Ⅰ 『殺し屋ネルソン』に導かれて 初期の映画体験 ──實さんの映画批評において、ショットという言葉は、重要な概念と考えられています。たとえば、突出したショットであるとか、均質なショットであるとか、ショットが撮れているとか撮れていないとかいう言い方をされています。 このショットという言葉は、映画の用語としては、単一のカメラによって連続撮影された、切れ目のないひと続きの画面、ないしはフィルム断片。ショット内では、アクションが中断されることなく展開する。ショットは視覚でとらえることのできる映画の最小単位で、言語における単語のような役割を担う。シーンは一連のショットの集まりによって形成され、シーンの集まりをシークエンス、などと定義されていますが、實さんはショットという言葉を正確にはどのような意味で使われているのでしょうか? すぐれたショットとそうでないショットでは何が違うのでしょうか? また、ストーリーや俳優の演技などではなく、映画の中のショットという要素を重要視されるようになったのはどのような経緯からだったのでしょうか? このようなショットにまつわる疑問にお答えいただきたいというのがこのインタビューの趣旨ですが、まずは、實さんがショットに注目して映画を見るようになった経緯についてお聞かせください。一人で映画を見に行くようになったのは中学生になってからだそうですね。 實 そうです。中学に入ってからは、四、五軒あった下北沢の二番館によく通いました。自宅から歩いて行ける京王線の沿線にも笹塚館というかなり有名な古い映画館もあり、記憶が確かなら、入場料が九九円の時期がありました。それから新宿の紀伊國屋書店の向かって右隣に二本立ての映画館があり、伊勢丹の向かいにも、封切りからかなり時間のたった映画を上映する二番館がいくつかあり、そこにもよく通っていました。新宿文化といういまでいうなら名画座的な小屋もそこにあり、何度も行った記憶があります。また、渋谷の道玄坂をあがって右手におれて登って行く百軒店と呼ばれるあたりにも、テアトル渋谷ほかテアトル系の小屋が数軒あり、占領下では上映できなかったジョン・フォードの『アパッチ砦』(1948)が、講和条約成立後の1953年というからわたくしの高校時代に、完成から五年も遅れて封切られたのもそこでした。これには、もちろん、初日にかけつけました。 父はデ・シーカの『自転車泥棒』(1948)やロッセリーニの『無防備都市』(1945)などのイタリアン・ネオレアリズモの映画を見に邦楽座──ピカデリーと名前が変わりましたが──へ連れていってくれましたし、母は母で『仔鹿物語』(クラレンス・ブラウン監督、1946)などを見にスバル座などに連れていってくれました。なぜかはわかりませんが、両親と一緒に三人で映画を見たという記憶がほとんどありません。母は、とりたてて音楽好きでもなかったのに、ハイフェッツが出ているアーチ・メイヨ監督の『彼等に音楽を』(1939)やパガニーニの伝記映画『魔法の楽弓』(バーナード・ノウルズ監督、1946)、それにクララ・シューマンを描いた『愛の調べ』(クラレンス・ブラウン監督、1947)のような音楽関係の作品を見に、よく二番館へ連れていってもくれました。クララを演じていたのはキャサリン・ヘップバーンでしたが、彼女を密かに愛するブラームス役のロバート・ウォーカーの慎ましくも大胆な存在感に強く惹かれました。ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(1951)に主演して大いに将来を期待されていましたが、過度の飲酒もあったりして、三十二歳で早世してしまったのが残念でなりません。 意図的かどうかはわかりませんが、両親は活劇を見せることだけは避けていたように思います。ですから、こちらとしては中学の仲間たちがすでに見ている西部劇が見たくてたまらず、ひそかに地元の二番館に通ったものです。 『荒野の決闘』と西部劇 ──はじめて一人でご覧になった映画を覚えていますか? 實 そのあたりの記憶はきわめて曖昧なのですが、『オクラホマ・キッド』(ロイド・ベーコン監督、1939)か『荒野の決闘』(ジョン・フォード監督、1946)ではなかったかと思います。風景と雰囲気がこれこそ西部劇というものだと納得させてくれたのは、『荒野の決闘』のほうでした。しかし、フォードの作品だなどと意識することもないまま、見たくてたまらない西部劇の一本として受けとめていたにすぎません。もちろん、主演のヘンリー・フォンダがジョン・フォードお気に入りの役者だということなど、まったく知りませんでしたから、旅回りの舞台役者──アラン・モーブレイなどという名前を憶えたのは、ずっと後のことです──が西部の酒場でシェークスピアの台詞がいえなくなってしまったとき、それを受けてドク・ホリデー役のヴィクター・マチュアが朗々と『ハムレット』を暗誦してみせるところがとても恰好がよくて気に入り、そちらに肩入れして見ていた記憶があります。だから、最後の決闘で彼が撃たれたとき、その黒いカウボーイハットから、いま通りすぎたばかりの駅馬車が捲きたてた砂ぼこりがさらさらと流れ落ちるショットがとても強く印象に残っています。それこそ忘れられないショットとして、こちらのまだ幼い感性を刺激してくれたのです。チワワ役のリンダ・ダーネルは、それからしばらくして見た『西部の王者』(ウィリアム・A・ウェルマン監督、1944)でインディアン娘を演じていました。なるほど、ハリウッドのスター女優はインディアンも演じるのかと、ひどく驚いた記憶があります。他方、バッファロー・ビル役のジョエル・マクリーと共演する赤毛女優のモーリン・オハラがフォードのお気に入り女優だなどということは、あとで知ったことにすぎません。 『オクラホマ・キッド』の方は戦前の作品で戦後に公開されたものですが、ほとんど記憶に残りませんでした。ただ、初めて見たジェームズ・キャグニーという小柄な役者が、東洋の少年の目にはどうしてもスターと思えず、妙に複雑な気分にさせられたことは覚えています。いずれにせよ、散歩に行くといって家を出て、ひそかに安い二番館に行って活劇を見るという生活を中学時代に始めたのです。当時のほとんどの映画は一時間半の上映時間でしたから、さして怪しまれることもありませんでした。 それでも、初めは切符を買う窓口でやや緊張しました。しかし、馴れてくるともう平気で、さすがに制服は脱いで普段着で通っていました。フリッツ・ラングの『西部魂』(1941)を見たときは、妙に興奮しました。父に連れられて渋谷松竹でターザンを見たときの予告編が『西部魂』で、そちらの方が遥かに面白そうだったから、親の目を盗んで見に行ったのです。「西部劇なんか見ちゃいけません」と家で言われていたわけでもないのに、ひそかに笹塚館や下北沢まで西部劇を見に行った記憶があります。いま思うと、レイ・エンライト監督の『セントルイス』(1949)という作品の男たちの友情物語に妙な愛着を覚えた記憶があります。この時期、西部劇といえばレイ・エンライトというほど、『拳銃街道』(1947)だの『西部の裁き』(1948)だの、エロール・フリンやランドルフ・スコット主演の彼の西部劇が、ほぼ毎年公開されていました。 『東京物語』と『雪夫人絵図』 ──終戦後もたくさんの映画が公開されていたのですね。 實 戦後といっても、わたくしが映画を見始めたのは昭和二十年代の中ごろ、つまり1940年代の終わりから1950年代の始まりにかけてですから、日本の敗戦からは五年ほどたっていますが、映画は盛んという以上に賑わっていました。当時の興行形態は、まず都心に邦楽座とか有楽座とか日比谷映画とか東劇といったロードショウ館がある。ロードショウとは今と違って都心の一館だけの長期上映で、入場料も特別に高かったと記憶しています。次にそれぞれの繁華街に一般封切館があり、こちらは値段が比較的に安い。ロードショウなしに一般封切として出る作品も多くありました。それから、いわゆる二番館と呼ばれているものがあり、一般封切館で上映が終わった作品を数週遅れで二本立てでかけており、入場料もぐっと安かった。下北沢のはいずれも新築の小屋でしたが、渋谷や新宿には焼け残った大きな古い劇場が何軒も存在していました。何しろ映画しか娯楽のない時代ですから、どこにいっても大入り満員で、立ち見が普通でした。日本映画、フランス映画、アメリカ映画、ソ連映画、等々、国籍にはいっさい関係なく、どこでも大入り満員でした。ソ連製のカラー映画『シベリヤ物語』(イヴァン・ピリエフ監督、1947)なども大入り満員でしたが、最後に画面一杯に赤旗がたなびいていたこと以外、何も覚えていません。ところが、銀座の二番館の全線座で『結婚五年目』(プレストン・スタージェス監督、1942)を見たときなど、立ち見の観客の陰に隠れてスクリーンが半分ぐらいしか見えていないのに、助演者の身振り手振りまでいまでもしっかり覚えています。それに、何となく大人の香りのする「結婚」という邦題のついた映画を中学生として見たことに大満足でした。もっとも、それは、「結婚」という制度そのものを笑い飛ばすような痛快なコメディーだったのですが。 それから、これは1953年の作品だから高校生だったと思いますが、下北沢の井の頭線のホームの真正面にあったグリーン座という名の小屋で、小津安二郎の『東京物語』を立ち見で見たことがあります。何しろ立錐の余地のない立ち見席の後ろの方で見たので、二時間ちょっとの映画なのに三時間ぐらいの長さに感じられました。面白かったのかといわれるとちょっと返答に躊躇せざるをえませんが、何か途方もないものに立ちあっているという実感だけは間違いなくありました。翌日の早朝に同じ映画館に行って改めて座って見直しましたが、この経験は忘れられません。大好きだった西部劇などと違って、自分にはわからないものが、いつも親しんでいたものとは異質の映画がこの世の中には存在している。それをきわめねばならないと思い、以後、小津の作品は全部見ることにしました。 溝口健二はこのころほとんどエロ監督のように思われており、『雪夫人絵図』(1950)には木暮実千代と柳永二郎の長い入浴シーンがあるとの評判で、監督がいつまでも満足せずに撮影が長びき、それが終わったときは二人がほとんど裸のまま、のぼせきってふらふらと倒れそうになってしまったなどという記事を週刊誌で読み、息を殺して二番館に見に行った記憶がありますが、これも満員でした。それにしても、木暮実千代のしとやかなお色気には圧倒されました。 名画座にかかるのは戦前のフランス映画とか、古いものがほとんどでしたが、ここも満員。日活名画座の前身で、帝都名画座というのがちょうどいまの新宿の丸井のあたりにあって、五階まで階段を歩いてあがるんですが、値段が格段に安い。その一階から三階まで占めている大きな帝都座は、日活が製作を再開するまでは洋画の一般封切り劇場でした。しかし、名画座の方が圧倒的に安いので、そちらに通っていました。ところが、そこが怖ろしい場所だったのです。いつも満員なので後部の中央で立ち見をすることが多かったのですが、そこには痴漢が出没する。画面に見入っていると不意にどこからともなく手が伸びてきて、股間のあたりをまさぐる。吃驚してまわりを見まわすのですが、みんながスクリーンに見入っていて、誰の手だかまったくわからない。仕方がないから移動するしかないのですが、それでも名画座通いはやめられませんでした。 セシル・オーブリーの乳房 ──その頃の名画座は二本立てや三本立てだったのでしょうか? 實 時期によりますが、中学時代のわたくしがよく通っていたころの帝都名画座は、一本立てでした。和田誠がこの小屋のポスターを描き始めるより遥か以前のことです。ときには、特集があったりしましてね。「ルネ・クレール特集」とか「ジュリアン・デュヴィヴィエ特集」とか「マルセル・カルネ特集」とか。デュヴィヴィエは中学の先生の一人がぜひこれを見よと推奨しておられましたが、わたくしはクレールの方に遥かに惹かれていました。実際、帝都名画座でルネ・クレール監督の『巴里祭』(1932)を何度も見ています。戦前に輸入した雨降りの汚いプリントを戦後の混乱期におそらくは権利なしに上映していたんだと思いますが、革命記念日の7月14日近くなると、毎年、『七月十四日』という原題の『巴里祭』をプログラムに組んでいました。 ルネ・クレールの映画は『沈黙は金』(1947)を、東宝争議の時期に東宝系の劇場ですでに見ていました。これは合衆国から戻ったクレールが久方ぶりにフランスで撮ったコメディーで、これがとても気に入って、恵比寿本庄という二番館まで追っかけて行きました。こちらは三本立てでしたから、クルーゾ監督の邦題を聞いただけでぞくぞくする『情婦マノン』(1949)などと一緒に、朝から晩まで見ていたのですが、最前列のスクリーンに向かって右側の席しかあいておらず、スクリーンを斜めに見あげていたあげく、右からのすきま風を五、六時間受けていたせいで顔面神経麻痺になってしまい、その治療のため、東大病院まで一ヵ月近く通った記憶があります。ことによると、マノンを演じるセシル・オーブリーのむき出しにされたふくよかな乳房の残像が、中学生を異様に刺激したのかもしれません。 ──当時の観客は「ジュリアン・デュヴィヴィエ特集」といった特集の情報をどこで知ったのですか? 實 新聞です。当時の新聞の紙面には毎日の朝刊に──まだ、夕刊は復活していなかったのではないかしら──東京の全映画館の番組が載っていましたから。また、新作の情報という点でいえば、アメリカのメジャー系の会社のたとえば20世紀FOXならFOXが、それぞれ鉄道の大きな駅にスターのスチール入りの広告スペースをもっていて、来月のFOXは~というように途方もない大きい看板がでていました。なかでも印象深かったのは、新宿駅の下りの中央線の側にあった『荒野の襲撃』(ジョゼフ・M・ニューマン監督、1952)の大きな看板広告でした。日本語の題名からして西部劇のはずなのに、タイロン・パワーが白いヘルメットに赤い制服を着ている大きなスチールがその広告に印刷されていたので、その妙な異国情緒に驚いた記憶があります。しかし、実際に見てみると、それは原題どおりのカナダを舞台とした活劇で、彼は騎馬連隊の将校だったのです。そのタイロン・パワーの大きなスチールに惹かれて見に行ったのですから、乗客の乗降の多い鉄道の駅の看板広告にはしかるべき威力があったのだと思います。 ──淀川長治さんが「駅馬車来る!!」のようなキャッチコピーを書かれていたりしたのでしょうか。 實 それは「戦前」の話です。いっときますが、わたくしが意識して映画を見始めたのは、まぎれもなく「戦後」のことですから(笑)。 スタジオの違いについて ──これはFOXだぞ、というようにスタジオを意識されて見ていたのでしょうか。 實 タイロン・パワーが出ていればFOXの映画だという認識はありました。それから、モーリン・オハラやリンダ・ダーネル、それにヴィクター・マチュアなども、当時はFOXという印象が強かった。その他、MGM、WB、RKO、パラマウント、等々、みんな専属の俳優によってその作風を覚えました。また、作品の冒頭にロゴマークが出るじゃないですか。RKOでいうと、地球がまわって電波がピピピッピっていう。MGMはライオンが吠える。あれがあるから覚えやすかった。それから、当時はそれぞれの会社の画調というのもありました。MGMは絢爛豪華、パラマウントは都会的な洒落っ気、ワーナーはなんとなく薄暗い歴史物が多いとか、それはすぐにわかりました。リパブリックといえばB級西部劇ばかり撮っている二流会社だとか。 ところが、リパブリックの社長のハーバート・J・イエイツが、1950年代に入ってから年に一度は大作を撮ることにしたので、やや見取り図が変わりました。実際、それまではFOXやRKOで撮ることが多かったジョン・フォードの『リオ・グランデの砦』(1950)が、リパブリックのような二流会社で製作されたときには正直吃驚しました。これはロードショウなしに一般公開されましたが、その数年後には、リパブリック製作で同じフォードの『静かなる男』(1952)──これはさすがにロードショウ公開されましたが──がオスカーまでもらってしまったのですから、メジャー系の会社も様変わりし始めていたのでしょう。 それに対して同じフォードの戦時中の作品『わが谷は緑なりき』(1941)などはFOX作品ですから、ほぼ同じ時期に、邦楽座からピカデリーと名前が変わった都心の劇場でロードショウで公開されていました。同じフォードでも、『黄色いリボン』(1949)や『アパッチ砦』などの西部劇は、ロードショウなしの一般封切りでした。低俗なジャンルと見なされていた西部劇がロードショウされるようになったのは、ジンネマンの『真昼の決闘』(1952)やジョージ・スティーヴンスの『シェーン』(1953)の頃からでしたが、これはむしろこの二つの作品が例外的に世間の話題になったからでしょう。この頃から、評判になった作品、たとえば1952年に公開された問題作キャロル・リード監督の『第三の男』(1949)と、質において優れた作品、たとえば1953年に公開されたマックス・オフュルス監督の『快楽』(1952)などとの違いが、批評家たちの間でさえ曖昧になり始めたような気がします。 ──当時の観客はみんなハリウッドのスタジオの違いをわかっていたのでしょうか? 實 ある程度までわかっていたと思います。ユニバーサルの映画なんてみんな馬鹿にしていましたから。馬鹿にしながらもジャック・アーノルド監督の『大アマゾンの半魚人』(1954)などという珍品は、大いに愛好していました。しかし、誰もが、これは二流の映画会社だというイメージは持っていたと思う。だから、ダグラス・サークなど、ユニバーサルで同じ年に『心のともしび』(1954)と『アパッチの怒り』(1954)という、まるで異質の作品を立てつづけに撮っていたので、二流監督であるかのように認識され、損をしていたように思えます。ところがその二流会社がアンソニー・マン監督の『ウィンチェスター銃’73』(1950)で、それまで都会派だったジェームズ・スチュアートにいきなりカウボーイを演じさせることで、どこかA級めいた雰囲気を醸し始める。しかし、それまではB級作品の多い二流会社でした。いまではユニバーサル・スタジオなんてハリウッドを代表するかのような扱いですが、なんであの二流の会社をあんなに大騒ぎするのか、ちゃんちゃらおかしい……。コロンビアだって二流でしたよ、当時は。 1950年代 ──實さんの映画批評では、1950年代の重要性を強調していらっしゃいますね。我々は實さんが映画の黄金時代にリアルタイムで映画を見ていたと思ってしまいますが、実は實さんが映画を見始めたとき、すでに映画は衰退しはじめていた。終わりを迎えつつあったともいえると思います。1950年代というと、小津もフォードもヒッチコックも現役でしたが、ある意味、正当には評価されていなかった。もう少し後に、ヌーヴェル・ヴァーグによって再評価される映画作家たちの作品を好んでご覧になっていた。そして、その時期に古典的ハリウッド映画の伝統をかろうじて(?)引き継いでいたのが、ニコラス・レイやドン・シーゲルだった。しかし、彼らの作品もきちんと評価されておらず、そのことに怒りを覚えていた。その気持ちが實さんの映画批評の原動力になっていると推察するのですが、いかがでしょうか? 實 いまいっていただいたことではっきりしたのは、ドン・シーゲル監督の『殺し屋ネルソン』(1957)を何の予備知識もなしに見て、いきなりとち狂った60年も昔の自分がまぎれもなく存在したという現実です。しかも、これを擁護した仲間が、わたくしのまわりには一人もいなかった。これも渋谷東宝の地下の小さな小屋で封切られたから、メジャー系の会社の作品ではない。ユナイト配給のB級専門の独立プロのアル・ジンバリスト製作の作品です。でも、この映画がとてもおもしろいと大学で話題にすると、見てさえいないのに、誰もが題名を聞いただけで馬鹿にする。そのとき、初めて、この映画はわたくしのために撮られた貴重な作品なのだという錯覚に快くまどろんでいきました。そのうちに、銀座の洋書屋においてあったフランスの「カイエ・デュ・シネマ」誌が『殺し屋ネルソン』をある程度評価していることを知り、ことによると世間の評判とはまったく異なる自分の判断が間違いではないのかもしれないという錯覚から、映画を語りはじめたわけです。ことによると、自分の評価は正しいのかもしれない。そんな気分になったのはそれが初めてでした。しかし当時の日本の情勢は、その正しさをこれっぽっちも認めてくれない。だから、まだ映画批評の道に進もうなどとは思ってもみない時期だったのに、自分はこの作品だけは擁護する方向に進もうと心に決めたのです。 50年代を代表する映画作家としては、当時はボテッチャーなどと表記されていたバッド・ベティカーもいましたが、これは身近に東大のクラスメイトだった詩人の天沢退二郎のような同調者もいましたし、双葉十三郎さんもその星取り表でそれなりに評価していました。しかし、『殺し屋ネルソン』に一人で狂っていたわたくしは、孤立無援の状態に陥っていたのです。もちろん、この低予算の作品は、それまで見ていたラオール・ウォルシュ監督のギャング映画のような小粋にしてかつ精巧な演出の作品とは異なっていることは、わかっていました。しかし、古典的なハリウッド映画とは異なるフィルムの鋭い質感のようなものに触れ、何か新しいものの始まりに立ちあっていたかのように、心がふるえたのです。もちろん、フォードやホークスの古典的なショットの端整さを好んではいました。しかし、それとは異なる画面の生の力のようなものが、わたくしをとらえて離さなかったのです。 それから、これは高校時代のことですが、学期末試験の時期だったと思いますけど、ニコラス・レイの『大砂塵』(1954)が封切られ、これにも狂いまくりました。もちろん、これが完璧な映画ではないという予感はありました。ただ、舞台となっている山小屋やその周辺の斜面を強調しているみごとな空間処理に驚いて、こんな創意に満ちた演出をやってのける映画作家はいるだろうかというほどの驚きでした。それに、当時のトゥルーカラーの色彩処理が凄い。茶褐色の岩肌を背景に純白のドレスを着たジョーン・クロフォードが真っ黒いピアノを弾く場面では、ひたすら泣きました。仲間たちは、目ばかり大きいあんなうば桜のどこがいいのかと軽蔑していましたが、彼女の女優としての魅力は圧倒的でした。しかも、西部の辺境を舞台としながら、ニューヨーク知識人のような会話をする人物も出ていたりする。処女作の『夜の人々』(1948)は日本未公開でしたから、ニコラス・レイの名前はほとんど無名に近かったのですが、名前よりもまず、演出と画面の力に打たれたのです。これもまた、それまでそのつど感動して見ていたフォードやホークスの西部劇などとはフィルムの質感が違っていました。古典的というより、どこかに思いがけぬ歪みのようなものが走りぬけ、ちょっとバロック的な感じがした。それが新しく思えたのです。 そうした意味からすると、私の原点は、二十歳の前後に見た典型的な50年代映画である『殺し屋ネルソン』と『大砂塵』の二本だったのかも知れません。しかし、この時期に熱烈に擁護したもう一つの重要な名前があります。ジャック・ベッケルです。彼についてはのちに詳しく触れるつもりですが、彼の何本かの作品は公開時に失敗作として軽んじられていました。とくに、『アラブの盗賊』(1954)と『怪盗ルパン』(1957)の評判がひどく悪かった。ところが大学に入ったばかりのわたくしは、これを『肉体の冠』(1952)や『現金に手を出すな』(1954)にも劣らぬ優れた作品だと強く主張したのです。しかし、仲間たちからはなかなか同意を得られませんでした。『アラブの盗賊』はフェルナンデル主演のコメディーという体裁をとっていますが、最後に、渓谷を埋めつくしたアラブ人たちの無言の存在感がすばらしかった。これはたんなるコメディーではない。いまなぜアラブ人の無言の存在感を見せたのか、その点に注目すべきだといいはったのですが……。『肉体の冠』はすごい、『現金』は傑作だ、等々、みんながほぼ同じ映画ばかりを同じ言葉で評価していました。しかし、『怪盗ルパン』の大きな鏡の張りめぐらされた美容院の場面の空間把握の能力にこそ驚かねばならぬというのがわたくしの主張でしたが、そんな風にベッケルの演出力を評価する人は誰もいなかった。ですから、当時の批評家たちはまったく信頼できなかったのです。植草甚一さんがアメリカ時代のフリッツ・ラングを評価した批評には、わが意を得た思いがしました。しかし、双葉さんも植草さんもニコラス・レイについてはごくおおざっぱなことしか書いていないし、ましてやアリババやルパンについては、何もいっていないというに近い……。当時の批評家はそのほとんどが戦前の映画を見て育った方々ですから、『スクリーン』とか『映画の友』とか『キネマ旬報』とか映画雑誌はたくさんありましたけど、とても信頼できるものではなかった。しかし、フランス映画の歴史を語っておられた飯島正さんからは、多くのことを学びました。また、戦前からの批評家であれば、例えばホークスの『赤い河』(1948)を評価する南部圭之助さんの言葉など、とても参考になりました。当時の劇場のパンフレットに、南部さんが、stubborn という言葉でホークス的なヒーローたちについて語っており、家に帰って辞書を引きながらそれに納得した記憶があります。 ──当時の批評家がニコラス・レイやジャック・ベッケルの50年代の作品を評価していなかったというのは意外に思えます。1930年代の映画を見ていれば50年代の映画がわかると思ってしまうのですが、そうではないのでしょうか。 實 それは決定的に間違っています。30年代のハリウッド全盛期の古典的な映画を見ていると、50年代の映画はどこかしら箍が緩んでいるように思えてしまい、誰もが評価しかねていたのです。双葉十三郎さんなど、戦前派の批評家たちはみんながそうでした。ハリウッドの撮影所体制はなかば崩れはじめていましたが、その崩壊感覚が日本では稀薄だったから、同時代を正当に評価する視点が欠けてしまったのでしょう。キューブリックの『現金に体を張れ』(1956)なんて、映画としては、もう……30年代的な古典的完璧さからは思いきり遠いものじゃありませんか。もっとも、キューブリックの初期の作品はアメリカでもそれなりに評判になっていましたから、日本でもしかるべき評価は受けていました。 リチャード・フライシャー、ドン・シーゲル ──50年代はスタジオシステムが崩壊しつつあり、イーストマンカラーやシネマスコープが導入されたりした時代でした。そしてトーキー以前、サイレントから撮っていた監督がどんどん少なくなってきた時代でもあると思います。ヒッチコックもあまり評価されておらず、いま思えば過渡期でしたね。 實 たしかに、ヒッチコックもホークスもあまり高い評価は受けていませんでしたが、当時の感覚では、一概に「過渡期」と認識されていたわけではありません。日本にその実感が薄かったことの方が問題なのかもしれません。実際、戦前から活躍していた監督たち、つまりウィリアム・ワイラーやジョージ・スティーヴンスなど、当時は高く評価されていましたし、フレッド・ジンネマン、ビリー・ワイルダー、ジョン・ヒューストンなど、戦時中にデビューした作家たちもおおむね好評を博していました。ですから、ハリウッドがひどいことになり始めているという意識でアメリカ映画を見ている人はほとんどいなかったと思います。 わたくしの高校の二年先輩にあたる三谷礼二など、後にオペラ演出家になる人ですが、ヒューストンの『悪魔をやっつけろ』(1953)を高く評価しており、これには進んで同意しました。しかし、キャロル・リードの『第三の男』をめぐっては、いつまでも対立は解けませんでした。彼は熱烈な擁護派、わたくしはどちらかといえば否定派だったのです。しかし、わたくしたちは、ヒューストンの『勇者の赤いバッヂ』(1951)が日本で公開されないことに、滅法腹を立てておりました。それから数年後に初めて公開されたとき、それが何と短縮版で二本立ての併映作品として扱われており、そのことで日本文化の低俗ぶりを二人して嘆きまくったものです。また、個人的にいうなら、世間的にはきわめて評判のよかったスティーヴンスの『シェーン』も、ジンネマンの『真昼の決闘』も、まったく評価できませんでした。西部劇でありながら、画面を彩る活劇性が皆無だったからです。また、ジンネマンの『地上より永遠に』(1953)も評価できず、このころから、ハリウッドのアカデミー賞という年中行事を心の底から軽蔑する癖がついてしまいました。 活劇性という点からすると、典型的な50年代作家ともいうべきリチャード・フライシャーの『恐怖の土曜日』(1955)、『叛逆者の群れ』(1956)、『ならず者部隊』(1956)などの方が、ジンネマンやスティーヴンスの西部劇より遥かに面白かった。フライシャーには、ウォルシュに比肩すべき新たな活劇派の監督が出現したと興奮したものです。また、彼の作品としては、活劇ではありませんが、シネマスコープ画面の素晴らしい活用で見るものを驚かした『夢去りぬ』(1955)はまぎれもない傑作だと思いました。最後に長い空中ブランコに乗ったジョーン・コリンズが画面の奥からこちらに向けてゆっくりと近づいてくる長いショットには胸打たれました。これは現実に起こった事件を題材にしており、その後、ミロシュ・フォアマン監督の『ラグタイム』(1981)やクロード・シャブロル監督の『引き裂かれた女』(2007)などで改めて映画化された有名な事件だったのですが、フライシャーの作品が飛びぬけて優れています。テレンス・マリック監督が『シン・レッド・ライン』(1998)で、一人の兵士の妻を長いブランコに乗せたとき、かりに『夢去りぬ』を見ていたとするならそれは冒瀆だし、見ていなかったなら、改めて見直してフライシャーの前に跪くべきだと思いました。もっとも、『夢去りぬ』を見たときは、彼の素晴らしいB級映画の『その女を殺せ』(1952)が日本では公開されていませんでしたから、批評家たちもその新しさに充分自覚的にはなれなかったのでしょう。しかし、わたくしの目には、そこに映画の「現在」がまぎれもなく露呈されていると感じられたのです。 たとえば、『恐怖の土曜日』の導入部近くで、遥かに見える高い煙突の煙が長くたなびく光景の中に、遠方から列車が近づいてくるというシネマスコープ画面を見ただけで、この人はショットが撮れる人だと感服したのです。それに、妖しげな図書館員としてシルヴィア・シドニーが姿を見せていることの、何という悦ばしき驚き……。クレジットの助演者の項目に、J・キャロル・ナイッシュの直後にシルヴィア・シドニーの名前を見出したとき、誰もが噓だろうとつぶやかざるをえません。ところが、衰えは隠せぬもののまぎれもない美貌のあとをとどめている彼女が、書物の集積車を押しながらシネマスコープ画面の中央に姿を見せた瞬間、ショットがいきなりただならぬ緊張感を漂わせる。やはり、往年の大スターは持っているものが違うと圧倒されたものです。 とはいえ、ここまでの記述は、いささかフィクションめいたものであると告白しなければなりません。1958年に二十歳そこそこだった東アジアの島国の大学生が、シルヴィア・シドニーの名前など知っていたはずもなかったからです。彼女が艶やかに出演しているフリッツ・ラングの『激怒』(1936)や『暗黒街の弾痕』(1937)などでその魅力をわたくしが発見するのは、それから五年ほど後、フランス留学中のパリのシネマテーク・フランセーズでのことにすぎないからです。しかも、リチャード・フライシャーの自伝『泣くときは言って下さいな』(1993)のエピローグを読むまで、『恐怖の土曜日』のあの妖しげな図書館員の女性を演じているのがシルヴィア・シドニーだとさえ気づかなかったのです。 そこでの著者フライシャーは、彼女との出演交渉の光景を感動的に語っています。アリゾナでのロケ撮影中に彼女が出演を了承したと耳にした彼は、スタジオでのステージ撮影にそなえてハリウッドに戻り、その青年期に大スターだった彼女に興奮しながら会い、思いの丈を真摯に告白しています。すると、別れぎわに、彼女は「泣くときは、言って下さいな」といって彼のオフィスを去って行ったというのです。それは、わたくしは女優なんだから、涙ぐらいはその気になればいくらでも流してみせますからというほどの意味だったのであり、その挿話でみずからの伝記を締め括るフライシャーが、どれほど『恐怖の土曜日』への彼女の出演を貴重なものと思っていたかが伝わってくるのです。わたくしは、そのエピソードを読みながら、熱い涙にくれました。 ちょうどこの時期、『キッスで殺せ!』(1955)、『悪徳』(1955)、『枯葉』(1956)、『攻撃』(1956)などを撮りまくっていたロバート・オルドリッチは、1957年から数年間、これという作品が撮れていません。これは、いわばハリウッドを追われるかたちで合衆国を離れた彼が、ヨーロッパで苦戦していた時期にあたります。しかし、興味深いのは、フライシャーの『恐怖の土曜日』のように、それまでの映画批評家たちには評価しきれない種類の新しい娯楽映画が出てきたことです。 ことによると、かりに『その女を殺せ』が公開されていたとするなら、わたくしは若くしてリチャード・フライシャーの徒となっていたのかもしれません。あるいはまた、アイダ・ルピノ監督の『ヒッチハイカー』(1953)が当時の日本で公開されていたとするなら、わたくしはたちどころに熱烈なアイダ・ルピノの徒となっていたでしょう。このイギリス生まれのハリウッド女優は大好きだったのですが、当時のわたくしは、彼女が出ているウォルシュの傑作『ハイ・シェラ』(1941)すらまだ見ておらず──その日本初公開は、昭和も終わろうとしていた1988年のことでしかない──この妖艶さを素っ気なさでそつなく隠した大女優が、これほど硬質で、しかも手ざわりの柔らかなB級活劇を撮っていたなどとは、知るよしもなかったのです。アイダ・ルピノほど有名ではないけれど、どこかしら味わい深い女優が出ている『殺し屋ネルソン』や『その女を殺せ』と異なり、『ヒッチハイカー』は男だけの世界を描いています。ところが、その女性を欠いた物語が不自然とは思えない緊張感がはりつめている。しかし、『その女を殺せ』も『ヒッチハイカー』も公開されていないのですから、日本とハリウッドとの距離は、近いようでいて思いのほか遠いといわざるをえません。だから、先日、世界の女性映画監督100人を選ぶという恒例のBBCの企画があったとき、あえて『ヒッチハイカー』を一位に選び、アイダ・ルピノの名前をリストの冒頭に挙げておくことで、いわば永年の借りを返しておきました。 ところで、青年期のわたくしを興奮させた『殺し屋ネルソン』は、いまだにDVDなどでも見られないのですね。『ヒッチハイカー』や『その女を殺せ』が誰にでも見られるというこのご時世に、『殺し屋ネルソン』だけはいまだに見る機会を奪われているのは、理不尽もはなはだしい。実際、これはYou Tubeで見ることしかできません。当然のことですが、これは当時の「キネマ旬報ベスト10」などには入るはずもない低予算のまぎれもないB級映画なのです。そこで、ごく最近の辞典類がこの作品をどう扱っているのかを見てみると、これが大きな驚きでした。日本ではもっとも大きな辞典で、岩本憲児・高村倉太郎監修の『世界映画大事典』(日本図書センター)というものがありますが、そこの「ドン・シーゲル」という項目はたった十二行で、それは同じページの「ハナ・シグラ」の項目の四分の一でしかなく、もちろん『殺し屋ネルソン』は代表作として引かれてはおらず、「60年代後半以降のアクション作品が高く評価されている」と書かれているばかりです。 イギリス系のフィリップ・ケンプ責任編集による『世界シネマ大事典』(遠藤裕子ほか訳、三省堂、2017)にはさすがにドン・シーゲルのために見開き二頁がさかれていますが、それは「冷戦時代の映画」に分類されている『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956)について触れたもので、ドン・シーゲルの紹介の中に『殺し屋ネルソン』はでてきません。フランスのジャン=ルー・パセック編によるラルース社の『映画辞典』(1986)にはもちろんドン・シーゲルの項目は立っていますが、その解説部分には『殺し屋ネルソン』の題名は含まれていません。ジェイムズ・モナコの『映画の教科書──どのように映画を読むか』(岩本憲児ほか訳、フィルムアート社、1983)の「フィルム・ノワール」の解説部分にはドン・シーゲルの名前は引かれていますが、そこにも『殺し屋ネルソン』という題名は引かれていません。もっとも彼は、「『アルカトラズからの脱出』(1979)でこのジャンルを極限にまで推し進めた」と書いており、それには大賛成なのですが、それなら『殺し屋ネルソン』をどう思うかと聞きたくなります。 わたくしの手もとにある辞典類で唯一、例外的に『殺し屋ネルソン』に言及しているのは、ジャン・テュラールの『映画辞典』(1997)で、ゴダールほか何人かがこの作品の高い品質を評価したと書いた後で、「物語の厳密な構成と、ミッキー・ルーニーの驚くべき演技」を絶賛している。それから、これはあまり権威のある書物ではありませんが、レズリー・ハリエルの『映画好きのための仲間』(1984)という分厚い書物のドン・シーゲルの項目には、「この作家は、最近、ハイブローの批評家たちの関心を引き始めている」と書かれています。とするなら、60年余も前の二十歳のわたくしは、すでに「ハイブロー」の批評家たちの仲間入りをしていたのでしょうか(笑)。いずれにせよ、ほとんどの辞典類が挙げているのは、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』『殺人者たち』『刑事マディガン』『ダーティハリー』『突破口!』などで、『殺し屋ネルソン』は入っていないのが実情です。 おそらくVHSやDVDなどでソフト化されていないから、21世紀の評家や研究者たちが見ていないんだと思います。しかし、それにしても、ドン・シーゲルと聞いて『殺し屋ネルソン』を想像できないようでは、21世紀の映画の批評家としては失格だと思います。こうなったら、ぜひともDVDを出してもらいましょう。 赤狩り ──たとえば、ヌーヴェル・ヴァーグの批評家たちも、ニコラス・レイは評価していますが、ドン・シーゲルのことはそれほど熱心に擁護していないのではないでしょうか。ドン・シーゲルは世界的に大衆作家という認識だったのですか? それに、『殺し屋ネルソン』は1958年に日本でも公開されていますし、主演ミッキー・ルーニーは、大スターだったわけですから、それなりに見られていたのですよね。 實 ドン・シーゲルの場合は、大衆作家という認識すらなかったと思います。わたくしも、『駅馬車』(1939)の製作者だったウォルター・ウェンジャーが妻殺しの容疑で拘束され、しばらくして映画界に復帰して製作した『第十一号監房の暴動』(1954)を見るまで、ドン・シーゲルという名前はほとんど認識していませんでした。確か、オーディ・マーフィ主演の西部劇『抜き射ち二挺拳銃』(1952)などは、シーゲルの名前を意識することなく見ていました。 もちろん、ミッキー・ルーニーは大スターでした。40年代の初頭は、ハリウッドのマネーメイキング・スターのナンバー・ワンで、美女の代名詞といってよいエヴァ・ガードナーとも結婚していたほどです。30年代の子役時代にMGMの専属になり、その後、ジュディー・ガーランドと組んだ人気シリーズは『初恋合戦』(1938)ぐらいしか見ていませんが、グローリア・デ・ヘヴンと組んだ『サンマー・ホリデイ』(ルーベン・マムーリアン監督、1948)やエリザベス・テイラーと共演した『緑園の天使』(クラレンス・ブラウン監督、1944)などは、傑作ではないにせよ、興味深く見ていました。ところが、戦後、軍隊から帰ってきてから不意に落ちぶれたんです。 ──40年代の終わりにはジョージ・ラフトも落ちぶれてひどい映画に出るようになったそうですね。 實 そうそう。これは『モロッコ城塞』(1949)を見たときにつくづく彼も落ちぶれたと思ったものです。これはフランス系の監督ロバート・フローリーが戦後に撮った数少ないハリウッド映画の一つです。これには、その後、フライシャーの『その女を殺せ』やキューブリックの『現金に体を張れ』にも悪女役として出ているいかにもB級的な年増女優のマリー・ウィンザーが共演しています。しかし、もちろんすべてがハリウッドのステージで人工的に再現したモロッコを舞台としたこの映画は、予算がないことが見え見えで、往年の大スターが、これほど貧乏くさい映画に出ていいのかと悲しい思いをしました。だが、それが40年代末期のハリウッドの現状だったのです。 これは後から赤狩りの結果だとわかったのですが、エドワード・G・ロビンソンも50年代の前半には、アルゼンチン出身のヒューゴー・フレゴニーズ監督の『死刑五分前』(1954)といった二流映画に出ていました。もっとも、このB級映画はそれなりに面白かったのですが、敗戦直後は、戦時中に撮られたハリウッドの作品がつぎつぎとほとんど同時に公開された時期だったので、つい数年前にフリッツ・ラング監督の『飾窓の女』(1944)で素晴らしくもあやうい存在感をニヒルに漂わせてみせていたロビンソンが、この二流の冴えない作品に出ているのは本当に不思議でした。 これは『ハリウッド映画史講義』にも書いたことですが、50年代のハリウッドを疲弊させたものの一つが「赤狩り」だったことは再確認しておきましょう。ジーン・ネグレスコ監督の『ユーモレスク』(1946)で素晴らしい演技を見せたジョン・ガーフィールドが「赤狩り」の犠牲となり、自死同然に逝去したのは、それからほんの六年後のことです。確かに50年代のハリウッドにはさまざまな動きがありました。しかし、『殺し屋ネルソン』のような優れた作品を必読文献から排するというのはどういうことでしょうかね。DVDが出ていないから見ていないというだけの話でしょうか。いや、どうもそれだけの話ではない気がしています。というのは、当時もだれも認めておらず、その後も評価された形跡はないからです。 恥さらしのための記録 ──實さんが強く擁護したおかげで公開されたりソフト化された作品はいくつもあると思いますが、ご自身の原点ともいえる『殺し屋ネルソン』だけは救い切れていないのですね。 實 ほぼ同時期、つまり『殺し屋ネルソン』が日本で公開された1958年の外国映画がどんなものだったのかを、『キネマ旬報ベスト・テン90回全史』(キネマ旬報社、2017)で見てみましょう。 ──1958年は日本で映画館入場者数がピークだった年ですね。1位『大いなる西部』(ウィリアム・ワイラー監督、1958)、2位『ぼくの伯父さん』(ジャック・タチ監督、1958)、3位『老人と海』(ジョン・スタージェス監督、1958)、4位『眼には眼を』(アンドレ・カイヤット監督、1957)、5位『鉄道員』(ピエトロ・ジェルミ監督、1956)となっています。 實 その中で映画史に残るのは、『ぼくの伯父さん』ぐらいでしょう。この時期の批評家たちは、ほとんど条件反射的にワイラーを評価していました。しかし、ワイラーなら、淀川長治さんが好んでおられた戦前の『孔雀夫人』(1936)、戦後なら『黄昏』(1952)がよくできた作品でした。アンドレ・バザン以降、ワイラーというとその「リアリズム」が問題とされていますが、彼は本質的に「メロドラマ」が性に合っていた作家だと思います。いずれにせよ、『大いなる西部』は大した映画ではない。そのことより、あの時期、アンドレ・カイヤットがなぜあれほど評価されていたのかは疑問だとしかいえません。 ──以下、6位『死刑台のエレベーター』(ルイ・マル監督、1958)、7位『崖』(フェデリコ・フェリーニ監督、1955)、8位『鍵』(キャロル・リード監督、1958)、9位『サレムの魔女』(レイモン・ルーロー監督、1957)、10位『女優志願』(シドニー・ルメット監督、1958)……。 實 ここでようやく、ルイ・マルとシドニー・ルメットという新しい世代の作品が出てきましたね。しかし、ここは『崖』一本で充分でしょう。その後、52位までの作品が列挙されていますが、わたくしなら52位に挙げられているキューカーの『魅惑の巴里』(1957)を上位に挙げますね。それから、何ですって、ヴィスコンティの『白夜』(1957)が12位なのですか。しかも、ヒッチコックの『めまい』(1958)やオーソン・ウェルズの『黒い罠』(1958)など、映画史の傑作ともいうべき作品が、それぞれ16位、23位にランクされているのですから、過去の「ベスト・テン」といったものほどあてにならないものはありません。いわば、恥さらしのための記録ですね。しかも、プロデューサーから監督に転出したスタンリー・クレイマーの『手錠のまゝの脱獄』(1958)が13位にランクされていますが、ジャーナリスティックな題材主義に汚染された批評家たちが高い点を入れているだけで、大した作品ではない。オルドリッチの『攻撃』(1956)が21位ですが、43位のフライシャーの『ヴァイキング』(1958)も、彼らの最上の作品ではありません。いや、ちょっと待ってくださいよ。『夢去りぬ』はどう評価されていたのでしょうか。しかし、見るまでもありませんね。『殺し屋ネルソン』が52位にも入っていないのですから。 『殺し屋ネルソン』は決定的に新しい ──この当時に評価されていたのは、ビリー・ワイルダーや黒澤明だったかと思います。この価値観はいまだに崩れていないですね。 實 そうですね。いまだに誰もが「世界のクロサワ」なんて言っちゃってんですから。黒澤明が優れた映画作家であることは間違いありません。しかし、それは相対的に優れているということで、小津や溝口のように例外的な映画作家ではありません。そこで、改めて1958年頃の映画をめぐる記述に戻ると、やはり『殺し屋ネルソン』が、映画辞典や参考書類にまったく出ていないということから始めざるをえません。わたくしは、立教大学で、ハワード・ホークスについて講義した年に学期末のレポートを書かせたことがあります。そうしたら、百五十枚くらい提出されたレポートのほぼ半分に、「多作なれども凡作多し」という言葉が出てくる。これは何かの辞書にそう書かれているのだなと思って探してみたところ、たしかにどこかの映画辞典にそう書いてありました。でも、わざわざ實がホークスを課題として出しているんだから、「多作なれども凡作多し」なんていうことを書けば、たちまち落第するしかないなんてことにも気づかないんですかね(笑)。だから、映画辞典などというのを信用しちゃいけない。最近では、インターネットに氾濫している情報は信頼するなといった論調が流通していますが、それは活字の印刷物だって同様です。何しろ、ホークスもドン・シーゲルもまともに見たこともない人たちが辞典を書いているのですから。しかし、ハワード・ホークスもまた、ある時期までは日本でそんな評価を受けていたということは記憶しておくべきかも知れません。『殺し屋ネルソン』について、辞書や参考書を信頼してはいけないというのは、ウィキペディアまで通じています。英語のウィキペディアでは、もちろん「ドン・シーゲル」の監督作としては挙げられていますが、ただリードには『ダーティハリー』『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』などがあがっており、個別の作品ページには「old-fashioned gangster picture」とありますが、「オールドファッション」じゃない! 決定的に新しいのです。『殺し屋ネルソン』のあの画面の生々しさを評価できなければ、映画を見たということにはならないはずですが……。となると、フランスのテュラールを除けば、わたくしがほとんど唯一の人間じゃないですか、世界で『殺し屋ネルソン』を絶対的に評価しているのは……。 この分野で重要な書物として広く受け入れられているデイヴィッド・ボードウェルとクリスティン・トンプソンの『フィルム・アート──映画芸術入門』(原著、2004、藤木秀朗監訳、名古屋大学出版会、2007)にも、やはり『殺し屋ネルソン』のことは載っていません。しかし、それはほぼ予想がつきました。この著者たちは、40年代の終わりから50年代の初めにかけて、ある種の新しさがハリウッド映画を刺激したという視点にはまったく立っていません。