電機メーカーなど)。けれど、誌面傾向は経営基盤と逆行していた。新左翼系のオピニオン総合誌に分類される。絵に描いたようなねじれだ。内幕は公然の秘密として認知された。学生運動あがりの若者を編集部に雇い入れるケースが多かったためでもある。経営と編集とが分離独立していた。  なかでも、『現代の眼』や『流動』は一定の発行部数を維持し、左派言説の市場規模をそのまま示していた。既成諸勢力の補完/対抗機能を果たすことで(反大学、反代々木、反文芸誌、反論壇誌……)、オルタナティブな言論シーンを構成する。その傾向はまだキャリアの浅い書き手をひろく登用したことにも起因していた。  一九七四年一〇月、立花隆69の「田中角栄研究」が『文藝春秋』に発表され、現実政治を動かすことになるのだが、七〇年代はまさに「ルポの時代」「ノンフィクションの時代」でもあった。新左翼系総会屋雑誌はその受け皿として積極的に機能する。竹中労70や鎌田71、猪野健治72、丸山邦男73、田原総一朗74、猪瀬直樹75といった書き手に活躍の場を用意した。そこに、ニュージャーナリズムのあらたな潮流が形成されもした。七〇年代後半になると、新進の(そしてほぼ無名の)文芸批評家たちが参入してくる。「批評研究会」グループ(絓秀実、菊田均76、川村湊77、富岡幸一郎78ら)や「マルクス葬送派」(戸田徹79、小阪修平80、笠井潔81ら)などが『流動』の企画立案に関与した(商業誌のサロン化)。それを業界参入のステップとしたケースも散見される。たとえば、竹田青嗣82は『流動』でデビューしているし、笠井潔『テロルの現象学』の初出連載も同誌だ。既存の書き手の実験的な企画もここで試行される。思えば、前述の廣松渉『〈近代の超克〉論』の初出時の連載も同誌だった。  ところが、一九八二年一〇月、改正商法が施行されるとたちまち、一群の雑誌は続々と廃刊に追いこまれる。では、そこに結集していた書き手たちはどこに居場所を求めたのか。中央論壇や文壇へと首尾よく移動した論客はすくなくない(マイナーからメジャーへ)。現時からふりかえるなら、彼らはジャーナリズムの各方面へと拡散したのである。おりしも、運動から距離をおいた新規の批評メディアが増加し、にわかに書き手の需要が高まっていた(現代思想/ニューアカブーム)。彼らは個々に一九八〇年代の「批評の時代」の一端を担う。新左翼系総会屋雑誌群は次代の批評家やライターを育成し、論壇・文壇へと送りこむ、いわば過渡期のインキュベータとして機能したのだ。  絓秀実はあるインタビューに応えてこう証言している。自分たちが主宰したリトルマガジン『杼』が「回転しなくなると、同人皆で「流動」に一挙にわっと書いたり、特集を自分達で作ったり」したのだ、と。『流動』休刊が一九八二年一二月で、『杼』創刊が八三年五月だから、どうやら記憶ちがいらしい(それ以前に関わった同人誌『現代評論』『現代批評』の時点と混同したのかもしれない)。とはいえ、『流動』はじめ一連の新左翼系総会屋雑誌が若手の稼ぎ場として存在したことは事実である。  若手批評家たちは、メジャーへの足がかりとして、あるいはメジャーとは理念的に差別化されたアジールとして、そして端的に資金調達の手段として、総会屋雑誌や『別冊宝島』といった媒体を利用し(差別化という意味では『早稲田文学』『日本読書新聞』などを加えてもいい)、平行して自分たちのリトルマガジンを発行していた。後者では精神的自立がより確保される。いましがたあげた『現代評論』『現代批評』(一九七八~八〇年)や『杼』(一九八三~八七年)のほか、『テーゼ』(一九八〇~八八年)や『ORGAN』(一九八六~九一年)といったタイトルをあげておく──同時期には、研究同人誌も隆盛した(文学研究系の『媒』『異徒』『シコウシテ』、社会学系の『ソシオロゴス』など)。ここでも、一九三〇年代前半との重なりが見られる。ともに、雑誌創刊ブームのなかで同人誌が活況を呈していた。  新左翼系総会屋雑誌の時代は一九八〇年代に入ると同時に終焉をむかえる。それに代替した媒体がメセナ/企業PR誌である。たばこ総合研究センターの『談』(一九七三年~継続中)、エッソ・スタンダード石油広報部の『エナジー対話』シリーズ(一九七五~八二年)、ポーラ文化研究所の『ⅰs』(一九七七~二〇〇二年)、カルビーの『はーべすたあ』(一九八一~八九年)、三和酒類株式会社の『季刊iichiko』(一九八六年~継続中)などをあげておく。八四年にはアルシーヴ社が設立され、企業PR誌の編集全般を請負う。そこにニューアカ・テイストを注入していった。それは思想の言葉が広告的な価値をもっていた証左でもある。 『エナジー対話』シリーズ、およびそれに先行する雑誌『エナジー』(一九六四~七四年)の単独編集にあたった高田宏の回想にもあるとおり、企業側が編集に介入することはほとんどなかった。その点においては、新左翼系総会屋雑誌と同型の経済構造になっていたといっていい。批評が広告=記号的に流通する。『広告批評』(一九七九~二〇〇九年)の創刊もこの文脈におきなおして検討する必要がある。そして、大塚英志83『物語消費論』(一九八九年)はそれを反転させた批評として提出されていたはずだ。  総会屋雑誌や企業PR誌は、自生的な研究会やグループと提携しつつ結果的にフックアップの場としても機能した。他方、制度化されたリクルーティング・システムとしては群像新人文学賞の評論部門が存在した。該当期間には、中島梓84や富岡幸一郎、川村湊、井口時男85、清水良典86、島弘之87らを輩出している。一九八七年以降は、選考委員の一人に柄谷行人が加わったことによって、受賞者の顔ぶれに一定の傾向が生れた。一九九〇年代をとおして、『批評空間』とともに人材調達の場として機能することになるだろう。その功罪の検討は次回にまわす。 69立花隆(1940~)ジャーナリスト、評論家。『日本共産党の研究』『脳死』 70竹中労(1928~91)ルポライター。山谷解放闘争、沖縄闘争を支援。『タレント帝国』 71鎌田慧(1938~)ルポライター。『自動車絶望工場』『六ヶ所村の記録』 72猪野健治(1933~)ジャーナリスト。マスコミ、やくざ、右翼。『やくざと日本人』 73丸山邦男(1920~94)評論家。丸山幹治の三男、丸山眞男の弟。『ジャーナリストと戦争責任』 74田原総一朗(1934~)ジャーナリスト。「朝まで生テレビ!」「サンデープロジェクト」等司会。『原子力戦争』 75猪瀬直樹(1946~)作家、政治家。元東京都知事。『ミカドの肖像』 76菊田均(1948~)文芸評論家。『江藤淳論』 77川村湊(1951~)文芸評論家。群像新人文学賞評論部門優秀作。『南洋・樺太の日本文学』 78富岡幸一郎(1957~)文芸評論家。鎌倉文学館館長。群像新人文学賞評論部門優秀作。『川端康成 魔界の文学』 79戸田徹(1943~84)著述家、元プロレタリア学生同盟活動家。『マルクス葬送』 80小阪修平(1947~2007)評論家、元東大全共闘活動家。『はじめて読む現代思想』 81笠井潔(1948~)作家。SF、推理小説、批評。学生運動(プロレタリア学生同盟)に参加。『ヴァンパイヤー戦争』 82竹田青嗣(1947~)評論家、哲学者。『〈在日〉という根拠』 83大塚英志(1958~)作家、評論家、編集者。民俗学、漫画、現代思想。『「おたく」の精神史』『多重人格探偵サイコ』 84中島梓(栗本薫)(1953~2009)小説家、評論家。『グイン・サーガ』『文学の輪郭』 85井口時男(1953~)文芸評論家。『柳田国男と近代文学』 86清水良典(1954~)文芸評論家。『虚構の天体 谷崎潤一郎』 87島弘之(1956~2012)文芸評論家、英文学者。『小林秀雄』 5  文芸復興到来の直前、杉山平助は「批評の敗北」と題してこんな議論を展開している。批評と出版社は作者と読者とのあいだに余剰として後発した。両者は機能的に近接する。出版社は優劣の識別能力をもつからこそ価格を決定できるし、そのプライシングをとおして批評性を発揮している。批評家は作品の優劣に言及することで価値を示す。市場の価格変動に影響もおよぼす。したがって、両者は対抗関係にある。結論からいえば、批評家はこの対立に「敗北」してしまうだろう。なぜなら、批評もまた出版社を介して商品となる以外にないからだ(出版社は自社の利益に反した批評文をいくらでも排除できる)。杉山は自身も批評家でありながら、身も蓋もないロードマップを導き出してしまう。  この国の批評の来歴は、まさにこの「敗北」を解消しうる回路を模索する軌跡でもある。偶発的で例外的な好条件に依存しない、経済的に自立した批評はいかにして可能か。テクストの内外で問われつづけてきたのはそのことだ。ゼロ年代初頭、出版技術のさらなる革新が実現した。と同時に、批評のあらたな流通経路の可能性が追求された(思想誌創刊ブーム、ブログやメルマガの活用、文学フリマ、批評空間社設立……)。そこでは、批評を支える経済環境の諸問題がとりもなおさず批評的な課題としてこれ以上ないほどに可視化されていた。そのとき、「雑誌の時代」は参照と批判の対象として正面から召喚されなければならなかった。だが、それは不履行におわる。 *  与えられた紙幅もここでつきた。たとえば、一九七〇年代の情報化社会論の文脈(林雄二郎88『情報化社会』のインパクト)や新京都学派の布置(梅棹忠夫89や加藤秀俊90、小松左京91ら)、一九八〇年前後の文学の刷新(リアリズムのリセット、村上春樹92や高橋源一郎93ら)、八〇年代前半の批評と研究の距離感(シンポジウム「批評と研究の接点」、テクスト論の共有)、八〇年代後半に萌芽的に用意された「社会学の時代」(橋爪大三郎94や内田隆三95、大澤真幸96、宮台真司97らの登場)、ニューアカ期以降の思想状況(おもに、外部派と共同体派との論争、「アメリカの影」問題)など、いくつかの個別の論点は可能であれば討議のなかで触れることにしよう。 88林雄二郎(1916~2011)官僚、未来学者。兄は林健太郎、次男は林望。『高度選択社会』 89梅棹忠夫(1920~2010)民族学者。国立民族学博物館初代館長。『文明の生態史観序説』『知的生産の技術』 90加藤秀俊(1930~)社会学者、評論家。キッシンジャー、リースマンに師事。日本未来学会結成。『中間文化』 91小松左京(1931~2011)小説家。SF作家。京大時代、高橋和巳らと同人誌を発行。『日本沈没』 92村上春樹(1949~)小説家。『羊をめぐる冒険』『騎士団長殺し』 93高橋源一郎(1951~)小説家。『さようなら、ギャングたち』『日本文学盛衰史』 94橋爪大三郎(1948~)社会学者。『言語ゲームと社会理論』『はじめての構造主義』 95内田隆三(1949~)社会学者。『消費社会と権力』『ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?』 96大澤真幸(1958~)社会学者。思想誌『THINKING「0」』主宰。『ナショナリズムの由来』『〈世界史〉の哲学』 97宮台真司(1959~)社会学者。『制服少女たちの選択』『終わりなき日常を生きろ』 共同討議 昭和批評の諸問題 1975-1989 Problems with Showa Criticism 1975-1989 市川真人+大澤 聡+福嶋亮大+東 浩紀 1│プレニューアカの可能性 「近代日本の批評」とはなんだったのか 東浩紀 現代日本の批評の歴史を辿るこの共同討議シリーズ、今回取り上げるのは、一九七五年から一九八九年にかけての批評の歴史です。三島由紀夫1事件があり、全共闘の敗北があり、六〇年代が名実ともに終わった直後から、冷戦崩壊、昭和の終わりまでを扱います。第二回は八九年から二〇〇一年まで、第三回では二〇〇一年から現在までの批評史を検討する予定です。  なぜ七五年を始点に選んだかといえば、昭和五〇年という区切りのいい年であることに加え、『現代思想』が三浦雅士編集体制に切り替わり、現在ぼくたちがイメージする「思想」「批評」の相互貫入が始まった年でもあるからです。他方で八九年は批評史的には、『季刊思潮』で、柄谷行人、浅田彰、實重、三浦雅士らによる共同討議「近代日本の批評」の連載が始まった年でもあります。この共同討議は昭和篇から始まり、『批評空間』に受け継がれて大正篇と明治篇が行われて、のち単行本化されます。