地面の穴のなかに、ひとりのホビットが住んでいました。穴といっても、ミミズや地虫などがたくさんいる、どぶくさい、じめじめした、きたない穴ではありません。といって味もそっけもない砂の穴でもなく、すわりこんでもよし、ごはんも食べられるところです。なにしろ、ホビットの穴なのです。ということは気持ちのいい穴にきまっているのです。  入口のドアは、マンホールのふたのようにまんまるで、緑色にぬってあり、ドアのまんまんなかに、黄色いしんちゅうのぴかぴかした取手がついています。ドアをあけると、トンネルになった筒形の広間があります。トンネルといっても、煙のとおらないすてきなトンネルで、入口のその部屋は、かべには鏡板、床にはタイル、その上にじゅうたんをしいて、みがきのかかったいすをおき、かべに帽子や外套をかける金具がずらりとならべてあります。これは、ホビットというものがお客ずきだからです。さて、トンネルは、ぐるぐるまわって、奥へつづきます。お山の斜面にそって、うねりながらくりぬいてあるのです。お山というのは、この山のまわり一帯に住む者たちが、ここをそう呼んでいる名まえですが、そのお山のここかしこに、たくさん小さな丸いドアがあいています。ホビットの住居には二階がありません。寝室も風呂場も酒ぐらも食物ぐら(たくさんあります)も、着物部屋(着るものばかりしまう部屋があります)も、台所も食事部屋も、ぜんぶ一階で、おなじ廊下でつづいています。上等な部屋はみな、左がわにあります。左がわには窓があって、その深くくりぬいた丸い窓から、自分の畑や、川までなだらかにくだっている牧場が見わたせるからです。  このホビットは、たいへん暮らしむきのよい家柄で、バギンズという姓でした。バギンズ家は、代々、もう思いだせないくらい昔から、ずっとお山の近くに住んでいました。そして世間では、バギンズ家はりっぱな家柄でとおっています。それは、代々暮らしがゆたかだったせいばかりでなく、昔からとんでもない冒険やあきれるような事件をひきおこした者がなかったからでした。何事によらず、バギンズ家の者がいいそうなことは、たずねてみるまでもなくわかるのでした。ところが、この物語では、そういうバギンズ家のひとりが、とほうもない冒険をやり、当人でさえあっと思うようなことを、いったりしでかしたりするのです。そしてそのために、近所の連中から、りっぱなひとだと思われなくなったかもしれませんが、それでもそのかわりに、さいごに、すてきなものを手にいれます。それがどんなものかは読んでいけば、わかります。  さて、主人公のホビットのおかあさんは、──いや、その前に、ホビットとは、いったいなんなのでしょう。いまはホビットたちがごくすくなくなりましたし、また「大きい人」たち(わたしたち人間のことを、ホビットは、そう呼んでいます)をこわがって、めったに出てきませんから、どうしてもいくらか説明しておかなければなりません。ホビットは小人です(小人でした、といいましょう。いまは見られませんから)。ドワーフ小人よりも小さくて(ドワーフ小人は、白雪姫に出てくる七人の小人たちの仲間です。ドワーフにはひげがはえていますが、ホビットにはありません)、リリパット小人よりは大きいのです(リリパット小人は、ガリバーの話に出てくる小人国の小人です)。ホビット小人には、魔法の力がありません。といっても、わたしたちのようなまぬけな大きい人間どもがのこのこやってくれば、象のようなその音を一キロもさきからききつけて、こっそり、時をうつさず、すがたをかくすぐらいなことは、あさめしまえです。ホビットは、たいていおなかがふとっています。そして、目もあざやかな(たいてい緑色と黄色の)服を着ています。靴ははきません。それは、足の裏が皮底のようにじょうぶになっていて、おまけにふかふかした茶色の毛がびっしりはえているからです。茶色の毛は頭にもふさふさとはえています(頭のほうの毛はちぢれています)。手足の指は、茶色で長くて、よく動きます。ひとのいい顔つきで、笑う時はこぼれるような笑顔になります(ことにごちそうを食べたあとはにこにこです。ごちそうは、なるべく一日に二度食べます)。これがホビットです。では話をつづけましょう。  このホビット、つまりビルボ・バギンズのおかあさんは、名高いベラドンナ・トックで、トック家の三美人とうたわれた、きょうだいのひとりでした。トック家といえば、お山から流れてくる小川(このあたりでは、ただ「流れ」と呼んでいます)の、川むこうに住むホビット仲間の本家でした。そして昔から、トック家の血筋には、だれか、妖精小人(すこしいじわるい人はゴブリン小人だといいます)の家すじの者と結婚したひとがあったという、いい伝えがあります。そういえばたしかに、トック家には、まったくのホビット族らしくないところが残っていて、時おり、この一族のひとりが家をとび出して、冒険をしでかします。そういう変わり者たちは、こっそりとすがたをかくし、トック家の方でも口をぬぐって知らんかおをしました。それでも、トック家はバギンズ家よりもずっと物持ちのくせに、どうしてもバギンズ家ほどりっぱでないといわれてしまうのでした。  ベラドンナ・トックは、バンゴ・バギンズのおくさんになってから、なにもおかしなふるまいをしたことがありませんでした。ビルボのおとうさんのバンゴは、ベラドンナのために、この上なくぜいたくなホビット穴を作りました(それには、おくさんのお金もだいぶつかいましたが)。お山の下、お山のうしろ、川むこうの、どこにもないほどすてきな穴でふたりとも死ぬまで暮らしました。このベラドンナのひとりむすこビルボは、顔かたちもしぐさも、分別くさくてぜいたく好きだったおとうさんに、瓜二つでしたけれども、トック家の血がまじっているせいか、どこかしら少しへんなところがありました。どこかに、きっかけさえ来たら表にでようと待ちもうけているようなきみょうな性分があったのです。そうはいっても、今ではもう、五十歳ぐらいになっていて、それが表にとび出すはずみが来ないままに、みたところどうやら、おとうさんの作ったこの気持ちのいい住居にすっかり腰をおちつけてしまったようでした。  ところが話はおかしなはずみで、ある朝のこと──ずっと昔、この世の中がたいへんおだやかで、いま時のようなやかましい物音がなく、どこもかもしたたるような緑で、ホビットたちがまだたくさんいて、とみ栄えていたころの──ある朝、ビルボ・バギンズが、朝ごはんをすませて、自分の家のドアの前で、とほうもなく長いパイプで、ゆっくり一服たのしんでいますと(その木のパイプは、ビルボのきれいにとかした足裏の毛にとどくくらい長いものでした)──あのガンダルフが、やってきたのです。ガンダルフ! このひとのうわさときたら、わたしはほんの一部しか知りませんけれど、そのまたほんの一部をお話しただけでも、みなさんは、このさきどんな話にもおどろかなくなるにちがいありません。ガンダルフが顔を出すところには、どこにもきまって、ふしぎな物語、ものすごい冒険がまきおこるのです。ガンダルフは、友だちだったトックじいさんが死んでからというもの、ずいぶん長いあいだ、お山のふもとのこのあたりへやってきませんでした。ですから、ホビットたちは、ガンダルフのようすや顔つきを、ほとんど忘れかけていました。ガンダルフは、このあたりのホビットたちがほんの子どもだった昔に、お山をこえ流れを渡って、自分の仕事でずっとよそへいっていたのです。  この朝、それと知らないビルボが見たひとは、ただの年よりでした。その年よりは、さきのとがった長い青い色の帽子をかぶり、黒っぽい長めのマントをはおり、首に銀色のスカーフをまいて、スカーフの上から長い白ひげを腰までたらし、ばかに大きな黒い長靴をはいていました。  「よいお日和を。」とビルボがいいました。そのとおりでした。朝日は輝き、草はさえざえとした緑でした。けれどもガンダルフは、帽子のつばよりも長くつき出た、もじゃもじゃの眉毛の下から、ビルボをじっと見つめました。  「それはどういうことかね。わしにとってよい日和だというのかね。わしにはどうでも、よい日和でけっこうというのかね。それともおまえさんが、よい日和で気分がいいというのかね。あるいは、よい日和でいいことがおこりそうだというのかね。」  「そういうことみんなです。その上、こうして、おもてでタバコを一服するには、とてもいい日和じゃありませんか。どうです、パイプをおもちなら、ここにすわって、わたしのきざみをおすいなさい。いそぐことはありませんよ、一日はこれからです。」そういってビルボは、ドアの横の腰かけにすわって足をくんで、ふっと、きれいな煙の輪を一つふかしました。輪は、くずれずにふわふわとお山の上にとんでいきました。  「みごとじゃ。」とガンダルフはいいました。「だが、けさはタバコの輪などふかしてはいられない。わしが手はずをととのえている冒険に、のりだしてくれる仲間をさがしているところだが、そのひとを見つけだすのが、たいへんなんじゃ。」  「そうでしょうな、このあたりでは、ことにたいへんですよ。わたしたちはみんなごくじみでおとなしい者ばかりで、冒険なんかとえんがありませんからねえ。危険で、おちつかなくて、らくでない仕事は、ごめんです。食事も時間どおりにできやしない。冒険なんてなんのとくがあるもんですか。」 と、わがバギンズ君はいって、ひょいと親指をズボンつりにかけ、また一つ、まえより大きい煙の輪をはき出しました。それから、朝のゆうびんをとり出すと、年よりがまだ立っているのを忘れたようなふりをして、読みはじめました。こんな者にかまっていられない、早くどこかへいってもらおうという、つもりだったのです。ところがその年よりは動きません。杖によりかかったまま、ひと言もいわずにホビットをじっと見つめました。それで、ビルボはおちつけなくなり、おまけにすこしばかりむかむかしてきました。  「では、よいお日和を。」ビルボは、がまんができなくなって、こういいました。「このあたりには、冒険に加わりたい者は、ひとりだっておりません。お山のむこうがわか、川むこうでも、さがしたらいかがです。」これでお話はうちきり、というつもりだったのです。  「なんでそんなに、よい日和だと、やたらにいうのかね?」とガンダルフがいいました。「わしをおっぱらおうというんじゃな? わしがいなくならないとまずいというのじゃな?」  「いえいえ、そんなことはありません。お年よりしゅう。だいたい、あなたのお名まえも知らないんですから。」  「いやいや、知らんことはない。お若いしゅう。だいいちわしは、おまえさんの名をよく知っとるよ。ビルボ・バギンズどの。そしておまえさんもわしの名を知っとるはずじゃ。思いださんだけさ。わしは、ガンダルフじゃ。ガンダルフとは、わしのことじゃ! いやはや、ベラドンナ・トックのせがれにまで、まるでボタンの押しうり人みたいに、よい日和なんぞとあしらわれるくらい、わしもおいぼれたのか!」  「ガンダルフ! ガンダルフですって! これはしたり。では、旅から旅へ、ところさだめぬ魔法使いではありませんか。そのむかし、トックじいさまに、くっついたら命令されるまではなれない魔法のダイヤのカフスボタンをくださったのをおぼえていますとも。それからあなたは、宴会のたびに、竜だのゴブリン小人だの巨人だのの出てくるふしぎな話や、王女さまを助けたり、みなし子に思いがけない運がひらけてきたりするすてきな物語をしてくださった。それによく、とびきりすてきな花火をあげて、見せてくださったもんでしたね。よくおぼえていますよ。トックじいさまは、真夏の夜のお祭りになると、花火をやりましたっけ。すてきだったなあ。大きなユリやキンギョ草やフジみたいに、花火が夜空いっぱいにひろがって、それがひと晩じゅうつづきましたねえ。」この言葉からわかるように、わがバギンズ君は、本人が思いこみたがっているほど四角四面の、かさかさしたひとではありませんし、花なんかが大好きなたちだったのです。「ああ、すごいなあ、」とビルボは、言葉をつづけました。「おとなしい若者たちを、見知らぬ土地へ船出する船につれこんで、青海原へむかわせ、むこうみずな冒険へとかりたてたのが、ガンダルフではありませんか。ほんと、世の中はむかしのほうがずっとおもしろか──いやいや、あなたはむかしこのあたりへやってきちゃ、物事をめちゃくちゃにしたもんでした。おゆるしください。でもわたしは、あなたがまだ、仕事をなさっているとは知らなかったもんで……」  「では、わしがなにをやればいいと、いうのかね?」魔法使いがいいました。「とにかく、わしのことをちっとはおぼえていてくれて、うれしいぞ。よくまあ、あの花火のことまでおぼえていてくれたなあ。それなら、まんざら望みがないわけではない。おまえさんのトックじいさんのためにも、かわいそうなベラドンナのためにも、わしは、おまえが求めているものをかなえてあげよう。」  「ごめんください、でもわたしは何も求めていませんよ。」  「いや、求めているとも。いま二度も、おまえさんは、くださいといったぞ。それは、かまわん。わしは、とにかく、この冒険におまえさんをつれだそうと思ってるんじゃ。これは、わしにはすこぶるゆかいだし、おまえさんにはたいへんためになる。おまけに、大もうけができるぞ、この冒険をやりとげればな。」  「ざんねんですが、わたしは冒険なんか、したくありません。ことに、きょうは、おことわりです。では、よいお日和を! いつかまた、お茶にでもきてください──おすきな時に。あしたにでもいかがです? あした、いらっしゃってください。では、ごめんなさい!」  こういうとホビットは、くるりとむきを変えてなかへはいり、丸い緑のドアをしめました。相手の気をわるくしないようにしながら、できるだけ大急ぎでしめたのです。なにしろ相手は、魔法使いなのですから。  「いったいなんでわたしは、あのひとをお茶によんでしまったのだろう!」と、ホビットは、食物ぐらのほうへ歩きながら、ひとり言をいいました。さきほど朝ごはんをすませたばかりでしたが、すっかりたまげたあとですから、お菓子を一つ二つつまみ、お茶を一ぱいのんだ方がいいと思ったのです。  ガンダルフの方は、そのあいだ、ドアの外に立ったまま、長いことくすくす笑っていました。やがてガンダルフはドアに近よって、杖の石づきで、ホビットのきれいな緑色のドアに、きみょうな印をきざみつけました。そしてガンダルフは、さっさと立ち去っていきましたが、ちょうどその頃ビルボは、二つめのお菓子を食べて、しゅびよく冒険をまぬかれたと思って、ほっとしていたところでした。  あくる日になると、ビルボは、ほとんどガンダルフのことを忘れていました。だいたいビルボは、約束を記しておく板に「水曜、ガンダルフとお茶」というふうに、ちゃんと書いておかないと、きちんとおぼえておけないのです。きのうは、あんまりめんくらったので、約束を書くどころではありませんでした。  もうじきお茶の時間という頃に、おもてのドアのよび鈴が、火がついたようにけたたましくなりました。とたんに、ビルボは思いだしました。あちこち走りまわって、やかんをかけ、カップと皿をそろえ、お菓子を一つ二つよぶんに出してから、ドアのところへかけつけました。  「お待たせして、申しわけありません!」ビルボがそういおうとして、見ると、ガンダルフではありません。あかるい目をした見知らぬドワーフ小人がひとり、金色のバンドに青いひげのすそをはさみ、こい緑色の頭巾をかぶっていたのです。その小人は、ドアがあくと同時に、待ちかまえていたようにとびこんできました。そして、頭巾つきのマントを、いちばんはじの外套かけにかけると、「ドワーリンです。どうぞよろしく。」と、ていねいなおじぎをしました。  「ビルボ・バギンズです。よろしく。」と、ホビットはいったきり、おどろきのあまり、しばらくはものをたずねることも忘れていました。しばらくだまったままでいましたが、とうとうぐあいがわるくなって、ビルボは、こうつけ加えました。「ちょうどお茶にしようとしていたところです。ごいっしょにいかがです?」すこしぎごちない調子でしたが、そう親切にさそいました。よんだことのないドワーフ小人がやってきて、わけもいわずにひとの玄関の外套かけにマントをかけたというのに対しては、たいへん親切ではありませんか。  ところで、ふたりはテーブルにゆっくりついていられませんでした。三つめのお菓子をとろうとして、手をのばしたとたんに、前よりはげしく、よび鈴がなりわたりました。  「失礼!」とホビットはいって、ドアの方に走りだしました。  「とうとう、いらっしゃいましたね!」と、ビルボはガンダルフにいおうとしました。でもこれも、ガンダルフではありませんでした。そのかわりにまたひとり、ずいぶん年よりのドワーフ小人が、入口に立っていました。白いひげをはやし、まっ赤な頭巾をかぶったその年よりは、ドアがあくのといっしょに、招かれていたようなようすで、さっさとおどりこみました。  「なるほど。みんな、そろそろやってきたな。」その年より小人は、ドワーリンの緑色の頭巾が外套かけにかかっているのをちらりと見て、そういいました。そして自分の赤い頭巾をそのとなりにかけました。「バーリンです。ごひいきに。」小人は胸に手をあてて、名を名のりました。  「おかげさまで!」とビルボは、へどもどして、とんちんかんな返事をしました。「みんながそろそろやってきた」という文句で、ひどくまごついてしまったのです。ホビットはお客ずきです。けれども、お客が来る前に来ることがわかっている方が好きでしたし、選んだお客をよぶ方がもっと好きでした。この分ではお菓子が種切れになるかもしれない。そうなったら、どうしよう。この家の主人として、つらくてもお客をちゃんともてなす責任があります。自分はお菓子をたべないでがまんしなければならないかもしれない。こう思っただけで、ビルボはぞっとしてみぶるいしました。  「さあさあこちらへ、お茶をどうぞ!」ビルボは、一つ深いため息をついてから、ようやくさそいました。  「よろしかったら、わたしには、ビールの方がありがたいのですが、」と、白いひげをはやしたバーリンがいいました。「でも、お菓子をいただくのもわるくありません。ありましたら、種入りの焼菓子がほしいですね。」  「たくさんありますとも!」ビルボは、自分でもおどろいたことに、ひとりでにこう答えていました。そして、ひとりでに酒ぐらにいって、大きなジョッキにビールをついだり、食物ぐらにいって、晩ごはんのあとのおつまみ用に午後やいておいた丸い大きな種入りの焼菓子を二つもとり出したりしていました。  こうしてもどってきますと、バーリンとドワーリンとは、昔からの友だちのように、話しこんでいました(じつのところ、このふたりはきょうだいだったのです)。ビルボは、ふたりの前にビールとお菓子をどしんとおきました。するとその時、またも鈴が一度はげしくなり、つづいてまた一度はげしくなりわたりました。  「こんどこそきっとガンダルフだ。」ビルボは廊下をすっとんでいきながら、そう思いました。でも、はずれました。さらにふたりのドワーフ小人で、ふたりとも青い頭巾に銀のバンド、黄色いひげをはやし、めいめいに道具ぶくろとシャベルをかついでいました。そしてドアがあくが早いか、おどりこみましたが──こんどはビルボも、あまりびっくりしませんでした。  「なんのご用でしょう? ドワーフさんがた。」と、ビルボはいいました。  「キーリです。お見知りおきを。」とひとりがいい、「フィーリです。おなじく。」ともうひとりがいって、いっしょに青い頭巾をさっととって、おじぎをしました。  「こちらこそ、あなたがたに、またご一家にもよろしく。」と、ビルボはようやく、いつものあいさつのしかたを思いだしていいました。  「ドワーリンとバーリンがもう来ていますな。」とキーリがいいました。「では、集まりに加わりましょうか。」  「集まりだって!」この言葉をきいて、バギンズ君はひそかに思いました。「どうもその言葉のひびきが、気にいらないな。しばらくここにすわって、一ぱいのんで、じっくり考えなけりゃならんところだ。」四人のドワーフ小人たちがテーブルをかこんでこしかけて、金山のこと金のこと、ゴブリン小人とのいざこざのこと、竜のらんぼうのこと、そのほかたくさんの、ビルボにはわからない、またわかりたくない事がらを話していました。わかりたくないというのは、話がばかに冒険くさかったからです。それでビルボはすみにすわって、ほんの一口すすりました。ところがたった一口、飲んだか飲まないかといううちに、もう、リン・ガン・ドン、リン・ガン・ドン! と、ホビットのいたずらぼうずが鈴のひもをひきちぎろうとしているように、やたらに鈴がなりました。  「またひとり、おいでになりましたな!」とビルボは、目をぱちくりさせていいました。  「いや、四人でしょう、あの音では、ね。」とフィーリがいいました。「それに、わたしのずっとうしろから、四人くるのが見えましたよ。」  あわれなわがホビット君は、広間にぺたりとすわりこみ、両手で頭をかかえこみました。いったいどんな事件がもちあがったのか、それとも、これからはじまろうとしているのか、その上このひとたち全部がここにねばって、晩ごはんまで食べていくつもりなのか? こう思いまどっているうちに、ふたたびよび鈴が、前よりはげしくなりわたりましたので、ビルボはドアへかけつけなければなりませんでした。ところがかれらは、四人ではなかったのです。五人でした。ビルボが広間でどうしようかと思いまどっているうちに、もうひとり加わっていたのです。ドアの取手を回すが早いか、みないっせいに家のなかにはいりこみ、おじぎをして、口々に「今後もあいかわりませず。」などとあいさつをのべました。五人の名は、ドーリ、ノーリ、オーリ、オイン、グローインでした。そしてたちまち、紫の頭巾二つ、灰色、茶色、白の頭巾を一つずつ、帽子かけにかけますと、それぞれ金のバンド、銀のバンドに、ぶこつな大きな手をさしこんで、ほかの小人の仲間にはいりにいきました。今は、たいへんな集まりになっていました。こちらではビールを、あちらでは黒ビールを、そちらではコーヒーをたのみ、そしてみんながお菓子をほしがりました。ですからホビットは、しばらくのあいだ目の回るほどいそがしい思いをしました。  大きなコーヒーわかしが、いろりにかかり、種入りの焼菓子はすっかりなくなりました。