だから、わたくしが『ハリウッド映画史講義』で問題にした製作者ドーリ・シャリーによる倒産直前のRKOヌーヴェル・ヴァーグの動きを、彼らはまったく無視している。少なくとも、彼は、ニコラス・レイやジョゼフ・ロージーを売り出し、MGMに移ってからはロバート・オルドリッチに『ビッグ・リーガー』(1953)で監督する機会を与え、同時に「赤狩り」で困窮していたエドワード・G・ロビンソンに主役を託しているのですから、きわめて重要な名前のはずなのです。 また、死去直前のジョン・ガーフィールドが深く加担した「エンタープライズ・プロダクションズ」──これはときにエンタープライズ・スタジオとも呼ばれているインデペンデントの会社ですが──の活動にも、ボードウェルはいっさい興味を示していない。しかし、ロバート・ロッセン監督の『ボディ・アンド・ソウル』(1947)やエイブラハム・ポロンスキーの『悪の力』(1948)を製作したプロダクションを無視して、どうしてアメリカ映画の歴史を語れるというのでしょうか。 実際、『フィルム・アート──映画芸術入門』の著者たちは、混乱期なりの面白さにみちた40年代後半から50年代前半にかけてのアメリカ映画刷新の動きに、まったく注目していない。彼らの映画史的な見取り図では、「サウンド到来以後の古典的ハリウッド映画」から「ニュー・ハリウッドと独立系映画」、すなわち60年代へと飛んでしまい、50年代のドン・シーゲルのみならず、リチャード・フライシャーやロバート・オルドリッチにもまったくといってよいほど注目していない。それがこの入門書の決定的な弱点なのですが、それについてはのちに詳しく触れることになるでしょう。 ドン・シーゲルの抒情を欠いた即物性 ──『ダーティハリー』はイーストウッドでも撮れるかもしれないけれど、『殺し屋ネルソン』はドン・シーゲルでないと撮れないと言いたくなります。編集のリズムなどがジョゼフ・H・ルイスに近いようにも感じられます。 實 ああ、どこかしら似ていますね。しかし、ドン・シーゲルは、『拳銃魔』(1950)のジョゼフ・H・ルイス監督のように、演出の経済的効率性やアクションの効果的な迅速性を誇示する監督ではない。シーゲルにあっては暴力沙汰はすべて突発的に起こり、それを導きだすサスペンスも不在です。冒頭の監獄から出所したベビー・フェイス・ネルソンが迎えに来た車に乗るときだって、ゆっくりと回ってドアーを開ける。そういうところは切らないで、ドアーを閉める瞬間に快いカッティング・オン・アクションでショットが変わる。このあたり、WBに在職中のシーゲルが、ラオール・ウォルシュやハワード・ホークスの乾いた活劇で手慣れた編集の妙が生きています。 それに先だつ『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』だって、きわめて面白い作品ですよ。これは日本では公開されませんでしたけれども、あれはドン・シーゲルでなくても撮れたなあという気がする。しかし、『殺し屋ネルソン』は彼にしか撮れない……。例えば、刑務所を出たネルソンがテッド・デ・コルシアのアジトである巨大な工場の廃墟を訪れる場面で、ドン・シーゲルはその長い階段を上るところを下から上までカットなしにじっくりと撮っている。物語の経済的な有効性という点では、省略した方が良いにきまっており、ジョゼフ・H・ルイスなら短縮したであろう長いショットです。それから壁ぎわの細いむきだしの通路を通って廃墟に入って行く。その構図が、のちにテッド・デ・コルシアの一味を殺戮する階段のシーンにつながっている。この殺戮場面も突発的に起こり、瞬時に終わる。この呆気なさというか、抒情を欠いた即物性がドン・シーゲルの特徴です。 この作品で嬉しいのはキャロリン・ジョーンズという女優がネルソンの恋人役で出ていること。二人がバーで再会するシーンが素晴らしい。クローズアップなど一つとして挿入されていないのに、まるでクローズアップされているかのように二人が瞳を交わしあうシーンを見てください。二人は奥の倉庫のような部屋に隠れて接吻しあうのですが、そのとき、ミッキー・ルーニーは頭上の裸電球に手をそえてゆるめて消してしまう。その後、二人が誰かに呼ばれて出て行くときには、ミッキー・ルーニーがわざわざ電球をつけ直す。その律儀な演出が効いているのです。 また、決して若くはないキャロリン・ジョーンズが、水着みたいな衣裳で横たわる日光浴のシーンがよくできている。そのかたわらに立つ妖しげな医師を演じているのがサー・セドリック・ハードゥイック。サーというからには英国出身で、国王役などを何度もやっている見かけのよい名優が、ここでは女好きの酒まみれのいかがわしい医者を演じており、彼がキャロリン・ジョーンズの身体にすぐ手を伸ばす。それを嫌がりもせずに受け入れている彼女を見て、ミッキー・ルーニーが白いタオルで下半身を隠そうとする。ところが、彼が遠ざかると、セドリック・ハードゥイックがまた剝いでしまうという何でもない構図の淫靡なショットが素晴らしい。どちらかというと老けてみえるこの女優は、水着姿で人目を惹く脚線美の持主ではない。だから、光線を全身に完全にあててますよね。本当にからだのきれいな女優なら光線を翳らせるはずなんです、直射日光を。 映画とは孤独な体験である ──實さんは、映画監督には三タイプいて、サイレントしか撮れない人とトーキーしか撮れない人と、両方撮れる人がいるとおっしゃっていますね。 實 いうまでもなく、ドン・シーゲルはトーキーしか撮っていない世代の監督です。その後、クリント・イーストウッドと組んで『ダーティハリー』を撮ることになるのですが、それ以前の『白い肌の異常な夜』(1971)も忘れることができません。これは傑作です。それから『アルカトラズからの脱出』(1979)も素晴らしい。あんまり高く評価されてはいないのですが……。 ──乾いた感じが印象的ですね。これはオルドリッチとも違いますね。 實 オルドリッチには、良家の子弟が堂々たる闖入者を演じたという立場にふさわしい鷹揚さと抒情的な人間味がある。ところが、WBを人員整理されて路頭に迷い、かろうじて映画を撮っているドン・シーゲルには抒情性がまったくない。あえて排しているのです。どこかでオルドリッチとならいっしょに食事もできるだろうという感じもするけれど、『殺し屋ネルソン』の監督は怖ろしい。映画は複数の人と一緒に見るものですが、最終的には孤独な体験だということを『殺し屋ネルソン』や『白い肌の異常な夜』を見ているときに強く実感しましたね。 ──ドン・シーゲルの映画を見て、映画を見ることが孤独な体験なのだと実感したというのは印象的なご発言です。 實 だけど、もう少しほかの方々がこの映画を見て、驚きかつ愛してほしい気持ちがないわけではありません。しかし、今日、これだけの大事典や入門書、等々、が『殺し屋ネルソン』を徹底的に無視しているところを見ると、やはり「ざまあみやがれ」という感じがします(笑)。連中にはわからんのだ、と。これが大傑作というわけではありません。ただ、優れた映画だという以上の異様さが画面に漲っていることがわからないのかなあ、という気がします。この抒情を排した乾いた感じ、それから、どちらかというと老け気味の女優を水着姿で横たわらせるとか(笑)。でも、あれはいい場面でしょう。真っ黒な水着をきたキャロリン・ジョーンズが直射日光を受け止めて寝そべっていると、かたわらの不良老人が白いタオルをずばっととってしまう。それがどうしたと言われれば、それまでなんですが(笑)。でも、映画の魅力は、あのタオルを取るか取らないかの微妙な身振りのうちに存しているのです。 これは、例えばニコラス・レイの『夜の人々』のように、美男美女による逃亡談とはまったく違う。あの決して若々しくはない女優さんの、ボブカットに近い髪型、あれですよね。だからといってファム・ファタールかというとそうでもない。彼女が鉄道の駅で待ち伏せ、手錠をかけられたミッキー・ルーニーが警官につきそわれてホームに降り立つ。すると彼女がいきなり転んで見せ、警官が彼女を助けようと屈んだ瞬間、間髪を入れずにミッキー・ルーニーが警官を殴り倒し、彼女が用意しておいた車に乗せて逃走し、手錠をはずしてから警官を山中に置き去りにするという一景をとっても、サスペンス抜きの呆気なさだけが目だち、突発的な暴力が炸裂している。『殺し屋ネルソン』は、どちらかといえばとらえどころのない作品かもしれません。しかも画面そのものが非常に暗くて、硬質ですから、感情移入をするということも全然できない。それでいながら、ラストの破局に向かうミッキー・ルーニーの狂気の表情や、二台の黒い箱形の車による追跡シーン。そして、非常線を突破してからは、箱形の車と白い幌つきの車の追跡、そこから降りてきた警官たちを機関銃で二人も一挙に即死させ、みずからも傷つくシーンの一瞬の迫力。 被写体にキャメラを向けている瞬間の緊張感が不意に炸裂する ──オルドリッチ、ペキンパー、ニコラス・レイならまだ感情移入できる。「孤独」という一言で、連帯できるような気がします。 實 この時期のドン・シーゲルは、連帯をも排している。それが感動的なのです。もちろん、『殺し屋ネルソン』が映画の王道だとは思いません。けれども、そこにはやはり映画にはなくてはならぬものがある。瞬間的な決着性といいますか、目にもとまらぬ呆気なさがあるのです。美男美女が出ていなくても、そこには映画が絶対に触れなければいけない何か、惹きつけながらも拒否するような力学が働いている。ところが、いまでは「みんなで泣きました」といえばそれでいいわけじゃないですか。しかし、惹きつけられるのに拒否されるという点が重要なのです。好きな作品でも、そこにふと映画から拒否されているという瞬間があることへの感覚の鈍い人間に、映画を語る資格はない。たしかに映画は集団的な体験ではありながら、その見知らぬ群衆のなかでいかに自分が孤立化する瞬間があるかということを体験しえないひとなど、いっさい信頼することができません。みんなと一緒に拍手していればいいというような連中は、醜い民主主義者でしかない。興奮している未知の仲間と共感しあうことが、真の映画的な体験なのではありません。何も意図して孤独を求めても意味はありませんが、ふと孤立している自分に目覚めたことのないひとたちは、映画に接近すべきでない。その醜い民主主義者たちが、『シン・ゴジラ』を見て、映画は集団的な体験だというかのようにみんなで手を叩いている。 『君の名は。』も評判がよいようですが、わたくしは、アニメは原則として映画の範疇に加えていません。あれは映画によく似た何ものかではあると思いますが、よく似ているという点で、映画とは本質的に異なる何ものかなのです。ですから、『君の名は。』は見ていませんし、見る気もありません。アニメに興味を惹かれたことはありますが、真の意味で感動したことは一度もない。それは、いま、生きた被写体を撮っていることの緊張感というものが、アニメの画面に欠けているからです。 『殺し屋ネルソン』は、撮る瞬間の緊張感にあふれている。本来であれば、被写体にキャメラを向けている瞬間の緊張感は、フィクションを成立せしめる画面連鎖のひとつにすぎないのだから、画面には定着しえないし、古典的な映画作家もその緊張を画面から遠ざけています。フォードはその良質な抒情によって、ホークスは距離をおいたユーモアによって、ヒッチコックは巧妙なサスペンスによって、ラオール・ウォルシュは語りの迅速性において、見るものにキャメラをほとんど意識させない。オーソン・ウェルズは綿密なキャメラ・ワークによって、ある程度までキャメラを意識させる。そこには生きた被写体を撮っている瞬間の緊張感とは異なる何かが定着されているのです。 ところが、ドン・シーゲル的な緊張感は、それとはまったく異なるものです。それは、ごく普通に撮られているはずのショットが、ヴァイオレンスの不意の暴発によって、とても普通に撮られている画面だとは思えなくなってしまう瞬間があるからなのです。そのとき、被写体にキャメラを向けている瞬間の緊張感が不意に炸裂する。多くの50年代作家たちは、それぞれのやり方で、フィルムのフィクション的な持続を乱している。その不意の乱れに対する感性がそなわっていないと、この過渡期の映画の重要さを見損なってしまうでしょう。 その意味で、『殺し屋ネルソン』の監督は典型的な50年代作家であり、old-fashioned gangster pictureとはまったく異なる新しさを装塡している。そのようなフィルム的な持続の乱れに敏感でないと、50年代の作家たちがなにに対して闘っていたかをとらえることができません。ニコラス・レイの『大砂塵』も、そうした乱れに充ちています。たとえば、戸外に吹き荒れていた嵐の音がいつやんだか、これは何度見ても誰にもわからない。にもかかわらず、その音響から無音への移行が、映画の現在をしっかりと捉えていたのです。 結局のところ、50年代のドン・シーゲルを一番高く評価していたのはフランスでも、ましてやアメリカでもなく、イギリスの批評家たちだったというべきかも知れません。何しろ、1968年に、BFIブリティッシュ・フィルム・インスティチュートが主催し、ナショナル・フィルム・シアターで「シーゲル特集」が組まれていたほどだったからです。これは、クリント・イーストウッドとの協力が始まるよりはるか以前のことですから、異様に早い時期の評価だといえます。 そのときのブックレットを発展させたアラン・ローヴェルの『ドン・シーゲル』(1975)という書物は、薄いながら、きわめてよい方向を目指すものでした。何しろ、フィルモグラフィーの『殺し屋ネルソン』の項目は、「模範的なアクション映画であり、素晴らしく経済的ではしからはしまで創意にみちている」と書き始められているからです。これは、さきほどのold-fashioned gangster pictureという評価とは大違いでしょう。また、「主役をめぐる劇的な状況は知的に展開され、主演女優をめぐる妥協のない着想が、その状況描写に重要に寄与している」と続けられており、名前は挙げていませんが、わたくしの大好きなキャロリン・ジョーンズのイメージも喚起されているのです。 ただ、その概要は、後半部分に充分な演出がなされていないといっている。これにはわたくしは同意できませんが、これは、ドン・シーゲルの自伝『シーゲルの映画』(1993)によると、プロデューサーのアル・ジンバリストが、撮影十七日目の早朝に、今日で撮影は終わりだと告げたことと無関係ではないかも知れません。シーゲルの自伝は、人物との会話をそっくり対話形式で再現しているという奇妙な書き方がされているのですが、「それは無理だ。まだ困難な撮影のために、三日は必要だ」とシーゲルが答えると、「選択の余地はない。お金がなくなってしまった。──今夜撮影機械を返却しなければならない」と相手はいう。そこで、最後のシーンを撮って終わりにせねばならなかったというのですが、こうした予算上の問題が、この作品のテンポをことのほか迅速なものに見せているのは、いうまでもありません。廻したフィルムは全部使い切り、無駄なショットは一つもなかったというのですから、この最終日の撮影の挿話を見ただけでも、シーゲルがいかに優れて大胆な映画作家であるかわかるでしょう。かりに予算が十分でなかったとしても、撮ることがそのままフィルムの乾いた調子に連動するような演出がなされているからです。 映画の現在に触れるという点で、わたくしにはあと一人重要な作家が存在します。すでに触れておいたように、50年代に活躍したジャック・ベッケルがそれにあたります。1906年生まれの彼は、1912年生まれのシーゲルや1911年生まれのレイとほぼ同世代の作家だといえますが、監督デビューはこの中で一番早い。40年代の初めに奇妙なギャング映画で監督となるのですが、戦中や戦後に撮った『偽れる装い』(1945)や、とりわけ『幸福の設計』(1947)は、ルネ・クレールやマルセル・カルネなどのいわゆる「詩的レアリスム」の戦後版として日本でもかなり評価されました。しかし、頭で構想した画面づくりをするクレールやカルネとは異なり、その画面には撮ることの緊張感が漲っており、そこに決定的な新しさが認められるのです。 しかし、フランス本国では『肉体の冠』があまり評価されず、それはアンドレ・バザンの無理解が主なる原因ですが、『アラブの盗賊』や『怪盗ルパン』も現地での評判は思わしくなく、たしかに傑作とはいいがたい『モンパルナスの灯』(1958)にいたっては、「カイエ・デュ・シネマ」誌の星取り表で、エリック・ロメールという名前の同誌の編集者が、中平康の『狂った果実』(1956)より低い点をつけていたのです。大学時代に「カイエ・デュ・シネマ」誌を銀座の洋書屋で立ち読みしていた──当時の学生には高すぎたからです──わたくしは、その場で、こいつは殺してやると心に決めました。見たことも会ったこともないこのロメールなる男に、「殺しの烙印」を捺していたのです。そしたら彼は敬愛すべき映画作家になってしまったのですが、『モンパルナスの灯』を必死に擁護したはずのジャン=リュック・ゴダールさえ、その『ゴダールのリア王』(1987)の冒頭で、自分にとって貴重な映画作家の肖像写真を何人も掲げていながら、ベッケルを入れることを忘れている。そのことを指摘してやると「そうだ、ベッケルは入れるべきだった」(實重、『光をめぐって』筑摩書房、1991)と深く後悔していたほどです。 実際、フランスではベッケルの評価がいまなおあまり高いとはいえず、彼の生誕百年に特別な催しを何もやらなかった。それには怒り狂って、アテネ・フランセの松本(正道)さんとご相談し、青山真治、クリス・フジワラ、ジャン=ピエール・リモザンという顔ぶれで記念シンポジウムを開催し、同時に『怪盗ルパン』を上映することで、何とか仇を討ったのです。 しかし、ドン・シーゲルの『殺し屋ネルソン』については、いまだ仇をとっておりません。この連載が、そのよい機会になってくれればと祈るのみです。ことによると、それより十年ほど以前に撮られたエイブラハム・ポロンスキーの『悪の力』やロバート・ロッセンの『ボディ・アンド・ソウル』などが日本に公開されていたとするなら、戦後のハリウッドの変化にももう少し敏感でいられたのかも知れません。いずれも、古典的な映画の枠組みを大きく踏み外すことなく、それでいて、その演出手法が決定的に新しかったからです。しかし、こちらは二十歳前後で、その新しさに気づくほどの映画的な素養など持ちあわせていたはずもない。さいわいにして、1957年に、わたくしが二十歳前後で『殺し屋ネルソン』に触れたことが大きかった。それはたんなる偶然にすぎないのですが、じつはその偶然を僥倖に変えてしまう力が二十歳という年代には奇蹟的にそなわっていたとしかいいようがありません。 映画との出会いを僥倖たらしめるものは何か。誰もが、その僥倖に恵まれているはずですが、それを僥倖たらしめることなくほとんどの人が取り逃がしてしまう。それは、誰もが群衆に知らぬ間に同調してしまうからです。見知らぬ群衆のなかでいかに自分が孤立化する瞬間があるかということを体験するとき、初めて真の意味で映画と触れあうことができるのです。 Ⅱ 物語を超えて スタンダードからワイドスクリーンへ ──1950年代になり、様々なワイドスクリーンの規格が登場し、映画の画面がスタンダード・サイズから、横長の大画面に変化していきました。1・33:1のスタンダード・サイズから1・66:1~1・85:1のヴィスタヴィジョン・サイズ、2・35:1のシネマスコープ・サイズへの変化は、映画におけるショットの意味合いも変えてしまったのでしょうか。 實さんは、必ずしもワイドスクリーンを否定しておらず、映画の新たな可能性を追求するものと肯定的に捉えた発言をされています。 「シネマスコープは映画の反映画化だといって、ぼくは長らく批判的だったんですが、最近、初期のトリュフォーの黒白ディアリスコープのものをいくつか見直して、これはやっぱりいいものだと考え始めています。『大人は判ってくれない』や『ピアニストを撃て』など、スクリーンの枠に従って構図を決めず、人物のまわりに風景が流れていくような感じは、フレームをきっちりと決めたショットの透明感とは違った魅力がある。シネマスコープの横長の大画面は、多分ショットの隅々まで神経のゆきとどいた構図を要請してはいない。だから、ぼくのいう「演出の映画」ではなく「撮影の映画」に向いているのです」(「アメリカ映画狂時代」1993年、『映画に目が眩んで 口語篇』中央公論社、1995年所収)。 實 そんな話をしていましたっけ……。わたくしは数十年も前に書いたものはあらかた忘れてしまっているという便利な後期高齢者ですが、そういわれてみると、まともなトリュフォー論を書いていない自分を深く恥じながら、彼の初期の作品をVHSで何度も見直すという一時期がたしかにありました。そして、そのモノクロームの横長の大型画面に強く惹かれたことを漠然とながら思い出しました。 彼の初期作品はいずれも素晴らしいものばかりです。『大人は判ってくれない』(1959)と『突然炎のごとく』(1961)については個人的にあまり好きになれませんが、優れた作品であることは間違いありません。しかし、わたくしは、その二作の間に撮られた『ピアニストを撃て』(1960)にとりわけ強く惹かれました。これもディアリスコープで撮られており、その画面比率は2・35:1です。それ以前に撮られた短編の『あこがれ』(1958)の1・37:1の画面の持つ奇妙な爽快さとはかなり雰囲気が違っています。でも、ほぼ同じ時期にハリウッドで量産されていたシネマスコープ・サイズの作品のかったるさは免れていました。のちほどその点については詳しく触れるつもりですが、こうしたハリウッド製の大型画面の粗雑さにくらべて、映画初期の1・33:1というスタンダード・サイズの画面でモノクロームの作品を見たりすると、ほっと心が落ちつくのは確かなのです。 実際、先日ちょっといらいらすることがあり、こういうときはこれを見るにかぎると思い、ハワード・ホークスの『特急二十世紀』(1934)を見直したのですが、洒落た演出に笑い、スターたちの演技ののびやかさに感嘆し、本当に心が落ちつきました。ところが、いまから半世紀も前に、シネマスコープ第一作『聖衣』(ヘンリー・コスター監督、1953)を初めて劇場で見たときは、心の底からうんざりさせられたことをいまでもはっきり覚えています。古典的なハリウッド映画が味わわせてくれたあの自由闊達な画面連鎖のもたらす快い感覚が、ただ大きいだけでひたすら重苦しい画面で失われてしまったように感じられたからです。 戦前のディアナ・ダービン主演で指揮者のストコフスキーまで出ている『オーケストラの少女』(1937)で有名なヘンリー・コスターは、ドイツから亡命したユダヤ系の監督で、戦後に公開された『気まぐれ天使』(1948)や『ハーヴェイ』(1950)など、むしろあまり大げさでない小規模なコメディーを得意とする監督だと思っていたので、彼がしかつめらしい歴史超大作を撮らされたことには本当にびっくりしました。しかし、スタンダードが一般的だった時代にも下らない映画はいやというほどありましたから、これについてはしばらく静観してみようと思うほどに、わたくしは新たに導入された大型画面にはあれこれ逡巡しつつも、比較的に寛容だったのです。 ちょうどその頃、素材としてのフィルムの70ミリ化という動きも起きており、むしろ生真面目なほどに内面の描写にこだわるフレッド・ジンネマンが、リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン二世によるミュージカルをTodd AOシステムによる70ミリで映画化した『オクラホマ!』(1955)を見たときには心底から驚きました。これはたしか有楽座で見たのですが、ハリウッドは大型画面による映画のスペクタクル化につれて、人材の適用法を決定的に間違え始めているとひどく苛立ったことを覚えています。その至上形態が、20世紀FOX社を壊滅せしめた『クレオパトラ』(1963)であるのは、いうまでもありません。 ウォルター・ウェンジャー製作で始まったこの超大作は、監督がルーベン・マムーリアンで撮影を始めたものの、イギリスやイタリアにおける製作体制の不備によって数年がかりの撮影──そこには、主演のリチャード・バートンとエリザベス・テイラーの不倫騒動などもあったりして──となり、その間、監督はジョセフ・L・マンキーウィッツに代わり、しばらくFOX社からは遠ざけられていたダリル・F・ザナックが再介入することでかろうじて完成したものの、長びいた撮影期間に見合った収益を上げることなどとてもできませんでした。 わたくしには興行面への興味はほとんどありませんが、大型映画の撮影にジンネマンだのマンキーウィッツだのといったいわゆるハリウッドの「良心的」な映画作家を起用するという製作者たちの意図がまったく理解できず、というよりこれは決定的に間違っていると思い、同時にハリウッドは追いつめられているなとも感じていました。それぞれの監督がこれだけは撮っておきたいという彼らなりの的確なショットが、スクリーンからすっかり姿を消してしまうような気がしたからです。 実際、『オクラホマ!』には、ジンネマンにしか撮れないと思える精緻な画面などひとつもなく、誰が撮ってもよかっただろう凡庸な画面が続いてゆくばかりでした。ところが、その直後に彼が撮った『夜を逃れて』(1957)は白黒シネマスコープの作品で、傑作ではないにせよ、きわめて緊密に撮られた佳作であり、この監督ならではの画面が見るものを惹きつけていました。この二作は、それが同じ監督によって撮られたものとはとても想像できないほど、画面の質感が異なっていたのです。だが、マンキーウィッツの場合は事態はより深刻でした。『クレオパトラ』で映画作家としての才能をほとんど使いはたしてしまったかのように、その後、彼は優れた作品──好きな作品はありますが──を残していません。 スクリーン・サイズの大型化に立ち会いながら思ったことは、30年代から続いていたハリウッドの製作体制が目に見えてほころびはじめ、ほとんど崩壊しかけているといった感覚でした。他方、スペインに身を落ちつけたサミュエル・ブロンストンは、超大作の『エル・シド』(1961)をアンソニー・マンに、『キング・オブ・キングス』(1961)と『北京の55日』(1963)の二本をニコラス・レイに撮らせたことで、彼らから作家としての生命をほとんど奪ってしまった。 その点、RKOでB級映画監督として出発したリチャード・フライシャーだけが、『海底二万哩』(1954)や『ヴァイキング』(1958)などの大作──さすがに『クレオパトラ』とは製作規模が違いますが──を涼しい顔で撮りあげて、しかもそのことでまったく自分自身を見失うことなく、それぞれの大作のあいだをすりぬけるようにして、『夢去りぬ』(1955)や『絞殺魔』(1968)のような優れた作品を撮ってみせるというその柔軟な対応力には、目を見張るものがありました。 空間の流れるようなフィルムへの同調 ──實さんは同じインタビューの中で、「キャメラの前で起こっていることを、事件として、構図にこだわらずにフィルムに収めてゆき、輪郭が何かを確定するのではなく、それからこぼれ落ちそうになるものをすくい上げてゆく。あるいはシネマスコープは、構図ではなく空間を重視する映画にも向いているかもしれない」(「アメリカ映画狂時代」)とも発言されています。 實 トリュフォーのディアリスコープの横長のモノクロ画面には、被写体にキャメラを向けている監督の、自分はいま撮りつつあるのだという悦びと緊張感が、ときに戸惑いをも垣間見せつつも、高らかに脈打っているように感じられたのです。とりわけ、『ピアニストを撃て』のフィルムをおおっている薄暗い手ざわりのような触感が、途方もなく魅力的でした。最後の雪におおわれた山小屋をキャメラが俯瞰するとき、監督がどこまでデイヴィッド・W・グリフィスを意識していたのかはわかりませんが、撃たれたマリー・デュボアが音もなく倒れ、不意にその遺体が傾斜した雪原をするすると滑走しはじめるショットが途方もなく素晴らしかった。トリュフォー自身がどれほどディアリスコープを有効に操作できているのかなどわからなかったはずなのに、その画面と監督の思いがけない共感ぶりが手にとるようにわかり、深く感動しました。ショットとは、この撃たれたばかりの若い女性の遺体の雪原の斜面の滑走という不意の運動感にほかならず、画面のサイズとは無関係なものだ。ラウール・クタールによる硬質性が柔軟さをいささかもそこなわないようなキャメラワークに魅せられ、そう実感しました。この空間の流れるようなフィルムへの同調ぶりが、たまらなかったのです。 ここで、多くの有為の映画作家たちからそのキャリアを奪ってしまった大型画面一般について、ちょっと触れておかねばなりません。たとえば「シネマスコープ」という名称は20世紀FOX社の登録商標であり、ほかの会社は使えません。そこで、ほぼ同じ方式の大型画面を、たとえば「ワーナースコープ」「ディアリスコープ」などと、会社や国ごとに呼び方を変えていました。「ヴィスタヴィジョン」はパラマウントの開発にかかるものであり、大型画面ながら、「シネマスコープ」ほど横長ではなく、『ホワイト・クリスマス』(1954)など、当時の記憶では画面が一番鮮明に思えました。ただ、まさに都会的な洗練を誇ってきたパラマウントが、生真面目だがいささか泥臭いとも思える元WB専属のマイケル・カーチスを監督に選んでいることが素直に理解できず、ハリウッドの製作体制に深い疑問をいだいたものです。 また、すべての大型画面が素晴らしい発明であったわけでもありません。「スーパースコープ」というのはRKOが独自に開発したもので、スタンダードで撮影してから上下をトリミングされたフィルムを横長のスクリーンに投影するといういささかきわものめいたものでした。たとえば、ジョン・スタージェス監督の『海底の黄金』(1955)などがこの「スーパースコープ」の作品でしたが、せっかくあの肉体派女優のジェーン・ラッセルが気前よく水着になってくれているのに、きわめて画質が悪く、色彩もひどいもので、その肉体の魅力はただ大きいだけの画面に殺されてしまっている。これでは商品として成立しえないと腹を立てた記憶があります。こんな大型画面は過渡的なものにすぎまいと思っていましたが、さいわい、いまでは、大型画面のほとんどは、その後に登場したパナヴィジョン社の登録商標である「パナヴィジョン」が主流になっているようで、さすがにいい加減な「スーパースコープ」などとは段違いの鮮明な解像度を誇っています。 「演出」の映画と「撮影」の映画 ──プロデューサーたちがこぞって採用し始めた大型画面に対して、映画作家たちはどのようにとり組んでいたのでしょうか? 實 そこで、初期の大型画面に作家たちがどのようにとり組んでいたかを、ニコラス・レイ監督の『理由なき反抗』(1955)を例として見てみることにしましょう。これは50年代中期のワーナーの作品ですから、「ワーナーカラー」「ワーナースコープ」で撮られている。これには名高いジェームズ・ディーンが出演していますが、それとほぼ同時期に、彼がエリア・カザン監督の同じワーナー作品『エデンの東』(1955)にも出ていることで、この二作はしばしば安易に比較されがちです。しかし、それらはまったく別ものなのです。一方はジョン・スタインベックの小説を原作としたある種の文芸映画で、時代はいちおう近過去ということになっています。他方は、同時代の若者の風俗を描いた現代劇であり、それぞれに見るべきところがまったく異なります。『エデンの東』は厳格な構図の画面にもとづいた「演出」の映画であり、完全に成功しているか否かはともかく、『理由なき反抗』は時間、あるいはむしろ生の持続をとらえようとする「撮影」の映画なのです。 ここでひとこといいそえておくと、最近の合衆国の研究者たちの間では、「演出」を意味する《Mise en scène》というフランス語を、撮影対象の総体といった意味合いと理解して、それをわが国の研究者たちは「ミザンセン」というあまり耳触りの良くない日本語で表記していますが、「ミザンセーヌ」という原語の意味からの正当化されがたい離脱が気になるところです。わたくしがいう「演出」とは、彼らがいう「ミザンセン」とは無縁の、誰もがかかえているはずの内面をどのように視覚化するかという問題にほかなりません。つまり、「表象」の問題がそこでは問われているのです。 その意味で、エリア・カザンは「演出」の映画を撮っており、ニコラス・レイはそうではなく、「撮影」の映画と呼ぶべき種類の作品を撮っているといえるかもしれません。誰もがあらかじめ抱えていると想定される内面──意識だの、心理だの、悩みだの──がどのように画面に見えてくるかというのが「演出」の映画、すなわち「表象」にこだわる作品だとするなら、被写体にキャメラを向けることで画面に生成するとらえがたい運動の生なましい現在をいかにとらえるかに賭けているのが、「表象」を誇大視することのない「撮影」の映画といえばよいでしょう。ニコラス・レイの映画を「演出意図に従った厳格な構図よりも、遥かに空間の拡がりを重視している」といったのは、そうした意味においてにほかなりません。 さらにいうなら、ニコラス・レイの場合は、空間の拡がりにとどまらず、空間のゆがみのようなものまで画面に定着させている。たとえば、『理由なき反抗』で、真っ赤なジャンパーをまとったジェームズ・ディーンが二階に通じる階段で母親と口論する場面がありますが、ここには当然のことながら傾斜する空間が背後に拡がっている。これは、映画がプラネタリウムで始まり、断崖の手前でフルスピードの車を止めるという「チキン・ラン」の競技に続いてゆくという作品の空間構造からして、当然のことといえるでしょう。また、役柄としての両親ということでいうなら、「演出」の映画作家であるカザンは、ジェームズ・ディーンの父親と生みの母に、レイモンド・マッセイとジョー・ヴァン・フリートという存在感のある芸達者を選んでいます。だから、誰もが安心してその「演出」の映画を見続けることができる。つまり、『エデンの東』はわかりやすい安全な映画なのです。 それに対して、「撮影」の映画作家であるレイの作品は、必ずしも安心できるわかりやすい映画ではありません。両親役にむしろ存在感の稀薄なジム・バッカスとアン・ドーランを選んでいたりするからです。『ニコラス・レイ──ある反逆者の肖像』(吉村和明訳、キネマ旬報社、1998)で著者のベルナール・エイゼンシッツも証言しているように、監督のレイは、美術監督に、背景となる家屋の建築学的な空間構造の特徴をこまごまと説明し、そこでジェームズ・ディーンが即興的な演技をしやすくするための配慮をしっかりと打ち合わせていたということなのです。 彼が、警察に出頭するというのを止めようとして、母親が階段を降りてくる。彼に説教する母親は必然的に視線を下げ、彼自身は見あげることになるのですが、さらに逆向きの階段が数段あるという複雑な構造を持ったその場所で、ジェームズ・ディーンがこんどは一階にいる父親を見るときは、視線は当然のことながら下を向くことになる。そして、その父親を床に倒すとき、キャメラは仰角の視線を二人に向けることになるのです。実際、ジェームズ・ディーンという役者でもっとも記憶に残っているのは、彼が対象──ほとんどの場合、人物──を恨めしげに見あげている表情なのです。 彼の晩年のスペインでの超大作からもそれは感じとれるものですが、ニコラス・レイの映画で複数の人物が会話をしたり、ののしり合ったりするとき、彼らが同じ水準に位置していることはきわめて稀であり、一方が座っていれば他方は立っているといったように、そこでは決まって視線が斜めに交錯するような空間配置になっている。そして、そうした状況が、空間のゆがみをフィルムに定着させることになるのですから、レイが「空間を重視している」というのは、そうしたことを意味しているのです。そしてその空間の重視、あるいは傾斜による空間のゆがみを撮ることの「現在」としてとらえることで、それぞれのショットが物語を超えようとしているのです。 厳密な構図を超えた何かを画面に取り込もうとする撮影意図 ──さらに、「ヴィム・ヴェンダースが『パリ、テキサス』をシネマスコープで撮りたいといったとき、彼の意識には、こうした五〇年代の映画的な資産に対する敬意がこめられていたはずです。小津安二郎やジョン・フォードを好んでいるという理由で、彼を、たったひとつの完璧な構図のショットですべてを語りうる古典的なハリウッド映画の後継者と考えるのは間違いです。ヴェンダースの野心は、シネマスコープとイーストマンカラーが導入されて以後のアメリカ映画の最後の作品を撮るということだったはずです。そして、それに成功したとぼくは思っています」(「アメリカ映画狂時代」)と発言されています。また、「ドン・シーゲルなどシネマスコープ向きの監督ではないと思っていたんですが、『刑事マディガン』はまだどっちつかずだった彼も、『ダーティハリー』では見事に、画面を流して見せて、構図の作家を通過することなく、空間の作家に変貌しおおせてしまいました」(「アメリカ映画狂時代」)ということもお話しされています。ドン・シーゲルについては、「彼の映画的な無意識が画面の露呈を極力回避しようとしている。それが神のごとくうまくいったのが『アルカトラズからの脱出』である」とも書かれていたようですね。 實 先ほども申しあげたように、自分の書いたものなどあらかた忘れているので初耳のような気がしますが、いまのお話を聞くかぎり、わたくしは終始正しいことをいっているようで、いまさらながらに驚くしかありません(笑)。画面を流して空間的なものを招きよせるというシネマスコープ的なフレームは、たとえばオットー・プレミンジャーの『帰らざる河』(1954)などが良い例ですが、激流の場面がいかにも絵に描いたようなスクリーン・プロセスであろうと、厳密な構図を超えた何かを画面に取り込もうとするその撮影意図において、きわめて貴重なものだと思っています。それが「画面の露呈を回避する」ということの意味にほかなりません。トリュフォーが『ピアニストを撃て』でやろうとしていたのも、まさしくそれなのです。 しかし、ここで事実の復習を時間的な経緯にしたがってしておきますと、50年代にドン・シーゲルやニコラス・レイやジャック・ベッケルをひたすら擁護していたとき、まだ二十歳にもなっていなかったわたくしには、映画史的な展望というものが徹底して欠けていました。もちろん、飯島正氏の『フランス映画』(三笠書房、1950)や『フランス映画史』(白水社、1950)、双葉十三郎氏の『アメリカ映画』(名曲堂、1950)や『アメリカ映画史』(白水社、1951)などには目を通し、戦後の日本では見られない古典的な作品についての知識をあれこれさぐっていたのはたしかです。とはいえ、占領下の日本という極東の島国に公開される映画を必死に見ていただけなので──もちろん、名画座で戦前の作品を多少は見ていましたが──とても、世界の映画史的な展望ともいうべきものを思い描けるほどの材料は持ちあわせておりませんでした。また、映画に歴史的な展望というものがあるなどと考えてさえおらず、ひたすら封切られる作品を見まくっていただけだったのです。 ですから、1962年から1965年にかけての初めてのフランス滞在が、そうした限界を目覚めさせる役目をはたしてくれたのは間違いありません。ちょうど、修士課程を終えて、博士課程に進んだ時期のことですが、そのときにパリのシネマテーク・フランセーズで、ハリウッドの古典的な作品を数えきれないほど見ることで、初めて漠然とながら映画史の構図というものが形成されたのです。また、50年代ハリウッドの途方もない重要さも、そのことによってさらにきわだったのだと思います。 「ヌーヴェル・ヴァーグ」の現場へ ──パリで映画史的な構図を手にされた實さんにとって、その当時の同時代の映画はどのように映っていたのですか? 實 1962年にフランスに発つ直前に東京で見た最後の映画は、サム・ペキンパーの『昼下りの決斗』(1962)でした。ハリウッドにまぎれもない新たな才能豊かな映画作家が誕生したことにいたく感動して、自分の向かうべき国はフランスではなく、合衆国ではないかと思ったほどでしたが、この作品はシネマスコープの細長い空間を無理なく使ったみごとなものと思いました。その直前に、年老いた──といってもいまのわたくしより遥かに若かった──祖母をつれて、小津の『小早川家の秋』(1961)を見にいっています。何となく、別れを意識していたのだと思います。もっとも、この作品の予告編の東宝ニュースがシネマスコープ・サイズのもの──いわゆる東宝スコープ──だったので、小津もついにシネマスコープを採用したのかと吃驚しましたが、公開された作品は厳格なスタンダード・サイズだったので安心しました。祖母は、わたくしのフランス滞在中に亡くなったのですが、彼女がケラケラ笑いながら小津の画面に見入っていた姿が、その死の知らせを受けたときに見えてきたような気がします。 もちろん、すでにゴダールやトリュフォーの初期の作品は東京で見ていましたから、パリに着いたとき、いよいよ「ヌーヴェル・ヴァーグ」の現場へ足を踏みいれたという興奮があったのはたしかです。しかし、この時期、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家たちは一時的な退潮期に陥っており、ゴダールやトリュフォーはほとんど映画が撮れず、シャブロルにいたっては、堕落して再起不能とさえいわれていた時期──そんな事態でないことは、彼のその後の作品が証明しています──にさしかかっていました。それでも、ゴダールの新作『カラビニエ』(1963)をサン=ミッシェル広場近くの小さな小屋へ見に行ったのですが、ほとんど客は入っておらず、これが総入場者数千八百人という歴史的な不当たりの作品として記憶されるできごとだったのです。 わたくし個人としては、その千八百人というわずかな人数のひとりであった自分をいまでも大いに誇りにしていますが、トリュフォーの『突然炎のごとく』以来の三年ぶりの長編である『柔らかい肌』(1964)が封切られたときも大層不評──わたくし自身は大好きでしたが──で、その後の映画の企画がなかなか進まなかった時代でした。だから、彼は、『ヒッチコック/トリュフォー』(1966)のような書物の企画を立てたりしていたのです。 ──ジャック・ドゥミについてはいかがでしょうか? 實 ああ、ジャック・ドゥミはきわめて特別な映画作家でした。特別なというのは、たとえば彼の初期短編の一つ『ロワール渓谷の木靴職人』(1955)など、35ミリで撮られたスタンダード・サイズの黒白ドキュメンタリーなのですが、これが古典的な意味でほぼ完璧なショットからなっていたからです。ゴダールやトリュフォーの初期の短編の見かけの素人っぽさがまったく感じられず、ドゥミはすでに完成された映画作家でした。『ローラ』(1961)や『天使の入江』(1963)はすでにして大人の映画の様相を呈していました。それに続くミュージカルの『シェルブールの雨傘』(1964)はヌーヴェル・ヴァーグの商品価値が低下しつつあったときに例外的に評判がよかったし、『ロシュフォールの恋人たち』(1967)もそこそこの商品価値があったと思います。しかし、わたくしはそれほど惹きつけられませんでした。おそらく、ミシェル・ルグランという作曲家に対する絶対的な信頼が欠けていたからかもしれません。わたくしの貧弱な音楽的な感性は、フランス映画でいえば、モーリス・ジョベールからジョルジュ・ドルリューへという流れに親近感を覚えていたからかもしれません。 ジャック・ドゥミのミュージカルというなら、日本ではほとんど評判にはなりませんでしたが、あらゆる台詞が歌われるというその野心性からして、ミシェル・コロンビエが作曲した『都会のひと部屋』(1982)を挙げておきたいと思います。労働者たちのストライキを背景としたこのミュージカルは、ドミニック・サンダとダニエル・ダリューが共演していますが、大人の映画でありながらそのことには満足していないというドゥミの製作意欲がもっともみごとに結実した傑作だと思います。この作品については、のちに詳しく論じる機会もあるでしょう。 ジャック・ドゥミの特殊な野心性にこだわって60年代のパリを離れてしまったので、ここで話を戻すと、ゴダールやトリュフォーやジャック・ドゥミ以外にも、学生街の小さな映画館では、『暗黒街の弾痕』(1937)や『死刑執行人もまた死す』(1943)や『飾窓の女』(1944)など、アメリカ時代のフリッツ・ラングの作品がしばしばかけられており、それを見てひたすら興奮していました。いわゆる「ドイツ表現主義」時代の作品にくらべてハリウッド時代のラングは堕落したといった世評が、まったくの出鱈目であるとも確信できました。 また、それまでは見ることのできなかったグリフィスやエーリッヒ・フォン・シュトロハイムやムルナウなどのサイレント期の映画をシネマテークで見たことも大いに刺激になりましたし、それがわたくしなりの映画史的な展望の形成には決定的だったのです。ジョン・フォードのサイレント期の作品を見たのもその時期ですし、小津や溝口の戦前の作品やサイレント作品も初めてパリで見ました。当時のシネマテークでの無声映画の上映は、ピアノ伴奏などついてはおらず、まったき沈黙の中で行われていました。初めはやや途惑いましたが、馴れてくるとこれがやみつきになり、音楽なしでサイレントを見ることが20世紀中葉に想像しうるもっとも贅沢な快楽かと思われたほどです。もっとも、わたくしのシネマテーク通いはフランス滞在の最初の一年半ほどに限られ、その後は執筆中の論文を完成させようとして、ジョン・フォードとゴダールの新作をのぞいて、映画館へゆくことすら自粛するといった生活をしていました。 フランスで無声時代の映画がどのように上映され、それにどのような伴奏音楽がつけられていたのかは、ジャン・ドラノワ監督の『しのび泣き』(1945)に描かれており、中学時代にそれを見ていたので、自分なりによくわかっているつもりでいました。ジャン=ルイ・バローが演じる天才肌のヴァイオリニストが落ちぶれて、場末の小屋のスクリーンの裏側で、数人の楽士たちとともに、透け見える画像にあわせて楽器を演奏するというものだったのです。ところが、シネマテークでのサイレントの上映にはいっさい伴奏音楽がついておらず、そのことがかえって見ているものたちを画像とじかに向きあわせてくれたのです。そうした環境の中でシュトロハイムの『愚なる妻』(1922)を見ることができたのは、大きな悦びでした。 また、ジャン・ルノワールの日本未公開の作品を見られたことも大きかった。ルノワールは、『河』(1951)も『フレンチ・カンカン』(1954)も『恋多き女』(1956)も日本で公開されていましたし、戦前の『大いなる幻影』(1937)も名画座で見ていました。しかし、『大いなる幻影』という有名な作品がどうしても好きになれず──戦前に輸入されていたのは、短縮ヴァージョンでした──、何かがわたくしから興奮を奪っていました。ところが、パリで『ゲームの規則』(1939)や『十字路の夜』(1932)、それに『ピクニック』(1936)などを見たときには、本当に衝撃的でした。『ピクニック』など、これは「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品ではないかと思われたほど新鮮だったのです。その後、『大いなる幻影』に対する評価も深まりました。 しかし、もはや題名も覚えていないほど数多く見た30年代ハリウッド映画の中でも、戦後の日本では見られなかったラオール・ウォルシュの『バワリイ』(1933)や『夜毎八時に』(1935)、『画家とモデル』(1937)、『ハイ・シェラ』(1941)、『いちごブロンド』(1941)などははっきりと記憶に残り、その簡潔きわまりない作品構造のおよその流れは身についていました。やはり、こうしてサイレント映画や、30年代から40年代にかけてのハリウッド映画と接しえたことが、わたくしにとっての映画史的な展望の構築に大きく寄与していたのです。 『わが谷は緑なりき』のマッチ ──2015年に20世紀FOXにいったときに、古くからいるプロデューサーが、マイケル・ベイはどこにキャメラを置くかはわかっていないけど、ジェームズ・キャメロンはわかっていると言っていました。また、今の映画監督はサイレントを見ていないからダメだとも語っていました。 實 きわめて正しい指摘だといわざるをえません。