近代日本の批評の歴史を総括した重要な仕事だったと思いますが、ここではその成果を勝手に──だれの許可も得ずに──継承して、あらためて「現代思想以降」の歴史を辿りつつ、二〇一五年のいま、そして未来についても語っていきたいというわけです。  まずは、ぼくたちの出発点でもある「近代日本の批評」の評価から話したいのですが、今回昭和篇を読んであらためて気がついたのは、独特の「非歴史性」です。たとえば、柄谷や浅田もまた、それぞれだれかに見出されたはずですが、この共同討議ではそのような彼ら自身の歴史性には言及されない。かろうじて三浦雅士だけが自分の来歴を語るのですが、實、柄谷、浅田は、批評史全体の傍観者のような立場で話していて、どの時代からやって来たんだという感じになっている。  つまりは、九〇年代に影響力を持ったこの討議そのものが、批評史の多様な過去を平坦にし、村上隆2風に言えば、「批評なるもの」全体を「スーパーフラット」にしてしまうような働きを持っていたのではないか。ぼくたちは三回目の討議でいわゆる「ゼロ年代の批評」について語る予定ですが、ゼロ年代の批評はそれ以前の批評史から切れて、前提知識がゼロでも読めるサブカルチャー批評の影響力が強くなった。それはふつうは『批評空間』派の対極だと思われているけど、ここにその「切断」「平坦さ」の萌芽があると思いました。 大澤聡 非歴史的であり、データベース的でもありますね。おっしゃるように、あの討議では執拗に「切断」や「断絶」の話がされる。いたる局面に切断線を発見したり設定したりしながら議論が展開していきます。と同時に、自分たちもまたきっちり切断していくんだというモチベーションが明確に表れている。二重三重の語りの構造になっているわけですね。そのことによって歴史叙述にダイナミズムが発生する。この点は出席者のあいだで暗黙裡に共有されていたのでしょう。ただ、その側面を強調するあまり、いささか偏ったパースペクティブが提示されていることも否定できない。 東 昭和篇の前半は、小林秀雄とマルクス主義の話しかしていない。 市川真人 柄谷さんが昭和を「転向の時代」と定義して基調報告をした結果、福本和夫3以前と以後という切断から議論が始まりましたからね。読み返すと、ほかのひとは「芥川龍之介4」「保田與重郎」のようにちゃんとフルネームで出てきているのに、福本和夫だけは最初から「福本」と呼び捨てにされるくらいに自明視されている。で、そういう柄谷さんの初期設定を、浅田さんと三浦さんが知識で補完していって、そこに、實さんが「彼は頭が良かったという点につきている」などと、ときどきよくわからない茶々を入れる(笑)。 大澤 その多重性に批評のパフォーマティヴィティが宿ると言われればそれまでなのですけどね。 東 ざっくばらんな印象を言うと、柄谷さんはやはり引き出しが少ない。そして實さんは嫌みな人。比べると三浦さんは常識人だし、浅田さんは若いけれど教養がある。柄谷と實のツートップが、八九年の批評のスコープをかなり狭くしていたというのが、いま振り返るとよくわかる。「近代日本の批評」は、批評史の単純な総括というよりも、のちの九〇年代に『批評空間』を「機関誌」とする「柄谷行人を中心とする批評の磁場」ができるわけだけど、その設立に向けての宣言書のような機能を果たしていたと思います。  今回、大澤さんに作ってもらった年表を見ればあきらかだけど、ニューアカブーム以前の七〇年代の現代思想ってじつに豊穣で多様なんですね。そして実際に、浅田さんなどはその豊穣さをよく理解していて、九〇年代に入っても『インターコミュニケーション』一八号(九六年)で晩年の梅棹忠夫さんにインタビューを取ってきたりしている。でも『批評空間』になると、もうそういう線が引けていない。かなり党派的に見える。『批評空間』の前身に当たる『季刊思潮』と比べても、その差異はあきらかですね。『季刊思潮』の後半四号(八九~九〇年)に「近代日本の批評」の最初の共同討議が掲載されたというのはじつに象徴的だし、またいま、その内容をどう位置づけるかは、単純な歴史の継承というだけでなく、『批評空間』以降、九〇年代以降の日本の批評全体をどう捉えるかという大きな問題と関係してくる。 大澤 各媒体での柄谷行人の対談は『ダイアローグ』というタイトルのシリーズ本に順次収録されていきますが、ダイアローグというわりに、巻を追うごとに対談相手が柄谷の文法を内面化していき、期せずしてモノローグのような構造になってしまう。柄谷さんも帝国的にふるまうようになる。『季刊思潮』『批評空間』の共同討議をまとめた『シンポジウム』シリーズではよりその側面が強化されます。党派性は構造的な問題でもあったのでしょう。けれど、そのプロセスにおいては、柄谷行人なり『批評空間』なりは、きわめてデータベース型の選択原理を取っています。  個人的な関心から例示してみると、同誌の第Ⅰ期八号の漱石特集(「夏目漱石5をめぐって」、九三年)では、「国文学界から、若干なりとも光が洩れてきた」ということで、ぱっと小森陽一6と石原千秋7を連れてくる。九〇年代前半の漱石ブームのころですね。第Ⅱ期は、「〈戦前〉の思考」という共同討議で開幕するわけですが(一号、九四年)、「戦前」というフレームをセットアップしたうえで、たとえば久野収8に話を聞く(四号、九五年)。あるいは、小林敏明9の西田幾多郎10論を連載してみたり、酒井直樹11や岩崎稔12、米谷匡史13らの専門的な三木清論なり戸坂潤論なりを単発的に載せてみたり。このへんは専属の編集者である内藤裕治14の目配りが作用しているのでしょうけど。 福嶋亮大 ただ、彼らとしては八〇年代を否定したかったわけでしょう。当時の大衆文化をリードしていたのは吉本隆明15や鶴見俊輔16であり、それに抵抗するにはたとえ偏頗でもマルクス主義を持ってくるしかなかった。実際、八〇年代の言説、とくにニューアカは、それ以前のプレニューアカと比べると書籍のレベルがかなり落ちています。 大澤 内容的にだけでなく、経済的にも「雑高書低」だった。 福嶋 吉本さんにしても、七〇年代の『初期歌謡論』(七七年)は彼なりに緻密にやっていると思うんだけど、八〇年代の『マス・イメージ論』(八四年)は文章も変だし、内容も雑多なエッセイになっている。ひとことで言えば「堕落」でしょう。  八九年に出た黒川紀章17のノマド論(『ノマドの時代』)なんかも、いまから見るとすごく楽観的に見える。日本はこの情報社会にいちばん適した国であり、それは江戸時代の旅行の文化から延々続いているものだ、というような文化的ナルシシズムが前面に出ていて、八〇年代の気分がよく表れている。たしかに『季刊思潮』や『批評空間』の座談会はすごく偏頗に見えるかもしれないけれど、いまわれわれが八〇年代末にいたとすれば、柄谷さんたちと同じように吉本・黒川的なものに対抗しようとするはずです。だからその戦略自体は、ぼくは否定できないと思います。 東 八〇年代は限りなく多幸症的であり、思想も消費社会の波にのみ込まれた。それに対する切断として、あえて乱暴な議論を提示したのが『批評空間』派だったということですね。しかし、よかれあしかれハチャメチャなエネルギーを持っていた八〇年代までの多様さが切り捨てられ、批評と思想のかたちが貧しく歪められてしまった印象は拭えない。『ゲンロン』ではそこらへんを戻していきたいのですが。 1三島由紀夫(1925~70)小説家、戯曲家。民兵組織〈楯の会〉を結成。70年割腹自殺。『金閣寺』『豊饒の海』 2村上隆(1962~)現代美術家、映画監督、芸術集団カイカイキキ主宰。「スーパーフラット」セオリーを発案、実践。 3福本和夫(1894~1983)経済学者、思想家。『マルクス主義の理論的研究』 4芥川龍之介(1892~1927)小説家。新現実主義。『鼻』『地獄変』 5夏目漱石(1867~1916)小説家、英文学者。『それから』『明暗』 6小森陽一(1953~)国文学者。近代文学、夏目漱石、構造主義。『構造としての語り』 7石原千秋(1955~)国文学者。近代文学、夏目漱石。『漱石と日本の近代』 8久野収(1910~99)思想家、評論家。思想の科学研究会、安保闘争、ベ平連。『市民主義の成立』 9小林敏明(1948~)哲学者、精神病理学者。『精神病理からみる現代思想』 10西田幾多郎(1870~1945)哲学者。京都学派の創始者。『善の研究』 11酒井直樹(1946~)歴史学者。日本思想史。『日本思想という問題』 12岩崎稔(1956~)哲学者。政治思想。『戦後日本スタディーズ』(共著) 13米谷匡史(1967~)歴史学者。日本思想史。『アジア/日本』 14内藤裕治(1965~2002)編集者。批評空間社社長。 15吉本隆明(1924~2012)批評家、詩人、思想家。『共同幻想論』 16鶴見俊輔(1922~2015)評論家、哲学者。『思想の科学』を創刊。『戦時期日本の精神史 1931~1945年』 17黒川紀章(1934~2007)建築家。「メタボリズム」運動。〈クアラルンプール新国際空港〉 前史としての七〇年代 大澤 そのあたりの「近代日本の批評」や『批評空間』との距離感を確認し合いつつ、該当期間の検討に移行していければと思うんですが、今回の年表作成と基調報告はぼくが担当しました。七五年から八九年は、見田宗介の図式で言うところの「虚構の時代」に相当しますね。議論を進めやすくするため、八三年を境界として、さらに前半/後半に分割してみてはどうでしょうか。七五年から八二年を「プレニューアカ期」、八三年から八九年を「ニューアカ期+α」と、それぞれ便宜的に呼んでおく。ちなみに、三浦雅士は七五年に『現代思想』の編集長となり、八二年に青土社を退社しています。つまり、プレニューアカを演出した編集者だった。プレニューアカ期の豊穣さは、ニューアカの到来によって遡行的に発見されたという事情もある。ですので、「プレ」をつけることで転倒した表現にしてみました。もちろん、この時期の成果や固有名がニューアカの母胎として機能したことはまちがいない。ですが、後続するニューアカの面々が登場したことによって、むしろ「プレ」の側が逆に巻き込まれていく、そんな逆転現象が起こった。 東 そのとおりですね。当時、浅田さんは「ぼくが有名になったせいで、丸山圭三郎とか山口昌男が自分のことを思想家だと思っていて本当に残念」なんてことを、嫌みっぽく言っていた。 大澤 たんなる読者だったはずの人たちがオリジナルの思想家を目指し始めちゃって云々という例のアリュージョンですね。そこには、今村仁司18や栗本慎一郎も念頭にあった。まさに彼らが本格的な活動に入ったプレニューアカ期については、文化的な共同体主義を最大の特徴として挙げられそうです。思想的に内向的だったところから外向きへと転換し始めたものの、基本的には日本史や日本文学など歴史の再発掘が進む。近過去の歴史化、なかでも昭和史の構築などがそうですね。一般的には、古代史ブームもこの文脈に入れていいでしょう。谷川健一19などの仕事もそう。 福嶋 七〇年代の日本は、大雑把に言うと高度経済成長が終わり、万博も終わり、左翼的な革新運動が急速に退潮した時代ですね。そのなかで日本社会について内省的にその存立構造を考えるという日本回帰の方向が出てくる。国鉄の「ディスカバージャパン」以降、司馬太郎20の『街道をゆく』(七一~九六年)や梅原猛21の一連の古典論が支持され、あるいはそのすこしまえには小松左京の『日本タイムトラベル』(六九年)なんかも出る。文学的空想も交えつつ日本を再構築するというモードが七〇年代前半にあり、それが大衆文化やジャーナリズムのなかで支持される。肯定的な日本特殊論が出てくるのもだいたい七〇年代です。 大澤 極致が、七九年のエズラ・ヴォーゲル22『ジャパン・アズ・ナンバーワン』ですね。 福嶋 小林秀雄の晩年の『本居宣長』(七七年)にせよ吉本の『初期歌謡論』にせよ、べつに文芸批評だけで閉じていたのではなく、あきらかに七〇年代のモードに属した仕事でしょう。それにくわえて、網野善彦の歴史学とか山口昌男の文化人類学のように、共同体のコードや意味構造を再検討する仕事が出てくる。  しかし、別の観点からすると、そののち日本文化の豊かな意味構造それ自体を吹き飛ばしていくような批評家として、柄谷行人さんが出てくるわけですね。柄谷さんは七三年に「マクベス論」を書いています。『マクベス』そのものは男性の観念が暴走する話ですが、連合赤軍事件を念頭において書かれた柄谷版の『マクベス』は、最後には「意味という病」から抜け出して、目のまえにいる奴をひとりひとりゲームのように殲滅していくというところに重点が置かれる。