ドワーフたちは、バタつきホットケーキを食べはじめました。すると、どーんどん! ドアをはげしくたたく音がきこえました。よび鈴がならないで、ホビットのすてきな緑色のドアをどんどんと音をさせて、だれかが、杖でなぐりつけているのです。  ビルボは、はげしくおこりながら、一方めんくらったりのぼせたりして、廊下をすっとんでいきました。こんなひどい水曜日はありません。ビルボは、いきおいをこめて、ドアをぐいとあけました。すると、しょうぎだおしに、かさなりあってはいってきたのは、また、ドワーフ小人が、四人! そして、そのうしろには、ガンダルフが、あの杖にもたれて、笑って立っていました。ガンダルフは、すてきなドアにへこみをつけてしまいました。杖でたたいて、きのうの朝つけたまじないの印を消したのです。  「お手やわらかに、ねがいたい。」とガンダルフがいいました。「おまえさんらしくもないな、ビルボ。お客さんをおもての靴ふきの上に待たせておいて、いきなり豆鉄砲のように、ぽんとドアをあけるなんて。紹介しよう。こちらは、ビフール、ボフール、ボンブール、また、この方がトーリンどのじゃ。」  「ごべっこんに!」と、ビフールとボフールとボンブールとが一列にならんでいいました。それから三人は、黄色い頭巾を二つ、うす緑のを一つ、帽子かけにかけました。それに、長い銀の房のついた青空色の頭巾が加わりました。さいごの頭巾は、とびぬけてえらいドワーフのトーリンのものでした。トーリンというのは、つまり、大トーリン・オーケンシールドにほかなりませんでしたが、ビルボの玄関さきでビフールとボフールとボンブールの下じきになってたおれてしまったことに、くさりきっていました。おまけにボンブールときたら、ひどいでぶちゃんでした。トーリンはたいへんお高くとまるたちなので、「ごひいきに。」などといいません。けれども、あわれなバギンズ君がひとりひとりになんども「失礼しました。」といってばかりいますので、トーリンもしぶしぶ「いちいちそうおっしゃるな。」とつぶやいて、やっとしかめ顔をやめました。  「さあ、これで全部そろった!」ガンダルフは、とりはずしのできる十三の頭巾が一列にかかっているのをながめて、いいました。そして自分のつばのあるとんがり帽子を帽子かけにならべました。「まことにゆかいな集まりじゃ。あとから来た者にも、食べもの飲みものが残っているじゃろうな。なんじゃこれは、お茶か。ごめんこうむる。わしには、赤ブドウ酒をすこしいただこう。」  「わしにも。」と、トーリンもいいました。  「イチゴジャムとリンゴのパイを。」とビフール。  「ほしブドウいりのパイとチーズを。」とボフール。  「ポークパイとサラダを。」とボンブール。  「お菓子を。ビールを。コーヒーをどうぞ。」と、部屋ごしにほかの小人たちが口々にさけびました。  「卵もつけてくれ。よろしくたのむ。」ガンダルフは、ホビットがあたふたと食物ぐらへ走っていくうしろすがたに、声をかけました。「それにとりのむしたのとトマトも、おねがいじゃ。」  「うちの食物ぐらのなかみを、わたしよりくわしく知っているみたいだぞ。」バギンズ君はこう考えると、もうどうしていいかわからなくなって、いちばんたちの悪い冒険が、この家の中にはいりこんでしまったのではないかと、心配になりはじめました。そして、びんや皿やナイフやフォークや、コップやどんぶりやスプーンや何やかやを、大きなおぼんの上につみあげて、すっかりかっかとして、顔をまっ赤にして、いらいらしてしまいました。  「このかきまわしやの、やっかいでかしのドワーフたちめ!」とビルボは、大きな声をだしていいました。「どうしてここへ来て、手をかさないんだ?」すると、どうでしょう! 台所の入口に、バーリンとドワーリンがあらわれ、そのうしろにフィーリとキーリがつづいて来て、ビルボがひと言何かいうまに、つぎつぎにおぼんをはこぶやら、二つの小テーブルを食堂にもちだすやら、いっさいがっさい、きちんとととのえてしまいました。  ガンダルフは、ぐるりとならんだ十三人のドワーフたちの上座にすわっていました。ビルボはだんろのそばの腰かけにこしかけて、ビスケットを一つぼそぼそとかじっていました(ビルボの食べたい気持ちはとうになくなっていました)。そしてむりに、こんなことはごくあたりまえのことで、ちっとも冒険じゃありゃしないという、顔つきをしようとしていました。一方、ドワーフたちは食べに食べ、しゃべりにしゃべって、時間はずんずんたちました。そしてとうとう、一同がテーブルからはなれ、ビルボは皿やコップなどをかたづけようとしました。  「みなさん、ごはんのころまで、いらっしゃるのでしょうね?」ビルボは、この上なくていねいに、おしつけがましくならない調子でたずねました。  「もちろんのこと!」とトーリンがいいました。「ごはんのあともおりますぞ。わしらの用事は、おそくまでかかる。その前に音楽じゃ。さあまず、かたづけい!」  すると十二人のドワーフたちは──トーリンはおえら方ですから、ガンダルフとしゃべって残っていましたが──すっくと立って、そこにあるものをたちまちつみ上げてしまいました。おぼんをとりにいかないで、皿を柱のように高くかさね、そのてっぺんにびんをおき、めいめいに調子をとって片手ではこんでいきます。ホビットはもうすっかりたまげて、金切声をあげながら、あとをおいかけました。「どうか用心してくださいよ!」とか、「どうぞ、そのまま! わたしがやります!」とかさけびました。けれどもそれにはかまわず、ドワーフたちは、つぎのような歌をうたいだしたのです。 コップをこわせ、皿をくだけ、 ナイフをつぶせ、フォークをまげろ、 ビルボ・バギンズ いやがってるぞ。 それ、びんをわれ、われ、コルクをもやせ。 テーブルかけをやぶれ、あぶらをけちらせ、 台所のゆかに ミルクを流せ、 マットの上に 骨がらをまけ、 ドアにびっちゃり、それ、酒ぶっかけろ。 にえたつなべに せとものいれろ、 でっかい棒で ひっかきまわせ、 それでもわれなきゃ、あらったやつを、 広間に ごろごろ それ、ぶちまけろ。 ビルボ・バギンズ いやがってるぞ、 ご用心ねがいます、皿、わらないでくださいな!  こうはうたっても、ドワーフたちは、歌の文句のようなおそろしいことはせずに、よごれものをきちんとあらってふいて、電光石火でかたづけてしまいました。そのあいだ、ホビットは台所のまん中できりきりまいをしながら、ドワーフたちのすることに気をとられていました。一同が部屋にもどると、トーリンは足ぶとんに足をのせ、パイプをくわえて、とほうもなく大きな煙の輪を、つぎつぎにふかしていました。ゆけと命令する方に、大きな煙の輪が、いいなりになって、煙突をくぐったり、だんろ台の上の時計のうらをまわったり、テーブルの下をくぐったり、天井をころげまわったりします。けれども、どこへにげても、ガンダルフからにげきれません。魔法使いは、ふっと一吹き、自分の小さいやきもののパイプから、トーリンの煙の輪へ、小さい煙の輪を吹きつけます。すると、その輪は、この遊びごとに活気づいて緑色になり、トーリンの輪をくぐって魔法使いの頭上をかざるためにもどってきます。こうしてガンダルフは、身のまわりに煙の雲をまとい、おかげでますます魔法使いじみてみえました。ビルボはそれを目を丸くしてながめて、立ちつくしていました。──ビルボは煙の輪遊びが大好きだったのです。そして、きのうの朝、自分が山の上へ輪を吹きおくったことぐらいでどんなに得意になっていたかを思うと、はずかしくて赤くなりました。  「さあ、音楽じゃ!」とトーリンがいいました。「楽器を出せ!」  キーリとフィーリは、自分たちのふくろのところにかけよって、小さなバイオリンをとりだしました。ドーリとノーリとオーリとは、上着の内がわのどこかから、笛を出しました。ボンブールは広間から太鼓を持ってきました。ビフールとボフールもいっしょに出ていって、杖といっしょに立てかけておいたクラリネットをとってきました。ドワーリンとバーリンは、「ごめんこうむって、玄関においてきたのをとってきます。」といいますと、トーリンが、「ついでに、わしのも、持ってきてくれ。」といいました。ふたりは、自分たちの大きさほどあるヴィオラを二つと、緑のきれでつつんであるトーリンのすばらしい金のハープを持ってきました。そして、トーリンがハープをひくと、音楽が一度になりはじめました。それが、あまりいきなりで、美しかったものですから、ビルボは今までのことをすっかり忘れました。そしてすぐその川をこえて、お山の下のこのホビット穴のずっとずっとむこうの、どこか遠くのふしぎな月にてらされた暗い見知らぬ国に、心がさそいこまれてしまいました。  そのうちに、いつしか、山腹にひらく小さい窓から、くらやみが部屋にしのびより、いろりの火は、消えそうにちらついていましたが、──今は四月でした──一同は、そのまま音楽をかなでつづけ、ガンダルフの長いひげの影が、うしろの壁にゆっくりゆれていました。  とうとうくらやみが部屋をみたし、火は消えて人影もまぎれましたが、それでもあいかわらず一同は音楽をつづけました。そしてとつぜんに、ひとりが歌をうたうと、つぎのひとりがうたいつぎ、こうしてドワーフたちは、音楽にあわせて、その昔、小人たちが住んでいた深い地のおく底で、深くひびかせてうたった声を、いんいんとひびかせてうたいました。つぎの歌は、そのほんのおもかげをつたえたものにすぎません。あの伴奏がはいらないと、ドワーフの歌といえないのですが……。 寒き霧まく山なみをこえ、 古き洞穴の地の底をめざして、 われらは夜明け前に旅立たねばならぬ、 青く光る魔の黄金をさがし求めて。 そのかみドワーフたちは強き呪文を唱え、 その槌音は鐘のようになりわたった、 万物ねむる地の底深く、 山々の下に口をあけた大広間で。 いにしえの王やエルフの殿のために、 ドワーフたちが作り仕上げた、 きらめく黄金の宝ものや、 剣のつかにちりばめた宝石はおびただしかった。 ドワーフたちは銀の首飾りに 星の花々をつづり、  冠 の上に竜の火をかかげ、 かがる鉄線には月光と日光をまぶした。 寒き霧まく山なみをこえ、 古き洞穴の地の底をめざして、 われらは夜明け前に旅立たねばならぬ、 忘れられたわれらの黄金を手にいれるため。 われを忘れて刻みあげた大さかずきや、 黄金のハープが、まだ人間に掘られずに、 長の年月、うずもれてきた。 人にもエルフにもきかれぬ歌がうたわれてきた。 あの日、松林は山の背にうめき、 風は夜のやみになげいていた。 火は赤々と、炎をあげてもえ広がり、 木々がたいまつのようにかがやいた。 鐘は谷間に鳴りわたり、 人々は顔青ざめて空を見あげた。 竜の怒りはすさまじく、 その火が、塔も家もやきほろぼした。 山は月あかりにかすんでいた。 ドワーフたちは、ほろびの音をきいた。 そして住居の穴からにげるうちに、 月光の下、竜の足にかかって死んだ。 お暗き霧まく山なみをこえて、 古き洞穴の地の底をめざして、 われらは夜明け前に旅立たねばならぬ、 竜からハープと黄金をとりもどすため。  ドワーフたちがうたうにつれて、ホビットは、たくみのわざと魔法によって作られた美しいものを愛する気持ちが、からだの中にたぎるのを感じました。それは、ドワーフ小人たちの心に巣くうのぞみで、美しいものをはげしく、ねたましくしたう心でした。すると、なにやらトック家の血すじが、心のおくにめざめて、深い山々へいってみたい、松風や滝の音がきいてみたい、洞穴を歩きまわり、杖でなく剣を身につけてみたいという、気持ちがしてきました。ビルボは、窓の外をながめました。星々は森の上の暗い空にあらわれていました。ビルボは、暗い洞穴の中に輝くドワーフの宝石のことをしのびました。その時ふと、川のむこうの森の中に、一すじの炎がもえあがりました。だれかが焚火をしているのでしょう。ビルボは、ふと、この静かなお山に竜がおそいかかって、あらゆるものを焼きほろぼすありさまを想像しました。そして、ぶるると身ぶるいしました。と、にわかに、もとどおりのホビット村山の下袋小路に住む、平凡なバギンズ君になっていました。  ビルボは、まだふるえながら立ちあがって、ランプの用意をしにいこうとしました。その気持ちが四分とすれば、あとの六分は酒ぐらへもぐりこみ、酒だるのうしろにかくれて、ドワーフたちがぜんぶ出ていってしまうまで出てきたくない気持ちだったのです。すると、とつぜん、音楽も歌もやんで、みんなが、やみの中で目をきらめかせながら、ビルボをじっと見つめていたのでした。  「どこへ、行きやる?」とトーリンが、ホビットの二つにひきさかれた胸の中を見通したといわぬばかりの調子で、たずねました。  「ほんの、あかりはいかがかと思いまして……」とビルボがいいわけのようにいいました。  「暗い方がいい。」と、ドワーフたちは口をそろえていいました。「闇の仕事は闇、といいます。夜明けまでには、だいぶ時間がありますぞ。」  「ごもっともで!」とビルボは答えて、あわててまたすわりこみました。ところが腰かけをはずれて、いろりの鉄格子に腰をおろしたものですから、火かき棒と石炭をすくうシャベルにぶつかって、大きな音をたてました。  「しいっ! トーリンが話すぞ!」とガンダルフがいいました。そしてトーリンは、つぎのように話しだしました。  「ガンダルフよ、ドワーフたちよ、またバギンズどのよ。わしらは、わしらが友にして秘密の仲間であり、世にもすぐれた世にも大胆なホビットの家に、かく集まった。ではまず、バギンズどのの足の裏の毛がぬけおちぬように、バギンズどののご長命をいのり、また酒やビールのおもてなしに対して、お礼を申しあげる!」ここでトーリンは言葉をとめて、息をいれ、またホビットからしかるべき挨拶があるのをまちました。けれども、あわれなビルボ・バギンズの口からは、言葉が出ませんでした。大胆といわれたり、とりわけひどいのは、秘密の仲間よばわりをされたりしたので、それはちがうと口を動かしたのですが、さっぱり声になりませんでした。それほど、気持ちがでんぐりかえっていたのです。そこでトーリンは、話しつづけました。  「わしらはここに、あの仕事の計画と方法、やり方とくふうを論ずるために、集まった。わしらは夜明け前に、長い旅に立ち出でなければならぬ。旅に出れば、わしらのうちの何人か、あるいはひょっとするとわしら全員が(もちろん、わしらが友にして相談役なる、才智にみちた魔法使いガンダルフはべつじゃ)生きては帰れないかもしれぬ。まことにきびしいことなのじゃ。この仕事の目的は、わしらはみんなよく知っておる。しかし尊敬すべきバギンズどのと、ひょっとするとドワーフ仲間の若いもののひとりふたりには(はっきり名をあげていうがよかろう、たとえばキーリとフィーリじゃ)、このことの正しい事情を、すこしかいつまんで説明しておかなければなるまい。」  トーリンの話し方は、こんなぐあいでした。トーリンはえらい身分のドワーフです。できたらトーリンは、息の根のつづくかぎり、こんなふうにしゃべりつづけたかったでしょう。けれどもその話は、ぶさほうに腰をおられてしまいました。あわれなビルボ・バギンズが、これ以上がまんしてきいていられなかったのです。「生きて帰れないかもしれぬ」というところで、ビルボは、からだのおくからさけび声がつきあげてくるなと思いましたが、そう思うまもなく、さけび声は、トンネルを出てくる汽車の汽笛のように、ほとばしり出ました。ドワーフたちは、そろってびくんととびあがって、テーブルをひっくりかえしました。ガンダルフが魔法の杖のさきに、青いあかりをつけました。するとそのかがやきで、あわれなホビットがだんろの前の敷物の上にひざまずき、とけかかりのゼリーのようにぶるぶるふるえているすがたが、うつし出されました。つづいてビルボは床の上にばったりたおれて、「いなずまにやられた。いなずまにうたれた!」と、なんどもなんども口走りました。いくらまっても、みんながビルボからききとったのは、その言葉だけでした。とうとう一同はビルボを居間にはこんでソファの上に寝かせ、手もとにお酒を一ぱいおくと、ふたたび、闇の仕事にとりかかりました。  「こうふんしやすい男じゃ。」とガンダルフは、みんながふたたび席にもどると、いいました。「おかしな発作のくせがあるわい。それにしても、あの男はピカ一じゃ。ずばぬけた奴じゃ。いざという時の、竜のようにすさまじいわい。」  いざという時の竜を見たひとがあったら、このいい方は、ホビットのようなものには大げさすぎる、ただ詩的にたとえたのだということが、わかってくれるでしょう。かりにトックじいさまの大おじにあたる「うなり牛」というあだ名のあるホビットに対してでも、大げさすぎます。「うなり牛」は、ホビットとしてはずばぬけて大きなひとで、馬に乗れたほどです。このひとは、緑ガ原の戦いで、グラム山のゴブリン小人の大軍のなかにつっこんで、ゴブリン王ゴルフィンブールの首をこん棒でうちおとしたものでした。その時、首は空中を百メートルとんでウサギ穴におち、これで戦いに勝ったそうで、それからゴルフ遊びというものが、くふうされたということです。  それはとにかく、「うなり牛」のおとなしい子孫のほうは、居間でようやく気がつきました。しばらく休んでいて、一ぱい気つけをのんでから、ビルボはおそるおそる食堂のドアに近よりました。するとちょうど、グローインのこんな言葉を耳にいれてしまったのです。「フン!(といったふうの鼻息をたてて)あの男が、やれますかな。ガンダルフにとっては、あの男が勇士だといっていればすむでしょう。けれどもこうふんしたとたんに、あんな金切声をあげたのでは、竜やそのけんぞくの眠りをさまし、わたしたち全部が殺されてしまいますぞ。それにあのさけびは、こうふんというよりは、きもをつぶしたためのようでしたね。まったく、この家の戸にあの印がついていなかったら、わたしはまちがった家に来てしまったと思ったことでしょう。そもそもわたしは、あの小男が、玄関の靴ふきの上にもそもそやってきたのを見かけたとたんから、へんだと思いましたよ。忍びの者というよりは、八百屋のようですな。」  これをきいて、バギンズ君は、ドアの取手をぐっとおして、食堂にはいりました。トックの血すじが勝ちをしめたのです。ビルボはにわかに、食べること寝ることよりも、勇士だと思われる方がいいという気になりました。「靴ふきの上でもそもそしている小男」という言葉をきいたときは、矢でも鉄砲でもこいというくらいにはげしい気持ちがもえ立ちました。そののちいくどもバギンズ家の血が、この時自分のしでかしたことを後悔して、よくひとり言をいうことになるのです。「ビルボ、おまえはばか者だぞ。ちゃんと自分の分を守っていればよかったのに!」と。  さて、この時ビルボは、こういって、わってはいりました。「失礼ながら、あなたのおっしゃったことを立ちぎきしてしまいました。わたしには、あなたがたがいったいなんのお話をしておられるのか、忍びの者とやらもなんのことか、見当がつきかねます。ただわたしはふかく確信する者ですが(とビルボは、自分で威げんがあると感じているいい方をしてみました)、あなたがたは、わたしをなってないとお考えのようです。はたしてそうでしょうか。わたしの家の戸には、なんの印もありません。ペンキをぬったのが一週間前です。ですから、あなたがたは、まちがった家に来てしまったのだと、ぞんじます。そもそもわたしが、あなたがたのへんてこなお顔を、玄関の段々の上で拝見したとたんから、おかしいぞと思ったのです。ですが、かりに、この家がまちがってなかったとしましょう。いったいわたしに何をせよとおっしゃるのか。いってごらんなさい、してみようじゃありませんか。ここから東のはてへ歩いていき、いやはての砂漠のおそろしい長虫のとぐろをまいたやつと戦うべしというのなら、戦いましょう。いったいわたしの大大大大おじにうなり牛のトックというひとがありましたが──」  「なるほど、なるほど。でもそれは、遠い昔のことでしたね。」とグローインがいいました。「わたしは、あなたのことをいっているんです。それに、うけあって申しますが、ここの戸には、たしかに印がありました。よくみかける求職広告のようなもので、当方、忍ビノ者、仕事ヲ求ム。刺激大キク、報シュウ高キヲ望ムと、はっきり読めましたよ。あなたは、もしおすきなら、忍ビノ者というかわりに、宝サガシ名人と名のってもいいんです。そういう者もいますよ。わたしたちにとっては、どっちでも同じです。じつは、ガンダルフが教えてくれたんです。この地方のホビットのなかで、大仕事をやりたがっている者がいる、とね。そしてガンダルフが、この水曜日にここでお茶の時間にみな集まるように、したくをしておこうと、いったんです。」  「もちろん、印があったのじゃ。」とガンダルフがいいました。「わしが自分でつけたんじゃから。それには、りっぱなわけがある。諸君は、こんどの長旅に加わる十四ばんめの男を見つけてくれと、わしにたのんだろう。そこでわしは、バギンズ君をえらんだのじゃ。わしが、まちがった男、まちがった家をえらんだという者があるなら、諸君は十三人でうちきるがよい。そしてすきなだけ運の悪いことになろうと、もとの石炭掘りにもどろうと、かってにされい。」  ガンダルフが怒って、グローインをきっとにらんだので、グローインはそのままいすにちぢこまりました。つぎに、ビルボが、わけをきこうとして口をひらきかけると、ガンダルフがビルボの方をむいて、もしゃもしゃ眉毛をつき出して、こわい顔をしたもので、ビルボも口をとじてしまいました。「それでよし。」とガンダルフはいいました。「これ以上、いいたてることはあるまいな。わしは、バギンズ君をえらんだ。それで、諸君にはじゅうぶんなはずじゃ。このわしが、バギンズ君を忍びの者だといったからには、バギンズ君は忍びの者じゃ。いや、今そうでなくても、このさきそうなるというのじゃ。この男には、諸君がとやかく思う以上の力、いや当人が自分で自分のことをこうと考えておる以上の力が、どっさりある。諸君はきっと、このことでは一生わしを、ありがたく思うじゃろう(生きのびればのことじゃが)。さて、ビルボよ、ランプを持ってきて、ここをすこし照らしてくれんか!」  テーブルの上に赤い笠をつけた大きなランプがおかれますと、その光のなかにガンダルフは、地図のような形をした一枚の羊皮紙をくりひろげました。  