日本の批評げ

三〇年代と八〇年代の相同性 大澤 今回の基調報告ではひとつの図式を仮設してみました。一九八三年から八六年にかけての狭義のニューアカブームは、一九三三年から三六年にかけての文芸復興現象の反復であった、というものです。ちょうど五〇年で折り重ねるわけですね。この五〇年は文芸批評の時代でもありました。これ自体は乱暴なアイデアにすぎない。ですが、こう見立てておくことでいろいろと整理と説明がしやすくなる。考えてみれば、柄谷行人は一時期さかんに六〇年周期説を援用して、「明治=昭和」平行説を唱えていましたね。 東 言ってましたね。あれ、どうなっちゃったんだろう? 市川 いまは一二〇年周期説にアップグレードされているんじゃないかな。 東 なんと(笑)。 大澤 周期説や反復説は説明のための便宜的なツールとして使うべきなんであって、話半分に受け取らないと、それこそ宗教になってしまう。そのていどに基調報告も読んでいただきたいのですが、とにもかくにも、文芸復興を下敷きに持ってくることで「史」に接続させ、さらに「近代日本の批評」の昭和篇との連続性を持たせることを企図しました。  文芸復興の直前には、プロレタリア文学=左翼文化運動の時代があった。マルクス主義に深く規定されたそれが、文壇や文化領域を制圧。直後には、三七年の日中戦争勃発に起因する文壇の時局的変成がある。日本帝国主義の膨張と連動し推移していきます。つまり、文芸復興はふたつの「政治の季節」のあいだに出来した現象だったわけですね。それが「小春日和」と形容されもする。かたや、ニューアカはどうか。一九六〇年代から七〇年代初頭は、文字どおり「政治の季節」でした。六八年の大学闘争がピーク。八〇年代を挟んで九〇年代、そこでは知的空間の政治化が急速に進行します。ポストモダンの左旋回と呼ばれる潮流ですね。九一年の湾岸戦争勃発、および文学者らによる反戦声明が画期。つまり、ニューアカもまた「政治の季節」に挟まれている。ともに、相対的な景気回復によって浮上した「小春日和の時代」の産物と言える。  文芸復興は実質的には大正復興です。そして、ニューアカの人たちはみな「大正的なもの」に拘泥している。たとえそれが「再興」であれ「切断」であれ。 市川 なるほど。 大澤 そう考えると、共同討議「近代日本の批評」で文芸復興にかなりの分量が割かれていることも納得できる。大正篇の基調報告の担当者は實重ですね。彼は構造主義的な観点から柳田國男80や折口信夫81を再発見する──この発見はいい意味で平板化されたかたちで大塚英志と安藤礼二82にそれぞれ継承されていますね。それから、文芸復興とニューアカはともに、既往のマルクス主義や具体的な政治運動からの表面上のデタッチメントが新奇さをもたらしていました。重要なのはあくまで「表面上の」ということですね。根柢にはマルクス主義ががんとしてあった。けれど、「表面上の」をめぐるニュアンスが事後には復元不可能になってしまう。ベタに受け取られる。 東 柄谷さんは昭和篇ではやたらと福本主義の話をしていますね。どう見ても、福本和夫に自分を重ねています。そして福本主義については、福本のラジカルさを隠蔽するものとしてこそ「昭和的なもの」が現れたのだという話をしている。つまり柄谷さんは、自分を福本に重ねたうえで、自分=福本を、来るべき政治の時代の「消滅する媒介者」のように捉えていた。それは彼らのニューアカ批判とも重なる。 福嶋 けれど、いまの批評は総じて大正時代に帰っているようにも見える。つまり、柳宗悦83や白樺派、あるいはウィリアム・モリス84的なものが回帰している。資本主義から距離を取りつつ、美的なものと道徳的なものを高次で維持するコミュニティを作っていこうという立場です。柄谷さんや浅田さんも、いまは白樺派的=大正的なものに近くなっているのではないか。 大澤 平成が大正の反復になっているという指摘ですね。まったくそのとおりだと思いますよ。 東 実際、浅田さんは、中沢新一さんとぼくとのゲンロンカフェでの鼎談(二〇一五年一月一七日)で、民芸運動を高く評価していた。ウィリアム・モリスの名も出ていた。 福嶋 柄谷さんも最近ウィリアム・モリスの『社会主義』の書評を書いていましたね。だから、「近代日本の批評」が提示したパラダイムは、いまはかなり内的に変わってきている。 東 つまり彼ら自身が「大正的なもの」に回帰している。 市川 一方で、美的なものからは背をむけて、宇野常寛のように『資本主義こそが究極の革命である』(一五年)と訴える批評家もいますよね。無印良品やユニクロこそ「カッコよい」のだと。 東 宇野さんの価値観こそ民芸そのものでしょう。アイドル論は民芸と同じです。全国津々浦々にご当地アイドルがいるというのは、民芸的な枠組みにほかならない。 福嶋 そうですね。 東 だとすると、ぼくたちはここで、二〇一〇年代的な「小春日和の時代」を、大胆に切断しなければならないのかな。 市川 それこそ「近代日本の批評」の繰り返しになってしまう(笑)。好きだねえ。 東 あえて福本・柄谷的なものの反復として。 福嶋 ぼくはむしろ、大正的なものをもっとちゃんと分析し評価したほうがいいと思います。柳宗悦も含めて、「近代日本の批評」では異常に過小評価されている。それをリバイバルすること自体は正しい。カオス*ラウンジの黒瀬陽平85さんも、最近は柳宗悦的な方向を模索しているのだと思うし。 大澤 状況論的におのずと切断されて、他者を見据えた「昭和的なもの」が再来しつつ、同時に「大正的なもの」が持続するという、言わば分裂的な地平が開けつつある。  さて、メディアの問題にこだわっているのは、個人的関心ゆえでもあるんですが、もちろんそれだけではなくて、「批評の時代」の検討はメディアの問題に収斂すると考えているからなんですね。とりわけ、雑誌運営の問題。そして、それは経済の問題にほかならない。下部構造から諸点を整理しないといけないと思う。で、文芸復興はやはり「雑誌の時代」でもありました。そもそも、『文學界』などいくつかの文芸誌が三三年秋に同時創刊したことに起因するメディアイベントだった。ときを同じくして、論壇では主要な総合雑誌が軒並み部数を増やしていく。競合するように物理的なボリュームをどんどん増大させていく。この点、ニューアカも似た境遇にありました。最盛期の八四年には、『GS』や『エピステーメー』第Ⅱ期、『へるめす』などの思想誌が創刊。『別冊宝島』の『わかりたいあなたのための現代思想・入門』も同年ですね。雑誌やムックの時代でした。 東 雑誌の規模が拡大したということは、新しい書き手が現れる場ができたということでもある。 大澤 そのとおりです。文芸に限定してみても、春山行夫や深田久弥、古谷綱武、矢崎弾、唐木順三、板垣直子、保田與重郎といった固有名がこぞって三三年に批評活動を本格化させている。当時の雑誌には、「批評の時代」や「批評家の時代」といった惹句が実際に頻用されています。まさに五〇年後のニューアカそのもの。 福嶋 補足すると、『文學界』は幅広い書き手を人民戦線的に集めていこうという立場ですね。戦争に入ると、それがとりあえず抵抗の拠点ということになる。 大澤 数度にわたって同人拡大を実施している。中野重治86が泣いて断ったというエピソードは有名ですね。高見順87なんかは「強者連盟」と批判するわけですが、そんなことはおかまいなく、小林秀雄は文壇のイデオローグとしてかなり戦略的に立ちふるまっていく。彼流の文壇政治がもっとも強く駆動した時代でした。それが戦時期の「近代の超克」にまでいたる。『季刊思潮』が繰り返すとおり、三〇年代当時にはすでに「近代の超克」的な条件は準備されていた。そのうえで、ポストモダン論がその「グロテスクなパロディ」だと自嘲するのが浅田さんのスタンス。廣松渉の『〈近代の超克〉論』は八〇年ですね。「近代の超克」を三〇年代に拡張させ論じたのは正しかった。 福嶋 あと、八〇年前後はアジアと関係した思想家が立て続けに亡くなっています。七七年に竹内好88、八一年に保田與重郎、八三年に小林秀雄が亡くなる。彼らは戦前からアジアにコミットしたのだけれど、その遺産は引き継がれず、そのまま冷戦崩壊まで行ってしまう。廣松渉が「近代の超克」と言っていたのは、そういう欠損の歴史を踏まえてでしょう。とはいえ、八〇年代の時点では東アジアがブロック経済を形成し、大東亜共栄圏を反復するのではないかと、わりとリアルに危惧されていた。しかし、現実には九〇年代以降の東アジア各国は対立状態に陥り、ブロック経済どころではなくなってしまう。 大澤 そのあと、廣松は九四年に「日中を軸とした東亜の新体制」を唱えて亡くなる。 80柳田國男(1875~1962)民俗学者、詩人、官僚。『遠野物語』『海上の道』 81折口信夫(1887~1953)別名・釈迢空。民俗学者、歌人、詩人。『海やまのあひだ』『死者の書』 82安藤礼二(1967~)文芸評論家。群像新人文学賞評論部門優秀作。『光の曼陀羅』 83柳宗悦(1889~1961)美学家、宗教学者、民芸運動の創始者。雑誌『工芸』創刊。 84ウィリアム・モリス William Morris(1834~96)イギリスの工芸家、デザイナー、詩人、社会思想家。『ユートピアだより』 85黒瀬陽平(1983~)美術家、批評家。美術批評、アニメ批評。批評誌『Review House』編集委員。 86中野重治(1902~79)小説家、詩人、政治家。マルクス主義運動、プロレタリア運動に参加。『歌のわかれ』 87高見順(1907~65)小説家、詩人。『如何なる星の下に』『死の淵より』 88竹内好(1910~77)評論家、中国文学者。武田泰淳らと「中国文学研究会」を結成。『魯迅』 総会屋雑誌の役割 大澤 ところで、『〈近代の超克〉論』は朝日出版社の「エピステーメー叢書」として出版されています。ちょっとイメージと異なる。他方、初出連載は『流動』でした。新左翼系総会屋雑誌の代表的な存在ですね。右翼総会屋をオーナーに持つわけですが、誌面傾向は経営基盤とは無関係にあった。むしろ逆行。新左翼系のオピニオン総合誌に分類されます。既存総合誌がマンネリ化を迎えるなか、一連の新左翼系総会屋雑誌がオルタナティブな言論空間を形成していた。以前、猪瀬直樹さんと話したときに、ご自身を含め、『世界』『中央公論』などのメジャー誌から声がかからない若いライターが、そこで腕を磨いたのだとおっしゃっていましたが、批評家も同じことです。こうしたマイナーメディアが、八〇年代の批評の時代に活躍する人材を育成するインキュベータとして機能していた。 市川 絓秀実や渡部直己は、「批評研究会」というグループもつくっていましたね。 大澤 八〇年春に絓秀実や菊田均、川村湊、富岡幸一郎らが月一で集まる勉強会として発足させました。あとから三田誠広89や渡部あたりも合流。漸次人数も増え、新世代批評家の一大勢力と化していったようです。編集者も来ていて、ときどき誌面企画へも発展する。そのうち、メンバーはメジャーな媒体でも書けるようになっていき、八三年初頭に解散。研究会と部分的に人員が重なる雑誌『杼』が創刊されるのはその数ヵ月後ですね。 東 (本を手に取って)「實的存在はどこへ消えるか」……。 市川 ファン雑誌感があるね(笑)。気持ちはわかるな……。 福嶋 これは同人誌ですか? 市川 主要メンバーのなかで唯一、大学教員だった江中直紀90のボーナスで作っていた点では、そうとも言える(笑)。絓さん、渡部さん、江中さんの三人で編集して、柄谷行人、實重、中上健次にインタビューを取っていたんですよね。 東 實重のつぎの特集は柄谷行人。この同人誌感はすごい。 大澤 連続インタビューは、『〈批評〉のトリアーデ』(八五年)に収録されるんですが、そうやって資金繰りをしていた。 福嶋 そういえば、絓さんによると、左翼の退潮は八〇年代に総会屋雑誌がなくなったことと関連するそうだけど。 大澤 八二年一〇月に改正商法が施行されるや、一連の雑誌が絵に描いたように一斉に潰れる。そもそも改正はそこに目的があったわけですが。群がっていた書き手たちは場を失うことになります。 市川 ニューアカが、その受け皿にもなった、ということですね。 大澤 そう、八〇年代には、総会屋系雑誌に代位する媒体としてメセナ/企業PR誌が機能した。さきほど話題に出た「エナジー対話」シリーズのほか、ポーラ文化研究所の『is』、カルビーの『はーべすたあ』なんかがそうですね。そこに、ニューアカテイストが注入されていく。  新左翼系総会屋雑誌に話を戻すと、「批評研究会」グループや、戸田徹、小阪修平、笠井潔ら「マルクス葬送派」が書き手として参加し、企画立案にまで関与していく。考えてみれば、笠井潔『テロルの現象学』(八四年)も当初は『流動』で連載されていた。竹田青嗣もここでデビューしている。当時は「会社員」という肩書きだった。 市川 当時、総会屋雑誌が言説を支えられたのは、なぜですか。 大澤 編集に口出ししなかったのが大きいでしょうね。精神的な自立が相対的にであれ確保されていた。もちろん、廃刊とともにそうした空間が瓦解してしまうわけですから、脆弱な独立性と言わざるをえませんが。ともあれ、若い書き手たちが知り合いをつぎつぎと呼んできては雑誌をサロン化していった。業界参入のステップになった。原稿料もそれなりに高く、アルバイト先としての役割も果たす。いまこの種の媒体は皆無ですね。大学回帰はその一帰結でもある。 東 現代でありうるとしたらネット企業ですね。一時の「ニコ論壇」はそれに近い存在だったと思います。けれどドワンゴはやめてしまった。 大澤 端的に資金回収できないからですか。 東 収益は最初から問題じゃないでしょう。経営者が、論壇や批評に関心を失ったんじゃないか。昔の経営者は、それが誤解や私利私欲に基づいたものであれ、なんらかの「思想」を味方につけたいというひとが多かったけれど、いまの経営者はあまりその手の事業に関心がない。 福嶋 八〇年代には堤清二がいたけれど、それ以降、彼のような経営者は出てこない。 市川 九六年に、堤清二91が『消費社会批判』という総括的な本を出していて、論旨自体はあまりおもしろくないのだけれど、ディテールを読むと、七〇年代の総会屋雑誌にしろ八〇年代の企業メセナにしろ、かつては経済人が資本主義に乗っかっていくときのある種のアリバイづくりに使われていたことがわかる。「自分たちは良心的なこともしていますよ」と。それが九〇年代に入ると、日本の資本主義は言い訳を必要としなくなってくるんですよね。 東 重要な指摘ですね。日本ではある時期から、市場でだれがいくら儲けようとそれは自由で、なにも倫理的に恥じる必要はないという感覚が主流になった。市場での勝利がそのまま正義に直結しているという思想です。そうなると、批評にできることはかなり限られてしまう。 大澤 むしろ、批評家に相当する人物たちまでも場合によってはその感覚を前提にしている。 福嶋 堤清二に関して言うと、彼は政治的抑圧を解き放つために社会主義を信じていたはずが、戦前の日本では社会主義者こそが転向して天皇主義者になっていったことを踏まえ、それならば自由主義でやっていったほうが抑圧に搦め捕られないですむという論法だったわけですね。 市川 その産物が八〇年代のセゾン文化になる。 福嶋 別の言い方をすると、八〇年代にはもう、抑圧から解き放たれるための回路が資本主義以外なくなっていた。 市川 他方で大塚英志は八〇年代、資本主義を肯定する批評家として登場しますね。いまの話の流れでは、彼はどう位置づけられるのか。 東 大塚英志については第二回で議論することになると思うけど、彼の資本主義の肯定は、ホリエモン(堀江貴文92)的な肯定とはずいぶんちがいますね。それがよくわかるのは、じつは彼の東浩紀批判です。大塚英志は、自分はたしかに資本主義を肯定しているけれど、それは資本主義へのある種の批判や罪悪感を前提にしている、それに対して『動物化するポストモダン』(〇一年)の東浩紀はその罪悪感が欠落しているからダメだと言うわけです。つまり彼は東浩紀もホリエモンも同じだと言うわけだけど、ここには、新人類世代の戸惑いや両義性がよく表れている。 市川 大塚さんの罪悪感は彼がよくする「文学」への批判にも逆説的に表れているとは思う。ただ、東さんとしては自分に矛先がむけられたから反応しているとはいえ、大塚さんの批判も堀江さんに対しては正しいわけだよね。 東 どうかな。むしろ、その両義性そのものがいまは通用しないと思うけれど。ニューアカ世代は、資本主義に寄生しながらも、それを内側から食い破るといった話が好きですね。 市川 浅田さんがよく「あえて」と言っていたのと、同じ構造ですね。實さんにも通じるシニシズムと韜晦があって、ぼくもそれは好きだったけれど。 東 ところがそういった言説は、資本家の側に罪悪感がないと成り立たない。だから、資本家が罪悪感を持たなくなってしまったら、端的に機能しなくなる。 福嶋 素朴な意見ですが、ぼくは七〇年代以降を、思想から階級の問題がなくなっていった時代だと見ています。日本人が一枚岩だという総中流幻想は八〇年代に再強化され、その遺産が九〇年代にもずっと及び、ゼロ年代のネット社会まで続いていく。けれどこれから、階級の問題はまた前景化してくるのではないか。 東 賛成です。しかしその結果、批評が豊かになるかどうかはわからない。階級構造が復活したら、そのとき求められるのは、批評ではなくむしろ「運動」の言葉でしょう。最近のデモを見ればあきらかですね。難しい言葉はいらない。ただ街頭に来てくれればいい。論理も知識も必要ないということになっている。 大澤 広義での「わかるでしょ?」派のバックラッシュ。 東 大塚さんの話に戻ると、彼は『物語消費論』で大衆文化について語る新世代の批評家として登場するわけだけど、そのなかでは徹底して「騙す側」「仕掛ける側」の話しかしていない。つまり、一方に仕掛ける業界人がいて、他方に騙される大衆がいるという構図になっている。それに対して、ぼくが『動物化するポストモダン』で展開した「データベース消費」論は、いまや騙される側に主導権が移動しているのだという話なわけです。騙す側と騙される側の暗黙の共犯関係が壊れ、どんな仕掛けをしても「ユーザー」によって解体され、仕掛ける側の意図を超えて消費されていく。これは『物語消費論』の論理を拡張したものなんだけれど、大塚さんがもっとも大切にしていた前提を壊すものでもあるので、彼は以後、東浩紀批判を繰り返すことになる。 福嶋 大塚さんは最近、KADOKAWAとドワンゴの合併について批判してますよね。彼はそこで、クリエイターの側が自発的に創作しているつもりでも、受け取る側によって踊らされているだけだという理論を展開している。これはどう見ますか。 東 無理があると思う。おれは合併の裏も知っているぜ、みたいなアピールも悲しい。大塚さんは自分が仕掛け人の側にいないと安心できないのだと思う。 市川 仕掛ける側が強い、というのも八〇年代的な気がするけど……。 東 大塚さんが考える理想の知識人は、経営者の横で経営に口を挟み、彼らの金儲けに荷担しながらも、その罪悪感を多少和らげてやるような存在でしょう。でも、実際にはもうそんな知識人を必要としている経営者はいない。これは大塚さんに限った問題ではなくて、ニューアカの時代の言論人はみな結局、仕掛け人=業界の側に立ってものを考えていた。自分たちを大衆だと言いながら、実際にはちがった。だから彼らは、九〇年代以降、ネットが普及し大衆が本当に直接声を上げるようになってからは急速にアクチュアリティを失っていく。消費社会や大衆社会について語っていながらも、本当にそれが全面化すると対処できなかった。 市川 これも年代的には次回以降に譲るべきなのかもしれないけれど、大塚英志のしばらくあとに、赤木智弘93が現れるでしょう。彼は階級化が始まったことに敏感で、それゆえもっとも極端に大衆的な立場に身を置こうとした。そして階級化した社会を横断するのは、戦争と宗教しかないと言う。そういう声が今後一定の数を占めることは止められないでしょう。 東 とはいえ、赤木さんは『論座』でデビューしたのであって、古い出版に支えられ現れたひとでしょう。同じ「ロスジェネ」の雨宮処凜94もそうですね。そういう観点から言えば、古谷経衡95や三橋貴明96のような、ネットから出てきたブロガーたちのほうがよほど新しい現実に対応している。 89三田誠広(1948~)小説家。『僕って何』 90江中直紀(1949~2011)フランス文学者、評論家。『ヌーヴォー・ロマンと日本文学』 91堤清二(辻井喬)(1927~2013)実業家(セゾングループ代表)、小説家、詩人。『父の肖像』 92堀江貴文(1972~)実業家、投資家、タレント。ライブドア事件で逮捕。 93赤木智弘(1975~)ライター。「『丸山眞男』をひっぱたきたい──31歳、フリーター。希望は、戦争。」『若者を見殺しにする国』 94雨宮処凜(1975~)作家、活動家。「ミニスカ右翼」から「ゴスロリ作家」へ。「反貧困ネットワーク」世話人。『プレカリアート』 95古谷経衡(1982~)作家、評論家。ネット、保守、アニメ等。『若者は本当に右傾化しているのか』 96三橋貴明(1969~)経済評論家、中小企業診断士、経世論研究所社長。『本当はヤバイ!韓国経済』 5│制度化する現代思想 デリダと柄谷行人 大澤 総会屋雑誌やメセナの話をしましたが、もちろん老舗出版社も機能します。プレニューアカ期の論者の一部は岩波書店の主催で研究会を組織する。その成果は『叢書 文化の現在』全一三巻(八〇~八二年)としてまとまる。個人的に好きなシリーズなのですが、ニューアカ以降の学問や批評の手つきの源流をそこにいくつも発見することができるはずです。このプロジェクトが雑誌『へるめす』へと発展していく。 東 磯崎新、一柳慧、井上ひさし、大江健三郎……いま思えばすごいメンバーが集まっている。 大澤 領域横断性が集団的に追究されていき、その交点に新たな協働トピックが生まれます。 東 このように振り返って見えてくるのは、七〇年代の『現代思想』や八〇年代の『へるめす』とちがい、九〇年代の『批評空間』は「シーン」を作らなかったということですね。 市川 たしかに、いまの若い世代は『批評空間』と言ってもわからないからね……覚えててしょっちゅう話してるのは、ぼくたちぐらいだよ(笑)。 大澤 じつは『へるめす』は九七年まで続いているんですよね。面子は七〇年代っぽい。ですが、実際にはニューアカと同時代を並走し、そのもっとあとまで持続している。ニューアカ的な速度感がデフォルトと化して以降の時代には、中途半端に敏感な読者には岩波書店ということもあって蔑視の対象(ダサい)となり、後続世代もその逆転的な序列認識をトレースしてしまう。じつはぼくも最初はそうでした。けれど、このシーン生成力はバカにできませんよ。 東 『へるめす』が九七年まで続いていたとは、ちょっと驚きですね。 市川 渡邊守章や磯崎新は『批評空間』に吸い取られてしまいますが。 大澤 『へるめす』が作ったシーンはプレニューアカ期の現代思想ブームによって用意されたものですが、決定的な動力となったのは、言うまでもなくポスト構造主義が圧縮的に導入されたことですね。ただし、フランスでの盛り上がりから一〇年ほどのタイムラグがあった。このことの意味はあらためて捉え直しておくべきでしょう。 東 フランス本国では、いわゆる「フランス現代思想」は六八年にいちど頂点を迎えて、七〇年代には失速します。いわゆるヌーヴォー・フィロゾーフの時代ですね。むしろそれ以降はポスト構造主義の中心は英語圏に移る。柄谷さんはちょうどそのころにポール・ド・マン97のいたイェール大学に滞在していて、そこでアメリカ化されたデリダの思想とその周辺に触れた。そして、デリダに関するローティ98の文章に触発されて「批評とポスト・モダン」を書いている。この評論は、いま読むとじつに先進的です。 福嶋 日本の言論界でローティを引用したのは、あれがはじめてなんじゃないですか。 東 そうかもしれません。世界的な同時代性という点で言うと、このときすでにフランスではいわゆる「現代思想」は終わっており、国外に拡散していく時代だった。そのひとつの流れとしてニューアカがある。つまり、八〇年代の日本はフランスとシンクロしていたのではなく、むしろアメリカと並行してフランス思想を受容していたと捉えるべきです。ドイツでのボルツ99やキットラー100の仕事も同時期ですね。ポスト構造主義の思想が世界的に広がっていくときに、それを担ったうちのひとりが柄谷さんだった。 市川 『パイデイア』(六八~七三年)を読むとわかるように、フランス現代思想の受容は、六〇年代の日本ではほとんどリアルタイムでした。「ヌーヴェル・クリティック」なんて言葉もすぐに輸入されていた。それが、おそらくは六八年のショックで止まってしまい、止まった時計の針を本格的に動かしたのが、柄谷さんや浅田さんだったのだと思います。 大澤 的確な整理ですね。 東 さらに掘り下げると、輸入と言っても、フランスの思想をそのまま受け入れるわけではなく、翻訳してローカライズする過程がある。七〇年代は世界的にそれが行われていて、ニューアカはそのひとつだと考えられる。ところが皮肉なことに、九〇年代の日本では、むしろデリダやドゥルーズ101を「正確に」読む専門家たちが力を持っていきます。デリダであれば、たとえば高橋哲哉や鵜飼哲102です。彼らはフランスに長く留学していて、翻訳もたしかに先行世代より正確です。けれど、それゆえと言うべきか、それを自分たち流に読み替えることはないわけです。いまではそちらのほうが高く評価されているけれど、でも、七〇年代から八〇年代にかけて、フランス現代思想をよくわからないままに換骨奪胎しようとしていた時代こそが、本当の意味で世界性があったんじゃないかと思います。あの時期の日本人の努力はもっと評価していい。 大澤 訳語もテンションで押し切る(笑)。 福嶋 一九七八年には磯崎新が、パリで「間」展をやりました。これも結果的に、デリダのエスパスマン(間隔化)の「翻訳」になったわけですよね。 東 磯崎さんも、大胆に海外の思想を翻訳しているからこそ、世界性があった。翻訳にこそ世界的な同時代性があったのに、九〇年代になるとアカデミックな研究になって、むしろ閉じてしまう。 市川 ニューアカを象徴する言葉が「リゾーム」ですよね。八〇年ごろに日本に紹介されて、このころは江藤淳や鶴見俊輔でさえ「リゾーム、リゾーム」と言っていた。保守系の論客にすら流行語として共有されていたんですね。 東 それでよかったんですよ。ぼくが九〇年代に大学院に入ったころには、現代思想の世界はすっかり窮屈になっていた。高橋哲哉氏はぼくの指導教官だったけど、ぼくは高橋さんがドゥルーズに触れるのを聞いたことがない。代わりにデリダ派のラクー゠ラバルト103やジャン゠リュック・ナンシー104の話はいくらでも出る。現代思想が制度化してしまった。實重がその象徴的な存在で、彼は東大に表象文化論研究室を設立し、のち東大総長にまで上りつめる。九四年には教養学部のテクストが『知の技法』の題で出版され、これもベストセラーになった。ここらへんも次回のテーマになると思いますが。 市川 『エピステーメー』の第Ⅱ期が八六年、『GS』が八八年に終わっていることからもわかるように、バブルの崩壊よりもすこしまえに、このあたりの文化は終焉にむかう。それを大学が吸収し、制度化していったという流れだよね。實さんなんかは完全に割りきって、制度的に生き残らせるしかないと開き直っていたんでしょうね。 97ポール・ド・マン Paul de Man(1919~83)ベルギー生まれのアメリカの文学理論家。イェール学派。『読むことのアレゴリー』 98ローティ Richard McKay Rorty(1931~2007)アメリカの哲学者。ネオプラグマティズム、ポスト分析哲学。『哲学と自然の鏡』 99ボルツ Norbert Bolz(1953~)ドイツの哲学者。メディア理論。『グーテンベルク銀河系の終焉』 100キットラー Friedrich A. Kittler(1943~2011)ドイツの批評家。メディア理論。『グラモフォン・フィルム・タイプライター』 101ドゥルーズ Gilles Deleuze(1925~95)フランスの哲学者。『差異と反復』、『千のプラトー』(ガタリとの共著) 102鵜飼哲(1955~)哲学者、フランス現代思想。『インパクション』編集委員。『ジャッキー・デリダの墓』 103ラクー゠ラバルト Philippe Lacoue-Labarthe(1940~2007)フランスの哲学者。芸術論、ナチス論。『近代人の模倣』 104ジャン゠リュック・ナンシー Jean-Luc Nancy(1940~)フランスの哲学者。ラバルトらと共同研究も。『無為の共同体』 閉じこもる批評 大澤 基調報告では、プレニューアカをさしあたり「記号論」「都市論」「身体論+演劇論」「情報論+メディア論」のカテゴリーで整理しましたが、そこに該当する書き手たちはそれぞれの出自をメインフィールドとしつつも、グループ知が成長するなかで、個別の専門領域の境界を融解させていく。ニューアカ期には、そうした交配が早くも前提となり、カテゴリーの延長を集団ではなく個人が担うことになります。必然的に専門的基盤が衰弱する。そこでは、むしろアマチュアリズムが称揚される。  だけど、文体面で考えると、両期のあいだには逆転が起きている。どういうことかと言うと、専門性が保持されていたプレニューアカ期のほうは、それゆえに流通させる際に一般性の確保が意識されていた。他方、専門性を欠くニューアカは反対に晦渋であることによって商品価値を発生させる。まったく余談ですが、大学入試の現代文で使われるのは前者ですね。出題頻度の高い書き手たちが多く含まれる。ニューアカは内容以前に独特な文体ゆえにめったに使用されない。この点は切断しなければならないでしょうね。 東 ぼくは切断してるよ。 福嶋 ぼくも毎年、入試で使われてるよ。 市川 赤本の再録許諾で自分の文を読み返して、受験生に悪いなとちょっと反省しました。『思想地図β』に書いたやつだけどね(笑)。 大澤 後者の極北は實文体ですね。 市川 この共同討議にあたって實さんの『表層批評宣言』(七九年)を読み返して驚いたんです。なぜ二五年前のぼくはこの本をすらすらおもしろがって読めたのか、と(笑)。でも、ちょっとチャンネルを変えて、小説を読むように読んでみると、すいすい頭に入ってくる。ロジックとしてではなく作品として読むのがいいみたい。 福嶋 実際、柄谷さんとちがって、實さんは小説も書いていた。 市川 『陥没地帯』(八六年)とか、『オペラ・オペラシオネル』(九四年)とかね。小説が撤退していった時代に、批評自体が文学たりうるのではないかと試みたことについては、ぼくはやはり肯定したい。 福嶋 映画批評はすばらしい業績だと思います。でも文芸批評については、ぼくの頭ではよくわからない。 東 たしかに新しかったのかもしれないけれど……。 大澤 音楽批評や漫画批評などと異なり、なまじ対象と同じ言語表現なものだから、歴々の批評家たちは「文学たりうる」ことを目指し、またそのように錯覚してしまった。なによりも、そこに文芸批評の躓きがあらかじめ埋め込まれていたのではないか。 福嶋 實さんは『マス・イメージ論』をバカにしていたけれど……。 