宇野常寛23的に言えば「決断主義者」としてのマクベスですね。ゼロ年代文化批評のモデルは、柄谷さんの七〇年代の『畏怖する人間』や『意味という病』によって先取りされていたと思う。  要は、文化的なシンボリック・オーダーをフィールドワーク的・文献学的に再建しようとする知識人がいる一方、それをぜんぶ吹き飛ばし、目のまえにいる敵をひとりひとり殲滅するという生存本能だけで生きる人物を描くことがなされていた。そういう両極性がこの時代の特徴ではないか。 市川 七五年というのは、大澤真幸が定義するように、ベトナム戦争が終わった年であると同時にアメリカの一国中心による平和=第一次大戦と第二次大戦の成功体験に支えられた「パックス・アメリカーナの初期イメージ」がいったん崩れた年でもあります。かと言って、いったんは勝利したはずの平和運動も、必ずしも成功したわけではなかった。網野善彦24や山口昌男の本格的な仕事が七〇年代末に始まったことを考えると、「七〇年代のモード」としての日本の再検討は、高度成長だけでなく、言わば再転向的な失望とも無縁ではなかったように思います。そうして、福嶋さんの言う「七〇年代の決断主義的なもの」は、その失望感を抜きには語れないと思う。「マクベス論」も、出発点が「悲劇」についての考察であるからこそ、「まったく悲劇的でないマクベス」が論じられたわけで、決断主義的なものが一足飛びに現れたわけではないんですよね。 福嶋 国内の影響関係に限定した狭い視点で言えば、七〇年代の批評は文化的な共同体主義に向かうモードが主流で、そこからちょっと逸れたところに柄谷さんがいたのではないか。加えて、この時代の傑出した仕事は磯崎新の『建築の解体』(七五年)だと思うんです。  この本は、文化の話というよりはむしろ「情報」の話をしている。つまり、文化的な共同体主義から外れ、そういうものを破壊するテクノロジーや情報について扱った本です。のちの八〇年代に量産された文化記号論やテーマ批評よりこちらのほうがずっと先進的であって、クリストファー・アレグザンダー25の「パターン・ランゲージ」からセドリック・プライス26の「ファン・パレス計画」まで、ゼロ年代で提示されるような論点はほとんど含まれてしまっている。逆に言えばゼロ年代は、七〇年代後半の決断主義的なものや情報論的なもののリバイバルとしても捉えられる。 東 もうひとつ軸を加えると、左翼が退潮したプレニューアカの時代には、左右の対立を乗り越える議論の枠組みをどう作るかが大きなテーマになっていた。左右のイデオロギーを超えたところで知識人が動いていて、実際、ニューアカの時代には保守か革新かの区別が無効化されていた。  そういう観点で見ると、柄谷行人は、むしろ八〇年代の最後にイデオロギー的な線引きをやり直し、左翼を復活させたのだと言える。二〇一五年の現在に直結する「批評=運動」の流れがそこから出てくる。だから『批評空間』派、というかその読者たちは、保守の江藤淳27や山崎正和28は読まないことになってしまった。当時のぼくも読まなかった。けれども、山崎正和の議論そのものは、むしろ高度消費社会の個人主義を考えるという意味で浅田彰と共振している。『批評空間』が切り捨てた連携の可能性を、ぼくたちは再発見しなければならない。九〇年代はイデオロギー対立が人工的に作られてしまった時代で、そこから逆算すると七〇年代や八〇年代も正しく語ることができない。 福嶋 同感です。柄谷さんの『日本近代文学の起源』(八〇年)の「内面の発見」という論点にしても、その四年前に出た山崎正和の『不機嫌の時代』(七六年)で先取りされていると思うんですよ。『不機嫌の時代』によれば、日本の作家は明治国家に公を簒奪されてしまった。その結果として、作家というのは不機嫌な「私」の領域に閉じこもることになった。つまり、「内面」の領域に退却し、ときにはホモソーシャルな友情に慰めを見出すことにもなった。「公」はすべて国家に集約され、「私」はすべて内面と友情に集約される。そのあいだの公共的なものというのがないわけです。これはいまでも大きく変わっていないので、近代日本の表現上の弱点はだいたい『不機嫌の時代』で語られてしまっていると思う。本来は山崎さんと柄谷さんは似た問題意識を共有していたはずです。 大澤 大雑把な図式で言うと、六〇年代には歴史なり意味なりに固執していたのが、八〇年代には構造や情報に行く。過渡期ゆえに両義的だったのが七〇年代。九〇年代には再び歴史/政治へと全面回帰していくことになります。 東 あと、福嶋さんが指摘した情報論の観点に付け加えると、六〇年代の未来学が重要でしょう。ダニエル・ベル29やハーマン・カーン30がやっていたポスト消費社会論は、日本では未来学と呼ばれ、保守派の学者たちによって展開されていました。つまり、ニューアカが展開した高度消費社会の議論は、六〇年代ではどちらかというと保守派のイデオローグによるものだったということです。  たとえば六九年に『情報化社会』を出版した林雄二郞は経済企画庁の官僚です。七二年、ローマ・クラブが人口爆発に警鐘を鳴らす『成長の限界』を刊行しましたが、その翻訳を監修した大来佐武郎31は同じく経済企画庁のエコノミスト。当時は仕掛け人として経産官僚が活躍し、学者と結びついて研究会を開いていた。林は梅棹や川添登32、小松左京などと未来学の研究会も開いていた。メタボリズムでも、下河辺淳33が大きな役割を果たしたことが知られています。つまりは、体制派の官僚こそが進歩的な議論をリードし、新しい産業国家としての日本像を確立しようとしていたという環境があった。  その流れからは重要な仕事もあって、そのひとつが、年表にも記載した佐藤誠三郎34・村上泰亮35・公文俊平36の共著『文明としてのイエ社会』(七九年)のような仕事です。これは梅棹忠夫の有名な論文「文明の生態史観」を発展させた労作で、梅棹の大雑把で直感的な議論を精緻に検証し、説得力を持たせている。網野史観とも共鳴するおもしろい仕事なのだけど、佐藤と村上が中曾根37政権のブレーンだったこともあり、いまではほぼ無視されている。実際には保守政治家と知識人の結びつきは長く続いていたはずで、それが『批評空間』派から見た批評史の裏側にある。 大澤 プレニューアカのキーワードが領域横断性や混淆性だとするならば、『文明としてのイエ社会』もその震源地から離れた場所で実施された領域横断のバリエーションですね。「日本近代化」の特性という伝統的なテーマを、三者の専門領域(政治学、理論経済学、社会システム論)に限定することなく超域的に分析していく。それから、未来学研究会ということで言うと、会のメンバーが常連寄稿者を占めた『放送朝日』(大阪朝日放送PR誌)が、この討議の出発点である七五年に休刊しています。知のシフトを象徴しているようでおもしろい。 18今村仁司(1942~2007)哲学者。社会思想史、現代思想。アルチュセール、ボードリヤール、リオタール等を紹介。 19谷川健一(1921~2013)民俗学者、歌人。日本地名研究所初代所長。『南島文学発生論』 20司馬太郎(1923~96)小説家。『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『街道をゆく』 21梅原猛(1925~)哲学者、国際日本文化研究センター初代所長。『地獄の思想』『水底の歌』 22エズラ・ヴォーゲル Ezra Feivel Vogel(1930~)アメリカの社会学者、東アジア研究者。 23宇野常寛(1978~)評論家。「第二次惑星開発委員会」主宰。『PLANETS』編集長。『ゼロ年代の想像力』 24網野善彦(1928~2004)歴史家。日本中世史。『無縁・公界・楽』『「日本」とは何か』 25クリストファー・アレグザンダー Christopher Alexander(1936~)ウィーン生まれのアメリカの建築家、都市計画家。 26セドリック・プライス Cedric Price(1934~2003)イギリスの建築家、都市計画家。〈ポタリーズ・シンクベルト〉 27江藤淳(1932~99)文芸評論家。『成熟と喪失』『漱石とその時代』 28山崎正和(1934~)劇作家、評論家。『世阿彌』『柔らかい個人主義の誕生』 29ダニエル・ベル Daniel Bell(1919~2011)アメリカの社会学者。『イデオロギーの終焉』 30ハーマン・カーン Herman Kahn(1922~83)アメリカの未来学者、システム理論家。「ハドソン研究所」創設者。 31大来佐武郎(1914~93)経済学者、官僚。「国民所得倍増計画」立案。 32川添登(1926~2015)評論家。『新建築』編集長。「メタボリズム」に参加、日本生活学会設立。『民と神の住まい』 33下河辺淳(1923~2016)官僚。建設省、経済審議庁、経企庁、国土事務次官。『戦後国土計画への証言』 34佐藤誠三郎(1932~99)政治学者。大平、中曾根内閣のブレーン。『「死の跳躍」を越えて』 35村上泰亮(1931~93)経済学者。政策構想フォーラムを主宰。中曾根内閣のブレーン。『新中間大衆の時代』 36公文俊平(1935~)社会学者。中沢新一人事問題で村上泰亮らと東大を辞職。東大時代、佐藤誠三郎、村上泰亮とで駒場の「三羽ガラス」。 37中曾根康弘(1918~)政治家。第71・72・73代内閣総理大臣。 小松左京と中上健次 大澤 六〇年代末から七〇年代にかけての大小の総合雑誌を通覧したことがあるんですが、六九年と七〇年の二年間は、各種の七〇年代予測論や八〇年代予測論で誌面が埋め尽くされていた。六〇年代最後の年に出た『情報化社会』のインパクトを受け、七〇年代の幕開けとともに、半ば通俗化されたかたちで情報化社会論の時代が到来します。「情報化社会」がバズワードと化していく。そこに現代SF論の文脈が合流する。物語的な想像力や批評的な系譜との接点としては欠かせないプロセスですね。 東 SF史的に考えると、この手の情報化社会論を体現していたのが小松左京ですね。 大澤 実際、総合雑誌には専門的な情報論と隣接するかたちで小松左京や山野浩一38が登場する。 東 六〇年代の小松左京は、SF的な知こそが最先端で、未来社会を予見する力を持つというヴィジョンを体現していた。実際にメタボリズムとも交流があった。しかし小松は『日本沈没』以降、あきらかに失速してしまう。  ほとんどだれも指摘していないけれど、一九七三年の『日本沈没』の隠れたテーマは「総力戦」だと思います。日本沈没は戦争のメタファーなんです。そもそも彼のデビュー作「地には平和を」は、「もし日本が本土決戦したら……」というイフ(もし)を描いた短篇でした。彼は自分の小説家としての出発点は焼け跡だと言っていて、同じテーマを反復していた。そんなひとが万博政府館のサブプロデューサーまでやってしまい、それに対して心理的なバランスを取らなきゃいけなくなった。ということで総力戦の物語である『日本沈没』を書いたんだと思う。そういう意味では、小松さんの作家としての問題意識はあそこでいちど完結している。  それはある意味では、「戦後」が終わったことも意味している。小松の失速と同時に、七〇年代のSFは「サブカル化」「ラノベ化」していきます。その象徴が七七年にデビューした新井素子39です。ただ、同時に他方では「純文学化」も起きている。当時の言葉で言えば「ニューウェーブ」です。SF同人がいくつも現れて、その同人のなかから孝之40や大原まり子41、川上弘美42や沼野充義43といった人々が出てくる。ひとことで言えば、文学性・思想性が高いが、その代わりに大衆との接触を失ったSFが現れてくる。その最大のスターが筒井康隆44で、八〇年代に入ると小松左京よりあきらかに筒井の影響力が強い。ただ、筒井さん自身は、八一年の『虚人たち』で泉鏡花賞を取ったこともあり、SF界から離れ純文学のほうに近づいていく。  あらためてまとめると、七〇年代のSFはエンタメと純文学へと両極化し、六〇年代まで持っていた「技術と社会の関係を考える新しい文学」という役割を急速に失っていく。その流れは批評史とも関係すると思います。 大澤 明治初期のSF的なものも同じコースを辿りますね。そして、やはり批評史とも通底している。 福嶋 小松さんにしろ磯崎さんにしろ、万博が一種のトラウマになったということはあるでしょうね。情報によって国家を変えるはずが、結局、国家の側に簒奪されてしまった。