「トーリン、これはあんたのおじいさんの書いたものじゃ。」ガンダルフは、こうふんして口々に小人たちがたずねるのに答えて、こういいました。「あの山の地図じゃ。」  「これは、わしらの役に立つとはみえない。」一目見て、トーリンががっかりした様子でいいました。「山のことも、そのまわりの土地のことも、わしはようくおぼえておる。やみの森のありかも、大きな竜たちが巣立ったヒースのかれ野のある場所も、すっかり知っている。」  「山の上の印が、竜ですね。」とバーリンがいいました。「でも、わたしたちがここにいけば、印がなくても、竜がいることはすぐわかるんじゃありませんか?」  「諸君の気のついていない点が一つある。」と魔法使いがいいました。「それは、秘密の入口じゃ。この地図の西がわにルーン文字があり、また北がわのはじにべつのルーン文字があって、そこから手の印が、入口をさし示している。これが、地下広間にいたるかくれた通路のある印じゃ。」(次の地図をごらんなさい。ルーン文字のところです。)  「それは、大昔には秘密であったかもしれぬ。」とトーリンが口をはさみました。「しかし、今も秘密のままになっているといえるじゃろうか。あのスマウグめはおそろしく長生きしてきたから、地下の洞穴に知らなければならないところがあれば、どこもかもさぐり出していないはずがない。」  「かもしれぬ。だが、やつは、この長い年月、そこを使ってはいないはずじゃ。」  「どうしてだろう?」  「せまいからじゃ。入口ノ高サオヨソ一メートル半、ハバ三人ナラビテ歩ケルテイドと、ルーン文字で記してある。スマウグは、そんな大きさの穴にはいれっこない。昔の若い竜だった時でもはいれないが、まして、谷間のおとめたちをむさぼりくらって大きくなったあとでは、とてもだめじゃ。」  「わたしには、とても大きな穴のようですが。」と、ビルボは、とんきょうな声をあげました(ビルボは、竜を見たことがなく、ホビット穴に住んでいただけですから)。ビルボはまた、わくわくしておもしろくなり、口をとじておくのを忘れてしまいました。だいたいビルボは地図がすきで、自分の部屋に、赤インクですきな散歩道をかきこんだ、近郊図の大きいのをかけていたくらいです。「どうしてそんなに大きな入口を、竜はともかく、ほかの人たちからわからないようにしておけたのでしょう?」とビルボはたずねました。むりもありません。ビルボ・バギンズは、ただの小さなホビットだったんですから。  ガンダルフはいいました。「さまざまな方法がある。だが、この入口がどんな方法でかくされてきたかは、そこへいってしらべてみなければわからない。この地図に記してあることから考えれば、入口のドアをしめたあとが、山の斜面と見わけがつかないように作られているにちがいない。またそれが、ドワーフのよくやるやり方じゃ。そうじゃろう?」  「そのとおり。」とトーリンがいいました。  「もう一つ、」とガンダルフは言葉をつづけました。「この地図に、かぎがついていたことをいい忘れていた。小さな、きみょうなかぎじゃ。ほれ!」そういって、ガンダルフは、長細い胴のさきに手のこんだ切りこみがやたらについている銀のかぎを、トーリンに手渡しました。「だいじにしまっておきなさい。」  「たしかに。」と、トーリンが答えて、シャツの下から首のまわりにかけていた、みごとな鎖をとりだして、その鎖にかぎをとりつけました。「これで、万事うまくいきそうなけはいが見えてきた。このしらせで、いちだんとうまくなったぞ。これまでは、どうしたらいいか、長いあいだまよってきたものじゃ。とにかく、できるだけ静かに、用心ぶかく、東へむかって、たての湖にいくことだけは考えていたが、それからがたいへんで──」  「いやそのまえから、たいへんじゃ。東への道を知っているわしの見つもりでは、長くかかるぞ。」と、ガンダルフが口をいれました。  トーリンはそれにかまわず、話しつづけました。「湖から、わしらは早せ川をさかのぼっていく。すると、かつての谷間の町のあとに出る。この山々のかげにはさまる谷あいに、昔は町があったところじゃ。じつは、わしらのうちのだれひとりとして、山の表門から攻めようとする者がない。川は、山の南がわの大岩壁をぬけて、この表門から流れ出ている。そして竜も、この表門から出てくるのじゃ。奴のくせが変わってなければ、あいかわらず表門ばかり使っておるじゃろう。」  魔法使いがいいました。「それではだめじゃ。だれかひとり、とびぬけた勇士、いや英雄がいなくては、それはできないぞ。だから、わしは英雄を見つけたかったのじゃ。ところが勇士たちはみな、とおい国々へ戦争に出かけているし、このあたりには骨のある奴があまりおらん。いやひとりもおらん。この国では剣はなまくらだし、ほこや斧は、ただ木をきる道具で、たては赤んぼのゆりかごか、皿いれになっているしまつ。竜などは、この世のほかのもので、ただの伝説になっている。だからこそ、わしは忍びこみを考えたのじゃ。ことに、秘密の入口のことを思いだしたのでな。で、それが、このビルボ・バギンズ、よりぬきの、とびきりの忍びの者となったのじゃ。さ、話を進め、計画をねろう。」  トーリンは、「それは、かたじけない。忍びの達人が、さぞよい考えをさずけてくださるじゃろう。」と、ビルボの方をむいて、わざとらしいおじぎをしました。  「わたしとしては、まず、もっとよくもの事を知りたいと思います。」ビルボは、まるでどうしていいかわからず、内心びくびくしながら、こういいました。とはいえ、トック家の血はいまだ消えず、冒険にふみこもうと決心していました。「つまり、その黄金とか竜とかのことです。どうしてそれが山にあるのか、もとはだれのものだったのか、そのほかいろいろです。」  「ああ、なんたることじゃ!」トーリンがいいました。「あんたは、地図を見なかったか? わしらの歌をきかなかったか? また、わしらは、さっきからずっと、その話ばかりしておったのじゃなかったかね?」  「なんにいたしましても、わたしは、事がらぜんぶを、事実そのまま、まぎれもなく知っておきたいと思います。」ビルボは、だれかがビルボから金を借りようとする時にみせる、あの切口上になって、ずばりといいました。すこしでもりこうで大胆でてきぱきしているようにみせようとして、またガンダルフのすいせんにふさわしくふるまおうとして、いいはったのです。「それにわたしは、身にふりかかる危険はどれほどか、持ち出すお金はいくらぐらい、旅にいつまでかかるのか、またお礼はいくらかなど、いろいろ知っておきたいのです。」こういったのは、じつのところ「それで何がもうかるか、生きて帰れるのか」をきくためでした。  トーリンは答えました。「まことにごもっとも! かなり昔、わしのじいさまの頃に、あるドワーフの一族が、はるか北から追われ、財産と仕事道具をとりまとめて、この地図にある山にやってきたのじゃ。その山でドワーフたちは、鉱物を掘り、トンネルをくりぬいて、たくさんの広間と仕事場とをつくりあげた。そればかりではない、おびただしい黄金と、たくさんの宝石をさぐりあてたと思われる。とにかく、このドワーフたちは、まもなくたいへんな金持ちになり、天下に名をとどろかせた。わしのじいさまは、山の下の王じゃった。そして、南のくにに住んでいた人間たちから、深い尊敬をうけておった。人間たちは、しだいに早せ川をさかのぼって住みつくようになり、ついには、あの山の山かげにある谷間にはいりこんだ。そのころ、人間たちは、あの心もはずむ谷間の町をつくりあげたのじゃ。王たちは、わしらの鍛冶工場に細工物をたのみ、どんなはしたの仕事にも、いちばんいい値ではらってくれたものだった。親たちは、わが子をわしらのところに弟子入りさせたがり、手をつくして奉公させると、たんまりお礼をはずんだから、三度三度の食べものに、作るのさがすのと苦労したことがなかった。まことに、わしらにとってよい時代じゃったよ。わしらなかまでいちばんびんぼうな者にでも、あそぶ金があり、ひとに貸す金もあった。また、この上なくふしぎなおもちゃ細工はもちろんのこと、作りたいばかりに美しいものを作るひまも、たっぷりあった。ああ、あんなに手のこんだりっぱな仕掛や細工は、もはやこの世のどこにも見あたらなくなったわい。こうしてわしのじいさまの広間は、すばらしい宝石や飾りやカップでいっぱいになり、谷間の町のおもちゃ屋は、見て楽しい名所になった。  だがこれこそ、あの竜をさそいよせたわけにちがいない。竜どもは、どこにあろうが見つけたらさいご、人間やエルフたちやドワーフ小人から、黄金や宝石をぬすむ。ぬすんでそれを生きているかぎり守りぬく(しかも竜のいのちは、殺されないかぎり、永久につづくのじゃ)。しんちゅうの指輪などに、目をくれない。けれども、じっさいのところ、竜には、よい細工と悪い細工の区別はつかぬくせに、取引値段の動きは、ちゃんと心得ておる。竜どもは、自分では何一つ作りだせない。からだに着こんだよろいがすこしゆるんでも、なおすこともできない。あのころは、北の国々に、竜がたくさん住んでおった。そしてドワーフ小人が南ににげたり、殺されたりしたので、北では金がめったに手にはいらなくなった。そこで、竜どもの土地あらしや町のほろぼしかたが、しだいに悪どくなった。なかにも、スマウグとよぶ、この上なく欲の皮のつっぱった、強くて悪い長虫めがおった。ある日、スマウグは空をまって、南にとんできた。わしらがこいつの来たのをはじめて耳にした時は、北からおそってきた台風かと思ったほどのすさまじさで、山のマツの森がごうごうなって、さけてたおれた。ドワーフたちのなかには、その時たまたま外に出ていた者もあり、このわしもそのしあわせな仲間じゃった。そのころ、わしはたいへん冒険ずきな若者で、いつもあちこちをうろつきまわっておったが、おかげで、いのちが助かったのじゃ。──ところで、かなりはなれたところから、わしらには、竜が火柱をあげて、わしらの山へおりたのが見えた。やがてそいつが、斜面をくだって森にはいると、森がたちまち火につつまれてもえてしまった。そのころには、谷間の町の鐘という鐘がなりわたり、戦士たちが出陣のしたくをととのえていた。ドワーフたちはみな、なだれをうって、正面の大きな門からにげようとした。ところがそこに、竜が待ちかまえていた。そこをのがれて助かった者はだれひとりおらん。川はもうもうとわきたって逆流し、こい霧が谷間をつつんだ。霧にまぎれて竜が谷間の町にあらわれ、そこでも戦士たちをみな殺しにしてしまった。──これもよくある不幸な話の一つにすぎん。そのころはこんなことが、ざらにあったのじゃ。それから竜のやつは、とってかえすと、表門を通って、地下にもぐりこみ、あらゆる部屋と広間、抜け道とトンネル、おくらとはなれ、廊下と通路を、しらみつぶしにさがして歩いた。これよりのち、山のなかに、ひとりのドワーフもいなくなり、竜はドワーフたちの財産をぜんぶひとりじめにしてしまった。たぶん竜どものやり方だろうが、あいつは、地下のおく深くにその宝ものをぜんぶつみあげて山にすると、それをベッドにして眠るのじゃ。そののちあいつは、いつも表門からはいだしては、夜のあいだに谷間の町にやってきて、人々をさらって食った。ことにおとめをこのんでさらった。そしてついに谷間は荒れはて、人々はみな死ぬかにげるかして、いなくなった。谷間がいまどうなっているか、わしはよく知らん。だが、いまでも、たての湖のはずれからさき、山に近いあたりには、人っこひとり生きていまいと思われる。  さて、おもてにいて助かったわしらいく人かの者は、かくれ場所にすわったまま、ないてスマウグめをのろった。やがてわしらは、思いがけずもそこに、ひげをこがしてにげのびてきた父とじいさまをむかえた。父もじいさまも、かぎりなくきびしい顔つきのまま、あまり口もきかなかった。わしがどうしてにげたかときいても、だまっておれといい、いつか時がくればわかる、といったきりじゃった。それからわしらはそこをはなれ、ところさだめずさまよいながら、暮らしをたてるために力のかぎり働かなければならなかった。蹄鉄鍛冶屋にもなったし、つらくきつい石炭掘りまでしたこともある。だがわしらは、あのぬすまれたわしらの宝を忘れたことが一度もなかった。そして、わしらにすこしたくわえができ、あまりおちぶれていないといえるまでになったきょうこのごろ、」とトーリンは、そのしるしに首のまわりのみごとな金の鎖をふってみせて──「やはりわしらは、あの宝をとりかえし、できればスマウグめに、わしらののろいをたたきつけてやりたいのじゃ。  わしはこれまで、父とじいさまがのがれられたことを、ふしぎに思ってきた。だが今、ふたりはふたりだけの知っていた秘密のわき戸からにげたにちがいないと、さっしがついた。でもこのとおり、ふたりは地図を作った。その地図をどうしてガンダルフが手にいれたのか。またどうして、正しいあとつぎであるわしに、ゆずられなかったのか。そのわけが知りたいのじゃ。」  「手にいれたのではない。ゆずられたのじゃ。」と魔法使いがいいました。「ごぞんじのように、あんたのじいさんは、モリアの鉱山で、あるゴブリン小人の手にかかって殺されたな。」  「あのゴブリンめにのろいあれ。たしかにそうじゃ。」とトーリン。  「そしてあんたのとうさんは、ちょうど先週の木曜日から百年前にあたる、四月二十一日に、そこを出ていって、二度とふたたび帰らなかったな。」  「そうじゃ、そうじゃ。」とトーリン。  「ところで、そのあんたのとうさんが、あんたに渡してくれといって、わしにこの地図をくれたんじゃ。そしてわしがあんたにこれを手渡すやり方がどうの、時間がかかったのと、あんたは文句がいえないはずじゃ。なにしろわしがあんたをさがしだすまでが、たいへんじゃったからなあ。あんたのとうさんは、その地図を渡す時、自分の名まえをおぼえていず、むすこの名まえも教えられなかった。それを思えば、まず、お手柄じゃ、まことにありがたいといわれてもしかるべきところじゃろう。さあ、お渡ししよう。」とガンダルフは、トーリンに地図を手渡しました。  「わしには、まだわからん。」とトーリンがいいました。ビルボも、同じようにわからないといいたい気がしました。ガンダルフの説明は、じゅうぶんでないように思われました。  すると、魔法使いは、しぶりながらゆっくりと、こういいました。「あんたのじいさんは、モリアの鉱山へでかける前に、万一のことを考えて、地図をむすこに渡した。じいさんが殺されたあと、とうさんは、その地図をうけつぎ、とにかく運をひらこうと思って、山へでかけた。ところが、どこへいっても、なにをやっても、ひどい不運にみまわれるばかりで、山の近くにもいけないでしまった。どうしてあんたのとうさんが、そこにいたのか、わしにはわからないが、わしが見かけた時、とうさんは、死人のたましいをよびおこすうらない師の地下牢のとらわれ人になっていたのじゃ。」  「そんなところで、あんたはなにをしておられた?」とトーリンが、びくりと肩をすくめてたずね、ドワーフたちはみな、ぞっとして、身ぶるいをしました。  「そんなことはどうでもよい。わしは、あることをせんさくしておった。それは危険この上もない仕事でな、さすがのこのガンダルフでさえ、命からがらにげのびたものじゃ。わしは、あんたのとうさんを助けだそうとしたが、手おくれじゃった。とうさんは、もうろうとして、たましいのぬけがらとなり、この地図とかぎのほかは、なにもかも忘れておった。」  「わしらは、ずっと前に、モリアのゴブリンどもにしかえしをした。」とトーリンがいいました。「だが、死人うらない師めには、たっぷりおかえしをせねばならん。」  「とほうもないことよ。この世のはてからドワーフたちをすっかりよび集め、よってたかってかかったとしても、はたせない大仕事じゃ。あんたのとうさんの望みはただ一つ、あんたに、この地図を読んでこのかぎを使ってもらいたいことじゃ。あの竜とあの山だけでも、あんたがたの力にあまる仕事ではないか!」  「きんちょう、きんちょう!」と、この時、ビルボが、思わずしらず、大声でいいました。  「なにがきんちょうだ?」と、一同がいっせいにビルボの方をふりむきました。ビルボはすっかりあがってしまって、「わたしのいうことを、きんちょうねがいます!」と答えました。  「それは何だ?」と一同がたずねました。  「つまり、わたしは東へでかけて、目で見て、しらべてみるべきだと、申しあげたいのです。かならず、秘密のわき戸があるでしょうし、竜も時には眠ると思います。その入口の階段にゆっくりすわって考えれば、きっと何か思いつくにちがいありません。ところでみなさん、いかがでしょう、わたしたちは一晩じゅうとっくり話してきたと思いますので、このへんで、おわかりでしょう、ベッドのことや、あすあさ早くおでかけのことや、なにやかや、うかがって……みなさんのおたちの前に、ちょっとした朝ごはんをさしあげたいのですが……」  「みなさんとは、自分もいれて、そういったのじゃろうな。」と、トーリンがいいました。「あんたは、忍びの者じゃないか。階段にすわることはもとより、入口からはいっていくのも、あんたの仕事じゃぞ。それはそうと、ベッドと朝ごはんは、よろしくねがいたい。わしは旅に出る時は、ハムに卵を六つおとすのが好きじゃ。卵はまるごと、こわさんでな。」  こうして一同はみな、えんりょえしゃくなく(これがビルボにはやりきれませんでした)、朝ごはんの注文をつけてから、やっと立ちあがりました。ホビットは、みんなのためにありったけの部屋をあけて、いすやソファをベッドになおし、寝るしたくをととのえてやらなければなりませんでしたから、それをすっかりわりあてて、自分の小さいベッドにひきあげたころは、へとへとにくたびれて、げっそりしてしまいました。そして一つだけ心のなかでかたく決心したことは、あした早くおきて、みんなの朝ごはんをこしらえるなんて、そんなばかばかしいことはぜったいにすまいというのでした。トックらしいところは、消えはじめ、あすの朝どこかへ旅に出かけるなどというつもりは、どうやらあやしくなってきていました。  ベッドに横になると、すぐとなりのいちばんよい寝室にいったトーリンが、まだひとりで小さくうたっている歌が、きこえました。 寒き霧まく山なみをこえ、 古き洞穴の地の底をめざして、 われらは夜明け前に旅立たねばならぬ、 忘れられたわれらの黄金を手にいれるため。  ビルボは、歌声を耳にしながら眠っていきました。歌声のおかげで、ビルボは、たいへん気味のわるい夢をみました。そしてやっと目をさました時は、夜明けをとうにすぎていました。 2 ヒツジのあぶり肉  ビルボはとび起きて、服をつけながら食堂にむかいました。そこにはだれのすがたもなく、ただ大ぜいがあわてて朝ごはんを食べたあとが残っていて、部屋はひどいごたごたのまま、台所は、あらってないせとものが山づみになっていました。しまってあったありったけの壺も鍋も、すっかり使われたようでした。そして使いっぱなしのよごれものがごろごろと、あまりすさまじく目にうつるもので、ビルボがいくら前の晩の集まりは、悪い夢にうなされていたのだと思いたくても、夢ではないと思い知らされました。けれどもビルボは、自分をぬかして出かけていった、自分を起こしもしないで(おまけにひと言もありがとうといわないで、とビルボは思いました)、あの連中だけで行ってしまったことを思うと、じつのところ、ほっとしたのです。ところが、その心のうらに一すじ、少々がっかりした気持ちがないわけではなかったのです。それには、自分もたまげました。  「しっかりしろ、ビルボ・バギンズ!」ビルボはひとり言をいいました。「竜だのなんだのと、年がいもなく、たわいないことを考えてはいけないぞ。」こういってビルボは、エプロンをつけ、火をおこして、湯をわかすと、洗いものをしました。それから台所ですてきな朝ごはんを食べて、食堂をかたづけました。もうそのころになると、明るく日がさしていました。そこで、玄関のドアをひらいて、暖かい春風をむかえいれました。ビルボはいつしか口笛を高らかにふきならし、ゆうべのことを忘れかけていました。またじっさい、ビルボは、食堂のあけはなした窓のそばで、二度めのおいしい朝ごはんをいただこうとして、腰をおろしたところでした。その時に、ガンダルフがつかつかとはいってきました。  「これこれ、ビルボ。いったい、いつ行くつもりなんじゃね? 朝早くでかけるといったのは、どうしたんじゃね? だのにおまえさんは、ここにすわりこんで、朝ごはんを食べている。朝ごはんだかなんだか知らんが、もう十時半じゃ! みんなは、おまえに伝言を残して、出ていったぞ。待ちきれないのでな。」  「伝言ですって?」と、あわれなバギンズ君は、あわてふためいてたずねました。  「ウドの大木じゃな!」ガンダルフがいいました。「けさのおまえさんは、まだ目がさめてないのか? だんろ台のそうじも、しておらんじゃろう。」  「それがいったい、なんだとおっしゃるんです? 十四人ぶんの洗いものにかかりっきりでしたからね!」  「だんろ台のそうじをしておれば、時計の下からこれを見つけておったはずじゃ。」ガンダルフはこういって、ビルボに手紙を渡しました(もちろん、ビルボのびんせんが使ってありました)。  それは、こういう文句でした。  トーリンとその仲間が、つつしんで忍びの者ビルボどのに申しあげます。あなたのおもてなしに心からのお礼をのべるとともに、その腕前を役立てようというあなたの申しこみをよろこんでおうけいたします。よって、とりきめは──  全利益金(いかほどであろうとも)の十四分の一を、耳をそろえて現金にておはらいする。  旅のあいだにかかった費用はすべて、どのような事件にあっても、かならずおかえしする。  葬式の費用は、わたしたち一同あるいは代表の受けもつものとする。ただし、それをおこなうような事がらが、さけることのできない場合にかぎる。  あなたのたいせつなおやすみをさまたげるのもどうかと考えまして、わたしたちは必要なしたくをいたすべく、さきに出かけることにいたしました。では、午前十一時ちょうどに、水のべ村、緑竜館で、失礼ながらお待ちいたします。 かく記すは、あなたの約束をまもる性質を信じ、深く敬うものである、 トーリンとその仲間。そうそう。  「となると、あと十分じゃ。かけていかなければならんな。」とガンダルフがいいました。  