東 『表層批評宣言』の冒頭なんて、二ページ目まで続いて、一〇〇〇字くらいが一文で書かれている。 福嶋 この時代にはクロード・シモン105みたいな文体的実験に意味があったんですね。 市川 それはぼくには否定できませんが……。 福嶋 ちょっと話を展開すると、ぼくは實さんの批評は、日本のコンテンツの作り方と相性がよかったと思うんです。漱石や小津安二郎106は、基本的にミニマリズムの作家です。ごく小さな世界を設定して、そこに生じる微細な差異で作品を輪郭づけていく。これはテマティスムと相性がいい。實さんの饒舌な批評文は、日本的ミニマリズムと共犯関係にあると思う。 大澤 そして、實重は大正的で、柄谷行人は昭和的。實さんは小林秀雄を「ポストモダン的と言えるまでの無理解と無教養と無節操」なんて評している。ここも柄谷と重ねて読むべきなんでしょうね。 東 小林秀雄はフランス語ができない。そういうことへの侮蔑がありますね。 大澤 その点で言うと、日本ではある時期まで、海外文学を出自としたひとたちが文芸批評を担ってきた。江藤淳にせよ磯田光一にせよ英文学の研究から出発している。柄谷さんも大学院は英文学ですね。 市川 明治から伝統的にそうですよね。当時は「研究家」という概念があまりはっきりしていないけれど、坪内逍遥107も夏目漱石も英文学を学んでいたし。あとはフランス、ドイツ、それから二葉亭四迷108のロシアとかね。その流れは、八〇年代ぐらいまでは続いていましたよね。 東 加藤典洋や笠井潔は「国内派」とバカにされていた。 福嶋 でも、加藤典洋も留学中に鶴見俊輔と会ったりはしている。 東 笠井潔だってパリで『バイバイ、エンジェル』を書いている。そういう点では、外国語の背景が本当になくなったのは、ゼロ年代の宇野常寛さん以降ですね。ぼくだって大学時代には、外国語で専門を持たないとインテリとして一人前じゃないというプレッシャーがあった。 大澤 前田愛や野口武彦109なんかは、研究者と批評家の中間に位置しましたが、近現代ではなく近世の専門家ですね。それが強みになっている。 東 いまの「カルチャー批評」に欠けているのは、まさにその距離感ですね。まさに「外部」。外国や過去から現代を見る視点。 市川 いまは社会学や現象学がベースになっていて、いま目の前にある対象を理解して分析するのが批評だという距離感になっていますよね。読者もそれを求めているから、距離を持った批評の居心地はよくない。 大澤 分析を支えるはずの視差がリセットされてしまった。そして、文芸批評の自己完結性がある時点で制度化していく。その象徴が八〇年代半ば以降の群像新人文学賞の評論部門ですね。柄谷行人が選考委員に加わるのは八七年です。以降、柄谷ファームのなかでの競争と化していく。 東 山城むつみ110とか大杉重男111とか? 大澤 そうですね。小林秀雄が文壇の覇権を掌握した三三年以降、小林のテーマ設定やそのターミノロジーが瞬時に共有される現象が起こるんですが、それと同型です。八九年には石川忠司112が優秀作に選ばれている。 東 柄谷さんは「外部」を強調するひとだったのに、彼が選考委員になってむしろ批評の世界は閉じてしまった。 大澤 八〇年代の日本社会のモードとも関係しているのでしょう。日本の内部で独自に掘り下げていることがそのまま世界の最先端に接続する、なんて幻想が成立していた。その条件と柄谷さん独特の雰囲気が乗り入れてしまった。 東 柄谷さんは「勉強してないのに本質を突く」とか、「海外の動向をぜんぜん知らないのに世界の最先端」みたいなことを言われすぎなんだよね。一種の神話がある。若いひとが、それを信じて、柄谷さんをフォローすれば世界に通じるかのような錯覚を持ってしまった。 市川 『批評とポスト・モダン』のころ、柄谷さんはしきりに、近代の日本語で考えることの限界を指摘していた。ところが、その指摘が正しく、かつ印象的だったがゆえに、その隘路から脱する方法を、柄谷さんについていくことに見出してしまいがちだったわけです。ぼく自身、あまりひとのことは言えない。でも、それは柄谷さんのせいではないでしょう。それこそ、それぞれがどんな私生児であるかの問題であって。 大澤 とは言うものの、数少ない批評家のリクルーティングシステムを管轄し、それを党派的に活用した側面はある。九〇年代を通して、『群像』評論部門と『批評空間』の両輪は人材調達の主要場として機能した。もちろん、功罪両面あると思います。さきほど、七〇年代の総会屋雜誌が若手のフックアップの機能を持っていたと言いましたが、それと比較してみれば、柄谷行人の磁場がどんどん強化拡大されていく構造になっていたことがよくわかると思う。 市川 柄谷さんや實さんは、『群像』などの文芸誌はあくまで畑で、そこから現れた新しい書き手が『批評空間』や『ルプレザンタシオン』で活躍したり、国際的になればよいと思っていたんじゃないかしら。井口時男なんかがわかりやすい例ですよね。 大澤 柄谷論でデビューした島弘之もそう。 市川 阿部和重113も『批評空間』に書いていたし、当時の読者として言えば、目ぼしい書き手はぜんぶそこに書いていたというか、いつまでも文芸誌にしか載らないテクストはそれだけで期待できなかった。リクルーティングシステムと三〇年代論の話に戻ると、芥川賞と直木賞ができたのが三五年ですよね。こちらは公募新人賞ではないけれど、やはり似た構造ではあったんだと思いますよ。 大澤 小林は同人誌である『文學界』で内輪の賞を創設するんですが、新進批評家だった中村光夫114に与える。当時の中村は小林のエピゴーネンだったと言っていい。  もう一点触れておくと、一九三〇年代の「昭和教養主義」に対応する現象としても、ニューアカは作用していた。『別冊宝島』の「わかりたいあなたのための」シリーズのヒットに象徴されるように、八〇年代には「わかりたい」大衆が膨化する。もちろん、パロディとしてしかありえない。だからこそぼくは「昭和末期教養主義」と呼んでいるんですが、ここで教養主義は潰える。 市川 いまの状況を考えると、ニューアカは最後の教養主義だった、ということですね。 105クロード・シモン Claude Simon(1913~2005)フランスの小説家。ヌーヴォー・ロマンの代表的作家。『フランドルへの道』 106小津安二郎(1903~63)映画監督。『晩春』『東京物語』 107坪内逍遥(1859~1935)小説家、劇作家、評論家。『小説神髄』『当世書生気質』『新修シェークスピヤ全集』 108二葉亭四迷(1864~1909)小説家、翻訳家。『浮雲』、ツルゲーネフ『あひゞき』(翻訳) 109野口武彦(1937~)文芸評論家、国文学者。『石川淳論』『江戸の兵学思想』 110山城むつみ(1960~)文芸評論家。『文学のプログラム』『ドストエフスキー』 111大杉重男(1965~)文芸評論家。日本近代文学。『小説家の起源─徳田秋聲論』 112石川忠司(1963~)文芸評論家。『現代小説のレッスン』 113阿部和重(1968~)小説家。『シンセミア』『ピストルズ』 114中村光夫(1911~88)文芸評論家。芥川賞選考委員(30年間)。『二葉亭四迷伝』『風俗小説論』 日本におけるニューエイジ 大澤 ニューアカはニューアカデミズムと言いながらも、実際にはジャーナリズム現象として出来します。教養主義たるゆえんですね。しかし、それが九〇年代には、アカデミズムによる馴致=制度化を受けることになる。九〇年代の大学改革とも相即します。 市川 東大の教養学部の教科書を作って市販した『知の技法』も、九四年ですからね。 大澤 当該三部作は、八八年の東大中沢事件以降の反動でもあったはずです。 東 けれども、他方で、ニューアカが実際に影響を与えたのはアカデミズムだけだったことも事実でしょう。ニューアカはジャーナリズムにはほとんど影響を与えていない。いまの出版界にニューアカの残滓を見ることは難しい。ニューアカは、その点では名前のとおり「アカデミズム」として大学に残ったのであって、ここは見逃してはならない。いまの五〇代の大学教授たちは、みなニューアカをバカにするけれど、若いころは熱心に読んでいたはずですよ。 大澤 カルチュラル・スタディーズなりポストコロニアル理論なりというかたちで着地させたわけですからね。このへんの経緯も次回の話ですね。  ニューアカはジャーナリスティックなレッテルによって可能となったがゆえに、相互の差異どころか共通理念の不在までもが容易にキャンセルされてしまう。象徴的には、『構造と力』(八三年)と『チベットのモーツァルト』(同)がセットで語られる。 東 この二冊はほぼ同時に出版されているけれど、内容はぜんぜんちがうよね。浅田さんには十分に触れたので中沢新一についてすこし語りたいのだけど、ぼくは『チベットのモーツァルト』はとてもいい本だと思う。『構造と力』とちがって、本を読んだあとに旅に行きたくなったり、音楽を作りたくなったりするような、身体への呼びかけを感じる。それも批評の重要な役割です。 福嶋 ヒッピー的なものですね。それと、仏教史的に見ても、この時点でチベット仏教を持ってきたのは特筆に値します。日本仏教の革新運動はおおむね鎌倉時代の「新仏教」で終わってしまって、そこから大規模なアップデートは起こらなかった。とくに戦後は宗教がダメになった時代でもある。そういう状況下で、それまで一般には注目されていなかったチベット仏教を導入した力業は、評価されてしかるべきでしょう。 東 ふたりの差は世代のちがいでもある。中沢さんは五〇年生まれ。浅田さんは五七年生まれ。七歳差って、ちょうどぼくと宇野くんと同じ。だからいろいろと感性がちがう。中沢さんはヒッピーブームやニューエイジ思想に大きく影響を受けている。カスタネダとか。それに対して、浅田さんはその種のものに強いアレルギーを持っているので、中沢さんに対しては初期から批判的だった。そう考えると、『チベットのモーツァルト』はむしろプレニューアカの著作と位置づけるべきかもしれない。 大澤 そうそう。 東 中沢さんはのち、オウム真理教事件との関わりで社会的信頼を失うけれど、そのあと『カイエ・ソバージュ』シリーズ(〇二~〇四年)や『アースダイバー』(〇五年)で復活する。そういう足腰の強さは、彼がもともと持っているニューエイジ的な感性から来ている。理論的にはそれは弱点でもあるだろうけれど。  他方で『批評空間』派はニューエイジ的な雑駁さをすべて切り捨ててしまっているので、どうも「技」が少ない。柄谷さんの『哲学の起源』(一二年)なんてまさにそうで、ソクラテス115以前の哲学に帰ると言っても、それを表現するための持ちネタが少ないんだよね。『カイエ・ソバージュ』も同じような着想なんだけど、環太平洋文化とかシャーマンがどうとか、ネタが豊富ではるかにおもしろい。 大澤 ニューアカ以降、九〇年代に浅田さんが同伴するのは柄谷行人で、グループやメディアを組織するのはそちらだということがそこでの問題でしょうね。 東 ここも次回に踏み込むべき話だけど、ニューアカとニューエイジの距離はけっこう重要です。よく言われることですが、九〇年代に到来する情報技術革命は、思想的にはニューエイジと深く結びついています。ところが日本では、オウム事件をきっかけにニューエイジ的な感性が社会的に認められなくなってしまった。「疑似科学」のひとことで片づけてしまっている。それが二一世紀に入って以降、日本で思想を立ち上げることをひどく困難にしているように思う。ニューエイジでなにが問われていたのか、正しいとかまちがっているとか以前に、思想的に検討する必要がある。その背景が共有されていないと、情報技術が社会を変えるという話も、金が儲かるというビジネスの話から外に出ないんですよね。アメリカでは、情報技術革命は人類文明を変えるみたいな話が、たいへんまじめになされているわけだけど、日本ではそういう話はすべて「疑似科学」になる。 市川 情報技術とニューエイジがイコールとして見られたということ? ぼくにはニューエイジはわからなすぎて……。 東 マクルーハン116もジョブズ117もニューエイジと切り離せない。けれど日本ではそう考えられていない。批評周辺に話を戻しても、たとえば宮台真司なんて、吉本隆明や見田宗介の影響を強く受けていて、じつはオカルトやニューエイジに感性が近いひとなわけでしょう。それなのに、オウム事件に出会い、オウムに入るくらいなら援交少女になるほうがいいと言って、徹底した世俗主義の唯物論者に転向する。でも本来の基盤がニューエイジ的だから、いまはそちらに帰ってきている。これは宮台だけの問題ではなくて、ニューエイジへの言及が禁じられたことが、一時期の日本の言論空間に大きな負荷をかけたのはまちがいないと思う。 福嶋 フランスだと、ウエルベック118がヒッピー文化とSFとポストヒューマンの世界像を合成したような作家ですね。ニューエイジ的なものをうまくアップデートして作品化している。日本にもそういう作家が出てきてよかったはずなのだけれど。そもそも、ウィリアム・ジェイムズ119を読んでいた漱石なんてニューエイジに連なるし、日本近代文学の起源はスピリチュアリズムだとも言えるわけですね。 東 疑似科学をたんに断罪するのではなく、それ自体をひとつの「文化」と見るような余裕というかね。むしろ中沢さんこそが、日本におけるウエルベックのような存在なのかもしれない。この問題は次回、より詳しく検証しましょう。 115ソクラテス(BC470~BC399)古代ギリシャの哲学者。『ソクラテスの弁明』(著者はプラトン) 116マクルーハン Herbert Marshall McLuhan(1911~80)カナダの英文学者、批評家。メディア研究。『グーテンベルクの銀河系』 117ジョブズ Steven Paul Jobs(1955~2011)アメリカの実業家。アップル創業者の一人。 118ウエルベック Michel Houellebecq(1958~)フランスの小説家、詩人。『素粒子』『地図と領土』 119ウィリアム・ジェイムズ William James(1842~1910)アメリカの哲学者、心理学者。プラグマティズム。小説家ヘンリー・ジェイムズは弟。 越境性の回復を目指して 大澤 さて、九〇年代に知の中心は大学に移行し、制度化されていくわけですが、そのすこしまえに、のちの「社会学の時代」を用意する空間が台頭し始めます。たとえば言語研究会および『ソシオロゴス』(七七年創刊)がそうですね。そこでの蓄積が八〇年代後半に続々単行本になっていく。橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論』(八五年)、内田隆三『消費社会と権力』(八七年)、大澤真幸『行為の代数学』(八八年)、宮台真司『権力の予期理論』(八九年)といったあたり。上野千鶴子120もここに入れていい。  他方、九〇年代中盤以降の日本型カルチュラル・スタディーズの下地も着々と準備されていく。吉見俊哉121が『都市のドラマトゥルギー』でデビューしたのが八七年、小森陽一が『文体としての物語』『構造としての語り』で登場したのが八八年。小森さんはプレニューアカの前田愛の系譜に連なりますが、広く認知されるのはこのあたりです。その登場が文学研究に大きな転回をもたらす。つまり、八〇年代後半には、ニューアカ的な混成性を横目に、新世代の研究者の台頭が見られたわけですが、それはむしろ九〇年代以降の展開とのつながりで位置づけたほうが理解しやすい。  で、最初の問いに戻るんですが、これらを「批評」と呼ぶべきかどうか。判断が分かれるところですね。ポストニューアカ期でもある八〇年代後半以降は、狭義の批評の空洞化がいっそう加速する。絓秀実にせよ渡部直己にせよ、九〇年代には『批評空間』での連載で歴史的な発掘と検証に重心を移し、アカデミズムでも重要な参照項として密輸入されるようになる。それは大学人でありながら文芸批評家を名乗り始める小森陽一をちょうど反転させた現象としてあった。こう言うと、本人たちは怒るでしょうけれど。七〇年代後半から八〇年代で言うと、磯田光一と前田愛の表裏関係になぞらえてもいいかもしれない。  ともあれ、批評の空洞化に続いて、体制化=アメリカ型化が進みました。日本でもアメリカのように、大学人が批評稼業を兼ねるようになる。批評家も大学に帰属していく。そもそも専業批評家はどのくらい存在したのか。吉本隆明のすごさもこうした文脈で捉えなければならないでしょうね。 東 別の観点からまとめれば、今回、対象にした七五年から八九年までの時代というのは、従来の「人文知が文学を依り代とし、知識人が文学の批評を通して社会や政治を語る」という構図が崩れ、批評という言葉の意味が変わり始めた時代だと言えますね。批評は文学という足場を失い、なにを論じればいいのかわからなくなってしまった。その結果、批評という言葉がインフレを起こし、知の越境性そのものを指すようになった。柄谷さんの言葉で言えば「交通」です。その越境性こそが九〇年代になると大学に取り込まれていったわけだけど、他方、大学の外では、批評は扱うべき対象を失い衰退するほかなくなった。 市川 七〇年代から八〇年代にかけて、批評=文芸批評という時代が終わり、批評と小説の力関係も変わった。浅田彰と島田雅彦、あるいはのちの實重と阿部和重の関係がわかりやすいですが、小説が批評に追走するようになったわけです。柄谷と中上のようになりそうで、あるいはなりたくて、なれなかった。その結果、批評の側が文学の先細りを支えることを放棄してしまった感じがする。 東 文学も「越境する知」の一ジャンルにすぎなくなった。ただ、八〇年代以降、批評がいくら文学を支えようとしたとしても、実質的に支えられたかどうかは疑問です。 福嶋 テクストの知的テンションは七〇年代のほうが八〇年代よりも高かったと思う。その意味では、批評が人文知の越境運動を担うと同時に、それ自体の基盤が崩れていった時代とも言える。九〇年代の『批評空間』はそれに対する反動として現れた。ただ、反動の方向性がそれでよかったのかは別問題だと思います。 大澤 福嶋さんの『復興文化論』(一三年)は、むしろもっとまえの時代の越境性が強く意識されているように見える。 福嶋 ぼくは保守的に書いていると思います。ただ、狭義の文芸批評について言えば、そもそも書き手がまったくいない。ぼくのまえの世代だと市川さんか安藤礼二さんくらいでしょう。一〇年にひとりというペースです。でも、もう狭義の文芸批評はこのくらいのペースで行くしかないので、ほそぼそと絶やさずにリレーしていけばいいと思う。やはりこの国の文芸に責任を負う書き手は必要だと思うので。 大澤 ぼくは「批評」というマジックワードの輪郭について再帰的に考えつつ、組み替えていく仕事をやりたいですね。だから、批評なのか学術研究なのかに関しては意図的に攪乱している部分がある。『批評メディア論』(一五年)はその種の自己言及に満ちた本になっていると思います。 東 ぼく自身は、最近批評を「観光客的な知」と位置づけています。ぼくは最初から七五年以降のパラダイムで生きてきたので、批評とはそもそも越境する知のことであって、文芸批評のことではない。むしろ大学時代に「近代日本の批評」を読み、自分の好きな「批評」の歴史的な起源は文芸批評なのだと知ったくらいです。だからぼくは、逆にその足場を失った越境性をどんどん伸ばしていきたいんですよね。 大澤 越境性の復権を目論むぼくたちの共同討議の出発点をここに設定して正解でしたね。 東 そう言えば、今回はほとんど話題にならなかったけれど、七五年から八九年というのは、要はマルクス主義が力を失っていった時代でもある。マルクス主義は「大きな物語」そのものだから、マルクス主義と結びつけてさえいれば、文学について語っていても、美術や音楽について語っていても、自動的に世界について語っていることになっていた。だから「近代日本の批評」もマルクス主義と小林秀雄の話ばかりしている。ところがマルクス主義が失効すると、その枠組みが壊れてしまう。それこそが七五年から八九年にかけて起きた危機の本質です。そこで新たな総合知の足場として要請されたのが越境性であり、柄谷さんの言う「交通」だったのだと思う。  そしてその危機はいまも続いていて、社会全体がサブカル化し、タコツボ化した現在、越境自体ほとんど機能しなくなった。九〇年代には「心理学と社会学の時代」が来たと言われたものだけど、いまや論壇では政策コンサルタントしか必要とされていない。 福嶋 昔は上野千鶴子さんだって『古事記』の研究をしたりしていたけれど、いまの社会学は本当にそういうことをしなくなった。マルクス主義の復権はもうありえないでしょうか。『蟹工船』ブームみたいなものだとどうしようもないけれど、もうちょっとまともに理論的なものが出てくる可能性は……。 市川 二〇一四年から一五年にかけての、トマ・ピケティ122のブームが、たとえばそれに当たるのかもしれない。あるいは、「超訳 マルクスの言葉」みたいなやつね。それ自体が商品化されてしまうから、それこそ「資本主義に寄生しながら、内側から食い破る」という、いわばボードリヤール123的な戦略がもういちど出てくるくらいなのかな。 東 マルクス124主義の理論が経済学のなかで部分的に見直されたり、また運動論が注目されたりすることはあるかもしれない。けれど、かつてのマルクス主義が持っていた「大きな物語」の位置を取り戻すことはないでしょう。そのなかで、批評の越境性をどう回復するかが課題です。 大澤 やれたとしてもやるべきではないことが溢れている。きっとその基準を開示するところからでしょうね。本当にやりたいことをやる。 東 現代日本の批評の歴史を振り返るこの試み、今回は一九八九年までを概観してきました。次回の共同討議では、八九年から二〇〇一年までの一三年間を扱います。世界的には冷戦崩壊から9・11までですね。日本の論壇的には「社会学と心理学の時代」であり、阪神・淡路大震災、オウム真理教事件、インターネットの出現をはじめ、二〇一五年のいまにつながるさまざまな事件が起きた激動の時代です。それはまた、「思想」「批評」への信頼がいよいよ本格的に崩壊した時代でもある。その歴史から、いま、批評の未来につながるどのような教訓が引き出せるのか。次回もまたよろしくお願いいたします。 二〇一五年七月一二日 ゲンロンオフィスにて(構成=峰尾俊彦+ゲンロン編集部) 120上野千鶴子(1948~)社会学者。ジェンダー、家族、女性。『セクシィ・ギャルの大研究』『近代家族の成立と終焉』 121吉見俊哉(1957~)社会学者。都市論、カルチュラル・スタディーズ。『博覧会の政治学』 122トマ・ピケティ Thomas Piketty(1971~)フランスの経済学者。経済的不平等の研究。『21世紀の資本』 123ボードリヤール Jean Baudrillard(1929~2007)フランスの哲学者、社会学者。『消費社会の神話と構造』 124マルクス Karl Heinrich Marx(1818~83)ドイツの哲学者、経済学者、革命家。『資本論』 年表 現代日本の批評 1975-1989 現代日本の批評 1989-2001 Criticism in Contemporary Japan 1989-2001 基調報告 一九八九年の地殻変動 1989, the Year of Critical Displacement 市川真人    今から一世紀後、二一一六年に日本の文化史をマクロな視点で振り返ったならば、二〇〇〇年を前後して大きな断層があったと名指されることは、少なからず確かであるだろう。もちろん誰しもが自分の生きた時代を、とりわけ多感な幼少期と社会に足を踏みこんだ青年期に出会った世界を特権化しがちであるのだから、一九七〇年代から九〇年代に生まれた者は、自分たちにとってそうした時期である前記の時代をそのように言う無邪気さを、厳に戒めなければならない。そのうえでなお、その時代(の始まり)から四半世紀が経過して、当時はかそけき気配しかなかった技術と生活習慣が社会の動かぬ基盤となった今日、具体的にどの〝瞬間〟が断層そのものだったと名指せはせぬにしろ「あのあたりからこのあたりまでのどこかにそれがあった」と振り返ることが、そろそろ可能なのかもしれない。少なくとも、「文学」や「社会」といった〝対象〟を携えてしか始まらない「批評」という名の迂遠な行為や、それを振り返り批評史の私案を作る試みにとっては、一九八九年から今日に至る四半世紀は、〝対象〟のありようが大きく変わった時代であるはずだ。 〝瞬間〟は名指せぬと言い募りながら「始まり」を口にするはしたなさの理由は、むろん、「一九八九年」が日本の戦後史または近現代史における大きな切断(の、小さく見積もってもそのひとつ)であるからにほかならない。戦前から足かけ六四年その地位にあり戦争責任問題や戦後憲法起案の要諦でもあった昭和天皇1の崩御が、たんなる象徴と元号の交替に留まらぬ感傷を日本中に及ぼして生じた様々な「自粛」が、この国の前近代性(浅田彰言うところの「土人」性!)を再確認させる一方、ソ連のアフガニスタン撤退完了に始まる政治変動が、ハンガリーの「鉄のカーテン」撤去(八九年五月)や中国の天安門事件(六月)、ポーランドでの「連帯」勝利(同)に「汎ヨーロッパ・ピクニック」(八月)、そしてハンガリーの社会主義放棄(一〇月)を経て、戦後を象徴してきた〝ベルリンの壁〟の崩壊(一一月)というクライマックスへと、ヨーロッパ全体を覆っていった。その仕上げが、同年最後の月にアメリカ大統領ジョージ・ブッシュ2とソ連の最高会議議長ミハイル・ゴルバチョフ3による、「冷戦の終結」を宣言するマルタ会談の開催である。  手塚治虫4や美空ひばり5の他界がわかりやすく〝昭和の終わり〟を印象づける一方で、世界的な地殻変動は、はるか極東の島国である日本においても、半世紀近く続いた思考の枠組み自体に大きな変化を及ぼした。(今となっては口にすること自体が安手の紋切り型に響く)「五五年体制」や当時の危機意識や世界観の基盤となった〝資本主義と社会主義(自由主義と共産主義)〟の二項対立が、一瞬にして揺らいで見えたのだ。イデオロギーの闘争として歴史を捉えるフランシス・フクヤマ6の『歴史の終わり』(九二年)が、カルト的ファシズムを要素に加えつつ(八九年時点の日本においてそれが抑圧されきったことになっていたのは、言うまでもない)民主主義と自由主義の勝利による対立の終焉を描いたとおり、そうした政治的な対立構造の喪失は以降しばらくの期間のひとびとを、自分の思考を〝わかりやすい対立の図式〟に収めることから意識的ないしは無意識的に遠ざけることになる。  そうした空気はすでに「ニューアカデミズム」の名で、八〇年代前半から、言わば全共闘的な枠組みへのカウンターあるいは冷笑として商品化されていたものの(さらに遡れば七七年の『エピステーメー』臨時増刊で豊崎光一7がジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「リゾーム」を紹介したことによって準備されてもいた)、折しも訪れたバブル経済による大衆消費社会の爛熟は、右のような態度を読者=消費者の水準に広く共有させてゆくことになる。  では、このような状況下で、先行する、あるいは遅れて訪れる〝読者〟としての批評は、どのように変化していったのか。二〇〇〇年代以降の批評とそれをとりまく環境の激変を準備したであろう変化が、まさにこの時期に訪れたのだ。さて、どのように? 1昭和天皇(1901~89)在位期間1926.12.25~89.1.7 2ジョージ・ブッシュ George H. W. Bush(1924~)第41代アメリカ大統領(1989~93)。 3ミハイル・ゴルバチョフ Mikhail Sergeevich Gorbachev(1931~)ソビエト連邦最後の最高指導者(第8代、1985~91)。 4手塚治虫(1928~89)漫画家。『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』『火の鳥』 5美空ひばり(1937~89)歌手。「柔」「川の流れのように」 6フランシス・フクヤマ Francis Yoshihiro Fukuyama(1952~)アメリカの国際政治学者。『政治の起源』 7豊崎光一(1935~89)フランス文学者。ロートレアモン、フーコー、ブランショらの翻訳・紹介。 1│『Mの世代』の時代  断層の始まり、言わば〝過渡期〟としての一九八九年は、刊行された書籍で見る限りむろん〝それ以前〟の批評の集積がほとんどだ。フランスの反近代主義とナチス協力の系譜を七年がかりで論じた福田和也8『奇妙な廃墟』(一二月)はもとより、ルイス・キャロル9の〝視姦〟を論じて「自在かつ野蛮に生成する読者」を標榜する渡部直己『読者生成論』(七月)、大江健三郎・村上春樹・井上ひさし・中上健次らの長篇が同一の説話論的構造に収まると論じた實重『小説から遠く離れて』(四月)といった、近代批判を内包した麗しき〝ポストモダン〟的文芸批評たちは、そうであるからこそ、彼らが反省的に批判する対象としての「モダン=近代」に立脚している。  それに対して、文字通り〝八九年〟的な書物として登場したのが、大塚英志と中森明夫の対話を軸に構成された『Mの世代』(一二月)だった。四件の幼女誘拐殺人事件の犯人としてその年の八月に逮捕された宮﨑勤10をめぐり「『事件の渦中に』出版することを目標にした」(太田出版編集部による前書きより)いかにも急ごしらえ的な同書はしかし、いま振り返れば、その反射神経によって八九年的な空気を色濃く映している。  同書では、宮﨑の部屋に踏みこんでホラーやポルノビデオにフォーカスする報道映像を前に「同世代の感受性としか言えないようなものまで、今、断罪されようとしてる」と感じる中森に対して、「M君と自分がどう違うのか」わからなかったという大塚が「中森さんの、『オシャレ泥棒』を踏まえて、『少女民俗学』という本の中で、一つの女の子の心象風景として、〈かわいいもの〉を自分の部屋に並べていって、その中に、つまり自分の少女性みたいなものを閉じ込めるという、すごく抽象化された、モデル化された女の子像を試みに書いてみた」ことを吐露する。そのうえで大塚は、自分あるいはその論の由来となった中森の感覚のあり方と、テレビカメラが写した宮﨑の部屋とが、重なりあうと言うのだった。  ここで大塚の言う「少女」とは、女性の商品価値を高めるために近代が行なった囲い込みの産物であり、「『生産者』になることに待ったをかけられた」(『少女民俗学』)存在である。同書で柳田國男を踏まえて「近代より前に〈少女〉はいなかった」と書く大塚が、ヴァン・デン・ベルク11とフーコー12そして大塚と同じく柳田を踏まえて「われわれがみているような『児童』はごく近年に発見され形成されたものでしかない」と論じた柄谷行人『日本近代文学の起源』と前提を共有することは、この時点でも明らかだ。だが、柄谷がそうした転倒を、教育や学校さらには近代国家という〝制度=物語〟とその制度下の主体への内省に結びつけたのとは裏腹に、「生産を価値の中心とする男性文化の対極にあった」(『少女民俗学』)はずの〝彼女たち〟の文化が消費社会化する日本で男性文化にも広く共有されるようになったのだと、〝少女=消費〟を肯定する大塚は、「消費することで人は癒され、場合によっては他者さえも癒そうとする。