実際、サイレント映画を一本も見ていないような人が、映画監督になってはいけない。ところが、いまでは、映画の歴史も知らぬまま、ただただ映画を撮りたいというだけの男女が世界にあふれています。でも、画面を見ていれば、すぐにわかります、この人は無声映画を見たことがあるかどうか。また、30年代の古典的なハリウッド映画を見たことがあるかどうかも。しかし、うれしくなりますね、アメリカにもそういう確かな目を持つ人がいてくれて……。確かに、ジェームズ・キャメロンはどこにキャメラを据えるべきかを知っている。『アバター』(2009)をまず3Dで見て、それから念を入れて改めて2Dで見直したのですが、あのキャメラ・ワークがほとんど古典的ともいえるほどのショットつなぎからなっていることが確かめられました。彼は、間違いなく、サイレント映画も30年代のハリウッド映画もたっぷりと見ているはずです。 ──これまでの話題を少しだけくり返しておきます。ショットの話を伺っているなかで、映像を見ていても物語に還元して画面を見ていない人が多いといえると思います。それに対して、ショットに着目することで、映画をより生き生きとしたものに感じることができる、と。『『ボヴァリー夫人』論』(筑摩書房、2014)でも、「物語」や通説にまどわされていて、テクストを読んでいないと書かれていましたが、これも共通する感性、考え方なのではないかと思いました。實さんはどのようにしていわばショット的感性を築き上げていったのでしょうか。そのような考えを實さんが確立されたのはいつぐらいなのですか。 實 確立したというか、じつは、初めから、スクリーンに見えているものをショットごとにひたすらたどることで映画を見ていたというほうが正しいと思う。たとえばジョン・フォードに『わが谷は緑なりき』(1941)という映画があります。これは戦時中に撮られた作品で、戦後になってから日本で公開されたもので、物語としてはむしろ通俗的とさえいえるものです。しかし、画面にみなぎる力が、その通俗性を遥かに超えている。自分のことをひそかに愛している女性がいながら、彼女は結婚直前で、しかも自分は牧師──演じているのは、ウォルター・ピジョン──だからその人に手をだすことは控えているのですが、それでも心惹かれるところがある女性をモーリン・オハラが演じています。 その女性が、ある晩、牧師のところに訪ねてくる。しかし、自分の部屋に彼女がいることを知らない牧師がランプに火をつけてマッチを捨てようと胸もとに掲げる。その瞬間、それまで彼のバストショットだった画面が全景に切りかわり、部屋の片隅にひそかに座っていたモーリン・オハラを浮きあがらせる。そこで、物語の通俗性を超えたショットの連鎖の確かさが視界をおおうことになるのです。物語をたどれば、自分にひそかな好意をいだいている若い女性が、真夜中に彼の家に訪ねてくるというだけの話なのですが、マッチを捨てようとする瞬間にショットが変わるとき、そこには物語を超えた力が画面にみなぎるのです。 その瞬間のことをわたくしは初めてこの映画を見たとき、よく覚えていました。これはピカデリーでロードショウ公開されて、そのとき見ているのですが、その瞬間が忘れられず、二番館でもう一度見直したときに、その瞬間にどっと涙があふれてきたのです。物語を超えたなにかが、映画を震わせている。それに打たれたのです。中学の一、二年の頃だと思います。 ──まわりの人にそうした話は通じたのでしょうか。 實 いや、そんな場面がどこにあったのかとみんながいうだけだったのでした。 ──そういう見方をだれかに教えられたというわけではないのですね。 實 だれかに教えられたわけではなく、自分なりに、ああこれが映画の演出というものなのだろうなと気づいたということだと思います。 『リオ・グランデの砦』のマッチ ──ジョン・フォードは、意識的にそのようなショットを撮っていたわけですよね。 實 そうだと思います。だから、あそこでマッチを捨てずに、その動作を途中で中断する。しかし、それに続くショットはランプの光で見えるのではなく、明らかに別の照明があてられている。だから人工の影なんです。ランプの光だけであんなに見えるはずない。モーリン・オハラがまとっているエプロンの白さも素晴らしい。灯されたばかりのランプは、まだ光源として残っており、しかし、画面には新たな照明が二人を孤立して浮きあがらせる。 これとほとんど同じ演出を、フォードは『リオ・グランデの砦』(1950)でもやっています。討伐から戻ったジョン・ウェインの中佐は疲れはてており、かろうじてテントの布にマッチをこすりつけてランプに火を灯すと、見えてはいなかったモーリン・オハラが、椅子から音もなく立ちあがる。そして、思わず二人は抱擁しあうという素晴らしいショットなのですが、何せ彼らは別居中の身ですから、ジョン・ウェインがすまなそうに詫びています。それに先だって、河のほとりでジョン・ウェインがモーリン・オハラのことを考えているかのようなシーンがありますから、物語の上で二人の抱擁はむしろ自然に見える。しかし、ジョン・ウェインがマッチを擦ってランプを灯し、それを手にして振り返る動作が傑出している。それを中学の時に見て、ああ『わが谷』に似ている! と気がついちゃいました。まず、火を灯すという主題論的な統一があります。しかも、ここでのジョン・ウェインは、ちょっと儀式ばったかたちでランプを動かす。そうすると、闇のなかに座っていたモーリン・オハラが音もなく立ちあがるわけですから、これ『わが谷』のあそこと同じじゃあないかと思ったのが中学のころです。だから物語を追うというより、ひたすら画面の連鎖だけを見ていたのです。 『リオ・グランデの砦』はロードショウではなく、一般封切りで公開されました。だから渋谷のどこかの小屋で見たのですが、あれ、同じことをやっているじゃないかと思いました。男がマッチでランプに火を点けると、『わが谷』ではランプは高いところにつるされていましたが、『リオ・グランデ』では机の上に置かれていたのをやや演技めいたかたちで持ちあげると、そこに間髪をいれずモーリン・オハラが立ち現れてくる。そこで、映画監督って、こんなふうに同じことを平然とやってもいいのかしら、と中学生なりに不思議に思った記憶があります。『リオ・グランデ』ではショットを割らずに撮っていますが、いずれにせよ、ショットの力に惹かれてとしかいいようがないかたちでその画面を記憶していたのです。不意の照明の変化、そしてあるしぐさの反復、というものが、物語を超えた瞬間をかたちづくっている。そうした演出はもう現在の監督たちはあまりしなくなっていますけれども、青山真治監督だけは、そうした画面の連鎖にことのほか意識的なのですが……。 しかし、フォードにおいての真の光源がマッチだというところが興味深い。それは、映画が発明されたのが19世紀末だということと深くかかわっています。もちろん、映画の発明には電気が不可欠であり、プロジェクターの光源はまぎれもなく電球なのですが、やはりどこかしら19世紀の主たる光源であるランプと映画との相性のよさがきわだっています。そのことに充分すぎるほど自覚的だった侯孝賢が、ランプを光源とした『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(海上花、1998)を撮っていることを忘れてはなりません。また、ある時期からのゴダールがその作品にランプシェードの投げかける影を強調していることも見落としてはならないでしょう。ゴダールは、本当は、ジョン・フォードの西部劇のように、アルコール・ランプが撮りたくてしょうがなかったはずなのです。しかし、『リオ・グランデの砦』や『わが谷は緑なりき』の場合、ランプが照らし出す女性がモーリン・オハラだというところが、きわめてフォード的なのです。 『リオ・グランデの砦』の川面の白さ ──ジョン・フォードは巨匠だと認識されていたと思いますが、多くの観客はジョン・ウェインかっこいいとかモーリン・オハラが美しいというようなことしか見ていなかったのですよね。 實 ジョン・ウェインが『黄色いリボン』(1949)に続いて老け役をやっているとかね。確かにいささか老人めいた髥を生やしていますが、老け役といってもここでは父親役です。 ──川のほとりをジョン・ウェインが散策するシーンはどのように照明を当てているのでしょうか? 實 あれは特殊な照明ではないと思います。しかし、あれだけ美しく撮るには高度な撮影技術が必要だったと思いますが、たぶん夜中に撮っているのではないでしょう。背後に拡がる雲のボリューム感からして、昼間に撮っているに違いない。あの、川辺の孤独な散策のシーンは、ジョン・ウェインが遠くを見つめているかなり長いクローズアップで終わるのですが、それに先立つ画面の川面の白さが凄い。あれはトリュフォーがいうデイ・バイ・ナイト、つまり昼間に夜を模して撮ったのであり、真夜中に撮ってはいないと思います。 ジョン・フォードにおける主題論的同一性 ──先程のマッチをめぐる類似についてもう少し詳しく教えてください。 實 すでに指摘しておいたことですが、フォードには、マッチをすると必ず女性が現れるという主題論的な統一が見られます。もっともその指摘は、現在執筆中の『ジョン・フォード論』の重要な主題でもあるので、ここであまり詳しく触れることはできませんが、男がマッチをすると決まって女性が姿を見せるという光景は、ランプがなくとも、煙草を吸いかけるというかたちでその後のフォードの作品にも受けつがれて行きます。 たとえば、『静かなる男』(1952)の冒頭近く、アメリカで試合中に相手を殺してしまったボクシング選手が、傷心の思いを抱いてアイルランドに戻ってきます。ジョン・ウェイン演じる元ボクサーがバリー・フィツジェラルドの操縦する馬車に揺られて故郷の村を目ざしているとき、馬車から降りて林の大きな木の幹のかたわらに立ち、煙草を吸おうとマッチに火をつけようとする瞬間があります。そのとき、彼は煙草に火をつけようとしてふと思いとどまるのですが、その瞬間、同軸のキャメラが被写体に近づき、ジョン・ウェインを大写しにする。すると、彼の視線の先には、羊の群れを追っているモーリン・オハラが棒を手に緑の草原を歩いており、ふと視線に気がついて無言でキャメラから遠ざかり、そこにテーマ・ミュージックが流れ始めるという素晴らしい出会いの光景が展開される。そのとき、煙草に火をつけようとして思いとどまるジョン・ウェインは、ランプに火を灯したマッチを捨てようとして思いとどまる『わが谷』のウォルター・ピジョンの立ち居振る舞いを反復していることになるのです。ただし、ここでは、同じ軸上のキャメラが近づくので、ほとんどグリフィス的ともいえるカッティング・オン・アクションが成立することになります。「カッティング・オン・アクション」という術語を知ったのはそれより遥かにのちのことですが、わたくしは、そうと知らぬままに、グリフィス的な瞬間に惹かれていたのです。 マッチをすると必ず女性が現れるという主題論的な同一性についていうなら、『リバティ・バランスを射った男』(1952)でもジョン・ウェインはマッチをするのですが、そこには女性の影があらわれることなく、彼はひたすら荒んでいき、その握ったランプを投げ捨てて自分の家を焼いてしまうという場面にもつながっていく。これは物語の異質の発展ですけれど、それが同じランプで、というところがやはりすごいなあと思いました。 頭の中で瞬時にやってのける分類化 ──みんな同じ画面を見ているはずなのに、ほとんどの人はそこに気づかない。 實 それは、見ている主体がやってのける分類学というか、頭の中で瞬時にやってのける分類化という現象なのです。これはランプだ、いやランプではなく煙草だ、マッチをすることだとか、そういう作業を見ているわたくしがほとんど一瞬でやってのける。そうすることが映画を見ることだとわたくしは思っているのです。 いま申し上げたことは、古典的な映画作家のみにかぎられたことなのか、それともジョン・フォードだけにかぎられたことなのか。古典的な作家であっても、ほかの作家たちはそれとは違ったことをしているはずだというので、ハワード・ホークスにもいま見たような主題論的な統一があるはずだということに気づき、そうした視点から彼の作品を見てみました。いや、そうと意識することなく、初めて見たホークス作品である『赤い河』(1948)でわたくしの瞳を惹いたのは、牧場主として成功したジョン・ウェインが、大量の牛をテキサスまで移動させることになるのですが、その旅に出る日の朝、彼のかけ声に応じるカウボーイたちが喚声を上げるシーンで、主演者であるジョン・ウェインやモンゴメリー・クリフトはいうまでもなく、助演者であるウォルター・ブレナン、ジョン・アイアランド、ノア・ビアリー・ジュニア、ハリー・ケリー・ジュニア、ポール・フィックスといった面々が、それぞれ異なるかけ声をかけるシーンが全員、対等にワン・ショットずつ描き出されていることでした。 そうした画面の連鎖を見ながら、ホークスの律儀なまでの民主的な平等性ともいうべきものにびっくりしました。なにしろ、トレイルに参加する全員が喚声を上げる姿を平等に撮っていたのですから。ところが、のちにホークスの『空軍』(1943)を見たとき、大きな輸送機が合衆国の基地からハワイ目ざして出発する場面で、『赤い河』と同じことをやっている。それぞれの持ち場にいる乗組員の全員が平等に示され、それぞれが喚声を上げている。そのとき、そうか、監督は、「出発」という主題に対してまったく同じ演出をしても良いのだと理解できたのです。 それに対して新しい映画作家たちがどうかというと、彼らは、いま見たような繊細かつ平等な演出はあまりしていない。つまり、あるひとつの細部をひとつの小道具によって徹底的に優れた、この世のものではない別の世界にもっていこうとするような人たちは、いまのところほとんど見つかっていない。でもそれとは違う演出はいっぱいあるんでしょう。コッポラなど、ときになかなか面白い演出をしてますが……。 グリフィスから始まる ──ジョン・フォードのような古典的な演出は、誰からはじまるのですか? 實 古典的な映画の演出はもちろんグリフィスから始まるわけですが、グリフィスもいまのような同じ題材の反復をいくつかしています。 ──グリフィスの影響を受けた監督たちはそのような演出をすることが映画だと思って撮っていたのでしょうか。 實 そうでしょうね。日本でいえば、小津安二郎や成瀬巳喜男、またマキノ雅弘や山中貞雄など、まさにそうしたグリフィス的な編集で登場人物たちを撮るとき、細部に小道具を繊細にあしらったりしているわけです。 ──俳優の肉体もほとんど小道具のように扱われていると思われることもあります。 實 そうです。それでいて小道具として扱われた俳優が生きていないかというと、画面ではひどくなまなましく輝いている。 ──古典的な映画作家たちが最後の映画を撮っていたのが、實さんの中学生時代、高校生時代にあたる。 實 そうです。ジョン・フォードにしても、ハワード・ホークスにしても、ラオール・ウォルシュにしても、アルフレッド・ヒッチコックにしても、わたくしの中学時代、つまり50年代の初期に最後の派手な活躍ぶりを見せていました。あとで調べてみると、彼らも、この時代には、かなりの苦労をしながら撮る機会をたぐりよせていたのですが、それは、彼らのほぼ同時代人であるハリウッドの優れた個性的な映画作家たち、すなわち、キング・ヴィダー、ウィリアム・A・ウェルマン、ジョージ・キューカーなどについてもいえることです。彼らは、いずれも彼らなりの撮り方をしていましたから、彼らの作品をくり返し見ていれば、そこに主題論的な統一性を探りあてることは決して不可能ではないはずです。 フォード、ホークス、ウォルシュ、それにマキノ雅弘で終わる ──でも、實さんはそういった印象的なショットをDVDやデジタル配信ではなく、映画館で見つけていたのですよね。 實 高校時代のわたくしは、一般封切り館で何でも見ていました。そして気に入ったものがあると、二番館までいってくり返し見直していました。そうした中で、おやというショットが見えてきたのです。しかし、そのためには、まったく記憶に残らないような画面の映画を無限に見ておりました。 ──ショットを基本に映画を組み立てていく古典時代はいつまでと考えられていますか。 實 やはりフォード、ホークス、ウォルシュ、それにマキノ雅弘あたりで終わると思う。あまり知られていませんが、アラン・ドワンという多作で知られる大監督がおり、フォードの『荒野の決闘』(1946)は彼の日本未公開作品『フロンティア・マーシャル』(1939)のリメイクなのですが、彼が50年代──1885年生まれですから、まさに晩年にあたります──に量産した西部劇の一つである『対決の一瞬』(1955)など、いかにも古典的な作風で緊張感を高めており、記憶にとどめるべき優れた作品です。 無声映画時代にデビューした古典的な作品の時代はそれでひとまず終わるのですが、それとは違う形で次の作家たちが出てきて、それなりに面白い仕事をしてくれたとは思います。ただし映画を手玉にとるようには撮れていないというのが、それ以後の作家たちだという気がする。唯一映画を手玉にとるように撮ったのは、結局のところゴダール一人だけで、それはゴダールが一番古典主義的な作品を見ており、しかもそれと同じようなことをしようとせず、それとは別の撮り方をやろうとして、結局生きのびたわけです。 ニコラス・レイ『大砂塵』 實 ここで、話題をやや前に戻しますが、スペインで70ミリの超大作を撮る以前のニコラス・レイが、50年代の大型画面によって傾斜する空間把握の重層化をいかに行っていたかを、『大砂塵』(1954)によって改めて見てみることにしましょう。この作品は1・66:1で撮られていますから、シネマスコープ画面よりむしろヴィスタヴィジョンに近い比率でしたが、そこで傾斜する空間が重視されていることは、クライマックスの岩山の斜面における大がかりな対決シーンによって明らかでしょう。そこでは、撃たれたものが、男も女も──アーネスト・ボーグナインにせよ、マーセデス・マッケンブリッジにせよ──決まって斜面をもんどり打って転げ落ちる。すなわち、この西部劇での死は、斜面での物質となった肉体の滑走として具現化されるのです。しかし、その不穏な空間は、不意に視界をおおったのではありません。 すでに冒頭から、ギターを抱えたジョニー(スターリング・ヘイドン)が、岩山の斜面から森のはずれでの駅馬車強盗のシーンを目撃しているのですが、キャメラは現場の地表に降りることなく、それをもっぱら俯瞰される遥かな光景として、ほとんど挿話的に事態を処理しているにすぎません。ただ、この俯瞰が、その後の空間構造を予告しているのは間違いありません。 それから、ジョニーは、吹きすさぶ砂嵐のなかを、岩山にはり付くように建てられたサルーンの前に馬を止める。そこは、やがて鉄道が近くを通ることを予測してヴィエナ(ジョーン・クロフォード)が建てた賭博場なのですが、その構造が奇妙な二階建てで、階上にある彼女のオフィスから折れ曲がった階段によって、さまざまな博奕装置の置かれた一階につながっています。これは、『ニコラス・レイ──ある反逆者の肖像』で著者のエイゼンシッツが証言していることですが、脚本の最終調整の段階で、レイがシナリオライターのフィリップ・ヨーダンに、舞台となる場所の建築学的な特徴を詳しく説明していたというから、ここでも装置が重要な意味を持っていると見てよかろうと思います。 その複雑な階段で結ばれた階上のオフィスから、ヴィエナは何度も賭博場やキッチンを睥睨することになるのですが、そこにいかがわしい歓楽施設を作ることに反対している住民たちが押し寄せてくるときなど、緑色のリボンで首元を飾り、黒い衣裳にガンベルトを締めた彼女が、階段の途中で拳銃を抜き、反対派の急先鋒であるエマ(マーセデス・マッケンブリッジ)一味の自警団の面々と対決するシーンでは、俯瞰撮影による空間の傾斜がひたすら強調されています。しかし、ヴィエナがたえず見おろしているからといって、そこに優位と劣勢といった対立構造が表象されているのではありません。むしろ、自警団を前にしたたったひとりのヴィエナの方が、多数の人物の圧力に必死に耐えているのです。 ここでジョニー・ギターと名乗っている男は、拳銃を持っておらず、やや長めのブーツを履いているだけの風来坊じみた男として提示されています。その後、夕食後にキッチンのテーブルでグラスを傾けている彼のもとに、やや高めの窓から彼女が顔を出すときも、ふたりは同じ高さに位置していない。ヴィエナは、まず、広く胸の開いた紫のドレスに黒いカーディガンを羽織り、二階のオフィスから複雑な階段をおり、キッチンに近づいてきたのです。かつて愛しあったことのある──二人の仲は、かなり複雑なものだったらしい──ジョニーと他愛ない会話をかわしあう。やがてジョニーが立ちあがり、難解かつ複雑な台詞の交換ののち、いきなり二人はキッチンを出て賭博場を駆けぬけてラブシーンを演じることになるのですから、空間の傾斜はなおも続いていることになります。『大砂塵』は、若者を題材とした『理由なき反抗』と異なり、年増ともいうべきジョーン・クロフォードと、もはやとても若者とはいいがたいスターリング・ヘイドンとの複雑な恋愛関係を扱っていますが、これを高校時代に初めて見たとき、この年輩の男女たちは、かつて愛しあったはずなのに、面と向かうとまるで喧嘩でもしているかのように思えて、はらはらしたことを覚えています。ヴィエナの殺人だけは避けたいという気持ちを受けてジョニーがたえず丸腰であることも、台詞から理解できました。 ジョーン・クロフォードの白いドレス ──最盛期を過ぎていたとはいえ、ジョーン・クロフォードは大スターですよね。 實 もちろん、ジョーン・クロフォードが無声映画時代からの大スターだということはそのときすでに知っていました。彼女の中期の代表作ともいうべき『ミルドレッド・ピアース』(マイケル・カーチス監督、1945)はなぜか日本では公開されなかったのですが、ジョン・ガーフィールドと共演した『ユーモレスク』(ジーン・ネグレスコ監督、1946)の彼女は素晴らしいと思いました。 ところが、『大砂塵』では老け方がいっそうきわだち、きついメイクに白のドレスを着ているところなど、ふと見てはいけないものを目にしてしまったかのように、十六歳の東洋の青年は妙に倒錯的な興奮を覚えたものです。しかも、その彼女は、白いドレス姿のまま自警団によって絞首刑に処せられそうになり、首に縄をかけられて実行寸前という瞬間にジョニーに助けられ、二人してサルーン──エマによってすでに火を放たれている──の地下の洞窟に逃げ込み、ドレスの裾に炎が燃えうつりそうな中で、下着姿のまま赤いブラウスに着替えるといった展開には、そんな西部劇など見たこともなかったので、淫靡な見世物に立ちあっているかのように胸を締めつけられたものです。紺のパンツをはこうとするときにはその白い太腿さえ隠そうとしないのですから、彼女の年齢を超えた大胆さにすっかり参り、女優としては──というか女性としても──『理由なき反抗』のナタリー・ウッドなどよりここでのジョーン・クロフォードの方に、遥かに人を惹きつけるものがありました。 その直後に、彼女はロバート・オルドリッチの『枯葉』(1956)で中年女性を好演してから、同じ監督の名高い『何がジェーンに起ったか』(1962)に出ることになりますが、これは1・85:1で撮られていました。オルドリッチもそうでしたが、今日の映画作家のほとんどは、シネマスコープ・サイズの画面をごく当然の如く受け入れています。ただ、ある時期までは、スタンダード・サイズで撮る人とヴィスタ・サイズで撮る人と、シネマスコープ・サイズで撮る人とが同居していました。古典的な作家であるホークスやフォードは、ほんの数本シネスコを撮っているにすぎませんが、最終的にはヴィスタに回帰しています。しかし、フォードの場合は、遺作となった『荒野の女たち』(1965)がなぜかシネマスコープで撮られていましたね。他方、ヒッチコックの場合は、一度もシネスコ・サイズでは撮っていません。ところが、ドン・シーゲルのような50年代作家のほとんどは、スタンダードで出発しており、テレビ向けに撮った『殺人者たち』(1964)など、スタンダードの典型のような堅固な演出ぶりでしたが、彼もあっさりとシネマスコープを受け入れている。 こうしてみると、わたくしは、比較的若い時期に、映画のスクリーン・サイズのさまざまな変更に身をもって立ちあっていたというきわめて特殊な世代に属していることになります。映画が音を持つという変化はわたくしが生まれるより遥か以前のことですし、色彩映画の誕生もほぼわたくしの生まれたころのことでしたが、日本でテクニカラーの作品がごく普通に見られたのは、戦後になってからのことです。しかし、フリッツ・ラングの『西部魂』(1941)は、テクニカラーの作品なのに、日本ではモノクロームで公開されました。また、ヘンリー・キング監督の西部劇『地獄への道』(1939)も、カラーなのに、日本公開はモノクロームでした。未開な被占領国の住民には黒白で充分だというのがその理由だと大人たちは自嘲していましたが、本当の理由はわかりません。たぶん、カラープリントを焼くより費用の面で安かったからでしょう。 実際、ある時期まで、カラー映画が贅沢品だったのは確かなのです。また、大型画面も贅沢品にほかならず、デルマー・デイヴィス監督の『決断の3時10分』(1957)など、大型画面で撮られていたにもかかわらず、スタンダードで公開されました。やがて70ミリやシネラマといったスクリーン・サイズの変遷が、わたくしの高校のころに立て続けに起こり、シネラマに未来がないということはすぐにわかりましたが、その年代のわたくしは、しばらく黒白スタンダード・サイズの徒でいたいと思っていました。そこに『殺し屋ネルソン』(1957)が封切られたのですから、もう嬉しくてたまりませんでした。いわゆるハリウッドの古典的な作家たちとも異なる真に50年代ハリウッドを代表する作家がドン・シーゲルとニコラス・レイだと自分にいい聞かせ、ひとり興奮していたのだと思います。 『天国の門』が悲劇的に締め括ったハリウッドの50年代から70年代にかけてのひりひりする痛み ──「コーエン兄弟やハル・ハートリーに欠けているのは五〇年代ハリウッドに対する感覚です」(「アメリカ映画狂時代」)ともおっしゃっています。 實 50年代のハリウッドは文字通り「映画崩壊前夜」ともいうべき一時期で、驚くべき移動の時代です。自分が働けるところなら、監督たちはどこへでも出かけて行きました。文字通り移民の時代です。それでかろうじて成功したのはイギリスに行ったジョゼフ・ロージー、ヨーロッパで苦労したのがロバート・オルドリッチ、スペインに渡ってなかば殺されてしまったのが、ニコラス・レイとアンソニー・マン。『ブラッド・シンプル』(1984)でデビューしたコーエン兄弟は、マイケル・チミノ監督のほとんど自殺行為というに近い超大作、ほとんどありえないことですが、自国へと亡命するかのようにして撮った『天国の門』(1980)が悲劇的に締め括ったハリウッドの50年代から70年代にかけてのひりひりする痛みのようなものを、奇妙に抽象化してしまった感じがしています。ハリウッドの製作体制の混乱によって、ドン・シーゲルやリチャード・フライシャーまでが思い通りに映画を撮れず、オルドリッチが『カリフォルニア・ドールズ』(1981)を遺作として死なねばならなかった70年代末期の混乱などあたかもなかったかのようなコーエン兄弟の無意識の楽天性が、不自然に思えてならなかったのです。つまり、彼らには「歴史」が欠けていたように思えて仕方がありません。 50年代以降のアメリカ映画の混乱の中で、中編『グラマー西部を荒らす』(1961)で曖昧にデビューし、時代的な暗さをたたえた『雨のなかの女』(1969)を撮ったりしているコッポラはそれなりにがんばっていると思いました。それから、スピルバーグも困難な製作体制の中であれこれ努力をして持ちこたえています。コーエン兄弟にはそうした困難な一時期の記憶が皆無のように思えてなりません。『ファーゴ』(1996)や『ノーカントリー』(2007)などはかろうじて50年代、70年代的な混乱の記憶をとどめていたといえますが、どうもこの兄弟は「歴史」を無化しているような気がしていて、素直に誉める気がしませんでした。 それ以外の、60年代にデビューした作家たちはどこかしら中途半端でしょう。『ザ・ヤクザ』(1974)を撮ったシドニー・ポラックなどという人はその典型で、これという代表作を一本も撮れなかった。それから、『ロング・ライダーズ』(1980)などの西部劇を撮ったウォルター・ヒル。活劇作家として決して悪くはないんだけれど、これといった代表作を撮ることなく、ほとんどキャリアを終えようとしている。『クレイマー、クレイマー』(1979)ばかりがやたらと有名なロバート・ベントン、彼は西部劇『夕陽の群盗』(1972)ではかなり期待したのですが伸び悩んでいる。それはそうと、ロブ・ライナーの『スタンド・バイ・ミー』(1986)ってどこが面白いのですか。わたくし自身は、どこがいいのかまったくわからない。マーティン・スコセッシのあの下品にして拙劣な『タクシードライバー』(1976)を見て映画を志したような監督は、碌な連中ではありません。それから、遠藤周作原作の『沈黙/サイレンス』(2016)という作品も、どこが良いのか、さっぱりわからない。いくら何でも、失敗作以前の醜い作品でしょう。確かに、『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』(1993)など悪くはなかった。しかし、『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)のへたくそ加減にはげんなりさせられました。 トニー・スコットとマイケル・マン ──今、アメリカやフランスでは、スコセッシは大監督と見なされていますが……。 實 スコセッシが偉大な監督だというのは、ゴダールもいっているように──彼の言葉を盲目的に信頼するわけではありませんが──途方もない間違いだと思います。ほかにも過大評価されている作家はたくさんいますが、スコセッシがシネマスコープのひとなのかショットのひとなのかというと、どちらかといえばシネマスコープのひとであるはずなのに、その長い画面を空間的に充分に使いこなせていない。あの凡庸な『ディパーテッド』(2006)でアカデミー監督賞を受賞だなんて、ほとんど笑い話ですね。サイレント映画や古典的ハリウッド映画をよく見ているはずですが、その記憶がその画面を引きしめていない。お前さんは「演出」の映画を撮ろうとしているのか、「撮影」の映画を撮ろうとしているのか、と聞いてみたい気がします。スコセッシとともに過大評価されているのが、ガス・ヴァン・サントとテレンス・マリック。いずれもそれなりに優れた作家ではありますが、彼らに較べれば、コッポラのほうがいいかげんであるかにみえて、よほど真剣に撮っており、好感がもてる。 スピルバーグは、正直なところ、よくわかりません。『マイノリティ・リポート』(2002)や『宇宙戦争』(2005)や『戦火の馬』(2011)などは大好きなのですが、こうした作品で本当にやりたいことが何であるのかがよくわからないのです。コッポラ以降のアメリカ映画は、もちろんトニー・スコットやマイケル・マンのような優れた映画作家たちは何人か出てきていて、わたくしもそれぞれの作品をこよなく好んでいるのですけれど、二人の評価は、合衆国ではごく曖昧なものにとどまっており、残念至極です。 映画で物語をたどることと画面を見ることとは、まったく別の作業だ ──ニコラス・レイの評価も、アメリカではやや曖昧ですね。彼の学生だったジム・ジャームッシュや、みずからその弟子を任じたヴィム・ヴェンダースなどの言動によって、かろうじて再評価されましたが。 實 ニコラス・レイの評価に関しては、ここで改めて『大砂塵』の空間的な特性について語り、結論めいたものを引き寄せようと思っているのですが、まず、監督のニコラス・レイが、この作品をめぐってはいやな思い出しかなく、封切り後にはこれをひどく嫌っていたという証言すらあります。それは、作品の役柄のうえで対立関係にある二人の女優が、現実生活においても個人的にさらに深刻な対立関係にあり、そのためジョーン・クロフォードが無断で現場を離れてしまったりして監督をうんざりさせていたからですが、レイの悪しき想い出にもかかわらず、この作品は素晴らしいできばえにおさまっています。それは、孫のダンに向かってフォードがそれを撮ったことを悔やんでいたという証言にもかかわらず、遺作の『荒野の女たち』が美しい映画に仕上がっているというのと同じことです。その点を、『大砂塵』のクライマックスの舞台となる山小屋と、その周辺の起伏にみちた地形を監督がどうとらえていたかに触れつつ語ってみたいと思います。 滝を潜り抜けることによってしか到達できないこの秘められた場所は、すでに述べたように、射殺された人間は斜面を転げ落ちるしかないという不吉な空間として設定されています。それは、ダンシング・キッド、これを演じているのは、ローレンス・ティアニーの弟であるスコット・ブレディーであり、彼に導かれた一味の隠れ家のようなところなのですが、何とか絞首刑を逃れたヴィエナは、ジョニーとともにそこへ身を隠すことになります。ダンシング・キッドはヴィエナに惚れているのですから、そこにあやうい三角関係が成立することになるのは当然です。ヴィエナは濡れた赤いブラウスを脱ぎ、首を吊られたばかりの若者が着ていた黄色のシャツに着替えます。だが、ここで初めてガン・ベルトを締め、拳銃を下げて現れたジョニーが、じつはローガンという名だたる拳銃使いだと知らされ、ダンシング・キッドは驚きを隠しきれません。他方、隠れ家のありかに気がついた自警団の面々が、葬儀直後のことゆえ誰もが黒い喪服のまま、滝を潜り抜け、山小屋を目ざします。そして、キッドを殺そうとした仲間のひとりを射殺したジョニーのピストルの音に気づいた自警団が間近に迫ってくるので、ジョニーとキッドは斜面に身を隠さざるをえません。 かくして、ヴィエナはひとり山小屋の回廊にとり残されます。そこに真っ黒な喪服姿のエマがたどりつき、かくして二人の対立しあう女性は回廊で向かいあうのですが、このとき、対立しあう者同士が、初めて同じ水準で向かいあうことになります。そこでの対決はヴィエナが右肩を撃たれて崩れ落ちるのですが、それを気づかったキッドがヴィエナと叫んで助けに向かおうとする。それに気づいたエマが回廊の手すり越しに下方に向かって、いかにも残忍そうに照準を定める。その瞬間、キッドは額の真ん中を撃ち抜かれ、まるで「無」に吸い込まれるように、音もなく画面からその後方に姿を消す。この銃撃シーンが素晴らしい。それは、たしか前章で触れておいた『荒野の決闘』における敵弾を受けたヴィクター・マチュアの死に方、つまり通り抜けたばかりの駅馬車が捲きたてた砂塵が黒い帽子からさらさらとこぼれ落ちるというショットに匹敵しうる素晴らしい死に方でした。 もちろん、スコット・ブレディーが演じているダンシング・キッドは主演俳優ではなく、助演者にすぎません。しかし、黒いカウボーイ・ハットをかぶったまま、無言で画面から消えて行く彼の無念の表情こそ、この傾斜した空間の邪悪な危険さを具現化するショットとして、作品そのものの構造をきわだたせ、到底忘れることのできない瞬間をかたちづくっているのです。それは、その直後にヴィエナの銃弾を受けて階段から転落するエマの、いささか説明的な画面の連鎖を超えた、息を飲むしかない緊迫した画面なのです。 その後、即座に階段を駆けあがるジョニーは、傷ついたヴィエナを助け起こし、バックに流れるペギー・リーの歌声を耳にしながら二人して斜面をゆっくりと降り、流れ落ちる滝を背景として接吻し合うラストの光景を滑稽なものと見せないキッドの作品への貢献として、物語の展開を遥かに超えたショットの力を露わにしていたのです。初めて『大砂塵』を見たときにつくづく思ったのは、映画で物語をたどることと画面を見ることとは、まったく別の作業だということでした。誰もが物語をたどることが映画を見ることだと勘違いしているからです。 しかし、いまやそのように映画が見られていた時代は死につつあると言わざるを得ない。いまわれわれは、文字通り「映画崩壊前夜」に生きているのです。しかし、「前夜」と思われていたこの時期に、映画はなおも生きています。それとどのようにつきあって行くのか。それがここでの課題となるでしょう。 ウェス・アンダーソン、デイヴィッド・ロウリー、ケリー・ライカールト ──現在のハリウッド映画の状況をどのように捉えていらっしゃいますか? 實 現在のハリウッドの製作状況について何ごとかを示唆しているように思えるのは、いまのところ、作品の質と量からして、ウェス・アンダーソンの一人勝ちという形勢が持続しているという現実にほかなりません。実際、1・33:1と1・85:1と2・35:1という映画の歴史が持ちえたすべての画面比率を混在させて撮った『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)のつぎに、彼がストップモーション・アニメーションで撮られた『犬ヶ島』(2018)を発表するということなど、いったい誰が予想できたでしょうか。つねに驚きを誘発させてくれる彼は、主義なき形式主義者とでもいえるかと思いますが、この二作を五年の歳月が隔てていながら、いかにもコンスタントに作品を発表しているかのような印象を与えてくれる。そして、彼は映画には歴史というものが存在するという現実に、きわめて意識的なのです。ことによると、「映画崩壊前夜」という意識さえあるのかもしれません。 もちろん、久かたぶりに主演監督として撮られた『運び屋』(2018)につづいて、すでに次回作が期待されているイーストウッドがいますし、クエンティン・タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)も、あれこれ問題はあるにしても、それなりに面白かった。また、ジェームズ・グレイの新作『アド・アストラ』(2019)は期待以上の出来映えで、『エヴァの告白』(2013)で陥った自己言及性の渦のようなものから完全に復帰しているのがわかりました。しかし、奇妙なことに、イーストウッドの作品には、彼にしか撮れないこれだという決定的なショットというものがまったく存在していない。にもかかわらず映画が成立してしまうところに、彼の謎めいたところがあるような気がしています。ことによると、彼は、ショットが撮れないにもかかわらず大成した例外的な作家なのかもしれません。また、間違いなく多くの作品を見ているはずのクエンティン・タランティーノにとって、映画とは徹底した趣味の問題にほかならず、そこに確固たる歴史があるという意識は見あたらない。実際、彼はあまり本気で見たこともないジョン・フォードにあらぬ難癖をつけ、かえってみずからの非=歴史性を露呈させてしまいました。 『アンストッパブル』(2010)を遺作としてトニー・スコットがみずから死を選び、『ブラックハット』(2015)いらいマイケル・マンが新作を撮る機会に恵まれていないという陰鬱な最近のアメリカの映画的な光景では、非=ハリウッド系のジム・ジャームッシュの『パターソン』(2016)が群を抜いて面白かった。ジャームッシュは、アダム・ドライヴァーが演じる人物の日常を撮る場合に、同じ道を歩いているときにしても、部屋の中にいるときにしても、それぞれまったく違う視点からのショットで撮ろうとしている。これは素晴らしいと思いました。だから同じショットなどは繰り返されていない。自分の家を出て仕事場に行くまでという撮り方は同じだけれど、起こっていることはそのつどまるで違う。家を出て中庭のようなところを進んで行くところも、一見、ショットは同じだけれど、それぞれ起こっていることは違う。その違いによって、ジャームッシュがあきらかに古典的な映画を見て育ったひとだとわかるのです。 また、合衆国に二人のショットの撮れる新人監督が登場したことも、嬉しい驚きでした。『セインツ─約束の果て─』(2013)のデイヴィッド・ロウリーと『ライフ・ゴーズ・オン/彼女たちの選択』(2016)のケリー・ライカールトの二人です。ロウリーは次作の『ピートと秘密の友達』(2016)や『ア・ゴースト・ストーリー』(2017)、そして『さらば愛しきアウトロー』(2018)も素晴らしかった。また、『ライフ・ゴーズ・オン/彼女たちの選択』を撮ったライカールトの前作『ウェンディ&ルーシー』(2008)も大好きな作品ですし、『ナイト・スリーパーズ/ダム爆破計画』(2013)もまったく悪くなかった。彼らや彼女らが、ショットの撮れる映画作家として21世紀のハリウッドに登場したことの意味はきわめて大きい。 彼らや彼女らが撮ってみせるそのショットの魅力については、改めて論じるつもりです。また、日本にも、ショットの撮れる監督たちがつぎつぎに登場しています。『寝ても覚めても』(2018)の濱口竜介、『きみの鳥はうたえる』(2018)の三宅唱、やや前になりますが、菊地健雄の『ディアーディアー』(2015)などがみごとな作品で、ドキュメンタリーでいえば『息の跡』(2016)の小森はるか、『鉱 ARAGANE』(2015)の小田香などなどといったところでしょう。 上映時間2時間20分の腑抜けたような超大作ばかりが日常化しているかにみえるハリウッドや日本に、こうして着実にショットの撮れる監督が出現したという事実はきわめて重要です。もちろん、この場合、ショットが撮れるとは、審美的に凝った画面を撮るということではまったくなく、それぞれの場合に応じて、それしかないという決定的な構図のショットが撮れるということなのです。 では、その決定的な構図のショットとは何か? それはどのように見ている者を驚かせるのか。また、それを理論的に語るとどういうことになるのか、さらには、実践が理論をどう超えて行くのか、これからそうした問題を見てみることができればと思っています。 Ⅲ 映画崩壊前夜とショットの誕生 映画崩壊前夜 ──21世紀に入ってから刊行された實さんの最初の時評集の題名は『映画崩壊前夜』(青土社、2008)でした。また、それ以前にも、『映画はいかにして死ぬか』(フィルムアート社、1985、新装版2018)という映画史論があります。實さんの批評活動と映画の「死」とは、深い関係があるのでしょうか? 實 はい、おっしゃる通りです。しかし、そこでのわたくしは、「映画は死んだ」とも、「映画は崩壊した」とも断言していません。それが象徴的な意味あいであれ、あるいは具象的な意味あいであれ、何かが終わった、あれは死滅したと宣言する言説ほど、いたずらに事態を混乱させる悪しき断定はないと思っているからです。映画はまぎれもなく、いまも存続しています。ただ、映画は、その生誕の瞬間から、たえずそれ自身の死と隣りあわせに発展してきたものだといいたかっただけなのです。ある意味で、映画の歴史とは、わたくしたちがいかに「映画崩壊前夜」を──真摯に、あるいは自堕落に──生き続けてきたかをたどりなおすための、必死の作業だとさえいえると思います。 実際、その起源に位置しているといってよいリュミエール兄弟は、彼ら自身の発明品である「映画=シネマトグラフ」cinématographeに輝かしい未来など見てはいませんでした。その予言はある意味で当たっており、それから一世紀以上が経過したいま、不特定多数の観客を前にした劇場での上映というリュミエール的な映画の興行形態は、なかば終わりかけています。それに代わって、各自がみずからの端末の小さな画面でDVDなどを鑑賞したり、配信サーヴィスを享受しあうという消費形態が主流となりつつあるからです。いまでは、エジソンの発明した装置である「キネトスコープ」kinetoscopeに起源を持つ個人的な鑑賞形態が大勢を占めつつあり、山田宏一氏がいうところの「エジソン的回帰」(『エジソン的回帰』青土社、1997)ともいうべき現象が、縮小されたかたちで世界的に起きているのは間違いありません。それを加速させたのが、フィルムというアナログ的な素材からDVDなどのデジタル的な素材へというテクノロジーの進化によるものであるのはいうまでもありません。撮影形態のみならず、上映形態においても、映画はかつてなく変化しつつあるのです。劇場の大きなスクリーンで作品と遭遇するという体験は、いまでは、世界的に、都会に住むものたちだけに許された途方もない贅沢となりつつあります。産業としての映画は、かなりの時間と手間をかけて製作された一本の作品を劇場で公開するという形式だけでは、明らかに投下した資本を回収できなくなっております。実際、いまでは、何らかの意味での個人的な消費形態が映画産業を支えているのであり、ことによると、これもまた「映画崩壊前夜」の一形態といえるのかもしれません。アルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA/ローマ』(2018)のように、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得した後、合衆国の大都市で限定公開された後に、ネット上に配信されるようなケースもふえてきています。また、スコセッシの『アイリッシュマン』(2019)もそうしたかたちで公開されています。ただ、しかるべき統計によると、見始めた人と見終えた人とのギャップが大きすぎるとのこと。それはそうでしょう、209分もの上映時間を小さな画面で見るのは至難の業です。スコセッシの映画は、いつでも長すぎて、生きたショットが存在しません。彼がぴたりと90分で語り終えた作品は、ロジャー・コーマンのところで撮った『明日に処刑を…』(1972)ぐらいで、ごく単純な物語の『タクシードライバー』(1976)でさえ、114分もかかっています。しかし、上映時間とショットの問題は、改めて論じることにしましょう。 グリフィス、シュトロハイム、キートン ──實さんは、DVDやデジタル配信で映画をご覧になることはないのですか? 實 わたくし自身も、必要な場合にはDVDなどで個人的な見方をすることもあります──現在執筆中の『ジョン・フォード論』などのためには、こうした見方をするほかはありません──が、近作のほとんどは、ゆえのないノスタルジーからでしょうか、まずは映画館や試写会などの大きなスクリーンで見ることにしています。大きなスクリーンで映画に接するという体験は、そのときにしか実践しえない大画面との遭遇体験にほかならず、ことのほか貴重なものではありますが、しかし時間的な制約もあり、物理的にいっても決して便利な方法ではありませんから、わたくし自身としても、小さな機具で電子的に新作に接することもないではないと告白せねばなりません。それを可能にするこの電子論的な趨勢が、作品の体裁にどのような変化をもたらしたかについてはいずれ改めて触れるとしましょう。いまはさしあたり、必ずしも電子的なものとはかぎらない映画技術の歴史的な進歩と発展とが、いかにして優れた映画作家を業界から遠ざけてきたかという点を見ておくべきだと思います。それが、「ショットとは何か」という問題を考えるときにも、無視しがたい意味を持ってくるからです。 ──それは、どのような意味でしょうか? 實 まず、「映画崩壊前夜」という概念と「ショットとは何か」という問題は、たえず重なりあっています。たとえば、1920年代の末期に起こったサイレントからトーキーへの移行は、少なくとも三人の偉大な「ショットの撮れる」映画作家たちに、無慈悲な死刑宣告を下しています。映画が音を持つことで作品を撮れなくなったのは、いうまでもなく、グリフィスであり、シュトロハイムであり、バスター・キートンであります。この三つの名前は、サイレント期には、誰の目にもきわめて重要な映画作家と見なされていたのですが、彼らはトーキーと波長を合わせることができず、30年代に入ると、映画界からごく曖昧に姿を消すしかありませんでした。 その意味を明らかにするためには、前章の終わりに宣言しておいた「理論」の問題の検討をやや先送りして、それ以前に、「歴史」の問題に触れておくべきだと思います。といっても、ここでいわゆる映画史を復習するつもりはまったくありません。映画の歴史的な変遷の過程で、いかなる瞬間に、「歴史」としての映画が露呈されているのかを確かめておくべきだと思っているのです。