「でも──」とビルボ。  「時間がないぞ。」とガンダルフ。  「でも──」  「なにしろ、時間がないんじゃ。いそげ!」  のちにビルボが、年をとってふりかえってみても、あの時どうして、帽子をかぶらず、杖も財布も手にせず、よそに出かける時にいつも持っていくものを何もかもおいてとびだしたのか、わかりませんでした。とにかく、ビルボは、二度めの朝ごはんを半分のこし、あとかたづけもせずに、ガンダルフの手にわが家のかぎをおしつけると、毛のはえた足をちゅうにとばして、山道をかけくだり、大きな水車場をすぎ、川をわたり、一キロ半もかけとおしました。  息せききってビルボが水のべ村についたとき、ちょうど時計が十一時をうつところでした。気がつくとビルボは、ハンケチさえ持っていないのです。  「でかした!」と、宿屋の入口でビルボを待っていたバーリンが、さけびました。  おりから村の道をまがって、ほかのドワーフたちが帰ってきました。みな小馬にのって、どの小馬にもくら袋や皮カバンや行李や包みや荷物をどっさりつけていました。なかに一頭、ビルボ用と思われる、めだって小さい小馬がいました。  「そこのふたりも馬にのれ。出発じゃ!」とトーリンがいいました。  「まことに残念ですが──」とビルボがいいました。「帽子をかぶってきませんし、ハンケチも忘れました。お金も持ってこないのです。じつは、あの手紙を十時四十五分まで知らずにいて、用意ができず……」  「できなくても、けっこう。心配しなさるな。」とドワーリンがいいました。「旅の終わるころには、ハンケチだのなんのと、かまっていられなくなりますぞ! 帽子なら、わたしの荷物のなかに、よぶんの頭巾とマントがありますわい。」  こうして、一同はそろって、旅に立ったしだいなのです。おりから、五月になろうとするまえの日の、うらうらとはれわたった朝、荷物をどっさりつけた小馬にのって、ゆさゆさと、一同は、宿屋をはなれました。ビルボは、ドワーリンから借りた、ふか緑の頭巾(雨風で色がすこしあせていました)をかぶり、同じくふか緑のマントを着ていました。頭巾もマントも、ビルボには大きすぎて、こっけいに見えました。こんなビルボを見たら、おとうさんのバンゴがなんというでしょう。ビルボのせめてものなぐさめは、自分にはひげがないのだから、ドワーフとまちがわれることがない、と思うことでした。  こうして馬を進めるうちに、ほどなく、ガンダルフが白馬にまたがって、堂々とあらわれました。ガンダルフは、ビルボのハンケチをたくさんと、パイプとタバコを持ってきてくれました。それからは、一同はにぎやかに進みました。一日じゅう馬にのりながら、話をしたり歌をうたったりしました。もちろん、食事をとる時は別です。食事は、ビルボがこのんでやったほど、たびたびとりはしませんでしたが、そのうちにビルボも、冒険も悪くないと思うようになってきました。  長いあいだ、このようなありさまがつづきました。とおりすぎる土地には、ひらけた田畑が多く、そこに住む者は、人間にせよホビットにせよエルフにせよ、いずれも上品でりっぱな人々でしたし、道もよく、ちゃんとした宿があり、とちゅうでドワーフやいかけ屋や農夫が、ぶらぶら仕事にでかけるところにであうこともありました。けれどもやがて、一同は、人々がわからない言葉をしゃべり、ビルボのきいたことのない歌をうたう土地へ、さしかかりました。宿屋はろくにありませんし、あってもひどいところで、道もずっと悪くなりました。そして遠くの山々がだんだん高くなってきました。山の上に城があるところがありますが、そんな城は、いい目的で建てられたように見えませんでした。おまけに天気まで、いままでは、歌や物語にいうように、五月晴れにふさわしくすばらしかったのですが、がらりと雲ゆきが悪くなりました。  「あしたは、六月の一日だというのになあ。」とビルボはこぼしながら、どろんこ道のはねをあげあげ、ほかの人たちのあとについていきました。お茶の時間のあとでした。雨がどしゃぶりになって、一日じゅうふりつづいていました。ビルボの頭巾はぽたぽたしずくをたらし、それが目にはいります。マントはすっかりびっしょびしょです。のっている小馬はつかれきって、石につまずいてばかりいます。ほかの人たちはむっつりして何も話しません。「雨が、荷物のなかにしみて、かわいた着物も食べものも、ぬらしてしまったにちがいない。」とビルボは思いました。「忍びの者だの何だのかだの、くそくらえ! ああ、わたしの家にいられたらなあ! あのすてきな穴のなかで、やかんがわいて歌をうたいはじめるだんろのそばにいられたらなあ!」うちに帰れたらと望むのは、これがおしまいではありませんでした。  それでもやはりドワーフたちは、ホビットの方をふりむきもせず、言葉もかけず、のろのろと進みました。暗い雨雲のうしろのどこかで、日がしずんだのでしょう。あたりはとっぷり暗くなりました。おまけに風が出て、川岸の柳のむれが、からだをまげて、ひゅうひゅうなきました。前方にならぶ山々から流れてくる川は、ここ数日の雨でふくれかえって、まっ赤な激流になっていました。  もうじきまっくらになるころでした。風が黒雲をふきはらって、ちぎれ雲のあいだから、欠けはじめた月が山々の上にあらわれました。そこで一同は立ちどまり、トーリンが低い声で夕ごはんのさしずをしました。「どこか、寝られるようなかわいたところは見つからぬか。」  その時まで一同は、ガンダルフがいなくなっていたことに、気がつきませんでした。ガンダルフは、いままでいっしょに旅をしてきたあいだに、ずっと冒険に加わっていくのか、しばらくのあいだ道づれになっているだけなのか、はっきりいったことがありませんでした。そしてガンダルフは、だれよりもたくさん食べ、だれよりもよく話し、だれよりも高らかに笑ったひとでした。そのガンダルフだけが、この時ふっといなくなっていました。  「ちょうど魔法使いが、いちばん必要な時だのになあ。」と、ドーリとノーリがこぼしました(このふたりは、日々の食事をいくどもたくさん食べたいという点では、ホビットとおなじ考えでした)。  一同は相談のうえ、いまいるところに野宿をしなければならないということに話をきめました。この旅に出てから、いままで野宿をしなくてもすみましたから、このさき、霧ふり山の山脈にわけいって、ふつうの人々の住む土地からきりはなされてしまえば、どうしても毎晩野宿をしないわけにいかないことはわかっていましたが、いま、こんなひどい雨ふりの夜から野宿をはじめるのはつらいものでした。一同は、木々のしげみにうつりました。しげみの下ならすこしはかわいていますが、風が木の葉のしずくをはらって、ぽとりぽとりと落ちかかるのが、じつにやっかいでした。おまけに、火をおこすだんになって、もっとみじめなことになりました。いったいドワーフは、どこにいても、何からでも火をおこすことができます。風があろうがなかろうが、問題でありません。ところがこの晩は、だれがやっても、火がおこせませんでした。ことに火づくりのうまいオインでもグローインでも、だめでした。  すると、小馬の一頭がわけもないのにおどろいて、にげだしました。馬は追われて川にはいりました。そしてドワーフたちが馬をとりおさえる前に、フィーリとキーリがおぼれかけました。この馬の運んでいた荷物はすっかり、流れてしまいました。その荷はほとんどが食べものでした。それで夕ごはんにする分がとてもすこしになり、朝ごはんの分はもっと少なくなりました。  一同がむっつりして、ぬれて、ぶつぶついいながらすわっているあいだ、オインとグローインは、あいかわらず火をおこしながら、けんかをしていました。ビルボは、冒険というものは、五月のうららかな日をあびて小馬にゆられて旅をするばかりではないのだと、かなしい気持ちであじわっていますと、いつも見張りをつとめるバーリンが、さけびました。「むこうに、あかりがあるぞ!」すこしはなれたところに、小高い山があり、山には方々にこんもりした林がありました。その木立のやみをこして、一同は、ぽつんとともるあかりを見ることができました。焚火だかたいまつだかわかりませんが、あかりは赤く、こころよさそうでした。  しばらくじっとあかりをながめてから、一同はいいあいをしました。「だめだ」という者と、「だいじょうぶだ」という者にわかれました。またある者は、とにかくいってみるだけでもいい、ろくに食事もとらず、一晩じゅうぬれているよりはとにかくましだと、いいはりました。  するとだれかがいいました。「このあたりは、ひとによく知られていない場所だ。山地に近すぎる。おまわりたちも遠くて来ないし、地図つくりたちも、はいったことがない。だれがおさめているのか、うわさをきいたこともない。だから、旅のとちゅうでやたらに首をつっこまなければ、それだけ災難にもであわないというものだ。」すると、まただれかがいいました。「それにしてもわたしたちは十四人きりだ。」それにつれて「ガンダルフは、どこへいった?」と口々にくりかえされました。その時、雨はいよいよどしゃぶりになり、オインとグローインはつかみあいをはじめました。  そこで、いいあいは、「よく考えてみれば、忍びの者がいるじゃないか。」ということでまとまりました。そして一同は、めいめい小馬をひいて(こんどはじゅうぶん気をつけて)、あかりの方へ進みました。山へさしかかって、森にはいりました。山はだんだんのぼりになります。でも、それらしい山道はなし、道をたどってどこかの小屋へ出られるようなけはいがありません。まっくらやみの木立のあいだを通りながら、一同は、やたらにガサガサ、ポキポキ、メリメリ音をたてました(それどころか、ずいぶんぶつぶついったり、どなったりもしました)。  ふいに、その赤い光が、あまり遠くない木立のあいだに、強くかがやきだしました。  「いよいよ忍びの者のいく番だ。」と、一同はビルボのことを考えて、いいました。トーリンはホビットにむかっていいました。「あんたはあのあかりのそばまで出かけて、ちかくをよくしらべ、なんの火かを見きわめてこなければいかん。万事すっかり安全でだいじょうぶだったら、すぐひきあげて、急いで帰ってくる。うまくない時でも、できるだけ帰るように。帰れない場合は、フクロウの鳴き声で二声おだやかにホウホウと鳴き、あとの一声はけたたましくギャッと鳴きなさい。そうなったら、できるだけのことはするから。」  ビルボは、したことのないフクロウの鳴きまねなんか、コウモリのようにとべないも同様で、とてもできない、といおうとしましたが、話すひまもないうちに、出かけなければなりませんでした。もともとホビットというものは、森のなかを忍び歩くのに、こそりとも音をたてません。ホビットはそれがとくいで、ビルボも、とちゅうでドワーフたちがへまな音をたてるので、「ドワーフどものばかさわぎ」とよんで、なんどもはなで笑ったものです。もっとも、ドワーフたちの馬の列が、かりに四、五十センチむこうを通っても、風の晩なら、そのもの音をききつけるひとは、いないでしょう。さて、ビルボが口をかたくむすんで、赤いあかりをめざして歩くあいだ、その音をききつけてぴくぴくひげを動かすイタチ一匹おりませんでした。こうしてビルボは、だれの目にもふれずに、するすると、その焚火──焚火だったのです──のところにつきました。そこでつぎのようなありさまを、ながめたのでした。  三人の天をつくばかりの大男たちが、ブナの木のまきをぽんぽんたいた、はげしい焚火のまわりに、腰をおろしています。三人は、長い丸太をくしにして、ヒツジ肉をさして火であぶって、したたるあぶらを指ですくってはなめています。あたりには、おいしそうなにおいがただよっています。すぐそばに酒だるを一つすえて、三人が酒をくんではのんでいます。この大男たちは、トロルでした。まぎれもない山のばけものトロルたちでした。ずっと家にばかりくらしていたビルボでさえ、三人がトロルだということは、一目でわかりました。ものすごいみにくい顔つきといい、大きなからだといい、足のかっこうといい、まちがいありません。おまけに、ちゃんとした住居では使わないようなひどい言葉づかいからでも、すぐわかりました。  「きのうもヒツジ、きょうもヒツジ。あしたは、ヒツジは見たかねえなあ、おい。」と、トロルのひとりがいいました。  「ひとの肉はなげえあいだ、ひとっかけも、くわねえや。」と、つぎのトロルがいいました。「ウイリアムが、なんでおれたちをこんなとこにひっぱりこんだんだか、おれにゃさっぱりわからねえ。酒がたんねえ。もっとよこせや。」とこのトロルが、大さかずきをかたむけていたウイリアムのひじを、つつきました。  ウイリアムは、むせかえりました。「だまれ、こら。」と、急いでいって、「人間どもが、てめえとバートにくわれるために、わざわざここにくるかってんだよ。山からここへおりてきてから、こら、てめえたちは一村と半分、くらっちまったじゃねえか。この上、なにがほしい。こんなりっぱなヒツジのうめえ肉をもらって、おめえたちが、ありがと、といわなきゃ、口がひんまがるぞ、こら。」ウイリアムはこういって、あぶっていたヒツジの足を大きくちぎりとって、ぱくりと食べると、そでで口をふきました。  まことにトロルという奴はおそろしいもので、頭に首が一つしかないトロルでも(いくつもついてるトロルもあります)、このありさまです。こんな話をすっかりきいてしまったからには、ビルボはどうすればいいか、わかっていたはずでした。とにかくビルボは、こっそり帰って、友だちたちに教えてやるべきでした。あそこに三人、大きなトロルがいて、ドワーフでも小馬でも、何か変わったものをあぶってくおうと、手ぐすねをひいているぞと、みんなに教えてやればよかったのです。さもなければ、すばやい忍びの術を使ってみせてもよかったでしょう。伝説になっている忍びの名人なら、何かしら、トロルのからだからすりとったり(やってみるねうちはあります)、やきぐしからこのヒツジ肉をぬきとり、酒をぬすみ飲みして、注意をひかずに、遠くににげのびることができるでしょう。もっとも、名人の名にこだわらないで、役に立つことをこころがける忍びの者なら、相手に見られる前に、相手に短剣をつきたてればいいのです。そうすれば、その夜は安心して楽しくすごせますからね。  ビルボも、それは知っていました。ビルボは、じっさいに見たこともしたこともない事がらを、たくさん本で読んで知っていました。じっさいにあたってビルボは、すっかりおそろしくなり、気持ちがわるくなってしまいました。百キロもさきににげたいと思いました。でも、トーリンとその仲間のところへ手ぶらで帰りたくない、ひくにひけない気持ちがありました。それでビルボは、ものかげに立ったまま、ぐずぐずしていました。いろいろな忍びの術のなかで、トロルからすりとるわざもきいていましたが、あまりむずかしくなさそうでした。ですからビルボはとうとう、ウイリアムのうしろに立っている木まで、こっそり進んでいきました。  バートとトムが、酒だるのところにいきました。ウイリアムは、もう一ぱい飲んでいるところでした。この時ビルボは、勇気をかりたてて、ウイリアムの大きな大きなポケットへ小さな手をいれました。財布がありました。ビルボにとっては、大きなカバンぐらいに見えました。「よし!」この新しい仕事に熱中して、ビルボはこっそり財布をひきだしながら、「仕事の手はじめだな。」と思いました。  ところがいけません! トロルの財布が、くわせものでした。ポケットから出ようとする時に財布が、きいきい声で「なんだ、おめえはだれだ!」とさけびました。と、そくざにウイリアムがふりむいて、ビルボが木のうしろにかくれるまもなく、その首っ玉をおさえました。  「こら、バート、つかめえたぞ!」とウイリアムがいいました。  「なんだ?」と、ほかのふたりが、かけつけました。  「知るもんか。てめえはだれだ?」  「ビルボ・バギンズです。しのび、いや、ホビットです。」と、あわれなビルボは、ぶるぶるふるえながら、どうしたら、ひねり殺される前に、フクロウの鳴き声がだせるだろうと思いました。  「シノビットだと?」トロルたちは、すこしへんに思いました。トロルというものは、頭のめぐりがおそくて、知らないものをやたらにうたがうくせがあります。  「そのシノビットが、なんでおれのふところを、ねらったんだ? こら。」とウイリアム。  「これ、やいてくえるかや?」とトム。  「やってみろ、おい。」とバートが、やきぐしをとりあげました。  「こら、こいつは、一口にもたりねえぞ。」たっぷり夕ごはんをすませていたウイリアムがいいました。「皮をはいで骨をとりゃ、なくならあ。」  「こいつみてえのが、もっといるんじゃねえか、おい。あつめりゃ、パイができら。」とバートがいいました。「おい、おめえ、この森んなかに、てめえみてえなこそこそやろうが、もっといるか? ウサギのできそこないめ。」バートはこういって、ホビットの毛のふさふさした足を見ながら、ウサギのように思ったのでしょう、その足のさきをつまむと、ビルボをぶらさげて、ふりました。  「は、はい。たくさん、います。」ビルボは、友だちをうらぎるまいと考えつくまえに、そう答えてしまいました。「い、いえ。ちっとも、いません。ひとりも、いません。」ビルボはあわてて、すぐにつけ加えました。  「どういうことだ? おい。」とバートは、こんどは髪の毛をつかんで、ビルボをつるしあげました。  「それはその、」とビルボは、あえぎながら「申しあげたとおりで。それよりもどうか、わたしを料理しないでください、みなさま。わたしは、とてもじょうずな料理人です。料理されるより、料理する方がじょうずです。みなさまがたのために、すてきな料理をつくります。もしみなさまがたが、わたしを今晩のごはんにつかわなければ、あしたの朝ごはんをおいしくつくってさしあげましょう。」  「こら、このちびのばか!」ウイリアムはまえにいったように、はらいっぱい晩ごはんを食べていました。おまけに酒もたらふくのんでいました。「こら、こんなやつはにがしてやろう。」  「こいつが、たくさんいる、といって、ちっともいない、といったのは、どういうことなんだ? おい。それをきかないうちはだめだ。」とバートがいいました。「眠っているうちに、のどをきられるのはいやだぞ。こいつがしゃべるまで、おい、足を火につっこんでやれ。」  「そうはさせねえ。」とウイリアムがいいました。「こいつはおれがつかまえたんだ。」  「ウイリアム、てめえは、でぶのばかだ。」とバートがいいました。「おれが、まえからそういってるだろ。おい。」  「そういうてめえは、こら、えれえとんまだ。」  「とんまは、おかえしすらあ、ビル・ハギンズ。」とバートがいって、ウイリアムの眼にげんこをくらわせました。  それから、はでなさわぎがおこりました。トロルがビルボを地面におとした時、ビルボは、そいつらが犬のようにいがみあい、おもしろいほどぴったりな悪口のありったけをどなりあっているひまに、ほうほうのていでトロルたちの足もとからはいだしました。まもなくふたりのトロルは、つかみあって、けったりふんだり、火のなかにころがりこみそうになりました。するとトムが、ふたりに分別をつけてやろうというので、太い枝でふたりをどやしつけました。それでかえってふたりを前よりはげしくおこらせてしまいました。  この時こそ、ビルボがにげだすチャンスでした。ところが、ビルボの小さな足は、バートの大きな足にふまれてぺちゃんこになり、息はつけず、頭がふらふらしました。それでしばらく、焚火のあかりのおよばないところに出て、ハアハア息をついていました。  ところが、トロルたちのけんかのまっさいちゅうに、バーリンがやってきたのです。ドワーフたちは、はなれたところで、ひどいさわぎをききつけて、ビルボが帰ってくるか、フクロウの鳴き声がするかと、しばらく待ってみてから、ひとりずつ、(ドワーフとして)できるだけ静かに、あかりの方へしのんでいくことにしました。トムは、あかりのなかにはいってきたバーリンを見つけるが早いか、一声高くうなり声をあげました。だいたいトロルというものは、ドワーフのすがた(それも料理してない)を見かけるのが大きらいです。バートとビルは、すぐにつかみあいをやめて、「トム、ふくろを、早く!」とどなりました。バーリンは、ビルボがこの大そうどうにまきこまれて、どこにいったのだろうと、ふしぎに思って来たのですが、このありさまを見て、わけがわかった時は、ふくろが頭にかぶさって、その中へすとんとのまれていました。  「まだまだくるぞや。」とトムがいいました。「とんだまちげえだったなあ。まったく、たくさんいて、ちっともいねえだや。シノビットはもうちっともいねえで、ドワーフがたくさんいるだ。形からすりゃ、どうしたって、ドワーフだったぞや。」  「おめえのいうことが、ほんとだ。」とバートがいいました。「おい、おれたちゃ、かげへへえった方がいいぞ。」  トロルたちは、あかりのとどかないところに出ました。いつもヒツジ肉やほかのぶんどりものをいれてはこぶふくろを持って、木かげにひそんで待ちかまえました。ドワーフがあらわれて、焚火を見たり、酒のこぼれたジョッキや、かじりかけの肉を見ておどろいていると、ばさり! 頭からいやなにおいのするふくろをかぶされて、その中にすとん! といれられてしまいました。こうしてまもなく、バーリンのそばへドワーリンがならび、フィーリとキーリが加わり、ドーリとノーリとオーリがひとつながりにやられ、オインとグローインがビフール、ボフール、ボンブールといっしょに、焚火のそばでひとまとめにくくりとられました。  「すこしはこりるがいいぞや。」とトムがいいました。それは、ビフールとボンブールが、ドワーフがおいつめられるとやるように、気がくるったように戦って、だいぶトムを手こずらせたからです。  トーリンは、さいごにやってきました。そして、やすやすとはつかまりませんでした。トーリンは、もう災難があったものと思ってきたので、仲間の足がふくろからつき出ているのを見て、はじめて、まずいことになったとかんづいたのではありませんでした。トーリンは、あかりをあびない、すこしはなれた木かげに立って、たずねました。「この災難はどうしたのじゃ? わしのみうちをつかまえたのは、だれなのじゃ?」  「トロルです!」とビルボが、木のうしろからいいました。