それで、小松さんであればそれまで壮大な未来のことを語っていたのだけれど、『日本タイムトラベル』では失われつつある特殊な日本を愛惜しつつ探索してみるということで、未来に向かっていく方向と過去に向かっていく方向が入り乱れていく。そういう混乱の時代が、ぼくは七〇年代だと思うんですよ。 東 右・左の対立からの脱出口として、「日本」なるものが浮上してくる。 福嶋 さらに言うと、昭和というのは転向と変身の時代だと思うんですね。戦後日本は戦前とはまったくちがう人格に変身したということになり、戦争で負けたはずなのに、いまや平和と繁栄を謳歌している。そこから来るちぐはぐな感覚は、ずっと日本社会に伏在していたと思うんです。六〇年代と八〇年代は経済も成長し消費社会も発達しているから、アイデンティティの亀裂を意識せずにすんだ。逆に七〇年代は凪の時代であって、昭和的な混乱というか多重人格性が露出した時代ではないか。そういう危うさのなかで、象徴的なイデオロギーに代わって想像的な「日本」が上昇してくる。 大澤 六〇年代と八〇年代のリバイバルや検証の蓄積と比較した場合、七〇年代は圧倒的な空無状態にある。豊饒な知的成果にもかかわらずです。その「凪の時代」ゆえの混在の扱い難さについては検討する必要がある。よかれあしかれ、七〇年代は大正的ではあるのでしょう。激動の明治と昭和に挟まれた大正。 市川 純文学で言うと、この時代、「内向の世代」が出てきますよね。古井由吉45、後藤明生46、黒井千次47、富岡多惠子48といったひとたちが七〇年前後にデビューして、小田切秀雄49が批判したような、一見、社会性から切り離された内面的な作品を描く。それに対して柄谷が、さきほど出てきた「マクベス論」的な反転、たとえば古井由吉の『杳子』(七〇年)は共同主観性へとむかっているといったように、内部への拘泥が外部への道だというロジックで彼らを擁護するわけです。そうして、まさにそのような反転の象徴として、中上健次が七五年に『岬』を書き「内向の世代」の掉尾を飾る。彼がそこから描いていくのは、自分が依拠していた地元共同体がなくなったとき、それを忘れるのではなく反復して思い出すことで乗り越えるという意識で、いま福嶋さんの言った「未来に向かう方向と過去に向かう方向の混乱」への非常に身体的な統合が試みられてはいるんですよね。 東 日本的なものの再発見と中上健次の登場がつながっていたというのはおもしろい。日本文学が、日本的風景を失った無国籍状態に直面したときに、紀州を再発見する作家として中上健次が現れる。 市川 その意味では、村上龍が受け入れられたのも、おそらくは同じような構造ですよね。基地の街としての福生をきちんと描き、それらと反転するかたちで日本を発見する、という。『限りなく透明に近いブルー』(七六年)では、「鳥」や上昇のイメージがリュウのモノローグでも描写でも繰り返されるけれど、そうやって上昇した視点が発見するのは、基地を包み込んだ「日本」なわけです。 福嶋 さっき言ったように、共同体の意味構造に回帰する方向と、共同体の意味そのものを蒸発させてしまう方向が七〇年代の批評にあったとして、文学においては前者は中上で後者は村上春樹だったということだと思うんですよ。 大澤 八〇年代後半になると、批評家たちも同じ構図にすっぽり収まる。明快な照応関係がある。 東 中上を取るか春樹を取るかという問題は、七〇年代にすでに準備されていた。 福嶋 それで言うと、中上さんはもうひとりの春樹、つまり角川春樹50とは仲がよかったわけでしょう。七〇年代の日本回帰を大衆レベルでやったのが『犬神家の一族』(七六年)以降の角川映画です。そういう観点で言うと、角川と中上が接近していくのはよくわかる。逆に言うと『批評空間』は、中上さんの角川春樹的な、つまりオカルト的な側面をぜんぶ切ったわけですね。 東 大塚英志がよく言及する、中上健次原作の『南回帰船』(九〇~九一年)という漫画がある。あれなんかじつに角川的だよね。 市川 主人公が親子二代で、大東亜共栄圏の復活を託される話だからね。路地の失われたあとを描いた『日輪の翼』の主人公が、行くあてを欠いて皇居に向かう展開など、中上が「日本」の意味と苦闘していたのは事実としてあります。ただ、『南回帰船』も含めてそういう作品を書いたのは八〇年代後半以降だし、その時期の中上健次をどう受容するかは、高澤秀次51が大塚さんの編んだ『南回帰船』原作本の──あれも角川書店ですが──解説などでも苦労して書いていました。ただ、中上さんはそもそも八四年の段階で、梅原猛とも『君は弥生人か縄文人か』という対談をしていたわけで……。 福嶋 『千年の愉楽』(八二年)だけ見ると、中上さんはほとんど日本浪曼派の作家ですね。滅びの視点から、路地の歴史をファンタジー的に復元する。萩尾望都52の漫画みたいなものです。晩年は山本健吉53とも付き合っていたわけだし。 東 そう。中上さんは、柄谷さんが期待したような「最後の日本近代文学」ではなかった。 大澤 にもかかわらず、中上自身がある時期には、その期待を内面化したふるまいを見せてしまう。 38山野浩一(1939~2017)小説家、競馬評論家。ニュー・ウェーブSF運動。『サラブレッドの誕生』 39新井素子(1960~)小説家。SF、ライトノベル。『グリーン・レクイエム』『ネプチューン』 40孝之(1955~)米文学者、SF評論家。日本アメリカ文学会会長。『サイバーパンク・アメリカ』 41大原まり子(1959~)小説家、SF作家。『ハイブリッド・チャイルド』『戦争を演じた神々たち』 42川上弘美(1958~)小説家。お茶の水女子大在学中、SF研究会に所属。『神様』『センセイの鞄』 43沼野充義(1954~)スラヴ文学者。ロシア文学、ポーランド文学。『ユートピア文学論』 44筒井康隆(1934~)小説家。SF、パロディ、純文学。『七瀬ふたたび』『夢の木坂分岐点』『文学部唯野教授』 45古井由吉(1937~)小説家、独文学者。〈内向の世代〉。『仮往生伝試文』 46後藤明生(1932~99)小説家。〈内向の世代〉。『挾み撃ち』 47黒井千次(1932~)小説家。〈内向の世代〉。『群棲』 48富岡多惠子(1935~)小説家、詩人、批評家。『冥途の家族』『中勘助の恋』 49小田切秀雄(1916~2000)文芸評論家。〈内向の世代〉を命名。『近代文学』創刊同人。『万葉の伝統』 50角川春樹(1942~)実業家、俳人、映画監督、映画制作者。元角川書店社長、現角川春樹事務所社長兼会長。 51高澤秀次(1952~)文芸評論家。『評伝中上健次』『文学者たちの大逆事件と韓国併合』 52萩尾望都(1949~)漫画家。『ポーの一族』『11人いる!』 53山本健吉(1907~88)文芸評論家。〈第三の新人〉を命名。『詩の自覚の歴史』 2│ニューアカと父の問題 内輪としての「外部」 大澤 春樹/中上に対する批評家の照応関係は、冒頭に出た『批評空間』の党派性の話でもありますね。この点を考えるにあたって、八〇年代後半の「外部」論争をサンプルに使ってみるといい。論争と言うには規模が小さいため、個別には事後的に読まれても「論争」としてまとめて顧みられることがあまりありません。だけど、八〇年代と九〇年代の批評地図の縮尺版のような論争だし、なにより、その後の日本の批評の行方をこの論争が決したと言ってしまってもかまわないとぼくは思う。  簡単に言うと、ポストモダン派と共同体派の対立です。柄谷さんは八三年の『隠喩としての建築』や、八五年の『内省と遡行』などで、「外部」をめぐる諸問題と格闘していた。それが八六年の『探究Ⅰ』では「他者」論にずれていく。その一連の高度に思弁的な議論に対して、加藤典洋54や竹田青嗣らが晦渋すぎて「悲しい」と批判。具体的には、『文學界』八八年四月号に、加藤と竹田に高橋源一郎を加えた三人による、座談会「批評は今なぜ、むずかしいか」が掲載されます。外来思想を使って読者を「眩惑」していると主張する。おもな標的は柄谷と實です。裸眼で対象に接して「なんとなく、わかるでしょ?」でいいではないかと言う。それに対して、浅田彰が反論を書く。おまえらは共同体内部の共感に閉じているにすぎない、と。  かくして、批評家たちが「外部派」と「共同体派」に区画されていきます(もちろん、「共同体派」は他称です)。「柄谷・浅田」対「加藤・竹田」というアングルですね。後者に小阪修平を加えてもいい。あるいは、これは「反吉本隆明」と「親吉本隆明」の対立でもある。エリーティズムと大衆路線と言ってみてもいいかもしれない。前者は直後に『季刊思潮』を創設、後者は『ORGAN』や『別冊宝島』に結集する。浅田は当時かなりムカついたようで、ずいぶん感情的な文章になっている。座談会でも何度か揶揄します。それが九〇年代まで尾を引いて、『批評空間』の党派性につながっていく。後者は呼ばれない。加藤は加藤で九〇年代にこの延長で『敗戦後論』(九七年)に収録される一連の論考を書き、高橋哲哉55らとのあいだで「歴史主体」論争を展開することになる。サブカルチャーや村上春樹に関する評価の分岐点もここにありました。この論争を象徴的な画期として日本の批評界が分裂する。 東 いまから振り返ると悲劇的というか喜劇的なのは、結局、外部派を自認していたほうにも外部がなかったことが、歴史的に証明されてしまっていることですね。實さんや柄谷さんは外部に向かってしゃべっているということになっていたのだけれど、その外部はどこにあったのか。 大澤 外部にせよ他者にせよ理念型なんですよね。 福嶋 しかし、変なジャーゴンの多い八〇年代の批評のなかでは、柄谷さんは相対的にわかりやすい言葉で書いていたと思いますよ。なにも勉強していない大学生のぼくでも、彼の文章は読めたので。 東 どうでしょう。八四年に『別冊宝島』で小阪修平が監修した『わかりたいあなたのための現代思想・入門』が出ている。じつはぼくが最初に現代思想を勉強した本がこれなんですが(笑)、けっこうよくできている。こういうマニュアル的に整理して、あるていど思想用語を大雑把にでも使えるようにする仕事は、共同体派もやっていたんじゃないかな。柄谷行人の文章はむしろわかりにくかったと思いますよ。 福嶋 わかりにくいというのは、道具として使いにくいということですか? 東 というより、宗教的なんですよ。「近代日本の批評」の共同討議でも「他者」がいるかいないかという話をしているけれど、他者の定義はとくになくて、「だれそれには他者がいる、しかしこいつには他者がいないのでけしからん」と断罪する道具でしかない。「絶対的他者」や「相対的他者」という言葉も使って、「武田泰淳56は意外と絶対的他者だと思う」「いや、相対的他者だと思う」みたいな話をしているけど、これじゃあふつうはついていけない。その点では『批評空間』派のほうが、共通の感覚を前提にして言葉をもてあそんでいる。 大澤 外部派のほうがよっぽど共同体的じゃないかという批判は可能ですね。 市川 当時の柄谷さんの転回点は、八五年の『批評とポスト・モダン』かもしれないですよね。同時代の思想や文学について彼はそこで、「構築なき構築」という日本的な構築のなかにあるのだとして、そこから外に出よと論じている。そういうことを書くなかで、柄谷さん自身が、自分は外部に向かっているという感覚を強めていたように見えます。 東 表題作の論文「批評とポスト・モダン」自体は、アクチュアルでおもしろい。浅田彰批判でもある。実際に浅田さんはこれを読んで態度を変えたとも言われているわけだから、ある種の緊張関係があったと思います。それこそ他者がいた。ただ、そこから「近代日本の批評」までの四年間で変わってしまう。 54加藤典洋(1948~)文芸評論家。『アメリカの影』『テクストから遠く離れて』 55高橋哲哉(1956~)哲学者。フランス現代思想。『戦後責任論』 56武田泰淳(1912~76)小説家。〈第1次戦後派〉。『司馬遷』『ひかりごけ』 他者と私生児 東 『探究Ⅰ』では「他者」という言葉が重要になってくるけど、ぼくはあれが父と子の話だと思うんです。彼の言う「教える・学ぶ」関係は、親子関係として捉えるとわかりやすい。江藤淳は「父になる」ことを説いていましたが、それに対して柄谷行人は、江藤から遁走するような感じで「父になれないぼく」をテーマにして評論を書いていた。ポストモダン派には浅田彰のような独身主義者も多い。けれどもこの時期の現実の柄谷さんは、小学生ぐらいの子どもを抱え、素朴に「父」としての悩みに直面していたはずです。