ですから、ここで「理論」について語る以前に、たしかな「歴史」的なできごととしてトーキー導入時に起こったあからさまな「映画崩壊前夜」の状況を見てみることにしましょう。 たとえば、バスター・キートンの場合、フランスで撮られたマックス・ノセック監督『キートンの爆弾成金』(1934)などのほか、その後もさまざまな作品に出演し続けていました。しかし、彼は『キートンのセブン・チャンス』(1925)や『キートン将軍』(共同監督クライド・ブラックマン、1926)、『キートンの蒸気船』(共同監督チャールズ・ライスナー、1928)のような傑作をトーキーで撮ることはついにありませんでした。キートンのしかるべき作品は、サイレント期を代表するのみならず、身体そのものの視覚的な存在とその思いがけぬ運動形態とがスクリーン上での奇蹟的な遭遇を演じているという点で、映画史的にきわめて重要な作品なのです。ところが、トーキーはその貴重な運動性と身体の思いもかけぬ出会いを、キートンのなかば強いられた引退によって永遠に失うことになってしまいました。これが、「映画崩壊前夜」という視点から検討すべき、最初の象徴的なできごとにほかなりません。トーキーになった直後の作品としては、サミュエル・ゴールドウィンが製作したエディー・カンター主演の『突貫勘太』(エドワード・サザーランド監督、1931)や『カンターの闘牛士』(レオ・マッケリー監督、1932)などのバスビー・バークレーの振付け、グレッグ・トーランドの撮影によるその独特なミュージカル・シーンなどに、エディー・カンター自身の身体とその運動性の問題がかろうじて受けつがれているかに見えます。とはいえ、それぞれきわめて興味深い作品だとはいえ、主演俳優の身体の運動性が作品の全域にまで及んではいないという意味で、エディー・カンターの作品は、キートン的な傑作にはとうていおよばないできばえにおさまっているとしかいえません。 シュトロハイムの場合、すでにサイレント期から、その壮大な製作規模と独特な画面設計とたえず長びく撮影期間ゆえに、プロデューサーとの派手な軋轢をたえず体験せねばならず、映画作家として自分の思い通りの作品を仕上げることなどそもそも困難でした。しかし、撮影所の介入による短縮版しか公開されていなくとも、『愚なる妻』(1922)や『メリー・ウィドー』(1925)、あるいは『クイーン・ケリー』(1929)に相当する濃厚かつ淫靡なメロドラマなど、トーキー以降のハリウッドで作られたためしはまったくありません。だから、それらの作品は、人類にとっての貴重きわまりない資産だったというほかはありません。 にもかかわらず、彼の唯一のトーキー作品『ブロードウェイを散歩する』(1932)は失敗作と断じられ、題名も異なるほかの監督の作品として公開されるしかなかった。それ以降、彼はヨーロッパや合衆国で役者として生きのびることしかできませんでした。その意味で、彼の壮大な意図を実現しうるプロデューサーがこの時期のハリウッドに不在だったことを改めて嘆くしかありません。もっとも、そんな大胆な人物が現在の映画界に存在しうるとはとうてい思えませんが……。 グリフィスの忘却 ──グリフィスは、まがりなりにもトーキーを撮っているのではありませんか? 實 たしかに、彼はトーキーを撮っています。しかし、シュトロハイムの師匠ともいうべきデイヴィッド・ワーク・グリフィスもトーキーと折り合いをつけることができず、わたくし自身は高く評価している『世界の英雄』(1930)と『苦闘』(1931)という二本をトーキーとして撮ったのち、なかば引退をしいられるかたちで映画から遠ざかるしかありませんでした。 グリフィスの場合、『國民の創生』(1915)が、いまでは悪名高いKKKを登場させているという題材故に、こんにちの社会的な申し合わせとしてのPCに触れる問題があり、正当な評価をしがたくもあります。にもかかわらず、ショットのみごとさという点でも、役者たちの演技指導という点でも、それはきわめて重要な作品だといわねばなりません。『イントレランス』(1916)、『散り行く花』(1919)、『東への道』(1920)、等々、における映画独特の演出手法の確立を無視して映画史を語ることなど、とうていできるはずがありません。 たんに演出のみならず、演劇とは異なる映画ならではの演技をする男優や女優たち──リリアン・ギッシュ、ドロシー・ギッシュ、メアリー・ピックフォード、メエ・マーシュ、ドナルド・クリスプ、リチャード・バーセルメス、ヘンリー・ウォルソール、等々──を多く育てたという意味でも、グリフィスはとても無視することなどできない初期の映画を支えたきわめて貴重な存在です。中でも、リリアン・ギッシュにいたっては、ハリウッドが退潮期にかかった70年代、80年代にも、ロバート・アルトマンの『ウエディング』(1978)やリンゼー・アンダーソンの『八月の鯨』(1987)などで驚くべき存在感を示していました。にもかかわらず、1930年代のハリウッドでは、あたかもグリフィスという映画作家など存在していなかったというかのようにすべてが推移していたのですから、これまた「映画崩壊前夜」というほかはない嘆かわしい事態だといわねばなりません。 映画が音を持ったということで、役者たちの台詞を重視したハリウッドは、ブロードウェイから舞台演出家のルーベン・マムーリアンを招きます。しかし、トーキーにふさわしい監督と見なされた彼の撮った『喝采』(1929)や『市街』(1931)など、決して悪い映画ではありませんが、キートンやシュトロハイムやグリフィスを失った穴を到底埋めきれるものではありませんでした。チャップリンもまた、彼ら三人と同じ運命をたどりそうな不吉な予感がありましたが、幸いなことに、『街の灯』(1931)には音楽を加え、『モダン・タイムス』(1936)では歌まで歌ってみせ、何とかトーキーと折り合いをつけることができたのです。 ──ほかの国々での事情はどうだったのでしょうか。 實 サイレント期の巨匠でありながら、トーキーと折り合いをつけがたかった監督は、それぞれの国に存在していました。日本の場合は『忠次旅日記』三部作(1927)などで名高い伊藤大輔や、フランスでなら『鉄路の白薔薇』(1923)や『ナポレオン』(1927)などを撮ったアベル・ガンスなどがそれにあたります。しかし、彼らも数年後には、難儀しながらもトーキーに移行することができました。また、ドイツには、ヒットラーの擡頭という社会的な事情で撮り続けることが困難になった監督たちが何人もおりました。『メトロポリス』(1927)、『スピオーネ』(1928)や『M』(1931)のフリッツ・ラングなどがそれにあたりますが、ラングは、フランス経由でアメリカに亡命し、『激怒』(1936)や『暗黒街の弾痕』(1937)などでみごとなハリウッド映画を撮ってみせました。 ハリウッドでの彼の仕事ぶりは、ながらくドイツ時代に対して劣っているといった評価がなされていましたが、とんでもない。ごく聡明なやり方でトーキーを自分のものとした彼のハリウッド時代の作品は、いまではご承知のように傑作揃いなのです。40年代から50年代にかけて彼が撮ったスリラー『飾窓の女』(1944)、西部劇『無頼の谷』(1952)、時代劇『ムーンフリート』(1955)、犯罪映画『条理ある疑いの彼方に』(1956)、等々、いずれも優れた作品で、それらすべての上に対独映画の傑作ともいうべき『死刑執行人もまた死す』(1943)が君臨しているのです。彼にそのアイディアを提供した合衆国に亡命中だったブレヒトは、そのできばえに深刻な不満を漏らしていますが、これに勝る対独映画など存在していません。 デンマークのドライヤーもまた、トーキー以降は寡作だったとはいえ、傑作『裁かるるジャンヌ』(1928)から五年もしないうちに『吸血鬼』(1932)をトーキーで撮っています。ソ連の場合、『帽子箱を持った少女』(1927)のボリス・バルネットは比較的たやすくトーキーと波長を合わせることができましたが、『戦艦ポチョムキン』(1925)や『十月』(1928)のエイゼンシュテインの場合、『全線』(1929)を撮って以降なかなかトーキーを撮る機会に恵まれず、合衆国に行ってさまざまな構想を実現しようとしながら、企画としてはどれも結実しえず、帰国後のソ連でもスターリンによる粛清が進行しており、思い通りに企画を実現しえませんでした。しかし、『ベージン草原』の中断ののち『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)を完成させているのですから、かろうじてトーキーと波長を合わせえたのだということができます。 こうしてみると、サイレント期にまぎれもない傑作を撮っていながら、トーキーの到来によって映画から決定的に遠ざけられてしまったのは、結局のところ、合衆国のグリフィスとシュトロハイムとキートンの三人だけということになるのでしょう。あるいは、サイレント時代の監督たちがほとんどトーキーを撮ることのなかったイタリア映画の場合をわずかな例外として、といえるかもしれません。グリフィスの場合、『苦闘』の興行的な失敗以降、飲酒の度が増し、留置所に収監されたりする場合もあったようです。このあたりの事情は、グリフィスの伝記『グリフィス アメリカの生涯』(1996)にもとづいて話しているのですが、ここで不意にルネ・クレールを招喚し、その著作『映画をわれらに』(原著、1970、山口昌子訳、フィルムアート社、1980)を引用することにします。 『幽霊西へ行く』(1935)の撮影でロンドン滞在中だったルネ・クレールは、ある晩、首都の中華街で仲間たちと遅い夕食をとることになります。霧に霞んだテームズ河の風景がグリフィスの『散り行く花』を思わせる照明で浮きあがってくるさまに深い感傷にふけっていると、その場末のレストランでは、どう見てもグリフィスとしか思えない紳士がたった一人でウイスキーを飲んでいる。まさかと思いつつもおそるおそる近づいて声をかけると、それはまぎれもなくグリフィスその人だったというのです。映画の仕事でここに滞在していると彼は説明しているのですが、彼の伝記はそれが事実であることを証明しています。結局は実現することなく終わったある英国映画の企画のために、彼がロンドンに招聘されたのは確かなことなのです。招かれてクレールらのテーブルに移動したグリフィスは、美しい声でシェイクスピアの文章を暗誦してみせてから、どこへともなく闇の中へと消えて行ったというのですが、この姿の消し方ほど、「映画崩壊前夜」にふさわしいものもまたとありません。グリフィスは1935年度のオスカーの特別賞を受賞し、久方ぶりにハリウッドを訪れます。ヘンリー・ウォルソールやドナルド・クリスプなど、かつての主演俳優たちにかこまれて嬉しそうにしていた彼は、『青春の抗議』(アルフレッド・E・グリーン監督、1935)で主演女優賞を受賞したベティー・デイヴィスにオスカーを手渡す役を務めます。これが華やかな舞台に立った彼の最後の光景となってしまいました。この時期、妻との離婚の裁判もあったりして疲弊していた彼にとって、『散り行く花』のトーキー版リメイクの企画も曖昧についえさり、30年代の終わりには、プロデューサーのハル・ローチと組んで作品を撮る計画もあったようですが、ローチの撮影所の守衛がグリフィスの名前を知らなかったというのですから、彼の名声はすでに過去のものとなり始めていました。 これは第二次世界大戦直後のことですが、リチャード・フライシャー監督はRKOのBユニットで、彼の第二作『バンジョー』(1947)を撮りあげ、UCLA界隈のある劇場での覆面試写会に立ちあうことになります。その直前に妻とともにあるレストランで夕食をとろうとしたのですが、予約しておいたテーブルがまだ空いておらず、仕方なくバーで時間をつぶしながら興奮気味に撮ったばかりの作品の話をしている。すると、かたわらの白髪の紳士から不意に声をかけられます。貴方がたはどうやら映画関係者らしいが、わたくしもかつてはその業界に身をおいていたといい、若い人々が情熱をこめて映画について語っているのはとても気持ちの良いことだという理由で、不意に飲み物をおごってくれたのだという。感激したフライシャーが思わず名前を聞くと、「D・W・グリフィス」という答えが返ってくる。 グリフィス! 仰天して思わずその紳士の顔をじっくりと見直すと、それはまぎれもなく年老いたグリフィスその人だったというのです。その紳士は、自分はよく通る声で知られていたとつけ加える。サイレントの大巨匠がよく通る声の持ち主として知られるとは、いったいどういうことなのでしょうか。ロンドンの場末でルネ・クレールに聞かせたシェイクスピアの暗誦とそれは関係あるのでしょうか。しかし、新人監督フライシャーにとって、それはまたとない幸運でした。試写会も間違いなく成功するだろうとフライシャー夫妻は胸を躍らせて会場に行くのですが、子役出身の主演女優シャーリン・モフェットの名前をクレジットに読んだだけで観客たちは否定的な反応を示し、スニーク・プレビューは惨憺たる結果に終わります。グリフィスの名前も、彼に幸運をもたらすことはなかったのです。 そうした挿話は、「Ⅰ『殺し屋ネルソン』に導かれて」でも触れたフライシャーの自伝『泣くときは言って下さいな』(1993)に書かれていることです。この事実が象徴しているというわけではありませんが、こうしてフライシャーの第二作『バンジョー』を祝福しそびれたグリフィスは、映画界から決定的に遠ざかって行く。こうしてみると、結局のところアメリカ映画だけが、グリフィスをはじめ、シュトロハイム、バスター・キートンといったサイレントの巨匠たちに、一貫して冷酷だったのは間違いありません。 一本道への感性 ──それは、なぜでしょうか? 實 詳しいことはわかりませんが、一つには、大恐慌以後、ハリウッドにおけるメジャー系の会社の再編が行われていたのですが、当時の合衆国では、他の国に較べて、大銀行のような映画の外部からの強い影響力が製作会社に働き始めたのだと思います。ケネディー大統領の父親ジョセフ・P・ケネディー・シニアの場合は銀行家というよりはいささか相場師めいた投資家ですが、一時期彼としかるべき関係にあったグロリア・スワンソンをたらしこんでシュトロハイムの『クイーン・ケリー』の製作に投資したものの作品そのものが頓挫し、有名プロデューサーとしての地位を築くことはできませんでした。彼は、その前年にみずから株を持つ二つの会社を融合させてRKOを発足させ、その株を売って大儲けしたりしていたほどですから、金融界と映画との関係は、この時期により緊密なものとなって行きました。無声映画時代から存在していたFOX社は、やがてダリル・F・ザナックが設立した20世紀映画社と融合して20世紀FOX社へと移行するのですが、ザナック自身がワーナー社で永年シナリオライターをしていただけに、製作者ザナックの監督への影響力は年ごとに高まって行きました。それと関係するように、プロデューサーの地位が異様に高くなったのだと思います。 たとえば、1932年の夏から秋にかけて撮られたシュトロハイムの『ブロードウェイを散歩する』は、20世紀FOXとなる以前のFOX社と契約したことで企画として成立したものです。その当時、創業者のウイリアム・フォックスはほぼ経営権を失っており、シュトロハイムの評伝『フォン』(2001)によると、彼はウィンフィールド・シーハンと契約を成立させたことになっています。壮大な企画で名高い監督にしてはむしろ小規模な、ニューヨークで下宿を共有し合っている二人の女性の物語という作品を撮るというのがその内容でした。そこには、シュトロハイムのある種の決意が感じられるのでしょうが、まだヘイズ・コードは成立していませんから、思いきり大胆な題材の処理も不可能ではなかったはずです。しかし、これはごく普通のマイナーなアメリカン・ストーリーとなるはずのものでした。ところが、シーハンはプロダクションの現場から遠ざけられ、もともとFOX社のプロデューサーで、ジョン・フォードの発見者だとはいえ、稼ぎの良いB級映画的な作品ばかりを量産していたソル・ワーツェルが一時的に現場に復帰する。 そのワーツェルはできあがった『ブロードウェイを散歩する』がまったく気に入らず、観客の反応を見るためのスニーク・プレビューでの評判もきわめて悪かったので、それをきっかけに脚本の書き直しを命じ、ラオール・ウォルシュほか数人の監督に撮り直しを指示する。なにしろ、『チャーリー・チャン』シリーズの成功でのし上がってきたB級的な製作者だけに、そうした反応もごく当然といえるのかもしれません。かくして、ポスターなどの宣伝資料まで作られていた『ブロードウェイを散歩する』というシュトロハイムの監督作品は存在しなくなり、アラン・クロスランド監督ほかの『ハロー・シスター』(1933)として公開され、シュトロハイムはその共同監督のひとりでしかなくなってしまったのです。こうして、シュトロハイムの監督としてのキャリアは終わりを告げることになります。ルネ・クレールがグリフィスについて述べているように、「世界的な栄光が数週間で作られるが、しかし没落してもなお生きのびた者は、死者同様に完全に忘れ去られるあの幻想の都ハリウッド」にふさわしい挿話だといえるかも知れません。 そうした忘れられた過去の巨匠たちのひとりだというのではありませんが、『都会の女』(1930)を発声版として撮りあげ、フラハティと協力して南海を舞台とした『タブウ』(1931)を完成させたばかりのムルナウがその公開直前に事故死したことも、トーキー初期のハリウッドにとっては深刻な痛手だったはずです。ところが、今日のアメリカの映画史は、あたかもムルナウの死などありはしなかったかのように語られてゆく。そこにも、やはり、「映画崩壊前夜」という気配が濃厚に漂っているように思えてなりません。だって、『サンライズ』(1927)の、あの木立の中からいきなり路面電車が姿を見せる瞬間の驚きと興奮を、トーキーは永遠に見失ってしまったのですから。あるいは、また、『キートンの蒸気船』で、突然の風雨でいきなり倒れてくる大きな家の壁の開け放たれた扉の隙間を、脅えた顔ひとつ見せずにくぐり抜けて平然としていたバスター・キートンのあまりにも無垢の身体性を、トーキーの映画はついに再現することができなかったのですから。実際、どれほどCGの技術を駆使しても、あのキートン的な感動に対抗しうる瞬間を、21世紀の映画はいまだ創出しえておりません。 さらには、アメリカでは未公開に終わった『クイーン・ケリー』の冒頭近く、行進する騎兵隊と朝の散歩にでかけた修道院に寄宿する女子生徒たちの一行とが遭遇する野原にのびている一本道のショットの素晴らしさはどうでしょうか。そこには、皇太子であり騎兵隊長でもあるウォルター・バイロンと、行列にまじっていた孤児のグロリア・スワンソンとの思いがけない出会いの光景が描かれているのですが、すがすがしい田園風景の中にわずかに迂回しているこの一本道がすでにして決定的なのです。すれ違いざまにスワンソンがふと落としてしまった下着を皇太子に投げつけるという思い切った振る舞いがゆるやかに二人を結びつけて行くのですが、適度の長さのショットの綿密な交錯によってみごとに描き出されている。この一見したところのどかでありながら、演出の上ではきわめて大胆な出会いの見事さも、トーキー以降のアメリカ映画が見失ったものです。 見失われたのは、そんな途方もない光景ばかりとはかぎりません。ごく当たり前のことまでが失われてしまったのです。たとえば、グリフィスの『東への道』の中ごろ、生まれたばかりの子供を病気で失ったリリアン・ギッシュが、仕事を求めてある村に徒歩でさしかかります。白いスーツケースをかかえ──下げてではなく──、大きな帽子をかぶって細い一本道をたどって行くその姿がロングショットで示されます。大きな木が中央に茂っている斜めに伸びる道路を進む彼女のちっぽけな姿が浮きあがり、思わずはっとさせられます。と、その直後に、こんどは背後からとらえられたリリアン・ギッシュが、こんもりとした木々にかこまれた遠方まで伸びる一本道を奥へと進む姿が、近景で示されます。そのそれぞれのショットとそのつなぎのリズムが何とも素晴らしい。まさしく遠方へと伸びる道路はこのように撮れという典型のような画面の連鎖が、快い編集のリズムを画面に導入しているからです。 そうしたごく当たり前で簡素な道路の撮り方はグリフィスならではのものであり、おそらく、『幸運の星』(1929)──これはパート・トーキーではあるが──などのサイレント時代のフランク・ボーゼーギには可能であったそのリズムの快適さが、トーキーではほとんど失われてしまったのです。これは文字通り「映画崩壊前夜」ともいうべき重要な事態にほかなりません。トーキー以後、それにふさわしい一本道を撮りえたのは、成瀬巳喜男ぐらいしか見あたりません。ハリウッドではトーキー初期に見失われたグリフィス的なものは、まぎれもなく日本映画の一部に受けつがれているのです。あるいは、たんなる一本道への映画ならではの感性は、一種の突然変異として、『セインツ─約束の果て─』(2013)に受けつがれているといえるのかも知れません。まだ若手といってよいデイヴィッド・ロウリーは、そうと知らずにグリフィス的な何かを受けついでいるような気がしてなりません。 ショットの発明者は誰か ──ショットという概念を映画の演出に導入したのがグリフィスだと考えていいのでしょうか? 實 それはいかにも微妙な問題です。確かに、グリフィスがショットを演出の基本概念として極度に洗練化したのは間違いありません。しかし、それ以前に、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」にもショットはまぎれもなく存在していたからです。それらはいずれも一分未満のワン・ショットで撮られているのですが、その優れたものは、ワン・ショットでありながら、『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895)にせよ、『工場の出口』(1895)にせよ、すでに運動──動きを止めること、あるいはある場所から人びとが遠ざかること、等々──によって、短いながらすでにひとつの物語、すなわち異なる事態の発生を語っているからです。エジソンの「キネトスコープ」も、何らかの意味で運動がとらえられており、ほぼ同じことがいえます。ただ、リュミエール兄弟の場合は、そこには主題論的な統一というものが見られる点が、重要だと思います。 例えば『列車の到着』の場合、その後、世界各地に派遣されたリュミエールのキャメラマンたちが、それぞれの国で、それぞれ異なる列車の到着を撮っている。ですから、映画は、その発生期から、すでに「リメイク」というものが存在していたことになるのです。また、これはリュミエールの確かな意志によるものかどうかは確かめようもありませんが、「シネマトグラフ」を創造する以前のリュミエール兄弟が、バケツで何ものかに水をかけるという仕草にひどく興味を示していたことと関係があるのかもしれません。兄弟は、その放りだされる水の運動の軌跡を、何枚もの写真に撮っているからです。「水を撒かれた水を撒く人」(L’Arroseur Arrosé)という題名で知られていた複数の『庭師』(1895)などに、その実験の成果は受けつがれています。また、『海水浴』(1895)などにおける水着の男女のさまざまな泳ぎ方や、陸にあがった水着の男女にバケツで水を掛けるシーンなどがきわめて官能的な『海水浴の後のシャワー』(1897)など、それに『セント・ジェームズ公園に浮かぶ船』(1897)や『海の小舟』(1896)や『レガッタの団体競漕』(1900)や『大運河のトラムウェイ』(1896)などの船の運動感、さらには『ソーヌ河を泳いで横断する竜騎兵』(1896)や『馬の水浴び』(1896)、『ディアナの水浴』(1896)等々、「シネマトグラフ」と「水」との相性のよさがきわだちます。疾走する小舟の運動感、さらには濡れた馬の皮膚感、そしてあたりにたちこめる飛沫といったものが、画面を小気味よく活気づけているからです。 映画と水 ──「水」という素材はあたりに遍在していながら、映画にとっては特権的な何かがそこにあるということでしょうか。 實 おそらく、グリフィスは、そうと意識することなく、映画と「水」の相性のよさをリュミエール兄弟から受けついでいるような気がしています。それは、彼が初めて撮った本格的な短編ともいうべき『ドリーの冒険』(1908)を見てみれば明らかでしょう。これは、わたくし自身の論文「単純であることの穏やかな魅力──D・W・グリフィス論」(「リュミエール」No.6、1986)でも触れたことですが、何の変哲もないのんびりとした川辺の光景に、やがて深い意味がこめられていたことがわかるというショットの「反復」のうちに、映画におけるフィクションが生まれ落ちる瞬間を見ることができるのです。 物語は単純きわまりないものです。ふたつの家族が描かれ、一方には、幌馬車に生活物資のほとんどを積みこんだ放浪者の夫妻、他方は、どちらかといえば裕福な夫婦で、こちらの邸宅の庭先には川が流れている。釣り人たちの姿が見えるそののどかな川岸に、美しい母親とその娘が並んで腰を下ろす場面がごくさりげなく示されています。ところが、その後、その娘は幌馬車の男に誘拐され、樽に詰められてしまう。それが金銭目的の誘拐なのか、働き手を増やそうとしての拐かしなのかは明らかではありませんが、誘拐された少女は樽に詰められたまま、幌馬車に乗せられてその場を離れることになる。つまり、誘拐現場を遠ざかろうとする。こうして幌馬車は、少女を詰めた樽を載せたまま川を渡るのですが、そのとき馬車が揺れて、樽が川に落ちてしまいます。幌馬車の男は、そのことを知らぬまま、遠ざかる。 その瞬間、その樽が家族によって発見されるか否かという疑問が、サスペンスを醸すことになります。そして、その樽は、可憐な少女が母親と並んで座っていた川岸へとゆっくりと流れて行く。そのショットを目にするものたちは、それとほぼ同じ光景のショットをすでに目にしていただけに、彼女が家族によって救われるか否かを問う以前に、その同じ川岸のショットを見ることで、少女の無事を確信する。事実、事態はそのように推移することになるのです。 ここでは、二つのことに注目したいと思います。すなわち、すでにわれわれが見て知っているのと同じ風景がくり返し描かれているということ。そして、そのいずれもが、川、すなわち「水」あるいは「流れ」の主題として描かれているということです。重要なのは、その「水」と「流れ」の主題が反復されているということにほかなりません。その反復によって、視覚的に見えているわけではない物語の始まりと終わりとが、ごく自然に結ばれることになるのです。はたして、その樽の中身に人びとが気づくかどうかというのがサスペンスを醸し出すことになるのですが、それについては詳しく触れずにおきます。ただ、こうした同じショットの反復によって、物語の始まりと終わりとがごく自然に分節化されることになるという点が重要なのです。 映画を見ることとは、スクリーン上に、異なるショットとして展開される視覚的な要素の連鎖を、そのつどそれと認識する作業につきるものではありません。すでに見たことのあるショットに触れることで、そこには描かれていない物語のしかるべき展開を認識するという想像作業が絶対に必要なのです。それを可能にする同じショットのくり返しと、その反復が可能にする説話論的な理解の非=視覚的な可能性を、わたくしは「ドリー効果」と呼んでおきました(實重「単純であることの穏やかな魅力──D・W・グリフィス論」)。というのも、映画の歴史には、明らかに「ドリー効果」以前の作品と「ドリー効果」以後の作品が存在しており、いま撮られているほとんどの凡庸な作品は、そうと呼ばれることがなくても、「ドリー効果」以前の作品であるように思えてなりません。 視覚的に見えていないはずの物語を観客に認識させる ──初期サイレント期のほかの映画作家たちは、どういう原理に従って物語を語っていたのでしょうか? 實 いうまでもなく、『ドリーの冒険』以前にも、サスペンスの醸成を目的とした作品はいくつもありました。例えばエドウィン・S・ポーター監督の『大列車強盗』(1903)や『アメリカ消防夫の生活』(1903)などがそれにあたります。しかし、そこには、同じショットのくり返しによるサスペンスはいっさい描かれてはおりません。すなわち、そこでのショットの数々はそのつど異なる視覚的な要素を開示しており、いかなる意味においても、反復によって物語に有効に介入することはありませんでした。その意味で、そこでの個々のショットは「生きていない」というべきかもしれません。そのつど異なる画面が、説話論的な有効性にしたがって配置されているのではないからです。 ところが、グリフィスの『ドリーの冒険』では、思いもかけぬ瞬間にすでに見たことのある川岸のショットが挿入されていることで、現在という時点で視覚的に見えているわけではないはずの物語を観客に認識させるという、高度な説話論的な体験がそこに生じていることになるのです。グリフィスの新しさといわれているものは、そもそもが非=視覚的なものである物語の認識を可能にする具体的なショットが撮れたことにあるのです。そうした事態によって、ショットという概念を映画に導入したのがグリフィスだということが、初めて可能になる。それは、たんなる被写体に向けられたキャメラではなく、物語の推移を示唆するものでもあるのです。 ここで改めて指摘しておくべきなのは、そうした「ドリー効果」と呼ぶべきものが、「水」の主題的な重要さと結びついていることです。「流れること」と呼んでもよい映画におけるその主題論的な重要さは、例えば『東への道』の最後に描かれる流氷の流れる河の光景を見てみれば明らかでしょう。ショットごとに割れて小さくなってゆく流氷のうえで気を失っているリリアン・ギッシュと、難儀しながらもつぎつぎに異なる流氷のうえを飛び越えてそれを追いかけるリチャード・バーセルメスとを交互に描いた平行モンタージュ=カット・バックを見てみるなら、映画における物語と「水」との相性のよさは明らかでしょう。すべては、「流れる」という水の本質と、それに運動能力によってさからおうとする人間との葛藤が視覚的に表象されており、滝への墜落というまだ起こっていない大惨事を予見させ、かつそれにさからおうとする人間の「運動」能力との葛藤がそこに描かれているのです。 だから、映画におけるショットを語る場合、そこに表象されている抽象的な構図だけではなく、それぞれの画面の主題論的な統一が何によって維持されているのかを見てみる必要があります。もちろん、その主題とは、リュミエールで見たように、「動くこと」、あるいは「動きを止めること」、等々、映画にふさわしいさまざまな主題を通してショットが構成されているときに、真の意味で画面を活気づけるものなのです。そのような意味において、ショットを映画に導入したのはグリフィスだと確信を持っていうことができるのです。 これは、『ジョン・フォード論』でも触れたことですが、ジル・ドゥルーズは、その『シネマ1*運動イメージ』(原著、1983、財津理、齋藤範訳、法政大学出版局、2008)で、映画における水、すなわち「液体状の知覚」について語っておりますが、そこにはグリフィスへの言及はありません。ルノワールを初め、ジャン・ヴィゴやジャン・グレミヨンなどのいわゆる「フランス戦前派」の作家たちについて語りながら、彼らは、「水」の中に、「人間的なもの以上の知覚、固体に合わせて裁断されていない知覚、固体をもはや対象としていず、条件としていず、環境としていない知覚」への約束のようなものがあるといっています。だが、それは、すでに見てみたように、リュミエール兄弟から映画につきまとっていた環境にほかならず、それをショットとその連鎖という点から考察し、かつ実践したのは、まぎれもなくグリフィスだったのです。 映画における基本単位はショットである ──現在のアメリカ映画の作家たちに、そのような自覚はあるのでしょうか。 實 確かな自覚があるかどうかはともかく、おそらく、漠然とした意識なら誰にもあると思います。ただし、グリフィスの名前に行きつくことはなかなかありません。例えば、「映画における基本単位はショット」であると断言するフランシス・フォード・コッポラには、明らかにそうした意識はあるといえるでしょう。これは『フランシス・フォード・コッポラ、映画を語る──ライブ・シネマ、そして映画の未来』(原著、2017、南波克行訳、フィルムアート社、2018)で語っていることですが、「物語を伝えてくれるのはショットだ。私たちがサイレント映画から学んだように、ショットはその全体の中の、短い構成要素のひとつであり、偉大なシークエンスを作りだすために、編集されるのを待つ素材となる」といいながら、「『ショット』の概念におけるもっとも究極的な二つの支柱が、マックス・オフュルスと小津安二郎の映画の中にある」と述べています。 小津におけるショットの動きのない厳格な短さと、オフュルスにおける動きにみちた長いショットの流麗さとを対比させているここでのコッポラは、ひとまずトーキーにおけるショット──オフュルスはサイレントを撮っていないし、コッポラが小津のサイレントをどれほど見ているかはわかりません──を問題にしているといえましょう。さらに、彼は、「映画作家なら、それぞれ単体では意味を持たないひとつのショットを別のショットにつなぐことで、そこに意味が生まれるということは、映画という芸術が始まった初期の頃から知っている」と書いた直後にいきなりエイゼンシュテインの名前を挙げていることから推察するなら、どうやらコッポラは、グリフィスをとりわけ強く意識しているようには見えません。 グリフィスであって、エイゼンシュテインではない ──コッポラは、グリフィスを見ていないのでしょうか? 實 見ていないはずがありません。実際、この書物の著者コッポラは、「巨大な野外撮影所(バックロット)」の例として『イントレランス』という題名には言及しています。ところが、その題名を引いているだけで、その作者グリフィスという名前にはまったく言及していない。だが、それにしても、コッポラは、いったいどうしてここでいかにも唐突に、あたかもそれが自然なことであるというかのようにエイゼンシュテインの名前を挙げているのでしょうか。彼が大学時代にエイゼンシュテインを研究していたということはありますが、エイゼンシュテイン流のいわゆる「衝突」のモンタージュなどアメリカ映画にはいかなる影響も与えておらず、むしろグリフィスにつながる画面の有効な「連鎖」こそが、ハリウッドの伝統だというのに、どうしてそのことの指摘をコッポラは怠っているのでしょうか。グリフィスは、やはり、いまなお忘れられているのでしょうか。 それにしても、不思議なことに、映画を理論的に語ろうとする人びとは、グリフィスではなく、何故かエイゼンシュテインに触れてしまう。それはいったい何故なのでしょうか。いうまでもありませんが、『戦艦ポチョムキン』の作者が、それ以後も途方もなく面白い作品を何本も撮っているのは間違いありません。しかし、彼に言及してしまう人びとは、たとえば『シネマ1・2』のジル・ドゥルーズなどもそうですが、映画にとって肝心な何かを見失ってしまいがちなのです。その肝心な何かについては、残りの部分で可能なかぎり詳しく語ってみるつもりですが、ここでは、いささか唐突ながら、ジャン=マリー・ストローブの言葉を引用しておきたいと思います。彼は、「カイエ・デュ・シネマ」誌の185号(1966年12月号)で、映画の語り方の刷新についての質問に、いかにもぶっきらぼうにこう答えているのです。「たとえば、リュミエール、グリフィス、フォード、ラング、ムルナウ、ルノワール、溝口、スタンバーグ、そしてロッセリーニは、たえず刷新していた。たとえば、エイゼンシュテイン、黒澤、ウェルズ、レネは、刷新しなかった」。 いっさいの説明を欠いたこのストローブの言葉を盲信するつもりはありませんが、そこには、映画における肝心な何かへとわたくしたちを向かわせる力がこめられています。映画における語りという視点からして重要なのは、間違いなく、リュミエール、グリフィス、フォードという流れであって、エイゼンシュテインではないはずだからです。あえてくり返しておきますが、エイゼンシュテインは、きわめて重要な作家です。しかし、このストローブの言葉は、ここでショットについて語ろうとしているわたくしの視点にも、ほぼぴたりとかさなりあっているのです。とりわけ重要なのはグリフィスであって、決してエイゼンシュテインではない。そうした視点からすると、1930年代の初期に、音を持とうとしていたアメリカ映画がグリフィスを救えなかったことの不幸が、改めて感じられるのです。 さいわいなことに、アナログ的な素材からデジタル的な素材への移行にあたって、映画産業は、トーキーへの移行にあたってグリフィスがそうであったように、優れた映画作家に死刑宣告したりすることはありませんでした。たしかに、特殊撮影の監督をダグラス・トランブルに依頼しないかぎりSFXを駆使した作品が撮れないように思われた一時期がハリウッドにはありました。実際、彼がかかわったキューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968)、スピルバーグの『未知との遭遇』(1977)、リドリー・スコットの『ブレードランナー』(1982)などは世界的に高い興行収入をあげており、一躍彼の名を世界的なものにしました。しかし、ダグラス・トランブルが参加できなかったジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』(1977)──現在では、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』と分類されていますが──には複数の人物がかかわり、これが興行的にも成功したので事態は着実に変化しました。 それ以後、SFXを駆使した作品の製作は世界的に盛んなものとなって行きます。また、いまでは、SFXの使用とはいっさい関係なく、ほとんどの映画作家が、デジタル方式の機材で撮影を行うようになっています。いまでは、アナログ的なフィルムそのものの生産量がかつてなく減少している。いずれ、その生産は中止されるでしょうが、それもまた、「映画崩壊前夜」にふさわしい光景であるといえるかも知れません。 ところが、デジタル素材の使用をかたくなに拒否し、あえてフィルムで撮影することにこだわる映画作家もいないではなく、近年では、むしろその数が増えているようにさえ思えます。たとえば、一貫してフィルムでの撮影を行っているクエンティン・タランティーノは、いまのところその代表作といってよい『ヘイトフル・エイト』(2015)では、特殊な65ミリ・フィルムで撮影を敢行し、上映にあたっては70ミリの映写機を用いることを推奨していました。実際、導入部の遥かに雪山を望見できる雪原を行く駅馬車のシーンなど、素晴らしく鮮明な画面におさまり見るものを圧倒していました。しかし、恥ずべきことに、わが国には70ミリ・フィルムを上映できる劇場はいまでは一つもなくなっており、また、残酷な場面や過激な性的表現を映倫によって指摘されたりして、結局のところ、本来なら187分あったはずの上映時間が168分に短縮されて公開されるしかなかったのですから、これまた逆説的ながら、「映画崩壊前夜」をことさらきわだたせる事態となってしまいました。 現代のハリウッドではもっとも重要な映画作家であるウェス・アンダーソンもまた、その処女作以来、アナログ的なフィルムにこだわり、35ミリで撮ることに強い執着を持っていた作家です。彼は、35ミリのみならず、『ムーンライズ・キングダム』(2012)では、あえて16ミリで撮っているほどなのです。16ミリといえば、デイヴィッド・ロウリーが、『さらば愛しきアウトロー』(2018)をスーパー16で撮っていたことにも注目しておきたいと思います。今日のハリウッドでは注目すべき逸材といってよかろう彼もまた、処女作以来、例外なくフィルムで撮っていました。 事態は合衆国にとどまらず、ヨーロッパにも、35ミリや16ミリのフィルムで撮ることにこだわる監督は少なからず存在します。スーパー16のキャメラで撮られた作品といえば、ホセ=ルイス・ゲリン監督の『シルビアのいる街で』(2007)がすぐさま思い出されます。このスペインの有望な若手監督──といってもすでにかなりの年齢ですが──の撮るショットはどことなくフォード的なところがあると思っていたら、初期に『静かなる男』(1952)をめぐるフェイク・ドキュメンタリーともいうべき『イニスフリー』(1990)を撮っていることがわかり、わが意を得たりと躍り上がって悦んだ記憶があります。また、『ヴァンダの部屋』(2000)のペドロ・コスタ監督など、撮るときにはデジタル的でありながら、撮られた作品は35ミリのプリントでの上映にこだわり、スクリーン・サイズは1:1・33、あるいはそれに近い1:1・66であることにこだわっています。さらに、最近の日本では、『Playback』(2012)の三宅唱監督の場合、デジタル的に撮った素材をあえてプリントにして上映することにこだわっていました。また、『月夜釜合戦』(2017)の佐藤零郎監督の場合は、あえて16ミリのフィルムで撮っています。 また、これはまだ新人といってよかろうフランスのギヨーム・ブラック監督は、日本でその作品のことごとくが公開されたことを心から祝福すべき若手監督の有望株ですが、彼は、『女っ気なし』(2011)以来、最近のドキュメンタリー『宝島』(2018)にいたるまで、一貫してフィルムで撮っています。『女っ気なし』の場合は、フジカラーの16ミリ・フィルムを探しあてて撮ったといわれています。こうした監督たちが映画を撮るにあたってあくまでフィルムという材質に拘泥するのは、自分を育ててくれた時期の映画がスクリーンに漂わせていた素材としてのフィルムの質感のようなものを、忘れずにいるためではないでしょうか。だが、おそらくノスタルジーとはまったく異なる意味がそこにはこめられているはずですが、それについてはいまは触れずにおきます。 ここで、ごく唐突ながら、ジャン=リュック・ゴダールを招喚したいと思います。コッポラがいきなりエイゼンシュテインに言及していたこととの関係で、彼のある作品のことをぜひとも語っておかねばならぬと思いたったからです。封切り時の入場者千八百人という最低の記録を作ったほど当たらなかった『カラビニエ』(1963)に「つなぎ間違い」が含まれていると彼はいっています。「つなぎ間違いについて言えば、[この作品には]堂々としていて感動的でエイゼンシュテイン的なつなぎ間違いがひとつある」と、「カラビニエたちを撃つ」(『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』奥村昭夫訳、筑摩書房、1998)で述べているからです。「それに、このつなぎ間違いが見られる場面のカットのひとつは、『戦艦ポチョムキン』からじかに引用されたものである。まず[森のなかの茂みをとらえた]ロングショットのなかで、王の軍隊の下士官の一人が若い女性パルチザンの頭の帽子をとり、彼女のコルホーズの小麦と同じ黄金色に輝く彼女の髪の毛が垂れさがるのが見られる。そしてその次の[彼女の]アップのなかで、帽子をとる同じアクションがもう一度くりかえされるのである。だからどうだというのか? ひとつのカットから別のカットへの移行ではないとすれば、つなぎとはいったいなんなのか? たしかに、この移行はぎくしゃくした感じを与えることなくなされうるものである。──そうしたつなぎは、アメリカ映画とその編集者たちによって四十年かけてほぼ完成されたつなぎである。かれらは探偵映画からコメディーへ、コメディーから西部劇へと渡りあるきながら、場面の旋律的統一をこわさないようにするための、同じアクション、同じポジションにもとづく正確なつなぎという原則をうち出し、みがきあげたのである」。 グリフィス的なショット、画面連鎖 ──つまりゴダールは、エイゼンシュテインにかこつけて、ハリウッドの古典的な画面の連鎖について語っているということでしょうか。 實 おっしゃる通りです。ここの後半部分でゴダールが述べているのは、まさしくエイゼンシュテイン流のモンタージュではなく、ハリウッド流のモンタージュ、すなわち、連鎖する画面の同軸上の同じアクションによる画面の連鎖についてなのです。つまり、『カラビニエ』で実践して見せたのは、むしろエイゼンシュテイン流の軸を異にするつなぎ間違いだったのです。 実際、『カラビニエ』の問題のシーンで最初に見られるのはロングショットであり、その帽子をとる女パルチザンは遥か遠方からの横顔が見られるにすぎないのですが、それに続くショットは正面からの大写しであり、帽子を脱ぐ瞬間にさらりと垂れる金髪の流れが強調されている。ところが、その後に問題となるハリウッド流の画面連鎖は、いずれも同軸上のショットの連鎖であり、そこにつなぎ間違いの危惧などはじめから存在していないはずなのです。ただ、それを「四十年かけてほぼ完成されたつなぎである」というゴダールの言葉には、いささかの誇張が含まれているように思えてなりません。というのも、それはグリフィスの段階で、すでに完成されていたからです。 もちろん、ゴダールは、こうしたつなぎの原則とは別に、「記述上の理由からではなく、ドラマ上の理由から、ひとつのカットから別のカットに移行するということもまた可能である」ともいいながら、それを「ひとつのフォルムを別のフォルムと対立させ、しかも、対立させるその同じ操作によってそれらを分かちがたく結びつけてしまう」という「エイゼンシュテインのつなぎ」がそれだともいっています。彼はまた、「いつ、どこで、なぜ、どのようにしてそれをつかえばいいのかを知ればそれで十分なのだ」とも述べていますが、この俺ならそれができるとでもいいたげな彼の言葉は、そのつなぎが制度化されたものではないということを意味しているのです。では、たとえば、シカゴのユニオン駅の階段を乳母車が転げ落ちる瞬間を撮った『アンタッチャブル』(1987)のブライアン・デ・パルマ監督はそれを使う術を心得ておらず、オデッサの階段を乳母車が転げ落ちる瞬間を撮った『戦艦ポチョムキン』のエイゼンシュテインはそれを心得ていたと彼はいうのでしょうか。 そこで、グリフィスの段階ですでに完成されていたとわたくしが考えているショットの連鎖とは、どういうものかと問うてみるとどうでしょうか。これは、グリフィス以後、ほとんど制度化されたものだともいえるのですが、例えば、『東への道』の冒頭近く、母親に説得されたリリアン・ギッシュが、都会の裕福な親類の家に向けて出発する場面があります。彼女が家を出る直前、母親から手編みのカーディガンをあてがわれ、その柔らかな手ざわりを頰でたしかめるショットが、二人の立ち位置で示されます。それに続いて、母親がテーブルの上に置かれた丸い帽子箱の中にそれをしまうやや距離をおいたショットが示されます。 ここでは、ショットは二つに分かれていながらも、軸が同一なので、まるで同じショットの中で母親がカーディガンを帽子箱に収めているかのようにさえ見えるのです。これこそ、ゴダールがいう「場面の旋律的統一をこわさないようにするための、同じアクション、同じポジションにもとづく正確なつなぎという原則をうち出し、みがきあげた」画面の連鎖でなくて何でしょうか。それは、ゴダールがいうように、「四十年かけて」洗練されるより遥か以前に、すでに『東への道』の段階で完成されていたのです。この作品が撮られたのは1920年、『戦艦ポチョムキン』が撮られるより五年も前のことです。そして、そのつなぎの伝統は、今日にいたるまで細々とながら生きのびているのです。 ゴダールが『カラビニエ』で実践してみせた不意に垂れる金髪による画面の連鎖を、ゴダール以上の自然さで、しかもゴダールとはくらべものにならないほどの効果的なやり方で実践してみせたハリウッドの監督が存在しています。不幸にしてそれが遺作となってしまった『カリフォルニア・ドールズ』(1981)の監督ロバート・オルドリッチがそれであります。それについては、この作品が再公開されたおりにも触れておきましたが(『映画時評2012─2014』講談社、2015)、この女子プロレスのタッグチームを主人公にした作品の冒頭近くで、試合を終えたばかりの楽屋の鏡の前で、うずくまるようにしてその長い金髪にブラシを入れているローレン・ランドンの全身像が、やや距離をおいたショットでとらえられます。