みんなは、ビルボのことを、すっかり忘れていました。「あいつらは、ふくろを持って、林のなかにかくれています。」  「おお、トロルとな?」とトーリンはさけぶなり、トロルがとびつくよりさきに、焚火の方へとびだしました。そして、さきの方に火のついた大枝を一本つかみました。バートは、身をかわさぬうちに、眼に枝の火をくらい、この戦いからはずれてしまいました。ビルボもできるだけのことをしました。ビルボはトムの足にかじりつきました。ホビットとしては力いっぱいでしたが、その足は木の幹のようにあつく、トムがトーリンの顔に火花をけちらしたひょうしに、ビルボはふり放されてきりきりまいをして、林のこずえにとんでいきました。  しかしトムはそのさい、口にトーリンの枝をくらって、前歯を一枚おってしまいました。トムは、うなりました。けれどもちょうどそのとき、ウイリアムがうしろから出てきて、ばさりとトーリンの頭へふくろをかぶせ、さかさにつっこんでしまいました。こうして、戦いは終わりました。一同は、どうしようもない立場におちいりました。みんな、ふくろの中にとじこめられて、三人のいかりくるったトロルたち(そのうちふたりは一げきをくらって、歯ぬけとやけどをおいました)がそばにすわると、とろ火であぶるか、こまかくきざんでにるか、それともいっそ三人でかわりばんこにドワーフたちの上にすわって、ぺちゃんこにしちゃおうかと、いいあっていました。そのあいだビルボは、着物と皮ふをずたずたにされたまま、ちょっとでも音をたてたらききつけられやしないかと、木の上で身動きもできずにおりました。  ガンダルフが帰ってきたのは、ちょうどそんな時でした。けれどもかれは、だれにも見られませんでした。トロルたちは、ドワーフたちをいまあぶっておいて、あとで食べようということにきめました。それはバートの考えで、それについても、さんざんいいあってから、ようやくきまったわけなのです。  「いま、あぶるのは、うまくねえ。夜じゅう、かかるぞ。なあ。」という声がきこえました。バートは、ウイリアムがいったのだと思いました。  「おい、いいあいを、むしかえすなよ、ビル。」とバートがいいました。「それこそ、夜じゅうかからあ。」  「だれが、いいあいをした?」と、ウイリアムは、さきの声をバートだと思って、いいました。  「おめえだ。」とバート。  「うそつきめ!」とウイリアム。そこでまたいいあいがはじまりました。さんざいいあったあげく、こんどはよくきざんで、にようということになりました。そして、大きな黒いなべを火にかけて、めいめいにナイフをとりだしました。  「にるのは、よくねえ。水がねえぞ。泉までは遠すぎらあ、なあ。」と声がしました。バートとウイリアムは、トムがいったのだと思いました。  「こら、だまれ、おい。」とふたりはいいました。「なんにもできねえじゃねえか。とやかくいいてえなら、てめえが水をくんでこい。」  「てめえこそ、だまれ。」と、その声をウイリアムだと思ったトムが、いいました。「ごたごたぬかすのは、てめえじゃねえか。」  「なんだ、こら、このぬけさく!」とウイリアム。  「てめえこそ、ぬけさくだや。」とトム。  こうして、またまた、いいあいがむしかえされて、こんどは前よりはげしくなりましたが、とうとう、三人でじゅんばんにふくろにすわって、ドワーフたちをつぶしておいて、あとでにることにしようという話にまとまりました。  「いちばんはじめに、どいつをつぶす? なあ。」と、声がきこえました。  「いちばんさいごのやつにしよう。」とバートがいいました。バートはトーリンに眼をやられています。そしてバートは、トムがしゃべったのだと思いました。  「かってにしゃべるな。」と、そのトムがいいました。「でも、おしまいのやつをつぶしたけりゃ、そいつの上にすわれや。どいつだ?」  「黄色い靴下をはいたやつだ。」とバート。  「ばかいえ、黒い靴下をはいたやつだぞ、なあ。」と、ウイリアムににた声がいいました。  「たしかに、黄色だぞ、おい。」とバート。  「そうだ、黄色だった。」とウイリアム。  「それじゃどうして、黒だといった?」とバート。  「いわねえ、トムがいったんだ、こら。」  「そんなこというかや。」とトム。「てめえだ。」  「二対一だぞ。おい、てめえはだまれ!」とバート。  「こら、それはだれにいうことだ?」とウイリアム。  「もうやめろ!」と、トムとバートがいっしょにいいました。「夜がふけて、もう朝がくるぞ。おい。こら、仕事にかかろう。」  「朝がここへやってくる。そしてみんな、石になる!」と、ある声がいいました。その声はウイリアムの声ににていました。けれどもそうではありませんでした。ちょうどそのとき、光が山の上にさし、木々のこずえに、鳥たちのはげしい鳴き声がはじまりました。ウイリアムは、それっきり口をききませんでした。それは、腰をかがめたまま石になったからでした。そしてバートとトムは、それを見つめたまま、岩のようにかたくなりました。トロルたちは、そこにそのまま、さびしい岩になって、いまでもじっと立ちつくし、寄るものはといえば、ここにとまる鳥のほかにありません。それというのは、トロルというものが、ごぞんじのように、あかつきになる前に地下にもどらなければならないので、さもないと、トロルが生まれたもとの山の岩にもどって、動きだせなくなるからです。こうして、バートとトムとウイリアムに、おこるべきことがおこったのでした。  「してやったり!」とガンダルフはいって、林のうしろからすがたをあらわし、ビルボがひっかかっていたとげとげのある木から、ビルボを助けおろしました。ビルボは、これでようやくわかりました。トロルをだましてごたごたけんかをさせ、とうとうさいごのあかつきをむかえるようにしむけたのは、魔法使いの声だったのです。  つぎの仕事は、ふくろをほどいて、ドワーフたちを出してやることでした。ドワーフたちは、すんでに息がつまるところで、すっかりまいっていました。ふくろにつめこまれて、トロルたちが、あぶるのにるのきざむのと、いろいろちえを出しあっているのを、きいているだけでたまりませんでした。ドワーフたちは、ビルボにどういうことがおこったかというビルボの話を、二度きかなければ、まんぞくしませんでした。  「こんな時に忍びの術やすりのやり方を練習することはないや。」とボンブールがいいました。「みんなのほしかったのは、火と食べものなんだ。」  「だが、火も食べものも、一戦まじえたればこそ、かちとれたのじゃ。」とガンダルフがいいました。「とにかく、むだなおしゃべりはやめよう。ところで、トロルは、日のめをあびないように、この近くに横穴かたて穴を掘って住んでいるにちがいないと思わないか。そこをさがしてみなければならん。」  一同はあたりをさがしまわりました。そしてまもなく、木々のあいだをぬってつづいている、トロルたちの石の靴のふみあとを見つけました。みんなはその足あとをつけて山の上にのぼり、とうとう林のしげみにかくれた洞穴の、大きな石のドアにたどりつきました。けれどもみんなでおせどもつけども、ドアはあきません。ガンダルフがいろいろなまじないをやってもだめでした。  「これが役に立つんじゃないでしょうか?」と、ビルボが、みんながさんざんやったあと、腹をたてたころになって、いいました。「わたしは、トロルたちが戦っていた地面の上でこれを見つけたのです。」こういってビルボは大きなかぎを出しました。大きいといっても、ウイリアムには小さい秘密のかぎと思われたことでしょう。それがウイリアムのポケットから、うまいぐあいに、石になってしまう前に、ころがりおちたにちがいありません。  「いったいぜんたい、どうしてもっと前に、そのことをいわないんだ。」と、みんなはふんがいしました。ガンダルフがかぎをつかんで、かぎ穴にいれると、ぴたりとはいりました。すると、石のドアが、ぐっと一おしで、うしろにあき、一同はなかにはいりました。床には骨がちらばり、いやなにおいがこもっています。けれども、たくさんの食べものが、たなの上にも下にも、ごたごたとつみあげてあり、そのあいだあいだに、しんちゅうのボタンのようなものから、金貨がざくざくつまったたくさんの壺まで、あらゆる種類のぶんどり品が、らんぼうに山になってちらかっていました。着物もどっさり、壁にかかっていました。トロルには小さいものばかりで、きっと殺された人たちのものだったのでしょう。またそのあいだに、いろいろなこしらえ、形、大きさの剣がいくつもありました。なかでも二ふりの剣が、とくに一同の目をひきつけました。さやがまことに美しく、つかに宝石細工がしてあるからでした。  ガンダルフとトーリンとが、一ふりずつとりました。ビルボは、皮のさやにはいっているナイフをもらいました。それは、トロルにとっては、小さいポケットナイフのようなものだったでしょうが、ホビットにとっては、りっぱな剣でした。  「どれもみな、きれ味のよさそうな刃をしている。」と、魔法使いが、いちいち剣をすこし抜いてみては、興味をそそられたようにながめました。「けっしてトロルの作ったものではない。また、きょうこのごろの人間の鍛冶屋がうったものでもない。これらの剣にきざまれたルーン文字が読めさえすれば、いろいろなことがわかるじゃろう。」  「このむなくそのわるいにおいから、にげだそうじゃありませんか。」とフィーリがいいました。そこで一同は、金貨の壺をはこび出し、食べられそうなよごれてない食べものや、まだいっぱいはいっているビールのたるを、そとへ出しました。そのころになって、みんな、やっとおちついて朝ごはんが食べられる気持ちになり、あんまりおなかがすいていたものですから、いくらトロルのくさい肉部屋から持ってきたものでも、ちっともいやな顔をしませんでした。ドワーフたちの持ってきた食糧はたいへんとぼしくなっていましたので、一同は、チーズとパンにめぐりあったところで、たくさんのビールをかたむけ、焚火のおきでベーコンをあぶって食べました。  朝ごはんがすむと、一同はゆっくり眠りました。前の晩はねられなかったのですから、むりはありません。そして午後まで何もしないですごしました。それから、みんな、小馬をつれて、たくさんの金貨の壺をはこび、道からあまりはなれていない川のそばに、あとを残さないように気をつけて、こっそりうめますと、その上に、運よく生きて帰って見つけられるように、たっぷりおまじないをかけておきました。そのあとで一同は、ふたたび小馬にまたがって、ふたたび東への道をゆさゆさとたどりました。  「あんたは、いったい、どこへいっていたのかね? 失礼じゃが……」と、トーリンは、つれだって進んでいくガンダルフにたずねました。  「ゆくさきをしらべに、じゃ。」とガンダルフが答えました。  「して、なんで、うまいしお時に、帰られたのじゃ?」  「きた方を心配して、じゃ。」  「なるほど!」トーリンがいいました。「だが、もっとくわしく話してくれんか?」  「わしは、ゆくてをしらべておこうと考えて、ひとり進んでいった。ゆくてはまもなく、つらくなり、危険になる。それに、このさき食べもののたくわえがとぼしいのをなんとかおぎなわなければならんと、気がもめていた。ところが、それからあまり行かんうちに、さけ谷からやってきたわしの友だちふたりにであったのじゃ。」  「それは、どこです?」とビルボがたずねました。  「口をはさむな!」とガンダルフがいいました。「運がよければ、あと四、五日でいけるじゃろう。すれば、おのずからわかることじゃ。さきにいったように、わしは、さけ谷のエルロンドの者たちふたりにあった。そのふたりは、トロルのうわさをきいて、道を急いでおった。トロル三人が山地からくだってきて、道から遠くない森のなかに住みついたことを、きいたのはそのふたりからじゃ。トロルどもは、この地方の者をおびやかし、旅人をまちぶせするという。そこでわしは、すぐさま、ひきかえせといわれたような気がしてきた。きた方をみれば、はるかに火が見える。というわけで、それからさきは、知ってのとおりじゃ。どうか、このさきもっと気をつけてくだされ。さもないと、とてもいきつかぬわい。」  「かたじけのうござった!」と、トーリンが、いいました。 3 ちょっとひと息  天気はよくなってきましたけれども、その日は、だれも歌をうたったりお話をしたりする者がありませんでした。つぎの日も、そのつぎの日も、そうでした。一同は、道のどちらがわにも危険がころがっていると感じはじめたのです。みんな星空の下に野宿をしました。小馬たちは、主人たちよりもたくさん食べました。というのは、あたりに草がたくさんあるのにひきかえて、一同の食糧ぶくろには、トロルのところから持ってきたものをまぜても、たくさんはなかったからです。ある午後のこと、一同は川につきました。たくさんの石にせかれて、川水が音高く白くわき立っている広い浅瀬を、みんなは渡りました。むかいの川岸は高くきりたち、すべりやすかったのですが、ようやく小馬をひきひき、岸の上にたどりつきますと、にわかに目の前に近く、大きな山脈のすがたが、堂々とつらなって、あらわれました。あとまる一日歩けば、その山脈のふもとにつくと思われました。山々は、その茶色の山はだに夕日をあびていますのに、暗く、あれさびたありさまで、そのかたのうしろに、雪をいただく高い峰々がかがやいていました。  「あれが、あの山ですか?」と、ビルボが、目を丸くしてながめながら、きんちょうした声をだしてたずねました。今まで、これほど大きなけしきを見たことがなかったのです。  「もちろん、ちがいますとも。」とバーリンが答えました。「これが、霧ふり山連山のほんのとば口なんです。わたしたちはこの山脈の上をこえるか、下をくぐるかして、とにかくこの霧ふり山をこさなければ、荒地のくににはいかれません。それに山脈のむこうがわに出ても、スマウグがわたしたちの宝をだいて住んでいる東のはなれ山にいくまでは遠いのです。」  「ああ!」ビルボは、ため息をつきました。この時ほど、つかれたおぼえは、これまでにないほどでした。ビルボは、わが家のホビット穴のお気にいりの居間にいて、だんろの前でいすにかけ、そばのやかんがふつふつと歌をうたうありさまを、しみじみと思いだしました。でも、なつかしのわが家をしのぶのは、これがおわりでなかったのです!  いまはガンダルフが案内に立ちました。「けっして道にまような。まよえばやられるぞ。つぎに食べものを確保することが大事。さらに休むにも、安全第一をはかる。霧ふり山をこえるには、正しい山道をえらんできりぬけることが、何よりかんじんで、さもないとかならず山のなかで道にまよい、いつのまにかあともどりして、ふりだしにもどってしまう。それももどれた場合の話じゃ。」  ドワーフたちは、どこにむかって進むのかとたずねました。ガンダルフは、こう答えました。「まず荒地のくにのさかいにいく。そこは、知っている者もおろう。このさきに、さけ谷という美しい谷がかくれており、そこにエルロンドが、『さいごの憩』館に住んでいる。そこへいくつもりじゃ。わしは、とちゅうであった友だちに言づてをたのんでおいた。わしらを待っていてくれるはずじゃ。」  この言葉はこころよくきこえました。それなら、山脈の西がわにある「さいごの憩」館にむかってさっさと進んだらよかろうと、だれでも思うにちがいありません。まったくあたりには、目をさえぎる森も谷も山もなく、広い斜面がだんだんにゆっくりとのぼっていって、いちばん手前の山すそにつながっています。見わたすかぎり、ヒースの色と、ぼろぼろになる岩の色ばかりで、そのなかにところどころ、草やコケの緑色の点々があって、水のありかを示しています。  午後の日がかたむいていきます。しんと静まりかえった荒野のなかに、人の住むけはいがありません。ところがしばらく馬を進めていくうちに、まもなく、山までのあいだのどこかに、たしかに家がかくれていると思うようになりました。そのとちゅうに、思いがけなくも足もとにいくつか谷がひらけていることがありました。一同がびっくりしてのぞきこみますと、きりたった両がわのがけの真下に森があり、せまい谷底に川が流れています。また、ほうぼうに、だれでもとびこせそうにみえるくぼみがあって、そこは深くえぐれて滝がかかっていました。また、暗いから沢もいくつかあり、その方はとびこえることもできず、よじのぼることもできません。またそこかしこに、小さな沼が点々とちらばり、なかには、丈のたかいあざやかな花にかざられた、見るも楽しい緑の池もありましたが、荷物をつけた小馬がそこへふみこめば、二度と出られなくなってしまいます。  あの川の渡り場から山までは、思ったよりずっと広い原でした。ビルボは、すっかりたまげました。ただ一すじの道が、白い石をならべて目印としてありましたが、その石も割れて小さくなったり、コケやヒースにまぎれたりしています。この道をたどるのは、まことに根気仕事で、道をよくわきまえているはずのガンダルフがさきに立っても、なかなかはかどりませんでした。  一同は、いつまでたってもほんの少ししか進まないように思いました。ガンダルフが道をさがしては、あっちだ、こっちだと、頭とひげをうちふるあとについて、注意ぶかく道をたどっていくうちに、日がおちはじめました。お茶の時間はとうにすぎてしまいましたし、夕ごはんの時間もなくなるように思われました。蛾がひらひらとまいはじめ、まだ月が出ないので、あたりはとっぷり暗くなりました。ビルボの小馬は、木の根や石につまずきだしました。そのうちに、だしぬけに一同が、けわしいがけのはずれに出てしまったので、ガンダルフの馬は、そこからすべりおちてしまうところでした。  「とうとう来たぞ!」とガンダルフがさけびました。一同はまわりに集まって、がけの下をのぞきました。はるか下の方に谷が見えます。谷底の激流が岩にあたって、ごうごういう音がきこえます。木々のかおりがただよってきます。そして谷川のむこうのがけ下に、あかりが一つともっているのが見えました。  さて一同が、うすくらがりのなかでつるつるすべりながら、けわしいぐるぐる折れの坂道をさけ谷のかくれた谷間へと、おりていったありさまは、ビルボにとって、忘れることのできない思い出になりました。くだるにつれて、空気は暖かくなり、マツの木のにおいがビルボのねむけをさそいましたので、ときどきビルボはこっくりしては、馬からおちそうになったり、鼻を馬の首にぶつけたりしました。くだるにしたがって、一同の意気はさかんになりました。木々は、ブナやカシにかわり、たそがれのあかりに、やわらいだ気分がただよいます。谷川の岸近い林の空地についたころ、草の緑が見わけられないくらい、暗くなっていました。  「ふーん、エルフたちのにおいだな。」とビルボは思いました。そして空を見あげました。星々は、あかるく青くかがやいています。その時、とつぜんに、林のなかから笑い声のように歌がふきだしてきました。 やあ、そこで何をしてるの? いったい、どこへいきたいの? 小馬のひづめをとりかえなさいな。 ほら、川が流れていくだろう、 トラ、ラ、ラ、ラリー この谷そこを! やあ、何をさがしているの? いったい、どこへいきたいの? まきがいぶっているところ、 おかしがやけているところ、 トリ、リル、リル、ロリー 谷はたのしい、ハッハッハ! やあ、どこへいくつもりなの? みなさん、ひげをふりたてて。 どうしてバギンズさんや、 バーリン、ドワーリンが、 谷におりてきたの? いまは六月、ハッハッハ! やあ、みなさん、おとまりですか? それともすぐにおたちですか? 小馬はすっかりつかれてる。 お日さまはとうに沈んでる。 おたちはおろか、 とまればたのしい。 われらのうたに 耳かたむけて 夜をおすごし、ハッハッハ!  声は、このように木の間から笑いうたいました。うきうきするようなさわぎです。このさわぎをばかばかしいとののしっても、かえって笑いとばされてしまいそう。もちろん、その歌声の主は、エルフたちでした。まもなくビルボも、ふかまるやみのあちこちに、エルフたちを見かけるようになりました。エルフというのは、妖精小人のなかでいちばん楽しいひとたちで、ビルボはもともとエルフが好きでしたが、これまであまりあったことがなく、すこしおそろしい気もしました。でもドワーフたちは、エルフのことをよく思っていないようで、トーリンとその仲間たちのようなりっぱなドワーフでさえも、エルフたちをばかだと思い(そう思うことこそ、ばからしいのですが)、エルフなんかとつきあうのはめいわくだと思っていました。エルフたちのなかには、わざとドワーフをからかって笑う者もいましたし、みんな、ドワーフのひげをさして笑うものですから、ドワーフの気にいるはずがありません。  「さてもゆかい!」と、ある声がいいました。「みろよ、馬にのったホビットのビルボのかっこう。すてきだねえ!」  「すてきどころか、びっくりぎょうてん!」  こういって、エルフたちは、さきにあげたようなおかしな歌を、つぎからつぎへとうたいつづけました。しかし、とうとう、かなり大きな若者のエルフがひとり、木立からあらわれて、ガンダルフとトーリンにむかって、おじぎをしました。  「ようこそ、わが谷においでになりました!」  「かたじけない!」とトーリンは、すこしつっけんどんにいいました。ガンダルフの方は、もう馬をおりて、エルフたちの仲間になって、何やら楽しく話しあっていました。  「これではすこし道をはずれていますよ。」と若いエルフがいいました。「川を渡って、むこうがわのやしきへいらっしゃるつもりなら、こちらですよ。でも、橋をこえるまでは、お歩きになった方がいいでしょう。すこしやすんで、いっしょに歌でもうたいませんか。それとも、さっさとさきへ進まれますか? 夕ごはんは、ちゃんと用意していますよ。ほら、料理に使う焚火のにおいがしてきました。」  くたびれきっていましたけれど、ビルボは、ほんのすこしでも、ここにいたいと思いました。六月の星空の下で、エルフのうたう歌をききのがしては、話になりません。ことに歌の好きなひとなら。それに、あったこともないのに、自分の名まえもなにもかも知っているように思われるエルフたちと、ひざをまじえて話がしてみたかったのです。ビルボは、自分の冒険について、エルフの考えをただしてみたくなりました。エルフというものはたいへんなもの知りなうえに、新しいできごとをすばやくとらえるふしぎなひとたちです。