[中略]消費と広い意味での宗教的な救済は一つの行為としてあったことのように思えてならない」(『〈癒し〉としての消費』あとがき、九一年)と、近代を超えて継続する宗教的な文脈へと置くのだった。  柄谷と大塚の〝消費〟をめぐる態度の違いは、十数年後にもういちど、より具体的なかたちで浮上することになる。だが、そのことは今は措こう。「批評」の問題として、この八九年(あるいはその延長線上)に刻まれるのは、そうした大塚的な〝少女的なもの〟としての消費や「かわいい」という価値観が、それ以降の批評に共有されてゆくことなのだから。 8福田和也(1960~)文芸評論家。『日本の家郷』『甘美な人生』 9ルイス・キャロル Lewis Carroll(1832~98)本名はCharles Lutwidge Dodgson。イギリスの作家。『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』 10宮﨑勤(1962~2008)東京・埼玉で起きた連続幼女誘拐殺害事件(88~89)の容疑者として逮捕、死刑。 11ヴァン・デン・ベルク Jan Hendrik van den Berg(1914~2012)オランダの精神科医、心理学者、現象学的精神病理学。『引き裂かれた人間引き裂く社会』 12フーコー Michel Foucault(1926~84)フランスの哲学者。『言葉と物』『監獄の誕生』 2│「かわいい」という価値観  大塚英志が少女たちあるいは消費に〝発見〟した「かわいい」という記号は、それぞれの消費者が固有の物語を対象に読み込む行為の象徴として、用いられた。のちに東浩紀が「データベース消費」と名づけるものに遠く結びつくこの視線は、八九年の時点ではさしあたり、M=宮﨑勤をめぐって用いられてゆくことになる。宮﨑(や、彼との違いがわからない自分自身)にとっての〝少女=消費〟を支える「かわいい」という価値観と、犯罪をまんがやアニメへの傾倒の結果と捉えるメディアの言説とは、いずれも「物語」である点で優劣をつけられるべきでなく、またあるはずがない──そう考える大塚は、同時代の日本を包んだ「資本主義の勝利」を、フクヤマ的なイデオロギーの勝利としてではなく、消費/消費をする消費者の優越と捉えていた。  宮﨑事件をめぐる大塚英志のそのような考え方に、とりわけ印象深い反応を示したのは、上野千鶴子と宮台真司という二人の社会学者だった。その名を知れ渡らせた『スカートの下の劇場』(八九年)の刊行直後に宮﨑勤の逮捕が起きた上野は、浅田彰・伊藤俊治13らの元『GS』組と共に編集委員を務めていた『季刊都市』(都市デザイン研究所)に大塚を招いて宮﨑事件をめぐる対談を行なったほか、同書の文庫本あとがき(九二年)で事件に触れて「男性のセックスの現場からの撤退と、フェティシズム化という終章〔「性器を覆う絹のラップ」〕の予測を裏づけるような事件だった」と振り返る。「去勢恐怖に追い詰められた男の子たちの退行」について「ファンタジーの中で完全に世界が完結しています。はてしなく手続きが延びていって、はてしなく手続きが自立化していく」と論じる一方で、女子も「ナルシシズムの王国の中で自分自身の肉体の値打を発見」するのだと、大塚の仕事に触れつつ上野が語るとき、そこでの「ファンタジー」や「ナルシシズムの王国」は、大塚の言う〝かわいい〟の価値観と同じものを指している。  一方、やや遅れて論壇に登場した宮台真司は、九四年の『制服少女たちの選択』で、「かわいい」が「無害化ツール」となる様相を指摘した。七〇年代以降、「わたしだけがわかるわたし」意識を背景に、女子カルチャーに「かわいいコミュニケーション」が流布したが、それは八〇年代後半に〝なんでも「かわいい」と言っておけばOK〟的な「無害化」のための手段へと、適用範囲を拡張していったのだ、と。それは、少女たちが親の前で屈託なく「適当に合わせる」ことと同様に、消費社会の圧力によって無力化された〝倫理〟に替わるものである、と宮台は言う。  少女文化において、倫理が消費社会で無力化されること。宮﨑勤にも通じるそうした感覚を、大塚は『Mの世代』の翌年の論考「〈かわいい〉の誕生」のなかで、明治末期から大正期に起源を持ち、八〇年代に「実体化=商品化」されたものだと捉える。物語の中に封じられていた幻想が、消費によって現実化した、というわけだ。  大塚によるその遡行的視線は、同年に柄谷行人が発表した「歴史の終焉について」(『終焉をめぐって』〈九〇年〉所収)の、「高度情報・消費社会に入った日本にあらわれたポストモダン的な傾向は、ある意味で江戸時代の三百年の平和において洗練されたスノビズムの再現でもあった」という捉え方に通じるものがある。異なっているのは、柄谷があくまで「日本の近代文学や思想は、基本的に西洋的な理念や意味を規範とし、いわば『人間的な主体』たらんとするものだった」と人間性や主体性との距離感において批判的に現代性を捉えたのに対して、ボードリヤールを参照する大塚は「劣悪な『使用価値』を[中略]キャラクター=記号で克服」するものとして、消費文化をあくまで肯定的に捉えようとした点だった。  そうした「肯定」の様態は、政治的ウィングを超え、また当事者同士がどう思うかにかかわらず、九二年に『週刊SPA!』で連載が開始された小林よしのり『ゴーマニズム宣言』に繫がってゆく。「知識人というものがいかに知識を膨大に蓄積していようと[中略]どれほど我々一般人の常識に腑に落ちる言葉を吐いてくれ」るかという疑問から出発したという連載は、「思想」のイニシアチブを一般人=消費者個人に置いた点で、大塚的な「かわいい」の論理と通底している。そのことは、連載第一回の「序章」で「しょくん勇気を持て! 勇気を持ってゴーマンをかますのだ!」と呼びかけて始まった「ゴーマン」が、読者個人に対する「自分の意見を主張すること」への肯定そのものである半面、小林個人が読者に向ける主張や煽動は「ゴーマンかましてよかですか?」と問いかけられていることに、象徴的に現れている。その後どれだけ連載のスタイルや内容が変化しようと、今日まで維持され続けるその決めゼリフは、〝傲慢でありながらも、その傲慢を「読者の許可」を得て行う〟著者の消費者優位の装いに他ならない。  のちに『「彼女たち」の連合赤軍』(九六年)のあとがきで大塚は、浅田彰が中沢新一との対談で「宮﨑勤事件はもちろん、連合赤軍事件だってたんにくだらないと思う。落ちこぼれの馬鹿が誇大妄想にかられて暴走したら、ろくなことにならないというだけのことでしょう」と語ったことに触れ、浅田が批判する〈矮小さ〉を正確に記述し歴史化することこそ、自らの意図なのだと書く。そのような九六年の大塚自身は、いまだ矮小ではない「歴史」の存在を信じてもいただろう。だが、以後の事態は、それを上回って加速した。浅田が言うところの「落ちこぼれの馬鹿」こそが、マジョリティとして「ゴーマン」かます時代が訪れるのだ。  では、そこで「批評」はどのようにありうるだろうか。 13伊藤俊治(1953~)美術評論家。写真史、美術史。『ジオラマ論』 3│オウムという「偽史」と社会学あるいは消費税  右のような俯瞰のもとでは、八九年からの時代は、それまでの「ポストモダン」状況も含めた〝近代〟と、現実に訪れた〝ポスト近代〟との端境期だったという捉え方ができる。前出の「歴史の終焉について」が(当時の概念における)「ポストモダン」状況を江戸的スノビズムと接続したうえで「それまで、日本の近代文学や思想は、基本的に西洋的な理念や意味を規範とし、いわば『人間的な主体』たらんとするものだった」(傍点引用者)と語るとおり、その変化は「主体」のありようをめぐるものとして捉えられた。逆に言えば、大塚が擁護するような「消費者」は、主体でありながらもたんに旧来の「主体」ではない。リオタール14的な「大きな物語」を失い、限りなく「矮小」であるが、そのことによって(逆説的に)自らの「物語」を持つ主体である。  もとより、そのような外的状況の変化に伴う、慰撫とも呼ぶべき〝内側への価値の発見〟は、戦中期の河上徹太郎15らによる「近代の超克」をはじめ、内と外の切断をどこに置くにせよ、過去に幾度となく繰り返されたことではある。だが、消費社会下でのそれが(近代的個人主義の成果として、そして宿痾として)特殊であったのは、「購買」というその行為が、いわば諸階級を超えて諸個人間の闘争であり、なおかつマーケット(とその調整者としてのコマーシャリズム)の徹底的な支配下にある点だ。いわばそこでは、消費者としてどこまでも「ゴーマン」に増長した、しかし判断の視点がどこまでも矮小な、無数の主体が蠢くことになる。  政治的には前記した冷戦構造の終結が、経済的には消費社会の際限のない細分化が、スノビズムのイメージとは真逆の、矮小さに基づく無数の主体を作り上げた九〇年代。そのこととも相まって、批評史的には以後、言わば〝哲学と社会学の競合〟に近い状況が訪れる。批評の対象のサブカルチャーと呼ばれる様々な領域への分散は、普遍のための批評から個人のための批評への移行であり、原理的な構造に遡行するための批判から、(現在の状況を前提するという意味で)現状を肯定して始まり、結果として論理をあとづけて社会を分析する批評への変化だ。小林秀雄以来の、もとより自分を語ることで成立する「批評的エッセイ」の一応は原理を装った屈曲は捨てられ、社会あるいは統計という装いで(「ゴーマンかましてよかですか?」と同様の)無数の主体/個人への配慮が示されるようになった(逆に言えば、スノッブな独白であれ賢すぎる分析であれ「わからない」批評はより敬遠され、「自分たちにもわかる」か「わからないけれどなんとなく共感できる」ものが好まれた)ということだ。その先駆けのひとつが、九五年のオウム真理教による地下鉄サリン事件とその後の批評の反応だったのだと、今となっては(むろんこれもあとづけにすぎないが)振り返ることができる。  とはいえ、宮﨑事件に対して大塚と中森が指摘したのと同様に、当時騒がれたほどにも、また事後的に物語化されたようにも、オウム事件それ自体は特権的な出来事などではなかった。少なくとも組織として見る限り、彼らの実態が、浅田彰が「落ちこぼれの馬鹿」による「誇大妄想の暴走」と言い放ったとおりであったことは、オウム真理党の選挙を生で観れば一目瞭然だったはずだ。たとえるなら、又吉イエス16やマック赤坂17といった候補者が、本気で自分が都知事になると信じている姿を思えばよい。それらが、少なくとも合理的近代の様態ではなかったことは、宗教団体である以上は自然なことかもしれなかったが、それでいて自分たちの組織に「~省」などと名づけて子どもじみた「近代的官僚政治ごっこ」をしていた点にも、その倒錯性が表れている。  たんなる無知にもとづく田舎者的な官僚制度への憧れでないならば、そのように倒錯してまで彼らが突破口を求めたのはなぜなのか。宮台真司はいちはやくその原因を〝八〇年代からの「終わらない日常」に適応できたかどうか〟〝「失われた栄光」の記憶を持つかどうか〟の違いに見いだした。従来は、言わば「世代的な違い」として存在したその落差は、八〇年代以降、同一の世代内で分化し始めたと宮台は言う。「同じ世代のより多くの人間たちが『等身大の輝き』を自由に享受するようになればなるほど、それを自由に享受できない者たちは追いつめられ」「等身大のコミュニケーション『からの』自由を求めるように」(『終わりなき日常を生きろ』)なった結果が終末願望や宗教ブームであり、そこでは偽りの歴史が刻まれ始めることになる、と。  こうした宮台の視点は、大塚が『物語消費論』(八九年)で設定した〝「ビックリマン」をめぐる消費者たちの個人的な物語の捏造─消費〟にも通じるが、そのことは別項にまわそう。ともあれ宮台によるこのような定義は、ひとりひとりが「人間的な主体」を目指したはずの個人が無数の矮小な物語に分散した「ポストモダン」の様態を、効率よく再統合=還元するロジックとなる(宮台のそのような手法は、二〇〇〇年代に至って「天皇制の政治的利用」へと正しくシフトすることになるだろう)。それは先に述べた通り、近代の「人間的主体」を前提とした哲学的批評とは異質な、統計学やマーケティングとも相性のよい「批評としての社会学」の手法であり、無数の個人の主体性を(直接的には批判しないという意味で)肯定する一方で、無数に多様化した消費をコントロールするために、主体を主体として捉えず「群れ」として捉えることになる(そして、それが個人の主体性をじつのところ剝奪していることは、問題にされない)。それはあたかも、バブルまっただなかの八九年に導入された新税が、主体としての「個人(の収入)」に紐づけられた従来の直接税ではなく、消費という(無人称化された)「行為」を対象として収税を図っていたことと、あまりにもよく似ているのだった。 14リオタール Jean-François Lyotard(1924~98)フランスの哲学者。『ポスト・モダンの条件』 15河上徹太郎(1902~80)文芸評論家。『文學界』同人。『日本のアウトサイダー』『吉田松陰』 16又吉イエス(1944~)本名・又吉光雄。政治活動家。世界経済共同体党代表。 17マック赤坂(1948~)本名・戸並誠。政治活動家、実業家、セラピスト。スマイル党総裁。 4│二項対立から遠く離れて  こうした時代的な移行には、少なからぬ性差が前提されていた。もとより「かわいい」という語彙が女子たちのものであったことは、男子よりもはるか以前から「輝きのない未来」に耐えてきたためだ、と宮台は言う。「女の子にとっては結婚が輝きを失った七〇年代後半にはすでに、『輝きのない未来』は自明なものになっていた」のだ。  だが/だからこそ、この時期に、結婚のように一般的かつ制度化されたものとは別の「輝き」をつかみ取ろうとする批評が、女性たちの手で増殖しはじめる。「メインストリームとサブジャンルの境界解体への試行こそ、実は、父権的文学制度への挑戦なのだ」と捉える小谷真理18も、そのひとりだった。  小谷は、七〇年代から孤軍奮闘してきた中島梓の次世代として(しかし「群像新人賞」出身の中島のように文芸誌の門を叩くのでなく、SF大会への参加から)登場し、「同質性と異質性とのあいだを振り子のように揺れ動く」従来の男女二項対立的フェミニズムを離れて、ダナ・ハラウェイ19の「サイボーグ・フェミニズム」やアリス・ジャーディン20の「ガイネーシス(女性的なもの)」などの影響を受けて、九四年に『女性状無意識』を上梓する。  九〇年代の画期のひとつとも呼べるその批評は「家父長的男性優位社会にあって社会の枠組におさまりきらない」夢・狂気・無意識など(と従来の枠組みでは呼ばれたもの)が織りなす「アングラ言説空間」に踏みこんだ。その空間で生まれた『スタートレック』の二次創作や、日本の(のちのBLに通じる)「やおい小説」は、ポストモダン的なテクスト(読者)生成論の産物としての「誤読」であり、「消費=無抵抗受容といった先入観」を覆す文化的遊牧の行為であると彼女は定義したのだ。  そのような捉え方はとりたてて新奇なものではなかったし、消費システムを「既存文化へのハッキング」として積極的に行使する小谷の姿勢は、先行する大塚的な態度とも近い。だが、ジェンダーの抑圧を受けてきた者としての〝女性〟の手でなされたとき、そうした批評の意味は、より際立つことになる。「男性が小説世界を他人の行動・解釈・論理の結果として受け止めるのに対し、女性にとっては読む行為こそ知的男装を強いられることにひとしい」と捉える小谷は、栗本薫(中島梓)や萩尾望都・竹宮惠子らの名を挙げながら「やおい」的な女性の二次創作を、「関連のない事象に科学的関係性を発見・顕在化させる」〝関係妄想〟としてのSF的想像力であり、「既成のテクストを別の意味へと組み替える[中略]錬金術的テクノロジー」に満ちている、と主張するのだった。  批評史的観点で注視すべきは、小谷のような批評がこの時期、ジャンルを超えて同時代的に共有されていったことだ。上野千鶴子や藤本由香里21(白藤花夜子)ら、フェミニズムと強く結びついた書き手はもとより、小谷と同時期に『妊娠小説』でデビューした斎藤美奈子22や、「オリーブ酒井」を名乗るコラムニストとして出発して『机上の会社学』(九一年)を執筆した酒井順子23、のちに『草食男子世代──平成男子図鑑』で話題を呼ぶ深澤真紀24ら(深澤は斎藤のマネジメント担当者でもあった)、関係妄想やハッキング性の点でスタンスを共有する女性の書き手たちがこれ以降、「批評」なる語の意味を拡張してゆくことになる。 18小谷真理(1958~)文芸評論家。SF、ファンタジー。『女性状無意識』 19ダナ・ハラウェイ Donna J. Haraway(1944~)アメリカの学者。フェミニズム科学、霊長類学。『猿と女とサイボーグ』 20アリス・ジャーディン Alice A. Jardine(1951~)アメリカの文学者。ジェンダー、文化、アート、政治。『Gynesis』 21藤本由香里(白藤花夜子)(1959~)編集者、評論家。漫画研究、フェミニズム、性、風俗。『私の居場所はどこにあるの?』 22斎藤美奈子(1956~)文芸評論家。『文章読本さん江』『本の本』 23酒井順子(1966~)エッセイスト、コラムニスト。『負け犬の遠吠え』 24深澤真紀(1967~)編集者、コラムニスト。「草食男子」「肉食女子」を命名。『草食男子世代』 5│男性的批評、あるいは『批評空間』の時代  實重に代表されるテマティックな批評は、精神分析的な想像力とハッキングの産物である点で、小谷らの登場したこの時代にこそもっとも生き生きしておかしくない。だが、中島梓との筆名を使い分けた栗本や、編集者と批評家のスタンスを共存させた藤本らとよく似た所作として、華道家「草野進」の代理人を名乗りスポーツ批評を手がけていた實はしかし、戸棚に仕舞い込んだ「テレヴィジョン」への無関心を幼い息子に模倣せしめる父権的な側面の延長としてこの時期、東大の学部長を経て副学長・総長へと、従来以上の二律背反を己の身に課していた。そうした分裂は、テクストとの間に倒錯的なまでの関係妄想を示しながらも、文学者による湾岸戦争への反戦署名声明(九一年)や中上健次の他界(九二年)以後、天皇(制)との関係妄想に歴史観と政治的批判が介入した『不敬文学論序説』(九九年)へと至った渡部直己にも受け継がれる。小谷の言葉を踏まえればそれは、「(小説)世界を他人の行動・解釈・論理の結果として受け止める」所作に慣れきっていた男性批評家たちにとり、自覚的であり批判的であったはずのテマティストたちですらも、そこから離れることがいかに容易でなかったかの証左だと言えよう(こうした対比は、前記「署名声明」の文言と、それをめぐる加藤典洋『敗戦後論』の批判にも見いだせるが、同書をめぐってはこのあとの討議に詳しく語られている)。  この時期の梅原猛が「一神教から多神教へ」で、二〇世紀末の特徴として「一元論から多元論へ、一神教から多神教への動きがあろう」と予告しつつ、「一九〇〇年代の最後の十年間において、そのような歴史の方向は決定的になるように思われる」と書いたことは、先行する大塚英志『物語消費論』が物語消費をめぐる素材として、神々をモチーフとする「ビックリマンチョコ」を挙げたこととも共鳴していた。しかし、梅原や大塚自身がそう「論じ」たこと自体が示すとおり、あらゆる言説においては、多神教的な分散を単一の論理体系へと回収する力が働くこともまた事実だ。二〇一六年の現在もなおその矛盾が止揚されたわけではないにせよ、社会構造やテクノロジーがある程度そうした事態に対応するまでには(そしてそのことを捉えうる言説の登場までには)まだいくらかの時間が必要だった。  他方、日本のマルクス主義批評にとっては、『季刊思潮』と第一期・第二期の『批評空間』の歴史に、八九年以降の少なからずが集約される。市川浩・柄谷行人・鈴木忠志の三名で始まり、奇しくも八九年に浅田彰を加えた『季刊思潮』の新生である『批評空間』からは、大澤真幸『資本主義のパラドックス』や笠井潔『球体と亀裂』、野口武彦『三人称の発見まで』、村井紀25『南島イデオロギーの発生』、岩井克人26『貨幣論』、松浦寿輝『エッフェル塔試論』、絓秀実『日本近代文学の〈誕生〉』、渡部直己『日本近代文学と〈差別〉』といった優れた批評群が誕生したほか、ポール・ド・マンやフレドリック・ジェイムスン27、エドワード・サイード28、ジャック・デリダ、ジャン゠リュック・ナンシーやスラヴォイ・ジジェク29らが(NTT出版の「Any~」シリーズと相互補完するかたちで)紹介されてゆく。いま振り返っても壮観としか言いようがない「現代批評」の場面の詳細は討議に委ねるとして、ここでもうひとつ確認しておきたいのは、そのような時期の柄谷行人が〝消費〟に対して持っていた距離感だ。 〝消費〟をときに〝癒し〟ですらありうる脱中心的(女性的)なものと捉えた大塚英志や小谷真理と違い、柄谷行人にとってのそれは、かつてマルクスが生産様式において社会を捉え、資本主義の根幹として見いだした生産の諸関係と人間との関係を、反転する思想であり武器であった。すでに七四年の「マルクスその可能性の中心」や七九年の小林秀雄論「交通について」などで一貫して共同体や各主体の〝交通=間〟を重視してきた柄谷は、(日本)社会でとめどなく消費が前景化してきたこの時期、『NAM原理』や『トランスクリティーク』などの著作で、労働者としての主体が資本と国家に対抗する手段としての〝消費〟を見いだす。その定義や位置づけは、前述した大塚や小谷のそれとは決定的に異なっていた。  たしかに〝消費〟は、そのアタッチメントが微細かつ広範であり、生産の支配力とも拮抗できる点で、反転への有効な地点であるだろう。だが、そのように革命の手段として消費を定義することの唯一そして最大の時代的限界は、九〇年代の日本における〝消費〟が、「かわいい」という語に象徴される通り、各主体にとって〝固有の物語を読み込む〟行為へと変化していたことだ。消費者の権能のもっともおよぶ範囲であるという点で〝消費〟はむろん武器たりうるが、しかしその特徴は、規範的なものであることを自ら拒むことへも繫がった。〝消費〟が快楽であり癒しであるような時空間において、それをストイックな革命の武器とすることの困難は、NAM最大の可能性とまで語られた地域通貨によく現れていた。いかに「倫理的な貨幣」であっても、その購いうる商品に欲望喚起力が貧しく、兌換性にも著しく欠けるのであれば、それが貨幣として機能することは難しい。  そこに、エロ漫画の編集者として〝他者の欲望〟を身近すぎるほど身近に観察してきた大塚と、〝学生運動〟や〝批評〟や〝文壇〟の中心として自身が常に他者の欲望の対象でありつつそのことにあまりに無頓着だった柄谷との、大きな違いが現れていた。それは、古武術家やカーレーサーを招いたインタヴューまで行なわれていた『季刊思潮』が、『批評空間』とその第二期へと至る過程で、誌面をよくも悪くも純化させていった姿とも、よく似ている。 25村井紀(1945~)評論家。日本文学・思想研究。『反折口信夫論』 26岩井克人(1947~)経済学者。『ヴェニスの商人の資本論』、『終りなき世界』(柄谷行人との共著) 27フレドリック・ジェイムスン Fredric Jameson(1934~)アメリカの批評家、思想家。マルクス主義文芸批評。『弁証法的批評の冒険』 28エドワード・サイード Edward Wadie Said(1935~2003)エルサレム(パレスチナ)出身のアメリカの批評家、文芸評論家。『オリエンタリズム』 29スラヴォイ・ジジェク Slavoj Žižek(1949~)スロヴェニアの哲学者、精神分析学者。『イデオロギーの崇高な対象』 6│分散化する批評  とはいえ八九~〇一年の〝批評〟という枠組みにとって、『批評空間』が最大の軸であったことは間違いない。そしてそのことは、日本の現代批評の僥倖であったと同時に、ある一面では枷でもあった。それらの結果として九〇年代の批評は、いわば〝大艦巨砲主義〟的なマルクス主義批評路線に対して、〝サブジャンル〟をどのように「批評」できるか/するべきかという意識を次第に鮮明にさせてきたのだと言える。 『磯野家の謎』(九二年)に代表される「謎本」や鶴見済30『完全自殺マニュアル』(九三年)、あるいはフジテレビ系の「カノッサの屈辱」「カルトQ」等のトリビア番組のような九〇年代中盤のメディア。それらが果たした役割は、一見「批評」には見えないとしてもそのじつ、「近代」的な俯瞰システムと個別の特異性を共存させることで、〝全体〟と〝細部〟の両面に注視させる役割を果たした。九四年創刊の『ゲーム批評』や九八年の『サッカー批評』が、先行する『アニメージュ』等と同様に「批評」の対象を拡大してゆく一方、『このミステリーがすごい!』(八八年創刊)や『季刊リテレール』(九二年創刊)等が「書評」誌として、批評のミクロ化を後押ししてゆくことになる。同じころ、竹熊健太郎31と相原コージ32による『サルでも描けるまんが教室』(八九年連載開始)が、週刊マンガ誌を舞台としたマンガ表現によるマンガ批評という試みを始めていた。  上野千鶴子『スカートの下の劇場』やマーガレット酒井(酒井順子)『女子高生の面接時間』が、明治時代から続く「人生相談」的なスタイルを選択したこととも同様に、こうした一連の「批評」の拡大は、言わば明治以降の主体化と個人主義が、その権能をひろく一般に開放した帰結に近い。結果、こうした「批評」の多チャンネル化は、サブカルや文化批評がかつて「余技」とされていたこと自体を、よくも悪くも次第に忘却させてゆく。長らく批評の王道にあった文芸批評でも、平野謙33的な主観に基づくものは、マルクス主義批評との関係から出発した(しかしその点で影響下にある)構造主義的批評以前の、言わば直観的な味見であったはずだが、個別の主体性に重きを置き続けることで「批評」と「主観」の違いが次第に失われてゆく二一世紀が、このころから次第に準備されてゆく。  そうした個人的主体化を乗り越えて包括的な批評を行なおうとすれば、それは、眼前の社会を肯定したうえで分析し、そうすることで主体の個別性を逆消去した、社会学的なものにならざるを得ない。かつて小林秀雄が「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」(『様々なる意匠』)と語り、そのことこそが命脈であったはずの批評は、消費主義が導いた承認願望の結果、歴史性や構造を忘れて自身の主観と実存を優先した「懐疑の喪失」に陥ってゆくだろう。同時に、短射程の承認願望は、「己の夢」という長射程の個別性と能動性(としての批評意志)を喪わせ、統計学的に社会を積分してゆくことだけが目の前に残される。  このようにして生まれた無数の〝批評〟は、大艦のまわりに群がる飛行機と同様に、『批評空間』の周囲を埋めてゆく。そんな状況を切り開こうとし続けたのが、『批評空間』から離陸ないしは射出(放出)された東浩紀であったことは、このように四半世紀を振り返ると疑いない。だが、そのことを語るのは、また別の機会と場所であるべきだろう。 30鶴見済(1964~)フリーライター。『人格改造マニュアル』 31竹熊健太郎(1960~)編集者、ライター。『私とハルマゲドン』 32相原コージ(1963~)漫画家。『コージ苑』『かってにシロクマ』 33平野謙(1907~78)文芸評論家。『近代文学』同人。長年「文芸時評」を担当。『昭和文学史』 共同討議 平成批評の諸問題 1989-2001 Problems with Heisei Criticism 1989-2001 市川真人+大澤 聡+福嶋亮大+東 浩紀 1│「九〇年代」という問題 『Mの世代』の時代 東浩紀 「現代日本の批評」第二回は「平成批評の諸問題1989-2001」ということで、一九八九年から二〇〇一年までの批評を取り上げていきます。前回の共同討議は反響がとても大きく、中森明夫さんのような当時を知る方からも反応がありました。批判も含め大きな反響があったことは、テクストだけではなく、当時の空気を現実に体験したひとがいる時代について語ることのおもしろさとスリルの表れだと思います。八九年以降はますます現在に近くなっていくので、前回以上に反響があるでしょうし、そのぶん、難しさもあると思いますが、忌憚なく話していければと思います。  それでは、今回、基調報告を担当した市川さんからお願いします。 市川真人 この時代は東さんやぼくにとっては、主観と客観、読み返しと記憶が入り混じる難しい時期なのですが、出発点となる八九年は世界史的に振り返っても圧倒的に大きい年です。ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦の構造が崩れる。過去にもさまざまな論者が指摘してきたように、それは長く続いた大きな対立構造の終わりであり、西側観点での一瞬の凪が訪れたと同時に、振り返れば二一世紀のテロの時代の遠因ともなったわけです。  そうした八九年の重要性は、政治的、社会的な出来事にとどまらず、「批評」においても同じです。今回の基調報告の冒頭で「『Mの世代』の時代」として示したのは、そうした変化がいわゆる大文字の政治の変化としてだけではなく、大文字と小文字の対立としても起こったということです。すなわち、「イデオロギー」なのか「消費」なのかという問題が、くっきりと顕在化したのがこの時期でした。 『Mの世代』(八九年)という本はご存じのとおり、当時話題を呼んだ宮﨑勤事件を、大塚英志と中森明夫の対談を中心に、その他の書き手の論考や談話を含めて論じた本です。その出発点は「幼女連続殺人犯である宮﨑勤(M君)が自分とどうちがうのかわからない」というふたりの実感にあった。「ロリコンマンガとホラービデオの詰まった部屋が宮﨑勤という犯罪者を生んだ」という帰結がマスコミでは作られているが、そういう物語こそが自分たちに押しつけられたものであり、消費とは本来、イデオロギーから離れた自由なものではないかということがそこでは言われています。今日にまで通じる「マスゴミ」対「われわれの実感」的な論点もありつつも、なによりグロテスクな性犯罪者・殺人者の部屋としてでなく、「かわいいもの」を自分の部屋に並べる女の子たちの部屋と同質のものとして宮﨑の部屋を見て、そこに、自分たち自身とも重なるシンパシーを感じたわけです。 「かわいい」が好きな「少女」という枠組みそのものは、女性を商品化する文脈のなかにあり、少女を生産者になることから疎外された存在とみなすことです。基調報告にも書きましたが、この疎外の構図は、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(八〇年)に入っている「児童の発見」の影響下にある。けれども、柄谷さんがその「発見」を近代的主体性の確認の手段と捉えたのに対し、大塚さんと中森さんは言わば「主体性自体を疑う」態度から出発していたように見えます。