次の瞬間、いきなり上半身を起こしてその豊かな金髪を背中に振り分ける彼女の顔が汚れた鏡に映り、長いブルネットの髪を揺らしているかたわらの相方ヴィッキー・フレデリックとの間での会話が続けられるのです。まさに、身を起こした瞬間に背後に振り分けられる豊かな金髪の運動が、この映画のアクション・シーンを遥かに超えた真の運動として画面を彩っており、思わずはっとせざるをえません。 それとほぼ同じ振る舞いを、映画のクライマックスでの絢爛豪華な衣裳を脱ぎすてるローレン・ランドンが、試合直前に演じて見せます。彼女がふたたびその金髪を背中に振り分ける瞬間を見落としていたなら、誰もこの作品を語る資格など持ってはおりません。また、同時代に映画を撮っていたハリウッドの監督たちもまた、誰ひとりとして、これほど鋭利な画面連鎖を実行できずにいたのです。 たとえば、ことによったら彼には「映画崩壊前夜」の意識があったのかもしれないとのべておいたウェス・アンダーソンの場合、それに似た画面連鎖を撮れる例外的な映画作家だといえるのかも知れません。彼の『ファンタスティックMr. FOX』(2009)の冒頭の木の幹によりかかった狐が演じるちょっとした身振りの反復による2ショットの連鎖は、文字通り、「場面の旋律的統一をこわさないようにするための、同じアクション、同じポジションにもとづく正確なつなぎという原則」にもとづいた撮り方と編集で視覚化されていたことを思いだしておきましょう。グリフィス的なショットは、いまもなお、ハリウッドのストップモーションのアニメ作品にさえ、生々しく息づいているのです。 とはいえ、はたしてそれをグリフィス的な画面連鎖と意識して監督たちが使っているかどうかは、さだかではありません。むしろ、ジョン・フォード的なつなぎといった方が、遥かに素直に受け入れられているかと思うからです。「Ⅱ 物語を超えて」で触れておいたフォード的な「カッティング・オン・アクション」がそれに当たります。ジョン・ウェインやウォルター・ピジョンといった男たちが暗闇でマッチをすり、それを捨てずに肩口にかざしたところでショットが変わり、新たな照明の中に愛する女性が浮きあがるという一連の動きがそれです。しかし、フォードの場合、この画面連鎖の方法は、男と女を結びつけることにとどまらず、ごく普通に、複数の人物をとらえた近景から遠景、あるいは遠景から近景といったつなぎをごく自然に見せるために、しばしば同じ身振りの反復によって行われていたものです。 たとえば、フォードにとっては欠かすことのできない黒人俳優のステッピン・フェッチットが、ふと頭を搔いたりするといったごくさりげない身振りにつれて画面が近景から遠景へと連鎖する──あるいは、その逆──といったことなら、ジョン・ウェインが端役で出ている『最敬礼』(1929)の中などからしばしば行われていたものです。ごく限られた台詞を口にしてジョン・ウェインが部屋から廊下に出ようとするときなども、彼が扉のノブに手を伸ばした瞬間に遠景から近景にかわり、いざ扉を開けるとそこに思いがけない人物がいるといった場合にも、ごく素直に「カッティング・オン・アクション」が使われています。それが、もとはといえばグリフィスから来ているのだという意識が映画作家や批評家たちに欠けているとするなら、それこそ「映画崩壊前夜」にふさわしい不穏な現象だといえるかもしれません。 ウェス・アンダーソンの『ファンタスティックMr. FOX』の冒頭の2ショットをグリフィス的と読むか、フォード的と読むかはともかく、そこに映画の歴史が露呈されていることに気づくか否かは、きわめて重要な問題なのです。そのことを確認した上で、いよいよ理論の問題に移ろうかと思います。ただ、映画をめぐる理論を理論として理解することには、何の意味もありません。すでに述べておいたように、理論家たちの原理的かつ抽象的なものに流れがちな思考と言説と、映画にとってのまぎれもないフィルム的な現実にほかならぬショットとの葛藤を見てみることが重要であり、どれが理論としての整合性があるかないかということはさして重要ではないと、あらかじめいっておきたいと思います。 Ⅳ 「理論」的な問題について 映画の全貌など誰にも見えてはいない ──いよいよショットについての理論的な考察を伺うときがきましたが、それについて、前章の最後で、「理論としての整合性があるかないかということはさして重要ではない」といっておられます。それは、具体的にはどういう意味でしょうか? 實 ごくおおざっぱにいってしまいますと、いわゆる「映画理論」なるものが、いまだに映画に追いついていないからです。さらに詳細な分析をきわめれば、あるとき理論が映画に追いつくときがくるかといえば、必ずしもそうとはいえないところに映画独特の問題があるのです。それがどういうことを意味しているかを、これから説明しようと思っているのですが、それにはいくつかの理由が存在しています。 まず、映画の全貌を目にしたものなど、これまで世界には一人としていないという厳粛な事実が挙げられますが、おそらくそれが最大の理由となるでしょう。いかなる専門家であろうと誰ひとりとしてその全貌を捉えきれずにいるばかりか、その遥かな後ろ姿さえ見失いがちな映画というものは、たえず人間から遠ざかって行く。映画など、その気になりさえすればいつでも見られるはずだという人もいようかとは思いますが、総体としての映画は、優れたものであれ、凡庸なものであれ、きまって人間の視線を逃れるものであり、ときにはそれを無効にするものでさえあるのです。誰だって、自分が見ている映画より、見ていない映画の方が遥かに多いはずだと自覚しているはずです。だから、「映画理論」などたやすく成立すべくもありません。しかし、そんなことをいえば、たとえば散文のフィクションとしての「小説」だって、個人にとっては、読んだことのある作品より読んだことのない作品の方がはるかに多いのですから、「小説」に「理論」など成立しないと思う方がおられるかもしれません。しかし、「小説」と「映画」との本質的な違いについては、のちに詳しく触れることになるでしょう。いずれにせよ、映画においては、自分が何を見ていないかを意識することが、決定的な意味を持っているのです。 実際、1936年生まれのわたくしは、1909年生まれの淀川長治氏が書いておられる「サイレント・ベスト55」(『淀川長治映画ベスト10+α』河出文庫、2013)──ジョージ・メルフォード監督の『吾が妻を見よ』(1920)で始まる──に挙げられている作品のうちの、いったい何本を見ていることでしょうか。また、同じ書物に収められた「淀川長治のヴァンプ映画・厳選55本」──ピエロ・フォスコ(Giovanni Pastroneの別名)監督の『火』(1914)で始まる──に挙げられている作品のうち、いったい何本の作品をわたくしたちは見ているというのでしょうか。 多くの理論家は、しかるべき時代なりジャンルなりに限定しながら、「無声映画時代のハリウッド」──ごく最近、ケヴィン・ブラウンロウの『サイレント映画の黄金時代』(原著、1968、宮本高晴訳、国書刊行会、2019)の翻訳が出ましたが、そこには『吾が妻を見よ』も『火』も引かれてはおりません──の歴史なり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の歴史や構造なり、「ミュージカル映画」だの「西部劇」だの「香港活劇」だののそれを語ったりしています。また、編集技術の一つでしかない「モンタージュ」やキャメラ・ワークの一つでしかない「ワンシーン・ワンショット」なるものを誇大視しつつ分析を進め、あたかも見えてはいない映画の全貌の一部がふと垣間見えたかのように錯覚してしまうものたちもあとを絶ちません。さらには、自分が傑作だと思う作品だけを論じていれば、映画が見えてくるはずだと思いこんでいる者さえいる始末です。 しかし、問題は、傑作でも何でもないごく普通の作品の方が遥かに多く、そのごく普通の作品を何らかの意味でカヴァーしないかぎり、映画の理論など成立するはずもないということです。けれども、理論家たちのほとんどは、みずからが囚われている限界──映画の全貌など誰にも見えてはいないという──などあたかもなかったかのように脳天気に議論を進め、恥じる気配すら示さない。彼らは、その意味で、ほんの一部の作品を無意識に選別することによって、それで映画を代表させようとする悪しき「表象=代行主義者」だといえるかもしれません。自己限定によって映画のほんの一部を選別し、それを代行手段とすることで、まるでそれが映画そのものであるかのように話を進めてしまうからです。わたくし自身は、この種の「表象=代行主義」をとても信じる気にはなれません。映画について、自分はまだ充分に知らないと意識することから、「理論」は始まらねばならないはずなのです。 ショットは一篇の映画の最小単位か ──自分が見ている映画より、見ていない映画の方が遥かに多いというのはたしかにその通りですが、では、「批評」もまた成立しがたくなるのではありませんか? 實 おっしゃる通りです。それは「理論」ばかりが囚われている限界ではなく、映画の「批評」についてもいえることであるはずです。たった一本の作品でさえ、見ているはしから見る主体の視線を無効にしながら、かなたへと逃れさってゆくものですから、それについて充分に語れるはずもありません。見るはしから忘れてしまい、その全編をそっくり記憶しているようなものは、一人としていないはずなのですから。ここでは、映画を見ることにつらなる「視線」と「記憶」の問題に帰着するのですが、それはまたあとで触れる機会もあるでしょう。わたくしとしては、1970年といういまから半世紀も前に書いた自分自身のテクストの冒頭近くに据えられたごく短い文章を思い起こしておきたいと思います。それは『映画の神話学』(泰流社、1979、ちくま学芸文庫、1996)におさめられた「映画・この不在なるものの輝き」(1970)というテクストであり、そこでは、「いざこれから映画を語ろうとする場に身をおいてしまうと、そこには濃密な闇が地平線のむこうまで重くたれこめているばかりで、発される言葉という言葉は谺も呼ぶことなしに消えてゆくし、注がれる視線もことごとく虚空に吸いこまれてゆくしかない……」と書き始められているのですが、そのように映画をとらえる姿勢はいまでもまったく変わりがありません。映画は、それがまぎれもなく不在であるが故に輝くものなのです。 また、二つ目の理由についても話しておきます。例えば、ジル・ドゥルーズがその『シネマ2*時間イメージ』(原著、1985、宇野邦一、石原陽一郎、江澤健一郎、大原理志、岡村民夫訳、法政大学出版局、2006)の第10章の「結論」の冒頭で、「映画は、普遍的あるいは本来的な言語ではなく言語活動でさえもない」と書いており、それはひとまず正しいといわざるをえません。彼は、『シネマ1*運動イメージ』(原著、1983、財津理、齊藤範訳、法政大学出版局、2008)の導入部で、あらかじめこうもいっていたからです。「フレーム〔画面〕は、たいへん多くの部分をもつひとつの総体〔集合〕を構成しており、そのような諸部分は、それら自身が下位の総体〔部分集合〕にも含まれているような要素である。(中略)そういうわけで、ヤコブソンはそうした部分を記号=対象と呼び、パゾリーニは「「映像素」」と呼んでいる。ところで、そうした用語は、言語との関連づけを示唆している(映像素は音素のようなものだろうし、ショットは記号素のようなものだろう)。だが、そうした用語は必要とは思われない。なぜなら、フレームの類似物があるとすれば、それは、言語学の体系に属しているというよりも、むしろ情報科学の体系に属しているからだ」。 すなわち、一本の作品のフォルムを語ろうとする場合にも、いわゆる映像と音声からなる映画一般は、言語における文、すなわち「文=フレーズ」のような構造として成立してはいない。たとえば、映画における一篇の作品のあるシークエンスならシークエンスというものは、それを成立させている最小単位には絶対に分割できません。映画にあってのシークエンスは、ほとんどの場合、複数のショットからなっており、そのショットが編集されることでしかるべき意味をおびてくるのは確かだとしても、しかし、そのショットなるものは、「語」が「文」の「単位」だという意味での映画の「単位」ではいささかもありません。言語における「文」は、いかなる場合も形式的には「語」という最小単位に分割できるものですが、それは、つまり、その「語」を他の「語」で置き換えれば、「文」の意味もまた変化してくるということを意味しています。 ここでいささか専門的なことをいうなら、言語における「語」は、さらに「音素」と「記号素」とに分割できる。このアンドレ・マルティネによる言語の「二重分節」理論についてはさまざまな議論がなされていますが、「語」が「文」の単位であること、さらには「語」がより小さな「音素」と「記号素」に分割できるという彼の視点は、少なくともインド=ヨーロッパ語系の言語の「文」に関する限り、いまのところほぼ実態に即しているといわざるをえないという前提から話をすすめます。ですから、たとえば前章で見たフランシス・フォード・コッポラのように、映画におけるショットをシークエンスの「単位」と呼ぶことはあくまで便宜的なもの、ごく恣意的なものにすぎません。それは、言語における「文」の「単位」である単語とは、構造的にはまったく異なるものだからです。したがって、映画においては、一篇の作品の統辞論的な構造を語ることもまた不可能というに近い。クリスチャン・メッツが『映画における意味作用に関する試論──映画記号学の基本問題』(原著、1968、浅沼圭司監訳、水声社、2005)などで、映画における統辞論的な一般化を試みようとしましたが、それは部分的に成功はしていても、映画一般に敷衍することは不可能だと思っています。 これで、「映画理論」と「小説理論」との構成要件が本質的に違っていることがおわかりかと思います。言語を素材とした小説は、少なくとも、それを構成している「文」の単位は「語」だという意味からして、理論家にとって、「分析」や「総合」といった手続きを可能なものとしてくれます。また、一篇の小説が語っている「物語」の構造分析も、不可能ではありません。しかし、そうした意味での「単位」を持たない映画の場合は、それがほとんど不可能というに近い。そのことを、ここで改めて銘記しておきましょう。 ところで、「情報科学」の問題だという映画について、ドゥルーズがその方面からの分析を深めているかどうかは、わかりません。チャールズ・パースの理論の応用がそれだというなら、あやしいかぎりです。いずれにせよ、映画における「ショット」は、それがどれほど長いものであれ、あるいはごく短いものであれ、それを構成している要素はたえず複数存在しており、かりにその複数の要素からそれが顔なら顔のクローズアップだととらえるにしても、その背後や周辺にはさまざまなものが映っているので、それを顔のクローズアップだととらえることは、そこに映っているほかのさまざまなものをいったん捨象してかかることにほかならず、理論的な考察にあっては、きわめて恣意的なものたらざるをえないからです。 たとえば、ゴダールの『女と男のいる舗道』(1962)は主演女優であるアンナ・カリーナのクローズアップで始まっており、すでにクレジットの段階から、わたくしたちは彼女の正面からの顔、あるいはその横顔をスクリーンで間近から見ることになります。そのクローズアップは、後に彼女が男友達と映画館で見ることになるドライヤーの『裁かるるジャンヌ』(1928)におけるファルコネッティのクローズアップにもつながってくるはずのものですが、ここで見るものがまず驚かされるのは彼女の目ではなく、冒頭のクローズアップにおける彼女の横顔なのです。しかも、その驚きは、その横顔のショットにおける彼女の首筋から背中にかけてのうなじの異様な、ほとんど人間のものとは思えないほどの白さによってもたらされるものにほかなりません。 いうまでもなく、それは、その部分に当てられた照明によるモノクローム撮影の効果が遺憾なく発揮されてのものですが、その首筋からうなじにかけての不気味なまでの白さを無視して、この映画はアンナ・カリーナの顔のクローズアップから始まると記述することは、あくまで恣意的、あるいは代行的な言表行為にすぎません。そして、ショットとは、あの人間を超えたかと思えるほどはっとするしかないうなじの白さをきわだたせるものにほかならぬといいたい気もしますが、いまは控えておきます。 では、『女と男のいる舗道』はアンナ・カリーナのクローズアップで始まると記述することの恣意性、あるいは「表象=代行」性を、「理論」はどう処理したらよいか。それは、決定的に不可能だというのがわたくしの考えです。映画には、言語における意味での「単位」にあたるものが存在していないからです。その意味で、『シネマ1・2』の「結論」部分におけるジル・ドゥルーズは、ひとまず正しいといわざるをえません。 ジル・ドゥルーズ『シネマ1・2』 ──では、ドゥルーズの『シネマ1・2』は映画をめぐる優れた書物といえるのでしょうか? 實 いや、にもかかわらず、このドゥルーズの『シネマ1・2』という書物はきわめて問題の多いテクストだといわねばなりません。当初は、この愛すべきフランスの哲学者が映画について長い書物を刊行したことに無邪気に興奮し、その『小津論』の部分をいち早く翻訳してもらい、日本に紹介したこともありました。しかし、これを改めてじっくり読み直してみると、きわめて疑わしい書物だと認めざるをえませんでした。 そもそも、彼は、『シネマ1』の序文を「この研究は、映画史ではない」と書き始めているのですが、これには思いきり哄笑するしかありませんでした。「誰ひとりとしてその全貌を捉えきれずにいるばかりか、その後ろ姿さえ見失いがち」なものが映画なのですから、いくら映画が好きだといっても、所詮は哲学者にすぎないお前さんに「映画の歴史」の執筆など誰も期待してはいないし、そもそも「素朴な観客」だというお前さんにそんなものが書けるはずもなかろう。だいいち、この俺にも、あるいはこの私にも書けないのだから、お前さんごときに「映画史」など執筆できるはずもなかろうと口にした映画理論家や映画評論家も少なくはなかったはずです。とりわけドゥルーズの言葉に刺激されたというわけでもありますまいが、クリスティン・トンプソンとデイヴィッド・ボードウェルが『映画史──序説』(1994)を発表したのが20世紀末のことでした。現在では第五版が流通していますが、あとで見てみるように、これもまた多くの問題をかかえた書物なのです。いずれにせよ、「この研究は、映画史ではない」などというまったく書くに及ばない言葉をドゥルーズはついつい口にしてしまった。謙遜の意味をこめて彼がそう書いていると考えたにしても、「この研究は、ひとつの分類学であり、イメージと記号についての分類の試みである」(同前)と続けている彼が正気だったとはとても思えません。 ドゥルーズの『シネマ1・2』の分析としては比較的によくできていると判断されている『眼がスクリーンになるとき──ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社、2018)の著者である福尾匠もまた、驚くべき言葉を書き綴っています。例えば、ドゥルーズの『シネマ1・2』について、「二〇〇人以上の映画作家を取り上げ、映画の誕生から刊行当時の八〇年代の作品までを視野に収める本書はまさしく全面的なものである……」などと暢気なことを書き記していますが、冗談もほどほどにしようではありませんか。「全面的」とはいったい何をさしているのか。現在でも無数の映画を生産し続けている国々のほとんどでは、とうてい「二〇〇人」にはおさまりがつかぬほどの膨大な数の映画作家がかつて存在していたのだし、「二〇〇人」にはとうていおさまりがつかぬその多くの重要な作家たちの一部はすでに逝去しているし、またその多くはいまも世界の各地で活躍しているのですから、「二〇〇人以上の映画作家」など、そのほんのごく一部、これまで作品を発表してきた映画作家の一万分の一ですらないでしょう。だから、これはとても「全面的なもの」などとは呼べず、著者はごくごく一部にすぎない映画作家の作品を対象として、ごく選別的な「分類学」で満足している怠惰きわまりない人間だと結論すべきなのです。 不在の映画作家たち ──すると、「Ⅰ『殺し屋ネルソン』に導かれて」で述べておられたことが、改めて意味を持ってきますね。 實 まさにそうなのです。わたくしは、「Ⅰ『殺し屋ネルソン』に導かれて」で、ボードウェルとトンプソンの『フィルム・アート──映画芸術入門』(原著、2004、藤木秀朗監訳、名古屋大学出版会、2007)という書物が、ドン・シーゲル、ロバート・オルドリッチ、リチャード・フライシャーというきわめて重要な50年代作家に言及していないことを、驚きと憤りとともに指摘しておきました。それは、二人の共著『映画史──序説』にも受けつがれています。さすがにオルドリッチには触れていますが、フライシャーについては、『ドリトル先生不思議な旅』(1967)について、興行的に当たらなかった作品のリストに加えているだけで、その映画の歴史にはフライシャーの「フ」の字も出てこない。その直後に彼が撮った傑作というほかはない『絞殺魔』(1968)にさえまったく言及していないのです。また、これまた傑作というほかはない『ヒッチハイカー』(1953)を撮ったアイダ・ルピノの名前すら、索引にはまったく載っておりません。そんな破廉恥な書物が堂々と『映画史──序説』を名乗っていることなど、許されてよいのでしょうか──もっとも、そうした重要な名前の空白を埋めようとするかのように、ボードウェルは個人名義で1940年代のハリウッド映画論(David Bordwell, Reinventing Hollywood──How 1940s Filmmakers Changed Movie Storytelling, University of Chicago Press, 2017)も書いておりますが、これについては終章で触れるつもりです。 ところで、いま述べたものとほぼ同じ批判が、あるいはそれよりもっと激しい批判が、『シネマ1・2』の著者ドゥルーズについても向けられねばなりません。彼もまた、あたかもそんな映画作家など語るに値しないというかのように、ドン・シーゲル、ロバート・オルドリッチ、リチャード・フライシャーにはまったく言及していないからです。ジョゼフ・H・ルイスの名前さえ出てこないし、エイブラハム・ポロンスキーの名前も引かれていません。また、『ハスラー』(1961)は引かれていながら、ロバート・ロッセンのきわめて重要な『ボディ・アンド・ソウル』(1947)も挙げてはいません。だがそれにしても、オルドリッチの『キッスで殺せ!』(1955)やフライシャーの『その女を殺せ』(1952)などを語らずに、どうしてアメリカ映画を論じられるのでしょうか。こうした40年代の後期から50年代にかけてのハリウッドを支えた重要な作家たちを無視することで、どうして「映画」なるものが語れるというのでしょうか。おそらく、この書物が扱っている映画作家の数的な限界が、理論そのものの質の弱みにもつながっていることをこれから示してみたいと思います。 なお、ここでひとこといいそえておきますと、『シネマ1』には、一応「ウェスタン」という項目は立てられているのですが、そこで言及されているアンソニー・マンはといえば、とうてい優れた作品とは呼びがたい『西部の人』(1958)一本が挙げられているにすぎず、ユニバーサル時代の興味深い作品や、例外的にMGMで撮った傑作『裸の拍車』(1953)などにはほとんど触れようともしていない。また、『西部の人』についても、それをゴダールが絶賛していたという理由(「スーパー・マン──アンソニー・マン『西部の人』」、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ 1950-1967』原著、1985、奥村昭夫訳、筑摩書房、1998)で言及しているにすぎず、その論もゴダールの分析にしたがっているまでで、ドゥルーズ自身がこれを見ていたという確証はない。さらには、B級活劇の傑作ともいうべきアイダ・ルピノの『ヒッチハイカー』にもまったく言及していない。自分の娘エミリ・ドゥルーズが映画作家でありながら、ドゥルーズは女性の映画作家についてほとんど言及しておりません。そこにかろうじて引かれているのは、いうまでもなくレニ・リーフェンシュタールを始めとして、ジェルメーヌ・デュラックとマルグリット・デュラス、アニェス・ヴァルダ──シャンタル・アケルマンにもちょっと触れられています──等々、いずれにせよフランス系が多い。合衆国ではシャーリー・クラークぐらいしか挙げられていませんが、それでは、まるでアメリカの女性監督がドキュメンタリー映画の領域にかぎられているかのごとき誤解を招きかねません。どうやらドゥルーズは見ていないらしいアイダ・ルピノの監督作品以外にも、せめてドロシー・アーズナーぐらいは挙げておけよとちょっかいをだしたくなります。 また、フランスの場合も、「ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレ」と一度だけ並記されたほか、あとはもっぱらストローブ一人の名前だけですませている。第一作の『マホルカ=ムフ』(1962)以来一貫して「共同監督」とクレジットされているにもかかわらず、それ以外の場所でドゥルーズは彼女の名前を口にすることがありません。それでは、世界に先がけてとはいえ、『ストローブ』(1972)という書物を書いてしまったアメリカ人のリチャード・ラウドとえらぶところがないではないですか。だから『シネマ1・2』に巣くっている根底的な男性原理主義を疑われても仕方があるまいとわたくしは思っています。哲学書で女性の書いたものを引用するのはしごく難しいことでしょうが、せめて映画の書物であるなら、1920年代から、ヨーロッパにとどまらずハリウッドにも確実に存在しており、最近ますます増加しつつある女性作家についてもっと充分に語られてもよいはずなのに、ね。 ドゥルーズの世代であれば、女優アイダ・ルピノぐらいはスターとして知っていて当然だと思うのですが、その大スターが監督に転向して撮った優れた作品──数はかぎられていますが──にはまったく言及していない。とすると、ドゥルーズは、やはりアメリカ合衆国がかつて大量に生産し、いまなお生産しつづけている活劇や西部劇やミュージカルなどにはほとんど興味がないと思われても仕方がありません。 たしかに、ミュージカルについては『シネマ2』の第3章で簡単に触れています。「とりわけミュージカルは、匿名化され代名詞化された運動であり、生成されつつ夢幻的世界を描き出すダンスである。バークレーにおいて増殖して反射する踊り子たちは、夢幻的なプロレタリアートを形成して」いるなどとドゥルーズはいくぶんか玄人を気どって書いていますが、そこでの彼は、バスビー・バークレーの「ゴールドウィン時代」と「WB時代」と「監督時代」とをまったく区別しようとしていない。たしかに、『フットライト・パレード』(ロイド・ベーコン監督、1933)から始まるワーナー時代のバークレーにはそうした傾向が認められぬでもありません。しかし、『四十二番街』(ロイド・ベーコン監督、1933)では「踊り子」たちに劣らず、兵士を演じる男のダンサーたちもまた「匿名化され代名詞化され」ているのですから、ドゥルーズの指摘はあたっていない。また、エディー・カンター主演の『突貫勘太』(エドワード・サザーランド監督、1931)から始まるゴールドウィン・ガールズの大活躍は、もちろんバスビー・バークレーの振付けによるものですが、一見したところ無個性的な女性たちと見えながら、それぞれの顔がクローズアップされる場面など、個性豊かな美女たちがキャメラに向かって微笑みかけており、その中に、ルシル・ボール、ポーレット・ゴダード、ベティー・グレーブル、ヴァージニア・メイヨ、マージョリー・レイノルズ、アン・サザーン、ジェーン・ワイマンなどなど、錚々たる未来のスターとなる個性豊かな女性たちが交じっていたのですから、まさに「プロレタリアート」の反乱ともいうべきものがすでに合衆国で準備されていたというべきではないでしょうか。 やはり、ドゥルーズには、ある種の女性蔑視が認められるといっても過言ではありません。たとえば、「フレッド・アステアの、しだいにダンスになる散歩」の例として「(ミネリの『バンド・ワゴン』)」が引かれていますが、冗談じゃあない。そこでは、かたわらを歩んでいたシド・チャリシーが無類のしなやかさでくるりと回転してみせたりしながらアステアに歩調を合わせることで「しだいにダンスになる散歩」を支えていたのであり、そのこと故に、あの《Dancing in the Dark》の素晴らしいデュエットが可能となったはずなのに、ドゥルーズはシド・チャリシーの名前すら挙げようとしていない。「ダンサーやペア」と呼ばれているその「ペア」としてしか認識されていないのでしょうか。アステアというなら、せめてその特権的な「ペア」にほかならぬジンジャー・ロジャースの名前を出すのが、最低限の礼儀というものでしょう。こうした事態からすると、『シネマ1・2』は、あからさまな女性蔑視に貫かれた書物だといわれても仕方がありません。 だが、その蔑視は男性にも向けられています。たった一人で百四十本以上の作品を撮っているラオール・ウォルシュの名前はいちおう引かれているのですが、なんとそれはハンフリー・ボガートがその役柄を嫌っていたという理由で中断されていたのを、ブレティン・ウィンダストの代わりに監督を引きうけて仕上げたという、とうてい純粋なウォルシュ作品とはいいがたい『脅迫者』(1951)の一本でしかない。これはあまりに理不尽であり、ウォルシュに対する非礼ともいうべき引用の仕方だというほかはありません。いや、それは、偉大なる作家ウォルシュにとどまらず、映画そのものに対する非礼だと判断せざるをえません。あの『ハイ・シェラ』(1941)の悲劇へとまっしぐらに進むスピード感に脅える風情もなく「運動イメージ」──その定義からはややそれることを承知でいっているのです──など、どうして語れるというのでしょうか。 ドゥルーズは、一応「フィルム・ノワール」の定義らしきものもしてはいます。『シネマ1』の第9章「行動イメージ──大形式」で、「フィルム・ノワールは環境を力強く描き、シチュエーションを提示し、行動の準備と行動の細かいスケジュールの設定に専念し(たとえば強盗のモデル)、最後に、新たなシチュエーションに、たいていの場合は回復された秩序に行き着く」と書いているからです。しかし、ラオール・ウォルシュが、『彼奴は顔役だ!』(1939)から『白熱』(1949)にいたるまで、『ハイ・シェラ』はいうまでもなく、ジェームズ・キャグニーやハンフリー・ボガートといった主演男優たちをどれほど呆気なく最後に殺してきたか──すなわち、「回復された秩序」には行きつくことのない悲劇を描いてきたか──を彼は知らないのでしょうか。『ハイ・シェラ』はもちろんのこと、その西部劇版のリメイクである『死の谷』(1949)でも事態は同様です。 ウォルシュは、ジャンルとしてはフィルム・ノワールではありませんが、『大雷雨』(1941)ではエドワード・G・ロビンソンを、『壮烈第七騎兵隊』(1941)ではエロール・フリンを──もっともこれは一種の伝記ですから、当然なのですが──そして『裸者と死者』(1958)ではアルド・レイをあっさりと殺してみせる。わたくしは、『裸者と死者』のアルド・レイ演じる軍曹が、戦場の草原でふと動きを止めるその最期を目にして、死と不動性とを結びつけたハリウッドの偉大なる悲劇作家の雄渾にして簡潔な筆遣いを目にしたように、深く感動したものです。彼は、ハリウッドの約束事を無視して──実際、この作品では、「裸者」にまつわる多くのショットがコード上の問題で切られています──好きなように多くの作品を撮りまくり、中にはアイダ・ルピノが素晴らしい『画家とモデル』(1937)のようなコメディーも含まれていますが──この驚くほど多作な監督に触れずにいることで、ドゥルーズはアメリカ映画のジャンルについて、ごく浅薄な見解しか示していないのです。 それにしても、フィルム・ノワールの傑作というべきジョゼフ・H・ルイス監督の『拳銃魔』(1950)のあの美しい二人の最期に、いかなる「回復された秩序」があるというのでしょうか。また、これは伝記にもとづいたものだからヒーローが死ぬのは当然ですが、決して無視されるべきではないマックス・ノセック監督の『犯罪王デリンジャー』(1945)の最期についても同じことがいえます。なお、この犯罪者については、ジョン・ミリアス監督が『デリンジャー』(1973)として、またマイケル・マン監督が『パブリック・エネミーズ』(2009)として撮っていますが、とりわけ後者は過小評価されていますが、わたくしの目には傑作と映ります。 しかし、ここでわたくしたちは、あのドン・シーゲル監督の『殺し屋ネルソン』(1957)の簡潔にして直截、かつ感動的なミッキー・ルーニーの素晴らしい死に方を思い出さねばなりません。この役者の壮烈な最期に「回復された秩序」など想起されるべくもありません。おそらくこの言葉で、ドゥルーズの、すべてはハッピー・エンドで終わるはずだという、アメリカ映画に対する認識不足が露呈されているような気がしてなりません。だから、たった一人で二百本近くの作品を残しているハリウッドの古典中の古典ともいうべきアラン・ドワンの作品をも、徹底して無視しているのでしょう。ウィリアム・A・ウェルマンも、ヘンリー・ハサウェイもまたほとんど無視されている。それでは、ハリウッドの西部劇やギャング映画を論じようもありません。また、アメリカン・コメディーという言葉が多用されていながら、ドゥルーズは、『襤褸と宝石』(1936)のグレゴリー・ラ・カーヴァもさることながら、肝心のプレストン・スタージェスの『レディ・イヴ』(1941)も語っていないし、『結婚五年目』(1942)にさえ触れていないのです。そんな人間に、どうしてアメリカン・コメディーを語る資格があるというのでしょうか。 さらに、比較的新しいところでは、すでに70年代の前半から作品を撮り始めていたクリント・イーストウッドにも触れられていないし、また、彼とも無縁ではなかったきわめて重要なイタリアの映画作家セルジオ・レオーネの名前も引かれていない。わたくし個人としては、多くのページがさかれているパゾリーニなどより遥かに重要なイタリアの映画作家と見なしているレオーネに触れずにいる理由を、ドゥルーズ本人に問いただしてみたい気さえしています。 だが、さらなる重要な言い落としとして、フランスの最も偉大な映画作家の一人であるジャック・ベッケルの不在が異様に思われてなりません。これだけは、許しがたい。どうしてベッケルに触れずに、映画が語れるのでしょうか。それは、ことによると、ベッケルをまともに評価しそびれた批評家アンドレ・バザンの「呪い」がドゥルーズに乗りうつっていたからかもしれませんが、いずれにしてもここでのベッケルの不在はとうてい容認することができません。 また、グリフィスがどのようにソ連映画を鼓舞したかという点で、ボリス・バルネットの初期の作品は絶対に分析せざるをえないはずです。ところが、バルネットの名前は、他人の文章の引用の中でほんのちょっぴり触れられているにすぎません。しかし、あのみずみずしい『帽子箱を持った少女』(1927)や『青い青い海』(1936)などはフランスでも公開されていたのですから、これについて沈黙をまもる理由がまったくもって理解しがたい。また、アブラム・ロームの『ベッドとソファ』(1927)と『帽子箱を持った少女』の二本を並べて見てみると、革命直後のモスクワの都市が、まさにグリフィス流というほかはない的確なショットの連鎖によって鮮やかに描き出されており、そこからエイゼンシュテインへの移行がむしろ不思議に思われるほどです。これが見られるようになったのは後のことですから仕方がないことではありますが、ロームの傑作『未来への迷宮』(1936)やバルネットの傑作『青い青い海』などがどれほどエイゼンシュテインに対抗すべき素晴らしい作品だったかということに触れぬ限り、いくらプドフキンやドヴジェンコの名前を引いてもまったく意味がない。ですから、バルネットやロームに言及することなく、エイゼンシュテインを論じられるはずもありません。また、戦後で言うなら、これまた傑作というべきアレクセイ・ゲルマンの『戦争のない20日間』(1976)などは、いったい「運動イメージ」による映画なのか、それとも「時間イメージ」による作品なのか、あるいはその分類を無効にする例外的な作品なのか、それすら明らかにはされていません。 また、かりに映画について語るというなら、その量からいっても絶対に触れざるをえないはずのインド映画への言及がまったくなされていないことも、不信感を募らさずにはいられません。サタジット・レイはともかく、せめてグル・ダットの『渇き』(1957)──これは一種のミュージカルです──ぐらいには触れておかぬと、『シネマ1・2』は、暇をもてあました西欧の知識人がやってのける無駄な戯れ言にすぎないと疑われても仕方がありません。また、香港人である胡金銓も語られてはおらず、時期的にみて充分に見ることができるはずだった『侠女』(1970、1971)の二部作さえ無視している。やはり、ドゥルーズは活劇が苦手なのだろうかと深く疑ってしまいます。また、エドワード・ヤンや侯孝賢もすでに1980年代には作品を発表し、国際的な評価も高まり始めていたというのに、そうしたアジア映画の「新しい波」への目配りもいっさいみられない。 最後に、日本映画について触れておくなら、溝口健二、小津安二郎、黒澤明──彼については、ほとんど無駄としか思えない長い言及(「黒澤は彼の流儀で形而上学者なのであり」!)云々──については語られているものの、市川崑への短い言及があるほかは、ほぼ全滅の状態です。山中貞雄や加藤泰や鈴木清順や三隅研次やマキノ雅弘といった重要な名前にぜひとも触れるべきだなどと無理難題をふっかけるつもりはありません。しかし、成瀬巳喜男ならパリでも見られたはずですから、これに触れずにおくのは不見識のそしりを免れえません。大島渚や吉田喜重などの作品はほぼ同時代のフランスでも知られていたはずなのに、これにも触れていない。ドゥルーズは女性蔑視主義者であるにとどまらず、欧米中心主義者だといわれても文句はいえないはずなのです。 いずれにせよ、ドゥルーズによるここでの「分類学」の試みは、それが基盤としているもののあまりにも不均衡な杜撰さゆえに、成立する以前に自己瓦解を遂げるしかないという類のものでしかありません。それは、読み進めるうちに抗いがたい不信感となって、ページをめくる手を思わず止めさせてしまいます。そうした名前をことごとく挙げるまでもなく、「運動イメージ」と「時間イメージ」という分類は可能だとドゥルーズはいうのかもしれませんが、それほど映画に対する敬意を欠いた無知蒙昧な人物の書いた『シネマ1・2』などという書物を、どうして信頼することなどできるのでしょうか。 機械論の錯覚 ──それでも、ドゥルーズは、ショットについて一応は語っていますね。 實 はい。それは、当然のこととして語っています。『シネマ1』の第2章を「フレームとショット、フレーミングとデクパージュ」と名付けているからです。そして、その1で、「後になって訂正すること」もありうるという条件で、「イメージのなかに現前するもの──たとえば大道具〔セット〕、人物、小道具──をすべて含むひとつの閉じられたシステムを規定すること、それも相対的に閉じられたひとつのシステムを規定すること、それがフレーミングと呼ばれている」と書いています。そして、その2で、「デクパージュ〔カット割り、すなわちショットの区切りと配列〕とは、ショットの規定である。そしてショットとは、総体の諸要素あるいはその諸部分のあいだで、閉じられたシステムのなかで成立する運動の規定である」とも述べています。一見したところ、この二つの指摘は、ショットを定義するものとしてきわめて正当なものと思えるかもしれません。だが、そこに重大な問題が含まれているのです。 問題は二つあります。まず、「デクパージュ〔カット割り、すなわちショットの区切りと配列〕とは、ショットの規定である」という一行を見てみましょう。この「規定」によれば、その作品のことごとくが「ワン・ショット」からなっているリュミエール兄弟は、「デクパージュ」などいっさい行っていませんから、結論として彼らは「ショット」すら撮らなかったということになってしまいます。同じ指摘は初期のエジソンについてもいえることになるでしょうが、それにしても、リュミエール兄弟の作品を語らずに、どうして「映画」について語ることなどできるとドゥルーズは考えているのでしょうか。また、全編がワンシーンとして撮られたヒッチコックの『ロープ』(1948)──厳密な意味ではワンショットとはいいがたいのですが──やアレクサンドル・ソクーロフの『エルミタージュ幻想』(2002)、さらにはセバスチャン・シッパーの『ヴィクトリア』(2015)などの場合はどうかなどと因縁をつけたくもなります。 二つ目の問題は、さらに深刻です。それは、「イメージのなかに現前するもの」と彼がいうときの「イメージ」なるものの定義が、まったくなされていないからです。その直前、第1章の「運動に関する諸テーゼ──第一のベルクソン注釈」の最後で、『物質と記憶』(1896)から導きだされたテーゼとして、「(1)瞬間的なイメージすなわち運動の動かない切断面が存在するだけではない。(2)持続の動く切断面である運動イメージが存在する。(3)最後に、時間イメージが、(中略)運動そのもののかなたに、存在する……」と書かれてはいるのですが、「フレーミング」の定義で語られている「イメージ」が、そのどれに当たるかはまったく明らかにはされていません。また、その「イメージ」という語彙は、ベルクソン的な意味での「イメージ」ですらありません。ベルクソンにとっての「イメージ」、すなわちフランス語の「イマージュ」《image》とは、『物質と記憶』によるなら、こうなります。「物質とは、私たちにいわせれば、「イマージュ」の総体なのだ。ここで「イマージュ」によって理解されているのは、ある種の存在であるけれども、その存在は観念論者が表象と呼んでいるもの以上の存在でありながら、いっぽう実在論者が事物と称するもの以下の存在である──イマージュとは、つまり、「事物」と「表象」との中間に位置している存在なのである」(『物質と記憶』、熊野純彦訳、岩波文庫、2015)。 ここで問題とすべきは、ドゥルーズが、『シネマ1』の第1章や第2章で、たとえば「フレームによって、わたしたちは、イメージは見るべきものであるだけではないということを学ぶ。イメージは、見えるものであるばかりでなく読めるものでもある」というように、かなり無防備に「イメージ」という言葉を使っていることなのです。しかも、その「イメージ」なるものが何であるかについて、まったく明らかにはしていません。それは、フィルムのコマの意味なのでしょうか。それとも、スクリーンに映っている持続する映像の一瞬のことなのでしょうか。 ドゥルーズは、ベルクソンの『創造的進化』(1907)の第4章「思考の映画仕掛と機械論の錯覚 諸体系の歴史を瞥見 生成の事象と偽進化論」に書かれていることを、ベルクソンが「エレアのゼノンの論証」について語っている背理に基づいて修正しようとしているのですが、人びとが機械論的な説明をしがちな理由としてベルクソンはこう書いています。「そのような選択をしたわけは、もちろん精神には映画の方法にしたがって操作する傾向があるからである。映画的方法は私たちの知性にとり実に自然なものであり、また私たちの科学の要求にもよくかなっているので、それだけにいよいよその思弁的な無力さを見ぬいて形而上学ではそれを捨てるようにしなければいけない」(『創造的進化』、真方敬道訳、岩波文庫、1979)。わたくしとしては、そのベルクソンの言葉をまともに受けとめたいと思っています。形而上学云々はひとまずどうでもよろしい。この「機械論の錯覚」という点にこだわりたいのです。すなわち、映画はまぎれもなく「錯覚」にもとづいた体験であるということです。すなわち、映画という対象は自然な存在ではなく、ベルクソン的にいうなら「イメージ」ではないということです。その意味で、『シネマ1・2』のドゥルーズは、その冒頭からベルクソンから離れていると見なすべきだということなのです。 まがいものを目にすることの「現実」性 ──だいぶ難しい厄介な話になってきましたね。 實 では、もっと簡単な話にしましょう。『創造的進化』で、ベルクソンは、「物質の空虚のばあいにせよ意識の空虚のばあいにせよ、空虚の表象はきまって充実した表象である」と書いています。この言葉など、まさしく映画について述べた言葉のように響いていはしないでしょうか。実際、あたかもその言葉をなぞるかのように、「希薄化したイメージ」について、「それはまた、総体のなかで或るいくつかの下位の総体が取り除かれる場合である(アントニオーニにおいては、無人の風景であり、小津安二郎においては、人が退去した室内である)」(『シネマ1』)とドゥルーズは書いているのです。 ここでも「イメージ」という言葉遣いはやや曖昧ですが、「空虚の表象はきまって充実した表象である」との関係で見れば、映画はやはり「表象」なのであり、その画面では何かが何かを──たとえば、生きた役者が虚構にほかならぬ作中人物を──代理しているにすぎず、ベルクソン的な意味での「イメージ」ではなかろうと思います。映画は、まぎれもなく「機械論の錯覚」にほかならず、その錯覚を享受する体験の「現実」性は間違いなく問えても、映画のショットそのものの「現実」性などというものは、とうてい問題たりえません。半世紀の昔に「いざこれから映画を語ろうとする場に身をおいてしまうと、そこには濃密な闇が地平線のむこうまで重くたれこめているばかりで、発される言葉という言葉は谺も呼ぶことなしに消えてゆくし、注がれる視線もことごとく虚空に吸いこまれてゆくしかない……」と書いておいたのは、そうした意味にほかなりません。 これは、『映画時評2012─2014』に収められた伊藤洋司氏との対談「映画を『人類』から取り戻すために」でも述べたことですが、映画は間違っても「人類」の普遍的な資産ではありません。映画とは、フーコー的にいうなら、その生誕の日付が正確に決定しうる比較的に新たでかつ過渡的な何ものかでもある「人間」という、まったく「新しい被造物」が捏造した途方もないフィクションの装置なのです。ですから、その被造物が捏造した映画は、とうてい普遍的な「現実」には分類しえない始末におえぬ何ものかでしかありません。そうした立場からすると、わたくしは、どれほど「現象学者」メルロ=ポンティに批判されていようと、ベルクソンの言葉には強く惹かれるものがあり、ベルクソンを進化発展させようとしたドゥルーズの『シネマ1・2』という書物には疑問符をつけざるをえません。 それとほぼ同じ理由によって、わたくしは、アンドレ・バザンの名高い『写真映像の存在論』(原著、1945、『映画とは何か 上』、野崎歓ほか訳、岩波文庫、2015)の主張をも信じることはできません。バザンの、そこでの、「内なる批判精神がどう反論しようが、私たちは表象された対象物の存在を信じないわけにはいかない。それはまさにふたたび=提示されたのであり、つまりは時間、空間の中に存在するものとなったのである」という言葉が映画についての正しい記述だとは、とても信じることなどできないからです。わたくしたちは、「表象された対象物の存在」を信じるふりをしているだけなのです。その信じるふりの「現実」性こそが問われねばならぬはずなのです。それに続いて、「映画とは、写真的客観性を時間において完成させたものであるように思われる」とバザンがいうときにも、その不信感は募るばかりでした。たしかに、最初の引用で「内なる批判精神がどう反論しようが」と書いていることで、バザンにある種の忸怩たる思いがあることは確認できたとしても、わたくしたちは、映画においては、「表象された対象物の存在」など、とても信じることはできないのです。映画にとって重要なのは、それがあくまで「存在」であるかに見えるまがいものでしかない、ということなのです。