そういう個人的な文脈もあって、「父になれない」という主題が抽象化して書かれたのが『探究Ⅰ』ではないかと思います。つまり『探究Ⅰ』の主題である「教える・学ぶ」関係の不可能性というのは、子どもに話が通じない、という話です。 大澤 それはおもしろい。実存の側から『探究』を読み解くわけですね。 東 ぼくも若いころは『探究Ⅰ』の議論にかなり影響されました。しかし最近は単純すぎると思っています。コミュニケーションを考えるうえで「教える・学ぶ」関係はたしかに重要だけど、もっと重要なのは、そこにはつねに第三項がありうるということ、デリダ風に言えば「私生児」が生まれうるということです。私生児というのは、父子関係に入らずに、父子の関係をずっと横で見ているような存在です。にもかかわらず、その私生児こそが、父や子の欲望をいちばん強く受け継いでしまったりする。その典型が『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフですね。イワンの父殺しの欲望を、スメルジャコフという私生児が受け継いで実現してしまう。私生児は父から相手にされず、コミュニケーションの回路から排除されているがゆえに、父の欲望をもっとも正確に受け継いでしまうという逆説がある。それはオリジナル、コピー、シミュラークルの関係性ともつながっていくし、ぼくが「二次創作」や「観光」といったテーマに強い関心を持っていることとも関連しています。 大澤 「四人称」の問題と言ってみてもよさそう。「観客」の問題とも接続可能。日本の近代文学は「立ち聞き」する語り手から出発して内面描写を獲得していきました。そのプロセスとも私生児の問題はつながるでしょうね。 市川 柄谷さんが高く評価する中上健次のいわゆる「秋幸サーガ」も、父=龍造と、私生児=秋幸の関係ではあるけれど。とくに『地の果て 至上の時』(八三年)は、龍造の嫡出子だった秀雄を殺したことで、秋幸が龍造の欲望を受け継ぐかどうか、悩む話だよね。 東 でも、柄谷さんは、「私生児」というものが感覚的にわからなかったんじゃないか。少なくとも理論には入っていない。 市川 感覚的にわからないからこそ惹かれた、ということなのかな。たしかに、東さんの言うように『探究Ⅰ』を「父と子の話」としていま捉えると、当時の限界が見えてくるとは思います。彼にとっての「他者」が、父や子あるいは配偶者のような「目のまえの他者」か、逆に「未来の他者」としての子どものような想定上の無限の他者のどちらかであるとすれば、シミュラークルあるいはネットワーク的に広がる他者や、ただ欲望とともに見ている私生児的な他者は、扱いづらいですよね。そのあたりが、次回になるけれど、NAMの話ともつながっていくのかも。 東 江藤淳との関係もこれで説明できると思う。 福嶋 ただ、『探究Ⅱ』(八九年)は固有名論が出てくるでしょう。親子関係の話が固有名論にスライドすると思って読めばいいんじゃないですか。つまり「固有名」が社会的ネットワークに放流された私生児である、と。 東 どうでしょう。ぼくとしてはそういうふうに読んだことはないな。 大澤 実存的に読み換えると、いまの話を東さん自身に適用して、東さんには自分が私生児だという自覚があるのではと、つい言ってみたくなるわけですが……(笑)。 東 たしかにぼくは『批評空間』の私生児かもしれない。柄谷行人には相手にされてないし、東大の表象文化論にも認知されない。ニューアカが生み出したスメルジャコフ(笑)。 大澤 しかし、ときとして外からはそのように見えないところが東さんの数々のジレンマを誘発している。 福嶋 血はつながっていないけど、転移は起こっている。それが大事なんですね。 東 デリダ57が言う転移とは、まさにそういうことです。 大澤 柄谷さんが言外であれ「父になれないぼく」を持続していたことに輪をかけて、周囲にいた後続の批評家たちもまた、父になれなかった。絓秀実でも渡部直己でもそうです。実際、団塊の世代やポスト団塊の世代の人たちって全般的に父になれない。というより、なににもならない。本人たちの資質やあえてする選択の問題はもちろんあるんだろうけど、同時にぼくたちの問題でもあるんじゃないか。 市川 父を「父にする」のはつねに子どもたちだ、ということ? 大澤 少なくとも、柄谷本人にはその意識がないにもかかわらず、結果的に父として機能してしまうわけですよね。周囲の人間に転移することによって。しかし、同型の現象が次の世代では起こらなかった。そもそも、父殺しの欠如が連鎖している。 市川 なるほど。ただ、東さんが言う「私生児」は本来、「父と子」みたいな直近の関係じゃなくても勝手に固有名を介して転移していくような、そういう関係ですよね。だから、父にされた側もそれに必ずしも気づかない。 東 それこそが他者です。しかし柄谷さんは、むしろそういう存在は理解できなかった。『批評空間』一八号で、ぼく、柄谷行人、浅田彰、大澤真幸というメンバーで集まったとき(「トランスクリティークと(しての)脱構築」、九八年)に、柄谷さんに「東くんの『誤配』というのは『誤解』のことで、そんなことはおれが昔から言ってる」と言われたことがあります。でも誤配と誤解はちがう。柄谷さんは、ぼくの言う「郵便的関係」を父と子の関係だと捉えていた。 市川 宛て名は合っているけれど誤解が生じる、そういう範囲のものだということかな。 東 父子のあいだでは郵便は届いている。下世話に言えば、射精が届いている(笑)。これは冗談ではなくて、デリダは誤配を説明するために「ディセミナシオン」(散種)という言葉も使うんだけど、これは、精子がばらまかれて届くか届かないかわからない状態を意味しています。だれがだれの子だかわからない状態です。だから、誤解と誤配というのはぜんぜんちがう。  具体的には、同じ大学に属しているとか、同じ学派に属しているというのは「子」でしょう。教師(父)と生徒(子)のあいだにはたしかに誤解は生じるだろうけど、それはあくまでも父子関係が保証された状態のうえであって、誤配=散種の状態とはちがう。私生児というのは、たとえば勝手に本を読んでいる読者のことです。そして、ぼくは『批評空間』という雑誌に関して、まさに「勝手に読んでいる」読者でしかなかった。そういう関係性の意味というのを、柄谷さんはほとんど考えていなかったのではないか。裏返せば、柄谷さんにとっては「文学」や「批評」がひとつの学派のようにイメージされていて、だから全員が子どもだと思っちゃったところがある。彼が二〇〇〇年代にネットで発表した「子犬たちへの応答」という悪名高い文章がある。ぼくのことも「子犬」と呼んでいるんだけど、そういう意識なんですね。柄谷さんは本を書くときに、自分の読者がまったくちがう知的文脈の読者と結びつく可能性を想像していなかった。 大澤 ひとつのシューレだと勘違いさせてしまったのはやはり周囲の問題もあるんじゃないかな。そして、ある時期までの日本において例外的に可能になっていた知的中間層の上のほうのボリュームがその種の勘違いを支えたのだろうけど、現実的には八〇年代以降は成立が困難になる。 東 一方、浅田さんはそこはきちんと想定して書いている。それは浅田彰が消費社会に適応したメディア人だということでもある。吉本隆明は、大衆をイマジナリーな超越者とみなして「大衆に向けて」書いていた。柄谷さんはそんな大衆なんていないと批判する。けれど、では柄谷行人がだれに向けて書いたのかと言えば、結局は「子犬」に向けてしか書いていない。 市川 『探究Ⅰ』的に言えば、言語ゲームのルールをどの階層に設定するかと、それが意識的か無意識的か、ということですよね。それは、吉本、柄谷、浅田の、ごくわずかだけれど確実に存在する時代的な差ではなく、彼らそれぞれの資質的なちがいということですか。 東 資質の問題はあるでしょう。「近代日本の批評」では、小林秀雄が柄谷行人に重ね合わせられています。それを踏まえて読むと、實重が「小林は『父』を描けなかった」と指摘しているのはじつに興味深い。小林は結局、母の話しかしておらず、父の話をできなかった批評家だったというわけですが、同じことが柄谷にも言えると言いたかったのではないか。柄谷は「父になれない」悩みばかりを描いている。 福嶋 『カラマーゾフの兄弟』で言うと、イワンはカント的なアンチノミーに直面しているわけですよね。AとBというふたつの命題があって、その両極に引き裂かれている。つまり決断できない。それに対して、実際に親父を殺すのはだれかというと、そうしたアンチノミーに直面していないスメルジャコフであると。そういう意味で言うと、柄谷さんはフョードル─イワン関係のなかに終始しているところはあるのかもしれない。 東 それは実践的にものちの党派性につながる。 福嶋 柄谷さんは昔からアンチノミーとパラドックスのひとですからね。 東 そういえばきれいな話に聞こえるけれど、「父になれないこと」のコンプレックスに基づいてパラドックスを連発する戦略にはマイナス効果も大きいわけで、そこはきちんと批判されるべきでしょう。NAMの失敗とか、なかったことになっているし。 57デリダ Jacques Derrida(1930~2004)フランスの哲学者、国際哲学コレージュの初代議長。『エクリチュールと差異』 『閉された言語空間』の影響 東 ところで、江藤淳もまた、父になることの重要性を説きながら、同時に父になれない不能性をテーマに批評を書き続けていたひとです。その点では江藤と柄谷は似ている。 市川 江藤さんと柄谷さんの「父になれなさ」は、戦後の言葉の問題でもあると思います。江藤淳に『閉された言語空間』(八九年)という本がありますよね。そこで言われているのは結局、日本はすでに言葉を奪われている、という話です。これは「批評とポスト・モダン」のなかで柄谷さんも言っていますし、鶴見俊輔なども言っていたから、八〇年前後の知識人たちの共通了解だったのかもしれない。言葉を奪われているというのは、言語ゲームのルールを設定する権利を奪われているということですから、その意味では「父になれなさ」は、江藤さんや柄谷さん個人の問題であるとともに時代的なものでもある気はします。 大澤 江藤の「アメリカの影」問題ですね。その後、九〇年代後半からゼロ年代にかけて大塚英志がこだわり続けていくテーマです。有名な話だけど、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」(八〇年)が文藝賞を受賞したとき、選考委員だった江藤淳はこれを推した。その直前には、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を酷評している。両者の差異はなにか。江藤は言語空間の変成への自覚に批評性を見出して、その有無をスケールとして評定している。それが八〇年代以降の江藤の文学に向かうときのスタンスになる。田中の小説には、アメリカなしにはどうにもこうにも経済的にやっていけないという弱さへの自覚がある。そこに批評精神を見出すわけですね。他方、村上龍の小説は占領/被占領の関係を前提に「ヤンキー・ゴウ・ホーム!」と素朴に言ってしまうだけ。批評性が欠如している。江藤はその無自覚さに苛立つ。これは加藤典洋『アメリカの影』(八五年)による整理でもあります。  当時の江藤の仕事としては、『落葉の掃き寄せ』(八一年)や『自由と禁忌』(八四年)、あるいは市川さんが挙げた『閉された言語空間』がありますね。八〇年代の言語空間に対する無自覚ぶりを再認識すべく、一九四六年の検閲問題にアクセスしたのはよかった。江藤の手つきを実証的に批判することは重要ですが、簡単ですね。実際にそれ以降、プランゲ文庫などの資料がどんどん掘り起こされ、錯誤が指摘されている。ただ、あのタイミングでばんっと打ち出した点で評価してみる必要がある。結果的な影響先が方々にあるわけですが、その展開がまずかった。 東 どちらかというと、ぼくが評価したのは逆にそこなんですね。江藤淳の精神はいまもネトウヨに生きている。『閉された言語空間』を読み返してみると、驚くほどネトウヨと似た主張が書かれています。われわれはネトウヨを相手にしているつもりで、じつは江藤淳を相手にしている。裏返せば、江藤の影響力はそれほどまでに強く生きているわけです。  たとえば江藤さんはこの本で、戦後の左翼はある種の偽史を信じていると指摘しています。