それを敷衍すれば、八九年は大きなイデオロギーが崩れたあとで、どう新しいイデオロギーを手に入れていけばよいかを考える、言わば近代の意識や文脈を引きついだ言説と、イデオロギーなどとうに消費されハッキングされ尽くしているのだから、むしろそこでは「消費」そのものが主体化しているのだと捉える言説との対立が可視化された年だと言えるのではないか。まずはそれが第一の論点になります。 東 八九年以降の批評の歴史を『Mの世代』から始めるという選択は、ぼくとしてはたいへん頷けるところがありました。今回の時代を代表する批評家のひとりは大塚英志で、彼はまだこのとき三〇歳前後だったはずですが、この対談本には彼の立場がすでにかなりクリアに現れている。  ところで、ぼくが今回『Mの世代』を読みなおし発見したというか虚を突かれたのは、大塚英志が宮﨑勤を当初は冤罪だと考えていたというところです。冤罪だと思って擁護しようとしていたんだけど、そうではなかったことに驚き、言わば後づけで論理を構築したと語られている。 市川 大塚さんに好意的に読めば、宮﨑が犯人かどうか以前に、宮﨑をめぐるマスコミの報道のほうが問題じゃないか、という部分に意識が置かれていたのだと思います。それが結局、マスコミの言うとおりに宮﨑が犯人だと決着してしまった結果、自己批判も含めて再度論理化する必要が生じたということなのでしょう。 大澤聡 マスコミの狂騒に強くいらだちつつ、それゆえに宮﨑勤を「代弁」する、「守ってやる」と宣言した。当時の当惑と覚悟の背景は、のちに『「おたく」の精神史』(〇四年)などで回想されていますね。 東 大塚さんの宮﨑勤擁護論は、彼が宮﨑事件をめぐる報道や言説に巻き込まれてしまったからこそ生まれたということですね。『Mの世代』はその経緯がよくわかるドキュメントです。もうひとつおもしろいなと思ったのは、最後のほうでいきなり天皇制の話になっていること。中森さんは家族を否定して「リゾーム」的な人間関係を称揚するんだけど、そこで大塚さんは天皇制を肯定し、日本人は今後も天皇制的な家族を必要とするんじゃないかと言うんです。それには九〇年代末になって、小林よしのりや宮台真司が急速に天皇制に傾いていくことを予感させるものがあって、じつに興味深い。  ちなみに、ぼく個人は天皇や皇族にあまり関心がなく、拒否感もないけど敬意もあまりないので、小林さんや宮台さんの本は理屈ではわかっても、彼らがなぜそこまで天皇にこだわるかというのは感覚的にわからないところがある。もしかしたらそれは、昭和天皇を知る世代とあまり知らない世代のちがいなのかもしれない。昭和天皇の崩御は、まさに八九年、ぼくが高校二年のときです。 福嶋亮大 ぼくは九〇年代の言説はあまり詳しくないので、今日は本来、語る資格はないのですが、天皇に関しては世代によって享受のしかたがちがうと思います。昭和天皇はなんだかんだ言ってカリスマだった。それに対していまの天皇は、言ってみれば自ら率先して戦後民主主義を具現化したような存在で、戦後日本のファミリー像を築いてきたわけですね。カリスマとしての昭和天皇を知る世代と、それを抹消されてしまった世代では天皇の享受にちがいがあるでしょう。 イデオロギーなき世界──鶴見済と宮台真司 東 大文字のイデオロギーから小文字の消費へという力点の移動は、九〇年代前半の批評のひとつの軸を作っていると思います。そこでは、『Mの世代』に始まり、鶴見済の『完全自殺マニュアル』(九三年)、宮台真司ほかの『サブカルチャー神話解体』(同)、そして宮台単著の『制服少女たちの選択』(九四年)などの仕事が出てくる。そうしたなか、九五年に地下鉄サリン事件が起こるという流れです。  鶴見済と宮台真司の立場はほぼ同じで、大塚英志がいずれにせよ人間は国家とか家族を手放せないと考えていたのに対して、彼らはどちらも「イデオロギーなき世界で個人でいかに生きるか」を考えていた。『完全自殺マニュアル』は、イデオロギーがなくなり退屈な日常が訪れたので、そこから逃げだす手段を提供しようという本です。重要なのはガイドブックという形態を取っていることで、そこに消費社会に屈折した希望を見ようという態度がうかがえる。他方、宮台さんが援交少女に関心を持ったのも、戦後民主主義的なマイホーム=イデオロギーが崩れたあと、彼女たちが個人として強く生きているように見えたから。その前提のうえで、『制服少女たちの選択』では援交少女に対して新たな啓蒙を試みようとする。宮台さんは援交少女を断罪するのではなく、彼女たちに学問という武器を与え、自分たちがどんな困難に直面しているのかを自覚させようとした。 市川 彼女たちがしていたことを言語化し、肯定するということですか。 東 彼の立場はもうすこし複雑で、単純に肯定するわけではない。宮台さん自身、『制服少女たちの選択』で、必ずしも援交がいいことだとは思ってはいないと記している。援交することで手に入る自由はあるけど、失うものもあるだろう。そのことを自覚しながら、援交するかしないかを選択できるようになるべきだと言っている。 市川 援交少女への距離感は、宮台さんのなかでも揺れ動いていますよね。大塚英志『「りぼん」のふろくと乙女ちっくの時代』文庫版(九五年)の解説などで、援交少女が傷ついているかどうかをめぐる、大塚英志との論争もあった。 大澤 戦略的な認識として、宮台真司は「援交少女は傷つかない」派、大塚英志は「傷ついている」派。これは新人類世代の内面をめぐる論争でもあったわけでしょう。二〇〇〇年代に入ると、宮台さんは自身の見解と戦略が誤っていたと認めることになる。というのも、援交から撤退したリーダー層のかなりの部分が、いわゆるメンヘラと化していたことが判明するからですね。 東 論争としてはそうでしょう。ただ、『制服少女たちの選択』の時点での主張はもうすこしややこしいんですね。宮台さんは、あきらかに援交少女は傷つくと考えている。そのうえで傷つく自由も与えるべきだと考えている。啓蒙主義的というか、教育的なメッセージが込められている。 大澤 そう、事前に情報をシャットアウトするんじゃなくて、可能性として考えられるルートをすべて開示しきったうえで、さてどう生きるのか、それを個人に選択させる。「自己決定」問題ですね。汚いものを子どもたちに見せない、臭いものに蓋をする式だと、アングラにどんどん潜り込んでいき、余計に不可視化してしまう。 東 宮台さんは九〇年代末に「援交から天皇へ」転向したと言われるけど、この点では完全に一貫している。いまでも彼はナンパ塾をやっています。なんでナンパなのかはわからないけど(笑)、人生の選択肢を広げようということではあるわけでしょう。 大澤 類型化し尽くすスタイルも理論的な仕事と通底していますね。その認識にもとづく、自己決定能力の育成に重点を置いた教育プログラムの実践も提唱していた。現場へも介入していきます。ロビイングを通して政策立案にも関与する。そうしたスタイルは、のち一〇年代の若手言論人の有力なロールモデルとなっていきました。 東 宮台さんはやたらと「社会学では」「システム理論では」と言うけれど、それは要はメタ視点のことです。与えられた条件で人間が選びうるすべての可能性を記述し、それを比較検討したうえで自覚的に行動を決めろ、と。それが、イデオロギーがない世界でどう生きるかについての、宮台流の回答なんだと思う。  いずれにせよ、この点で『Mの世代』『完全自殺マニュアル』『制服少女たちの選択』の問題意識は通底していて、ひとつの流れを形成しています。ただここで注意しなければならないのは、のちに議論しますが、その横にはじつは小林よしのりが伴走していたということですね。小林さんもまた、イデオロギーなき世界の言論人として登場した。『ゴーマニズム宣言』のスタートは九二年です。そして当初は個人主義的でリベラルな立場にいたのだけれど、途中オウム真理教との対決(VXガスによる暗殺未遂事件)や薬害エイズ事件での学生運動への失望を経て、最終的には『戦争論』(九八年)で軍国主義肯定というか、大きな物語を復興せよというメッセージを発するようになる。大文字から小文字へという流れの果てに、ふたたび大文字へ回帰しようとするわけです。 大澤 国内の思想潮流の軌跡とも合致していますね。八〇年代から九〇年代初頭にはミクロポリティクスの分析がどんどん精緻化しました。あらゆる局面に政治性が見出された。フーコーの適用がその典型ですね。しかし、九〇年代後半には大文字の政治語りへと急速に戻っていく。後退と見てもいい。「歴史」や「意味」がふたたび前景化します。 天皇制への回帰 大澤 ところで、『Mの世代』の天皇制問題ですが、同時期に『物語消費論』(八九年)で展開されたビックリマンシールの構造分析と二重写しになっているんじゃないでしょうか。ぼくらは毎週日曜、皇室情報を小出しにされながら物語の断片を調達し、手元で全体を仮構することで継続的に大きな物語を消費している。 市川 日テレ系の「皇室日記」や、TBS系の「皇室アルバム」ですね。ちゃんと見たことはないけれど、番組制作者と話したことがあって、「間接的に、いろいろな実力者とすこしずつ会えるのがおもしろい」と言っていた。皇室の情報も、その周囲も、小出しにされるんですね。 大澤 当時小学生だったぼくは、ビックリマン直撃世代で、まさに専用の「アルバム」に一枚一枚シールを差し込んでいっていた。それはさておき、大塚さんの天皇制論と消費社会論は深く連動している。 東 『Mの世代』では、天皇と並び「家族」についても言及があるでしょう。大塚さんは八九年の時点で、これからは家族のテーマが大切になると予感している。いまでこそ論壇や文壇が家族の問題を主題にするのは、ごくありふれたことですが、八九年当時はそうではなかった。「家族」も「天皇」も、さらに言えば「かわいい」や「少女」も、いずれも九〇年代後半から社会的に注目されるようになる言葉です。大塚さんはそれを完璧に予見している。こういうところは天才的だと思う。 市川 天皇制の問題について言うと、宮台真司はのちに『援交から天皇へ』(〇二年、原著の『援交から革命へ』は〇〇年刊)などで天皇制と日本の差別構造の話をするようになりますよね。日本ではしばしば、「聖穢」と「貴賤」をごっちゃにするけれど、前者は印象にもとづく「差別」であり、後者は制度にもとづく「階級」であって、天皇制というのは本質的には前者である、というわけです。おそらくは、その混乱と曖昧さを支えるものが「天皇」という制度だったわけですが、八九年という時代と結びつけて考えれば、冷戦にもそうした構造がある。つまり、それは本来、資本あるいは資本家と労働ないし労働者の関係をどう捉えるかという、階級対立を孕むものでありながら、「われわれの資本主義と彼らの共産主義」であれその逆であれ、あたかも感情的なイデオロギー対立として語られたわけです。それどころか、ほとんど「清浄とケガレ」のようにすら語られた時代だった。資本主義とは聖なるものであり、共産主義やその過程である社会主義とは禍々しきものであるといったように。 東 社会主義が禍々しいの? 市川 少なくとも八九年時点の日本では、多くはそう語られていたはずです。そもそも振り返ると、戦後日本で資本主義と共産主義の対立が強く意識された遠因には、敗戦と戦後処理で天皇制を表面的に消去した結果、「清浄なもの=われわれ」と「ケガレ=排除すべきもの」という対立構造を、イデオロギーで代替せざるをえなくなったことがあるように感じられます。その構造は学生運動の時代には相互的にそうだったし、二一世紀になっても思想の左右を問わず、ときに北朝鮮に対してだったり、ときに原子力に対してだったり、論理的な批判とは別の、生理的嫌悪感として残っている。 東 それはわかりますが、資本主義はむしろ安定したムラの構造を崩し、ケガレを持ち込むものでは。 市川 ムラが自給的に安定していればそうだと思いますが、ぼくが言いたいのは、日本という国が資本主義以前から、つねになにがしかをケガレとして忌避する構造を必要としていたということです。そうして、ある時期に忌避の対象となった共産主義が、冷戦の終わりによって排除されきってしまった結果、再度「天皇制」の問題が浮上してきたのだろうということです。 東 なるほど。資本主義対共産主義は、この国で本質的な問題だったためしがない。本質的なのはむしろ差別であり、清浄とケガレの対立だった。冷戦時代はその問題はイデオロギーの言葉で語られ、本質が覆い隠されていた。けれども、共産主義が壊滅したあと、同じ問題に、しかもマルクス主義の言葉を使わずに対峙する必要が出てきたということですね。 市川 八九年以前には、資本主義と自由主義、共産主義と社会主義をめぐる対立項がありましたが、それらは完全な二項対立ではないことがつねに混乱の原因でもあったわけです。東さんが言ったように、資本主義=消費社会はケガレを呼び込むものでもある一方、自由主義は戦後民主主義にとって麗しき理想像でした。ケガれた資本主義と麗しき自由主義が社会民主主義的なオブラートに包まれて表裏一体となり、共産主義的なイメージを排斥してきたのが、あさま山荘事件と重なる高度成長末期から八九年までの日本だったように思います。ところが、そんな両義性や緩衝材が、八九年以降は機能しなくなってしまった。だからこそ「イメージとしての宮﨑勤の部屋」を、新しい消費社会は「消費以外のケガレを背負ったもの」として排除しようとしたのではないか。大塚さんたちが宮﨑の部屋を擁護しようとしたのも、そうした流れを受けてのことに感じられます。 東 昭和=冷戦の終わりとともに宮﨑勤が現れたというのは、たしかに象徴的な符合です。『Mの世代』で中森明夫が指摘しているのですが、八九年の八月一五日、つまり平成元年の終戦記念日の新聞の一面トップは、宮﨑勤事件のニュースなんです。つまり終戦記念日は宮﨑事件によってジャックされてしまった。大文字のイデオロギーが小文字の消費へと取って代わるという点で、象徴的な出来事だったと思います。 陰影の時代 東 今回主題としている八九年から二〇〇一年までのあいだ、とりわけ九五年までの六年間というのは、昭和期=冷戦期のイデオロギー対立では扱うことができなかった、日本社会の抱える構造的な問題がつぎからつぎへと露呈していった時代であり、それが言説にも反映している時代だったと言えると思います。  そして、次回の共同討議を先取りして言うのなら、二〇〇一年以降は、その露呈した問題がふたたび隠されていく時期だったと言えるのではないか。というのも今回、九〇年代の批評を読んで、あらためて思ったのは、この時代はじつに荒々しく、そのぶん新しいものに触れている感触があるんですね。たしかに、七〇年代や八〇年代に比べると重厚な本や洗練された理論は少ないかもしれない。そもそも単行本が少ないし、批評の輪郭も曖昧になっている。けれど、新しい表現を手探りで模索しているみずみずしさがある。  逆にそこから振り返って現在を見ると、新しい表現や思考は後退し、むしろ古くさい左翼のスタイルが復活している。それこそ鶴見済さんは、いまはツイッターをやっているんですが、そこに書かれているのは有機農法やデモの話なんです。『完全自殺マニュアル』の序文の、あのキレキレの文章の著者が、二〇年後にデモに行き着くしかなかったというのはどういうことなのか。 福嶋 鶴見さんにはニューアカに対する反発が明確にあったと思います。彼は、メンタルに問題があったとしても、そんなものは抗鬱剤で解消したらいい、唯物論的に処理すればいいと言うわけですが、それは八〇年代のニューアカが保持していたような知的格差すらぜんぶ崩し、人々の生を等価にしたいという欲望の表れだったと思うんですよ。知的階層なんて無意味だ、結局みな動物なんだから薬をやれば同じなんだと。それと同時に、消費社会の裏側にあった、それこそ死につながるような「屈辱」の問題を可視化していく。それもまた、ニューアカが見なかったものでしょう。こういう唯物論的な平等化と屈辱の可視化の両面作戦が、鶴見さんの本のプロジェクトだったと思います。 市川 その見方はおもしろい。『完全自殺マニュアル』を『動物化するポストモダン』(〇一年)の前史と位置づける、ということになりますね。 東 どうだろう。すこし違和感があります。単純に読後の印象としても、『完全自殺マニュアル』は『動物化するポストモダン』とちがって──と著者自身が言うのは屈折してるかもしれませんが──もうすこしじめっとしているというか、陰影がある本だと思うんです。文学的と言ってもいい。マンガ家の山田花子1の自殺についての記述など、随所で生きづらいひとのための本であることが強調されている。「ボーダーライン」に始まり「メンヘラ」「コミュ障」といった言葉がつぎつぎ登場する、九〇年代後半からゼロ年代にかけての心理主義の空気を予感している。  われわれの生なんて動物性に還元される唯物論的なモノにすぎないというのは、どちらかというと浅田彰の思想でしょう。『動物化するポストモダン』は、あきらかに浅田さんの影響下にある。鶴見さんも宮台さんももうすこし陰影がある。『完全自殺マニュアル』と『制服少女たちの選択』は、動物的な身体を選んでいるひとたちを応援しているように見えながら、じつは生きづらく傷ついた陰影のある人間をターゲットにしている。それはいまにいたるまで浅田さんにはまったくない視点であり、これこそが八〇年代と九〇年代の差異のように思います。 1山田花子(1967~92)漫画家。別名・裏町かもめ、山田ゆうこ。『神の悪フザケ』『魂のアソコ』『自殺直前日記』 代弁者としての批評家 大澤 陰影を孕んだ批評の登場なり再興なりは、同時に、批評家に特定層の代弁役が求められるようになった事態をも意味しています。宮﨑勤の代弁、死にたいひとの代弁、援交少女の代弁……。この手の批評のモードが九〇年代には全面化します。二〇〇〇年前後にはその不可能性が哲学的に議論されもしますが、とにもかくにも、「私」ではなく別の「だれか」について語る営為へと批評が変成していく。となると、批評の中心が文学領域でなくなるのは必然的な帰結でしょう。文芸批評家は社会批評家に取って代わられます。この点はじつは小林よしのりも同じ。最初は、「ゴーマンかま」すことが目的でしたが、それがいつのまにか「だれか」の代弁をするスタイルへと切り替わっていきます。「ゴーマン」が機能しなくなる時代の到来によって批評の位置価が組み替わった。 市川 くわえて、文学と社会の関係の変化が顕著だったのもこの時期ですよね。八八年から九〇年に書かれた文学論を集めた柄谷行人の『終焉をめぐって』(九〇年)は──これは実質的に、柄谷さんの最後の同時代文学論集ですが──大江健三郎や村上春樹を論じることで社会を語る、つまり文学に社会性を込めることが可能な個人が存在した、最後の時代の産物でした。九〇年代に書籍市場全体のピークが訪れたこともあり、「文学作品を読むこと」は相対的に恣意性を増した結果、「文学で社会を語る」ことは困難に思えるようになった。しかも、読者の需要に応える大衆小説がコマーシャル的に主流になったので、だったら小説などより市場の大きいコンテンツを介して、さらには社会そのものを対象にして論じるほうが、よほど効率的だという話になるわけです。その結果、大澤さんが言ったような流れとともに、ここまで議論に挙がった大塚英志や宮台真司、さらに鶴見済といったひとたちがより浮上してくる。 大澤 そのさきに東浩紀が登場する。東さんはオタクの「発見」によって批評家としての地歩を築きます。この点においては宮台や大塚の後継者でしょう。 東 とはいえ、『動物化するポストモダン』は、九〇年代の感性をばっさり切り落としてしまってもいる。いまのぼくが読むと『制服少女たちの選択』も『完全自殺マニュアル』も大塚さんの文章もすごく陰影がある。けれど三〇歳のぼくにはそういう陰影はまったく見えていなかった。だから、彼らの継承を意図したにもかかわらず、じつに陰影のない、フラットな本を送りだすことになった。もしかしてそこにこそ『動物化するポストモダン』の役割があったのかもしれないけど。 市川 しかも皮肉なことに『動物化するポストモダン』の出版後、ほんとうにオタクに陰影がなくなっていったでしょう? 東 そう言われてはいる。 市川 大塚さんの世代の、ひらがなで書く「おたく」は、あくまでも、近代的主体になろうとしてなりきれない私小説的な存在だったはずです。それは『動物化するポストモダン』が扱う「オタク」とは大きく異なる。 大澤 だから、大塚英志はおたくの問題こそが「文学」の問題なのだと言う。 市川 そう。そして彼は、同時代の文学はなぜこのひとたち=おたくを救わないのかと訴え続けるわけですね。 東 前回も言いましたが、それこそが大塚英志の東浩紀批判の肝です。ぼくのオタク論には文学がなかった。 オタクの主体化 福嶋 今日は二〇〇一年までの批評を主題にしているわけですが、『動物化するポストモダン』はまさにその時期の締めくくりに現れる。その点では最後に議論すべきかもしれないけれど、話の流れで続けると、あの本はある意味で「強者」について書いているとも言えますね。他者からの承認もいらない、セクシュアリティもいらない、内面が完全に蒸発してしまって、快楽装置だけがガチャガチャ動いていればいいという存在様式について書いている。それに比べると、最近のオタクはよくも悪くも「人間化」していて、承認もほしいし、オタクとしてのアイデンティティにもこだわる。東さんはいささか奇形化したポストモダン人を扱っていた。 東 それも著者としては違和感がある。『動物化するポストモダン』の議論の中心は、動物化というより「解離」です。単純に動物化にむかうのではなくて、動物的に欲望を突き詰める方向と擬似的に人間的であろうとする方向=シニシズムが「解離しつつ共存している」さまこそが新しいオタクなのだ、という言い方をしているはずです。けれども、片方の動物化の部分だけが強調され受容されてしまった。  むろん、著者は読者の解釈は受け入れざるをえないから、その解釈は、それはそれで受け入れます。けれども本意を問われれば、著者からするとそれは偏っていると言わざるをえない。動物化した世界のなかで動物的な手段を使って、いかに人間「らしきもの」を再構築していくか、オタクにはその使命が与えられている、というのが本来の『動物化するポストモダン』のテーマだった。 市川 そういうモチーフは、天皇制を媒介にしようとする宮台さんともつながるね。 東 そうかもしれない。その点では『動物化するポストモダン』にも九〇年代の陰影は入っている。  いずれにせよ、『動物化するポストモダン』が単純に動物化を肯定する本でなかったことはあきらかだし、実際ぼく自身は、動物的手段でいかに人間的主体を回復するかというテーマで『ゲーム的リアリズムの誕生』(〇七年)も書いている。けれどもこちらはほとんど読まれなかった。つまり、ゼロ年代には、動物的手段を用いての人間性の回復といった複雑な話は評判が悪く、これからは人間は動物なんだ、システムだけでぜんぶいけるんだ、という話のほうがウケたんですよ。それがゼロ年代の空気だった。そちらを代表して現れるのが、濱野智史さんの『アーキテクチャの生態系』(〇八年)ですね。 大澤 補助線になるかどうかわかりませんが、すこしアカデミズム方面に目を転じておくと、『完全自殺マニュアル』が刊行された九三年ごろ、「大正生命主義」をめぐる体系的な研究が鈴木貞美2の周辺で立ち上げられます。鈴木が編者となった『大正生命主義と現代』(九五年)や鈴木単著の『「生命」で読む日本近代』(九六年)がその成果ですね。大正期には、物質よりも精神や生命に優位性を置く思想の系譜が勃興していた。オカルティズムがわかりやすい例ですね。その素材を方々から発掘してくる。もちろんオカルトブーム自体は七〇年代から幾度も反復されていて、八〇年代には「精神世界」というタームがそこにあてがわれもするわけですが、九〇年代には学術的に「生命」というキーワードのもと再編される。この流れと鶴見本ブームには並行性があったのでしょう。 市川 それは、オカルティズムと鶴見済に共通性があるということですか? 大澤 そうです。徹底して唯物論的であるがゆえに、逆説的にオカルティックなものとして消費された。八〇年代の『宝島』文化には総じて陰影が欠落していました。のっぺりとしたカルチャー紹介に徹していた。まさにカタログとチャートでいける世界。オカルト界隈で言えば、荒俣宏3の台頭に象徴されます。『帝都物語』(八五~八九年)はまさにオカルト知識のカタログ小説だった。荒俣の仕事にも、自身の内面的な陰影はあまり見られませんね。そんな八〇年代的な空気をステップにして出現した鶴見や浅羽通明4のような書き手が、にもかかわらず「陰影」を抱えこんでしまうのが九〇年代なのでしょう。 東 この時期に日本の批評に問われていたものは、要は「オタクの主体化」だと思う。イデオロギーが壊れ、まわりにアニメとゲームとシミュラークルしかなくなってしまったようなオタクたちが、それでもいかに人間になりうるのか。そこでひとつの解としてオカルトが求められた。のちにオウムの登場により潰えるけど。 市川 そもそも消費の本質は、消費者に主体性があるようで、主体性が対象物のほうにどんどんずれていってしまうことにありますよね。「ビックリマン」でも今日のガチャでもそうだけれど、キャラクターに物語を付与すると同時に、あるいはそれ以前に、自分はなにを持っていてなにを持っていないのか、どこまでそろえられているかという感じで、フェティシズムのようなものにより、客体が主体性をどんどん吸着してしまう。だからこそ、消費が極限まで進んだ九〇年代や「おたく」には、空っぽになってしまった主体をふたたび充塡し、再度主体を構築することが求められるし、その可能性がある。じつは同じ意味で、小谷野敦5の『もてない男』(九九年)も重要な仕事だと思います。そもそも小谷野さんは、九〇年代に何度か『批評空間』に書いているんですよね。 大澤 夏目漱石の「ファミリー・ロマンス」を扱った。 市川 そこから彼は恋愛の問題を中心に据えるようになりますから、『もてない男』もその流れなんですよね。すべてを社会システムとして論じるようになると、モテる/モテないの問題もメタレベルのシステム論に回収されて、宮台的に「悩むなら女性を性的に買えばよい」となってしまう。しかし童貞である男の苦しみはそんなことでは解決しないし、そこにこそ文学の意味もあるのだ、というのが小谷野さんの主張です。これはこれでオタクに主体性を与えるひとつの方向として、現在につながっている。 大澤 ゼロ年代を先取りする画期的な提起でした。それと、そもそも大正生命主義そのものが「オタクの主体化」というコンテクストから出てきたものだったとは言えるでしょうね。つまり、白樺派にせよ大正教養主義にせよ、大正期はずいぶんオタク的な時代だった。あと、鈴木貞美たちの論文集と同じ月に、『モダニズムのハード・コア』(『批評空間』臨時増刊号)が出ている符合もじつに象徴的ですね。 福嶋 九〇年代的な主体の様式ということで言うと、大澤真幸さんのオウム論『虚構の時代の果て』(九六年)が明快だと思うんですけどね。彼によると、オウムは、内在的他者と超越的他者が接してしまっている。麻原彰晃6はある意味ゲロゲロなものなんだけど、そこになぜか超越性が宿ってしまう。大澤さんは同じ枠組みでオタクも分析している。彼は基本的にオタクとオウムを区別していない。  低俗でゲロゲロでどうしようもないものの集積こそがときに超越に接してしまうという逆説的な感覚が、九〇年代以降のモードだと思う。最近のイスラム国なんかも言わばイスラム教のカリカチュアであり、かつ国家のカリカチュアであるわけだけど、むしろまともな宗教/国家よりも低俗なパロディのほうが人心をつかめるという、そういう状況もオウムは先取りしているわけですね。九〇年代以降は、この逆説的な感覚を宿せないメディアはどうも冴えなかった。実際、八〇年代までの文学的・思想的なコードだと、こういう地獄と天国が短絡していく世界は捉えにくかったのではないですか? 『虚構の時代の果て』はそういう新しいコードを言語化しようとした本だと思います。 東 『虚構の時代の果て』は、オウム真理教についてかなり早い段階で分析の枠組みを作った本ですね。 大澤 同時期に出た『制服少女たちの選択』と『虚構の時代の果て』をいま並べてみると、九〇年代における両者の社会との間合いの取り方がよくわかる。かたや援交少女が、かたやオウム信者が、批評を駆動するアイテムとして取り出された。結果的に、後続する批評家たちは社会を語る際にそれに相当する強烈なカードを──それこそ当時発売を開始した「ポケモン」のように──発見してこなければならないという切迫感に苛まれる……。 東 そして大澤さんは、東は両者に対してギャルゲーオタクを選んだと言いたいわけだ(笑)。それはともかく、『虚構の時代の果て』は、「理想の時代」「虚構の時代」という見田宗介の時代区分を再発見し、ふたたび光を当てた点でも重要な本です。『動物化するポストモダン』もその前提のうえで書かれている。 2鈴木貞美(1947~)日本近代文学研究者。『転位する魂 梶井基次郎』 3荒俣宏(1947~)小説家、博物学者、妖怪評論家。『大博物学時代』 4浅羽通明(1959~)評論家。『ニセ学生マニュアル』、『知のハルマゲドン』(小林よしのりとの共著) 5小谷野敦(1962~)文学研究者、小説家。『軟弱者の言い分』 6麻原彰晃(1955~)本名・松本智津夫。元オウム真理教教祖、確定死刑囚。 2│陰影と屈折の時代 九〇年代前半の豊作 東 ここまで大塚英志と宮台真司を中心に九〇年代の問題を語ってきました。東浩紀が企画する共同討議だからしかたないわけですが、当然ながら九〇年代の批評の魅力はそれにとどまるものではない。というわけでちょっと視野を広げたいのですが、あらためて年表を見ると、宮﨑勤事件の八九年からオウムの九五年まではかなり豊作なんですね。逆に九五年を過ぎると、ガクっと緊張感が落ちるというか……。 市川 今回いろいろ読み返して、ぼくもそう感じました。九〇年代前半は、昭和と冷戦が終わったもののまだ新しい価値観が定まらない、一種の空白の時代だけれど、戦後民主主義が立ち上げた主体性の成果と痕跡が総括された時期でもあって、その結果が本になっている。ところが、震災とオウム事件を経ると、そうした痕跡による宙づりが維持できなくなって、国家主義や心理主義に陥っていくんですよね。 大澤 それは年表を作成していても、あらためて実感できましたね。臨界点である九三年、九四年あたりはほんとうに豊作。一瞥しておくと、先ほど触れた『完全自殺マニュアル』と同月に『ゴーマニズム宣言』第一巻、その数ヵ月後には『サブカルチャー神話解体』。岩井克人『貨幣論』も同じく九三年ですね。『批評空間』に連載されました。福田和也の本格的な登場もこのころです。大塚英志は九四年に『人身御供論』『戦後まんがの表現空間』『戦後民主主義の黄昏』などを続けざまに出している。中沢新一『はじまりのレーニン』や、斎藤美奈子『妊娠小説』、四方田犬彦『漫画原論』が同月に出ているのも、いま振り返ると圧巻ですね。 東 小説だと九四年に『ねじまき鳥クロニクル』が出版される。村上春樹も変わり始める。 福嶋 『批評空間』が本格的に始動するのもこの時期ですね(九一年創刊)。 東 『批評空間』はまさに九〇年代の雑誌で、だから今回こそ扱うべきなのだけど、前回あまりにも話してしまったのでもう話題がない──というのもあながち冗談ではなくて、あらためていろいろ読みなおして思ったのだけど、『批評空間』は本質的に九〇年代のパラダイムに属さないんですよね。