そして、そのまがいものを目にすることの「現実」性こそが問われねばならないというだけのことなのです。 バザンの悪名高い──などといっているのは、世界でわたくしひとりだけですが(笑)──「ルヴュ・デュ・シネマ」誌の1948年の3月号に発表された長編論文「ウイリアム・ワイラー、または演出のジャンセニスト」(『映画とは何かⅡ 映像言語の問題』小海永二訳、美術出版社、1970)については、『ジョン・フォード論』の序文でも批判しておりますが、ここでは、彼がいかにしてウィリアム・ワイラーの演出を擁護したかを見ておきます。そこでの彼は、ジャン・ルノワール、アンドレ・マルロー、オーソン・ウェルズ、ロベルト・ロッセリーニなどによる焦点深度の深い画面の演出において、「現実に内在するあいまいさを排除する傾向がある」と述べてから、「一九三八年から一九四六年にかけて、(中略)現実の美学から生まれた映画リアリズムの中で真に問題となるすべてのものを、次々と標尺として打ち立ててきているのも、やはり偶然ではないだろう」(同前)と述べています。そのうえで、ワイラーの特質を述べるバザンは、「遠写の頻繁な使用と背景の完全な鮮明さとは、観客を安心させ、彼に画面をよく見てその中から自分の見るべきものを選ぶための手段をゆだね、さらには、ショットの長さのおかげで、後からゆっくりとそれを見るのと同じように、自分自身の意見を持つための時間的余裕をも与えるのに、非常に力を貸している。ウイリアム・ワイラーの空間的深さは、アメリカ人の観客やこの映画の主人公たちの意識と同じように、自由で民主的でありたいと願っているのである!」とそのテクストを結論づけております。 何だ、重要なものは「民主主義」だったのかと嘲笑したりしている場合ではありません。その結論を導くものは、あくまで「リアリズム」という言葉だからです。それを確かめることは、「映画的リアリズムと解放時のイタリア派」(1948)という論文で、彼が、オーソン・ウェルズとロベルト・ロッセリーニとが、異なるやり方ではあるものの、同じ「リアリズム」に達していると述べていることと深く関連しています。 まず、『市民ケーン』(1941)については、こう語られています。「オーソン・ウエルズによって導き入れられた革命のすべては、使われなくなっていた空間的深さ(la profondeur du champ)の計画的な利用から出発している。(中略)オーソン・ウエルズのカメラは、劇的な空間の中に同時的に存在する視覚的空間の全体を、同じ鮮明さでとらえてしまう。われわれのために見るべきものを選択し、そのことによってそれに先験的な一つの意味を与えるデクパージュはもはやなく、切断面としてのスクリーンを持つ連続する現実の一種の平行六面体の中に、その場面に固有の劇的な分光像を見分けることを強制されているのは、観客の精神なのである」(『映画とは何かⅢ』、小海永二訳、美術出版社、1973)。 それに対して、ロッセリーニの『戦火のかなた』(1946)についてはこう述べられています。「『戦火のかなた』における映画的物語の単位は、現実を分析する抽象的な観点である《ショット》ではなく、それ自体複雑で曖昧な生の現実の断片に他ならない《事件》である。そしてこの生の《現実》が持つ《意味》は、精神によって互いに関係づけられる他の《諸事件》のおかげで、ただ後から引き出されてくるものにすぎない」(同書)。 まったく異なる映画的な手法を論じているこの二つの引用文に共通しているのは、「ショット」の非=重要性という問題であります。オーソン・ウェルズの場合には、「デクパージュ」の非=重要性となっていますが、それはほぼ同じことです。バザンはショットの長い作品の方に「現実」がとらえられているという姿勢をとっていますが、彼の「ワンシーン・ワンショット」の重視が、映画を「現実」に近づけているというかのごとき姿勢には、とうてい同調することができません。それは、すでに述べたように、バザンの「私たちは表象された対象物の存在を信じないわけにはいかない」という文章とほぼ同じことを意味していることになるはずだからです。それは映画の一場面が、撮り方あるいは演出の方法によって被写体の真実を告げていることもありうるという思想にほかならず、これにとうてい賛同することなどわたくしにはできはしないということを、意味しております。 かりに、それがどれほど「真実らしい」光景を見るものに提供していようと、それはあくまでも「真実らしさ」にほかならず、すなわち「真実」のまがいものなのであって、間違っても「真実」そのものでないことは明白です。いったん撮られてしまった映像の映画的な再現は、それがフィルムというアナログ的な方法であれ、DVDというデジタル的な方法であれ、それがどれほど臨場感にあふれた「現実」性に充ちていようと、それはしかるべく巧みに「表象」されているということにすぎず、間違っても「現実」そのものではない。それは、わたくしが「ドキュメンタリー」と「フィクション」の区別を容認しない姿勢にもつながっているのです。 ショットの「穏やかな厳密性」 ──でも、人びとは、なぜ、人工的な装置によって撮られた映画に、「現実」感などを求めてしまうのでしょうか。 實 そうした「現実」があると考えておいたほうが、安心できるからでしょう。文学においても、映画においても、「現実主義」という術語ばかりがひとり歩きしていますが、それはそうしておいたほうが便利だからでしょう。「表象」されるもの、すなわち被写体の迫真的な「現実」性というものと、表象しつつあること、すなわち「撮る」ことの「現実」性とがたやすく混同されてしまうのです。まともな映画作家であれば、フィクションであろうとドキュメンタリーであろうと、「撮る」ことの「現実=現在」性にすべてを賭けているものです。そして、優れた批評家たちもまた、被写体の「現実」性より、「撮る」ことの「現実=現在」性に賭けた作家たちの真剣さが提供してくれる画面を見ることの「現実」性に賭けているのです。わたくしの批評が、しばしば作家たちへの「恋文」のように見えてしまうのは、そのためかもしれません。 ここで、「Ⅱ 物語を超えて」で述べておいたことを思いだして頂きたいと思います。そこでのわたくしは、エリア・カザンの『エデンの東』(1955)を「演出」の映画、ニコラス・レイの『理由なき反抗』(1955)を「撮影」の映画だといっておきましたが、それはいま述べておいたことを踏まえての発言にほかなりません。「Ⅲ 映画崩壊前夜とショットの誕生」で引用しておいたジャン=マリー・ストローブの言葉もまた、そのように読めます。そこに肯定的に引かれていた「リュミエール、グリフィス、フォード、ラング、ムルナウ、ルノワール、溝口、スタンバーグ、そしてロッセリーニ」などは、いずれも「撮影」の監督であり、否定的に引かれていた「エイゼンシュテイン、黒澤、ウェルズ、レネ」などは「演出」の監督ということができるかと思います。 もっとも、ストローブの発言にまったく不満がないわけではありません。たとえば、スタンバーグは、はたして「撮影」の監督かといささか首をかしげざるをえません。また、ウェルズの場合、『市民ケーン』などはともかく、わたくしがもっとも好きでもっとも高く評価している『黒い罠』(1958)などは、優れた「撮影」の映画として受けとりたく思っています。とりわけ、その導入部の「ワンシーン・ワンショット」は充実しきっています。 何やら爆発装置のようなものにスイッチを入れる手のクローズアップから始まり、やや高めに上昇するキャメラが倉庫のような建物の向こうにひと組の男女を認めると、装置を持った男が右手へと走り、その影が建物の壁を大きくよぎり、駐車場らしき場所に置かれたオープンカーの後部に装置を据えて男は走り去る。何も知らぬ男女が車に乗り込んでそれが動き始め、その車が建物の影から通りに出てくるさまを俯瞰する。車がその大通りを前進してくると、警官がそれを止め、若い男女がその前を横切る。すると、それがチャールトン・ヘストンとジャネット・リーのカップルであることがわかるのですが、キャメラは車と若い男女とを追いながらさらに後退し続けると、多くの男女や荷車を押した男たちが画面を横切り、中には山羊の群れまで交じっていたりするのですが、やがて車と男女とは国境付近の警備員のオフィスに近づき、国籍をめぐるやりとりがある中、男女はキャメラから遠ざかってゆくのですが、こんどはキャメラが舗道を歩む彼らに併走し、どうやら大通りの奥にも道があるらしく、そこを通りすぎる車をやり過ごすようにして道ばたで歩を止める二人は、その場で抱擁する。その瞬間、爆薬を仕掛けられた車が爆発して炎上するのです。その炎上シーンは新たなショットで示されるのですが、その瞬間までのシーンは、いっさい切れ目なしのワンシーンで撮られており、このモノクロームで撮られた導入部の長いショットは、たとえば『市民ケーン』での名高い天窓を抜けるキャメラによるワンシーン・ワンショットなどよりはるかに充実しており、こんな画面が撮れる監督はやたらなものでないと見るものを納得させる。これは歴史に残る素晴らしい導入部であり、オーソン・ウェルズが物語の語り方を刷新したか否かはともかく、わたくしとしてはこの長い充実したショットを否定する気にはなれないのです。 他方、エイゼンシュテインですが、彼が「優れた」という言葉にはとうていつくしがたいほどの多くのみごとな作品を残したことは、いうまでもありません。わたくし個人としては、エイゼンシュテインの優れた作品は、役者たちがどれほどみごとな演技を示そうと、キャメラがどれほどみごとな撮影をしてみせようと、たしかな作中人物が存在する後期の作品より、むしろ群衆にキャメラを向けた初期の作品、すなわち『戦艦ポチョムキン』(1925)や『十月』(1928)、あるいは『全線』(1929)などのほうがはるかに優れていると思わざるをえません。彼はまぎれもなく「演出」の映画作家であり、とりわけその後期においては、どこにクローズアップを挿入するかを考え抜いて画面の連鎖を構想していたように思えます。ところが、「撮影」の映画作家であるグリフィスの場合は、撮っているうちに、ここはどうしてもクローズアップでなければならぬと気づいたという違いがあるのではなかろうかと思っています。 だが、それにしても、理論家と呼ばれる人たちは、どうして「ワンシーン・ワンショット」だの、「クローズ・アップ」だの、「モンタージュ」だのをごく特殊なものとして語りたがるのでしょうか。いずれも撮影の一方法でしかないはずなのですが、それが理論的な特権化を蒙ってしまうのはなぜでしょうか。たとえば、ジル・ドゥルーズは、映画を論じたものではないフェリックス・ガタリとの共著『千のプラトー』(1980)の「7 零年──顔貌性」の章で、いきなりグリフィスとエイゼンシュテインに言及しているのです。「意識と情念の顔貌性、共鳴とカップリングの冗長性。この場合もはや、クローズ・アップは表面を拡大すると同時に閉鎖するという効果をもたず、未来を予見する時間的価値という機能をもつこともない。クローズ・アップは強度の階梯の出発点をしるし、あるいはその階梯の一部となるが、それは顔たちがたどる線を、終着点としてのブラック・ホールに近づくにつれて変質させる。グリフィスのクローズ・アップに対するエイゼンシュテインのクローズ・アップ(『戦艦ポチョムキン』のクローズ・アップに見られる苦悩や怒りの強度の上昇)。こうした顔の二つの限界‐形象のあいだには、ありとあらゆるコンビネーションが可能であることは、ここでも容易に見てとれる」。 そう書いている作者たち二人は、その後パプストの『パンドラの箱』(1929)の話に移って行くのですが、それについてはここでは触れずにおきます。このテクストを書いたのがドゥルーズだと証明する術はもはや残されてはいませんが、その直前に「顔の上、顔の一要素の上、顔貌化されたオブジェの上になされるグリフィスのクローズ・アップは、未来を予見する時間的な価値をもっている」という言葉も読めるのだから、おそらくこれを書いたのはドゥルーズでしょう。だがそれにしても、どうして彼はこれほど「クローズ・アップ」にこだわるのでしょうか。グリフィスがクローズアップを巧みに画面にとりこんでいたのは確かな事実だとしても、「撮る」監督としての彼の真の偉大さは、ごく普通のショットをごく普通に撮って見せることにあったのだとわたくしは思っています。「Ⅲ 映画崩壊前夜とショットの誕生」でも触れたことですが、『東への道』(1920)でリリアン・ギッシュがスーツケースを抱えて一本道を遠ざかって行くショットのみごとさに打たれた瞬間の記憶を忘れがたく思っているわたくしは、彼のクローズアップだけを語っているドゥルーズの意図がよくわかりません。グリフィスを「クローズ・アップ」や「モンタージュ」といった視点のみから語っていては、ショットにこめられた肝心な強度といったものを、見落としてしまいかねません。 『散り行く花』(1919)で、リリアン・ギッシュが横暴な父親のもとを逃れ、中国人を演じているリチャード・バーセルメスの家に逃れ、そこで介抱されてベッドの上でほっとするシーンがありますが、そこでのキャメラの被写体への寄り方が絶妙なのです。いつの間にか、ほとんど気にとめるいとまもなく、深い陰翳にみちたクローズアップとなっている。ただ、彼女を思う一心のリチャード・バーセルメスのクローズアップが成功していたかどうかといえば、首を傾げざるをえません。そうしたクローズアップもさることながら、リチャード・バーセルメスの店の前に拡がる広場の光景が何度も描かれていますが、彼がいくぶんか前屈みになってその広場を横切ったりするショットの方が、はるかに見応えがあるのです。それは、わたくしが『ジョン・フォード論』の「馬など」の章で『香も高きケンタッキー』(1925)について述べたように、ショットの「穏やかな厳密さ」あるいは「厳密な穏やかさ」ともいうべきもので、見るものを魅惑するのです。そして、そのショットの「穏やかな厳密性」とも言うべきものは、ゴダールにまで受けつがれています。 グリフィス、フォード、ゴダール ──それは、どんなところにうかがわれますか。 實 たとえば、『ゴダール・ソシアリスム』(ジャン=リュック・ゴダール監督、2010)の後半部分、テレビ番組のスタッフがインタビューに来る人気のないガレージで、背後には大きな風車がまわっており、そこで少年や動物たちに向けられたキャメラ・ワークを思いだしてみてください。風車の陰になったスタッフの一員が何やら文句を言っている場面など、空間的な構造をキャメラが律儀に追っており、ははんと思わせます。また、思いきりのよい少年がいきなり梯子で納屋の二階へ登って行くと、無人になった空間には階上からのほこりがしばし落ちかかるというショットなども、物語の上で何を説明しているわけでもないのに、妙に印象深いショットになっています。そうした画面に導かれるように、ついにグリフィス的ともいえればフォード的ともいえるショットの連鎖が堂々と行われることになるのです。 それは、手前に黒い騾馬だか驢馬だかが繫がれていて、黒人女性のキャメラマンがあたしの帽子がないといって騒ぎたてる場面です。そこではまず、斜めに見えている家の側面の階段に腰を下ろして絵のようなものを描いている少年が、やや遠景から示されます。騒ぎを聞きつけ、少年は帽子を隠す。そこへガレージから騾馬をよけて姿を見せた黒人の女性キャメラマンが階段を登り、少年の隠した帽子を見つけ、腰をかがめてから立ちあがってそれをかぶるのですが、少年のしていることに興味を示した彼女がふたたび屈みこむ。そのとき、手前の騾馬の耳の動きにあわせてキャメラは同じ軸で二人に近づく。そのショット連鎖の呼吸が、グリフィス的というか、フォード的なのです。 ゴダールには、批評家時代の初期に、ハンス・ルカス名義で「カイエ・デュ・シネマ」誌に発表した「古典的デクパージュの擁護と顕揚」(1952、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』奥村昭夫訳、筑摩書房、1998)という興味深い評論があります。これは、16世紀のフランスの詩人ジョアシャン・デュ・ベレイが書いたプレイヤッド詩人の決意表明ともいうべき『フランス語の擁護と顕揚』になぞらえた一種の決意表明としてはなはだ興味深いテクストです。そこでの二十歳そこそこのゴダールのテクストは、「デクパージュ」というものにおおむね批判的だったアンドレ・バザンの批評的な姿勢に対する反=批判ともいうべきもので、「カイエ」の編集長だったバザンがよく載せたものだと思われるほどの、痛烈なバザン批判なのです。彼は、やはり若者には鷹揚に対応していたのでしょう。そこでの彼は、二十二歳の青年にはふさわしからぬ大胆さで、というかその年齢だけが許している思いきりのよさで、われわれは見ることを忘れていると宣言しています。 「アメリカのコメディーが出現したことがトーキーが出現したことと同じくらい重要なことであるのは、アメリカのコメディーはアクションの迅速さをよみがえらせ、瞬間を心ゆくまで享受することを可能にしたからである。事実、われわれは見るすべを忘れてしまっているのだ。肩をぴくっと動かす仕種からは恐怖しか、鼻をひきつらせる仕種からは怒りしか思い描こうとせず、筋立てを、その展開の意外さを通してとらえようとするよりも、その展開を説明するものとしてとらえようとしてあくせくしているのだ。したがって私はこう言いたい。アメリカのコメディーはマック・セネットの笑劇によりはD・W・グリフィスに、またおそらくは、『恐怖の一夜』の演出家によりは『ケリー女王』に多くのものを負うているのだ」。その負い目は、ドイツ表現派に行きつくとゴダールは断言しています。「ルビッチは視線を、スタンダールが視線とはこういうものだと書いたもの、つまり貞淑な媚態にとっての大いなる武器に仕立てあげたのである」(同前)。 最後まで読めば、ここでゴダールがアメリカのコメディーと呼んだものこそが、人びとに見ることを思い出させてくれたのだということになるでしょう。それに貢献したのが、グリフィスであり、シュトロハイムであり、ルビッチでもあるということになると、その歴史的視点が正当か否かを問う以前に、視線を「貞淑な媚態にとっての大いなる武器」と呼ぶ二十二歳の青年の姿勢につい同調したくなるではありませんか。バザンはまた、上映時間が2時間50分超のワイラーの『我等の生涯の最良の年』(1946)のショット数が「概算で五〇〇にしかならない」(『映画とは何かⅡ』)といい、それを「一時間五〇分の上映時間に対して約一二〇〇回ほどのショット連結を数える」(同前)というジャック・ベッケルの『幸福の設計』(1947)と比較して、暗にワイラーの優位を表明しているかのように読めますが、あたかもそれを批判するかのように、ゴダールはこう書いているのです。 「私はまた、こうとさえ言いたい。《十分間ショット》のある種の心酔者たちはカットがかわるたびに顔を赤らめることを自分の義務と考えているものだが、このカットがかわることに由来する空間的不連続性のなかにこそ、カットをかえるというこのスタイルの彩が含みもっている真実の大部分の根拠がある、と」(『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』)。また、『求められていない女』(1949)や『凌辱』(1950)などを挙げ、「アイダ・ルピーノがトライアングル社のスタイルにもどってゆきつつあることに注目していただきたい」(同書)と書いている二十二歳のハンス・ルカス青年は、『シネマ1・2』を書いていた六十歳ごろのドゥルーズより遥かに多様な作品を見ていたことを予測させます。「トライアングル社のスタイル」という言葉で語っているのは、いうまでもなくグリフィスの作りあげたスタイルという意味にほかなりません。こうして、ゴダールはハワード・ホークスの擁護へと向かってゆくのです。 ショットとは何か ──二十二歳の青年ゴダールの前にほとんどの理論家たちが劣勢にあるように思われるとなると、はたして「理論」とは何かと改めて問いたくなりますね。では、ショットとは何かを有意義に問うた批評家や理論家はいないものなのでしょうか。 實 まったくいないわけではありませんが、それについてはいずれ触れるとして、ここで、二つのことを言ってまとめておきたいと思います。一つは、批評家としてのゴダールの活動が、アンリ・ラングロワによるシネマテーク・フランセーズでの上映に多くを負っていたということでしょう。1966年のリュミエールの特集上映のおり、「アンリ・ラングロワのおかげで」という講演で彼はこういっております。「映画のなかで天井が見られるようになったのは『市民ケーン』からではなく、もちろんグリフィスから、それにまたガンスからだということ、シネマ=ヴェリテが創出されたのはジャン・ルーシュによってではなくジョン・フォードによってだということ、アメリカのコメディーの起源はウクライナのある映画作家[ボリス・バルネット]にあるということ、また『メトロポリス』の映像は、ブーグローと同時代人のフランスのある無名のカメラマンに由来するものだということを知っているわけですが、これはみなアンリ・ラングロワのおかげだということです』(『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』)。つまり、ゴダールは、見ることを見ることによって学んだということなのです。 それから、わたくし個人は、これまでアンドレ・バザンに対してはかなり厳しい批判をしてきましたが、やはり、ときには、読むことによっても見ることは学べるのだといっておきたい。すなわち、見ることで読むことの限界を知るということも重要なのです。その意味で、バザンの全発言がごく最近刊行されたことは真に悦ばしいことといわねばなりません(André Bazin, Écrits complets, Éditions Macula, 2018)。また、ドゥルーズの『シネマ1・2』について、多くの批判的な言辞を弄してきましたが、それは「哲学者」としての彼を傷つける意図からではまったくありません。実際、彼の『差異と反復』(原著、1968、財津理訳、河出書房新社、1992)や『襞──ライプニッツとバロック』(原著、1988、宇野邦一訳、河出書房新社、1998)といった書物などは、いまもわたくしを刺激し続けている書物なのです。 次章では、おそらく、ショットをめぐって最後の問題を論じることになるでしょう。しかし、「最後」といった言葉遣いはつとめて避けるべきだなどといってきた手前、それにふさわしい別の表現で、この「ショット」をめぐるつぶやきを何とか締め括りたいと思っています。ただ、決着をつけることだけはしないつもりです。きまって人間の視線を逃れ、それを無効にする「映画」と呼ばれるあの不在なるものの輝きに、いつまでも魅せられていたいからです。 Ⅴ ショットを解放する 映画の理論 ──「Ⅳ 「理論」的な問題について」では、いわゆる「映画理論」なるものが映画そのものに追いついていないと指摘され、理論とは無縁のショットの「穏やかな厳密さ」、もしくはその「厳密な穏やかさ」という言葉で、ショットの実践的な作動ぶりが語られていました。また、アンドレ・バザンによるワンシーン・ワンショットのような技法の特権化はゴダールによって批判されていたし、エイゼンシュテインを中心とする映画史の構築には批判的で、重要なのはグリフィスやフォードだというストローブ的な視点も重視されていました。そこで、改めてショットの重要さが語られると思うのですが……。 實 映画の理論をめぐっては、ここに一冊の興味深い書物が存在しています。オーストラリア系の研究者エイドリアン・マーチンが書いた『ミザンセヌとフィルムスタイル──古典的ハリウッドからニューメディア・アートまで』(2014)という書物がそれにあたります。しかも、とりわけ興味深いのは、その第一章のタイトルなのです。それは、「あらゆることを意味しながら、しかるべき特定の意味を持たない語彙について」《A Term That Means Everything, and Nothing Very Specific》というきわめて挑発的なものなのです。つまり、映画理論に特有な術語のいくつかは、「あらゆることを意味しながら、しかるべき特定の意味を持たない」もの、つまりは、曖昧で理論的な価値さえ持つことがないばかりか、無用の混同すら招きかねないものだと揶揄されているのです。そこでの著者は、「モンタージュ」《montage》、「シネフィリア」《cinephilia》、「作家」《auteur》、「ジャンル」《genre》など、どちらかといえばフランス語起源の語彙が、アングロサクソン系の理論家たちによって書かれた映画理論書にしばしば見いだされる場合を問題にしているのです。 しかし、そうした理論的な苛立ちを最初に表明したのは、マーチンその人ではありません。彼は、いまは亡きポール・ウィルメンの20世紀の末期に書かれた書物(Looks and Frictions : Essays in Cultural Studies and Film Theory, British Film Institute, 1993)にしたがってそういっているだけなのです。ウィルメンは、とりわけ演出を意味する「ミザンセヌ」《Mise en Scène》というフランス語起源の術語の使用について、この上なく慎重であるべきだと説いており、それはまったくその通りなのだと思います。 実際、マイケル・ライアンとメリッサ・レノスによる『Film Analysis 映画分析入門』(原著、2012、田畑暁生訳、フィルムアート社、2014)には、「元はフランスの演劇用語であった。映像の枠内における各種要素(俳優、大道具、セット、空間)の配置を指す」といった「ミザンセヌ」の定義がなされていますが、それが正確無比なものとはとてもいえません。さらに、マーチンは、ジャック・ランシエールによる英語の記事(《The gaps of cinema》, NECSUS, Issue 1, 2012)を引きながら、このフランスの哲学者が、《Mise en Scène》という語彙について、その意味するところを充分に知ることなしに多くの「シネフィル」的な批評家によって使われていると書いていることに言及しているのです。そうした意味で、わたくしは、本来なら「ミザンセーヌ」と発音されるべき《Mise en Scène》というフランス語、すなわち合衆国で映画理論を論じる者たちの周辺では「ミザンセン」として頻繁に使われている語彙が、あたかもそれが理論的に有効であり、かつまたそれが厳密な使用法だというかのようにまぎれこんでいる英語圏の理論書を、まったくというほど信用することができません。 例えば、合衆国の大学で研鑽を積んだ日本の研究者の中では最良の成果といってよい木下千花の『溝口健二論:映画の美学と政治学』(法政大学出版局、2016)や、滝浪佑紀の『小津安二郎 サイレント映画の美学』(慶應義塾大学出版会、2019)などのように、前者では「演出」という項目さえ立っていながら、「ミザンセヌ」という語彙──後者では「演出」と書かれているだけですが──が、理論的にはやや無防備なかたちで使われているように思えて、いささか気がかりにならぬでもありません。 その理由は、1950年代の終わりころ、フランスの「カイエ・デュ・シネマ」誌の周辺で唱えられていた「作家政策」《Politique des Auteurs》というごく曖昧なフランス語の語彙を、ピーター・ウォーレンが、その著作『映画における記号と意味』(1969)の中で、「作家理論」《The auteur theory》と訳してしまって以来、それに類する術語をあたかも何ごとかを正確に指示するものであるかのごとくに信頼している姿勢をとるアングロサクソン系の研究者たちを、まったく信頼する気持ちにはなれないのと同様だといえます。 実際、すでに1956年の段階で、まだ映画評論家だった時期のエリック・ロメールは、ひとまず「作家政策」と訳しておく《Politique des Auteurs》について、「あらゆる瞬間に確証可能な断定ではなく、一種の指針、一種の政策のようなものだ」(「カイエ・デュ・シネマ」1956年10月号)と述べていました。すなわち、それは、検証可能な理論などではいささかもないのであり、それは「作家主義」という日本語についてもいえることなのです。それこそまさに、「あらゆることを意味しながら、しかるべき特定の意味を持たない語彙」の典型にほかならぬからです。 もっとも、1960年代の後半のわたくしが、そうした事態にすぐさま敏感に反応していたわけではありません。ピーター・ウォーレンの著作が出版された当時、わたくしは映画について言及することなど考えてもおらず、フランス文学を専攻する学究生活に明け暮れていたからなのです。のちに、アンドリュー・サリスの『ジョン・フォード 映画の神秘』(1976)を読んだとき、「作家理論」なるものが英語圏の学界にもたらした悪しき影響について初めて自覚することになったというにすぎません。サリス自身は、《Politique des Auteurs》を《The auteur theory》とは呼ばず《Auteurism》とも訳しているのですが、《ism》という接尾語からして、そこでも意味の歪曲は明らかです。 そこで、エイドリアン・マーチンの著作に戻るなら、その題名が《Mise en Scène》というフランス語起源の語彙を含んでいる以上、当然のことながら、その語彙の定義に向かうはずのものと思われても不思議ではありません。実際、彼はこう書いています。「そこで、《Mise en Scène》とは正確には、あるいは不正確には何を意味するのか。操作可能な定義の確立を目指すあらゆる試みは、当然のことながら、異質で散漫な行程にまで言及する必要があるだろう」。つまり、著者としては「ミザンセヌ」という概念を肯定する方向へと議論を進めたがっているのですが、彼は、その語彙の完璧な定義を下すというより、具体的な作家の作品、実際には、インドの50年代から70年代の優れた映画作家リトウィック・ガタク──最近では、ゴトクという表記も多用されている──の『アジャントルック』(1958)──『非機械的』とも訳されている──や『雲のかげ星宿る』(1960)などのフィルム・スタイルを分析することで、それに代えているのです。したがって、ある意味では、この語彙もまた、いまだに「あらゆることを意味しながら、しかるべき特定の意味を持たない」ものにとどまっているというべきなのかもしれません。 一八〇度の規則 ──では、「あらゆることを意味しながら、しかるべき特定の意味を持たない」という曖昧な語彙が、理論的に「ショット」の概念とかかわりを持つことはないのでしょうか。 實 ショットと深い関係を持っている曖昧な語彙が、まぎれもなく合衆国の映画理論に存在しているので、まさしくそのことを論じようと思っていたところでした。例えば、デイヴィッド・ボードウェルがその『小津安二郎 映画の詩学』(原著、1988、杉山昭夫訳、青土社、1992)でしばしば問題としている「一八〇度の規則」というものがそれにあたっているといえるでしょう。 例えば、ボードウェルは、その小津論の「5 内在的規範に向かって」で、「古典的なハリウッド映画は、『一八〇度のライン』や『アクション軸』(中略)の規則を神聖視した。これは、人物を向き合うように配置し、彼らの相互の関わり合いを示す様々なショットを、アクション軸の一方の側から撮ることを前提とした」ものであると書いています。これは、小津の作品で、あの誰もが知っているほぼ真正面から人物を捉えた不可思議なショットの連鎖を意味しており、それがハリウッドの規範からすると、ごく特異なものだとボードウェルはいっているのです。だが、はたしてそれは正しい主張なのでしょうか。 ちなみに、そこで「規則」と呼ばれているのは、原文では《the rule》の一語にあたっているのですから、一応「規則」という訳語は正しいといえるでしょう。しかし、著者はそれとは異なる場所では、《system》(一八〇度のシステム)と書いており、そこには若干のニュアンスの違いが見られます。「規則」なら、それに従わない場合はすべてが違反と見なされることになりますが、「システム」であるなら、それとは異なる「システム」を代置すればそれでよいということになるからです。 『小津安二郎 サイレント映画の美学』の滝浪佑紀もまた、ボードウェルに倣って、「一八〇度の規則」という言葉をしばしば使用しており、ときにその規則を遵守しないこともある「小津が〈視線の一致しない切り返し〉の使用を本格的に試し始めたのは、一九三一年以降のことだった」と書いています。その指摘そのものはひとまず正確なものだといえますが、では、それはいったい誰が制定した「規則」なのかという点をめぐっては、曖昧さが残されているといわざるをえません。誰かが制定したというより、多くの人びとがいわば慣習化された編集方法にごく自然にしたがっているというのなら、それは、規則というより、すでに引いたエリック・ロメールの言葉通り、間違っても「その正当性が決して確証されることのない」慣習というほどの意味にほかなりません。だから、「一八〇度の規則」という「規則」などというものは、どこにも存在してはいない。しいていうなら、それはいわゆる「一八〇度の慣行」とでもいうにとどめておくべき語彙なのです。 そもそも、ボードウェルは、「古典的なハリウッド映画は、『一八〇度のライン』や『アクション軸』(中略)の規則を神聖視した」と書いていますが、そう断言することに彼はどれほどの自信を持っているのでしょうか。この指摘そのものが事態を正確に記述しているとはとても思えないのですから、ここで改めてそう問うてみる必要があるかと思います。 そこで、ある意味で「古典的なハリウッド映画」を象徴すると見なされている映画作家チャールズ・チャップリンが、この「規則」についてどのような態度をとっているかを見てみることにしましょう。彼の作品の中でも物語的な要素がとりわけ濃密な『巴里の女性』(1923)を見たことがある人なら誰もが知っているように、そこでの監督チャップリンは、「一八〇度の規則」が適用されるような人物配置にキャメラを向けることを意図的に避けています。例えば、盛装したアドルフ・マンジューとエドナ・パーヴィアンスとが豪華なレストランに登場してテーブルに腰をおろす瞬間がそうであるように、チャップリンは、あたかも舞台に立っているかのごとき二人の人物をキャメラのほぼ真正面に向かって並んで座らせることが多いのです。そのため、二人に向けるキャメラとの距離もほぼ同じものとなっているので、ここには「一八〇度の規則」など成立しようもありません。それでいて、物語を語るにあたって、監督たるチャップリンはいかなる困難に遭遇することもありません。つまり、「一八〇度の規則」を無視しても一本のハリウッド映画は充分に成立するのですから、どうしてその「神聖視」が問題になったりするのでしょうか。 『巴里の女性』の二年前に撮られたグリフィスの『嵐の孤児』(1921)を見てみると、そこにも「一八〇度の規則」と思われる画面の連鎖などまったくといってよいほど見られません。唯一、愛しあっているのに勃発したフランス革命で離ればなれになっていた騎士のジョセフ・シルドクラウトと孤児のリリアン・ギッシュとが再会する場面で、二人の横顔が交互に示される場面がないとはいえませんが、それもたまたまそうなったといった程度のキャメラワークでしかなく、システム化された「一八〇度の規則」が適用されたと思われる形跡は、どこにも認められません。しかも、例えば革命時の裁判の場面での検事と被告との真正面からのショットが交互に示されているように、ここでは「一八〇度の規則」はまったくといってよいほど機能してはおりません。だとするなら、ボードウェルのいう「古典的なハリウッド映画」とは、いったいいつの時代をいうのでしょうか。 古典的なハリウッド映画 ほぼ同じ時期に撮られたエーリッヒ・フォン・シュトロハイムの『愚なる妻』(1922)にも、「一八〇度の規則」によるショットの連鎖など、どこにも見あたりません。贋伯爵シュトロハイムに誘惑されるアメリカ人の富豪ヒューズ氏の妻(ミス・デュポン)とその動向を不審に思うヒューズ氏(ルドルフ・クリスチャンズ)とが寝室で向かいあう場面などでは、二人の顔がほとんど真正面から撮られているほどなのです。 また、これまで見た監督たちよりもデビューがおそかったラオール・ウォルシュの『バグダッドの盗賊』(1924)の場合にも、その規則はまったく機能していません。もっとも、ウォルシュは、随所に「カッティング・オン・アクション」による小気味のよいショットの連鎖を試みているので、被写体に向けるキャメラの視点の同一性という概念が彼によって強く意識されているのは間違いありません。 そこで、ここにウォルシュよりも若いジョン・フォードの名前を喚起するなら、事態はたちどころに異なる様相を見せることになります。演出における人物の視線の動きにきわめて自覚的なフォードの場合、彼は「一八〇度の規則」に忠実な作家であることは明らかだとひとまずいうことができるかもしれません。例えば、『アイアンホース』(1924)の冒頭近くで、ヒロインのミリアム(マッジ・ベラミー)がリンカーン大統領に声をかけ、二人が同郷で旧知の仲であったことを告げ、それに対して大統領がその事実をまざまざと思いだす場面など、「一八〇度の規則」にしたがって撮られているとも見えるからです。また、最後の鉄道の開通式の場面でも、群衆の中にいる若いデーヴィーを演じているジョージ・オブライエンとミリアムとが見つめあい、会話を交わすシーンなどでは、右手を見つめる男と左に視線を向ける女のバストショットが、ほぼ「一八〇度の規則」にしたがって撮られているかのように見えはします。 しかし、ここには二人の位置を示す全景のショットなどいっさい存在していないので、「一八〇度の規則」に従って撮影されていることを証明するものは、何ひとつとして存在しておりません。そこからいえることは、画面の左手を見て話す男と画面の右手に視線を向けて言葉を口にする女のショットが連鎖的かつ交互に示されれば、「一八〇度の規則」とはいっさい無縁に、あたかも彼らが見つめあって会話を交わしているかのような錯覚を画面に行きわたらせることができるということです。では、フォードは、その後、見つめあう二人を、どのように撮ることになるのでしょうか。 規則の無視 トーキーになってからのジョン・フォードは、無声時代から視線の動きにきわめて敏感な映画作家だっただけに、「一八〇度の規則」にあえて逆らうかのような演出を好んで行っています。それがもっとも顕著にあらわれている作品は、『戦争と母性』(1933)であるかもしれません。母親のヘンリエッタ・クロスマンと息子のノーマン・フォスターとが冒頭でテーブルをはさんで食事をとっている場面などでは、ふたりの姿がほぼ正面から捉えられているので、そこではまさしく小津安二郎そっくりのショットの連鎖が行われていると断言できます。また、息子のノーマン・フォスターがその恋人のヘザー・エンジェルと泉のほとりで出会う場面でも、見つめあう二人はそれぞれ真正面からのショットに収まっているので、ここでも小津を思わせる編集がなされており、「一八〇度の規則」などまったく機能していません。さらには、母とその息子が寝室の前で口論──母は息子の恋人を嫌っています──する場面でも、ヘンリエッタ・クロスマンが画面の右側に瞳を向けると、ノーマン・フォスターもまた画面の右側に瞳を向けているので、ここでは二人の視線が交わっているとはとても思えません。この場面では、ことによると、母子の敵対関係がこの交わらない視線で強調されているのかもしれません。 正面から見つめあう二人という構図は、『戦争と母性』の直前に撮られた『肉体』(1932)のラストシーンにも認められています。ドイツ生まれの粗暴なプロレスラーのウォーレス・ビアリーが合衆国にわたり、悪人組織の罠にはまって投獄されてしまうのですが、ようやく彼の真意を悟ったアメリカ女性のローラ(カレン・モーリー)が牢獄に彼を訪ね、囚人と一般人とをへだてる防禦網の前で見つめあうとき、キャメラはここでも二人を真正面から捉えているので、交互に示される彼らの顔はほぼ同じ表情におさまっているのです。すなわち、正面を見つめつつも瞳はほぼ同じ方向に注がれているのです。だから、ここでもまた、フォードは小津的な編集そのままのショットの連鎖を行っているとさえいえます。ですから、ある時期の小津の撮影法は、ハリウッド的な編集の方法に逆らっているかに見えて、じつはそれを踏襲しているとさえいえるのではないかと思えるのです。 ジョン・フォードがこうした撮り方をしているのは、一見したところ、30年代の初期の作品にとどまっているかにも見えますが、実際にはそうではありません。フォードによる「一八〇度の規則」のあからさまな無視は、その後にもはっきりと認められます。例えば、『メアリー・オブ・スコットランド』(1936)の終盤で、死刑の判決をうけたばかりのメアリー(キャサリン・ヘップバーン)を、エリザベスⅠ世(フローレンス・エルドリッジ)が訪ねてくるシーンでは、二人は太い蠟燭の灯された机を中心として真っ向から対立する構図として示されます。 ここで、当初は「一八〇度の規則」に従った構図の連鎖が維持されているかのように見えますが、王位の継承を諦めれば処刑はまぬがれるのにとエリザベスが述べるあたりから事態は急変し、画面の右手に視線を向けているエリザベス女王の横顔のショットに続くメアリーの表情もまた、同じく画面の右側に向けられている。だから、撮影技法に熟達している観客なら、誰もがこれはおかしい、視線は一致していないではないかと驚かざるをえません。しかし、ここでは、右側に視線を向けたメアリーの顔のショットが二つも挿入されていることに注目したいと思います。さらに、エリザベスとメアリーとが、まったく異なるかたちでショットにおさまっていることも指摘しておきたいと思います。例えば、画面の右手を見ているエリザベス女王は、蠟燭の光を繊細に反映したごく鮮明なショットにおさまっています。ところが、あらぬ方角に瞳をはせるメアリーは、蠟燭の炎をまったく受けとめることなく、顔全体が薄ぐらい影の中で撮られたかのような鮮度の薄い画面となっているのです。それでいて、状況はすべて納得できる。ここで、ジョン・フォードが「一八〇度の規則」をあからさまに無視していることは、あまりに明らかです。 それは、『駅馬車』(1939)におけるジョン・ウェインとクレア・トレヴァーとが初めて本格的に見つめあうシーンにも受けつがれています。それまで身重だったとはほとんど誰も気づいていなかったらしい騎兵隊将校の妻のルイズ・プラットがにわかに産気づき、インディアンの襲撃の危険が迫ったある宿駅で子供を産んでしまうという長い夜のシークエンスのことなら、誰もが記憶しているでしょう。その出産には、トーマス・ミッチェルが演じる酔っ払いのブーン医師の大活躍があるのですが、それを助けたのが酒場女のクレア・トレヴァーであることは誰もが知っています。彼女が生まれたばかりの赤ん坊を抱いて駅馬車の乗客たちの前に姿を見せる場面があるのですが、男たちにとり囲まれるようにして彼女は廊下の端に立ちます。まず、その姿に惹かれたジョン・ウェインを右側から見た表情がクローズアップで示されます。その視線を意識した彼女が、こんどは廊下の白い壁を背にして、あたかも彼は彼女の向かって右側に位置しているかのように、視線を右手に向けているのです。この瞬間、フォードは「一八〇度の規則」など小気味よく無視して見せます。 『インタビュー ジョン・フォード』(高橋千尋訳、文遊社、2011)でピーター・ボグダノヴィッチに対して「私は慣習的なルールは、しょっちゅう破る。時には、わざとね」と述べているように、フォードにとっては、「一八〇度の規則」など、あってなきに等しいものなのでしょう。ハリウッドを代表するといってよかろう1930年代のジョン・フォードがそれを無視しているのですから、「一八〇度の規則」の神聖化などためにする愚かな断定にすぎません。では、なぜその事実が、映画理論家たちによって指摘されてこなかったのでしょうか。それは、「一八〇度の規則」というありもしない語彙を理由もなく確信することで、理論家たちの大半が、あえて小津以外の作品の画面をじっくりと見ることを怠ってしまうからなのです。 しかし、大胆な「規則」の無視が小津安二郎とジョン・フォードという例外的な映画作家に限られているなどと高を括られては困るので、ここで、ほぼ同じ時期のフランスの監督の名前を挙げておくことにします。それは、フランスのもっとも優れた映画作家のひとりであるサッシャ・ギトリです。彼もまた大胆に「一八〇度の規則」を無視してみせることで見る者を驚かせ、かつ魅了していたからです。この映画作家の演出の基軸が「一八〇度の規則」のほぼ機械的な適用にあることはいうまでもありません。彼の作品では、愛しあったり微妙な関係にある男女が親しげに、かつ危なっかしく交わしあう会話が多くにみられることはあえて説明するにもおよばないでしょう。ところが、肝心の点で、彼はそうしたショットの連鎖とは異なる編集ぶりを披露して、見る者を呆気にとらせます。 例えば、彼の代表作のひとつである『カドリーユ』(1938)では、男女の二人組がたがいに愛しあい、かつ騙しあうという危なっかしい劇的な状況が語られており、そのとき語りあう二人の女性、すなわち内縁の夫(サッシャ・ギトリ)を裏切ったばかりの舞台女優役のギャビー・モルレーと、その内縁の夫から誘惑されたばかりの女性の新聞記者役のポーリーヌ・カルトンとが、ホテルの部屋で豪華な衣裳をまとって向かいあう場面──二人は親友であり、恋敵でもあります──では、あえて二人を向かいあわせ、しかも彼女らをそれぞれ逆の方向からキャメラにおさめているので、まるで同じ姿勢で撮られたかのような画面がショットとして交互にくり返されているのです。サッシャ・ギトリは、他の作品でも、いざという瞬間には、決まって「一八〇度の規則」を無視しているので、むしろその場面を見ることがギトリの作品を見ることのひそかな悦びでさえあるといえるほどなのです。 この問題は、小津におけるその規則の無視という特異性に注目するあまり、それとほぼ同じことがハリウッドを代表するといってよいジョン・フォードや、30年代のフランス映画を代表するサッシャ・ギトリによっても大胆に実践されていたという事実に、誰もが鈍感だったということに起因しています。したがって、「古典的なハリウッド映画は、『一八〇度のライン』や『アクション軸』(中略)の規則を神聖視した」というボードウェルの断定は、まったく理由を欠いた断言でしかなかったというべきときがきています。そもそも、それを「規則」と呼ぶことじたいが、理論的な根拠をまったく欠いているからです。たしかに、それは、ある程度まで慣習化されていたということはいえるでしょうが、そこに理論的な正当性などいっさい認めがたいのです。だから、それは、エイドリアン・マーチンが指摘したような「あらゆることを意味しながら、しかるべき特定の意味を持たない」ものの典型だといえるでしょう。 真正面からのショット 以上の事態に付加すべく、1930年代初期のハリウッドについて言及しておくなら、ヘイズ・コード強化以前の犯罪映画として、マーヴィン・ルロイ監督の『犯罪王リコ』(1931)という作品があります。そのほとんどの会話シーンや対決シーンは、ことごとく「一八〇度の規則」に従って撮られているかに見えます。ところが、暗黒街の巨頭にのしあがろうとしているエドワード・G・ロビンソンが、かつての親友でもあるダンサーのダグラス・フェアバンクス・ジュニアを始末しようとしながら躊躇し、どうしても発砲できないという場面では、ロビンソンの真正面からのバストショットが示されます。それに対応するフェアバンクス・ジュニアもまた、顔は横向きながらショットは真正面からのキャメラに収められている。そのことで、事態の重要さが描かれているのです。そして、こうした異様な画面の連鎖は、決して例外的ではありません。当時の作品には、いざという瞬間にしばしば見られていたキャメラワークだったのです。 その点からしても、「一八〇度の規則」の遵守など、どうでもいいことと見なされていたといわざるをえません。