偽史はアメリカによって作られたものなのだけれど、ボケた左翼はその起源すら忘れている。だからわれわれは、図書館に籠もり、資料にあたって偽史の背後にある真実を掘り起こさねばならないと。これはまさに、ネットで検索ばかりやっているネトウヨ的な行動原理でしょう。 市川 ネトウヨ的な考え方は、ある種の自己疎外的な感覚を伴うんですよね。正しい歴史からわれわれはパージされているから、それを改め本来的な自己としての国家を取り戻さなければならない、みたいな。 東 そう。だからマスコミ批判にも結びつく。『閉された言語空間』は、日本の戦後メディアは真実を忘却している、だからわたしたちが真実の歴史を発見する必要がある、そしてそれが日本人の誇りの回復につながる、というネトウヨ的な論理を非常にクリアに提示している。江藤のこの本は、その点できわめてアクチュアルです。いま評論の世界では江藤淳の名をほとんど聞かないけれど、じつはわれわれが直面し、頭を悩ませているネトウヨのパラダイムは彼によって作られているんですよ。その点で絶対に江藤の名は外せない。八〇年代のニューアカ=ポストモダン系の「日本こそ最先端のポストモダンだ」的な言説も、クールジャパンあたりにかたちを変えて生き残っているとは言えるけれど、江藤淳の浸透ぶりにはかなわない。 福嶋 いや、江藤さんは一応ネトウヨとはちがうんじゃないですか。江藤淳はひとまず「成熟」のひとですよね。成熟とは、自分の限界を受け入れる、喪失を受け入れるということでもある。別の言い方をすれば「不純」になることですね。 東 むろん江藤とネトウヨはちがいますよ。でも、それこそネトウヨは江藤の「私生児」として生まれたと言えるんじゃないか。少なくとも根幹の論理は似ている。それに純粋にテクストとして読んでも、『閉された言語空間』にはあまりそんな倫理はないと思うな。この本は、プランゲ文庫を掘り起こせば日本人の誇りは回復できるという単純な希望で貫かれている。 福嶋 本来の江藤淳は、日本がいまなにをなくしつつあるのかに対して非常に鋭敏だったひとだと思う。たとえアメリカの文化的植民地支配から解放され、「閉された言語空間」を破壊できたとしても、本当の日本が返ってくるわけではない、そういう断念とともにあるのが「成熟」ですね。いまのネトウヨ的なものにはそういう成熟はない。ただ、ある時期から江藤さんはその成熟という枠組みを自分で忘れて、ナショナリスティックに「日本を取り戻す」的な方向に突っ走っていたところはたしかにある。それがめぐりめぐって、いまのネトウヨたちに影響を与えているのかもしれません。 東 たとえば『閉された言語空間』の第一〇章では、天皇に関するドキュメンタリーでの言葉狩りについて触れられている。天皇が作った歌は本来は「お歌」ではなくて「御製」と言わなくちゃいけない。けれど「御製」は使えない。戦後はそういうコードが作られていて、天皇関係の用語はすべて、ふつうの日常用語に直すことになっている。これを検閲と言わずしてなんと言うのか、と江藤は憤る。まったくそうだと思うけれども、江藤はそこでメディア批判をひとしきりしたあとに、「言語をして、国語をして、ただ自然の儘にあらしめよ」と書くわけです。 市川 でも、そこで江藤淳の言う「自然の儘の国語」ってなんのことでしょうね。そんなものがあるはずはないことは、江藤もわかっているだろうから、ある種シニカルに「自然の儘の国語」なんてないのだという反語として読むべきだと、實さんなら言うのでは(笑)。 東 いや、あれは反語とは読めない。もっとシンプルな話でしょう。江藤は検閲についてもふたつの検閲を区別している。戦中の日本では検閲の存在をだれもが知っていた。それはいい検閲だったと書いている。 市川 「問題を浮上させるための検閲」だったと書いていましたね。だからよいのだ、と。 大澤 メディアの側がそれを学習することによって駆け引きが発生する。痕跡も残る。ときに、ねじれたかたちで娯楽性もそこに付与されもする。ルールが明示的なんですよね。 東 他方で、GHQの検閲は「検閲そのものの存在をも隠す検閲」であり、接触した出版人がすべてその内部に取り込まれることになる。これは悪い検閲だというわけです。『閉された言語空間』には、GHQと接触した人間はみな、目をえぐり取られて、GHQ製の義眼を嵌めこまれているという有名な表現があります。これはどう読んでも、そういう条件を受け入れることによってこそわれわれは成熟できるのだというような屈折した話ではなく、義眼を外し、生身の目を取り戻そうというプログラムへの呼びかけです。 福嶋 ちなみに、鮎川信夫58と吉本隆明に『文学の戦後』(七九年)という対談集があって江藤淳批判をしてるんですね。鮎川に言わせると、江藤のその話はわからなくもないが、ふつうに考えて戦中の検閲のほうがはるかにひどかったんで、資料だけで振り返るとおかしなことになる、と。 東 そりゃそうでしょう(笑)。でも、江藤の主張は、戦中の検閲が現実にいかにひどかったとしても関係ない、独特の論理なんですよね。そこもネトウヨ的です。 福嶋 おもしろいですね。ただ、細かいことで恐縮ですが、いまネトウヨはアメリカが好きだと思いますよ。 東 たしかに。その点では、本来の江藤淳は、反米保守の宮台真司や小林よしのり59に引き継がれている。 大澤 他方、エビデンス主義の悪しき側面だけはネトウヨに受け継がれる。 東 『閉された言語空間』は、いま風に言えば「ソースあります」ばかりの本です。同じ八〇年代の江藤の本でも、『近代以前』(八五年)なんかは、エビデンス主義にはほど遠く、あくまでも文芸評論家として儒学の歴史を再構成しているわけで、まったく印象がちがいますね。 福嶋 『近代以前』では、戦後の文化破壊と関ヶ原以降の文化破壊を重ねているわけですね。つまり江戸文芸について語っていることが、そのまま戦後の文化の問題に二重写しになる。たしかに、そういう繊細さは『閉された言語空間』にはないでしょうね。 東 『閉された言語空間』はじつに単純な本なんですよ。とにかく日本がまずいのはGHQのせい、それはプランゲ文庫に行けばわかる、具体的なソースもある。それだけ。だからこそ、逆に力を持った。 大澤 そのソースもじつは怪しいんですけどね。とにもかくにも、批評家が膨大なアーカイブやデータベースに中途半端にアクセスすると、たいていろくなことにならない(笑)。あるていどのトレーニングを積んで、免疫をつけた研究者ならば多少は冷静に対処できるんだろうけど、批評家の場合は資料そのものに触れ慣れていないから、それだけでもうテンションがぐわーっと上がってしまって調子を崩しがち。網羅的な精査を欠いたまま部分へと短絡してしまって、それを運命的な発見だと思い込んでしまう。もちろんそれが批評的な芸にもなるわけですが。実際、この本の江藤の筆致はたびたび正気を失いかけている。 東 そうなんですよね。「ウォー・ギルト・インフォメーション」に触れるあたりはものすごい。ひとつ引用します。「つまり、正確にいえば、彼らは、正当な史料批判にもとづく歴史記述によって教育されるかわりに、知らず知らずのうちに『ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム』の宣伝によって、間接的に洗脳されてしまった世代というほかない」などと書いている。これは本当に江藤淳の文章なのか。 福嶋 押井守60の偽史っぽい(笑)。 市川 しかも、ネトウヨ的なテンションの上がり方で言えば、江藤さんは恋文を米軍が検閲したことに対して、非常に情緒的に怒るわけですよね。こんなものまで検閲するのか、と。気持ちはわかるけど、そこまで怒ることかと。 福嶋 でも、それはすごく江藤的ではありますね。つまり、江藤さんのいいところは──それが弱点でもあるんですが──、大文字の歴史を身体的・家族的・エロス的に捉える能力がすごく発達しているところでしょう。だから、恋文とかに反応するわけだし、大塚英志さんのように「少女フェミニズム」の路線で江藤を読むこともできるわけですね。たとえば、歴史に身体性を与えるという点では『近代以前』とかはよくできていると思います。ただ、そういう柔らかい身体性が逆噴射するとネトウヨ的になってしまう。 東 じつはいま引用したのは「おしん」(八三~八四年)や「山河燃ゆ」(八四年)への批判なのね。「彼らはたしかに歴史を描いているが、すでに洗脳されている!」と怒っている。いずれにせよ、これはいまにいたるまでたいへんな私生児を産み落とした本でしょう。江藤淳はこの点では父になった。 福嶋 あと、いまに関係するところで付け加えると、大澤さんの挙げた『自由と禁忌』の丸谷才一61批判もけっこう重要ですね。丸谷才一は日本の戦後社会には肯定的だった。戦中の日本は大東亜共栄圏だの八紘一宇だの巨大な理念を掲げたのがよくなかった、目的がなく、ただなんとなくぼんやりしている戦後のほうがよい、と。丸谷は古典の研究者ですが、感性自体は脱社会的なオタクとも遠くない。江藤はそれに対して、日本はぼんやり存在しているわけではなく、アメリカによって存在させられているのだと批判する。これは沖縄の問題も含めて、いまだに解消されていない論点でもあるし、一種のオタク批判として読めなくもないと思います。 東 オタク的なものをどう考えるかというのも、また父の問題の変形ですね。そちらは江藤淳から大塚英志に引き継がれていくことになります。 58鮎川信夫(1920~86)詩人、評論家、翻訳家。詩誌『荒地』同人。「橋上の人」 59小林よしのり(1953~)漫画家、評論家。『おぼっちゃまくん』『東大一直線』『ゴーマニズム宣言』 60押井守(1951~)アニメーション作家、映画監督。『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』『機動警察パトレイバー』 61丸谷才一(1925~2012)小説家、評論家。『裏声で歌へ君が代』『忠臣藏とは何か』 3│メディア論の視点から 文学=批評の終わり 大澤 すこし視野を広げておきましょう。昭和期の大部分において、批評の世界の中心には自明のものとして文学が鎮座していた。だから、批評史もスケッチしやすい。文芸批評史が批評史としてほとんどそのまま通用してしまうからですね。それは文芸や文壇に牽引されるかたちで奇妙な進化を遂げた日本型ジャーナリズムの構造的な帰結でもありました。ところが、七〇年代半ば以降に相当する批評史は途端に困難になる。史的叙述の定番も存在しない。文芸批評が批評の全体性を体現しえない。そうした時代の象徴が、七〇年代末の現代思想ブームであり、それに続く八〇年代前半のニューアカブームでした。  そのとき、判断はふたつに分かれる。批評が消失したとみなすか、拡散したとみなすか。むろん、ぼくたちは狭義の文芸批評に限定しませんので、「拡散」と考えます。批評の場所が拡散した。では、その場合、どこまで拡散したのか。ここで切断の問題が発生するわけですね。つまり批評の外延が問われなければならない。批評史の討議である以上、「批評である/ない」の線引きを遂行的に随時決断していくことが求められる。とすると、ぼくたちは「近代日本の批評」のふるまいをいくらか再演してしまうことになるのかも。 東 いや、再演にはならないと思う。柄谷さんたちが「近代日本の批評」でやったのは、批評をあくまでも文芸の枠のなかで捉えて、いいものと悪いものを分ける作業だった。ぼくたちの場合はどちらかというとジャンルそのものを再定義しようとしている。 大澤 もちろんそうです。けれど、それにしても決断的な線引き行為からは逃れられない。ともあれ、「文芸批評=批評」という図式が成立しない以上、他ジャンルの批評をどこまで繰り込むかが問題となります。ですが、それ以上に、アカデミズムの動向をどこまで視野に入れるべきか。これは日本の独特な出版構造とも関わっています。言うまでもなく、学術出版と通俗読み物の中間帯には、知的な領域にアクセスしようとする一般読者層が膨大に広がっている。二〇年代以来進行してきた出版と知の大衆化のプロジェクトの帰結です。だから、高度にアカデミックな成果がジャーナリズムに広く流通可能となる。新書や講座ものの存在がそれを象徴している。日本以外ではなかなか想定できない環境です。  その結果、七〇年代後半以降の批評を整理する際に、それ以前の批評史とのあいだに齟齬を来してしまう。だから、本来はそれ以前の批評概念こそを組み替える作業が必要なんだけれど、「近代日本の批評」がそうであるように、しばしばそこを文学的に乗り越えてしまう。