じつに反時代的というか、イデオロギーが消えてしまった世界のなかで、それでもイデオロギーはあるんだと言い続けた存在。一種の亡霊みたいなもので、時代論の枠組みで扱うのは難しい。 市川 イデオロギーが消えようとしているからこそ、あえてわれわれが言い募るというスタンスですね。そのことは、ぼくは好ましく読んでいたし、個人的なことを言えば、いまでもその「あえて」の距離で自分の仕事を進めているところはあります。 東 でもその「あえて」が途中からベタになっていった。本誌『ゲンロン』も警戒しなければなりませんが。 大澤 『批評空間』は九〇年代パラダイムに嵌らないのだけど、八〇年代のそれでもない。やっぱり異様な雑誌です。ちなみに、前回の年表には思想誌創刊に関する項目がたくさんありました。それが今回はぐっと減っています。『批評空間』に近いタイプとしては、『Représentation』(九一~九三年)、『季刊インターコミュニケーション』(九二~〇八年)、『10+1』(九四~〇八年)が九〇年代前半に創刊されます。『発言者』(九四~〇五年)や『大航海』(九四~〇九年)なども出る。けれど、プレニューアカ期やニューアカ期と比べるとずいぶんと少ない。このあたりの物理的な事情も、八〇年代/九〇年代の思想的なモードのちがいの要因になっているはずです。  出版史の常識に属する事項ですが、九七年以降、出版業界の総売り上げは右肩下がりに転じます。厳密に言うと、書籍の実売部数は八九年からすでに対前年比マイナスになっていたんですが、各種雑誌の売り上げの上昇や書籍の価格の上昇がそれをカバーしていた。雑誌も九六年をピークに、以降はマイナス成長となり休刊が増えます。二〇〇七年にはついに休刊数が創刊数を上回ることに。いずれにせよ、「出版の時代」の最終期だったと言っていいでしょう。そのなかで思想を捉えていく必要がある。 女性批評家の登場──小谷真理と斎藤美奈子 市川 ジェンダーの話をしましょう。イデオロギーなき時代にいかに生きるかという問題について、宮台さんは『終わりなき日常を生きろ』(九五年)で、オウムに行ってしまう男子よりも終わりのない日常を「まったり」と生きる女子のほうが、対応が早かったと言うわけです。実際、七〇年代でもすでに結婚が輝きを失って、女子のほうが、輝きのない未来しか用意されていないことにさきに直面していた。大塚的な「かわいい」は、女子が発見したこととも共通します。ところが、八六年に男女雇用機会均等法が施行され、女子だった女性たちが社会に出てくる。書き手の状況も変わり、九〇年代には、フェミニズムを含めて批評的言説に関わる女性の書き手が多く現れます。  とくに小谷真理と斎藤美奈子のふたりがこの時期に登場するのは重要だと思います。九四年に『女性状無意識』と『妊娠小説』が出る。前者を書いた小谷さんの出発点は、ハイカルチャーとサブカルチャーの領域横断を押し出したSF評論にありますが、それらと、「やおい」の文化や二次創作的な消費がうまく嚙みあった。小谷さんの論じ方そのものは切断的でもあるのですが、論じる対象に二次創作的なものを選ぶことでロジックがマッチョになりきらないという特徴を持っていました。その構造が斎藤美奈子にも結びつき、さらに酒井順子や深澤真紀のように、狭義の批評には入らない柔らかい言説へ拡張されていきます。 東 女性の書き手が重要なのは同感です。九〇年代は上野千鶴子を筆頭にフェミニストたちの力が無視できなくなっていく時期だし、BL論では先行する仕事として九一年の中島梓の『コミュニケーション不全症候群』もある。小谷さんはそのような文脈のなかで出てきたひとですね。  けれど斎藤美奈子はそんなにおもしろいかしら。むしろ壊れかけた文芸批評を強引に再構築したひとという印象なんだけど。 大澤 その撤退戦を逆手に取るところが批評的ではあった。ぼくは『妊娠小説』も『紅一点論』(九八年)も学生時代にはおもしろく読みましたよ。文学を身も蓋もなく徹底的に「商品」として扱っていく。批評が本来持っていたはずのバイヤーズガイドとしての側面を復活させ、自律した批評に接ぎ木したわけですね。『批評メディア論』(一五年)の小林秀雄と大宅壮一の対比で言うと、後者の復活。それは「文学の社会化」が進行する九〇年代においてありうべき戦略のひとつだったと思う。この方向性は、のちに福田和也『作家の値うち』(〇〇年)などへも合流していきます。それから、斎藤さんの一連の書法は、系譜学や考古学にもなっています。ときに一般向けにテマティックな読解をしてみせもする(『舞姫』の白と黒の対比のくだりなど)。よくできたフォーマットだと思っていました。 市川 女性批評家の難しさは、批評という形態を取って書かれたものが、逃れようもなくある種のマッチョイズムに回収されてしまうことにあります。最初からマッチョであることに開き直る男性的な批評とはちがう。でも、だからこそ、上野千鶴子と斎藤美奈子のあいだに、世代的な飛躍があると感じられる。マーガレット酒井=酒井順子も含めて、それぞれにライトなインターフェイスを意識した、八〇年代末から九〇年代前半にかけての彼女たちの携えていた複雑さは、橋本治がやろうとしていたことを引き継いだものでもあったと思います。その点はとくに、評価されるべきだと思います。 サブカルチャーの隆盛 東 つぎはジャンルの越境に注目しましょう。九〇年代は批評の輪郭が急速に溶けていく時期でもある。そもそも冒頭で取り上げた宮台真司や鶴見済にしても、ふつうは批評家とは呼ばれないわけです。  その観点で、まず注目すべきは九〇年に出た筒井康隆の小説『文学部唯野教授』。同時代の文学理論や批評理論をパロディにしたメタフィクションだけど、批評そのものが商品として消費されるという当時のメディア状況を体現した、ある意味で記念碑的な作品でもある。 大澤 テリー・イーグルトン7の『文学とは何か』(八三年、邦訳八五年)が元ネタでした。 東 そうです。『文学部唯野教授』がベストセラーになった結果、皮肉にもこれの影響で批評を勉強しようというひとまで出てしまった。そう言えば、ぼくが東京大学に入学してはじめて参加した読書会の課題が、まさに『文学とは何か』だったんだけど、たぶん『文学部唯野教授』の影響です。  もうひとつ、批評のパロディという視点では、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』についてはのち触れるとして、竹熊健太郎と相原コージの『サルでも描けるまんが教室』(九〇~九二年)も挙げておきたい。マンガというかたちを取っているけれど、あれはポストモダン批評のひとつの頂点だと思う。『ゴーマニズム宣言』と同じく、著者自身が自己言及的に作品内にキャラクターとして登場し、批評の世界に巻き込まれていく。 大澤 『サルまん』を批評史年表に入れた理由はその一点に尽きます。自己言及の方法そのものを自己言及する。どこまでも累進するメタはマンガにおける批評性のリミットを体現しています。と同時に、この時代のメディア論的な消費環境がそのまま表現されてもいる。 東 『サルまん』と『ゴーマニズム宣言』の登場は批評史にとってきわめて重要だと思う。日本の批評史が、「私」について語りながら社会について語る特殊な技法の歴史なのだとしたら、ここであきらかに新しい手法が加わっている。吉本隆明が『マス・イメージ論』(八四年)でマンガを論じ、それだけで注目された時代からわずか一〇年で、マンガ本体がここまで「批評的」になったというのは、瞠目に値すると思います。 大澤 吉本のマンガ分析は、スピーチバルーン内の発話が持つポエジーを析出する段階にとどまらざるをえなかった。ジャンルの抱える限界でもありますね。 市川 マンガ論の嚆矢であった大塚英志にしても、「私性」との関係ではつねに、少女マンガを背景や書き文字などの「言葉」から論じざるをえなかった。 東 とはいえ、大塚さんの『戦後まんがの表現空間』はマンガ批評の成熟を予見させる内容で、九七年には夏目房之介8の『マンガはなぜ面白いのか』も出る。アニメ批評もすこしずつ充実し始める。とくに九六年の『新世紀エヴァンゲリオン』ブームが飛躍のきっかけとなる。二〇〇〇年代になると、それらの影響下で伊藤剛9の『テヅカ・イズ・デッド』(〇五年)が現れ、以後急速にマンガ批評の道具立てが整備されていく。そこらへんの功罪は次回あらためて語るとして、九〇年代は、マンガという表現が批評そのものを担えるくらいに成熟するとともに、批評のほうもマンガについて雄弁に語りだす時代なんだよね。 市川 九〇年代までのマンガ批評は、まだマンガの成熟についていけていなかった感があります。さっき東さんがポストモダン的と言ったけれど、『サルまん』は論じられる対象と論じる方法を同期させ、メタレベルとオブジェクトレベルを混在させるという、言語で書かれたコンテンツならば所与に可能であったことをマンガの世界に持ち込んだ。言語によるマンガ批評はそこまではなかなか辿り着かない。上野千鶴子や大塚英志にしても、やはり『サルまん』的なものではありえなくて、少女マンガを語るところから始めるしかなかったわけですよね。 大澤 「乙女ちっく」問題ですね。旧式の文学的系譜のアップデート版としての側面にどうしても目がいってしまう。 福嶋 大塚さんは「乙女ちっくの時代」のマンガ家を介して「かわいい」という美意識の誕生について語ったわけだけど、それは彼の戦後民主主義論とも関わっているわけでしょう。九〇年代だとすでに、平等幻想も壊れつつあり、戦後民主主義に対してもさまざまな批判が出てきていた。しかし、「かわいい」を持ってくれば、ふたたび階級差が乗り越えられるのではないか。戦後民主主義的な主体を回復できるのではないか。「かわいい」はそういう幻想を作りだした言葉だと思うんですね。 東 それはゼロ年代のアイドル論についてはあてはまると思うけど、大塚さんはもうすこし複雑じゃないかな。 市川 バブルの末期から余韻のあった九〇年代前半までは、福嶋さんが平等幻想と言ったものや民主主義も、この国では実感的なものであったはずです。というか、その時代こそもっとも実感的だったかもしれない。誰もが土地を求め海外旅行に行くといった高度成長後の消費主義と、ヨーロッパ・ピクニックやベルリンの壁の崩壊の映像が戦後民主主義を肯定するものとして届いたわけですから。その意味では、大塚さんの「かわいい」は、当時の視点では民主主義の延命手段ではなく、なお残る家父長制や権威主義に対して、平等主義的なものの徹底として主張されていたはずです。ただ、そうした主張は、同じ目標を持っていたはずのフェミニズムとは必ずしも相性がよくなかったことも、宮﨑事件のあたりで可視化されていくことになる。 福嶋 九〇年代に戦後民主主義を擁護しようとしたときには、いわゆるきっちりした「近代的主体」とか「市民」とかの理念だけでは、もう足りなかった。だから、教科書的なフェミニズムでは語れそうもない「かわいい」幻想のようなソフトな美学が再発見されなければならなかった。実際、日本のマンガは性意識の変形とか歪みを大幅に許容してきたわけで、それが九〇年代の社会的要請とリンクしたということだと思いますね。 7テリー・イーグルトン Terry Eagleton(1943~)イギリスのマルクス主義文芸批評家。『アフター・セオリー』 8夏目房之介(1950~)漫画評論家、漫画家。夏目漱石の長男の子。『手塚治虫はどこにいる』 9伊藤剛(1967~)漫画評論家、鉱物愛好家。元「と学会」会員。『マンガは変わる』 『ゴーマニズム宣言』とはなんだったのか 市川 大文字のイデオロギーが失効し、小文字の消費がその代補として現れるなか、宮台真司や大塚英志はそこで生じた「空虚な主体」の再充塡を目指そうとした──これまでの議論がそうまとめられるとしたら、同じ文脈でまったく異なった解を出したのが、小林よしのりが九二年に始めた『ゴーマニズム宣言』ですよね。  小林さんの評価については、この四人でもそれぞれちがうと思いますが、ぼくが『ゴーマニズム宣言』を読み返して興味深かったのは、作風はあれこれ変わっていくのですが、「ゴーマンかましてよかですか?」と読者に対し許諾を求める態度だけは初期から一貫していることです。「消費者」に対して、上から商品を与えるのではなく「いかがでしょうか?」と下から聞いていく。これは、ここまで話題となった「かわいい」が前提とする、「かわいいと思うものを誰もがそれぞれに選ぶ」という行為の肯定、大塚さんや宮台さんの特徴である消費社会の前提化と通底しています。  一方で、初期の『ゴーマニズム宣言』は短い枚数でちょっとした小ネタを描き、「ゴーマンかましてよかですか?」で見得を切りつつ刺激的なことを言って終わる、というルーチンでした。それが次第に、のちに『戦争論』(九八年)に結実するような、強い政治的主張へと変わっていく。その転機は、オウム真理教との関わりにあった。八九年以降の批評史で、オウム真理教事件は大きなメルクマールですが、現在の小林よしのりを生みだしたという点でもそれは大きかったと思います。みなさんはいかがですか。 東 『ゴーマニズム宣言』は最初は小ネタばかりですね。日本人のペニスがいちばん気持ちいいんだとか、バカげたネタも多い。それが急速に変わっていく。つまり論壇的になっていく。  おもしろいのは、その過程で小林よしのり自体が権威化する、そして彼自身がそれを自覚していることです。小林自身がそれを「物語の現実化」と呼ぶんですね。自分は作品を作るのをやめたわけではない、むしろいまこそ最高傑作を作っている、それは現実を動かすという傑作なんだと。実際にそのころの彼の変化はすごい。最初は演歌歌手と会えたと言って喜んでいたのが、あれよあれよというまに小沢一郎クラスの政治家と会うようになり、オウムからは暗殺で狙われ、『噂の眞相』にスキャンダルを狙われ、薬害エイズ事件では「HIV訴訟を支える会」の会長にまで就任する。 市川 絓秀実との論争もありましたけれどね。 東 あったけど、いま読み返すと、論争が進むあいだに絓さんが相手にするような存在ではなくなっている。とにかくすごい勢いで偉くなっているわけ。そしてそれを小林自身が作品だと呼ぶ感性がじつにおもしろい。八〇年代的な虚構と現実の交錯、『Mの世代』で大塚と中森が話題にしているような、メディア環境そのものがわれわれの生きる世界になってしまったという感覚を体現しているわけです。小林さんは世代的には新人類より上だけど、ここではじつに新人類っぽい動きをしていると思いました。 大澤 周囲を巻き込みながら自身をメディア空間で作品化する、それを現実に還流させる。初期の「カリスマを目指す」宣言が典型ですね。その点では「私批評」の末裔と見てもよいのかもしれません。この系譜の元祖も「小林」(秀雄)であるわけですが。 市川 メディアを通じて小林よしのり自身が物語化していく流れは、浅田彰的な大衆の切断とはあまりにちがいますね。浅田さんはオウムを「落ちこぼれのバカが暴走しただけ」と言う。そもそも浅田さんに比べたらほとんどのひとが落ちこぼれのバカになってしまう気がしますが、オウムも大衆のひとつとして切り捨てるわけです。そういうスタイルが維持可能だったことを時代の所産と捉えれば、たしかに小林さんは新時代に対応している。  けれど、ぼくにとっては小林よしのりの選択と、たとえば百田尚樹10のふるまいとのちがいは紙一重に思えます。大衆に、彼らが喜ぶ物語を投げ込み、その欲望を鼓舞して自分自身が巨大な偶像となっていく。『東大一直線』(七六年連載開始)に始まる小林さんの作品履歴を思えば、そのプログラムも浅田さんとはまた別のシニシズムの産物として始まったものかもしれないけれど、結果的に出来あがるものは、ポピュリズムそのものにも見えます。 東 それはそのとおりでしょう。小林は初期の『ゴーマニズム宣言』では、あくまでも自分はマンガ家であり、「王様は裸だ」と叫ぶピエロの役割であることを強調していた。ところが九八年の『戦争論』の時点では、自分こそが正しい歴史を知っているのであり、それを読者に教えるというスタイルになっている。父として人々に正しい歴史を教えるというのだから、「王様は裸」と叫ぶピエロというより、王様のほうに近い。自分で自分が作った物語に吞み込まれてしまった。 市川 読者の支持が集まると、雑誌を支えたナショナルクライアントたちも我先にと手を挙げて広告を出稿していく状況が、当時はあったんですよね。そのことが媒体との関係で、小林さんの立場を極端に強めもしたと思います。そのスタイルは、テレビのキャスティングにスポンサーや広告代理店が口を出したり、それらと連携を持つ事務所が幅をきかせる、芸能の世界のありように近い。 大澤 当時、呉智英11や浅羽通明をブレーンに付けていましたが、「知識人」が雲上から降りてきてくれたと素朴に喜ぶ。その点、まったく「ゴーマン」じゃないんですよね。「ゴーマンかましてよかですか?」というエクスキューズ自体、大衆消費社会における批評の困難さをそのまま表現していると思う。批評は本来「ゴーマン」以外ではありえない。 10百田尚樹(1956~)小説家、放送作家。『永遠の0』『海賊とよばれた男』 11呉智英(1946~)評論家、日本マンガ学会元会長。『現代マンガの全体像』 「父」としての小林よしのり 東 小林さんは否定するだろうけれど、『戦争論』はどうのこうの言ってネトウヨを生みだした本だし、実際にいま読み返すと、「これこそが真実だ、目覚めよ」といったメッセージに満ちた洗脳まがいのテクストとなっている。それは否定できない。  ただ、いま振り返ってみると、そういうことをやっていた時期のほうが例外的だったようにも思えます。彼はもともと『東大一直線』や『おぼっちゃまくん』を描いていたギャグマンガ家であり、初期の『ゴーマニズム宣言』でも近代主義者であり個人主義者。大文字のイデオロギーは嫌いなはずです。むしろ重要なのは、彼が伝統の価値や地方性に強いこだわりを持っていることでしょう。彼は一貫して一人称として「わし」を使い、話すときも訛りを隠さない。都会的な洗練への抵抗意識を強く持っているひとで、それは大塚さんや宮台さんとはちがう。それがある時期、最悪のかたちで排外主義と結びついたということではないかと。 市川 「あずまん」は「よしりん」にやさしいね(笑)。 福嶋 一般には小林さんと宮台さんがライバルみたいに言われているけれども、ぼくは本当は小林さんと大塚さんが対比になってると思うんですけどね。大塚さんはやはり「戦後民主主義のリハビリテーション」のひとであって、超越的な価値をできるだけ参照せずに、いわば技術的・内在的に社会を底上げしようとする。そのなかで「かわいいもの」の歴史の再発見が出てくる一方で、一人ひとりが物語や憲法を書くという技術論が出てくる。つまり、美学と詩学の援助によって民主主義をリハビリする。  他方、小林さんは当初は、イデオロギーの時代が終わったからこそ、むしろ自立した個人のネットワークが必要だという考えだったわけですね。ところが薬害エイズ問題での失敗などを通じて、市民社会のスカスカな空洞性に直面し、日本では自立した個人を内在的に作ることはできない、したがって超越的な価値をどこかからインストールしてこなければならない、となった。そして大東亜戦争を正当化する『戦争論』に流れ着いた。九〇年代以降の多くの批評家が辿る道を、ある意味でいちばん早い段階で辿ったひとですね。 東 『Mの世代』の最後で、中森さんは「乱数の物語」ということを言います。これからは大きな単数の物語はなく、みなが自由に「乱数の物語」で生きるんだと。それに対して大塚さんは、そうは言っても、乱数になったものを束ねるためにある種の家族のモデルが必要なはずで、そこで天皇制が大事になるのだと言う。いま振り返ると、これは大塚のほうが完全に正しかった。まさにそれこそ、小林よしのりが辿った履歴ですね。「乱数の個人」に任せていたら、みな自分探しとか始めてたいへんなことになってしまった。やはり大家族が必要だということで、『戦争論』が書かれ『天皇論』(〇九年)が書かれる。  さらに言えば、『ゴーマニズム宣言』を読んで妙に感心したのは、彼のマンガにはアシスタントがよく出てくるんですが、関係が親密でほとんどひとつの家族になっているわけです。オウム真理教事件のときには、小林さんはVXガスで暗殺されそうになります。アシスタントも仕事場の周りを警備したり、すごいストレスだったと思うけど、それでもだれも彼のもとを離れない。そして事件が片づくと、みなで香港旅行に行って、小林さんがアシスタントたちに高級ブランド品を買い与えたりする。これは完全に「父」のふるまいなんだよね。 市川 では東さんは、大塚的な家族主義とか小林的な家父長性を素直に肯定できますか? 東 肯定するというか、人々がそれを求めるという認識は持つべきだと思う。倫理的に正しいかどうかはわからないけれど、そのようなふるまいを多くのひとが求めるという現実はあるだろうと。小林よしのりは、作品レベルでも仕事場の運営のレベルでも、その欲望にじつに忠実に応えている。同じ問題についてさらに別の線を引くと、美術家の村上隆も近い歩みを辿っているように思う。彼は九〇年代の初期には、それこそ椹木野衣12などの近くで「ポストモダン」な「シミュレーショニズム」のひととして颯爽と登場してきたわけじゃない。それがいまどうなっているかというと、じつに家父長的なファクトリーを運営し、粛々と工芸品を制作している。 市川 その意味ではゲンロンも、家父長的なファクトリーで、粛々と、大量生産ではないコンテンツを作ってるでしょう? 東 ぼくと彼らでは規模も影響力もぜんぜんちがいますよ。 大澤 小林さんにせよ村上さんにせよ、自身の固有名を掲げながら工房型で集団制作するジャンルに従事している。この点も大きいでしょうね。構造的に父にならざるをえない。 市川 さきほどの福嶋さんの話で言えば「自立した個人がどこまで可能か」を追求した結果、小林よしのりが「私」の領域だけではダメで「公」の概念がなくてはいけない、となった展開はわかります。ただ、「公」も階層化されているはずです。家族レベルの「公」もあれば、国家主義もあり、そのうえでいわゆる「世界市民」的な「公」もある。けれども小林さんは「公」すなわち国家だと、恣意的に設定しているように見えます。 福嶋 小林さんもいまの宮台さんも同じだと思うけれど、超越の感覚を生みだすのは右翼的なパトスしかないということじゃないですか。あるいは、パトス的に超越性にコミットしなければならない、と。 市川 そのときの右翼的というのは、イコール国家主義的ということになるわけ? 福嶋 もちろん、小林さんも宮台さんも「国家というお上に服従せよ」みたいなネトウヨの発想とは対極的ですよ。ただ、明治の自由民権運動のころからそうだけど、日本は公共性と国家が、ややもすれば短絡しがちな国ではある。民主的な憲法草案を書いた植木枝盛13だって、同時に対外的な自立を目指すナショナリストだったわけでしょう。右翼イコール国家主義ではないが、国家主義と絶縁できるものでもない。右翼は国家を忘れることなどできない。逆に言えば、リベラルな市民社会はパトスの源泉にはならない。 東 とはいえ、現在の状況について言えば、右翼的なパトスに対して左翼的な理性があるかと言えばぜんぜんそんなことはない。SEALDsブームやカウンターデモの例が象徴するように、二〇一五年は左翼の側も右翼と同じようにパトスで戦い始めた年で、パトス対パトスの構図が明確になっている。そういう意味では、左翼の右翼に対する優位性はもはやない。 福嶋 公的なものをいかにインストールするかについては、さっきも言ったけれど、大塚英志さんは基本的には技術志向だと思う。右翼的=パセティックに主体を構築していくんじゃなくて、個人一人ひとりに、物語を書く力であるとか、憲法を書く力であるとか、匿名の主体が匿名の主体のまま使えるような技術を与えることでしっかりとした公的な領域が生成する、みたいな道を作ろうとしたひとだと思うんです。前回の座談会の話題で言えば「大正的なもの」の方向ですね。 東 それは『制服少女たちの選択』における宮台さんも同じですね。一人ひとりにツールを与えたい。 大澤 大塚さんが『物語の体操』(〇〇年)の延長で実践した絵本制作のワークショップがあるんですが、それをめぐる大塚・宮台対談でも、「型」の反復についてすっかり意気投合していましたね(「通過儀礼としてのワーク」『atプラス』五号、一〇年)。 市川 ツールを与えれば主体はそれぞれに空虚を埋めていくだろうというのが、ある時期の理念ではありましたよね。 東 しかし実際にはツールでは空虚は埋まらない。これはもっと大きなレベルで言えばインターネット問題ですね。インターネットが普及し、みなが全世界に対して安価で情報発信できるようになれば、さすがにみな多少はモノを考えて議論するようになり、世界もよくなるだろうという幻想がある時期まで全世界を支配していた。しかしそれはまったくまちがっていたわけです。 市川 主張や発信するばかりで他人の言うことには興味がなかったり、せいぜい共感するものをリツイートしてなにかを言った気分になれてしまうから、議論が逆に成立しないんですよね。自分とちがう意見にはたんに感情的に反発しても、それを肯定してくれる別の脊髄反射が必ずあるから、結果的にタコ壺的な狭い同質性が空虚の外殻だけを固めてしまう。「マイルドヤンキー問題」のようなゼロ年代以降の問題にしても、戦後民主主義の理念にもとづいてだれもが快適な自己主張をした結果、公共性や遠い他人に興味など持たずに、地縁や血縁で集まったほうが快適だということがわかった、という話でしかない。その状況と、大きな地縁かつ血縁としての民族主義、さらには国民国家にもとづく国家主義ががっちり結託しているのが、今日的な状況なのでしょう。 大澤 ネットで発信されるものはと言えば他人がこしらえた文章の引用ばかり。これではツールを与えても主体は立ち上がりようがない。互いに私生活を覗き見しあったり監視しあったり。どこまでもムラ社会的な精神構造がずるずると広がっていく。 12椹木野衣(1962~)美術評論家。『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』『日本・現代・美術』 13植木枝盛(1857~92)土佐藩出身の政治家、自由民権運動の指導者。『民権自由論』 生産者か消費者か 福嶋 小林よしのりは、ある意味で時代錯誤的なところがあると思います。たとえば、八〇年代の投稿文化あたりから始まり、現在でもネットを介して無名のアマチュアが表現できるのがいいんだ、みたいな風潮があるけれど、小林さん自身は強いプロフェッショナリズムを持っていてアマチュアリズムを認めない。 東 小林さんはかなり初期の段階でオタク批判やコミケ批判をしている。 福嶋 大塚英志の八七年の『〈まんが〉の構造』という本によると、ロリコンマンガでは犯す男性主体がどんどん希薄になって、純粋な視線みたいなものになっていく。これなんかは九〇年代後半以降のオタク系の美少女ゲームの主体性、とくにそのメタ視線になりたいという欲望を、すでに予告するものですね。逆に『ゴーマニズム宣言』においては、男性主体が強烈に立ち上がってくる。九〇年代以降にオタク的表現が辿った流れのちょうど裏側に位置している。 東 プロフェッショナリズムということで言えば、数年前、小林、中森、濱野、そして宇野常寛の四人がアイドル論で戦線を組んでいたじゃないですか。けれども、ぼくの考えでは小林─中森と宇野─濱野のラインのあいだには落差があるはずなんですね。つまり、プロ側に立つかアマチュア側に立つか。何度も言っているように、大塚さんとぼくの対立がまさに同じ構造です。コンテンツ消費において主導権を握るのはだれか。生産者か消費者か。「物語消費」と「データベース消費」の差異というのはここに尽きる。逆にこの差が理解できないと、「物語消費」と「データベース消費」はまったく同じものになってしまうわけで、『動物化するポストモダン』の意義は理解できない。 市川 基調報告にも書きましたが、ぼく自身もそこに出自を持つ實重─渡部直己ラインのテマティスムの問題も、消費と生産の力関係の問題が背景にあります。實さんが唱えるテマティスムは、意味の「宙吊り」により作品を読み替えてしまうというもので、言うなれば二次創作的なんです。彼はたとえば大江健三郎の小説を、数字のテマティスムで再解釈するわけですが(『大江健三郎論』、八〇年)、作家本人にとっては噴飯ものだったかもしれないけれど、ひとつの作品からまったくちがった物語を読み取ることで大きな差異も生じて、読者としてはおもしろい。テマティスムの批評においては、読者は物語になにを読み込んでもよいというのは、東さんの言うデータベース消費の先駆的な様態とも言えます。 東 なるほど。おもしろいけれど、ただ實さんたちは「二次創作」は特権階級にのみ可能だと考えるんじゃないかな。 市川 少なくとも、そういう意識はあったでしょうね。いわば「腕の見せあい」的な。 東 ぼくのデータベース消費は、むしろカルチュラル・スタディーズが好むような受容理論に近い。『動物化するポストモダン』はじつはそのあたりの影響を受けていて、作品をだれが読むか、作品をどう消費者が読み返すのか、そこにこそ読者の政治性やクリエイティビティが表れるという考え。 市川 そう。八〇年代までの現代思想は、ラディカリズムを訴えて、作者など無視してテクストを自由に読んでよいと訴えながら、自由に読む権利を持つ「特権的読者」をどこかで設定していたと思います。だれもが特権的読書の権利を持つけれど、そこには技術のハードルはある。大塚英志は、スタンスとしてはそういう特権の存在に抵抗したし、もっとだれもが自由に読んでよいと考えていたはずですが、そのことと規範の必要とのあいだで、悩んできたように思います。「文学フリマ」を立ち上げもしたけれど彼自身はそこにとどまらなかったように、どこかでコンテンツも上からの供給が効率的と考えているようにも思えます。 東 大塚英志は、そういう意味では消費者の自立を認めていない。 市川 柄谷さんだって、二〇〇〇年にNAMを立ち上げたとき、大塚さんや東さんと同様のことを考えていたはずなんですよ。彼が『トランスクリティーク』(〇一年)で言ったアイデアの根本は──そういえばこの本は、今日の討議で扱う年代の最後に出るわけですが──「消費者の側に優位性がある」という話なはずです。マルクス主義は生産に視点の中心を置くけれど、生産がある以上は消費があるのだから、生産=資本側の収奪に対抗できる最大の力は消費にこそあるのだと主張した。それはつまり、消費者が商品をめいめい好きに買うことで、社会の力関係も転倒できるという夢の話、その点では正しく九〇年代的で、潜在的には今日まで通じるシステムの話なんです。ところが、『トランスクリティーク』のしんどさは、消費者だって論理的かつ倫理的にモノを買うだろう、と信じてしまったことにある。消費が教育可能な行為であり、超越的な価値を内在させることができるだろうと。でも、実際はそうじゃなかった。 東 つまりは、NAMは「意識の高い」消費者を前提にした運動だった。いまはその最良の継承者が『通販生活』だね。 大澤 前回の議論とつながっていますね。