ですから、ジャン=リュック・ゴダールの『女と男のいる舗道』(1962)の導入部で、アンナ・カリーナが尋問する刑事を真正面から凝視したり、あるいはジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』(1973)のカフェで向かいあうジャン=ピエール・レオーとフランソワーズ・ルブランの顔を真正面からフィルムにおさめるキャメラに立ちあったりすると、思わず嬉しくなってしまう。そうした正面からの見つめあいをあえて大胆にやってのけたのが、『神曲』(1991)のマノエル・ド・オリヴェイラであることは、いまさらいうまでもありません。 「穏やかな厳密さ」、あるいは「厳密な穏やかさ」 ──ショットを見るというまさしく日常的、かつ実践的な振る舞いが、「規則」の非=妥当性をきわだたせるということですね。 實 おっしゃる通りです。しかし、それにしても、わたくしたちは、いったい、何のために映画を見ているのでしょうか。物語を万遍なくたどること、そして語られている事態を通して、そこから浮きあがってくる作者の思念ともいうべきものを納得すること、等々、いくつもの目的が考えられます。しかし、それが「見る」という生きた持続的な体験にどれほど関与しているものなのかは、あまり明らかではありません。おそらく、何のために映画を見るかという設問そのものが、どこかで事態を曖昧にしてしまっているのでしょう。何のために、ではなく、たまたま一篇の映画を見てしまったわたくしたちが、そのしかるべき細部に接した体験をどのように消化し、そこから何を吸収できるか、あるいは自分の無力さをどのように処理するかという立場に立つべきなのでしょう。つまり、現実に見ている画面の何に突き動かされ、その高揚した心をどのように鎮めることができるのか、あるいはできないのか、と問うべきなのです。スクリーンはあれほど鮮やかに輝いているのに──かりに、それが薄ぐらいショットであろうと──そこに展開されている映画の「現在」をわたくしたちはひたすら取り逃すしかありません。ショットについては、その「穏やかな厳密さ」、あるいはその「厳密な穏やかさ」に触れねばならないといっておいたのは、そうした点を考慮してのことでした。そこで、それを具体的にどう体験すればよいかが問題となるのです。 ショットとは、何よりもまず「厳密」なものです。それは、たんにその被写体の機械論的な再現にまつわる「厳密」さのみを意味してはおりません。それが、上映中に現実に何秒持続したのか、またそれが何コマからなっているかは決まって計測できるものだからです。また、それがどのようなショットによって導き入れられ、そのあとにどんなショットが継起しているかという意味での「厳密」さは、いったん作品が編集されてしまって以後はもはや動かしようもないという点で、これまた「厳密」きわまりないものというほかありません。けれども、その一ショットをかたちづくっている視覚的な細部を詳しく確認して鮮明に記憶する手段を持っている者など、この世界のどこにも存在しえません。つまり、誰もがその漠たる記憶によってそれを処理するしかないという意味で、それはきわめて「穏やか」な対象たらざるをえないのです。 そこで、「Ⅲ」で触れておいたフランシス・フォード・コッポラの言葉を改めて思いだしておきたいと思います。そこでの彼は、こういっていました。「『ショット』の概念におけるもっとも究極的な二つの支柱が、マックス・オフュルスと小津安二郎の映画の中にある」。ここでのコッポラが、途方もなく長いショットを撮る作家と、ごく短いショットを撮る作家の典型として、マックス・オフュルスと小津の名前を挙げているのはいうまでもありません。小津については、すでにわたくし自身があれこれ語っているので、ここではあえて詳しく述べずにおきましょう。それより、長いショット、すなわち「ワンシーン・ワンショット」を撮るのが得意だったといわれているオフュルスについて触れておくことにしたいと思います。 ここで挙げておきたいのは、映画を語ろうとする者なら誰もが絶対に、何度でもくり返し見ておかねばなるまいマックス・オフュルスの『たそがれの女心』(1953)にほかなりません。とりわけ、その中心部分ともいうべきダニエル・ダリューとヴィットリオ・デ・シーカによる長いダンスのシークエンスについて触れておきたく思います。確かに、オフュルスは長いワンシーン・ワンショットによってたえず動いている男女の位置関係をことさら艶やかに見る者に印象づけるのが得意な監督でした。だが、彼にはまた卓抜な編集能力も備わっていたことは指摘しておくべきでしょう。その点で、長いワンシーン・ワンショットで一つのシークエンスを完結させてしまうことの多いテオ・アンゲロプーロスの演出法とは、厳しく区別されねばなりません。 ショットの連鎖 例えば、『快楽』(1952)の第一話『仮面』(Le Masque)の冒頭で、ひたすら踊り狂う仮面をつけたクロード・ドーファンをたったひとつの長いショットで華麗に捉え続けるキャメラは、彼がばったりと倒れた瞬間に、その横たわった姿態にはっと驚く踊り子のショットが挿入されることになるのですが、そのタイミングが何とも素晴らしい。そのタイミングこそ、ショットの連鎖と呼ぶにふさわしいものなのです。ほぼそれに似たみごとなタイミングが『たそがれの女心』の貴婦人ダニエル・ダリューとイタリアの外交官のヴィットリオ・デ・シーカによる長いダンスの場面に見られます。第二次世界大戦勃発後の九年間を合衆国に逃れていたオフュルス──その間、彼はハリウッドで『忘れじの面影』(1948)や『魅せられて』(1949)などの優れた作品を数編発表していました──がヨーロッパに戻ってから撮った作品としては、その帰還後の第一作『輪舞』(1950)や、最後の作品となった『歴史は女で作られる』(1955)の方が遥かに有名でしょう。 しかし、わたくし自身の好みは『たそがれの女心』に向かいます。好みという言葉は、ここでは避けるべきかもしれません。これは、個人的な好みを超えて、優雅さがどれほど残酷なものであるかを繊細、かつ冷静に描いた素晴らしいフランス映画だからです。とはいえ、オフュルスは生粋のフランス人ではありません。最終的にはフランス国籍を取得していますが、生まれはドイツのザールブリュッケンというフランス国境近くの都市なのです。ナチスが擡頭するまではドイツで映画を撮っていましたが、その後、フランスに亡命し、早川雪洲主演で『ヨシワラ』(1937)などを撮っており、第一次世界大戦の勃発を時代背景とした『マイエルリングからサラエヴォへ』(1940)の撮影中に、対独戦争が勃発したのです。 いうまでもありませんが、ここでこの『たそがれの女心』について語ろうとするのは、ジャン=リュック・ゴダールがその四部からなる膨大な『(複数の)映画史』(1998)の最後の最後で、いきなり黄色の文字で《MADAME DE…》というこの作品の原題を画面に登場させ、ダニエル・ダリューとヴィットリオ・デ・シーカによる名高いダンスのシーンのほんの一部を引用していたからではありません。すでに述べたように、この作品は、映画を語ろうとする者なら何度でも見直しておくべき作品だとわたくし自身が判断しているからです。しかも、ダンスというひと組の男女によって演じられる微妙な運動こそ、映画にとって不可欠ともいうべき男性と女性との協力作業でもあることが、きわめて重要なものだからでもあります。 マックス・オフュルスの遺著『追憶』(2002)に付された妻ヒルデ・オフュルスによる後記に、『輪舞』でダニエル・ダリューと一緒に仕事をして以来、「彼女なしには、いかなる作品も構想しえないほどでした」と述べられているように、『たそがれの女心』は文字通りこの大女優なしには創造できなかった作品だというべきでしょう。いうまでもなく、彼女が大女優であるのは、演技が巧みであることとはいっさい無縁のものです。画面に映っているその姿に抑えがたい存在感があり、その稀薄でありながらも尖鋭な存在感によって相手役の男優を生々しいイメージに収めさせるところで、いわば被写体としての魅力を十二分に発揮させることができるという点で、彼女は大女優なのです。 この作品でのダニエル・ダリューは、美男の将軍であるシャルル・ボワイエを夫として持ちながら、好みの男には誰彼かまわず妖艶な愛嬌を振りまくという高貴で移り気な人妻であり、間違っても貞淑な妻といえる女性ではありません。そんな彼女をスイスとフランスの国境都市での列車の乗り換えの折りに税関で見初めたデ・シーカが、夫のいることを知りながら彼女に接近する。時代は社交界がまだ華やかだった19世紀末のパリ──そこでは、個人的な名誉のための決闘さえ日常化されていました──で、ダニエル・ダリューはどうやら金銭的に追いつめられているようで、夫から結婚祝いに貰った耳飾りを売りに出したりしているのですが、社交界ではどこまでも優雅に振る舞い、そんな素振りさえ見せることはありません。ここでは、夫でさえ妻に接吻するといったはしたない行為を自分に禁じており、それは妻の手に唇を寄せることに限られ、「きみ」(Tu)となれなれしく呼びかけることもなく、それぞれの寝室は異なっているし、「あなた」(Vous)という距離をおいた呼称で呼びかけている時代の貴族社会が舞台となっているのです。 『たそがれの女心』のダンス・シークエンス ダンスは、将軍シャルル・ボワイエが駐仏イタリア大使ヴィットリオ・デ・シーカに向かって、わたくしの妻としては珍しいことだが、彼女はどうやらあなたに気を許しているらしいと述べている舞踏会で始まります。二人の背後の大きな鏡にはホールで踊る男女の姿が映っており、彼らはその夜会のいわば特等席に陣取っているわけで、キャメラ・アングルに入ってこない細部にまで凝りに凝ったジャン・ドーボンヌの装置が息をのむほど効いています。そして、将軍が新聞社の社長につかまったすきに、おそらくはジョルジュ・ヴァン・パリスが編曲したものだろうオスカー・シュトラウスのワルツにつれて、ダニエル・ダリューとデ・シーカは落ちつきはらってステップを踏み始めるのです。 ところが、この長いシークエンスが終わったとき、二人は踊り始めたときとはまったく異なる衣裳を着ている。何たる驚き……。この作品を初めて見たのは高校生のときでしたが、大人の男女の仲の艶やかな機微といったものは、フランスの近代文学に多少とも親しんでいたので、背伸びしてでもわかった気になっていました。ただ、一回見ただけで詳しく理解できなかったのは、二人の踊り手がいつ衣裳を着替えたかという点です。大学に入ってから改めてこの作品を見直したとき、異なる宵の夜会でのダンス・シーンをみごとに連鎖させることで、あたかもひと晩のできごとのように語ってみせたものだということだけは理解できました。しかし、ショットがいつどのように変わったのかは、映画館の暗闇ではまったく識別できませんでした。それが、異なる五つの夜会のできごとを巧みに組み合わせたものだと理解できたのは、その後、何度目かにヴィデオでそれを確かめようとしたときにすぎません。 いまでは、停止や巻き戻しがたやすく可能なDVDで、何度でも同じ映画を見直すことができます。しかし、それで改めて確かめてみても、これを初めて見たときの深い感動を新たにすることはありませんでした。高校時代に見たときには、何だかわからないうちにこのシークエンスが終わってしまったので、わたくしは絶句と饒舌のさなかに置き去りにされたまま、ひたすら喋りたいのに、何を口にすべきか皆目見当もつかず、黙りこくるしかなかったのです。ああ、凄いことが映画では起こっている。その実感だけは、いま見直しても、改めて見ている感性を揺るがせているのです。とりわけ、撮影のクリスチアン・マトラスによるこのシークエンスのみごとなキャメラワークと人物たちの衣裳、装身具、等々、どれを見ても一流品というほかはなく、なぜかという問いが形成される以前に、あらゆる細部を暗記するほど見ていながら、しかもその映画的な仕掛けが見ていただけではわからず、ひたすら呆気にとられるしかなかったのです。 踊りが始まるとき、デ・シーカは、何やら蛇腹のようなものに縁取られた大礼服と思われる儀式的な衣裳をまとっており、ダニエル・ダリューは背中の素肌をすっかり他者の視線にゆだねているほどの大胆なデコルテのドレスに身をつつんでいます。その優雅な二人の滑るように華麗な動きを追うキャメラは、正装で演奏する背後のオーケストラの楽団員たちの姿を垣間見せてくれます。ところが、いつの間にか二人は異なる衣裳をまとっており、一方はスモーキングに白い蝶ネクタイを締め、他方は首のあたりに宝石類を輝かせ、先ほどのような大胆さには欠けるものの、優雅さにおいてはいささかも劣ることのないドレスで人目を惹きながら、二人して相手のからだを支えるようにしながら床を滑ってゆく。背後のオーケストラは、いつのまにか軍服まがいのような衣裳を誇示しながら、同じ音楽を演奏し続けている。かと思うと、こんどはデ・シーカが派手なケープのようなものを背中に垂らしたまま腕に抱いているダニエル・ダリューは、何やら宝石めいたものが煌めいている髪型で人目を惹いている。 画面は深い溶暗と溶明がなだらかに継起するかと思うと、こんどは何やら絵画作品のような図柄にとってかわるように次のショットが始まっており、最後には、ボーイの一人が長い棹を持ちあげてシャンデリアの蠟燭を消してまわり、オーケストラの団員の一人がこんなに遅くまで踊っていられたんじゃあたまったもんじゃないと口にしながら、おれは帰るぞといって持ち場を離れようとすると、広いホールの奥の方で厚いオーヴァーコートをまとったデ・シーカと大きな毛皮のショールを肩に掛けたダニエル・ダリューとが、二人だけ、ほとんどその場を動くことなく、静かに肩を揺らしている。このとき、二人は、初めてごく親密に頰を寄せあうことになるのです。 その間、台詞はといえば、ご主人からの便りはあったのか、だの、四日も待たされてはたまったものではない、だの、踊りながら挨拶を送ってよこす男について、あいつは苛々させる奴だとデ・シーカが顔をしかめたりすることがくり返されているだけなのです。それでいて、この盛装した男女の親密さが一瞬ごとに確かなものとなるさまが、手にとるように感じられる。それでいて、物語の主要な筋書きをたどることを見る者に放棄させてしまうのです。 例えば、この作品の英語題名が『マダム・ドゥの耳飾り』(The Earrings of Madame De…)であるように、ここではダニエル・ダリューが演じる貴婦人が、結婚のときに夫がくれた耳飾りを売りはらってしまうことに端を発し、その高価な宝石の行方が物語の方向を示唆し、ついには夫と愛人との決闘にまでおよぶのですが、ここでのダンスのシークエンスは、そうした筋立てをいっさい想起させることがありません。しかも、しかるべき年齢の男女の仲の深まりを映画で表現するには、この緩やかなダンスというリズムしか存在していないというかのように、オフュルスは二人の息の合ったステップをなだらかにキャメラで追い続けているのです。つまり、それは物語の枠を軽々と超えて、作品の一部におさまることさえどこかで回避するかのように、映画そのものの真実ともいうべきものに、見ている者をふと向きあわせてしまうのです。 実際、この作品で、これほどエロチックなシーンはほかに存在していません。二人は後に馬車の中で抱擁しあうのですが、そこにはこの流麗な運動感が欠けており、接吻という振る舞いがどれほど甘美なものであろうと、映画におけるショットとしては、何かもの足りないものが残ります。たしかに、映画には、ヒッチコックによる『汚名』(1946)など、長い接吻シーンはいくつも存在していますが、そこには、いずれも運動を止める機能が装塡されていたというしかないものなのです。 『たそがれの女心』が撮られた1950年代には、男女がベッドをともにするといった状況にキャメラを向けることはまずなかったのですが、その後、ほとんど全裸の男女による性交場面がスクリーンで禁じられなくなってからも、ここでのダンスほどの流麗なショットの連鎖をかたちづくっていたことなど一度としてなかったといってよかろうと思います。ジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』における同衾場面がかろうじて見る者を納得させてくれたほかは、ミゲル・ゴメスの『熱波』(2012)がそれに次ぐといった程度で、映画における男女の心の機微は、ダンスという運動の持続とともにしか描けなかったというのが、映画史的な現実なのです。 社交界における優雅なダンスとは異なるかたちで女性による誘惑が途方もない運動を画面に導入するシーンとして、グル・ダットによる『渇き』(1957)を想起することにしましょう。これもまた、映画を志す者なら、作家になる意志を心に秘めているにせよ、批評家、あるいは研究者となろうとする思いを抱いているにせよ、誰もが絶対に見ておかねばならぬ作品です。 『渇き』の反復 ──インドといえば、出身地によって異なる多数の言語が語られており、一概にインド映画とは呼びがたいのではないでしょうか。 實 おっしゃる通り、インドでは、ヒンディー語、タミル語、テルグ語、カンナダ語、マラヤラム語、等々、さまざまな言語の作品が撮られています。ただ、ここではインド映画についての復習をするつもりはありませんので、これがもっとも多くのインド人が属している北部のヒンディー語圏の作品であるとのみ指摘して話をすすめます。それよりも意義深く思われるのは、この『渇き』という作品が、プレストン・スタージェス監督のハリウッド映画『サリヴァンの旅』(1941)のしかるべき挿話の翻案から出発しているということでしょう。ふとしたことからIDカードが人手にわたり、たまたまそれを持っていた人間が鉄道事故で命を落とし、その結果として主人公が死んでしまったかのように世間では思われることになるという挿話が『渇き』に取り入れられているのです。もっとも、この『サリヴァンの旅』という作品は、コメディー作家としてのみ評価されるのを好まなかったスタージェスを思わせる映画監督が、あえて社会問題を扱おうとしたあげくに、改めてコメディーの偉大さに目覚めるさまを撮ったやや固い作品で、個人的な好みをいわせて頂くなら『レディ・イヴ』(1941)や『結婚五年目』(1942)などのほうが遥かに精彩があり、いきいきとした作風におさまっていると思ってます。 それはともかくとして、『渇き』にはいくつものミュージカル・ナンバーが用意されています。そもそもこれは、才能はあるけれど貧しい詩人グル・ダットが、家族からも疎まれ、放浪の生活に入り、かつての学生時代の親しい女性マーラー・シンハーからも見限られ、やがて思いもかけぬことから生涯の女性ワヒーダ・レーマンにめぐりあうという絵に描いたようなメロドラマだとひとまずいうことができます。 そこには、回想シーンに描かれている学生時代の親しい女性をハンドルの前に相乗りさせた自転車でのクラスメートたちとの集団走行に合唱が重ね合わされるというきわめて楽天的な場面や、いきなりハリウッドのミュージカルを模倣したかのような、奥には白い階段が高くそびえ、いくえものカーテンが微風に揺れ、床にはスモークがたかれるという抽象的な装置の中でのデュエットのダンス・シーンもあり、そこでの二人は豪華な盛装ぶりにおさまっています。それから、夜の公園での怪優ジョニー・ウォーカーによる滑稽きわまりない音楽入りの髪のマッサージ・シーンなどがあったりするのですが、ここで語ってみたいのは、ガンジス川に面した夜の公園でいきなり始まるワヒーダ・レーマンによる誘惑のシーンなのです。これを素晴らしいと呼ぶべきか否かは意見の分かれるところでしょうが、わたくしにとっては映画の歴史にあってもっとも魅力的なミュージカルの一つだと思っております。そこで、その理由を説明することにします。 ひとまず、そこまでの物語の状況を説明しておきますと、みずからが書き綴って大事にし保管していた自作の詩のファイルが、家族の無理解によって古紙の回収業者に売られてしまい、そのことに驚いた詩人が業者を訪ねると、さる女性が買っていったとの返答を得ることしかできません。その買い手が誰であったのかは、皆目見当もつかないからです。その晩、詩人は、孤独に立ち寄った公園で奇妙な女性の呟きを耳にして、その後ろ姿とふとふり返る瞬間の潤った瞳に惹きつけられます。彼女が、まぎれもなく自分の書いた詩を口ずさんでいたからです。 まず、川沿いのベンチに座っていた女の後ろ姿が月影に浮きあがります。立ち上がった女はサリーをまとい、バッグを左の肩にかけ、ストールで髪を被っている。女は不意に歌いだし、男が声をかけると、ふり向く。そして、彼の詩を本格的に歌いながら歩みだす。このふり向くというごくありきたりな素振りが決定的なのです。歌いながら男に視線を注ぐ彼女のなだらかな歩みをパンで追い続けるキャメラは、瞳の潤いが月影に映える女の横顔を捉え続けます。その素振りそのものが男を誘っている女の歩みさったあとを、男はつけようとする。すると女は、再びこちらに顔を向け、誘うように木立の中へいくぶんか遠ざかる。男の姿がそれを追うのを確かめるように、そのつど女はうしろに、さらには横に遠ざかり、しかし視線は見えてはいない男に注がれています。 その間、「いまあなたは何といったのか」「いま私の耳に聞こえたのは何か」「何かがわたくしの心を揺さぶりかける」といった詩句が、何度もリフレインされます。私に触れよと誘っているかのような女の表情と身振りを捉えたショットの連鎖は、ことによると、大がかりな同語反復にすぎないといえるかもしれません。女は、逃れるように、ギリシャ的な回廊のようなところに足を踏みいれ、さらに誘うような身振りをくり返すのですが、おそらくはツィターであろう弦楽器と名も知れぬ乾いた音の打楽器による単純だが繊細きわまりないメロディーが流れており、見る者は知らぬ間に心の中でその旋律を口ずさみ始めているのです。なお、ここでプレイバックで女の声として歌っているのは、グル・ダットの当時の妻のギーター・ダットとのことです。 足早に移動する女は、なおも屈んだり、あるいはまっすぐに上半身をおこしたりしながら、ひたすら遠ざかってゆく。ショットが変わるたびに、女は新たに横顔をこちらに向けて、その瞳はスクリーンを見ている者に向かって注がれています。そのことで、女は招くという身振りをどこまでも引き延ばし、そのほぼ同じ身振りと同じ瞳の動きにもかかわらず、それがひとつの誘惑として完結することを妨げ、ほとんど無償の震えともいうべきものを視界いっぱいに淡く漂わせることになるので、すっかり武装解除されたわたくしたちは、その女の流れるように艶やかな身振りを捉えたショットを、言葉もなく追い続けるしかありません。ひたすら招きの仕草をくり返す女への男の反応を見せることなく、キャメラは壁にそって視線をこちらに向ける女の瞳とそのなかば微笑むような横顔を注視している。女はまた翻るようにからだを滑らせ、壁沿いに遠ざかって行くかとみると、こんどは路地のような細い通りに男を誘いこむ。男の反応は示されること無く、女はひたすら誘うように歌い、踊るように遠ざかる。見ている者は、女の歌声に誘われ、そのやわらかな姿態に惹かれ、まるでその詩人になりすましたかのように、すでに覚えてしまったメロディーを心の中で口ずさみながら、なおも女を追い続けるしかないのです。 やがて、どうやら女の家と思われる建物の前で音楽はやみ、その階段を登り始めた女に男は声をかけます。いま歌っていた詩をどうして知ったのかと聞くと、女は艶やかに笑いながら自分が作ったものだと口にします。そんなことはありえないという言葉に、どうやら娼婦らしいと想像し始めたわたくしたちの前で、女は、あなたはわたくしのことが好きなんでしょうと笑いかけます。そうではない、自分は貧乏でお金はないが、あの詩は自分にとってきわめて大切なものなのだと男がいうと、お金もないのについてくるなんてと女はその職業にふさわしく男を追い返してしまいます。ところが、男が落としていった紙片を床に探り当て、そこに書かれていた詩句の筆跡が自分が回収業者から買った詩集の原稿のそれとまったく同じものだと知り、すでに暗闇に姿を消してしまった詩人のあとをむなしく追うことになるのです。 かくして、貧しい詩人と娼婦の愛という安物のメロドラマめいた物語が語られることになるのですが、ここで重要なのは、いま見た場面をかたちづくっている複数のショットが、見ることの「現在」を通してわたくしたちに及ぼすさからいがたい磁力にほかならず、二人の思いがけない出会いを描きつくした物語そのものではないことです。というのも、『たそがれの女心』の場合がそうであったように、この顔とこの姿態とこの声による女の誘惑は、そこに語られていることがらを遥かに超えて──本来なら、自分の作った詩を暗唱する未知の女に、何故そんなことが可能だったのかを問いただすことにつきていたはずなのに──執念深いとさえいえそうな同語反復のさなかに見る者を放置する。そうすることで、このシークエンスは、あたかも、映画で未知の何ものかを誘うには、ここでのようなショットの連鎖によって、その視線と身振りと歌声のくり返しがひとつになった運動として、見る者に委ねられるしかないという真実に目覚めることになるのです。修辞学的にいうなら、同語反復的なショットのくり返しは、表象行為においてはむしろ避けるべき事態のはずです。ところが、『渇き』におけるグル・ダットは、反復こそが事態にふさわしい現象だとつきつけることで、見ている者から言葉を奪ってみせるのです。 『バンド・ワゴン』のデュエット ──『たそがれの女心』と『渇き』というこの二本の作品が、映画史を劃する傑作だという視点は、多くの人に共有されているのでしょうか。 實 それは、ひとまずどうでもよいことです。わたくしがそう確信しているということを信じて頂けるか否かという点もまた、重要な問題ではありません。かりに、この二本の作品をまだ見ていない方がおられるなら、ぜひとも見て頂きたいとは思うものの、それを強制するつもりはまったくありません。何ごとにおいても、無理強いほど愚かなこともないというのが、わたくしの一貫した姿勢だからです。ただ、2018年に行われたBBCの「非英語圏の優れた映画作品100本」という国際的な催しで、わたくしがその二本をベストテンに選んでいたこと、また、それがわたくしだけの孤独な選択ではなく、何人かの参加者が、ごく散発的ではありながら、この二本を挙げているという点には触れておくべきかもしれません。 ただ、ショットという視点からとりわけわたくしが惹きつけられるのは、世界的な名作という範疇にはおさまりがつかぬものなのです。ごく普通の映画の中にも、あるいは失敗作と見なされているものの中にさえ、視線を惑わせたり、瞳を惹きつけたりする瞬間が間違いなく刻みつけられているからです。 例えば、おそらく誰もが見ているに違いないヴィンセント・ミネリ監督の『バンド・ワゴン』(1953)の中の「ダンシング・イン・ザ・ダーク」《Dancing in the Dark》のナンバーなど、作品のできばえとは無縁に、ショットの「穏やかな厳密さ」によって見る者を惹きつけてやまぬものだといえるでしょう。MGMのアーサー・フリード製作によるこの時期のミュージカル映画としては、『踊る大紐育』(スタンリー・ドーネン、ジーン・ケリー共同監督、1949)、『巴里のアメリカ人』(ヴィンセント・ミネリ監督、1951)、あるいは『雨に唄えば』(スタンリー・ドーネン、ジーン・ケリー共同監督、1952)などの方が遥かに優れた出来栄えに収まっているというべきでしょう。また、同じ『バンド・ワゴン』の中でも、マイケル・キッドの振付けという点でなら、後半のフレッド・アステアが私立探偵を演じるフィルム・ノワール的なナンバーの方が遥かに創意にとんだものだというべきでしょう。 にもかかわらず、わたくしが「ダンシング・イン・ザ・ダーク」のデュエットに惹きつけられるのは、それが、『たそがれの女心』のダニエル・ダリューとヴィットリオ・デ・シーカのダンスがそうであったように、男女の仲が親密さをますという状況が、映画においては、あくまでも同じステップを踏むという二人だけが演じる優雅で親密な運動にいかにキャメラを向けるかという映画的な現実としてあるのだというまぎれもない事態に、ここでも見る者を立ちあわせてくれるからなのです。 それは、ある晩、純白のドレスをまとったシド・チャリシーが不意にアステアの逗留しているホテルの豪華な部屋に訪ねてきて、自信を失ったと泣き始めるシーンが導きだすナンバーです。そろそろ過去の人と見なされ始めているハリウッドのスターという役割を演じているここでのアステアは、薄黄色のシャツにベージュのジャケットを着ています。他方、古典的なバレリーナ出身のシド・チャリシーとアステアとは、悲劇役者ジャック・ブキャナンによる大げさな『ファウストの劫罰』の音楽版にキャスティングされているのですが、どちらもまったく乗り気ではありません。ここでは、ミュージカルのシーンなど、いくらでもすげ替えのきく細部と見なされているからです。しかも、アステアは相手役のシド・チャリシーが大柄すぎることを気にしていたからでもあります。 自分にはあなたと踊る自信がないといって涙する白衣の美女は、白いハンカチをあてがわれて涙を拭う。その殊勝な身振りを目にするアステアは、自分たち二人は間違いなく踊れるのだから、これからどこかへ遊びに行こうと提案し、ホテルから馬車に乗って夜の都会へと出かけてゆくのです。そして、セントラル・パークを思わせる──勿論、それは人工的なセットによるものですが──森のなかで馬車を降ります。素晴らしいのは、煙草に火をつける馭者をあとにして木立の方へと遠ざかって行くシーンでの、本能的に歩調をあわせている二人の足どりの軽さにほかなりません。そのとき、白い色が一部に映える黒の靴を履いたアステアは、いつの間にかポケットに手を入れています。キャメラは、短いショットの連鎖による『渇き』の誘惑のシークエンスとはまったく異なる「穏やか」な編集で、一つ一つの画面が「厳密」なショットの連鎖をかたちづくっている。二人は、その歩調をあわせるという仕草によって、いまにも踊りたいという欲望をすでに画面一杯に漂わせているのです。 ランプにすりガラスの丸いおおいのついた外灯をすえたショットで、木立をぬうようにして歩調をあわせる二人は、踊っている男女の群れに出くわすのですが、その直前、ヒールなしの靴を履いたシド・チャリシーは、頭上に垂れ下がっている木の枝に手を伸ばし、葉のようなものを指先でつまみとり、それを手の中で弄びながら、こんどはアステアの左手に移動し、ゆっくりとした歩調で進んでくる。その間、二人は見つめあうこともなければ、言葉を交わすこともありません。いつの間にかダンスの音楽が遠ざかっている次のショットでは、迂回しながら生け垣にそって二人は画面の手前に向かって進んでくるのですが、シド・チャリシーがその手の中で弄んでいた木の葉を右手でそっと足元に捨てると、一呼吸おいてから思いきり右の足を拡げてその場でくるりと回ってみせる。その瞬間が何とも素晴らしい。あたかもその仕草を待っていたかのように、アステアもまたくるりと身軽にからだを回転させ、そのとき初めて二人は顔を見合わせることになるのです。 こうして、「ダンシング・イン・ザ・ダーク」の旋律の高まりにつれて、忘れがたいデュエットが始まります。この中年のハリウッド・スターとまだまだ若々しいバレリーナとは、それぞれが身につけていたはずのジャンルの違いを超えて、誰にも真似のできない彼らだけのデュエットを踊る。それは、文字通り、男女の踊りというなだらかな身振りだけが持ちうるエロチシズムを体現しつつ、見る者を魅了せずにはおきません。 キャメラは無理なく二人を構図の中心におさめつつ左右に移動しながら、『渇き』のような短いショットの連鎖ではなく、もっぱらなだらかなその動きを追い続ける。やがて階段にさしかかり、その上で待っている馬車にたどりつくまでに、ショットは二度しか変わりません。つまり、二人の踊りが始まってから終わるまで、ショットは合計で三つしかないのです。それぞれのショットは、踊りの途中での卓抜な同軸のカッティング・オン・アクションによって無理なく連鎖し、あたかもすべてが一つながりのショットであるかのように表象されているのです。 『コンチネンタル』(マーク・サンドリッチ監督、1934)でジンジャー・ロジャースと初めて本格的に共演した、パンドロ・S・バーマン製作によるRKO時代の九本にもおよぶ作品のミュージカル・ナンバーにおけるフレッド・アステアのタップのほうが、遥かに粋だったなどとはいわずにおきましょう。確かに、RKO時代のアステアも素晴らしい。ただ、タップダンスが得意だった二人の共演は、どこかしらスペクタクルめいた見世物性に重点がおかれていたような気がします。そのスキルに恵まれたものが、それを最高度に披露してみせるというパフォーマンスといったらよいでしょうか。重要なのは、そうした見世物性が、ここには存在していないということなのです。 例えば『雨に唄えば』の驟雨の中でのジーン・ケリーのソロなども、スキルの顕示といった側面が強く、それを映像的に表象しているだけといった印象が強い。それはパフォーマンスとして優れたものではありますが、それに対して映画の表象能力がかろうじて対抗しているといった気がしてならない。ところが、『バンド・ワゴン』のこのシーンには、その種のスキルの顕示といった曲芸性がまったく希薄で、しかも、往年のハリウッドのスターとこれから名声を得ようとしている若いバレリーナとが、初めて二人だけで歩調を合わせて踊るという、いわば身振りの一回性だけが持ちうる緊張感があたりにはりつめているのです。 「ダンシング・イン・ザ・ダーク」という曲にふさわしく、あたりには外灯による照明だけが落ちかかり、もちろん人工的なセットとして遥かに摩天楼が見える戸外でのダンスにふさわしく、キャメラは前後左右に移動しながら白を基調とした衣裳が映える二人をしかるべき距離から画面におさめている。そのシーンは、ヴィンセント・ミネリ監督の演出家としての技術が高度な達成感をもたらしており、いっさいタップを踏むことのない二人の優雅な運動の流れにそって、スキルの顕示といった印象を思いきり画面から追いはらっている。それが、そのつど感じとれないほどのショットの連鎖を、あたかも断絶なしに持続しているかのような運動として人目には感知しがたいものにしている。それを、ここではショットの優位と呼ぶことにしたいと思います。グル・ダットの短いショットのくり返しによる同語反復的な画面連鎖についても、逆説的ながら同じことがいえます。 そうしたショットの優位を根本から崩しさったのが、『ウエスト・サイド物語』(ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス共同監督、1961)であることはいうまでもありません。また、比較的最近の作品でいうなら、例えばデイミアン・チャゼル監督のミュージカル『ラ・ラ・ランド』(2016)などにも、LAを遥かに見おろす高台での主役二人のデュエットがありますが、それは『バンド・ワゴン』の「ダンシング・イン・ザ・ダーク」のナンバーのようなショットへの感性というものがまるで感じられない凡庸な画面連鎖からなっており、見ることの悦びともいうべきものがまったく感知できません。いつものこととはいえ、このような凡庸な作品がアカデミー賞やゴールデン・グローブ賞までいくつも貰ってしまうのですから、アメリカ合衆国における作品評価の基準はまったくもっていい加減だというほかはありません。 『われら女性』のアンナ・マニアーニ ──それは、撮られている個々のショットが、シークエンスとしてのまとまりを意識することなく連鎖しているからでしょうか。 實 はい、ときにめまぐるしいほどの編集が、シークエンスの形成にいささかも寄与していないからです。『ウエスト・サイド物語』とほぼ同じ時期に撮られた『山猫』(ルキノ・ヴィスコンティ監督、1963)におけるバート・ランカスターとクラウディア・カルディナーレとの長いダンス・シーンもひどく有名ですが、ショットの連鎖という視点からして、あれは本当に優れた場面なのでしょうか。わたくしはそうは思えません。実際、この作品に対する高い評価には、深い疑問を抱いております。ヴィスコンティは、ダンスという男女の秘められた営みに対する感性が驚くほど鈍いからです。貴族出身のヴィスコンティだけに、絢爛豪華な貴族の屋敷を再現しているといわれていますが、それを演じるバート・ランカスターがイタリア貴族の末裔とはとても見えません。それに、死期の近いことを自覚した彼が、甥の婚約者であるクラウディア・カルディナーレと長いステップを踏むことに、いかなる興味があるというのでしょうか。確かに、ジュゼッペ・ロトゥンノによるキャメラはその背景となる貴族の屋敷の壮大さをみごとに表象していますが、人目を惹くようなショット、あるいは思わず息を吞むようなショットの連鎖は一つとして見あたらない退屈なシーンでしかなく、ダンスというものを視覚的に適度に表象すること以外のなにものでもありません。 ここで一つの社会的な風俗の問題を挙げておきます。ほぼこの時期から、ダンスというものが、例えば、ツイストのように、世界的に男女の密着を避ける傾向にありました。ヴィスコンティの『白夜』(1957)がそうであるように、惹かれあう男女が向かいあってあたかも抱擁しあうかのようにからだを支えあうという形式のダンスが現実世界からゆっくりと遠ざけられ、ディスコなどで盛んになった集団的、かつ孤独なダンスが主流となってきたという現象が映画にも影を落とすことになります。とはいえ、ヴィスコンティの『白夜』におけるマルチェロ・マストロヤンニとマリア・シェルとの場末の粗末なカフェにおけるダンスのシーンの拙劣さは目に余るものがあります。同じドストエフスキーの原作を映画化したロベール・ブレッソン監督の『白夜』(1971)にはダンスのシーンは存在しませんが、自室にこもった主演女優のイザベル・ヴェンガルテンが、何やら疼くような思いをこめて中南米系の音楽のリズムにふさわしく着ているものをはらりと脱ぎすて、素肌となってからだをくねらせるように踊る緩やかな身振りの淫靡な素晴らしさに較べると、ヴィスコンティ版の『白夜』のダンス・シーンは見るにたえない醜さにおさまっています。 いうまでもありませんが、ここで、ルキノ・ヴィスコンティという映画作家をことさら貶めるつもりなどまったくありません。それどころか、映画史におけるもっとも美しいクローズ・アップによる歌唱シーンを、わたくしたちはこの監督に負っているとさえいいたいのです。それは、いうまでもなく、ヴィスコンティによる『われら女性』(1953)の「アンナ・マニアーニ」篇の最後で、彼女自身が、ローマ訛りを怖れもせず、むしろそれを誇ろうとするかのように、「夜のとばりがおりてから愛をかわすことは、何と素晴らしいことか」《Com’è bello fà l’amore quanno è sera》を歌う場面にほかなりません。この中編映画では、冒頭から「私はアンナ・マニアーニ……」というナレーションが聞こえてくるように、この大女優は彼女自身を演じており、その台詞の中では、ヴィスコンティという監督の固有名詞さえ口にされていますが、これはドキュメンタリーではなく、あくまでもフィクションの作品なのです。 彼女は、夕方にローマのある劇場で歌うことになっており、タクシーで家をでるのですが、帽子に貂の毛皮のショールをバッグとともに腕にかけており、膝には仔犬を抱えていながら、運転手に文句があるらしくひたすら何かを語りかけている。たまたま彼と口論になり、そこへ警官がやってきて警察署にまで足を運ばざるをえなくなるのですが、到着した署でも、長い階段を登ったり降りたりしながら、あたりの警官たちに愛嬌を振りまいている彼女は、なおも饒舌にしゃべり続け、ひとまず事態が解決したのち、出演時間を過ぎてからようやく劇場に到着します。そこで、胸がV字形に大きく開いた黒めの舞台用のドレスに着替えるのですが、腰のあたりは思いきりくびれ、その下はフレアが大きく拡がっている。しかも、それまでかぶっていた帽子を脱いで豊かな黒髪を誇示し、大きなショールを首に巻いて、舞台のそでに控えている。 舞台では、冴えない二人の半裸のダンサーが透明のレインコートを脱いだりしながら、拙劣なダンスを踊っている。そのさまを舞台脇から見きわめる斜めのショットとそれに続く客席側からのショットが、その踊りのいかにもいい加減なさまを印象づけており、文句なしに素晴らしい。その二人が引き上げると、舞台脇の幕に手を掛けて待っていた彼女は、花束を受けとり左手にかかえる。そして幕が左右に開くと、いかにもローマを稚拙に模したような家々を見おろす柵が背後に拡がっている舞台の中央に歩み寄り、「ああ、今日は何という日だったかしら」などと誰にいうとなく呟くのですが、そのとき、彼女の全身をスポットライトが淡く照らし出すことになるのです。ああ、そうだ、ヴィスコンティは舞台演出にも長けていたのだから、その片鱗がここで見られるのかなと思わず期待したりしていると、わたくしたちは、ここでの彼が、あくまで映画作家に徹していることに息を吞む思いがするのです。実際、わたくしたちは、そのことに鈍い興奮さえ覚えざるをえません。ここでのヴィスコンティは、マニアーニの歌をあくまで必要かつ最低限のショットの連鎖として捉えているからです。しかも、それぞれのショットがこれしかないと讃嘆するほかはないかたちで連鎖しており、ほぼ完璧といえるほどの出来映えにおさまっているからなのです。 ヴィスコンティは、まず、舞台に出てきたマニアーニを、客席からのごくありきたりのロングショットで捉えます。そして左手で花束をかかえた彼女が歌い始めようとするときにショットが変わり、やや近づいたキャメラが、舞台の正面から歌うマニアーニへとゆっくり近づいてゆき、舞台の中央に立つマニアーニが第一のストロフを歌い終わるまで、ほぼ全身像で捉え続けているのです。そして、彼女が右腕をのばす身振りにつれて、こんどはその上半身を画面におさめ、続いて「ああ、何という月でしょう……」と手振りであらわすときショットが変わり、髪を右腕でかきあげるようにする身振りをとらえ、その仕草につれてカッティング・オン・アクションでクローズアップを連鎖させる。その瞳の動きが悲劇的な展開すら思わせるのですが、画面一杯に彼女の顔が映し出されるとき、その視線が動くにつれて、その表情に注がれる照明が頰から下を薄い影でおおう。 何とも素晴らしいのは、この陰翳豊かな照明です。黒々とした影ではなく、薄ぼんやりとして微妙な翳りのようなものがアクセントとなって、唇のあたりからショールを巻いた首にかけて、うっすらとした影を行きわたらせる。その瞬間、おそらく映画史上でもっとも美しいクローズアップがスクリーンを覆うことになるのです。 おりから高音部の処理にさしかかったマニアーニは、それをゆるやかな裏声で歌いあげ、花束から花を一輪引き抜く瞬間に舞台の背後にまわったキャメラが、初めて客席を視界に浮上させ、これまで姿を見せていなかった指揮者の姿さえも捉えるのですが、花を右手で投げるマニアーニの後ろ姿を捉え、手を振りながら袖に引きあげるマニアーニの歩調と、幕が閉まる動きにつれて映画は呆気なく終わりとなる。ここには、文字通り、ショットの優位ともいうべきものが画面を引きしめているのです。『山猫』の最後のダンス・シーンには、こうしたショットの連鎖への配慮がまったく見あたりませんでした。 その点からして、1950年代のヴィスコンティは1960年代のヴィスコンティより遥かに優れた映画作家だったと結論したい誘惑にかられますが、それはここでの問題ではありません。問題は、あくまで、現実世界におけるダンスという振る舞いが、男女の接触という行為からゆっくりと遠ざかっていったという事態なのです。これについては、『サタデー・ナイト・フィーバー』(ジョン・バダム監督、1977)からごく最近では『ラ・ラ・ランド』あたりまで、あらゆる種類のダンスがスクリーンを彩ってきましたが、もちろん、そのことごとくを論じるつもりなどありはしません。ここでは、アメリカ映画の強い影響のもとに映画を撮り始めたフランスのヌーヴェル・ヴァーグの作家たちのうちで、音楽に強い関心をはらっていた作家が何人もいたことに触れておくことにします。 ジャック・ドゥミの野心 ハリウッド流のミュージカルに深い影響を受けたと思えるのは、たとえば『ロシュフォールの恋人たち』(1967)のジャック・ドゥミかと思いますが、それ以前に撮った『シェルブールの雨傘』(1964)を見てみればわかることですが、むしろこれまでにほとんど存在していなかったフランス流のシネ・オペレッタ的なものが彼の心を深くとらえていたと理解することができます。なお、個人的にいうなら、前にもお話ししましたが、ジャック・ドゥミの野心がもっともみごとに結実した作品は、『都会のひと部屋』(1982)だと思っています。 この作品の企画が、始めから不幸な色彩に支配されていたことはよく知られています。主人公のフランソワ・ギルボー(リシャール・ベリ)がその一人であるストライキ中の労働者たちは警官隊に蹴散らされ、彼は打ち所がわるく命を落としてしまいます。その死体のかたわらで恋人のエディット(ドミニック・サンダ)もみずからの胸を撃ち、ピストルで自殺するという救いのない内容が気に入られなかったからでしょうか。ドゥミのシネ・オペレッタ専属かと思われていた作曲家のミシェル・ルグランを初め、主役男女を演じるはずのカトリーヌ・ドヌーヴやイザベル・ユペール、さらにはジェラール・ドパルデューまでがこの作品への参加を断ったというのですから、企画が立ち消えになっても一向におかしくなかったはずなのです。にもかかわらず、これが撮られたことをわたくしは心から祝福せざるをえません。 長編第一作『ローラ』(1961)と同じく、『都会のひと部屋』は監督自身が生まれ育ったフランスの南西部のナントの町が舞台となっており、『ローラ』のアヌーク・エーメが滑るように徘徊する名高いガラス張りの明るい屋根付き商店街のパッサージュ・ポムレーにさえキャメラが向けられていながら、そこには旧式のテレビを販売している──物語は1950年代の中ごろに設定されています──ミシェル・ピッコリが冴えない店を構えており、しかもそこでの商店主は、自分から離れていこうとするその妻エディットの前で、剃刀を首に当ててみずから命を絶つ。またエディットその人は、没落貴族の未亡人(ダニエル・ダリュー)の娘で、高価な毛皮のコートをまとった下は全裸だという思いきったいでたちで母親を驚かせ、たまたま道路で会った母親の家に下宿しているフランソワを、コートの前をはだけて全裸の肉体を誇示しながら娼婦のように誘惑し、ひと晩の愛を交わし、たちまち恋仲になる。 もちろん、ここには、『ローラ』以来ドゥミの作品には不可欠だったセーラー服姿の水兵など一人として姿を見せることなく、『シェルブールの雨傘』のような抒情的な愛の賛歌も歌われず、『ロッシュフォールの恋人たち』におけるように、当時は世界的なスターだったジョージ・チャキリスやすでに大御所といってよかろうジーン・ケリーなどの華やかな顔ぶれがフランソワーズ・ドルレアックとカトリーヌ・ドヌーヴという神話的な姉妹と競演するといった派手さからは遠い役者たちでしかありません。戸外から聞こえてくるのはストライキを敢行する男女の戦闘の歌の合唱と、これまた歌われている警官たちの事前警告の声でしかないのですが、この殺伐とした暗さが、奇妙な現実感となって作品の全編を蔽っていることに注目したく思います。それは、撮影当時のフランス社会の閉塞感にとどまらず、20世紀末の地球を蔽っていた陰惨な暗さと閉ざされた未来とが競いあうようにあたりに立ちこめている点で、これはきわめて重要な作品となっている。これはその徹底した救いのなさにおいて、ヌーヴェル・ヴァーグ出身の監督にはきわめて稀な、本格的な悲劇となっているのです。 この悲劇性がジャック・ドゥミにとって本質的なものか、時代的な選択であるかはわかりません。 ただ、水兵の制服姿にキャメラを向けることが不可欠だったとさえいえる彼の初期作品において、その長編の第一作にあたる『ローラ』はマックス・オフュルスに捧げられていますが、物語としてはヴィスコンティやブレッソンの『白夜』とほぼ同じ構造におさまっています。すなわち、実直そうな青年に惚れられていた女性が、かつて愛した男が不意に姿を見せたとき、その男とともにあっさり去って行くという関係が似ているのです。だが、ここで、キャバレーに押し寄せた水兵たちを前に歌って踊るアヌーク・エーメの立ち振る舞いは、残念ながら、文句なしに素晴らしいとはいいかねる。