いずれにせよ、現代思想ブーム以降の批評のリストにはアカデミックな仕事が入ってこざるをえない。ジャーナリズムで完結しないんですよね。今回の年表作成の苦労の大半もこの点に集中しました。遠近感が事後的にはわからなくなる。つねに遡行的に批評として見出すほかなくて、リアルタイムにおいては批評として流通していなかったアイテムもぼくたちは批評として扱うことになるでしょう。もちろん、それでいい。 東 「近代日本の批評」でその問題を投げかけているのは、三浦雅士だけですね。三浦さんは『現代思想』の編集者をやっていたので、ジャンルの境界についてすごく考えていたんだと思う。彼は山口昌男と大江健三郎の話をしています。このふたりは同時代に別々のことをやっていたけれど、共通性が見える、だから結びつけるのが大事だと三浦さんは言うのだけれど、柄谷さんや實さんは、「結局、山口よりも大江のほうが頭がいい」と答えて終わらせてしまう。つまり、三浦さんが新しいプラットフォームを作らねばという意識のうえで行った問題提起が、柄谷と實においては、思想に対する文学の優位というふうに処理されている。 大澤 戸坂潤の文学主義批判が議題には上るんですけどね。 福嶋 戦前は哲学の地位が高かったので、実際、総合誌の巻頭言なんかでも高坂正顕が書いていたりするわけですよね。ただ、戦後になると大東亜共栄圏のイデオローグだということになって、哲学も宗教も没落する。その空位を補うのに、ひとまず文学が必要だったというのは、ぼくはその限りにおいては理解ができる。ただ、その文学もやがて硬直化してしまったわけですね。 東 七〇年代以降というのは、哲学者、社会学者、文化人類学者、心理学者といったジャンルの書き手が、批評の世界に大量に流入した時代です。むしろ批評なるものは、他ジャンルの書き手に寄生することで、かろうじて生き残っていたところがある。 大澤 そうした局外性の定期的な導入による全体の活性化こそが批評の機能と考えられてもいた。境界侵犯の欲望に支えられた営為でもあったはずです。『批評空間』以後は手垢にまみれることになる表現を用いるならば、文字どおり、「臨界=危機的」な思考としてそれは存在します。だから、事後的に他ジャンルの寄り合いで成立するのは当然と言えば当然なんですよね。 市川 批評がそもそも、対象がないと成立しないジャンルですからね。対象がなくてもありうるのが哲学で、対象しかなくても書けるのが文学だとするならば、批評はそのあわいにある。だからこそ、当否はともかく、角度によっては文学の優位が語られるのでしょう。 東 八九年の段階で文学の優位を主張するのは、本当は難しかったはずですね。 市川 柄谷さんたちは、だからこそあえて言いつのったという感じもしますね。 福嶋 さっきも言いましたけど、八〇年代の堕落という認識があったんだと思う。 大澤 現時には文学と名指されていない場所にこそ文学がある、みずからそれを創造していく文学的想像力の拡張が全体性を担保する、そんな構造になっている。批評の行いとしてこれは正しい。柄谷行人は「近代日本の批評」のなかでこう発言しています。「ぼくにとって七五年以降の批評というときには、直接の相手は文学ではなくなってきた」。そして、「批評に関して自覚的になったのは、七五年以降」である、と言っているんですね。裏を返せば、こう言うのは、それだけ文学の優位が前提と化していたからこそ。あと、今回の討議がなぜ「一九七五年」を出発点に設定するのか、という疑問に対してはとりあえずこの柄谷さんの発言を返しておけばすむんじゃないでしょうか。 東 七五年というのは、柄谷さんにとってなんの年だろう。 大澤 なにをおいても、「切断」を図るべく、海外へ向かった年ですよね。イェール大学で日本文学の講義をする。そのときの着想が『日本近代文学の起源』につながる。あとは、福嶋さんが触れた「マクベス論」を冒頭に含む論集『意味という病』が出る。それから、『群像』での連載「マルクスその可能性の中心」が終わった直後ですね(単行本化は七八年)。文芸誌で哲学的な仕事を遠慮なく展開する。この転回は、さきほど言ったように、八〇年代後半になって加藤典洋たちに批判される遠因にもなる。ぼくたちが出発点としていま扱っている「一九七五年」は、柄谷さんにとって決定的な切断線だった。それはまちがいない。 東 もうひとつ、柄谷さんは七五年よりあとの小説はあまり扱っていないんじゃないか。 大澤 七五年を下限に「内向の世代」が終わりますから。とはいえ、アメリカから帰ってきて、『東京新聞』で文芸時評を担当して、『反文学論』(七九年)にまとめてはいるんですよね。それがコンテンポラリーな文学から距離を取ることにつながっていく。 東 七五年以降は、SFやミステリーなど、サブカルチャーが台頭し、純文学の輪郭があいまいになっていく。角川映画のようなメディアミックスも出てくるし、漫画の力も強くなっていく。文学は想像力の震源地ではなくなってしまった。 大澤 文壇から集団的な凝集力が急速に瓦解していき、線状の文学史を形成しえなくなるタイミングとも相即している。 市川 その意味では、さっき筒井康隆や小松左京と同時代として名前の挙がった村上龍も、純文学の書き手であると同時にSF的な想像力も担っていたひとですよね。のちの『五分後の世界』(九四年)なんかもそうだけれど、彼はそれまでの「純文学」の世界から出てきて、しかしそのフォーマットの無効を体験してちがうかたちを取らざるをえなくなった、最初の世代なんだと思います。そしてそこに、村上春樹が出てくる。 大澤 村上龍は「内面」というフィクショナルな先験性を欠落させた描写において最初から徹底していた。よく指摘されるように、主人公を固定的なカメラアイに専念させるわけですよね。それは映画的でもある。 市川 そうですね、いったん俯瞰視点にして、そこに主体の内面を比喩的に飛ばしてしまう。それに対して春樹は、初期作品で無意識に内包されるアメリカ性を指摘したように、つねに主体性を裏返しにして、むき出しの外部にじつはしようとしています。『ねじまき鳥クロニクル』(九四~九五年)の皮剝ぎの話なんかに象徴的だし、その反転が例の井戸だったりするわけで、内側と外側がメビウスの輪的に結びつく。一見、近代的主体を描いていながら、近代的内面なんてそんなもんだよ、と同時に言うわけです。だから「やれやれ」と。『羊をめぐる冒険』(八二年)だって、背中に星がついた羊を手にした者が世界を制するなんて、そのままSFですよね。 大澤 明治二〇年前後以来、近代小説に課せられ続けたミッションからの切断がそこに露呈したわけですよね。『日本近代文学の起源』が明晰に分析してみせた「内面」構造がすっかり捨象された作品たちが続々出現する。それによって、柄谷さんは文学を扱わなくなっていく。 市川 そこは八〇年代の江藤淳と同じだと思います。彼は梅田香子62の『勝利投手』(八六年)という、ライトノベルのはしりのような小説を、自分にはわからないが、わからないからすばらしいと言って推しました。それらの震源地は、六九年の庄司薫にあるかもしれないけれど、七〇年代末ぐらいから加速していきますよね。 東 ちょうど同時期、中島梓が七七年に「文学の輪郭」という評論で群像新人賞を受賞しますよね。そのあと『ぼくらの時代』を栗本薫名義で出し、八〇年代には『グイン・サーガ』で成功を収めることになる。七五年から八九年という時代を考えると、中島梓=栗本薫はとても重要な存在です。文学が多様化し、境界がなくなり、読者の像も急速に変貌し始めている、その時代の空気を体現している。柄谷さんは、そういう存在からは目を逸らしていた。『反文学論』も内向の世代の話が多いですね。 大澤 けれど、『反文学論』では、中島梓が小説の「外」にある漫画や戯曲を文芸批評で扱っている点を高く評価しているんです。ただ、その後、批評家たちは中島梓=栗本薫をうまく位置づけられずにきた。 東 彼女はのち『コミュニケーション不全症候群』(九一年)という先駆的なオタク論も出版し、他方でBL文化を立ち上げる仕事もやっている。中島梓が女性だということ、栗本薫としても活躍していたということが事態を見えにくくしているけど、大塚英志と並べて論じられるべき存在でしょう。 市川 それらの時代でほかに漫画を論じていたのはだれだろうと考えると、吉本隆明と鶴見俊輔なんですよね。吉本さんは「マス・イメージ論」の最終回で、絵をいっさい引用しないでコマ配置とネームの関係だけを論じるというアクロバティックなことをしながら、言語と画像の位相について論じているし、鶴見さんにいたっては『戦後日本の大衆文化史』(八四年)のなかで、漫画は貧しいひとたちがやるものだ、なんて驚くべき暴言を残しながらも、つげ義春63や竹宮惠子64の作品を論じていたりする。その意味では、七〇年代末から八〇年代にかけては漫画をどう捉えるかが世代によってまるでちがうことが可視化されてきた時代ですよね。 東 ビジュアルカルチャーが伸びていく時期ですね。その流れで、批評と文学の境界という点で大事なのは高橋源一郎かな。「さようなら、ギャングたち」が八一年。 市川 鳥山明65のパロディ『ペンギン村に陽は落ちて』(八九年)も彼です。そんな高橋さんの登場は、全共闘の時代を孤塁を守って延命させてきた『展望』休刊の三年後なんですよね。つまり、新しい革命形態の居場所として、高橋源一郎と革命小説としての「ギャングたち」が出てくるわけです。 大澤 わかりやすいことに、それを見出したのが吉本なんですよね。『海燕』での連載「マス・イメージ論」の第一回で、『群像』に載ったばかりの「さようなら、ギャングたち」を絶賛。それで、同作の単行本版の裏表紙には吉本の推薦コメントが載ります(もうひとりは瀬戸内晴美66)。「現在までのところポップ文学の最高の作品だと思う」という有名な文言ですね。その際、両村上だけではなく、筒井康隆や栗本薫などの達成が無意識に踏まえられていると評したことは、さきほどの話とつなげて注目すべきでしょう。 62梅田香子(1964~)小説家、スポーツライター。『勝利投手』で文藝賞佳作。『スポーツ・エージェント』 63つげ義春(1937~)漫画家。雑誌「ガロ」を中心に活躍。『ねじ式』『無能の人』 64竹宮惠子(1950~)漫画家。『風と木の詩』『地球(テラ)へ…』 65鳥山明(1955~)漫画家。『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』 66瀬戸内晴美(1922~)瀬戸内寂聴。小説家、天台宗の僧侶。『夏の終り』現代語訳『源氏物語』 サブカルチャーと批評──吉本隆明と浅田彰 大澤 「さようなら、ギャングたち」はフラグメント形式の小説です。これはさすがに極端であるにせよ、内省的反応を欠落させた断片的情景が、テレビのザッピングのようにばんばんシャッフルされていく形式は、七五年以降の文学の特徴のひとつでもある。村上春樹の「風の歌を聴け」が七九年。田中康夫67の「なんとなく、クリスタル」が八〇年。「さようなら、ギャングたち」が八一年。そこには柄谷さんの「告白」図式からの切断がある。 市川 『日本近代文学の起源』が単行本化されるのが八〇年ですね。もとになったイェール大学での講義は七五年から七七年ですから、ちょうどその時期ではあります。 大澤 先ほど挙げた『マス・イメージ論』の単行本化は八四年ですが、連載開始は八二年ですね。 福嶋 ぼくは『マス・イメージ論』の言語論は、けっこういいと思っています。吉本さんは『初期歌謡論』で過去の歌謡について書いている。簡単に言うと、日本語の歌というのはエコーのように重なっていく性質がある。言葉と物が一対一でシンプルに対応しているのではなく、縁語その他の技法を通じて、言葉の上に言葉がひだみたいに折り重なっていくのだ、と。それと同じ枠組みで高橋源一郎や少女漫画を読んでいるのが『マス・イメージ論』です。たしかに少女漫画の言葉の使い方もエコー的なんですよね。ひとつの言葉が単独で存在しているんじゃなくて、そこに内面の言葉が自由に折り重なって、レイヤーがどんどん増えていく。そのあたりは漫画論としてもいいし、日本語のアナーキーなところもうまく捉えていると思う。大塚さんの漫画論にも影響を与えていますね。 大澤 しかも、漫画だけじゃなくて、CMやテレビ番組やドラマも文芸誌の批評のなかで扱ってしまう。高橋源一郎がのちに文芸時評をやるときには参照項のひとつになっていたはずです(『文学がこんなにわかっていいかしら』、八九年)。