どこでどんなことがあったかというニュースは、水の流れるように早く、時にはもっと早く、エルフたちに知られてしまうのです。  けれどもドワーフたちの方は、一刻も早く晩ごはんにありつきたくて、やすまずに、出かけようというつもりでした。一同は、小馬をひいて道をたどり、やがて正しい一本道に出て、ついに谷川のほとりにつきました。川はいきおいよく、音高く流れていました。一日じゅう日にとかされた山の雪のとけ水が、夜になって谷川の水かさをますのです。川の上に、てすりのない小さな石橋が一つかかっていましたが、はばがせまくて、小馬がようやく渡れるくらいでした。そこを一同は、ゆっくりと用心して、ひとりびとり、小馬のたづなをひいて渡らなければなりませんでした。エルフたちは、岸であかるいちょうちんをともして足もとを照らし、一行が川を渡るあいだ、陽気な歌をうたっていました。  「よう、とっつぁん、そのひげのさきを水のあわにぬらさないでよ。」エルフたちはトーリンをひやかしました。トーリンが四つんばいにならんばかりに身をかがめて渡るところでした。「水をやらなくても、もうのびすぎだ。」  「ビルボどん、お菓子を食いすぎないように。」とエルフたちははやしました。「ふとりすぎると、かぎ穴がとおれないよ。」  「おしずかに、おしずかに。みなさん、よいお晩じゃ!」とガンダルフが、さいごに渡りながらいいました。「谷に耳あり、エルフは舌がまわりすぎ。では、おやすみ!」  こうして一同は、とうとう「さいごの憩」館につきました。玄関は広々とあけはなされておりました。  ところで、ふしぎなことですが、まことによいことにであったり、まことにすてきな日々をすごしたというようなことは、話してもすぐにおわってしまいます。ほんとは気味が悪くてどきどきする、こわくてぞっとするようなことが、かえってお話としてはすばらしいのです。とにかく困らないくらい話の種になるのです。一同は、そのすてきなやかたに、長いこと、少なくとも十四日間は、とまりましたが、それでもわかれたくない気持ちでした。ビルボなどは、これからかんたんにわがホビット穴に帰れるということになっても、ここにいつまでも残りたいと思ったくらいでした。けれども、一同がここにすごした日々のことは、あまりお話しすることがありません。  このやかたの主人は、エルフと人間のまじったひとでした。この種族の先祖は、ひとの歴史のはじまる前におこったふしぎなできごと、わるいゴブリン小人とエルフたちの戦争や北のくににはじめて生まれた人間などの物語に出てくるのです。いま話しているこの物語の時代には、エルフと北のくにの人間の英雄たちとを先祖にいただく種族がまだ栄えていて、このやかたの主人エルロンドは、その種族の族長でした。  エルロンドは、エルフの殿にふさわしい貴さと美しい顔だちとをそなえ、英雄戦士らしい強さ、魔法使いらしいかしこさ、小人の王らしい神々しさ、夏の日のような明るいめぐみの心を持っていました。このひとは、昔のさまざまな物語にあらわれますが、ビルボの大冒険をのべるこの物語には、あまり出てきません。おわりまで読めば、たいせつながら端役で出てくるだけだということがわかるでしょう。エルロンドのやかたは、食べること、眠ること、働くこと、お話や歌をすること、ただすわって考えこむこと、そのそれぞれが好きな者にも、そのぜんぶをまぜこぜにするのが楽しいという者にも、だれにでも気にいられるところでした。いじわるや悪事は、この谷にはいりこみませんでした。  一同がこのやかたできいた物語の四つか五つ、歌の一つ二つでも、ゆっくりここに書き記すことができたらいいと思います。一同はみんな、小馬たちまで、四、五日のあいだに、元気をとりもどし、じょうぶになりました。着物もつくろってもらい、きずもなおしてもらい、心がおちつき、のぞみがよみがえりました。ふくろには、山ごえの持ちはこびにらくで長もちする食べものがつまりました。ドワーフたちの計画は、エルフたちのよい知恵をうけいれて、ねりなおされました。こうして、いつか六月二十三日、夏至の祭りの前の晩になりました。一同はそのあくる日の夏至の日の朝早く、出発することにきめました。  エルロンドは、あらゆる種族のルーン文字をことごとく知っていました。その晩エルロンドは、一同がトロルの岩屋から持ってきた剣をながめて、こういいました。「これはみな、トロルの作ではない。古い剣だ。いまはノウム(土鬼)と呼ばれている昔のあるエルフ族の、たいへん古い剣だ。そしてこれらは、あのゴブリン戦争の時にゴンドリンの町できたえられた。きっと、竜のかくした宝か、ゴブリンのぶんどり品のなかからあらわれたにちがいない。それは、竜たちとゴブリン小人たちがとおい昔にゴンドリンの町をほろぼしたことがあったからです。トーリンよ、あなたの剣は、ルーン文字でオルクリストと書いてあり、つまりゴンドリンの古い言葉で、ゴブリン退治という意味です。これは、天下の名剣だ。それからガンダルフ、あなたの剣は、グラムドリングつまり敵くだきという名で、ゴンドリンの王が昔さしていたものです。よくよくたいせつになさるように。」  「どこで、トロルが手にいれたものじゃろう?」と、新しい興味をかきたてられて、トーリンが自分の剣をしげしげとながめました。  「それはわからない。」とエルロンドがいいました。「だが、あなたのであったトロルたちが、この剣をうばってきた者たちから、ぬすんだのか、北のくにの山に住んでいた昔の山賊どものかくしたあとを見つけたのか、いずれとも考えられよう。わたしは、あのゴブリンとドワーフの戦争このかた、モリアの鉱山の掘らなくなった穴のなかにうずめた宝ものが、今でも見つかることもあると、きいておりますよ。」  トーリンは、その言葉について、深く考えたようでした。「命にかけてこの剣を守りましょう。」トーリンはいいました。「やがては、これがゴブリンを退治する日がくるように。」  「その願いは、近々のうちに、この山のなかで果されるでしょう。」エルロンドはこういいました。「ではつぎに、あなたの地図をおみせなさい。」  エルロンドは、地図を手にとって、長いことながめ、やがて首をふりました。このひとにとって、ドワーフたちのふくしゅうも、ドワーフたちが黄金をほしがっていることも、さんせいできないことでしたが、それ以上に竜のことは大きらいで、竜のむごたらしいあくどい性質をにくんでいました。エルロンドは、あの楽しく鐘のなりわたる谷間の町があれはてたさまや、美しい早せ川の両岸が焼けただれたさまを思いだして、かなしみました。おりから月が、銀色の大形の弓なりにさし出て、かがやきました。エルロンドは、はっとして地図を空にかかげ、地図のうらを月の白い光にすかしてみました。「や、これはどうだ。」とエルロンドがいいました。「入口ノ高サオヨソ一メートル半、ハバ三人ナラビテ歩ケルテイド、と書いてある、ふつうのルーン文字のそばに、月光文字でなにか記してあるぞ。」  「月光文字とは、なんです?」と、ホビットは、わくわくする気持ちをおさえかねて、たずねました。前にものべたように、ビルボは、地図が好きでした。その上、ルーン文字やそのほかのいろいろな文字やたくみな筆のあとが、好きでした。もっとも自分で字を書くと、どうもひからびて、クモのような字になるのですが。  「月光文字も、ルーン文字の一つです。だがこれは、ふつうでは見えない。」とエルロンドがいいました。「それは、月の光が裏から照りつける時にだけ、読めるのです。そればかりではない、まことに手のこんだくふうがしてあって、その文字を書いた時と同じ形の月、同じ季節の月がささなければ、だめなのだね。この文字を考えた者はドワーフで、ドワーフたちは銀のペンで書くのです。それはあなたのお仲間が、よく知っておろう。そしてこの地図の文字は、とおいとおい昔に、夏至の前の晩の、このような三日月の下で書かれたにちがいない。」  「なんと書いてありますか?」と、ガンダルフとトーリンが、いっしょにたずねました。ふたりとも、前に読める折がなかったわけなのに、いまここでエルロンドにはじめて読まれたことが、しゃくにさわるようすでした。このさきもこんな折がいつくるかわからないだけに、なおざんねんだったのでしょう。  「ツグミガタタクトキニ、クロキ岩ノソバニ立テ、」エルロンドが読みあげました。「でゅーりんノ日ノシズム日ノサイゴノアカリガ、カギアナニサシイルヲミヨ。」  「デューリンじゃと、デューリンじゃとな?」とトーリンがさけびました。「それは、ドワーフの二種族の一つ、長ひげ族のご先祖さまじゃ。わしのじいさまの血すじにあたるかたじゃ。」  「では、デューリンの日とは、いつですか?」と、エルロンドがたずねました。  「ドワーフ族のいわう新年の元日をいいますのじゃ。」とトーリンがいいました。「それはだれも知っているとおり、冬のとばくちにたつ秋のさいごの新月ののぼる日をいいます。その日、秋のさいごの月と日とが空にいっしょにかかるとき、それをわしらはデューリンの日と呼びますのじゃ。ところで、そうとはわかっても、その日がいつくるとあらかじめ知ることができない。このせつ、わしらのわざでは、その日をいいあてる力がないのじゃ。」  「さあ、それはどうかな。」とガンダルフがいいました。「そのほかに何か書いてありませんか?」  「この月の光で読めるのは、それだけです。」とエルロンドが、地図をトーリンにかえしました。さてそのあと、一同は、夏至の祭りのエルフたちの歌や踊りを見物しに、川べの方へおりていきました。  つぎの朝は、これほどの上天気はあろうかと思われるほどよくはれた、あざやかな夏至の日があけはなれました。青い空には雲一つなく、朝日は水の上にきらきらおどりました。一同は別れの歌と運をいのる声をあびて馬にのり、これからであう冒険を心にえがきながら、霧ふり山をのりこえて、そのさきのくににいたる道へ、教えられたとおりにふみだしました。 4 山の上と山の底  この山脈にはいりこむ道はたくさんあり、またこの山脈をこえる峠もいろいろありました。けれども、たいていの道は、どこにもいけないゆきどまりのだまし道でしたし、たいていの峠は、魔物や危険にふさがれていました。ドワーフたちとホビットは、さいわい、エルロンドがわかりよく教えてくれたおかげと、ガンダルフがよくおぼえていたせいで、よい峠へ出るよい道を進みました。  谷を出て山にはいって、「さいごの憩」館をはるかにあとにしてから、もう何日もたちますのに、一同はあいかわらず登りに登りつづけました。それは、つらいうえに危険な山道で、まがりくねった、さびしい、長い道でした。ふりかえれば、一同がたどってきた土地を、はるか下に見わたすことができました。西のかた、ずっと遠く、青くかすんでいるかなたをながめて、ビルボは、そこにあの、安らかさとこころよさのみちたふるさとがあり、自分の小さなホビット穴があるのだと思いました。ビルボは、身ぶるいしました。この高さではひどく寒くなり、風が岩をきって、ひゅうひゅうと鳴りました。そのうえ落石が、真昼の日で雪のとけた山はだを、がらがらところがり落ちて、(運よく)一同のあいだをかすめて通ったり、(きもをひやさせて)頭の上をこえていったりしました。夜は夜で、寒くてわびしいものでした。だれも大声でうたったり話したりする者がありません。なにしろ大声をだせば、山びこがおそろしくひびきわたって、山がその静けさを何からも乱されたくないかのようでした。静けさを破るものはただ、谷川の音、風のうなり、岩のぶつかるひびきばかりでした。  「夏のさかりは、下界だけだ。」とビルボは考えました。「草刈りがすすみ、ピクニックがある。それからみんなで、とりいれをやり、野イチゴつみにいくだろう。そのころわたしたちは、この進み方ではやっと、むこうがわへおりはじめるところだろうな。」ほかのドワーフたちもみな、うっとうしい考えにとりつかれていました。夏至の日の輝く朝、高いのぞみをだいてエルロンドにさよならをいった時は、だれもかれも山をこえる道のことをうきうきと話し、むこうがわのくにへさっさと馬をすすめるつもりになっていましたのに。一同は、はなれ山の秘密の入口につく時のことを考えていました。おそらくは秋のさいしょの新月ののぼる日──「それとも、デューリンの日に。」とみんなはいいました。ガンダルフだけは、うたがわしそうに首をふって、何もいいませんでした。ドワーフたちは、長年のあいだ、この道を通ったことがありませんが、ガンダルフはよく通りました。それでガンダルフは、どれほど魔物や危険が荒地のくににそだち、はびこるようになったかを、よく知っていました。むかし竜がこの土地から人間を追いだし、ゴブリンがモリアの鉱山を荒らしとったあとでこの山の中にひそかにいきおいをのばしていったために、ここは、おそろしい土地になっていました。ガンダルフのようなかしこい魔法使いや、エルロンドのようなりっぱなひとの考えてくれたよい計画があっても、荒地のくにのさかいをのりこえて、この危険なくににはいったがさいご、どうかすると道に迷うことがあるのです。ガンダルフほどになると、そこを承知していたのでした。  ガンダルフは、思いがけないことがおこるかもしれないと思っていました。りっぱな王がおさめていない、こんなさびしい峰々や谷々のつらなる大山脈をこえるのに、おそろしい冒険をなめずに通れると、虫のいいのぞみをもつことができませんでした。しかし、いままでは、うまくいきました。ところがある日、はげしい 雷 あらしにであいました。それは雷あらしというよりも、 雷 合戦といったものでした。ひらたい土地や川のある谷間で大雷雨にであったひとは、どんなに雷雨がおそろしいものかを知っているでしょう。ことに、その大雷雨が二つかちあってぶつかった時のものすごさは、それにであった者でなければわかりません。ところがそれよりもっとおそろしいのは、夜の山でであう雷と稲光で、あらしが東と西からやってきたのが、山でぶつかって、たたかいになった場合です。稲光が峰々をたちわり、岩がことごとくふるえ、はげしいとどろきが、空中をびりびりにつんざいて、ころがっていき、穴という穴、うつろといううつろにおどりこんでいきます。そして夜のやみが、あらゆるものをうちしたがえる音のひびきと、くるいきらめく光の世界になります。  ビルボはいままで、このようなものを見たことも想像したこともありませんでした。一同は、片がわが暗い谷におちこむ、目のくらむようながけになった、せまい足場に集まっていました。そこに、おおいかぶさった一枚の岩があって、その下に一晩をすごそうと、ビルボは一枚の毛布をかぶり、頭のさきから足のつまさきまで、ぶるぶるふるえてねていました。稲光のひらめくおりに、顔をつき出してあたりをながめますと、谷間から石の巨人たちが出てくるところで、石の巨人たちはたがいに岩をぶつけあい、取りあい、さては岩をやみのなかにほうりこんで遊んでいました。なげられた岩は、はるか下の木々のむれにとびこんでくだけたり、ひどい音をだしてこまかくわれてとびちったりしました。そのうちに風と雨が加わりました。風は雨とあられを四方にふきなぐりましたから、つき出した岩の下にいても、なんにもなりません。たちまち一同はびしょびしょにぬれました。小馬たちは、首をたれ尾を足のあいだにいれておびえ、いく頭かの馬は、おそろしさのあまりにいななきつづけるありさまでした。一同の耳には、巨人たちが山じゅういたるところでげらげら笑ったり、わんわんどなったりするのがきこえました。  「ここにはいられない!」とトーリンがいいました。「吹きとばされるか、水びたしになるか、 雷 にうたれるか、さもなければあの巨人たちにつまみあげられ、フットボールにされて空高くけとばされてしまうわい。」  「それなら、どこかよい場所を見つけてきなさい。いつでもひっこすから。」とガンダルフもいいました。このひともむかっぱらをたてていましたし、巨人のこともやりきれなかったのです。  いろいろいいあいをしたすえに、一同はフィーリとキーリをやって、もっとよいやどりの場所を見つけさせることにしました。このふたりはたいへん鋭い目をもっていて、ほかのドワーフたちよりも、五十歳ぐらいは下の、いちばん若い連中で、ふだんからこういうことをしていました(ビルボをやっても役に立たないとわかっている場合です)。さて、何かよいものを見つけようと思った場合、見かけだけではいけません(トーリンも若いドワーフたちにそういっていました)。さがせば、なにかかならず見つかりますが、ほしいと思っているものでないことがよくあります。この場合がそうでした。  すぐにフィーリとキーリが、地面をはって、風にとばされないように、岩にしがみついて帰ってきました。「ぬれていない洞穴を一つ見つけました。」とふたりが知らせました。「つぎのまがり角をまがってすぐのところです。小馬たちもみんないれられます。」  「なかをすっかりしらべあげたかな?」と魔法使いがたずねました。ガンダルフは、山の洞穴には何も住んでいないことがめったにないことを、心得ていました。  「ええ、しらべてきましたとも。」とふたりが答えました。けれどもよくしらべあげたにしては早くもどりすぎたもので、たいして手間をかけたと思えませんでした。「そんなに大きな穴じゃないんです。おくの方にひろがっていません。」  いうまでもなく、これが洞穴のあぶないところなのです。時によると、おくの方がずっとひろがっていて、それをたどるとどこへ出るのかわからなかったり、なかに何がまちぶせしているかもわからないことが多いのです。けれども、いまはフィーリとキーリのしらせが、だいじょうぶだと思われました。そこで一同は起きあがって、引越しをするしたくをしました。風はうなり、 雷 もまだ鳴っていましたが、そのなかで一同は、小馬たちをつれて引越しにかかりました。あまり遠くないところで、すこしいくと、道につき出ている大岩にさしかかりました。その岩のうしろにまわると、山がわに、弓なりにあいた低い穴が見えました。荷物をおろし、鞍をはずせば、馬たちがどうやら通れる広さでした。その入口をくぐって通りぬけると、いままでさらされていた雨風を音としてきくだけになり、巨人たちからもその岩なげからものがれた気がして、一同はようやくほっとしました。けれども、魔法使いだけは気持ちをゆるめません。ガンダルフは、その杖のさきにあかりをともしました。もうずいぶん昔のことのような気がしますが、あの日ビルボの家の食堂で魔法使いが、杖にあかりをともしたことを、みなさんはおぼえているでしょうか? そのあかりで一同は、洞穴をくまなくしらべました。  洞穴はかなりの広さがあるようでした。けれども広すぎもせず、ふしぎなところもありませんでした。雨にぬれない地面と、らくにからだがのばせそうなおくがありました。小馬たちをまとめておける片すみもありました。そこに立って、馬たちは、からだからゆげをあげながら(おちついたことをひどくよろこんで)首にさげたふくろのえさをむしゃむしゃ食べていました。オインとグローインは、着物をかわかしたいから、洞穴の入口に焚火をおこそうといいました。けれどもガンダルフは、ききいれませんでした。そこで一同は、ぬれたものを地面にひろげ、荷物のなかからかわいた着物を出してきました。それから毛布をひろげてくつろぐと、パイプをすって、さまざまな煙の輪をはきだしました。ガンダルフなどは、みんなの心をひきたてるために、輪をいろいろな色にかえてみせ、天井にぴょんぴょん踊らせてみせました。みな、おおいにしゃべりまくりました。そして嵐を忘れて、もし宝をとりもどしたら(もうこの時は、とりもどすことがそうむずかしくないように思えていました)、ひとりびとりにどうわけたらいいかを熱心に話しあいました。それからひとりずつ、眠りにおちていきました。ところが、これが、小馬やいっしょに持ってきた荷物や包みや手まわり品や道具などの、みおさめになったのです。  あとからみますと、小さなビルボをつれてきたことが、その晩さいわいになりました。それというのも、どういうわけか、ビルボはその晩しばらく寝つかれず、やっと眠ったと思うと、とてもいやな夢を見てしまいました。その夢は、洞穴のうしろの壁のわれめが、だんだんに大きくなり、だんだんに広くひらいてきて、おそろしいのに、じっと横になってながめるだけで、声もたてられず、動きもできません。するとまた、夢のなかで洞穴の床がくずれおちて、どこともしれず、下へ下へと、からだがすべりおちていくのです。  これでビルボは、おそろしさのあまり目がさめました。すると、夢の一部がほんとうなことが、わかりました。洞穴のうしろがわが、ぽっかりぬけて、広いトンネルになっていました。そしてちょうど、トンネルのなかに小馬たちの尻尾のさきが消えていくところを、見てとってしまったのです。ビルボは、もちろん、大きな金切声をあげました。ホビットは、小さいわりにびっくりするほど大きな声がでるのですが、それにしてもこれは大声でした。  すると、ゴブリン小人たちがおどり出してきました。大きなゴブリンども、みにくい顔のゴブリンども、たくさんのゴブリンどもが、いろはにほへとというひまもなく、むらがり出てきました。ひとりのドワーフに、すくなくとも六人のゴブリンがとびかかりました。ビルボにたいしてさえ、ふたりのゴブリンが向かってきました。こうして一同はみなとらえられ、われめを通っておくへ運ばれました。そのあいだ、ちりぬるをわかというひまもありませんでした。ただ、ガンダルフはちがいました。ビルボのさけび声が役に立ったというのは、そこのところです。そのさけび声が、ほんのつかのまに、ガンダルフをしゃんとめざめさせました。ゴブリンどもがガンダルフをつかまえに来た時には、洞穴に稲光のようなおそろしいひらめきが走り、火薬のようなにおいがして、ゴブリンたちのなん人かが、たおれ死にました。  われめは、ばたんととじました。ビルボとドワーフたちは、もとの洞穴とちがう穴に来てしまいました。ガンダルフは、どこにいるのでしょう? それは、一同ばかりでなく、ゴブリンたちにも見当がつきません。それにゴブリンは、ガンダルフをあくまで見つけようとしませんでした。ビルボとドワーフたちをとらえて、いそいでひきたてていきました。どんどん深く深くなり暗くなりました。山のおく底でくらしてきたゴブリンにしか見通せない暗さでした。