他者を論じるひとたちにこそ他者が欠落していた。 小林よしのりと社会運動 大澤 当時、『ゴーマニズム宣言』に対する批判として、キャラクターの描き方で当該人物が小林=物語の内部において悪なのか正義なのかがひと目で判明してしまうというものもありました。イメージ操作に関する指摘ですね。とはいうものの、日本の批評史をさかのぼるなら、小林秀雄は三九年に批評の極致はポンチ絵(=マンガ)だと断言していた。つまり、対象の内面を外形的にデフォルメし、読者に提示する作業も批評のミッションであった。少なくともこの国の近代批評の始祖はそう捉えていました。このスケールで見直せば、『ゴーマニズム宣言』の評定も変わってこざるをえない。マンガというジャンルが成熟を遂げたとき、デフォルメひとつ取っても、文章表現よりもマンガ表現のほうが効率的だし経済的ではある。少なくとも、マンガが批評表現として選択可能になったことはたしかでしょう。 福嶋 そもそも、手塚治虫だって石子順14との対話で、マンガの原点はドーミエやスタンランのような風刺画家が代表するような「民衆へのプロパガンダ」にあると言っているわけでしょう。大塚理論で言うと手塚はマンガ記号説の元祖ということになりますが、それと同じくらい手塚にとって社会風刺は重要だったわけです。その意味では小林よしのりは正統派のマンガ家だと思う。逆に言うと、ゼロ年代以降のマンガ評論はキャラ論でもコマ割り論でも、ややもすればフォルマリスティックになりすぎて、マンガのもっとも原初的な部分を忘れているのではないか。そうすると、ドーミエ以降の風刺画と日本のマンガ表現の関連性も断たれてしまう。 市川 ただ小林さんの風刺は、大多数の消費者が喜びそうなことを描いているぶん、どこまで風刺なのかがわからなくなってしまう場合がある。 大澤 絓秀実が「俗情との結託」(大西巨人15)というタームで批判した点ですね。 福嶋 ちなみに、大塚さんは『戦後民主主義のリハビリテーション』(〇一年)でおもしろいことを言っている。小林よしのりは風刺マンガ家だと言われるが、彼の特異性はむしろ「かわいい」キャラを持ってきていることにある、と。実際、味方を美化すると言うけれども、『ゴーマニズム宣言』だとその味方の目をくりくりとかわいく描いたりするわけで、かっこいいとか男らしいとかいうイメージとは微妙にズレている。攻撃性と「かわいい」性がうまい具合にブレンドされているので、それこそ例の『シャルリー・エブド』みたいな風刺画とはちがう。要は、小林さんは日本のマンガの感情喚起術をかなり取り入れているわけですね。それもまた「俗情との結託」というか「民衆へのプロパガンダ」だけど。 東 しかし「俗情との結託」なしに批評なんかできないでしょう。 市川 それはどういうレベルでの話ですか? 東 俗情と言っても複数の俗情があるわけで、そのなかのいずれかと結託するということでしかない。だれにも共感されない批評なんて意味がないんだから。問題は俗情の選択にすぎないわけじゃないですか。 市川 「俗情と結託していない自己」を規定してはいけないということ? 福嶋 とりあえず「俗情との結託」問題は『差別論』(九五年)が発端になっているわけですが、ぼくは今回はじめて読んでかなり驚きましたね。あんなセンシティブなテーマを、読者層の広いマンガでやるのはものすごく勇気がいる。部落差別については、同和教育はむしろ問題を周知させ残存させることになるので、自然に忘却させていけばいいというタイプの議論もある。しかし、それでは差別問題の本質的な解決にはならないし、どのみち別の差別が発生するだけですね。小林よしのりは言わばこの種の「忘却の政治学」に徹底して抵抗するわけで、これは「俗情との結託」だろうがなんだろうが勇気のある行為だと思いました。 市川 部落解放同盟ともやりあっているのはすごいけど……。 東 絓秀実と小林よしのりの論争はまさに『差別論』が発端だけど、あれは小林の圧勝でしょう。もちろん、絓さんの分析自体はまちがってはいない。小林よしのりはたしかに印象操作をしている。そしてそれは『戦争論』にいたるとほとんど洗脳のツールになり、ゼロ年代に山野車輪16の『マンガ嫌韓流』(〇五年)のような最悪のフォロワーを生みだす。それはそうなんだけど、同時にそれはマンガという表現全体の抱える問題でもあったし、またそれとは別に小林よしのりの運動家としての「正しさ」については評価すべきだったのではないか。九五年までの小林さんについては、オウムとの戦いでも、差別の問題でも、薬害エイズでも、つねに正義の側に立っているように思う。それに対しては敬意を払うべきです。 大澤 絓さんの「イメージ」による思考への批判は、政治の美学化/美学の政治化の問題であると同時に、「文学はマンガに負けたのか」という八〇年代後半以来の別文脈でのヘゲモニー闘争の側面もあったんじゃないでしょうか。 東 だからぜんぜん議論のスケールがちがっている。別の観点で言えば、さっきも言ったけれど、小林さんはオウムにVXガスで狙われるとか、いろいろいやがらせを受けているわけだよね。それでもアシスタントがだれも辞めず、小林さんの運動を支えているというのは本当にすごいことで、ぼくのところにVXガスが来たら、うちの社員は怖がってすぐ辞めちゃいますよ。もちろん、そこに家父長制的なコントロールがあるとしても、そういう支えがなければ運動なんてできるわけがないわけで、この点で小林さんの運動家としてのすごみは確実にある。 大澤 三島由紀夫の「楯の会」のような。 東 社会改革を本気でやるって、よかれあしかれそういうことだと思う。そういう意味で柄谷行人のNAMはまったく論外ですよ。自由な個人のアソシエーションとかで、VXガスに抵抗できるはずがない。そして実際にNAMはすぐ瓦解した。同じ問題はいまの多くの運動が抱えていると思うけど。 14石子順(1935~)漫画評論家、映画評論家。『漫画にみる戦争と平和90年』 15大西巨人(1916~2014)小説家、評論家。『近代文学』同人。『神聖喜劇』『三位一体の神話』 16山野車輪(1971~)漫画家。『在日の地図』『マンガ 嫌中国流』 「朝生」の時代 大澤 このへんで小林よしのりの磁場から脱出したいんですけど……(笑)。 市川 賛成(笑)。 大澤 ただ、そのまえに小林さんの活躍をすこし広いコンテクストに置きなおしてみると、批評の効果が測定される際、テクストの内容だけではダメで、身体を公衆に晒すというモメントをともなってはじめて俎上に載るようになったということでもあると思うんですよ。そこで重要な役割を果たしたのがテレビという別の表象装置ですね。九〇年代はなんといっても「朝まで生テレビ!」(八七年~)の時代だった。湾岸戦争に始まり、ブルセラやオウム、少年犯罪など連累する九〇年代の社会問題をリアルタイムで検討するにあたって継続的に機能したのは「朝生」だけです。その点、雑誌や書籍という活字メディアは後追いでしかなかったし、新たな固有名のフックアップにおいても後塵を拝した。ポストコロニアル理論の姜尚中17や社会システム理論の宮台真司といった論客も、より広範に社会的認知を獲得するのはこの番組を通じてでしょう。論文を書いて特定サークルの読者にリーチする論争よりも、公開の場で対立する論客を突きあわせるショーのほうが啓蒙的かつ効率的であると判断された。そのため、批評家には旧来とはまったく異なる能力が要求されるようになり、それまでとは別タイプの人物が批評家として識別されていく。こうして、テレビ文化人という枠が拡張します。メディア環境の変化にともなって、批評家の世間的なイメージと役割も変わってきた。『宝島30』経由の宮崎哲弥18なども「朝生」にレギュラー出演し、執筆よりもむしろこちらで活躍していく。この時代、出版ジャーナリズムの文脈をテレビがシャッフルしながら吸い上げていきます。固有名消費の極致ですね。 東 「朝生」の存在感はきわめて大きいですね。いまですら力が強い。ある時代以降の日本人は、論壇人=「朝生」の出演者ぐらいに思っている。ぼくですら、何度か出演しただけで知名度が飛躍的に上がった。マンガと並行して、テレビもまた論壇の中心を奪っていった。 大澤 テレビというか、考えてみれば「朝生」だけですよね。代替する番組は存在しない。 東 つまり九〇年代は田原総一朗の時代でもあるわけだ。 市川 それは正しい。 大澤 プラットフォーマーが空間を差配するという現代の原理をもっともわかりやすく示しているんじゃないでしょうか。そのためのアングルを瞬時に作りだす技能が要求されるわけで、それはドキュメンタリー番組の制作など別領域で培われたセンスが偶発的に融合した結果だったと思うんです。とすれば、田原総一朗がいなくなったときにどうなるか。よく言われるように、「朝生」は田原さんといっしょに消えていく運命なのでしょう。それどころか、九〇年代に確立された討論番組というフォーマットもいっしょに消えるはずです。 市川 「朝生」の最大の特性のひとつは、無編集であることですね。出演者の認知のさせ方でいえば、先行しているメディアで似ているのは筑紫哲也のインタビュー連載「若者たちの神々」(『朝日ジャーナル』八四~八五年)が思い浮かびますが、あちらは編集されているぶん、観客が熱狂する「ライブ感」はない。 東 そしていまは、そんな「若者たちの神々」と「朝まで生テレビ!」を統合したものとして古市憲寿19の「ニッポンのジレンマ」(一二年~)があるわけだけど、そちらも編集されているせいか、まったく強度がない。 市川 「朝生」の強さは、とにかく生であることの説得力ですよね。だれかが遅刻するとか、出演しながらツイートするとかも含めて(笑)。 福嶋 深夜にやっているから、かなりゲリラ的にできる。ふつうの番組では言えないことも言えてしまう。 大澤 しかし、録画が簡単にできるようになり、さらにネットで違法アップロードが横行するようになった結果、深夜の生放送ならではの放言が不可能になってしまった。パネリストの優等生化が進みます。番組の限界はこのメディア環境の変化によるものでもある。 東 八九年から二〇〇一年までの一二年間は「『Mの世代』の時代」であり「『ゴーマニズム宣言』の時代」でもあったわけだけど、同時にここで「『朝生』の時代」でもあると言っておくべきですね。いずれにせよ、この時期には言論の構造が激変している。言論は活字だけが担うものではなくなっている。 福嶋 八〇年代は『構造と力』(八三年)とか『チベットのモーツァルト』(八三年)とかメルクマールとなる本があった時代でしょう。ニューアカの時代は、言わば書籍が神話を作った。九〇年代以降はそういうメルクマールがなくなっていく。どちらかと言えば『ゴーマニズム宣言』とか『批評空間』とかの「シリーズ」が目立つ。それが構造変化のひとつの帰結なんでしょうけど。 大澤 オウム問題だと、麻原彰晃の身体を引っ張りだすことがすべてなんですよね。とすれば、ほかのメディアはテレビに勝てない。 福嶋 そう言えば、麻原彰晃の『生死を超える』(九二年)を一応読んできたんですが(笑)、それこそ『完全自殺マニュアル』を思わせなくもないヨガのマニュアル本なのね。まあいかがわしいけど、これを読むだけではそこまで危険な集団に見えない。 東 タブーのない共同討議とはいえ、麻原彰晃の再評価は……。 福嶋 とにかく、これを読むだけでも、マニュアル的な主体形成は九〇年代前半の流行で、オウムもそれと並走していたことはよくわかる。 市川 ただ、ぼくたちの世代は、彼らの選挙パフォーマンスを渋谷の駅前で見ているからね。あの着ぐるみとダンスで本気で選挙に通ると信じているのを目の当たりにすると、選挙など号泣議員の野々村某が当選するくらいだから、そのていどのものとはいえ、「落ちこぼれのバカ」と切って捨てる浅田さんの気持ちがわかりますよ。 福嶋 とはいえ、当時はNHKが中沢新一の監修でチベット仏教のドキュメンタリー(「NHKスペシャル チベット死者の書」九三年)をやり、それが宮崎駿20の『もののけ姫』(九七年)の着想のひとつになっていたりする。そういう意味で、オウム的な想像力が、いまわれわれが考えている以上に広まっていたのはたしかでしょう。 17姜尚中(1950~)政治学者。『オリエンタリズムの彼方へ』『悩む力』 18宮崎哲弥(1962~)評論家、コメンテーター。『正義の見方』 19古市憲寿(1985~)社会学者。『絶望の国の幸福な若者たち』 20宮崎駿(1941~)アニメ作家、映画監督。『風の谷のナウシカ』『千と千尋の神隠し』 論壇のサブカル化とゴシップ化 大澤 話が拡散するまえに急いでまとめておくと、『ゴーマニズム宣言』や「朝生」の時代においては論壇の自律化が加速して、言論人がつぎつぎとキャラ化されていくことになる。小林よしのりは自らをキャラ化し、身体をテレビで積極的に晒す。他方で、論敵もキャラとしてマンガに描き込んでいた。 東 「論壇プロレス」なんて表現もありましたね。ここでちょっと雑誌文化も拾っておきたいのだけど、そういう論壇のプロレス化=テレビショー化=ゴシップ化、論壇人のキャラ化という観点では『噂の眞相』が重要ですね。荒木経惟21がグラビアを撮影し、香山リカ22や山崎浩一23、永江朗24など新人類世代のライターが活躍し、小林よしのりにもスキャンダル攻撃を仕掛けていた。二〇〇四年に休刊したあとも、「うわしん」的な論壇目線こそが、ネットに流れてブログ論壇を作ったと言える。そこらへんはまた次回の話題になると思うけど、宇野常寛を生みだした『別冊宝島』と並び、ゼロ年代の批評につながるメディアと位置づけるべきかもしれない。 大澤 そうですね。『噂の眞相』も『別冊宝島』もマップ化やリスト化を得意としていました。それによって界隈の輪郭を可視化させた。『噂の眞相』だと別冊『日本の文化人』(九八年七月)が典型ですね。 東 まだ本が一冊も出ていないのに、なぜかぼくもマップに載ってる。 大澤 『宝島30』を含め、そこらへんの目配りはお手のものでした。そして、ライターや「評論家見習い」のような若手の発言の場が、八〇年代とはちがったかたちで用意されていた。 市川 『週刊SPA!』(八八年~)も大事ですよね。そもそも『ゴーマニズム宣言』の連載媒体だったわけだし、中森明夫が「中森文化新聞」を連載してもいた。宅八郎もいてサブカル批評の中心だった。宇野さんと言えば、コミケで批評を売る流れが始まったのはこの時期かしら? 東 それはもっとあとです。ゼロ年代の批評同人誌ブームは、二〇〇二年の文学フリマの誕生が画期になっている。文学フリマ誕生についてはむしろ市川さんのほうが詳しいはずだけど、立ち上げ時には基本は小説同人誌が想定されていて、大塚英志の『物語の体操』(〇〇年)の応用といった「理論的」な側面が強かったんじゃないか。あまりコミケとは連続してない。 市川 たしかに早稲田に講演にきた大塚さんとふたりで構想を交換していた段階では、「文学フリマ」で売られるものに、批評を強く想定してはいなかった記憶はあります。行きがかり上『早稲田文学』でブースを出したら、意外とひとが集まって驚いたくらいだから。 東 コミケのサブカル評論は、この時期にはまだ、岡田斗司夫25とか「オタクアミーゴス」系のオールドタイプのオタクの独擅場で、ゼロ年代にならないといま考えるような批評同人誌は出てこない。あれはむしろ文フリに侵食されたのではないか。  オタクとサブカルでは、さっき一瞬名前が挙がったけど、のちマンガ批評家になる伊藤剛さんが両者をつなぐ存在です。彼は浦沢直樹26のもとでアシスタント経験があり、『Quick Japan』(九四年~)のライターであり、かつ唐沢俊一27の弟子でもあった。今日はあまりそこらへんの話をする余裕がないけれど、そちらでは九六年の『エヴァンゲリオン』ブームが決定的で、そこでオタクとサブカルの文脈が一気に混じってくる。ぼくも当事者で、竹熊健太郎さんと出会ったのもそのころ。『Quick Japan』『STUDIO VOICE』『ユリイカ』といった雑誌が一斉にアニメを取り上げるようになり、ぼくは『STUDIO VOICE』でライターとして庵野秀明28のインタビューまでやっている。 大澤 『Quick Japan』と『批評空間』第Ⅱ期(九四~〇〇年)がともに太田出版から出ていたことも、九〇年代の批評の拡散具合をちょうど体現しているようですね。 東 とはいえ、両方に同時に出ていたのはぼくだけじゃないかな。 市川 『STUDIO VOICE』はもともと七〇年代にインタビュー誌として創刊されたけれど、九〇年代は映画・写真・建築・文学・ファッションの批評を多く載せていた雑誌ですよね。『WIRED』的なサイバーっぽい特集なんかもやっていた。『WIRED』はそもそもアメリカで九三年に創刊されたとき、デジタル技術に文脈と意味を与えるという方針だったそうだから、それ自体じつは批評的なんだよね。その『WIRED』日本版の創刊編集長だったのが、のちにクリス・アンダーソン29の『FREE』(邦訳〇九年)に関わる小林弘人30。彼はさらに九九年には『噂の眞相』の後継的ゴシップ誌『サイゾー』を創刊するわけだから、批評のサブカル化とゴシップ化とがそこで結びつくわけです。 21荒木経惟(1940~)写真家。愛称「アラーキー」。写真集『さっちん』 22香山リカ(1960~)精神科医、評論家。『リカちゃんコンプレックス』 23山崎浩一(1954~)編集者、コラムニスト。サブカルチャー評論。『危険な文章講座』 24永江朗(1958~)ライター。『不良のための読書術』 25岡田斗司夫(1958~)評論家、実業家。自称「オタキング」。『いつまでもデブと思うなよ』 26浦沢直樹(1960~)漫画家。『MASTERキートン』『20世紀少年』 27唐沢俊一(1958~)評論家、コラムニスト。オタク評論。「と学会」発起人。『トンデモ一行知識の世界』 28庵野秀明(1960~)アニメ作家、映画監督。「新世紀エヴァンゲリオン」(監督)、「シン・ゴジラ」(総監督) 29クリス・アンダーソン Chris Anderson(1961~)イギリス出身の編集者。米国版『WIRED』元編集長、3D Robotics社CEO。『ロングテール』 30小林弘人(1965~)事業家。インフォバーン 代表取締役 CVO。『新世紀メディア論』 文学者の反戦声明 東 そろそろ九〇年代後半に話題を移したいのだけど、なにかほかに語るべき論点はありますか。 大澤 九〇年代後半の論争に接続するためにも、ここで九一年の湾岸戦争時の「文学者の反戦声明」に触れておくべきでしょうね。 東 おっと、それは重要だ。現在の文学者や大学人による政権批判記者会見の先駆とも言えます。ただ、いまではあまり情報がないんですね。市川さんのほうが詳しいかな。 市川 ぼくもリアルタイムでは知りません。ただ、振り返ってみたときにすごくふしぎに思うのは、参加者に女性が少ないんですよね。津島佑子31と松本侑子32はいるにせよ、津島さんは『文藝首都』からの中上健次の友人で、あとはデザイナーの女性や太田出版の編集者・落合美砂33くらい。女性作家がぜんぜんいない。なにより上野千鶴子さんもいないし。 東 いまだったら上野さんは必ずいるでしょうね。当時も活躍していたはずだけど。 市川 大塚英志も呼びかけられなかったんですよね。反戦声明の前段となる中堅・若手を中心とした討論集会などの実務を担っていたとおぼしき太田出版の編集者たちとまさにいっしょに仕事をしていたにもかかわらず、討論集会に誘われもしなければ、その編集者たちも加わった「署名」を求められることもなかった、と。 東 なんと。 大澤 このあたりも『「おたく」の精神史』に回想がありましたね。 市川 回想ですから別の見方もあるでしょうが、大塚さんの言葉をもとに考えれば、その声明は、女性や消費者、つまり「かわいい」の側をパージして、「文学者」を権威化するカタチで出来あがってしまったわけです。『「おたく」の精神史』を読めば、自分が「文学者」の側に含まれなかったのは当然だと書く大塚英志が、しかし、そのようになされる線引きと排除に対して、一貫性のなさと声明のうそ寒さを感じたことが伝わってきます。 大澤 賛同リストによって、「文学」や「批評」の再画定が遂行された、と。それは反戦声明と同年に創刊された『批評空間』の方針でもあった。というか、ふたつは人脈的にもけっこう重複しています。八〇年代の混在感をここでいまいちど切断していく。ジャンルや属性の問題だけではなくて人的にもそう。吉本隆明や加藤典洋らがいないことはやはり確認しておくべきでしょう。一〇年前の「反核アピール」とは構図が異なる。そのときは少なからぬ人たちが署名拒否をしたわけですから。 東 『群像』が同時期に『柄谷行人&高橋源一郎』(九二年)という臨時増刊号を出していますね。対談は反戦声明の話が中心なんだけど、そちらよりもむしろ高橋さんが寄稿した「ゴーストバスターズ」と柄谷さんの漱石論を熱心に読んだ記憶がある。そもそも声明の内容はあまりに抽象的で、学生としては、なぜ柄谷さんと高橋さんがこの文章を発表する必要があるのか、いまひとつピンときていなかった。いまだによくわかっていない。柄谷さんの転機にはなっているのだけど。 大澤 同号に掲載されたいとうせいこう34のコラムは、高橋源一郎と柄谷行人の過去のテクスト群からの引用のシャッフルだけで成立したカットアップ作品になっていて、同時代の椹木野衣『シミュレーショニズム』(九一年)と通底している。そのいとうせいこうも声明に加わっている。中上健次や島田雅彦、田中康夫、川村湊、岩井克人、鈴木貞美らも名を連ねていました。 市川 いとうさんの立ち位置は、ときに『批評空間』派かと思いきや、大塚さんや中森さんともつながるし、他方では岡崎京子35を支援したりもするわけですよね。そして、反戦声明のようなときには、岡崎京子は決して巻き込まない。 東 いとうせいこうのトリックスター的な立ち位置は、ある時期まで重要な役割を果たしていたと思う。けれども、いとうさんにしても高橋さんにしても、現在から見ると逆に当然に見えてしまう。八〇年代の消費社会と記号的に戯れたポストモダン作家や思想家たちが、あえて古典的に見える反戦声明を出したということ、そのねじれの意味がいまでは消えてしまっているように見える。そういう点で考えると、湾岸戦争時の反戦声明の意義は、むしろ、それに違和感を抱いた加藤典洋がのち『敗戦後論』(九七年)を書き、それがまた高橋哲哉との論争を引き起こした、その副産物によって歴史に残っていると言えるのではないか。  ようやく九〇年代前半を終えることができました。後半は『敗戦後論』の再検討から始めましょう。 31津島佑子(1947~2016)小説家。太宰治の二女。『寵児』『黄金の夢の歌』 32松本侑子(1963~)小説家。『巨食症の明けない夜明け』、『赤毛のアン』(翻訳) 33落合美砂 編集者、太田出版取締役。 34いとうせいこう(1961~)小説家、作詞家、タレント、ラッパー。『ノーライフキング』『想像ラジオ』 35岡崎京子(1963~)漫画家。96年交通事故に遭い活動休止。『リバーズ・エッジ』『ヘルタースケルター』 3│屈折の時代 『敗戦後論』の可能性 東 加藤さんの『敗戦後論』は学生のころ一読しただけだったのですが、再読してみるとじつにすばらしい本だと思いました。加藤さんが指摘しているのは、つまりは、戦後日本では一方で右翼は勝手に国内の死者に感情移入をしているだけで、左翼もまた国外の死者に一方的に感情移入をしているだけであり、ともに本当の意味では弔いをできていないということです。この指摘はいまだにアクチュアルです。  この本は、当時東京大学でぼくの指導教官だった、デリダ研究者の高橋哲哉さんとの論争を引き起こします。 大澤 いわゆる「歴史主体論争」ですね。 東 高橋さんは当時はまだ無名で、むしろこの論争で有名になり『靖国問題』(〇五年)などを出版することになる。当時ぼくは高橋さん寄りで論争を眺めていたのだけど、いま読むと加藤典洋の射程のほうが深い。というのも、加藤さんは高橋さんへの再反論を、「語り口」についての議論、つまり文体論で行うんですが、これは要は「文学はなぜ必要なのか」という議論なんですね。正しいことをまっすぐに正しく言う、それそのものがすでに罪とか恥とかの意識とは無縁じゃないか、だから高橋の主張は根本的にだめなんだと加藤さんは主張するわけです。高橋さんからすればいちゃもんのようにしか思えなかっただろうけど、ぼくは深い問題が刻まれていると思いました。それは大学の言説と批評の言説の差異そのものであり、ぼく自身の人生としても、たとえば北田暁大36さんのような同年代の社会学者たちと自分のちがいについて、あらためて考えさせられるものがあった。  ただ、加藤さんの「語り口」は、たしかにまっすぐじゃないんだけど、そのぶんとにかくわかりにくいんですね。 大澤 冒頭から子どもたちの相撲ごっこの話ですからね。前回触れた「なんとなく、わかるでしょ?」という共感回路によってここも突破しようとする。 市川 『日本人の目玉』(九八年)の福田和也もそんな感じで、そういう批評が十分に生きていた時代だったと思います。そのぶんいま読み返すとクラシックかもしれないけれど、『敗戦後論』はあとがきひとつ取りだしてもすぐれた本で、当時すでに公共性と共同性の区別を問題化している。ただ、形式と内容を一致させようとするばかりに、議論そのものが障子をへだてた感じに見えるんだよね。 東 そう。とにかくわかりにくいんだけれど、本質を取り出せばほんとうにいいことを言っている。ハンナ・アーレント37の解釈としてもいいと思います。『イェルサレムのアイヒマン』の本質は「フリッパント」な語り口、つまりある種おちゃらけた挑発的なしゃべり方にこそあり、だからこそ彼女はドイツ人だけではない、ユダヤ人まで含む普遍的な問題としてアイヒマン38の罪を語れたのだという読解は本質を突いているんじゃないかな。シリアスな反省や悔悛の語り口は共同性を強めるだけで、「フリッパント」な語り口こそが公共性につながるという話は、ゲンロンがいま取り組んでいるダークツーリズムの問題とも直結する気がします。 市川 さきほど言っていた近代的主体の問題というのは、ある種の共同体のなかに、公共性を強引にインストールしようという話だったわけですよね。ただ、共同性を人々が捨てきれないぶん、インストールはつねに失敗してしまう、と。その困難なふたつをどう接合するかという観点が、たとえば、アジアの死者を弔うまえに自国の死者を弔おう、というロジックにも出てきているんだと思います。つまり、それはあくまで公共性を手に入れるための技術論であって、しかしその技術こそが肝要なのだ、と。 東 加藤さんが言っているのは、共同性はまっすぐな語り口で作れるけれども、公共性は屈折や秘密がないと生まれないということです。これはとくにいま重要です。と言うのも、いまの日本では、みんなで集まって率直に意見交換をすれば公共性が生まれるというような、じつに素朴な意見が優勢になっているからです。オープンであることがそのままパブリックにつながるという考えです。けれども、加藤さんは、すべてをオープンにした瞬間に消える「なにか」があって、それこそが公共性の起源だと言っている。 市川 もうひとつ、加藤さんのこの本が出たときは、共同性と公共性、あるいはウェットなものとパブリックなものの接合が、すべて消費に置き換えられていこうとしていた時期だというのも大事だと思います。消費というのは、動機としては「個」的で共同的なものだけど、しかし社会のなかでは公共的に機能する。個別的なあるいは共同的なものと公共的なものの接合が消費だけでいいのか、という問いなんですよ。その意味でも二一世紀になっても生きるんですよね。結論としては、加藤さんをゲンロンに招くべきだよ(笑)。 東 来てくれるかな……。いずれにせよ、この本の重要性は忘れられていると思うんだよね。憲法改正の話もしてるからアクチュアルなんだけど。そしていまや文学者こそが「フリッパント」な語り口から離れ、どんどん「政治的に正しい」ことしか言わなくなっている。 大澤 ただ、時代的な背景を多少なりとも整理しておくと、『敗戦後論』が書かれた時期には、ちょうどベネディクト・アンダーソン39『想像の共同体』(八三年、邦訳八七年)などの国民国家論が席巻していました。西川長夫40の『国境の越え方』(九二年)をはじめ、西川周辺で一連の共同研究も出たし、小熊英二41も『単一民族神話の起源』(九五年)でデビューする。ここに、上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(九八年)を挙げてもいい。左派が国民国家の幻想性や仮構性にこだわった時代ですね。『批評空間』グループだと絓秀実が『日本近代文学の〈誕生〉』(九五年)でアンダーソンを全面的に援用する。こうした潮流のなかで、『敗戦後論』のような議論を繰りだすのは、どうしても劣勢というか時代遅れに映ったという事情はあったのでしょう。 福嶋 『敗戦後論』は「公有できない秘密」が大切だという本ではないですか。たとえば、アンダーソンふうに言えば、無名戦士の墓こそが国民国家を象徴するものだということになり、それの類比物が、日本では靖国神社の英霊になるわけだけれども、加藤典洋はこうした大きな擬似宗教的装置には違和感があり、その装置からこぼれ落ちるグズグズしたものに注目しようとした。その問題設定自体は正しいと思うんですけど。 東 たしかに当時は加藤さんの議論は古く見えた。でも、いま読み返すと国民国家がどうのこうのという話ではない。ひとがなにかを「語る」ときに、そして公共的であろうとするときに求められる、必然的な屈折やまちがいの話をしている。 市川 結局それは言語の問題であり、「誤配」の問題でもあるんですよね。あらゆるコミュニケーションは、それがあたかも正確で透明なものを介しているふりをして行われるけれど、つねにこぼれ落ちるものや届き損ねを含まずにはいない。そのどこを焦点化するか、あるいは利用するかで、まるでちがってくる。 東 まさにそう。 大澤 さきほどのオタクのところで触れた「主体化」の問題ともつながる。 市川 そうですね。その点で加藤さんの態度はナイーヴにも感じられて、左派的な合理性には相性が悪かったんだと思います。でも、それは加藤さんが文学者だったからこそ可能な視座でもあったと思う。 東 とはいえ文学者もいまは文学的じゃない。逆に小林や宮台、大塚のほうがその点では「文学的」なのかもしれない、というのがここまでの議論ですね。八九年から二〇〇一年というのは、とにかくある種の屈折への感性が問われていた時代で、『敗戦後論』もその一例に数えられる。ゼロ年代に入ると、その屈折がなぜかなくなる。そして単純な左翼が復活してくる。 大澤 一五年経て、白井聡42が『敗戦後論』に近いロジックを『永続敗戦論』(一三年)で再生することになります。ただし、そこには加藤に存在した「屈折」はすっかり消失し、平板化されている。これは時代的な必然ですし、本人の戦略でもあったはずです。にもかかわらず、人々はこれを新しい議論として迎えた。となると、ぼくたちはなにを前提としてやっていけばいいのか。 福嶋 あれは謎ですね。 東 加藤さんの文章は大人じゃないと読めない文章なんですよ。