ただ、ここでも女給たちと水兵たちとが踊るダンスが、向かいあってステップを踏むという伝統とは無縁の個人的に離れてからだを揺らすという同時代の風俗を反映していることは、ヌーヴェル・ヴァーグの作家としてのジャック・ドゥミの時代性を考えさせるものとなっています。 『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(1968)のストローブとユイレも、ハリウッドのミュージカルとは異なるかたちでの映画における音楽という問題にひとかたならぬ興味をいだいていた映画作家たちだといえます。とりわけ、シェーンベルクによるオペラを撮った『モーゼとアーロン』(1975)、あるいはとりわけルビッチ的な題材ともいえる『今日から明日へ』(1997)など、きわめて興味深い作風におさまっているといえます。ストローブとユイレのほとんどの作品は、誰もが知っているように、比較的に長いワンシーン・ワンショットからなっています。例えば、『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』は、合計百にもみたない長いショットからなっていますが、それぞれの長さに驚いている場合ではありません。その冒頭に描かれているのは、バッハ自身がハープシコードに向かって演奏している背後からのショットなのですが、すでにクレジットの段階から、画面の背後には「ブランデンブルク協奏曲第五番第一楽章アレーグロ」が流れています。画面で最初に目にするものは、ですからハープシコードに向かって独奏している長髪のバッハその人の背後からの姿なのですが、彼が目の前の楽譜を二頁ほどめくったところでキャメラはごく自然に後退し、背後に控えていた六人の音楽師たちがそれぞれの楽器を演奏し始める姿が当時の衣裳で画面にとらえられる。このときのキャメラの後退移動が何ともなまめかしい。その瞬間に曲が合奏となるのですからそれはごく当然のことといえるかもしれません。ただ、この音もないキャメラの峻厳きわまりなくはあっても、どこかしら生きもののようななめらかな移動が見るものの胸に響く。この瞬間しかないという峻厳な移動撮影によって、見るものの情動に無媒介的に作用する何かが伝わってくるからです。そのとき、ショットは、その緩やかな後退移動によって、映画そのものに揺さぶりをかけているとしかいえません。ですから、ここでの重要なものは、ショットの長さそのものにあるのではないと、誰もがうっとりとしながら納得することになるのです。何よりも、その動きが魅力的なのです。しかし、それぞれの時代に、それぞれの風俗にふさわしいダンスが映画に登場しているという点で、ジャン=リュック・ゴダール監督の『はなればなれに』(1964)を挙げておくにとどめます。 『はなればなれに』のダンス これは、アメリカの犯罪小説であるドロレス・ヒッチェンズの『愚か者の黄金』(1958)を原作にしたものということになっていますが、舞台は荒れはてたパリの郊外としています。惨めなコソ泥である二人の若者が、仲間の女の叔母の家に間借りしている男が途方もない枚数の紙幣を隠していることを知り、それを奪う計画を立て、その日をいつにするか、寂れた場末のカフェで相談しているのです。男の一人を演じているのはクロード・ブラッスール、その恋人がアンナ・カリーナ、男の仲間がサミ・フレ。作品のはじめから、この三人はいつも一緒に行動していますが、彼らほど悪行に馴れてはいないアンナ・カリーナは、サミ・フレがテーブルを離れた隙に、恋人のブラッスールに、どうしていつもあの男と一緒にいるのかと問うてみます。すると、拳銃で狙われた場合、俺の代わりにあいつが撃たれて死ぬのさと彼は答えるのです。そのとき彼は、それからほんの数日後に兇弾に倒れるのが自分自身だとは、まだ知らずにいます。 紙幣強奪の日取りがきまると、彼らにはもう何も話すことがありません。すると、一分間の沈黙をしようといって三人が黙りこくるので、画面からは本当に音声が消えてしまったりする。やがて、音楽を聴こうといって、サミ・フレが立ち上がり、画面には見えてはいないジュークボックスに小銭を入れたようで、当時は「マディソン」と呼ばれていたリズムの音楽があたりに響きわたります。右手にカウンターが見えるあたりの空間で、サミ・フレは、自分がかぶっていた帽子をカリーナの頭にそっとのせると、三人は踊り始める。そのとき、ゴダールは、女性に男ものの帽子を被せるという振る舞いが、映画においては、例えば『その夜の妻』(1930)の小津安二郎に端を発するという歴史的な事態に、おそらく気づいてはいないのでしょう。 画面の右端に位置するサミ・フレはグレーのダブルのスーツを着ており、左端にはアーガイル柄のセーターに身をつつんだクロード・ブラッスール、その真ん中のアンナ・カリーナは黒のセーターに同系色のチェック柄のスカートを穿いています。近くのカウンターには酒瓶が並び、背後には客の小さな姿が見え、ときおり白服で給仕するボーイの姿さえ遥かに見えたりするのですが、ゴダールはその踊りぶりを、まったくショットを割ることなく、ほとんど動かないキャメラでじっと凝視している。しかも、その途中に音楽を切って、原作小説からの抜粋や、ほかの小説からの引用を彼自身のコメントとして語っているのです。 三人は並んでステップを踏み、背をのばしてくるりと回ったり、左右の腕と足を不意にのばしたり、手を打ったりしながら、いつまでたってもその踊りをやめようとはしない。その彼らの持続的な動きのくりかえしが、画面から「はなればなれ」であることの仲間意識ともいうべきものを、過度の抒情性に行きつくことのない乾いた調子で画面に行きわたらせているのです。もうそろそろ音楽は終わりかと思われる頃、サミ・フレがまず踊るのを止めます。続いて、クロード・ブラッスールがその場を離れ、残されたアンナ・カリーナだけがその曲を踊りきることになるのですが、その姿と手足の動き、そしてからだのくねらせかたやジャンプして方向を変える一瞬の爽やかさを、じっと見つめたまま動こうとはしないキャメラの前で、彼らは演じて見せるのです。 この場面のダンスに惹かれたものが世界的にいかに多かったかは、例えばクエンティン・タランティーノが1990年に仲間と創設したプロダクションの名前が、『はなればなれに』の原題を英語式に綴り直した《A Band Apart》であったこと──それは2006年まで存続していたらしい──や、アキ・カウリスマキが、ある時期、フィンランドの首都ヘルシンキで経営していた映画館の名前が『はなればなれに』の原題そのままの《Bande à Part》であったことなど、また、さらに現在では、バルセロナに存在する映画学校が《Bande à Part》と名乗っていることなども、この作品がもたらした衝撃の大きさを物語っているといえるでしょう。そして、その衝撃の中心部分に誘うように揺れているのが、このほとんど動かないキャメラによって撮られた決して短くはないダンスのシーンなのです。とりわけこの作品のジェネリックが三人の顔のショットのめまぐるしい編集からなっていたので、この克己的とさえいえるワンシーンの長いショットが見る者を惹きつけるのです。この「マディソン」というダンスを踊り馴れてはいなかったサミ・フレとクロード・ブラッスールは、毎晩ディスコテークに通って練習したのだというのですが、二人の身振りはその巧拙を超えて、映画という時間体験の中で、彼ら、そして彼女の運動の持続がまぎれもない現在として画面を輝かせていたことに、誰も無頓着でいることは許されないとさえ思っているのです。 ショットの解放 『たそがれの女心』の五つもの晩におよぶダンス・シーンをひとつのシークエンスにまとめてみせた艶やかな動きにみちた画像から、『はなればなれに』の三人の踊りに向けられたキャメラによる長いワンシーンの簡潔な複雑さにいたるまで、あるいは、『渇き』の短いショットを思いきり誇張した編集でまとめた誘惑のシーンの歌声から、『われら女性』でカンツォーネを歌うアンナ・マニアーニをとらえたキャメラによる緊密で純化されきった編集にいたるまで、そこに見られるショットの種類は、その長さやアングルはさまざまに異なっていながら、そのいずれにおいてもショットの厳密でありながらも穏やかな運動性、あるいは穏やかでありながらも厳密きわまりない運動性ともいうべきものが、わたくしたちをとらえて離しません。そこでは、ショットが作品そのものから解放されており、同時にわたくしたち自身を映画からも解放してくれるような思いをいだかせてくれるからです。そうした力能が一篇の作品にこめられているか否かで、優れた映画か否かが決まってくるのでしょう。 これまでに見てきたように、ショットのさまざまな形式や長さの違いにもかかわらず、画面に表象されている男女の動きが、映画という持続体験にわたくしたちを立ちあわせ、同時に、そこで語られている物語を超えて、見ているわたくしたち自身の持続意識に、思いきり不可逆的な変化を導入してくれるのです。ダンス・シーンや接吻場面を多く撮ることを控えていた日本映画にも、それにふさわしい運動はもちろんいくつも描かれているので、そのことを最後に触れてみたいと思います。親密な関係にある男女が並んで歩くという何でもない情景がそれにあたります。 そうした光景をみごとに描いてみせたのが成瀬巳喜男であることは、いうまでもありません。もっとも記憶に残っているのは、『山の音』(1954)の終わり近くで原節子が義父の山村聰とともに歩く新宿御苑の透明感ゆたかな光景かもしれません。また、『鶴八鶴次郎』(1938)で保養に訪れた湖のほとりで、長谷川一夫と山田五十鈴とが語りあう瞬間も忘れられません。そこで、『成瀬巳喜男の世界へ』(實重・山根貞男編、筑摩書房、2005)でわたくしが述べたことがらをあえてくり返すかたちで、その素晴らしさに触れておくことにします。 まず、『山の音』ですが、その場面の直前、早朝に鼻血を流していた原節子を義父の山村聰が介抱するという微妙なできごとが語られていたことを思いだしておきましょう。そこには、意識されざる誘惑ともいうべきものが演じられていたとみることが不可能ではないからです。その後、まわりに樹木が生い茂った公園で二人は再会するのですが、そこでは、立ち並ぶ木々の影が地面に長くのび、その間をぬうようにして並んで歩く義父とその嫁とは、ときおり振りかえっては相手の表情を窺いあっています。そのとき、彼らは、交互に鈍い逆光を受けとめながら微妙な表情におさまるのですが、それを生々しく画面に定着させるために動員される映画的な技法は、切り返しというごく単純なものにすぎません。それでいながら、そこに描き出されているのは、驚くほど豊かな世界の無限の拡がりなのです。そのまわりにはいくつもの人影が散在しているのですが、ここでの義父とその嫁とは、彼らだけの孤立ぶりをたっぷりと享受しているかにみえます。しかも、その孤立ぶりは、単純であることの美徳というほかはないショットの自在さと奇跡のように同調しています。ですから、二人は、映画が不意に映画自身と出会ったときだけに姿を見せるはてしない拡がりへと向けて、ゆるやかに踏みこんで行くかのようなのです。この瞬間、スクリーンには、鈍くはじけているような動揺が拡がってゆくのです。 「寡黙な雄弁さ」、あるいは「雄弁なる寡黙さ」 国際的に評価の高まることが望ましい『鶴八鶴次郎』という作品で、新内という日本の伝統的な語り芸で未来を嘱望されている長谷川一夫と山田五十鈴の二人は、たがいの才能に対する信頼と、芸の道を究めようとする真摯なとり組みの姿勢と、観客を裏切ってはならないとする芸人としての自尊心だけで結ばれています。しかし、二人がことのほか繊細な心の震えを体験するのは、まさしく湖畔の散策の光景なのです。 どうやら温泉街らしいところを訪れた彼らは、風呂からあがってから、樹木の幹を黒々ときわだたせる霧の流れる林の中の道をたどりながら、ゆっくりとした足どりで湖の畔に歩みでてきます。あたりにはまだ暮れきっていない夕方の薄らいだ光が立ちこめており、いくつもの石像が逆光で浮きでている水辺の椅子のあたりで歩みをとめます。二人はいずれも和服を端整に着こなしているのですが、その光景をふと目にしただけで、わたくしたちは、なにやら映画の危険な限界に触れるのではないかと思わず胸をつまらせます。そのとき、山田五十鈴は、かたわらの長谷川一夫に向かって、縁談が持ちあがっていると話し出すからです。それは誰だと怪訝そうに訊ねる長谷川に、山田五十鈴は二人が知っているある男の名前を告げる。それはいけない、俺たちは、「新内」のためにも一緒にいなければいけないじゃあないかと応じる長谷川一夫は、思いきって一緒になろうと申し出る。それを耳にして、彼女は、じゃあこんどの縁談は断るから、一緒になりましょうと笑みを浮かべる。そうした言葉を交わしながら、水辺に寄って振り返り、いま来た道の方にやや戻ってからまたふり返るその表情には、夕暮れの淡い明るさを正面から受けとめたり、それを背後にすることで、繊細きわまりない陰翳が推移することになります。わずかに位置を変えるだけで、二人の顔や胸もとには、湖畔の立木の影が落ちかかっては流れて行くのです。 わたくしたちがこの場面に強く惹きつけられるのは、若い男女の芸人たちの心を震わせている互いへの思いが、ここで抒情的な高まりを見せているという物語の水準においてではありません。確かに、ここで成立したかに見える共感にもかかわらず、彼らは結ばれることなく終わる仲なのですが、そうした恋愛感情の微妙な推移にもまして、暮れなずむ戸外に二人を孤立させる成瀬巳喜男の、息を吞まずにはいられぬほど繊細な光線処理と、それに費やされるショットの連鎖のリズムに、誰もが驚嘆するしかないからなのです。しかも、二人を包みこむ淡い光の横溢というこの映画作家による映画そのものの定義が、呆気ないほどの単純さでいつの間にか実現されていることへの深い動揺を、誰もが覚えずにはいられないのです。ですから、ここでは、みごとなショットの連鎖に対する見る者の動揺が問われていることになるのです。 とはいえ、ここでのショットは、どれひとつとして例外的なものではありません。ただ、その瞬間に必要とされるごく普通のショットだけが、この上なく有効に連鎖している。ですから、ショットとは、このわたくしのエッセイの題名にふさわしく、その「寡黙な雄弁さ」によって、あるいは「雄弁なる寡黙さ」によって、見る者を動揺させるものだというべきときがきているのかもしれません。 『殺し屋ネルソン』の「死」 ──「厳密」なものであると同時に「穏やか」なものであるショットが、「寡黙」なものであると同時に「雄弁」なものでもあるという点は理解できたと思います。しかし、そこで語られていたショットは、いずれも人間が演じる何らかの運動と無縁なものではありませんでした。では、被写体としての人間は、ショットにあって動かずにいること、すなわち不動のものであるというケースはありえないということでしょうか。 實 よく聞いて下さいました。それに言及することで、「Ⅰ」で触れておいた『殺し屋ネルソン』(ドン・シーゲル監督、1957)を、改めて分析することができるからです。それは、その作品の最後で、人間のからだの動から不動への無媒介的な移行として演じられる「死」そのものが描かれているからなのです。 では、その最後のイメージとは、具体的にはどんなものだったでしょうか。まさしく、主人公が動きを奪われる瞬間に、映画は終わっています。それ以前に、追ってくる刑事たち二人をマシンガンで呆気なく撃ち倒したミッキー・ルーニーは、彼もまた敵の銃弾をくらって岩場に倒れこみます。しかし、それは即死ではありません。キャロリン・ジョーンズによって肩を支えられたミッキー・ルーニーは、墓地のようなところによろけるように迷い込み、横移動のキャメラが二人の危なっかしい歩行をとらえているのですが、やがて彼は力なく地面に倒れこむしかありません。血まみれの彼は、かたわらの恋人に拳銃を手渡し、これで撃ってくれと懇願する。その直後に二発の銃声が響き、墓石のかたわらに改めて倒れこむ。瀕死の彼が動きを止める姿は陰惨きわまりないものです。そして、その亡骸からキャメラがパンすると、墓石に刻まれていたthe endの文字がいきなり浮かびあがる。動きを奪われつくした人間とは、それこそ死そのものにほかならないからです。 動から不動への移行 いわゆるギャング映画で、主人公が撃たれて命を失うことは、ハリウッド映画でも決して稀なことではありません。とりわけ、そうした語りが得意だったラオール・ウォルシュの場合、例えば『彼奴は顔役だ!』(1939)の最後で、追いつめられたジェームズ・キャグニーは呆気なくその場に倒れてしまいます。また、『ハイ・シェラ』(1941)のハンフリー・ボガートの場合は、いきなり高みから狙撃され、まるで石のかたまりのように呆気なく、恋人アイダ・ルピノの目の前で岩場から転落するしかありません。また、その西部劇のリメイクである『死の谷』(1949)のジョエル・マクリーも、銃口に見たてたズームレンズの初期的な使用によって、遥か彼方の岩陰で不意に動きを止めてしまいます。例を挙げれば切りがありませんが、ウォルシュの場合、追いつめられた男たちは、いきなり物質と化したかのような呆気なさで、動から不動へと移行してゆくのです。 彼の戦争映画においても、事情はまったく変わりません。例えば、『愛欲と戦場』(1955)の主演男優ヴァン・ヘフリンは少佐として進軍作戦の指揮をとっていながら、日本軍の砲弾の炸裂で重傷を負い、彼を助けようとする部下に拳銃を向けて自分にはかまうなと宣言し、肩を樹木の幹に寄せてからだをあずけるようにして動きを止めるのですし、また、『裸者と死者』(1958)の主演男優アルド・レイが演じている軍曹もまた、作戦を指揮しながら、日本軍の銃撃をうけて、あっさりと死んでゆくのです。 確かに、そこには、『殺し屋ネルソン』のように、不動へと移行する直前の主人公の痛みの意識は描かれていません。そこに、30年代作家ウォルシュと50年代作家ドン・シーゲルの違いがあるといえるかもしれません。あるいは、ほぼ同じ時期に撮られた『大砂塵』(ニコラス・レイ監督、1954)ですでに触れておいたスコット・ブレディーの、まるで宙に吸いこまれるような死に方なども、痛みの不在というそれに類するものだといえるかもしれません。 1960年代から70年代のハリウッドでは、スローモーション撮影による登場人物たちの死の瞬間のスペクタクル化が、新たな流行になったといえるかもしれません。例えば、『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン監督、1967)やサム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』(1969)などの作品のラストシーンがそれにあたり、その後はロバート・ロドリゲスなどにも受けつがれているあまり推奨さるべき手法とはいえませんが、じつは、サム・ペキンパーが、『昼下りの決斗』(1962)の最後で、動から不動への心に残る素晴らしい移行ぶりを描いていたことをここで想起してみたいと思います。それは、銃撃戦で深く傷を負ったジョエル・マクリーが、若い者たちに自分の死の瞬間を見せたくないから、彼らをつれて去ってくれとランドルフ・スコットに懇願し、若者たちと彼とがその場を離れるのを確かめるかのように、音もなく倒れて画面から姿を消す瞬間を描いているのです。背後には高い山が見えているスクリーンの画像を横切るように音もなくからだを倒してゆく彼の最期こそ、動から不動への移行として、文句のないほど簡素にして一度見たら忘れられない死の瞬間だったといえます。 また、『ゴッドファーザー パートⅢ』(フランシス・フォード・コッポラ監督、1990)の最後におけるアル・パチーノのシシリアの自宅の庭での孤独な死は、『ゴッドファーザー』(1972)におけるマーロン・ブランドの孫と遊びながらの死の光景よりはるかに簡素で充実していたことを指摘しておきたいと思います。真昼の庭先での死というべきものとしては同じものですが、誰もいない庭先で、かろうじてその姿を識別しうる距離に構えたキャメラは、いきなり椅子から音もなく転げ落ちるアル・パチーノをごく客観的にとらえているにすぎません。そこに小さな犬が歩みよるというロング・ショットの素晴らしさについては、何度でもくり返し指摘しておきたいことなのです。 いうまでもなく、この真昼の戸外での孤独な死は、映画作家コッポラの技術的な洗練によるものであり、作品そのものの終わりを見るものの共感にそってなだらかに呼びよせています。その種の洗練とはおよそ無縁の共感を排するかのような死が、すでに引いておいた『都会のひと部屋』のラストシーンに描かれています。警官隊に殴打された瀕死のフランソワが、仲間たちによって未亡人のサロンに担ぎ込まれてきて、床の絨毯の上に寝かされる。そこには、彼の子を宿したというそのガールフレンドまでが姿を見せており、ソファーのクッションを枕がわりにそっと頭の下に滑りこませる親しい仲間はいうまでもなく、未亡人までが瀕死のフランソワを見まもっている。ところが、それまでその裸身を毛皮のコートで覆っていたエディットは、いつの間にか赤いブラウスに着替えており、彼の息が絶えたと知ると、かたわらのピアノの上に置かれていたバッグから無言で小型の拳銃を取り出し、それを制しようとする母親を押しのけ、胸に向かって引き金を引く。その衝撃音が聞こえた瞬間にショットが変わり、床の絨毯に横たえられていたフランソワの顔のかたわらに、エディットの顔があお向けに倒れこみ、動きを止める。この動から不動への瞬時の移り行きは、およそ抒情からは遠いまぎれもないその即物性において、語られていた物語の終わりを唐突に引き寄せる。その物質化した二つの動かぬ顔のクローズアップは、物語を超えた終わりの衝撃を永遠化しているかのようなのです。 最後に、21世紀に入ってから撮られた優れた犯罪映画として、マイケル・マン監督の『コラテラル』(2004)を挙げておきたいと思います。その最後で傷ついたトム・クルーズが地下鉄の座席に腰をおろし、犯罪組織とはいっさい無縁のジェイミー・フォックスとジェイダ・ピンケット・スミスの目の前で、地下鉄の中で死んだ男がいるが、誰にも気づかれなかったといってから静かに頭を垂れる瞬間は、これまでの古典的なギャング映画の伝統をふまえつつ、みごとというほかはない瞬間におさまっています。それを斜め上から見つめたりするマイケル・マンは、その後に遥かかなたからのロング・ショットをも挿入することで、動から不動への移行こそこの種の作品には必須のものだと優雅に述べているかのようです。こうした優れた作品がそれにふさわしく評価されないのは、何とも無念というほかはありません。 しかし、こうした動から不動への移行が、必ずしも死のイメージには結びつかない場合もあることを指摘しておかねばなりません。それは、あの忘れがたいロベルト・ロッセリーニの傑作『神の道化師、フランチェスコ』(1950)の最後に見られるものです。そこでのフランチェスコは、弟子たちに向かって、その場でぐるぐると回り、堪えられなくなったら倒れるのだと教えます。そこで、それぞれの者たちは、訳もわからぬままに回り始め、ひとりひとりが思いがけぬ方向に向けて倒れこむ。そうした複数の修道士に向けるキャメラは、これといった工夫も凝らしてはいないかに見えます。だが、ひとりだけなかなか倒れない老人が最後に地面に転がると、フランチェスコは、それぞれの頭が向かった方向に行って、布教につとめて平和を説けと告げるのです。やや離れた距離からのショットは、立ちあがってたがいに抱きあいながら、シエナへ、フィレンツェへ、ピサへ、等々、それぞれの方向に向けて去って行くさまをじっととらえ続け、浅い川に足を踏みいれて対岸へと遠ざかる三人ほどの修道士たちを画面におさめてから、わき上がる雲の白さで作品は終わりを迎えます。ある意味では楽天的な光景を印象づけるこの作品の最後のショットは、文字通り「厳密」な「穏やかさ」におさまり、まさしく「寡黙」なる「雄弁さ」として、映画をしめくくることになるのです。 この『神の道化師、フランチェスコ』をわずかな例外として、映画における動から不動への移行としての死が語られるのは、その殆どが男性についてのものだと確認することができます。男が動きを止めれば死が露呈する。それは、はたして何を意味しているでしょうか。実際、画面にとらえられている存在がいきなり動きを停止するという瞬間は、その殆どが男性の死についてみられるものばかりでした。しかし、例外がないではありません。女性が動きを止めることで死がもたらされるという代表的なイメージは、いうまでもなく、ロベルト・ロッセリーニによる『無防備都市』(1945)におけるアンナ・マニアーニだといえるでしょう。 これは、結婚式の日にその夫となるべき男がゲシュタポにとらえられて連行されるので、その後を追って表通りを走り始めたマニアーニもまた射殺されるという、名高い後退移動のキャメラが、その動から不動への瞬間を壮烈に描いています。これは、まぎれもなく、女性が不意に動きを止めるという例外的な映画的な瞬間だといえます。ただ、B級映画の傑作ともいうべき『その女を殺せ』(リチャード・フライシャー監督、1952)の普通人を装った女性警官のマリー・ウィンザーの死も、忘れがたい光景におさまっています。犯罪者たちに不意に囲まれた彼女が、隠し持っていた拳銃を手にしようとして撃たれた瞬間、その場に倒れこむときの衝撃で、止まっていたレコードがいきなり動き始め、場違いな歌が聞こえるという傑出した場面にも、動から不動への移行が賑やかに描かれていたと指摘しておきたいと思います。 しかし、それとは異なるごく穏やかなかたちでの動から不動への移行が、ジョン・フォードによって描かれていたことを忘れてはなりません。それは『長い灰色の線』(1955)におけるモーリン・オハラの死の光景にほかなりません。それは、玄関先の椅子に横たわった老齢の彼女が、静かに右手を垂らす瞬間をとらえた背後からのロング・ショットなのです。これまた素晴らしいショットです。だが、動から不動へというショットの中の変化に関して、動から不動への移行が、死とは異なる何ものかを示している画面がごく最近の映画でも見られていたことをつけ加えておきたいと思います。それは、ハリウッドにおける期待の新人監督デイヴィッド・ロウリーの長編第二作『セインツ─約束の果て─』(2013)の物語を閉じるルーニー・マーラの横顔のストップ・モーションにほかなりません。『殺し屋ネルソン』の最後では視界から排されていた女性の存在がここでは色濃く影を落としていることが、過度の感傷性に陥ることのない抒情を歌いあげているからです。 ショットそのものの定義 わたくしたちは、すでにキース・キャラダインが、ケイシー・アフレックに見まもられて動きをとめるシーンをすでに感慨深く目にしています。その惨劇の取り調べのために、ルーニー・マーラは、自分に惹かれており、彼女自身も憎からず思い始めている保安官役のベン・フォスターとともに署まで行っているのですが、やがて彼の車で家に戻ります。すると、何やら気配を察したベン・フォスターが親子を車に残し、拳銃を構えて彼女の家に入って行く。そのままの姿勢で、寝室のベッドに向かいあったところに、瀕死の彼女の夫を目にするのです。 いつの間にか彼のかたわらに立っていたルーニー・マーラがその拳銃をしずかに押しのけ、もうそれにはおよばないと血だらけの夫をかき抱く。そこに姿を見せた娘と父親の視線が一瞬交錯する。ここで動きを止めるのは、脱獄して故郷を目ざし、やっとのことで自宅にたどりついた瀕死の夫なのですが、その思いがけない帰宅の意味をたちどころに理解した妻は、まだ幼い娘を遠ざけ──彼女に心惹かれている保安官が娘をあやしてやるという微妙なシチュエイションが効いています──、瀕死の夫を思いきり抱きしめ、娘を妊娠していた頃の彼の素振りをあれこれ想起しながら、自分自身の腕の中で夫が動きを失うさまを肌身で確かめるのです。 確かに、ここには、『殺し屋ネルソン』の最後で、あえて恋人の息の根をとめたギャングの情婦キャロリン・ジョーンズの愛の残酷さは不在であるかに見えます。しかし、自分の身代わりに逮捕されていた瀕死の夫への、より複雑な思いがルーニー・マーラの中で交錯していることに注目しなければなりません。 実際、ややあってから、彼女は、スクリーンの右側に視線をはせつつ、そこで不意に動きを止める。そのとき、スクリーンを領しているのは、淡い陽ざしを屋内で受けとめる彼女の横顔だけなのです。だが、そのプロフィールが不意におさまる不動性が、かえって彼女自身が演じたあれこれの身振りをあらゆる者に想起させずにはおきません。まさに、いくえもの生を素描しているかのようなこの素晴らしいルーニー・マーラの凝固したかのようなプロフィールこそ、ショットそのものの定義ともいうべき「寡黙」なる「雄弁」にほかならぬはずだと、いま、わたくしは、深く確信することができるのです。 あとがき 映画は、見るものをたちどころに武装解除しにかかり、それにさからう術は一向に見あたらない。だから、何歳になっても、映画について語ることを「職業」とすることがためらわれてなりませんでした。映画を論じるときには、いつまでもアマチュアでいたい。そう思っているうちに、いつのまにか八十六歳になろうとしている自分には驚くしかありません。 もっとも、「ショット」については、いつか語らねばならぬと考えていました。しかし、それを理論的な言説に仕上げることだけはしまいとも思っていた。それは、ここに読まれた『ショットとは何か』の後半部分にも記したとおり、理論がいまだ映画に追いついていないと確信しているからです。世のいわゆる「映画理論書」と呼ばれるもののほとんど──エイゼンシュテインでさえ──が、理論として破綻しているとまではいわぬにせよ、きわめて不充分なものにとどまっていることは誰の目にも明らかでしょう。したがって、ここでは、映画について語ることを「職業」とするよりはるか以前のわたくしのハイティーン時代──六十年の余も前のことですから、半世紀以上も昔のことになります!──にひどく心を搔き乱された二本の作品について虚心に語ることから始めています。『殺し屋ネルソン』と『大砂塵』がそれに当たります。 もちろん、それまで、多くの古典的なハリウッド映画──ウォルシュ、ヴィダー、ヒッチコック、ホークス、フォード、等々──に深く心を動かされていました。エイゼンシュテインも見ていましたし、その書き残したものにも目を通していました。しかし、ドン・シーゲルとニコラス・レイの作品には、いわゆる「古典的なハリウッド映画」とは異なる何かが息づいており、しかも、そのとらえがたい画面の輝きには、エイゼンシュテイン経由ではとうてい触れることができない。しかし、それをどのように論じればよいか、なかなかわかりませんでした。 それが、いま、とうとう理解できたとまではいいますまい。だが、現在ならどうやら語れると思えたのは、ジャン=マリ・ストローブという映画作家が存在していてくれたからにほかなりません。彼は、この書物でも触れたあるインタビューに答えて、エイゼンシュテインはいうに及ばず、オーソン・ウェルズも、アラン・レネも、黒澤明も、こと映画における画面の分析にはいかなる貢献もしていないと宣言し、それを語るには、グリフィス、フォード、等々、ハリウッドのいわゆる「古典的な映画作家」に触れねばならないと彼はいいそえています。そこには、さらに、ムルナウ、ラング、ドライヤー、等々、ヨーロッパ起源の映画作家など、わたくし好みの名前も混じっていました。これなら、行ける。そう思ったのはいうまでもありません。 とはいえ、ここでは、ムルナウ、ラング、ドライヤーについてはほとんど触れていません。原点にある五〇年代のドン・シーゲルやニコラス・レイの作品から、あまりにも遠くに離れてしまうからです。読まれる通り、アルドリッチやリチャード・フライシャーなどの同世代の作家たちの作品の方が優先されてしまっておりますが、それには他意はありません。ロベール・ブレッソンについてほとんど触れていないのも、ほぼ同じ理由によります。 この書物の執筆には、思いのほか長い時間がかけられています。その始まりがいつであったかは調べて見ればわかるでしょうが、いまはその時間的な余裕がありません。いずれにせよ、数年前の冬、講談社の文芸誌『群像』の編集部にかかわりを持つ松沢賢二、森川晃輔、それに『群像』の元編集者で現在は株式会社CTBの三枝亮介のお三人が自宅近くのカレー屋に昼時に参集し、食後に拙宅で長い時間をかけて話しあうというルーチンの繰り返しから生まれたものです。インタビューアーは三枝さんということになっていますが、この書物は、いわばわたくしたち四人の共同作業から生まれたものです。その間、三枝さんの合衆国のLA滞在の期間も、その習慣は維持されたのですから、すでに、この書物は、その準備段階から、国際的な拡がりを持っていたことになります。 『群像』に不定期に連載されたときには森川さんが、また、書籍化にあたっては松沢さんが、厄介な編集事務のいっさいを担当されました。ここに改めて、その三人の方々への深い謝辞を捧げる次第です。有り難うございました。 二〇二二年 一月 著 者 書籍・雑誌・論文ほか(初出順) Ⅰ ◎リチャード・フライシャー『泣くときは言って下さいな』Richard Fleischer, Just Tell Me When to Cry ─ A Memoir, Carroll & Graf Publishers, 1993 ◎『世界映画大事典』岩本憲児・高村倉太郎監修、日本図書センター、2008 ◎『世界シネマ大事典』フィリップ・ケンプ責任編集、遠藤裕子ほか訳、三省堂、2017(Philip Kemp, Cinema The Whole Story, Thames & Hudson, 2011) ◎『映画辞典』ジャン=ルー・パセック編、Jean-Loup Passek Dictionnaire du Cinéma, Larousse, 1986 ◎ジェイムズ・モナコ『映画の教科書──どのように映画を読むか』岩本憲児ほか訳、フィルムアート社、1983(James Monaco, How to Read a Film, Oxford University Press, 1977) ◎ジャン・テュラール『映画辞典』Jean Tulard, Dictionnaire du Cinéma, Robert Laffont, 1997 ◎レズリー・ハリエル『映画好きのための仲間』Leslie Halliwell, Halliwell’s Filmgoer’s Companion, Granada, 1984 ◎實重『ハリウッド映画史講義』筑摩書房、1993 ◎『キネマ旬報ベスト・テン90回全史』キネマ旬報社、2017 ◎デイヴィッド・ボードウェル、クリスティン・トンプソン『フィルム・アート──映画芸術入門』藤木秀朗監訳、名古屋大学出版会、2007(David Bordwell, Kristin Thompson, Film Art; An Introduction, McGraw-Hill, 2004) ◎アラン・ローヴェル『ドン・シーゲル』Alan Lovell, Don Siegel, BFI, 1975 ◎ドン・シーゲル『シーゲルの映画』Don Siegel, A Siegel Film ─ An Autobiography, Faber and Faber, 1993 ◎實重『光をめぐって』筑摩書房、1991 Ⅱ ◎實重「アメリカ映画狂時代」1993 →『映画に目が眩んで 口語篇』中央公論社、1995 ◎ベルナール・エイゼンシッツ『ニコラス・レイ──ある反逆者の肖像』吉村和明訳、キネマ旬報社、1998(Bernard Eisenschitz, Roman Américain ─ Les vies de Nicholas Ray, 1990) ◎飯島正『フランス映画』三笠書房、1950 ◎飯島正『フランス映画史』白水社、1950 ◎双葉十三郎『アメリカ映画』名曲堂、1950 ◎双葉十三郎『アメリカ映画史』白水社、1951 ◎フランソワ・トリュフォー『ヒッチコック=トリュフォー』François Truffaut, Hitchcock/Truffaut, Simon & Schuster, 1966(『映画術 ヒッチコック / トリュフォー』山田宏一、實重訳、晶文社、1981) ◎實重『『ボヴァリー夫人』論』筑摩書房、2014 ◎實重『ジョン・フォード論』文藝春秋、2022(予定) Ⅲ ◎實重『映画崩壊前夜』青土社、2008 ◎實重『映画はいかにして死ぬか』フィルムアート社、1985(新装版2018) ◎山田宏一『エジソン的回帰』青土社、1997 ◎リチャード・シッケル『グリフィス アメリカの生涯』Richard Schickel, D. W. Griffith ─ An American Life, Simon & Schuster, 1984 ◎ルネ・クレール『映画をわれらに』山口昌子訳、フィルムアート社、1980(René Clair, Cinéma d’hier, Cinéma d’aujourd’hui, Gallimard, 1970) ◎リチャード・コサルスキー『フォン』Richard Koszarski, Von ─ The Life & Films of Erich von Stroheim, Limelight Editions, 2001 ◎實重「単純であることの穏やかな魅力──D・W・グリフィス論」「リュミエール」No.6、1986 ◎ジル・ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』財津理、齋藤範訳、法政大学出版局、2008(Gilles Deleuze, Cinéma – 1 ─ L’Image-mouvement, Les Éditions de Minuit, 1983) ◎フランシス・フォード・コッポラ『フランシス・フォード・コッポラ、映画を語る──ライブ・シネマ、そして映画の未来』南波克行訳、フィルムアート社、2018(Francis Ford Coppola, Live Cinema and Its Techniques, 2017) ◎〈ジャン=マリー・ストローブへの質問〉「カイエ・デュ・シネマ」185号Jean-Marie Straub, questions aux cinéastes, Cahiers du Cinéma, no.185, Décembre 1966 ◎ジル・ドゥルーズ『シネマ1・2』(前出『シネマ1』と後出『シネマ2』の合称) ◎ジャン=リュック・ゴダール「カラビニエたちを撃つ」→『ゴダール──全評論・全発言Ⅰ 1950-1967』奥村昭夫訳、筑摩書房、1998(Jean-Luc Godard, Jean-Luc Godard Par Jean-Luc Godard, Cahiers du Cinéma, 1985) ◎實重『映画時評2012-2014』講談社、2015 Ⅳ ◎淀川長治「サイレント・ベスト55」→『淀川長治映画ベスト10+α』河出文庫、2013 ◎淀川長治「淀川長治のヴァンプ映画・厳選55本」→『淀川長治映画ベスト10+α』河出文庫、2013 ◎ケヴィン・ブラウンロウ『サイレント映画の黄金時代』宮本高晴訳、国書刊行会、2019(Kevin Brownlow, The Parade’s Gone By…, Alfred A. Knopf, 1968) ◎實重「映画・この不在なるものの輝き」1970 →『映画の神話学』泰流社、1979、ちくま学芸文庫、1996 ◎ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』宇野邦一、石原陽一郎、江澤健一郎、大原理志、岡村民夫訳、法政大学出版局、2006(Gilles Deleuze, Cinéma 2 ─ L’image-temps, Les Éditions de Minuit, 1985) ◎クリスチャン・メッツ『映画における意味作用に関する試論──映画記号学の基本問題』浅沼圭司監訳、水声社、2005(Christian Metz, Essais sur la signification au cinéma I, Klincksiek, 1968) ◎クリスティン・トンプソン、デイヴィッド・ボードウェル『映画史──序説』Kristin Thompson, David Bordwell, Film History ─ An Introduction, McGraw Hill, 1994 ◎福尾匠『眼がスクリーンになるとき──ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』フィルムアート社、2018 ◎〈デイヴィッド・ボードウェルの1940年代のハリウッド映画論〉David Bordwell, Reinventing Hollywood ─ How 1940s Filmmakers Changed Movie Storytelling, University of Chicago Press, 2017 ◎ジャン=リュック・ゴダール「スーパー・マン──アンソニー・マン『西部の人』」→『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』 ◎リチャード・ラウド『ストローブ』Richard Roud, Straub, Viking Press, 1972 ◎ベルクソン『物質と記憶』熊野純彦訳、岩波文庫、2015(Henri-Louis Bergson, Matière et mémoire, 1896) ◎ベルクソン『創造的進化』真方敬道訳、岩波文庫、1979(Henri-Louis Bergson, L’évolution créatrice, 1907) ◎アンドレ・バザン「写真映像の存在論」André Bazin, Ontologie de l’image photographique, 1945(『映画とは何か 上』野崎歓ほか訳、岩波文庫、2015) ◎アンドレ・バザン「ウイリアム・ワイラー、または演出のジャンセニスト」「ルヴュ・デュ・シネマ」1948.3 André Bazin, William Wyler ou le Janséniste de la Mise en Scène, La Revue du Cinéma, mars 1948(→『映画とは何かⅡ 映像言語の問題』小海永二訳、美術出版社、1970) ◎アンドレ・バザン「映画的リアリズムと解放時のイタリア派」「エスプリ」1948.1 André Bazin, Le réalisme cinématographique et l’école italienne de la libération, Esprit, janvier 1948(→『映画とは何かⅢ』小海永二訳、美術出版社、1973) ◎ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『千のプラトー』宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出書房新社、1994(Gilles Deleuze & Félix Guattari, Mille Plateaux – Capitalisme et Schizophrénie, Les Éditions de Minuit, 1980) ◎ハンス・ルカス(ゴダールの別名義)「古典的デクパージュの擁護と顕揚」「カイエ・デュ・シネマ」1952.9 Hans Lucas, Défense et Illustration du découpage classique, Cahiers du Cinéma, septembre 1952(→『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』) ◎ジョアシャン・デュ・ベレイ『フランス語の擁護と顕揚』Joachim du Bellay, La Défense et illustration de la langue française ◎ジャン=リュック・ゴダール「アンリ・ラングロワのおかげで」、1966 →『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』 ◎アンドレ・バザン『全発言』André Bazin, Écrits complets, Éditions Macula, 2018 ◎ジル・ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳、河出書房新社、1992(Gilles Deleuze, Différence et Répétition, Presses Universitaires de France, 1968) ◎ジル・ドゥルーズ『襞──ライプニッツとバロック』宇野邦一訳、河出書房新社、1998(Gilles Deleuze, Les Éditions de Minuit, Le Pli: Leibniz et le Baroque, Les Éditions de Minuit, 1988) Ⅴ ◎エイドリアン・マーチン『ミザンセヌとフィルムスタイル──古典的ハリウッドからニューメディア・アートまで』Adrian Martin, Mise en Scène and Film Style ─ From Classical Hollywood to New Media Art, Palgrave Macmillan, 2014 ◎〈ポール・ウィルメンの20世紀の末期に書かれた書物〉Paul Willemen, Looks and Frictions : Essays in Cultural Studies and Film Theory, BFI, 1993 ◎マイケル・ライアン、メリッサ・レノス『Film Analysis 映画分析入門』田畑暁生訳、フィルムアート社、2014(Michael Ryan, Melissa Lenos, An Introduction to Film Analysis: Technique and Meaning in Narrative Film, Continuum, 2012) ◎〈ジャック・ランシエールによる英語の記事〉Jacques Rancière, The gaps of cinema, NECSUS, Issue 1, 2012 ◎木下千花『溝口健二論:映画の美学と政治学』法政大学出版局、2016 ◎滝浪佑紀『小津安二郎 サイレント映画の美学』慶應義塾大学出版会、2019 ◎ピーター・ウォーレン『映画における記号と意味』岩本憲児訳、フィルムアート社、1975(Peter Wollen, Signs and Meaning in the Cinema, Secker & Warburg, 1969) ◎〈エリック・ロメール《Politique des Auteurs》について〉「カイエ・デュ・シネマ」1956.10、Éric Rohmer, Cahiers du Cinéma, Octobre 1956 ◎アンドリュー・サリス『ジョン・フォード 映画の神秘』Andrew Sarris, The John Ford Movie Mystery, Secker & Warburg, 1976 ◎デイヴィッド・ボードウェル『小津安二郎 映画の詩学』杉山昭夫訳、青土社、1992(David Bordwell, OZU and the Poetics of Cinema, Princeton University Press, 1988) ◎ピーター・ボグダノヴィッチ『インタビュー ジョン・フォード』高橋千尋訳、文遊社、2011(Peter Bogdanovich, John Ford, University of California Press, 1967 expanded 1978) ◎マックス・オフェルス『追憶』Max Ophüls, Souvenirs, Cahiers du Cinéma 2002 ◎ドロレス・ヒッチェンズ『愚か者の黄金』Dolores Hitchens, Fool’s Gold, Doubleday, 1958 ◎實重・山根貞男編『成瀬巳喜男の世界へ』筑摩書房、2005 初
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