道はあらゆる方向にわかれたりまじったりして、もつれていますが、ゴブリンたちは、ゆくてをよく知っていました。道はひたすら下へおりていき、たいそう息苦しくなりました。それでもゴブリンたちはまるで平気で、情けようしゃなくひっぱっていき、ゴブリンらしいぞっとするほどつめたい声でへらへら笑ったり、大声で笑ったりしました。それをきくとビルボは、トロルに足のうらをもってぶらさげられた時よりも、まだふゆかいな気持ちになりました。ビルボはまたしても、きれいで明るい自分のホビット穴が恋しくなりました。でもこのことは、これがさいごではありませんでした。  ようやくゆくてに、赤いあかりがちらちらさしはじめました。ゴブリンどもは歌をうたいはじめ、いや、がなりはじめました。そして石の上をひらたい足でぴしゃぴしゃ調子をとって、とらわれ人たちをぐいぐいゆすりました。 バタン、ドシン、黒い穴とじろ! ギュウギュウねじれ、つかまえろ! 地下へどしどし、おりていけえ! ゴブリン町へ つれていけえ! ガラン、ズシン、ばちでもつちでも、 手にしてたたけ、うちならせ! にくいやつらを うちのめせ! 地下のどん底へ つれていけえ! ビュービュー、ピシリ、むちならせ! なぐれ、たたけ、わめかせろ! 仕事だ、仕事だ、なまけるな! ゴブリンさまが 酒のむま、 ゴブリンさまが 笑ううち、 まわれ、まわれ、地下ふかく!  歌声は、まことにおそろしいひびきをよびました。あたりの壁は、「バタン、ドシン」とか「ガラン、ズシン」とかうたうたびに、がんがんとこだまをかえし、うたって笑うたびに、みにくい笑い声をかえしました。歌の文句は、きくまでもなく明らかでした。というのは、うたいながらゴブリンたちが、むちをとりだして、「ビュービュー、ピシリ」と一同にむちをあて、できるだけの速さで走らせていたからです。おまけに、いく人かのドワーフ小人たちが、歌の文句どおり泣きわめきました。こうして一同がころがりこんだのは、一つの大きな穴ぐらの広間でした。  そのまんなかには、大きな赤い焚火がもえており、まわりの壁にはたいまつがかかげてあって、ゴブリンどもがいっぱいいました。満座のゴブリンが笑って、足をふみならし手をたたいて、走りこんでくるドワーフたち(そのおしまいに、かわいそうにビルボがいて、おかげでむちのいちばんそばでした)を、むかえました。ひったて役のゴブリンたちはそのあとから、ドワーフたちをどなりつけ、むちをならしてはいってきました。小馬たちはもう、すみの方にごたごた集められていました。そしてそこらに、荷物や包みがすっかりひきさかれて、あらゆるゴブリンたちにひっかきまわされ、かぎまわされ、ひねりまわされ、ちぎりさられておりました。  おそらく、あのりっぱな小馬たちは、これがこの世の見おさめだったでしょう。エルロンドがガンダルフの馬は山道にむかないからといって貸してくれた、すごくじょうぶな小さい白馬までも、そのなかにはいっていました。それは、ゴブリンたちが、馬でも小馬でもロバでも(そのほかどんないやらしいものでも)食べますし、いつもおなかをすかしているからです。けれども、この時、とらわれ人たちは、馬のことよりも自分たちのことばかり考えていました。ゴブリンたちは、ドワーフたちをうしろ手にくさりでしばり、一列につないで、その穴ぐらのいちばんおくにひいていきました。ビルボはその列のおしまいに、ひっぱられていました。  そのおくのくらがりの大きなひらたい石の上に、ひとりのばかに頭部の大きいおそろしいゴブリンがすわっていました。よろいを着たゴブリンたちがそのまわりに立ちならんで、みな、戦の斧と、ゴブリンの使う弓なりにまがった刀をもっています。もともとゴブリンは、ざんこくで、腹黒くて、しんから悪いやつらです。美しいものを作りだせないくせに、手さきはかなり器用です。いちばんじょうずなドワーフにはかないませんが、とにかくドワーフなみにトンネルを掘り、鉱山を掘ります。もっとも、ふだんはそんなに働かないで、だらしがなくて、よごれほうだいです。つちに斧、剣に短刀、つるはしにやっとこ、そのほかの武器や、ひとをいためる道具などを、ゴブリンたちはけっこうじょうずに作りますし、ほかの者を使って思いどおりに作らせることもあります。ほかの者というのはつかまえた者や奴隷たちで、空気と光がたりないで死んでしまうまで、働かされるのがきまりです。ゴブリンたちが何かのしかけを発明して、そのために後の世にわざわいをまいた例も少なくありません。たとえばとくに、一どきにたくさんの人々をみな殺しにするたくみなくふうがいろいろありました。それというのも、歯車や機械じかけや火薬がもともと大の好物だったばかりか、なるべく手を使わないですむ点からも気にいっていたからです。もっとも、この物語の時代に、こんなやばんな山のなかで、ゴブリンどもが、大砲まで作るほど「進歩」(とよばれていますが)しては、いなかったのです。ゴブリン族はとくべつにドワーフ族をにくんでいたわけではありませんでした。ただゴブリンたちは、何でもにくみ、なかでも、きちんとした正しい者や、りっぱに栄えている者をみると、むかむかするのです。ドワーフ族のなかでも、悪いドワーフたちとは、仲間づきあいをしているくらいでしたが、このゴブリンたちはトーリンの一族には、ことさらなうらみをいだいていました。この物語のなかにはあつかいませんが、前に名まえを出した、あのゴブリン戦争のことからです。それにとにかく、にげだせないとわかっている時に、手ぎわよくこっそり、つかまえることができれば、ほりょがだれでもかまわないのでした。  「このなさけないものどもは、なにやつじゃ?」と、大ゴブリンがたずねました。  「ドワーフどもと、こんなやつで!」と、つれてきたゴブリンのひとりが、ビルボのくさりをぐいとひきましたので、ビルボは前にのめって、ひざをつきました。「わたしどもの玄関の間で寝ているのを、見つけましたので。」  「そこにはいって、何をした?」と大ゴブリンがトーリンにむかってたずねました。「悪いことを、たくらみおったにちがいない。さては、わがともがらの秘密をさぐりにきおったな。いや、ぬすっとどもだと正体がわかっても、おどろかん。あるいは、人ごろしで、エルフどものみかたとにらんだが、まちがいあるまい。さあ、きりきり、申せ。」  「ドワーフのトーリン、よろしく!」とトーリンは、形ばかりていねいに、そう答えました。「あなたが思いつかれたようなことを、わしらいささかも考えておりませぬ。あらしをさけてやどるため、だれもおらぬ、てごろな洞穴とみて、はいったばかり。どのみち、ゴブリンの方々のじゃまをするつもりは、これっぱかりももちあわせござらぬ。」それは、まったくほんとうでした。  「ふむ!」と大ゴブリンがいいました。「いいおったな。ではたずねるが、きさまたちはこの山にのぼって何をしておった? いったいどこから来て、どこへいく? とにかくきさまたちのことをあらいざらい申したてろ。もっともわけがわかったからといって、助けるわけにはいかんぞ、トーリン・オーケンシールド。きさまたちのことはもう山ほど知っておる。だがほんとうのことを申せ。さもないと、きさまたちをかくべついたいめにあわすぞ。」  「わしらは、おい、めい、いとこ、はとこ、またいとこ、そのほか祖先のわかれさきの人々をたずねにいく旅のとちゅうでござる。その親類たちは、このまことにもてなしのよい山の東がわに住んでおりますのじゃ。」とトーリンは、でたらめをいいました。ほんとうのことをいっても役に立たないし、とっさにいいわけが思いつけなかったのです。  「うそつきでございます。とんでもないうそつきやろうでございます!」と、ひったて役のひとりがいいました。「下に案内しようというまに、こいつらに、わたしどもの仲間があの洞穴で 雷 にうたれて、石のように死んでしまいました。その上、これを持っているわけも申しひらきいたしません!」そのゴブリンは、トーリンがトロルの岩屋からとってきてつけていた剣を、さしだしました。  大ゴブリンは、これを見ると、しんからおそれにうたれた、いかりのうめき声をあげ、いならぶ兵士たちもみな、歯をくいしばり、盾をうち、足をふみならしました。ゴブリンたちは、すぐさまその剣を見わけたのです。それは、ゴンドリンのよいエルフたちが山のなかでゴブリンたちを追ったり、その町のかこみの前で戦いをしたりしたむかし、何百何千のたくさんのゴブリンを殺した名剣です。エルフたちは、剣をオルクリスト、つまりゴブリン退治とよんでいましたが、ゴブリンたちはこれをただ、「かみつき丸」とよびました。そしてこの剣をにくみ、この剣を持った者をにくみました。  「やはり人ごろしで、エルフのみかたじゃ!」と大ゴブリンはどなりました。「こやつらをむちうて、なぐれ、かみつけ、くいつけ! へびどもばかりの暗い穴につきおとして、二度とあかりを見せるな!」大ゴブリンは、いかりのあまり、石の座からとびおり、口をかっとあけて、トーリンめがけて走りかかりました。  おりもおり、洞穴のあかりがことごとく消え、大焚火はぱっと消えて、青くかがやく煙の柱になり、まっすぐ天井にのぼって、そこでぱらぱら白い火花となって、ゴブリンたちの上にふりかかりました。  さけび、うなり、うらむ声、早口、なげき、のろい、うめき、ひしひしなく声、きゃっとたまげた声、そのさわぎはとてものべることができません。何百という山ネコとオオカミがいっしょになって、生きたままゆっくりと火であぶられても、これほどひどくはなかったでしょう。火花は、ゴブリンたちのあちこちに火をつけてこんらんさせ、天井からおりてきた煙は、すかして見えないくらい、あつくこもりました。そのうちに、ゴブリンたちはたがいにつまずいて、地面に重なりあってころげると、みんなわけがわからないまま、かむやら、けるやら、なぐるやらのありさまになりました。  その時とつぜん、剣が一ふり、ぴかりと光りきらめきました。ビルボは、剣の動きを見ました。剣は、いかりにかられてものもいえずにつっ立っていた大ゴブリンを、ずばりと切りおとしました。大ゴブリンはたおれて、死にました。まわりの兵士たちは、あらそって剣の前から、金切声をあげてやみのなかへにげていきました。  剣はさやへおさまりました。一つの声が「早くわしについてこい!」と低くはげしくいいました。ビルボは、何が何やらわからぬまま、できるかぎり早く、ドワーフの列のおわりについて、さらに暗い方へにげていきました。うしろでは、広間のさけび声がしだいにかすかになりました。一点の青白いあかりが、一同をみちびいていました。  「もっと早く、もっと早く!」と声がいいました。「やつらのたいまつが、じきつくぞ!」  「ちょっとまってください!」とドーリがいいました。このやさしいドワーフは、ビルボのすぐ前を走っていましたが、その時しばられた手をできるだけうまく使って、ホビットを自分のせなかにかきあげてやりました。それから一同は、くさりをがちゃがちゃならしつつ、手をつながれて調子がとれないためによろめきながら、ひた走りに走りました。長いあいだ、一同は足をとめませんでした。かれこれ山のいちばんおく底についたにちがいありませんでした。  その時ガンダルフが、杖にあかりをつけました。もちろんあの声はガンダルフでした。それでも一同はあまりに気がせいていて、どうしてガンダルフが来られたかをたずねるひまもありませんでした。ガンダルフはふたたび剣をぬきはなちました。剣はふたたびやみのなかで光りました。この剣は、あたりにゴブリンがいると、いかりにもえて、ぎらぎらかがやくのです。それは今、洞穴の主を殺したよろこびにもえて、青いほのおのようにもえ光っていました。いまこの剣をふるって、ゴブリンのくさりを切りおとし、とらわれ人のドワーフたちをときはなすことなど、なんのぞうさもありませんでした。剣の名は、まえにいったとおり、グラムドリング、つまり敵くだきというのですが、ゴブリンたちは、「なぐり丸」とよんで、「かみつき丸」よりおそろしがっていました。「かみつき丸」のオルクリストの剣も、ぶじでした。ガンダルフが、びっくりしていた護衛兵のひとりから、その剣をひったくって、持ってきたのです。ガンダルフは、深いちえがあって、たいていのことを思いめぐらします。思ったことを全部やってのけることはできませんが、どうにもならない友だちのためには、どえらいことをなしとげます。  「みんな、おるかな?」とガンダルフは、一礼してトーリンにその剣を手わたしながら、いいました。「かぞえてみよう──ひとり、これはトーリンじゃな、ふたり、三人、四人、五人、六、七、八、九、十、十一人、フィーリとキーリはどこじゃ? おったな、十二、十三人。おお、バギンズ君もおるな、これで十四人。よろしい。いままで悪いことだらけじゃったかもしれぬが、これからはよくもなろう。とにかくいまは、小馬もない、食べものもない、どこにいるのかまるっきりわからない。おまけに、すぐうしろには、いかりくるったゴブリンの大軍じゃ。進もう!」  一同は進みました。ガンダルフのいうとおりでした。一同は、とおりすぎてきた道のかなたに、ゴブリンのもの音とおそろしいさけび声をきくようになりました。そこで一同はますます、むちゅうで足を速めました。あわれなビルボには、その半分もおいつけない速さでした。ドワーフというものは、必要とあれば、一っとびにとほうもない歩はばでとばせるのです。ドワーフたちはビルボをじゅんばんにせなかにおぶって、とばしました。  しかしゴブリンの方が、ドワーフよりもっと足が速いし、ここのゴブリンどもは道をよく知っています(自分たちでくりぬいた道ですもの)。おまけにめちゃくちゃにおこっていました。ですから一同は、しだいしだいにせまってくるさけびやうなりをきくようになりました。そしてまもなく、例のゴブリンのぴたぴたたたく足音まできかれました。それはおびただしい数で、もうすぐそこのまがりかどをまわってくるかと思われました。やがて赤いたいまつのまたたきが、トンネルのうしろのやみのなかに見えはじめました。その上、一同は、くたくたにくたびれてきました。  「ああ、どうして、いったいどうして、わがホビット穴をすててきたんだろう!」と、あわれなバギンズ君が、ボンブールのせなかでぴょんぴょんとはげしくはずみながらいいました。  「ああ、どうして、いったいどうして、いまいましいこんなホビットを、宝さがしにつれてきたんだろう!」と、あわれなふとっちょのボンブールは、あつさとおそろしさのために汗をはなさきからぽたぽたたらしながら、よろめいて走っていました。  このとき、ガンダルフはみんなのあとにまわりました。トーリンもいっしょでした。一同は急なまがりかどをまがりました。ガンダルフがさけびました。「むきかわれ! トーリン、その剣をぬけ。」  これよりほかに、うつ手がありませんでした。けれども、これこそ、ゴブリンの何よりいやなことでした。ゴブリンたちが、わめきながら、あわててそのまがりかどをまがってくると、ゴブリン退治と敵くだきが、ゴブリンたちのはっと見はった目の前につめたく光りかがやいていたのです。前の方の者たちは、たいまつをおとし、一声たてて殺されました。そのうしろの者たちは、もっと大きなさけび声をあげてあとずさりして、つめかけてきた者たちにぶつかりました。「かみつき丸となぐり丸だ!」とゴブリンたちはどなりました。するとたちまち、みんなが大さわぎにおちいりました。ほとんどの者が、いま来た方へ大あわてでにげだしました。  ゴブリンたちがかどをまがってこられない、かなりのあいだができました。そのあいだにドワーフたちは、ふたたび道を急ぎました。ゴブリンのくにの暗いトンネルがつづく長い長い道でした。ゴブリンたちはにげたあとを見つけて、たいまつを消し、やわらかい靴をはいて、いちばん目と耳のきく、その上いちばん足の速い者をえらびだしました。走り手たちは、やみ夜のイタチのようにすばやく、コウモリよりも音をたてずに、あとをおいました。  ですから、ビルボにも、ほかのドワーフにも、またガンダルフにさえ、ゴブリンたちのせまる足音がききとれなかったのです。すがたも見えませんでした。ところがゴブリンたちの方では、ぴったりあとについて、音もたてずに走っているので、ドワーフたちをすっかり見ていました。ガンダルフは、ドワーフたちが走れるように、かすかなあかりを杖のさきにともしておいたのですから。  まったくだしぬけに、ビルボをせなかにかつぐ番になっていたドーリが、うしろのやみのなかから、ぐいとつかまれました。ドーリはきゃーとさけんで、たおれました。その時、ホビットはドーリの背から、くらやみのなかにころがりおち、かたい岩で頭をうって、なにもわからなくなりました。 5 くらやみでなぞなぞ問答  ビルボが目をあけた時、目をあけたのだろうかとふしぎに思いました。というのは、目をとじているのとおなじように、そとがまっくらだったからです。そして、あたりに、だれもおりません。そのおそろしいこと! なにもきこえません。なにも見えません。地面の石のほかには、なんにもさわりません。  のろのろとおきあがると、ビルボは前後左右を手さぐりして、ようやくトンネルの壁にふれました。けれども前の方にもうしろの方にも、なにも見つかりません。なにもいないのです。ゴブリンのすがたも、ドワーフのかげも、見えません。頭はまだぐらぐらしました。自分がたおれた時にみんながどっちにむかって行ったかという方向がわかりません。いっしょうけんめいに考えて、こちらと思う方へかなりはい進んでいきますと、ふとその手が、トンネルの地面に落ちていた、つめたい金属のごく小さな指輪のようなものを、さぐりあてました。これこそ、ビルボ・バギンズの運のわかれめだったのですが、ビルボはそうと知りません。なんの考えもなく、ひょいとその指輪をポケットにいれました。特別な使い方があろうと思わなかったのです。ビルボは、そのさき一歩も動かず、つめたい地面にすわりこんで、ずいぶん長いあいだ、世にもみじめな思いにうちのめされていました。わが家の台所でベーコンに卵をおとしてこしらえるところが思いだされました。おなかの調子では、いまはぜったいにごはんの時間です。それを思うと、ますますみじめな気がしました。  ビルボは、どうしていいのかがわかりませんでした。どういうことがおこったのか、なぜ自分だけとり残されたのか、またとり残されたのになぜゴブリンたちがつかまえなかったのか、──何もかもわかりませんでした。自分の頭がどうしてこんなにずきずきいたむのかさえも、わかりません。わかっているのは、目も見えず、心もはたらかず、まっくらやみのかたすみで、長いことじっと寝ていることだけです。  しばらくして、ビルボは、パイプをさぐってみました。こわれていません。これはたいしたことです。さらに、タバコ入れをさわりました。そのなかに、いくらかタバコがはいっていました。これはますます、たいしたことです。ついでにマッチをさがしましたが、これはありません。これで、せっかく高まってきたのぞみがぺちゃんこになりました。おちついて考えてみれば、その方がよかったのです。マッチをすって、タバコを一服すれば、その音、そのにおいで、このおそろしい場所の暗い穴のなかにどんなことがおこったかしれません。しかしそれで、ビルボもすっかりまいりました。けれどもあるだけのポケットをすばやくさぐり、身のまわりをあちこちさわって、マッチをさがしているうちに、その手が、小さな剣のつかにふれました。トロルのところからとってきた短剣です。それをいままで忘れていたのです。ズボンの下にしのばせてあったために、ゴブリンたちも気がつかなかったのでしょう。  ここでビルボは、短剣をひきぬきました。刀は目の前に青白くかすかに光りました。「これもやっぱり、エルフの剣だな。」とビルボは思いました。「この光り方では、ゴブリンたちはあまりそばにいないが、すっかりいなくなったわけではないぞ。」  けれども、何となくビルボはほっとしました。あれほどかずかずの歌にうたわれたゴブリン戦争のためにゴンドリンで作られた剣を、こうして身につけているのは、すばらしいことでした。その上、こういう名剣がとつぜん自分たちをおそったゴブリンたちに、はげしいおどろきをあたえることにも気がついていました。  「うしろへいくか? けしからん。横へいくか? できないそうだん。まえへいくか? それだけだ。いざ進もう。」ビルボはそういって、立ちあがり、小さな剣を一方の手でまえにつきだし、一方の手で壁にさわり、心ぞうをどきどき高ならせながら、まえへ歩きだしました。  さて、いまビルボは、よくいわれるのっぴきならないところに、さしかかっていました。のっぴきならないといったところで、わたしたち人間とはまるでちがいます。ゴブリンのトンネルとくらべものにならないくらい、ホビット穴が気持ちのいいきれいな場所で、空気がよく通うといっても、ホビット小人は、もともと穴の中に住むことになれていますし、地面の中で方角をきめるかんが、めったにくるうこともありません。頭をうって、わからなくなった場合は、しかたがありませんが……。それに、ホビットたちは、音をたてずに動いたり、身軽にかくれたりできますし、うちみやきりきずをうけてもおどろくほどなおりが早いのです。おまけに、人間などのきいたことのない、とうの昔に忘れさられてしまったような、いいならわしやかしこいことわざをたくさんおぼえているものだったのです。  いくらそうでも、わがバギンズ君のようなめにあっては、たまりません。トンネルははてしがないように思われました。わかることといえば、どんなにいっても道が下へ下へおりるのと、ちょっとばかりうねったり、おれたりはしても、あくまで同じ方向につづいていくことばかりです。ときどき、横の壁にわき道ができています。ビルボは、剣の光でちらりと見たり、壁をさわる手で感じたりしました。けれどもビルボは、見むきもしません。なにしろゴブリンがおそろしくて、ゴブリンや何かのばけものが暗いわき道からでてきはしないかと思うものですから、大いそぎでした。さきへさきへ進み、下りに下りました。あいかわらず、なんの音もきこえません。時たま耳もとでコウモリがとびまわる音にびくりとさせられましたが、それもたび重なるうちに平気になりました。こうしてどのくらい長いあいだ、ビルボが道をおりていったでしょうか。