ひとには決して他人に言えないことがあるし、言えないことがあると思われてもいけないことがあって、そういうことの蓄積でひとは年を取るのだ、みたいな話。そういうのは若者にはわからない。高橋哲哉さんはそれに対して、悪いと思ったらきちんと言葉にしなければ始まらないじゃないかと言うわけです。しかし、言葉に出したら謝罪にもならないし、悔いたことにもならない罪が世の中にあるし、逆に「フリッパントな語り口」でしか表現できない謝罪もある。『敗戦後論』の人間観は、その点ではたしかにウェットで文学的ですね。 市川 精神分析的に言えば、自分すらも忘却するような「言えないこと」が存在する。けれども高橋さんは、そこを含めて意識化しようぜと言ってしまう。 東 この論争のときは高橋さんも若い。まだ三〇代です。すれちがいの原因は単純にそこにあるのかもしれません。 36北田暁大(1971~)社会学者。『広告の誕生』『嗤う日本の「ナショナリズム」』 37ハンナ・アーレント Hannah Arendt(1906~75)ドイツ出身のアメリカの政治哲学者。『人間の条件』『全体主義の起原』 38アイヒマン Karl Adolf Eichmann(1906~62)ドイツの元SS隊員、アルゼンチンで逮捕、62年に処刑。 39ベネディクト・アンダーソン Benedict Richard O’Gorman Anderson(1936~2015)アメリカの政治学者。東南アジア研究。『ヤシガラ椀の外へ』 40西川長夫(1934~2013)立命館大名誉教授。比較文化、アルチュセール、マルクス。『国民国家論の射程』 41小熊英二(1962~)社会学者。『〈民主〉と〈愛国〉』『生きて帰ってきた男』 42白井聡(1977~)政治学者、思想史家。『未完のレーニン』『「戦後」の墓碑銘』 『批評空間』への抵抗 東 とはいえ、加藤さんの『敗戦後論』の文章が『批評空間』派を意識しすぎていることもたしかです。 福嶋 『批評空間』は同時期に特集で『モダニズムのハード・コア』(九五年)を出すわけだけれど、その原点のひとつは坂口安吾43でしょう。安吾は「必要」に美が宿るという立場から、機能的なドライアイス工場や小菅刑務所こそが美しい、日本主義者は法隆寺がどうのこうの言っているがそんなものは駐車場にしてしまえばいいのだと言う。こういう伝統の切断がモダニズムの原風景なのはたしかでしょうが、それに対して、加藤さんはことさら安吾ではなく太宰治44を持ってくる。 東 そう。安吾を通して名指したいのが柄谷と浅田であることはあきらかです。語り口の問題云々というのも、高橋哲哉さんだけでなく、おそらくそのむこう側に柄谷・浅田のポストモダン組を見ている。 福嶋 公共化=公有しえない秘密があるとして、それをより多く抱えているのはモダニストの安吾ではなく、むしろ語り手を女性化したりしながらグズグズ言っている太宰である、ということはあるでしょうね。 大澤 繰り返すならば、背景には八八年の「『共同体/外部』論争」や、九一年の反戦声明が横たわっている。加藤さんはあれを乗り越えたいと思っていた。 東 実際、『批評空間』のほうも、わざわざ論敵の高橋哲哉さんを呼んで加藤さん批判を行っていた(九七年、第Ⅱ期一三号)。批評界の派閥争いのなかで解釈されてしまったのは、『敗戦後論』にとって不幸でした。 大澤 その共同討議に加藤は呼ばれないし、もし呼ばれても出なかったんじゃないでしょうかね。結果的に、西谷修45が不在の加藤の弁護役を担う構図になっていた。ちなみに、この対立は村上春樹をめぐる評価の分岐にもそのまま重なっています。加藤は『イエローページ 村上春樹』(九六年)など解読本をいくつか書く。早くは九一年に、笠井潔・竹田青嗣との鼎談本『村上春樹をめぐる冒険』を出している。他方、『批評空間』派は一貫して村上春樹に否定的。 市川 加藤典洋は大江健三郎と村上春樹を同時に論じることで、のちに『文学地図』(〇八年)にも結実する、バランスのいい仕事をしているんですよね。柄谷行人は春樹を大江と対置して、優位に立つための超越論的な自己意識にすぎぬと批判しましたが、加藤さんは大江と春樹が決して背をむけるものではないと捉える。柄谷さんの春樹批判はいまにいたるまで多々参照されますが、加藤さんの分析も、それと併せ読まれるべきだと思います。  同じように、笠井潔の『物語の世紀末』(九九年)もいい仕事です。エンターテインメントと純文学のジャンルをまたぐ批評は、いまでこそ珍しくないけど、笠井さんがこの時期に先鞭をつけている。 東 笠井さんの活躍は新本格ミステリのムーブメントと切り離せません。八七年以降、先行世代である島田荘司46のサポートのもと、綾辻行人47や法月綸太郎48、我孫子武丸49といった新世代のミステリ作家が京大ミステリ研究会周辺で続々と誕生する。その流れを受けて、九〇年代の笠井さんは「新本格ミステリこそ現代の文学である」という主張を組み立て、のち『探偵小説論』シリーズ(九八年~)にまとめていく。彼の当時の主張は、ひとことで言うと「人間を人間として扱わない(キャラクターとして扱う)探偵小説こそが現代では文学たりうる」というもので、理論的にも興味深いし、批評の実践としても京極夏彦50や森博嗣51が登場する時代とよく共鳴していた。清涼院流水52やライトノベルが出てくると微妙にゆらぎ始めるのですが、それは時期的には次回扱うべき話題ですね。 市川 他方でこの時期の『批評空間』が肯定したのは、春樹でもエンターテインメントでもなく大西巨人なわけです。大西巨人のようにほとんど神経症的なまでにすべてを分析し言語化することこそが倫理だ、という主張。まさに高橋哲哉のように。 大澤 そして物語批判。 市川 でも個人的には、いま振り返ってもなお『批評空間』と大西巨人がまちがっていたとは思わない。物語でいい、と言ってしまうわけにもいかないでしょう。 東 とはいえ、『批評空間』派が加藤さんが強調する「語り口の問題」にあまりにも鈍感だったとは言える。そもそも、柄谷行人と浅田彰というまったくちがうタイプがなぜあれだけ長いあいだ共闘できたかと言えば、要はふたりとも「ぶっちゃければいいんです」というノリだったからでしょう。 市川 そこはわからないな。柄谷行人というひとは、それこそ「陰影」があるひとでしょう。戦略的には、陰影なんてものはないほうがよいのだと主張するにしても。 東 そのような主張こそが、彼らのマッチョイズムというかナルシシズムの表れだったと思います。そしてそれは結果的に、小林よしのりの言う「純粋まっすぐ君」を生みだしていく。実際に柄谷門下からは「純粋まっすぐ君」ばかりが生みだされ、NAMは瓦解していく。むろんそれは柄谷だけの問題ではない。ゼロ年代は一般に「純粋まっすぐ君」の時代ですから。 市川 たとえば谷崎潤一郎53を読むにあたって『陰翳礼讃』よりも『細雪』や『春琴抄』を選びたくなるように、しばしば日本的なものへの賛美を前提とした陰影を回避したくなる気持ちはわかります。 東 けれど、陰影や屈折イコール日本的なものの肯定ではないでしょう。その等式がすでに「純粋まっすぐ君」ですよ。人生で大事なのは陰影ですよ。ほんとうに大事なことは言えない。 市川 たしかにその等号は短絡ですね。ぼくの言い方が雑でした。とはいえ、「ほんとうに大事なことは言えない」もそれはそれで、村上春樹そのものに聞こえる……あずまんも変わったなあ(笑)。 東 たしかに凡庸な話ではあるけど、『批評空間』派がその凡庸な認識に対して執拗なまでに嫌悪を示し続けたことには、なんらかの本質が表れていると思う。 福嶋 それは村上春樹と村上龍の対比とも関わっているので、龍はよくも悪くもいま言った意味での「陰影」は乏しい作家ではないですか。とくに、彼の九〇年代の作品には、世界そのものをぜんぶゲーム的にマッピングしてしまおうという欲望が出てくる。少なくとも、春樹のように井戸にこもって、そこに光が差し込むのを待つという感受性ではない。もちろん太宰=春樹的なグズグズにしたって、結局はナルシシズムに回収される可能性が高いけれど、話法や空間をいろいろ変えながら「公有できない秘密」を象っていくというのは、文学の本来的な仕事だと思います。 43坂口安吾(1906~55)小説家。無頼派。『堕落論』『桜の森の満開の下』 44太宰治(1909~48)小説家。無頼派。玉川上水で入水自殺。『斜陽』『人間失格』 45西谷修(1950~)哲学者。フランス現代思想。『不死のワンダーランド』『戦争論』 46島田荘司(1948~)小説家。新本格ミステリの祖。〈御手洗潔〉シリーズ。『占星術殺人事件』『水晶のピラミッド』 47綾辻行人(1960~)小説家。〈館〉シリーズ等。『十角館の殺人』 48法月綸太郎(1964~)小説家。〈法月綸太郎〉シリーズ等。『ノックス・マシン』 49我孫子武丸(1962~)小説家。〈速水三兄妹〉シリーズ等。『8の殺人』 50京極夏彦(1963~)小説家、妖怪研究家、デザイナー。『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』 51森博嗣(1957~)小説家、工学博士。『すべてがFになる』『スカイ・クロラ』 52清涼院流水(1974~)小説家。京大ミステリ研。『コズミック』『ジョーカー』 53谷崎潤一郎(1886~1965)小説家。耽美派、悪魔主義。『痴人の愛』『瘋癲老人日記』 九〇年代前半の日本文学の隘路──筒井康隆とW村上 東 この流れで文学の話をしようと思います。すこし時間をさかのぼりますが、九〇年代の文学的事件のひとつとして、筒井康隆が九三年に行った断筆宣言がある。筒井さん自身は韜晦するけれど、やはりあれは象徴的な出来事だった。筒井さんは戦後日本文学の猥雑性を象徴する作家です。ルーツもSFだし、じつにいろいろな仕事をしている。メタフィクションやパロディはその一部であって、八九年から九三年のあいだにも、前述の『文学部唯野教授』のほかにも、『残像に口紅を』(八九年)や『朝のガスパール』(九二年)のような実験的作品をばんばん書いている。そんな彼が、「無人警察」(六五年)に端を発した騒動で、言わば「政治的な正しさ」に押し潰され断筆してしまう。  本人は否定するでしょうが、ぼくは筒井さん自身も断筆前後で変わったと思う。断筆前の筒井さんは、とにかく猥雑でエネルギッシュな「危ない」ひとだった。けれど、断筆後の筒井さんは、いい意味でも悪い意味でも「きれい」なメタフィクション作家になっている。作品としてはそれは刺激的といえる。けれど『噂の眞相』の連載で毒を吐いていた筒井さんはそこにはいない。つまり、筒井さんの断筆は、日本文学の乱雑でアナーキーな時代の終わりを告げるものだったんじゃないか。 大澤 ポリティカル・コレクトネスの全面化も九〇年代の現象ですね。文学の骨抜きと社会学の隆盛はその動向と通じている。 市川 同じように九〇年代前半に起きた文学的切断といえば、中上健次が九二年に四六歳で亡くなったことがあります。エネルギッシュな小説家の夭折に衝撃を受けたひとも多かったぶん、中上への追悼意識が極端に強くなった。筒井康隆の断筆も含めて、そうしたことの煽りを受けたのが、村上春樹だったのではないか。彼はちょうどその時期に『ねじまき鳥クロニクル』を発表するのだけれど(『新潮』での連載は九二年一〇月~九三年八月)、どう見ても彼の最高傑作であるにもかかわらず批評家たち、とりわけ『批評空間』に近い書き手たちが、まったく評価していなかったように記憶しています。その背景には中上健次の神格化があって、「中上だったらこう書いただろう」という幻影が空気を支配していた。 大澤 實重は現実の歴史の「不在」をアイロニカルに批判し、渡部直己は対象に接近しつつ、それ以上は踏み込まない態度を「寄付的」と揶揄する。 東 もちろん中上健次はすぐれた作家だった。ただ、彼の喪失に対して批評界はあまりにも過大に反応した。当時、学生としても違和感があった。 市川 センチメンタルなものにすら見えたかもしれません。そしてもうひとつは、九四年に大江健三郎がノーベル賞をもらったことです。中上の他界と大江の受賞、このふたつが他の文学的な動きを打ち消してしまった。又吉直樹『火花』(一五年)といっしょで、短期的にはノーベル賞効果が文芸復興感を煽ったけれど、文芸評論全体の柔軟さにとっては、マイナスに働いたように思います。なんのかんので、ノーベル賞となると権威と捉えがちだし。 大澤 両村上のキャリアにとっても「戦後五〇年」という節目は大きかった。『羊をめぐる冒険』(八二年)もそうですが、村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』で満州にこだわりを見せていますね。もちろん同時代の東アジアの政治状況に宛てた文学的応答でもあった。綿谷ノボルという宮台真司っぽい人物が登場するのだけど、そこも九〇年代社会を描くようでおもしろい。『ねじまき鳥クロニクル』と同時期に、村上龍は『五分後の世界』(九四年)を発表。ある種の偽史もので、一九四五年以降のありえたかもしれない別の日本をシミュレーションした作品です。もはやそれは日本ではないわけですが。二年後には『ラブ&ポップ』(九六年)を書いて、同時代の社会風俗の方面に舵を切る。その延長線上に、ヒット作『13歳のハローワーク』(〇三年)やテレビ番組「カンブリア宮殿」(〇六年~)はあります。こうして、文学や物語で政治を語ることから急速に撤退していく。 福嶋 ちなみに、あんまり注目されてないけど『ねじまき鳥クロニクル』のまえに、中上健次が『異族』(八四~九二年に断続的に連載、死後九三年に出版)で満州を隠れたテーマにしているでしょう。満州国の再建を目指している右翼の大物がいて、そいつにそそのかされた若い連中が沖縄に行き、そこで独立運動にコミットしていくという話です。八〇年代から九〇年代前半の段階で、沖縄と満州の問題が二重合わせになり、速水健朗54的に言えば「独立国」というテーマがすでに描かれる。曲亭馬琴55の『椿説弓張月』や『八犬伝』のパロディのようなところもあるし、近代日本を空間的・時間的に突き抜けていこうという意欲があった。昨今の政治情勢を踏まえても、教育的な作品だと思う。沖縄はたんに政治的利害の場というだけではなく、右翼的な夢の集積場でもあって、その総体を直視する必要があるわけです。 東 中上、春樹、龍といったビッグネームだけではなく、孝之が『日本変流文学』(九八年)で描いたように、九〇年代前半までは純文学とジャンル小説の境界でいろいろおもしろい動きが出ていた。それこそ筒井の影響を受けた川上弘美、笙野頼子56、あるいは奥泉光57といった作家がいる。さきほど名前が挙がった笠井さんの論もそういう越境を前提にしている。多和田葉子58のような国境とジェンダーを横断する作家も出てくる。マジックリアリズム的というか、幻想的な想像力を使って社会問題を寓話化するような作家が多く出ていた。でもそういう流れは、九〇年代後半になるとなぜか萎んでいく。そして九七年に「J文学」が現れ、ゼロ年代へと続く、素朴なリアリズム回帰の時代が始まる。代表作とみなされた阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』(九七年)そのものは、むしろ変流文学を志向したものだったと思うけど。  個人的には、批評だけでなく文学においても、九〇年代前半のほうが後半より豊穣だった印象があります。 大澤 村上春樹は九五年の地下鉄サリン事件を機に『アンダーグラウンド』(九七年)を発表するなど、現実へのコミットメントのモードに切り替わったと自認するわけですが、両村上に限らず、圧倒的な現実をまえに、九〇年代後半は文学全般が社会学化・心理学化していくわけですね。村上春樹は河合隼雄59に会いに行くし。 市川 ジャンルの横断という意味では、奥泉さんもそうですが、九〇年代後半になると桐野夏生60が本格的に活躍を始めて、『OUT』(九七年)や『柔らかな頰』(九九年)が出てくるんですよね。ジャンルを跨いだ作品の書き手として意識されるのはおもに『東京島』(〇八年、『新潮』での連載開始は〇四年)以降ですが、もともとジュニア小説や、レディースコミックの原作まで手がけていたことを考えれば、小谷真理の批評とも同じ傾向を持つ書き手としての彼女の登場は、先行する宮部みゆき61『火車』(九二年)や松浦理英子62『親指Pの修業時代』(九三年)とともに、九〇年代を画するもののひとつだったと振り返れると思います。 54速水健朗(1973~)編集者、ライター。『タイアップの歌謡史』『ケータイ小説的。』 55曲亭馬琴(1767~1848)江戸後期の戯作者。『高尾船字文』『月氷奇縁』 56笙野頼子(1956~)小説家。『なにもしてない』『金毘羅』 57奥泉光(1956~)小説家。『石の来歴』『東京自叙伝』 58多和田葉子(1960~)小説家、詩人。ドイツ在住、日独両言語で創作活動。『雲をつかむ話』『献灯使』 59河合隼雄(1928~2007)心理学者、ユング派分析家。文化庁長官。『昔話と日本人の心』、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(共著) 60桐野夏生(1951~)小説家。『顔に降りかかる雨』『グロテスク』 61宮部みゆき(1960~)小説家。『ぼんくら』『模倣犯』 62松浦理英子(1958~)小説家。『ナチュラル・ウーマン』『最愛の子ども』 中沢新一と福田和也 大澤 オウムに関連させつつ批評に話を戻すと、ニューアカ期のスターだった中沢新一はこの一件で大きく躓くことになります。オウム真理教内部に熱心な読者が存在したし、一時は彼自身が麻原を支持してもいた。これがスキャンダルとなり、言論界から抹殺されかかったはずですが、しかしその後もたくましく生き残る。ゼロ年代に入ると、『カイエ・ソバージュ』シリーズ(〇二~〇四年)で独自の展開を見せ、『アースダイバー』(〇五年)がヒット。震災後は社会運動家としても躍り出ます。この胆力はやはりすごいですよ。次回扱いましょう。 東 九五年以前には、『森のバロック』(九二年)とか『はじまりのレーニン』(九四年)とかいい本を出版してるんですけどね。でもやはり、この時期の中沢さんはオウム事件の印象が強いな。 福嶋 そこで、福田和也さんなんかは言わば宗教的超越性の代用として、ディレッタントな保守主義を持ってきたということでしょうけど。 東 ぼくは彼はまったくわからない。この討議のため『日本の家郷』(九三年)を読みなおしてみたけれど、それこそオタクの文章だと思った。保守思想を読む、保田與重郎を読むといっても切迫感がまるでない。小林よしのりとまったくちがう。『批評空間』派はなぜ彼を重宝したのだろう。 市川 福田和也は『奇妙な廃墟』(八九年)などの仕事では、反近代主義者としてふるまっていましたから、近代主義的な『批評空間』と対置されるものではあった。また、九〇年代前半当時は、ナショナリズムの切迫感がいまとはまったくちがった。たしかに小林よしのりは右傾化していたけど、マンガ家がなにか騒いでいる、くらいの受け取り方をされていたのだと思います。そのなかで相対的にクレバーな右派としてふるまっていたのが福田和也だった。 福嶋 中沢さんの反近代主義は価値の発見と伝達につながっている。けれど福田さんはやはりディレッタントであって、そういうタイプではない。当時、福田さんは『批評空間』の外部だという話になっていたけど、やはり中沢さんのほうが本来的な意味での「思想家」だったという気はする。 東 まったくそうだよね。 大澤 さきほど、法隆寺を駐車場にという安吾の例が出たけど、『日本の家郷』では檜だろうとコンクリートだろうと鳥居を建てればミコトは伝えられると言っている。『批評空間』のネガだったことがよくわかるくだりです。フェイクとしての保守思想とはそういうものでもある。 福嶋 すべてがフェイクでフィクションであるというのはいいとしても、反復されるフィクションというのはあるわけでしょう。それは、日本の地理的構造とか言語的環境とかの基礎条件に依存している。福田さんはたいへん博識ですごいと思う半面、そういう条件の問いなおしという点からすると、個人的には隔靴搔痒の感がある。 大澤 東さんの『郵便的不安たち』(九九年)所収の「棲み分ける批評」では、福田和也と斎藤美奈子は「書きすぎる」批評家というカテゴリに入れられていましたね。彼のエッセイ類の大半は時間性に耐えないものですが、『人でなし稼業』(九六年)など粗雑な社会時評はその雑ゆえにそれなりに機能していたと思う。前回の討議では、こういうエッセイの類を批評に含めませんでした。そうしなくともテクストが豊饒にあったからですね。しかし九〇年代は、むしろそういう雑多なものこそが批評だとみなさないと、ジャーナリスティックな批評がなかったことになってしまう。とすると、福田さんは九〇年代のスタイルとして肯定的に評価せざるをえないとは思う。 東 でも福田さんの仕事には屈折を感じない。 4│出版の後退、大学と政治の回帰 ブックガイドの時代 市川 基調報告にちょっと戻れば、九〇年代の後半は、批評の領域が分散していった時代です。マルクス主義が大艦巨砲主義だったとしたら、言わば「戦艦」の時代が終わり、無数のサブジャンルが、空母に乗った飛行機のようにあちこちに飛んでいった。たとえば『存在論的、郵便的』(九八年)の時点の東浩紀は、まだ大艦巨砲主義の延長線上にいます。大戦末期に現れた、最新鋭の船のようだった。しかしその時点で、みな戦艦の時代が終わったことをどこかで察知している。それが九〇年代後半の空気だったと思います。 大澤 批評の居場所は減少するし、戦艦も小型化していく。戦艦を降りた人間たちをどこが回収するのかと言えば、結局のところ大学という制度しかなかった。身も蓋もない言い方ですが、九〇年代後半はそういう時代だったはずです。大学に就職するまでのステップやつなぎとして戦略的に文芸批評をやるという反転した回路もこのころから散見される。  七〇年代から八〇年代にかけての現代思想ブームやニューアカブームを、一〇年遅れでアカデミズムが回収する。象徴的事例は『知の技法』(九四年)に始まる「知の三部作」ですね。その先に批評理論の更新がある。ひと通り理論が出そろったところで体系的に解説する必要が生じて、二〇〇〇年前後には「ブックガイド」や「ガイドブック」が多数企画されます。「思考のフロンティア」(第Ⅰ期、九九~〇二年)などシリーズものも出たし、『現代思想』や『國文學』といった雑誌もブックガイド特集を頻繁に組んだ。理論動向がつぎつぎとパッケージ化されていきます。編集意図としては世紀転換も意識されていたはずですね。ぼくももう大学生でしたが、入門書には困りませんでした。 東 その点では、『批評空間』派は、孤高を貫くなら「知の三部作」なんて軽蔑しきるべきだったんですよ。でも彼らは意外と共闘していたし、最終的には自分たちでもブックガイドを作成した。 市川 『必読書150』(〇二年)ですね。 東 あれはびっくりしたな。 市川 たしかに浅田さんと柄谷さんはブックガイドを作るタイプには見えないけど、渡部さんや絓さんは、日本ジャーナリスト専門学校の講師だったこともあって、けっこうブックガイドが好きですよ。それに、当時の状況を考えると擁護したくもある。消費者優先でなにかを組み立てようと思うと、つねに質の問題はどこかに行ってしまうから、そこに折衷点を探そうとした気持ちは、よくわかります。 大澤 まぁ、教養主義とはつまるところリストのことですからね。近代主義的な方向に転轍した彼らがブックガイドに行くのは必然だったんじゃないでしょうか。『別冊宝島』などに代表される八〇年代のブックガイドと、二〇〇〇年前後に現れたそれとはかなり異なっていて、後者は学問や批評がアメリカ化していく流れのなかにあった。アメリカはいわゆるダイジェスト版的なリーダーが発達していて、日本もこのころからその類を意識的に翻訳するようになるし、類似のものを自前で作るようにもなる。「現代思想の冒険者たち」シリーズなどですね。主要読者もサブカル的大衆から学生や大学人へとシフト。批評のコアターゲットが変わる。 大学の「外」としての「批評」 東 ぼくなりに言い換えると、それは、人文知においてまず「研究」が大学内部で行われて、つぎにそれを社会に還元するために「批評」があるという構図が生まれたということだと思う。ぼくはその構図そのものが転倒していると思うけど。批評はこの国では、大学の知とは無関係に、というよりもむしろその上位概念として育ってきた。それが、この一五年ほど逆に理解されている。 福嶋 たとえば大塚さんは民俗学出身ですね。民俗学はもともと「野の学問」とか言っていたわけで、大塚さんは正しく民俗学のひとであり、批評家であるという気はします。 東 まずは研究があり、つぎに批評があるという逆転を作ったきっかけのひとつが『知の技法』だったのではないか。 市川 あれは、東大の教養学部の教科書として作りましょうという話だったのではなかったですか? 大学のなかには知がないからこそ、外に学ぼうというコンセプトだったのでは。 東 いやいや、それはちがうんですよ。『知の技法』は表象文化論の小林康夫63さんと船曳建夫64さんの編集で、ぼくはまさにそのとき学生で近くにいたわけだけど、出版されたとき、いったいこれはだれをターゲットにしているんだと、ふしぎに思ったんです。だって、そこに書いてあることを本当に知りたかったら、それはすでに出版されているわけで、わざわざ新しい教科書を作る必要はない。けれど、そこにトリックがあったわけです。東京大学というブランドは強い。本当は東大が作りだしたものでなくても、東大編集の教科書に書かれれば、それは東大のものになってしまうんですよ。そして次世代は表象文化論=現代思想は「東大発」だと信じていくことになるんです。実際にいま『表象』(〇七年~)という「学会誌」もできている。 市川 なるほど。正しく後発国の官僚機構めいている。 東 八〇年代までは、たしかに大学の人間が外に発信していた。それがかつての「現代思想」です。でも九〇年代からどうも様子が変わってきた。そんななか『知の技法』は、大学の外で生まれた動きを大学の内側に取り込み、ふたたび大学が発信したかのように偽装する役割を果たした。 大澤 前回言ったように、それは八七、八八年の東大駒場騒動の反動でもあったでしょうね。人的にはかつて『GS』などに登場していた若手たちが大学運営側に回るタイミングでもあった。そのことも影響している。 市川 その変化はバブル経済の崩壊によるメセナの終焉に加えて、九〇年代後半に始まる出版不況とも関係しますね。 東 そう。結局のところ、大学制度のほうが雑誌文化よりサステナビリティが高かったということで、当然と言えば当然の帰結です。けれど、それによってかつての緊張感や自由度は失われたんじゃないか。實さんの東大総長就任(九七年)は、そんな批評の変化を象徴する出来事ですね。 63小林康夫(1950~)哲学者。現代哲学、表象文化論。『出来事としての文学』 64船曳建夫(1948~)文化人類学者。『親子の作法』 『現代思想』の変貌 東 雑誌『現代思想』の変化も追っておきたい。この共同討議では三浦雅士さんが『現代思想』編集長となった七五年を「現代批評」の最初の年としているわけで、同誌はまさに思想と批評の蜜月を象徴する雑誌だった。それが、九五年以降は急速に「政治化」していく。 大澤 『現代思想』編集長は九三年に池上善彦65に替わります(二〇一〇年まで)。プレニューアカ期に編集長を務めた三浦雅士との個人的な資質の差異もあるでしょうが、もちろん、個人に回収しきれない社会的な焦点化のシフトが背後にあって、あきらかに「政治と思想」のカップリングへの揺り戻しが見られる。 東 学生時代、池上体制の是非はけっこう話題になっていました。 市川 三浦さんが作っていた時代の独特の色気というか、『ユリイカ』と棲み分ける前提での守備範囲のせめぎ合い、みたいなものは薄れましたよね。なぜか『現代思想』が坂口安吾の特集をやっている、といったような意外性はあまり感じられなくなった。 東 個人的には、九六年四月臨時増刊号の特集「ろう文化」が印象に残っている。あ、こういう方向に行くんだと虚を突かれた記憶がある。ほかも当時の特集一覧を見ると、「レズビアン・ゲイスタディーズ」(九七年五月臨時増刊号)、「ストリート・カルチャー」(九七年五月号)、「身体障害者」(九八年二月号)、「スチュアート・ホール」(九八年三月臨時増刊号)、「ジェンダー・スタディーズ」(九九年一月号)と、はっきりした路線変更がうかがえます。 大澤 テンポが若干遅めの『思想』にしても同様です。こちらも一覧を眺めると、「エスノナショナリズム」(九五年四月号)、「ジェンダー/セクシュアリティ」(九八年四月号)、「ポストコロニアリズムと文学」(九九年三月号)、「ジェンダーの歴史学」(九九年四月号)といった具合。全体として、仲正昌樹が言うところの「ポスト・モダンの左旋回」が進行していた。文化左翼的な構えもアカデミズムを席巻する。 東 つまりは、『批評空間』派が「ポスコロ」「カルスタ」とバカにしているあいだに、現代思想の本拠地自体が急速に「ポスコロ・カルスタ化」していったわけです。 福嶋 総じて言えば、経済学として用済みになったマルクス主義が美学化し、表象分析/カルチュラル・スタディーズに流れ込んだということでしょう。つまり、ポストモダン哲学自体が文化分析の道具になってしまった。 東 その一方で、ポストモダン哲学そのものには、アカデミズムから疑義が呈されるようになる。ソーカル事件が起きたのはまさにこのころです。二〇〇〇年には金森修の『サイエンス・ウォーズ』が出ています。 市川 読者のために補足しておけば、ソーカル事件というのは、アメリカの物理学者アラン・ソーカルが、ポストモダンの思想家が科学的概念を曖昧に用いたテクストをコピペして、適当な説明を加えた論文をカルスタ系の雑誌『ソーシャル・テキスト』に投稿したら、まんまと査読を通ってしまったという批評的な悪戯のことです。本質的には悪質な悪戯でしかないんだけど、ソーカル自身が掲載後に論文全体がインチキであることを告発したことで、問題の雑誌のみならず、文系理系巻き込んでポストモダン思想全体の信頼を失墜させる大騒ぎになった。そして、その邦訳(〇〇年)を前に、ソーカル事件も含めて論じたのが金森修66の『サイエンス・ウォーズ』です。その主要部分は、まさに池上善彦編集の『現代思想』に掲載されていた。 大澤 おもしろいことに、『サイエンス・ウォーズ』は『存在論的、郵便的』の翌年に同じサントリー学芸賞を受賞しているんですよね。 東 つまり、ぼくのデリダ論は早くもそこで死刑宣告されていた(笑)。 市川 ソーカル事件そのものも賛否が分かれてはいたけれどね。国内では、山形浩生67が浅田彰『構造と力』(八三年)のクラインの壺モデルをソーカルの文脈で批判して、浅田が『批評空間』のサイトで反論する、なんてこともあった(〇一年)。個人的には、ソーカルの本の原題「Impostures intellectuelles(知的な詐欺)」をわざわざ『「知」の欺瞞』と邦訳したところに、違和感を覚えた記憶があります。あれはあきらかに『知の技法』を皮肉ったタイトルだった。 東 露骨に表象文化論がターゲットにされてましたね。