吉本さんはこのとき還暦間際だったけれど、八〇年代の高度消費社会についていこうとかなり踏ん張っている。「〈出現〉〈転換〉〈消滅〉がす早くおこなわれるというイメージ様式は〈意味〉の比重を極端に軽くする」なんて整理するわけですが、なにより、彼の文章自体が断片的なんですよね。散漫に焦点が切り替わる。第一回「変成論」の冒頭がカフカの『変身』論というあたりが象徴的。急に別の題材に飛んで、延々展開されて、また飛ぶ。 福嶋 日本語のいい加減なところを、文体でも内容でも体現している。 大澤 そう、日本語のずるずるした部分を表現したと見ることもできる。ただし、漫画の図像やドラマのカメラアングル、ポップスのメロディーなど言語以外の要素は消去せざるをえない。カルチャー批評としてはかなり限界を抱えていた。ともあれ、八〇年代の小説やポップカルチャーの言語形式を批評しつつ同期的に実践してはいます。 市川 ただ、創作ならまだしも、ロジックでそれをやられると辛いのもたしかで、『マス・イメージ論』では保たれていたギリギリのバランスが、続編といえる『ハイ・イメージ論』(八九~九四年)では完全に崩れていますよね。とはいえあの「斬新さ」は、文芸誌のなかにもそのスタイルを堂々と持ち込めたことも含めてであって、いい時代だったんでしょうね。フランスのような「文学先進国」ではそうした実験はとうにあったにしても。 大澤 そこに批評性があった。その種の実験はすっかりなくなりましたね。八〇年代のこういう部分は現役の編集者に見習ってほしい。融通無碍で、もっと適当でいい。註が大量についた批評がいくつも並ぶのは、やっぱり文芸誌の文法なり役割なりがわからなくなっている証拠でしょう。まぁ、そうは言っても、吉本の文章自体は端的に読めないんだけど。 福嶋 そのとおりですが、吉本さんは九九パーセントくだらないことを言っていても、一パーセントすごく輝かしいことを言う。そこはバカにはできない。ふつうの物書きはその一パーセントも言えないわけだから。 市川 詩人ですからね。輝く一行は得意でしょう。 大澤 日本の詩的批評の系譜はつい視界から脱落しがちですね。手に余る。それと、今回、年表を作成してみて再認識したのはなんといっても吉本の著作の膨大さ。毎年三冊も四冊も出している。批評家の自立の問題を考えるうえで重要な存在ですね。大学に所属せず、特定媒体に囲い込まれることもなく、自前のメディア(『試行』)を出し続ける。それが『言語にとって美とはなにか』(六五年)などの代表作を産み落としもする。 東 七〇年代、八〇年代と消費社会が全面化し、サブカルチャーの力が強くなって、批評がハイカルチャーから外に出ざるをえなくなった。漫画評論家やアニメライターが登場したのもこの時期でしょう。テレビゲームも現れて、中沢新一がゼビウス論を書く。そういう拡散状況のなかで、吉本さんは時代にむき合っていたのはまちがいない。そこはもっと評価されるべきです。 市川 『マリ・クレール』(八二年創刊)のように、野球を論じよう、ファッションを論じようという散発的な試みはあったのだけれど、なぜかそこでいちど止まってしまったんですよね。『季刊思潮』も、浅田さんが初参加した三号目では、中谷明彦68というレーサーや自動車評論家の清水和夫69を呼んで、「〈動〉の世界:タイヤ・レース・ラリー」という座談をしたりしている。 東 けれども『批評空間』でダメになってしまった……という話はもういいとして、浅田さん自体は本当はちがった可能性を持っていたひとでしたね。最近、ももいろクローバーZといっしょにテレビ出演していたようだけど、ああいうサブカルチャーとも戯れる「軽薄」なところこそ、本来の浅田彰のすがたです。当時出版された『「浅田彰」──「知」のアイドルの研究読本』(八四年)という本があるのだけど、この表紙なんてすごい。 一同 (笑)。 福嶋 浅田さんの『ヘルメスの音楽』(八五年)もいいですね。いまや芸術批評というのは専門家の仕事ということになってしまっているわけですが、小林秀雄以来の横断的批評の夢がこの本では実現されている。 大澤 ニューアカは基本的にアマチュアリズムなんですよね。「スキゾ」とはそういうことなんでしょうけど。 東 そういったいい意味での軽薄さが、『批評空間』では失われてしまう。いま振り返ると、九〇年代の浅田さんはちょっと無理をしていた感じがします。いずれにせよ、八〇年代の吉本は、批評のなかにサブカルチャーを組み込もうと努力していた。それは、ハイカルチャーにサブカルチャーを「アプロプリエイト」するというか、領土化しようという動きでもある。けれども九〇年代には、『批評空間』が覇権を握ったために、批評の主流がサブカルチャーから手を引いてしまった。その領土化の動きが復活するのは、ゼロ年代を待たなければならない。 67田中康夫(1956~)作家、政治家。元長野県知事。『ファディッシュ考現学』 68中谷明彦(1957~)自動車評論家、レーサー。『みるみる上達するドラテク大革命』 69清水和夫(1954~)自動車評論家、レーサー。『クルマ安全学のすすめ』 雑誌の時代 東 ところで、八〇年代はサブカルライターの時代でもありますね。批評家ではなくライターや編集者が増え、そのなかから大塚英志のような個性的な才能がどんどん出てくる。 市川 その象徴が大塚さんのいた『漫画ブリッコ』であり、浅田さんたちが編集委員を務めた『GS』ですよね。あらゆる種類のテクストやページが作られて、その組み合わせが編集の妙にもなる。そのためには、書き手も作り手も、数が多いほうがいいわけです。 大澤 中森明夫はその両方に書いていましたしね。なにより、八〇年代は「雑誌の時代」でした。その意味を考えるうえで参考になるのが、杉山平助が文芸復興の直前に発表した「批評の敗北」という論説です。商業化の昂進につれ商品数が激増し、消費者の購買選択に困難がともなうようになる。原理的には、職業的な批評家が誕生するのはここにおいてです。価値のジャッジメントの負担を代行する存在です。ぼくたちはそこで「作者─批評家─読者」の三者関係が形成されると考えがちだけど、実際には出版社が介在してくる。その結果、出版社と批評家の対立関係が生まれる。ともに余剰として後発した存在ですから。で、批評家はこの対立に「敗北」する、と杉山は結論する。批評もまた出版社を介して商品となる以外にないからですね。出版社は自社の利益や思惑に反した批評を排除することができる。なにを言いたいのかというと、精神的な自立の構造の問題です。八〇年代に話を戻して、雑誌の時代にあって批評は敗北していたのか。 市川 批評と商業の競合という意味では、「批評的である」ことが商品になった時代など歴史上ごくわずかしかなくて、市場成立以前はそもそも売れようがないし、市場が強くなれば批評性は邪魔者になる。それが奇跡的に両立していたのが、じつは「雑誌の時代」だったんじゃないかと思います。メディアの数が、すくなすぎも多すぎもしなかった時代。それは、ちがう言い方をすれば、大雑把な広告の出稿で雑誌が成立していた時代ですね。批評自体はもちろんなにからも自立するべきだけれど、それが「シーン」を作るには、見えないところのリソースが支えている部分は少なからずあったと思います。それを敗北と呼ぶべきかどうかは別ですが。 大澤 広告主にも、雑誌編集の精神的位相までがっちり拘束するタイプと、好きにしていいよと放任するタイプとがある。 市川 『季刊思潮』の福武書店(現ベネッセ)は、『海燕』も支えていたわけだしね。それに対して『批評空間』の第Ⅱ期以降は、経済的に厳しくなっていったのはまちがいないでしょう。 福嶋 ただ、雑誌はリアルタイムに接していないと、文化的な価値がよくわからない。ぼくもこのあたりはぜんぜんフォローできていなくて、文化的な連続性や伝承という観点からすると、雑誌が強い時代というのは脆弱でもある。 東 雑誌文化を象徴する存在としては、じつは『週刊本』シリーズ(八四~八五年)がすごい。質の悪い紙で刷られた読み捨て形式の定期刊行物。これ、いまの学生はほとんど知らないと思うけど、衝撃の軽薄さだよね。でもニューアカ勢は勢ぞろいしていて、創刊号は山口昌男だったりする。どういう採算で成立していたのだろう。 市川 ひたすらしゃべっているのを起こして、ろくに校正もしていないからでしょう。読むと、あまりにスカスカでかえって笑える。現代で言うと、質の悪いブログに当たっちゃったような気分。なのに、というかそのぶん、ラインナップは日比野克彦70、坂本龍一71、中上健次、橋本治72、島田雅彦73、尾辻克彦74、鴻上尚史75、フェリックス・ガタリ76……と豪華。しかもこの当時で六八〇円というのは、けっこう高いんですよね、じつは。 大澤 だけど、まさに八〇年代の「軽薄短小」を体現したようなメディアで、ラインナップや内容に粗密はあるんだけど、だからこそ、この時代の象徴的なアイテムを挙げろと言われれば、ぼくはこれを挙げます。編集者の中野幹隆のセンスだけで突破している。坂本龍一『本本堂未刊行図書目録』なんかすごくいい。 福嶋 『週刊本』との対比で言えば、七〇年代に高田宏の編集で、「エナジー対話」という叢書が十数冊出ています。エッソ・スタンダード石油の広報部が出しているんですが、こちらは総じてレベルが高い。 大澤 先行する雑誌『エナジー』も含めて、梅棹忠夫や多田道太郎77、加藤秀俊、上山春平78といった京都方面の書き手が多い。人的なネットワークに搦め捕られている感じが多少あるんじゃないでしょうか。 福嶋 そうかもしれないけれど、これはやはり高田さんが優秀だったのだと思う。 大澤 もちろんそうです。高田本人が回想しているけど、新京都学派の媒体と言われながら、実際のところ、京都の寄稿者は全体の三割ほど。一般的に依頼先が東京に一極集中するなか、それだけ呼んできたことは偉かったですよ。 東 ぼくも、鈴木忠志と中村雄二郎の「エナジー対話」(『劇的言語』)を朝日文庫版で読んでびっくりしました。七六年にいちど単行本化されたものが底本なんですが、その部分はとてもおもしろい。ところが、最後に載った文庫用の追加部分がぜんぜんダメなんですね。なぜかというと、あとがきで裏側が明かされていて、「エナジー対話」では一冊の本を作るために二泊三日の合宿で対談を収録していたというんです。一方、文庫版の追加部分は、短いギャラリートークを起こしただけ。単純に、かけている時間と予算がちがう。 福嶋 高橋康也と樺山紘一79の『シェイクスピア時代』(七八年)にも、伊豆の旅荘で五泊したと書いてありますね。「正味十五時間、語り合って飽きなかった」とか。 東 本当にすごいことですよね。複数の対談を組み合わせるというだけではなく、そのあいだの食事やら散歩やらでの雑談も編集者がぜんぶ拾って、本のかたちに仕立てているわけでしょう。作り手の意欲と予算の制約が、クオリティの差として如実に表れている。九〇年代になると、同じ対談でも、もう一〇分の一くらいしか労力をかけられなくなっている。新書ブームのいまは、もっとひどいですね。そう考えると、『週刊本』は出版に労力をかけることができなくなった時代のはしりかもしれない。 大澤 ぼくたちも次回は合宿形式にすべきですよ(笑)。 70日比野克彦(1958~)現代美術家。日本サッカー協会理事、岐阜県美術館館長。 71坂本龍一(1952~)作曲家、演奏家。YMOを結成。〈戦場のメリークリスマス〉 72橋本治(1948~)小説家、評論家、イラストレーター。『桃尻娘』 73島田雅彦(1961~)小説家。『優しいサヨクのための嬉遊曲』 74尾辻克彦(1937~2014)本名・赤瀬川原平。小説家、前衛美術家。〈超芸術トマソン〉『父が消えた』 75鴻上尚史(1958~)劇作家、演出家。「第三舞台」主宰。 76フェリックス・ガタリ Pierre-Félix Guattari(1930~92)フランスの哲学者、精神分析学者。『アンチ・オイディプス』(ドゥルーズと共著) 77多田道太郎(1924~2007)フランス文学者、評論家。『遊びと日本人』 78上山春平(1921~2012)哲学者。新京都学派。戦中、人間魚雷「回天」に搭乗。『天皇制の深層』 79樺山紘一(1941~)歴史家。西洋中世史。『歴史のなかのからだ』『ルネサンス』 4│だれが思想を支えるのか

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