いずれにせよ、九〇年代も末になってくると、八〇年代の流れを汲むポストモダン哲学が、一方ではたんなる便利な文化分析の道具と化し、他方で「理系」の研究者により死刑宣告をされるという構図が明確になっていった。そしてその両方が池上体制の『現代思想』に担われていた。 市川 ちょっと話が拡散するようだけど、いま振り返ればあの事件は、オリンピックのエンブレム問題やマンガのトレース問題みたいな、二一世紀のネット環境下での「炎上」問題に通じる感じがしますね。ソーカル事件がいま起きたら、確実に「検証祭」みたいなものが起きたんじゃないか。 東 というか、ソーカルの悪戯そのものが「検証してみた」ですよね。実際、ポストモダニズムへの攻撃にはサブカル系の「と学会」なども熱心に参加していた。「実証のない頭の悪い文系」対「まちがいを正す正義の理系」という、原発後の「放射脳」対「安全厨」の闘いにまで直結する構図が、まさにこの時期に生まれている。 大澤 「と学会」が設立された九二年には、『磯野家の謎』が発売され世間的に大ヒット、謎本ブームを生みだします。これなんかも、八〇年代のテクスト論的な思考が通俗的に拡散した結果と見ることができるでしょうね。 65池上善彦(1956~)編集者。『現代思想』編集長(1993~2010)。 66金森修(1954~2016)思想史家。フランス哲学、科学思想史、生命倫理学。『〈生政治〉の哲学』 67山形浩生(1964~)評論家、翻訳家。『新教養主義宣言』、トマ・ピケティ『21世紀の資本』(共訳) 日本型カルチュラル・スタディーズの歪み 大澤 「カルスタ」はそれそのものの評価以前に、日本の学問/批評の分岐点として広いスケールのなかに位置づけなおさないといけません。ありえた可能性も含めてです。九六年三月に東京大学社会情報研究所とブリティッシュ・カウンシルの共催で、シンポジウム「カルチュラル・スタディーズとの対話」が盛大に開催され、『思想』と『現代思想』が時を同じくして特集「カルチュラル・スタディーズ」を組みます(それぞれ、九六年一月号と三月号)。これを機に国内での受容が一気に進んだ。中心的な受容の場はやはり大学で、スチュアート・ホール68らCCCS(現代文化研究センター)由来の成果がアカデミックに「真面目に」紹介されていったわけですが、本来の日本型カルチュラル・スタディーズの素地はもっと別のところに存在したと思う。たとえば、九〇年代前半には上野俊哉69がアニメ批評や都市論を展開し始めていた。ニューアカの延長線上、ジャーナリズムの領域にすでに受容の萌芽があったと見るべきでしょう。 東 上野さんにはぼくはなぜかひどく嫌われているので言及しにくいのですが、たしかに彼は、のちに大学一辺倒、「政治的正しさ」一辺倒になってしまうカルチュラル・スタディーズと、八〇年代のニューアカ的な軽薄なノリをブリッジする重要な位置にいたひとなんですよね。 大澤 上野さんの登場と前後して宮台さんたちの『サブカルチャー神話解体』(九三年)が出ている。『宝島』的な八〇年代カタログ文化の集大成であると同時に、社会学的な知を融合した奇跡的な一冊だと思います。だけど、その後の日本のカルチュラル・スタディーズはこの手の成果をうまく取り込めなかった。というか、サブカルを排除した。毛利嘉孝70さんと『カルチュラル・スタディーズ入門』(〇〇年)を出す上野さんですが、本来であればあそこでアカデミズムにサブカルを混成させることができたはず。しかし、この方向はゼロ年代の東浩紀を待つしかなかった。 東 宮台さんの仕事はカルチュラル・スタディーズそのものですよ。そもそもカルチュラル・スタディーズというのは、日常生活やサブカルチャーの消費のなかに政治や階級問題やアイデンティティを見る地味なフィールドワークのことなのだから、直接の影響関係がなくても方法論は並行している。けれど輸入業者でしかない日本の大学人にはそのことがわからなかった。 大澤 その結果、日本型カルチュラル・スタディーズはいびつなものに進化を遂げてしまった。 東 深刻な問題です。結局、宮台にしても大塚英志にしても、大学に身を置いてはいても本質は大学人ではない。それは裏返せば、彼らの研究やフィールドワークを支援する体制が大学の外にあったということなんだよね。具体的には出版です。けれども九〇年代後半にはまさにそれが崩壊する。そうすると、日本の人文系大学人は外国からの輸入しか学問だと思ってないから、一気に知的レベルが落ちることになる。それが九〇年代後半に起きたことなんだけど、これはいまは説明してもなかなか理解されないんですよね。みな大学がすべてだと思っているから。 大澤 九〇年代後半から二〇〇〇年代初頭にかけて若手のポスコロ・カルスタ研究の成果を続々刊行した版元に新曜社があります。しかし、八〇年代後半から九〇年代前半までの新曜社はじつはずいぶん尖っていて、ニューアカの行方をフォローした仕事をしていた。ノマド叢書はセンスのよいラインナップです。入門書としても、早くに「ワードマップ」シリーズを出していた。 東 科学哲学の本も出してますね。ファイヤアーベントとか。 大澤 いまから考えると意外ですが、初期の大塚英志の重要なタイトルを続々と出していたのも新曜社でした。それが九〇年代末には急速にポスコロ・カルスタに舵を切るわけ。小熊英二の一連のぶ厚い本がその典型でしょう。東さんが整理した変化は、たとえば新曜社の変化に体現されてもいる。 東 しかも日本にカルチュラル・スタディーズが輸入され始めたのは、くしくもオウム事件の直後。まさに九五年以前の熱気が失われつつあるときだった。 大澤 一方、『批評空間』でも渡部直己『日本近代文学と〈差別〉』(九四年)や、さきほどあげた絓秀実『日本近代文学の〈誕生〉』(九五年)などの連載が進んでいたし、川村湊も『海を渡った日本語』(九四年)や『南洋・樺太の日本文学』(九四年)などで期せずしてポストコロニアル理論に先鞭をつけていた。プレニューアカの代表である山口昌男も『「挫折」の昭和史』(九五年)をはじめ後期三部作を書く。批評家たちは九五年の直前、急速に歴史や実証へとむかうんですよね。これもサブカルとはちがう意味でカルチュラル・スタディーズに接近するのだけど、表面的には対話はない。『批評空間』派はカルスタを徹底してバカにし、他方で研究者は批評家の仕事を無視しつつ(川村は例外)、密輸入するといういっこうに統合されぬ不幸な対話だけがあった。 市川 石原千秋や紅野謙介71といった当時の若手国文学者たちには、あきらかに絓秀実や渡部直己の仕事の影響が見られましたよね。 大澤 そのふたりは当時すでに中堅だし良質。ここで言うのはもっと下の世代です。イデオロギー的な青写真ありきで、そこに適合する素材を歴史から拾ってくるだけの仕事は軽蔑されてもしかたないでしょう。 福嶋 さっきも言ったけれども、九〇年代は内在的なものと超越的なもの、ゲロゲロなものと崇高なものの短絡の時代でしょう。だから、あんまり由緒正しい文化批評をやってもしかたがない。絓さんや渡部さんは、そういう動向と接続しようとしてたんじゃないですか。要は、日本文学にしても汚い欲望や差別感情、タブーこそが重要なのであって、そういう汚辱の絡みあいから日本文学史を批判しよう、と。いまから見ると、九〇年代的な仕事だと思います。 東 あと日本風の「カルスタ」の展開を語るならば、やはりその政治化には触れる必要がある。九〇年代の末、今日対象にしている時期の最後のほうでは、ポストモダン哲学は言説としてはほぼ死に体になっていく。他方で元気になっていったのが、ある意味開き直りというか、「おれら、頭悪いかもしれないけど正しいことは言ってるよ」的な「運動系」の人々ですね。そして、そんな「頭の悪い」運動家を、「頭のいい」カルスタ系の大学人が支援するという、いまに続く構図が出来あがる。『現代思想』のストリート・カルチャー特集には「だめ連」が登場し、ストリート政治路線が確立される。それはのちゼロ年代に入ると、「サウンドデモ」「素人の乱」を通って現在のSEALDsにまでつながっていくことになるわけです。ここらあたりは、次回の座談会ではまさに中心のテーマになるはずの話題ですね。 大澤 カルチュラル・スタディーズの導入からキャリアを出発した毛利嘉孝がのちに『ストリートの思想』(〇九年)で描くことになる、もうひとつのゼロ年代批評のラインですね。 東 「もうひとつの」というか、いま振り返れば、むしろそちらこそがゼロ年代の本流だよね。ぼくから宇野常寛にいたるオタク系批評の流れは、いまや潰えてしまった。 市川 九〇年代を通じて、東大駒場寮の廃止問題も続いていましたよね。ちょうどその末期に、谷崎論で群像新人文学賞からデビューした丸川哲史72(小倉虫太郎)が、「だめ連」の一員として関わっていて、なぜか駒場のグラウンドで野球をした記憶があります。柄谷行人率いるチーム「カレキナダ」と丸川さんたちのチームの試合で、批評空間的な文脈とストリートの思想がすれちがったのが、まさにそのあたりの時期だったんですね。 68スチュアート・ホール Stuart Hall(1932~2014)ジャマイカ出身のイギリスの学者、カルチュラル・スタディーズの創始者の一人。 69上野俊哉(1962~)批評家、社会学者。メディア研究、文化研究。『カルチュラル・スタディーズ入門』(毛利嘉孝との共著) 70毛利嘉孝(1963~)社会学者。メディア研究、文化研究。『ポピュラー音楽と資本主義』 71紅野謙介(1956~)国文学者、近代文学。『書物の近代』『検閲と文学』 72丸川哲史(1963~)文芸評論家。東アジア文化論、台湾文学。群像新人文学賞評論部門優秀作。『思想課題としての現代中国』 斎藤環と政治的正しさの問題 福嶋 あえて印象論的な言い方をすれば、九〇年代前半の論壇や文壇は総じて躁的ですね。それまでの学問や文化が逸してきたものを捉えようという、拡大志向的な勢いが非常に強い。しかし、だいたい九五年のオウム事件をきっかけとして、急に鬱モードに入っていく。それまでの躁的な心理状態がくるっと反転し、未来が閉ざされた感じになってしまった。ひきこもりやアダルトチルドレンといった心理学の用語が前景化するのも、その反映でしょう。九〇年代前半の躁的な言論は、九〇年代後半の「心理学化」によって上塗りされる。 東 そんななか斎藤環73さんが登場します。彼は精神科医だけど、時代の「社会学化」「心理学化」には抵抗する特異な立場を築いた。 大澤 最初の『文脈病』(九八年)は副題が「ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ」で、精神医学的な表象分析をしたハードな現代思想本ですが、同年の『社会的ひきこもり』は新書で「ひきこもり」の専門家として社会的認知を獲得する。文壇にせよ論壇にせよ、たえず外部の人間を取り込むことで内部が活性化し延命していくのですが、斎藤さんも思想や文学やサブカルを語れる精神科医として歓迎された。 福嶋 市川さんの九〇年代論のモデルで言えば、斎藤さんの批評は、フェミニズムや女性作家/評論家の台頭とも関連するんじゃないですか。彼は『戦闘美少女の精神分析』(〇〇年)で「戦闘美少女」はファリックガールだと主張する。要するにペニスを持つ少女ですね。もちろん、この分析はオタク系のフィクションの表象分析から来ているわけだけど、すごく粗雑に世相と絡めるならば、九〇年代以降の女性の進出とも無関係ではないでしょう。 東 実際に小谷真理と連携している。とはいえ、そこに弱点もあって、オタク文化はファリックガールを生みだしたというのは、ちょっと「政治的に正しすぎる」感じがする。たとえば斎藤さんのイメージする戦闘美少女の典型はナウシカです。胸も大きくて母性があり、しかし男性的に戦闘もする(ファルスがある)父親的な母親。でもそれは、オタクたちが夢見る少女の主流とは本当はちがうじゃないですか。美少女ゲームの例を出すまでもなく、実際には単純な弱者が女性の表象としてはウケていくわけで、それはどう転んでも政治的には正しそうもない。つまり、当時から彼とは論争になっているけれど、斎藤さんのオタク論やロリコン論というのは、ぼくには、オタク文化について「政治的に正しく」語るためのひとつの方便のように見えるんですよね。 福嶋 斎藤さんの本は外国の研究者にも評判がよさそうだけれど。 東 それは政治的に正しいように見えるからです。その点は小谷真理さんも同じだと思います。彼らのナウシカ論やエヴァンゲリオン論は、とても政治的に正しい。だからぼくにはいささか物足りない。それは大塚英志の議論と決定的に感触がちがいますね。最初の『Mの世代』の話にもつながるけど、大塚英志はやはりロリコンの「ヤバさ」を知っているんですよ。 市川 どうかな。大塚さんは少女を「かわいい」ものとして称揚するけど、それでは女性は行き場がないでしょう。 東 大塚さんに『「彼女たち」の連合赤軍』(九六年)という本がありますね。彼がそこで言っているのは、連合赤軍事件の暴力性が、じつは「かわいい」の感性と連動していたという解釈です。だから女性の行き場を考えていないわけではない。むしろ、さきほどの加藤典洋の話ではないけれど、彼のほうが屈折した主体を考えていたとも言える。「かわいい」は屈折の別名なんです。 市川 永田洋子74が、本当に大塚さんが言うように「かわいい」の感性にかなりの部分を負っていたかどうかはわからないし、それは斎藤環的、小谷真理的なパラダイムでも解釈できるかもしれない。むしろ、そこに「かわいい」をあてはめるのは大塚さんの屈折の投影である可能性もありますよね。 福嶋 そもそも、大塚理論の「かわいい」は『りぼん』の付録から来ているわけでしょう。あれは女性向けのものではあるが、それ以前にまず子どものものです。つまり、「かわいい」は子どもとの合作によってできた美学であって、成熟した大人の美学とはちがうものが託されている。欧米のフェミニズムの理論的枠組みからはズレるものだと思います。  あるいは小林よしのりにしても、自分は子ども向けのマンガで金を稼いだから、子どものためになにかをせねばという感覚がある。だから、被害者が血友病の子どもたちだった薬害エイズ問題にも関心を持った。彼にしてみれば、マンガは子どもから託されている権利であり義務である。そのような感覚は『戦争論』以降消えてしまいますが、初期のころには歴然とあった。それは「かわいい」論とも関係している。 市川 大塚英志による「かわいい」の肯定は、そういう自分自身への否定が同時に生じるところに意味があるわけで、自己否定なしで「かわいい」だけを肯定するのは……。 東 むろんだめでしょう。ぼくもべつに、「かわいい」に耽溺するオタクたちを肯定しているわけではない。ただ、斎藤さんや小谷さんの戦闘美少女論は、そのヤバさに直面することを回避しているように見える。オタクというのは、そうそうまっすぐに肯定できない生き方だと思う。 大澤 ジェンダーをめぐる議論もまた、オタクの前景化もあって、九〇年代後半はさらにねじくれる。前後して男性学も立ち上げられていますね。 73斎藤環(1961~)精神科医、評論家。『「ひきこもり」救出マニュアル』『生き延びるためのラカン』 74永田洋子(1945~2011)新左翼活動家。連合赤軍元最高幹部の一人。東京拘置所内で病死。 『インターコミュニケーション』とはなんだったのか 大澤 ところで今回、なぜかほとんど話題に上らなかったんだけど、九〇年代はインターネットが出現した時代でもあって……。 東 ほんとだ!(笑) 大澤 最初のほうで出版状況に触れましたが、九〇年代後半からネットを使ったオルタナティブな言論活動も盛り上がる。たとえば、二〇〇一年には神保哲生75と宮台真司のインターネット番組「マル激トーク・オン・ディマンド」(ビデオニュース・ドットコム)の配信が開始され、現在にいたります。あるいは、同じ年に市川さん編集の『早稲田文学』がCD‐ROM(「Waseda Bungaku on CD」)を付録で付けたように、新たな表現媒体が実験的に使われ始めた。それから、九〇年代の批評を検討するうえで、メディア批評の系譜はやはり見ておかないといけないでしょう。吉見俊哉・若林幹夫76・水越伸77『メディアとしての電話』(九二年)など技術史的な研究もいくつかありますが、批評という点で画期となるのは、大澤真幸の『電子メディア論』(九五年)ですね。哲学の蓄積とメディア論の課題とを的確にシームレスに接合してみせた。 市川 大塚英志の仕事がイデオロギー的現在を予見していたとしたら、大澤さんのあの本は、技術的現在を予見していますよね。「誤配」の常態化を可能にする脱領域的な拡散であるとか、端末化した身体と「社会の欲望」の関係とか、二〇年の経過を感じさせない。 大澤 ちなみに、これも版元は新曜社。そして、連載媒体が『インターコミュニケーション』でした。まさに、九〇年代からゼロ年代にかけて、日本のメディア論やメディアアートシーンのセンターを形成した雑誌です。 東 『インターコミュニケーション』はもちろん重要な雑誌です。ぼくは連載まで持っていましたし。しかし、やはりこの雑誌についても、九五年の変化のせいで語るのが難しい。『インターコミュニケーション』も、初期は幸せな時代で、創刊してしばらくはいわゆる「メディアアート」がとても格好よかった。たとえば、インゴ・ギュンター78というドイツのメディアアーティストがいたんですが、九二年に新宿の東長寺にあるギャラリーである展示をやります。上野俊哉さんが文章を書いていたので見に行ったのですが、どんな展示かというと、小型ラジオを渡されてギャラリーのなかのいろいろな場所に行く、そうすると微弱な電波でそれぞれ異なるメッセージが聞ける、みたいなやつなんです。当時これは斬新でした。そしてけっこうなお金がかかっていた。『インターコミュニケーション』も潤沢な予算で作られていて、サイバー文化を引っ張っていこうという気概が溢れていた。  けれど、そのあとPHSが普及し、携帯が普及し、ネットが普及するようになると、そういう展示がどんどんばからしく見えてくるわけです。それこそ、ギュンターが当時やろうとしていたことは、いまならばツイッターやLINEではるかに大規模に、そして安価にできてしまう。つまり、九〇年代もなかばになると、現実に人々が使っているデバイスのほうがメディアアートの想像力を追い抜いていく。あのとき、現代思想系のメディア論はいちど死んだと思う。ぼくもそれからは、ハッカー系というか、スティーヴン・レヴィ79とかハワード・ラインゴールド80とか、そういうカリフォルニアで活躍するITジャーナリストの本を読むようになった。 市川 人工生命であるとか、バーチャル・コミュニティについてとかですね。なるほど。 東 ちなみにこれは余談だけど、『インターコミュニケーション』や『10+1』の誌面デザインを担当していたメディア・デザイン研究所というおもしろい組織があって、東北沢に一戸建てのオフィスを持っていた。九〇年代前半には、そこで「メディアキャンプ」という私塾みたいなものをやっていた。上野俊哉さんをはじめ、まだ若い椹木野衣さんや布施英利81さん、岡﨑乾二郎82さんなどがつるんでいて、とてもおもしろかったのだけど、いつしかオフィスが使えなくなり、私塾も解体していった。 大澤 大学の外部にある研究の場が消滅したわけですね。似たようなことは各所で起きていた。 東 上野さんの失速も、煎じ詰めればそこらへんが原因ではないか。 75神保哲生(1961~)ビデオジャーナリスト。日本ビデオニュース代表取締役、インターネット放送局ビデオニュース・ドットコム代表。 76若林幹夫(1962~)社会学者。都市論、時間論、メディア論。『地図の創造力』『都市のアレゴリー』 77水越伸(1963~)社会学者。『5:Designing Media Ecology』編集長。『21世紀メディア論』 78インゴ・ギュンター Ingo Günther(1957~)ドイツ出身、ニューヨーク在住のメディアアーティスト、ジャーナリスト。〈C31〉〈ワールドプロセッサー〉 79スティーヴン・レヴィ Steven Levy(1951~)アメリカのジャーナリスト。IT関連。『グーグル ネット覇者の真実』 80ハワード・ラインゴールド Howard Rheingold(1947~)アメリカの批評家。デジタルジャーナリズム、仮想共同体。『スマートモブズ』 81布施英利(1960~)美術評論家、解剖学者。『死体を探せ!』 82岡﨑乾二郎(1955~)造形作家、批評家。『ルネサンス 経験の条件』 東浩紀の登場 大澤 さて、この時代の締めくくりとして、東浩紀の仕事に触れておかなければならないでしょう。『動物化するポストモダン』はまさに最後の年、二〇〇一年の一一月に出版されていて、ゼロ年代批評の母胎となった。その前、『インターコミュニケーション』での連載「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」(のち『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』(一一年)に収録)が『存在論的、郵便的』の連載と同時並行で進められた。 市川 さきほど東さんは「現代思想系のメディア論は死んだ」と言ったけれど、「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」は大澤真幸さんの『電子メディア論』と並行する画期的な仕事だったと思います。けれど、東浩紀はなぜかそれを、長いあいだ出版しないんだよね。その意味では、東さんの変化もまた、九〇年代後半から二〇〇〇年代にいたる日本社会の変質を映していると思います。さっき大艦巨砲主義と言ったけれど、『存在論的、郵便的』はきわめて八〇年代的な書物だった。振り返れば、あれを書いた人間が同時並行でサイバースペース論を書いていたというのは、書き手の特徴を表しているよね。 東 サイバースペース論と、のちに『中央公論』で連載する「情報自由論」(〇二~〇三年)、そして『動物化するポストモダン』は、本当はまとまってひとつの本になるはずだったんです。「ポストモダンの世界とその文化的論理」みたいな大きな本。企画は出版社で通っていて、表紙のデザインも、ダミアン・ハースト83の作品集を手がけたジョナサン・バーンブルック84に決まっていた。内容的にもデザイン的にも、とても豪華な本になるはずだったんです。ところが途中でやめちゃった。なにか、そういう仕事のやり方そのものが、いまの時代に合っていない気がしたんです。ただその時点でそれなりの見取り図はできていたので、いま振り返れば、二〇〇〇年代のぼくはその幻の大著の切り売りで生きていたようなもんです。 大澤 市川さんの比喩を使うなら、旧時代の大艦巨砲主義的に一冊の重厚な書籍として批評シーンのどまんなかにぶち込むはずだったけど、言論環境の変化に対応すべく機動的な飛行機部隊として雑誌や新書に向けて分割設計しなおされたイメージですね。 市川 だからこそ、会社としてのゲンロンも沈まずに二〇一六年を迎えられると(笑)。 大澤 『動物化するポストモダン』が新書で出されたことは二〇〇〇年代の批評の輪郭に無視しえぬ影響を及ぼしているはずです。九〇年代後半に何度目かの新書ブームが起こり、二〇〇〇年代中盤以降は若手のデビューの受け皿となる。そのころはぼくのような者にまで数社からお声がかかるという、なんとも悲喜劇的な状況が生まれていました。元来、新書は批評や若手を盛るメディアとは見なされなかったわけですが、二〇〇〇年代にはその主要な媒体へと相対的に変成した。この本はその転機となっている。 東 でも、そもそもなぜ新書で出すことができたかというと、じつは『メフィスト』という小説誌の編集部とつきあいがあったことが大きい。ぼくはそちらではミステリやSFに詳しい新世代の評論家として仕事をしていて、二〇〇〇年には小松左京にインタビューしたりもしている。そんななか、『動物化するポストモダン』の元原稿を渡して相談したら、『メフィスト』の編集者が現代新書編集部を紹介してくれた。だからあの本はミステリとのつきあいがなければ成立していない。 市川 けれど、そんなことを知らない一読者からは、あの出版はかなり唐突に見えた。思うに、当時ネットが普及していれば、状況はずいぶん変わったのではないですか。デリダ論の著者としてしか東浩紀が見えなかったひとにも活動の全貌が見えて、『動物化するポストモダン』で「批評を捨てた」と非難されることもなかったでしょう。『批評空間』との関係もこじれないで済んだかもしれない。 東 どうだろう。柄谷さんたちとは、いずれにせようまくいかなかった気がする。ぼくは生理的にオタクやサブカルの読者のほうが好きだし、『存在論的、郵便的』を出版したときの『批評空間』への失望はじつに深かったので……。 福嶋 「いま批評の場所はどこにあるのか」(九九年、『批評空間』第Ⅱ期第二一号)という座談会がひとつのシンボリックな区切りになって、とくに東さんと福田和也さんがそれぞれの分野に進んでいったということはあるんでしょうね。 東 強引にまとめるとすると、『存在論的、郵便的』と『動物化するポストモダン』の落差というのはじつにわかりやすく、八〇年代的なニューアカからゼロ年代的なオタク批評へのジャンプに見えるので、そういう意味ではこの共同討議のような枠組みでは語りやすいと思う。ただ、著者として言いたいのは、ぼくはべつに『存在論的、郵便的』の「あと」に転向したんじゃないということです。ぼくはデビューした瞬間から、ほぼ同時にサブカル誌にも文芸誌にも書いている。当時のぼくにはそれが自然に思えた。もしそれがいまの読者に自然に見えないのだとすれば、そこにこそ、今日話題になり続けた、九五年以前と九五年以降の、あるいは二〇〇一年以降の落差が表れているのだと思います。  というわけで、最後にもういちど司会に戻り、みなさんに、九〇年代の批評とはなんだったのか、そしてゼロ年代以降の批評に議論がどうつながるのか、締めの言葉をひとつずつもらって終わりたいと思います。それではまず、福嶋さんから。 福嶋 冒頭でも言ったように、ぼくは九〇年代の言論業界や雑誌文化はたいして詳しくないうえに、いまの自分の仕事につながっているという実感もあまりないのですが、勉強はさせていただきました。いろいろな書き手が「言論界」というフィールドのなかで輝いていた、そのひとつの区切りが九〇年代であった。裏返せば、そういう業界やエートスの伝承自体がゼロ年代以降、ネット以降は衰退していく。その意味では、戦後日本の言論史からすると、最後のいい時代だったのかもしれません。 大澤 文芸批評の話題があまり出ませんでしたね。時代的な必然でしょう。経緯は前回お話ししたとおりです。とはいえ、すこしだけ補足しておくと、九〇年代初頭には、渡部直己や絓秀実による文芸時評が辛辣な採点方式を採用し、作家たちから大顰蹙を買います(のち、『〈電通〉文学にまみれて』〈九二年〉、『文芸時評というモード』〈九三年〉に収録)。他方、ふたりの共著『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』(九三年)はそれでも作家や志望者にこっそり読まれもするんですよね。そのころ、柄谷行人はというと、九九年まで『群像』の新人賞の選考委員を務め、評論部門から柄谷スクール的な文芸批評家を多数輩出していく。現代思想化する新人たちの文芸批評はじつのところ「文学嫌い」(高橋勇夫85)由来のものなのではないかとの診断が呈されもしました。こうして、創作と批評とが正常な対話の回路を見失っていく。そのことは、ゼロ年代半ばの文芸誌で褒め書評型やタイアップ型の批評が幅を利かせる遠因にもなっています。文芸の世界に限らず、あらゆるジャンルで「批評無用論」のモードが進行しました。こうした批評環境は次回の前提のひとつとすべきでしょうね。 市川 後世に振り返れば二〇世紀末から二一世紀初頭は、メディア環境とそれに伴う社会構造や人々の思考システムが、ストック型からフロー型、ツリー型からネットワーク型へと激変した時期と捉えられるはずで、「批評」の姿やその対象、有効性などにもそれが反映されたことが、あらためて浮かび上がったと思います。そうした社会構造の変化やそれが導く個別的実感の尊重と、この時期に始まった消費の徹底した前景化は、大澤さんが言う「褒め書評」「タイアップ型の批評」や、各批評ジャンルの徹底的な棲み分けなど、批評が批評としての機能を持つことが困難な時代へとつながりもした。九〇年代が福嶋さんの言うように戦後日本の批評にとって「最後のいい時代」だったとするなら、それは批評に限らず近代型の社会全体にとっても同様だったかもしれません。その意味で、現在や今後の社会が向き合う困難を解決するためにも、再考に値する時期だったと思います。 東 ありがとうございました。今回の共同討議は、冷戦と昭和が終わった八九年から、二一世紀が始まり9・11が起き、「テロの時代」が始まった二〇〇一年までの一二年間の批評の歩みを見てきました。まさに激動の時代であり、批評のかたちも批評をめぐるメディア状況も根本から変わる時期でしたが、いかがだったでしょうか。いよいよ次回は、二〇〇一年から現在まで、ぼくたちが生きるいまここをめぐる話に入っていきます。 二〇一五年一二月一三日 ゲンロンオフィスにて(構成=峰尾俊彦+ゲンロン編集部) 83ダミアン・ハースト Damien Hirst(1965~)イギリスの現代美術家。ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBAs)の代表的存在。ホルムアルデヒド漬けの動物の死骸の連作等。〈Natural History〉 84ジョナサン・バーンブルック Jonathan Barnbrook(1966~)イギリスのグラフィック・デザイナー。デヴィッド・ボウイらとコラボ。 85高橋勇夫(1953~)文芸評論家、米文学者。群像新人文学賞評論部門受賞。『詭弁的精神の系譜』 年表 現代日本の批評 1989-2001 初出 『ゲンロン1』(二〇一五年一二月一日、株式会社ゲンロン) 『ゲンロン2』(二〇一六年四月一日、株式会社ゲンロン) 本作品は、二〇一七年一一月、小社より単行本として刊行されたものを電子書籍化したものです。 ◎本電子書籍内の外部リンクに関して ご利用の端末によっては、リンク機能が制限され正しく動作しない場合があります。また、リンク先のwebサイト、メールアドレス、電話番号は、事前のご連絡なく削除あるいは変更されることもございます。ご了承ください。 現代日本の批評 1975-2001 二〇一八年一月一日発行 著者:東 浩紀(監修)    市川真人 大澤 聡 福嶋亮大 ©Hiroki Azuma, Makoto Ichikawa, Satoshi Osawa, Ryota Fukushima 2018 発行者 鈴木 哲 発行所 株式会社講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためにのみ、ファイルの閲覧が許諾されています。私的利用の範囲をこえる行為は著作権法上、禁じられています。 17D1205E 01

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