あまりどこまでもつづくので、さきへいくのがいやになりながら、ひきかえすこともできず、どんどん進んで、とうとう、ビルボはくたくたにくたびれてしまいました。この道はまるで、あすもあさっても同じようにつづくと思われました。  するといきなり、なんのまえぶれもなく、ビルボは、水のなかにぽちゃり! とふみこんだではありませんか! ひゃー! 氷のようにつめたい水です。ビルボは、すばやくからだをひきあげました。道にたまったただの水たまりなのか、道を横ぎる地下水の川のふちなのか、それとも深い暗い地底の湖のみぎわなのか、ビルボにはまるでわかりません。剣はもうほとんど光りませんでした。ビルボは、立ちどまって耳をたててききますと、ぽたん、ぽたんと、見えないしずくが見えない天井から見えない水の上へおちる音を、きくことができました。でも、そのほかには、なんの音もしないようです。  「ではこれは、池か湖だ。地下水の流れではないな。」とビルボは思いました。それで、くらやみのなかへふみこむ気にはなりませんでした。ビルボは水に泳げません。それに、眼がみえなくなった大きな出目金の、気味のわるいぬらぬらした魚が、こんな水のなかにうごめいていることも、ビルボは思いだしました。山の底の池や湖には、ふしぎなものが住んでいます。眼のみえない魚は、むかしむかし、どれほど昔かわからないくらい昔に、その先祖の魚がそこに泳ぎこんで、それきり出ていかなかったもので、そのあいだに魚の眼は、まっくらのなかを見ようとするあまりに、だんだんに大きく大きくなっていったのです。また魚よりもぬるぬるしたへんなものもいます。ゴブリンが自分たちの住処として作ったトンネルのなかでさえ、ゴブリンの気のつかない生きものがいますが、みな外からはいってきて、くらやみに住みついたのです。山のなかの洞穴には、ゴブリンが住みつくずっと昔にできていて、ゴブリンたちがその洞穴をきりひろげたり、ほかの道を作ってつなげたりしたものもありますが、そんな古い穴にはいまだに、その洞穴のもとの主のようなものが、だれも知らないすみっこにいて、こっそり動きまわったり、かぎまわったりしていることがあるのです。  深い地のおくの、この暗い水のほとりに、年よりのゴクリというものが住んでいました。これがどこから来たのか、だれなのか、どんなやつなのか、なにもわかりません。それはただ、ゴクリでした。二つの丸くて青い大目玉をのぞけば全身くらやみのようにまっ黒でした。ゴクリは、船を一そう持っていて、湖の上をごく静かに静かにこぎまわります。つまりここは、広く深く、その上おそろしくつめたい湖でした。ゴクリは、両がわへぶらんとつき出た大きな足で船をこぐのですが、けっしてさざなみはたてません。青ランプのような眼をつきだして、魚をねらい、見つけると頭で考えるより早く、長い指でつかまえています。ゴクリは、肉も好きでした。ゴブリンをつかまえると、ゴブリンもうまいと思います。もっともゴクリの方では、けっしてゴブリンに見つからないように用心をしていました。ゴブリンたちが湖の岸ちかくにおりてくれば、そっと歩いていって、うしろからのどをしめてしまいます。でも、ゴブリンは、めったに来ませんでした。ゴブリンたちも、山のおく底のどんづまりに、何かきみのわるいものがひそんでいると感じていたからです。ゴブリンたちは、大昔にトンネルを下へ掘っていくうちにこの湖につき、湖のさきに行けないことがわかりました。それでこの方面ではトンネルがこの湖で終わっているのです。大ゴブリンがこの湖から魚をとってこいと気まぐれを思いつくこともありましたが、つりにやったゴブリンたちも、魚も、大ゴブリンのところへもどらないことがしばしばでした。  いつもはゴクリは、湖のまんなかにあるぬるぬるした岩の島の上に住んでいました。ゴクリはいま、望遠鏡のような青い目を使って、遠くからビルボを見つめていました。ビルボはゴクリを見ることができません。ゴクリはビルボのことをしきりになんだろうと考えていました。ビルボがゴブリンでないことだけはわかりましたから。  ゴクリが船にのって、島からこぎだすあいだ、ビルボの方はすっかりこんらんして、ゆくてもちえもつきはて、岸にすわりこんでいました。そこへいきなりゴクリがやってきて、シューシューいう声でむこうからささやきました。  「しゃー! してきだこと! いとしいしとよ。よりぬきのごちそうかよ、それとも、おいしい一口りょうりかよ、ゴクリ!」このゴクリという音は、のどもとをはげしくならしてつばきを飲みこむ、ぶきみな音でした。このために、このものはゴクリという名がついたので、ゴクリは自分のことを、「いとしいしと(ほんとは、ひと)」とよんでいるのです。  ホビットは、耳もとでシューシューいうささやき声をきいて、心ぞうが口からとびだすほどびっくりして、とびあがりました。そしていきなり、自分のほうへつき出した青い目玉を見ました。  「あんたは、だれだ?」と、ビルボは、身のまえに短剣をかまえて、たずねました。  「し、し、あいつは、だれだ? いとしいしと!」いつもほかに話しかける相手がいないので、ゴクリは自分にむかってひとり言をいうくせがついていましたから、こうささやきました。じつは、ビルボが何なのかを知りたくて、出かけて来たのです。この時はちょうどおなかがあまりすいていなくて、ただ知りたい気持ちが強かったからですが、さもなければ、さきにビルボをつかまえて、あとからささやいたことでしょう。  「わたしは、ビルボ・バギンズです。ドワーフたちにはぐれてしまいました。魔法使いにもはぐれてしまいました。ここはどこなんでしょう? いや、それよりも、どうしたら、ここから出られるでしょうか?」  「し、し、手に持っているのは、何かよ?」と、ゴクリは、剣をながめて、剣のようすが気にいりませんでした。  「剣です。ゴンドリンでできた刀です。」  「し、し、さようでしか。」とゴクリは、ていねいになりました。「もうしばらくおとどまりになって、ちっとおしゃべりしませんかい? いとしいしと。なぞなぞはどうでしかい? おしきでしょうな?」ゴクリは、ともかくこの時ばかりは、いやにやさしくなれなれしくみせようと、気を使いました。そして、剣とホビットのこと、こいつがほんとにひとりなのか、味がいいか、自分がほんとにおなかがすいているか、ということがもっとわかるまで、やさしくみせかけておくつもりなのでした。そしてこのゴクリの考えることといったら、なぞなぞばかりでした。なぞなぞを考えだして、それをあてるのが、むかしむかしの大昔に、ゴクリのへんてこな仲間といっしょに穴のなかで遊んだ時のただ一つの気ばらしの遊びでした。そしてそののちゴクリは、その仲間ぜんぶと死にわかれ、ただひとり、追われ追われて、山のおく底のくらやみに、しだいしだいにもぐりこんでしまったのでした。  「たいへんけっこうですね。」とビルボの方も、とにかく相手の気をそらすまいとして、いっしょうけんめいでした。このものがほんとにひとりきりなのか、こわいやつか、はらがへっているか、ゴブリン小人のなかよしなのか、ということがもっとわかるまでは、下手にでなければなりません。  「あんたが、まず、なぞをかけなさい。」とビルボは、さしあたってなぞを思いつくひまがないものですから、相手にすすめました。  すると、ゴクリは、シューシューいう声で問いかけました。 なぞなぞ、なんだ、 木よりも高いが、根を見た者なし、 ぐんとそびえて、のびっこないもの。  「わけない!」とビルボが、答えました。「山、でしょう?」  「し、わけないだと? それではしとつ、かけようかい。いとしいしと。いとしいしとがなぞをかけ、あいつが答えられなけりゃ、こっちが食う。あいつがなぞをかけて、こっちが答えられなけりゃ、あいつのおのぞみどおりにしる。し、どうしる? ぬけでる道を教えてやるが、よしか?」  「やりましょう!」とビルボは、相手にさからう勇気がないのでこういいましたが、食べられてしまわないようななぞなぞを考えて、頭のなかがわれるようでした。 赤い丘の上に、白馬 三十ならんで、 足ぶみしたり、すっくと立ったり、 なんだ?  これが、ようよう思いついたなぞでした。どうも、食べるということが、心のなかにあったから、こんななぞなぞになったのでしょう。古い、よくいうなぞでしたから、ゴクリも、ほかのひとたちのように、よく知っていました。  「し、し、古い、古い。」とゴクリがささやきました。「歯だ! 歯のことだよ! いとしいしと。でもこっちの歯は、たったの六まい!」こういって、ゴクリは二度めのなぞをかけました。 声がないくせに、しいしい泣くし、 はねがないくせに、ばたばた飛ぶし、 歯がないくせに、きりきりかむし、 口がないくせに、ぶつぶついうもの、は?  「ちょっと、まって!」とビルボはさけびました。ビルボはあいかわらず、食べられるというぶきみな考えにとらわれていました。けれどもさいわい、まえにこんななぞなぞをきいたことがありましたので、思いをこらして、答えをさがしだしました。「風だ! もちろん風のことですとも!」とビルボはいいました。ビルボはすっかりうれしくなって、すぐさま、つぎのなぞを思いつきました。そして、「これなら、このいやらしいくらやみ野郎にわからないだろう。」と思いました。 青いお顔の一つ目が、 緑のお顔の一つ目に、 「お目々は似てるが、立場がちがう。 こっちは高い、あっちは低い。」 といったとさ、なあーんだ?  「ししし、ししし、」とゴクリがうなりました。ゴクリはあまり長い長いあいだ地面の下にいましたので、そういうものを忘れてしまったのでした。けれどもビルボが、やくそくどおり何をたのもうかと考えはじめた時になって、きゅうにゴクリは、むかしむかし大昔に、まだ川のそばの土手の穴におばあさんと住んでいたころの思い出を、思いだしました。「し、し、そうだ。いとしいしと。それは、シナギクの上に照るおしさまのことよ。」  けれども、ヒナギクとお日さまのようなごくふつうの地面の上のことをあつかったなぞなぞは、ゴクリにはやっかいでした。それに、そういうものごとは、昔ゴクリがまだこんなにひとりきりでもなく、こそこそうろつきもせず、ふしぎなものにならなかったころのことを思いださせ、そのためにゴクリをいらいらさせてしまいました。するとよけいにおなかがすいてきました。そこで今度は、いちだんとむずかしく、いちだんと気味のわるいなぞをしかけました。 見ても見えず、さわってもふれず、 きいてもきこえず、かいでもにおわぬ。 星のうしろと、山のしたにいて、 がらんどの穴に、はいりこむ。 いちばんはじめにやってきて、いちばんあとからやってくる。 いのちをなくす。わらいをころす。 こんなもの、なんじゃ?  ゴクリにとって運のわるいことには、ビルボはこんななぞなぞをきいたことがありました。それですぐに答えがうかびました。ビルボは頭をかいたり、じっと考えこんだりしないで、「くらやみ!」と答えました。 この箱には、ちょうつがいも、 かぎも、ふたも、ありません。 それでも、なかには黄金の宝ものが かくしてある。なんでしょう?  ビルボは、今度は、もっとむずかしいなぞを思いつくあいだの、時間をかせぐために、こんななぞをだしました。まるでやさしいあたりまえの古くさいなぞだと、思っていました。ところが、じつはゴクリにとって、かえってたいへんな難問だったのです。ゴクリはシューシューうなりました。それでも答えはでませんので、しきりにぶつぶつつぶやきました。  しばらくすると、ビルボはがまんできなくなりました。「さあ、なんだ?」とビルボはいいました。「あんたは、しきりにぶつぶついって湯気を立ててるが、このなぞは、やかんなんかじゃありませんよ。」  「し、しばらく、まってくれ。もうしばらく、まてばわかるよ。いとしいしと。しし、し。」  「さあ、どうかね?」とビルボは、しばらく考えさせてから、「さあ、あんたの答えは?」といいました。  ところが、とつぜんゴクリは、むかしむかし、小鳥の巣から何かぬすんだこと、それをおばあさんに教えながら、川岸の下にすわっていた時のことを思いだして、さて、何をぬすんでおばあさんに教えたんだったろう、と考えるうちに、──「卵だ!」ゴクリは、シューシューいいました。「し、し、卵だあ!」それにつづけて、ゴクリは、問いかけました。 息もしないで 生きていて、 死んでるように つめたくて、 のどかわかぬが 水をのみ、 よろい着てても 音もせぬ。  今度はゴクリの方が、こんなやさしいのはないと思う番でした。ゴクリは、いつもこの答えにあたるもののことを考えていましたから。じつは、ゴクリは、卵のなぞであんまりめんくらったので、この時は、とっさにもっといいなぞが思いつかなかったのです。ところがかえって、ビルボにはえらい難問になりました。かわいそうにビルボの方は、水に関係のあるものがにがてでした。もちろん、こんななぞなぞは、だれにもすぐわかるありふれたものですが、食べられる危険がせまって、おちおち考えられない場合には、話がちがいます。ビルボは、すわりこんで、二、三度、せきばらいをしてみましたが、答えがでてきませんでした。  すこしたつと、ゴクリは、よろこんでひとり言をシューシューいいだしました。「おいしいかよ、いとしいしと。水けはたっぷりかよ。しこしこと、してきな歯ごたえがしるかよ。」こういってゴクリは、ビルボをやみのなかから、じろじろながめはじめました。  「ちょ、ちょっとまった!」とホビットは、身ぶるいしながらいいました。「わたしだって、あんたに、ゆっくり時間をやったじゃないか。」  「いそいでしろ、いそいでしろ!」とゴクリは、ビルボをつかまえようと、船からそろりと出はじめました。けれども水のなかにつけた長い水かきのある足を動かした時、魚が一ぴきびっくりしてとびあがり、ビルボのつまさきにおちました。  「うふ、つめたくて、ぬるぬるするなあ!」とビルボはつぶやきました。とたんに、ビルボは、なぞをあてました。「魚だ、魚だ、魚だぞ!」とビルボはさけびました。  ゴクリは、おそろしくがっかりしました。ところがビルボは、いままでになくすばやく、なぞなぞを思いついて、さっさと問いかけましたので、ゴクリはふたたび船にひっこんで、考えこまなければなりませんでした。 足なしが一本足の上にねて、 二本足が三本足の上にすわり、 四本足がなにかを食べてるものは?  もっとよく考えればよかったのに、ビルボはあわてていましたから、うまくない時にうまくないなぞを出してしまいました。ゴクリも、ほかの時でしたら、これでかなりめんくらったでしょうが、いまちょうど、魚のなぞをやったあとなので、「足なし」が魚だとわかりました。そうすると、あとはらくでした。「魚が台の上、そばで人間が床几にこしかけ、ネコが骨をたべている」というのがその答えで、ゴクリはまもなく、そう答えました。それからゴクリは、うんとむずかしくておそろしいなぞを出そうとして、ゆっくり考えました。それは、こんななぞなぞでした。 どんなものでも 食べつくす、 鳥も、獣も、木も草も。 鉄も、巌も かみくだき、 勇士を殺し、町をほろぼし、 高い山さえ、ちりとなす。  あわれなビルボは、くらやみにすわったまま、いままで話にきいたありとあらゆるおそろしいものを、巨人や人くい鬼などの名を思いうかべましたが、どれもあてはまりません。そんなものとはちがう、たしかに知っていたのにと思うのですが、それが出てきません。こうなるとビルボはおそろしくなりはじめました。それは考えるのにつごうの悪いことです。ゴクリが船からおりはじめました。水をかいて、岸に立ちました。ビルボはゴクリの眼が自分の方に近づくのを見ることができました。ビルボの舌は口のなかでこわばってしまいました。「もっと時間をくれ、時間をくれ」と、どなろうとしました。ところが、いきなり、金切声がほとばしりました。……「時間だ、時間だ!」  ビルボは、まったく運がよかったのです。それが正しい答えでした。  またもゴクリは、がっかりしてしまいました。もうゴクリはすっかりはらが立って、そのうえこの遊びにうんざりしていました。おかげで、ほんとうにおなかもすいてきたのです。ゴクリはもう船にもどりませんでした。そのまま、ビルボのそばにすわりました。おかげでホビットは、おそろしく気味がわるくなり、頭もめちゃめちゃになってしまいました。  「こんどは、あいつがなぞなぞをかけるかよ、いとしいしと。かけるがいい、だが、しとつだけだ。しとつ、しとつだけ。」とゴクリがいいました。  けれども、もはやビルボは、こんないやなしめっぽいつめたい奴がとなりにすわりこんで、自分のからだをなぜたりさすったりしていては、なんのなぞも思いつけません。ビルボは自分でむねをかきむしったり、ひざをつねったりして、考えに考えましたが、どうにも思いつきません。  「しぐにきけ、しぐに!」とゴクリがいいました。  ビルボはなおも、わが身をつねったりたたいたりしました。一方の手は小さな剣をにぎっています。からだをたたいた手がポケットにさわりました。道で拾って忘れていた指輪があったことに、気がつきました。  「このポケットにあるものは、何だ?」と、ビルボは声にだしていいました。じつは、自分だけのひとり言だったのですが、これをゴクリが、なぞなぞだと思ってしまいました。ゴクリは、びっくりぎょうてんしました。  「ずるいぞ! ごまかしだ!」と、ゴクリはシューシュー声でいいました。「し、ごまかしじゃないかよ、いとしいしと。おかしなしとのおかしな、けちなポケットにしまったものを、きくなんて。」  ビルボは、ふってわいたなりゆきを知って、これ以上うまいことはないと、さとりました。「このポケットに、あるものなーに?」とビルボはいよいよ大きな声でたずねました。  「し、し、しっしっ!」とゴクリはあわてていいました。「三つあてさして、いとしいしと。三つだけ、あてさして、し、し。」  「いいとも、さあ、あてろ!」とビルボ。  「手、でし!」とゴクリ。  「ちがう。」とビルボがいいました。運よくちょうど手を出しておりました。「さあ、二度めだ!」  「し、し、しゅ、しゅ!」とゴクリは、いままでになく、あわてふためいていました。自分のポケットにいれるようなものをあらいざらい考えてみました。魚の骨、ゴブリンの歯、ぬれた貝がら、コウモリのつばさのかけ、歯をとがらすためのとがった石、そのほかいろいろなへんなものばかりです。ゴクリはほかのひとたちがポケットにしまうものを考えてみました。  「ナイフ!」とうとうゴクリがいいました。  「ちがう!」ナイフをとうの昔になくしていたビルボが、そういいました。「さあ、もう一つだけ!」  ゴクリは、まえにビルボが卵のなぞをかけた時よりひどいありさまになりました。シューシューいったり、ぶつぶついったり、からだを前後にゆすったり、足で岸をぴしゃぴしゃたたいたり、はては、身をよじったり、ころげまわったりさえしました。それでも、さいごの答えをいい出すことができませんでした。  「さ、いった、いった!」とビルボがいいました。「待ってるぞ!」その言葉をビルボは、さも自信まんまんでほがらかそうにいおうとしましたが、さてこのなぞなぞのあとしまつがどうなるものか、ビルボには見当がつきません。ゴクリがあてたらどうなるか? はずれたら、また、どうなるか。  「時間がきれた!」とビルボがいいました。  「しもだ! でなけりゃ、からっぽ!」ゴクリがさけびました。これはインチキでした。一時に二つ答えをいったのです。  「二つとも、まちがい。」ビルボは、ほっと安心して、さけびました。そして、ぴょんと立ちあがると、もよりの壁に背をつけて、短剣をかまえました。なぞなぞ遊びというものは、はかりしれないほどの昔からつたわる、神聖な遊びごとで、どんなわるい奴でも、この遊びで相手をだましてはいけないことになっていることを、ビルボはよく知っていました。けれどもビルボは、このぬらぬらの黒いばけものが、いざとなったら約束を守らないかもしれないような気がしました。どんないいのがれをこしらえるか、しれたものでありません。おまけに、ビルボのさいごのなぞは、昔からのしきたりにしたがった、ちゃんとしたなぞなぞではなかったのです。  とはいえ、ゴクリもすぐにはビルボにおそいかかりはしませんでした。ゴクリは、ビルボの手にした剣を見てとりました。ゴクリはまだすわったまま、からだをふるわせて、ぶつぶついっていました。ビルボは、こらえきれなくなりました。  「さあ、約束はどうしてくれる? わたしは、ここから出ていきたいんだ。あんたはその道を教えてくれなければいけないぞ。」とビルボはいいました。  「し、し、やくそくしたか? いとしいしと。いけしかないちびのバギンズが、出口を教えろとよ。よしよし。しかし、そのポケットのなかに何がある? しもでなし、からっぽでなし。ではなんだ? なにもないはずはなし、ゴクリ!」  「どうでもいいじゃないか。約束は約束だ。」とビルボがいいました。  「そうがみがみしるな。おちついて、いとしいしと。」とゴクリがシューシューいいました。「しばし待て。がまんしねばいけない。そんなにしかしか急いでトンネルがあがれるかよ。それよりさきに、島にもどって、とってくるものがある。それなしには、だめだ。」  「よし、急いでやれ。」とビルボは、ゴクリがそばをはなれることを思うと、ほっとしていいました。でも、こんないいわけをしておいて、ゴクリがもう帰ってこないつもりなのではないかと、ビルボは思いました。ゴクリは、何のことをいったのだろう? この暗い湖のなかに、ゴクリのような奴が、どんなたいせつなものをしまっておくというのだろう? やはりいいわけだと、ビルボは思いましたが、それはまちがいでした。ゴクリは、もどってくるつもりでした。ゴクリはかんかんにおこって、ぺこぺこにおなかをすかせていました。なぞなぞにまけて、いじが悪くなっていました。とにかくゴクリには、一つの考えがあったのです。ビルボにはわかりませんでしたが、ゴクリの島はそれほど遠くではありませんでした。その島のひみつのかくし場所のなかに、ゴクリは、いくつかがらくたをしまっておいたのですが、ただ一つ、このうえもなく美しいものがありました。すてきに美しいばかりでなく、すてきにふしぎなものでした。それは指輪で、金でできた、すばらしい指輪でした。  「たんじょうびのおいわいのしな。」とゴクリは、ひとり言をいいました。はてしなくつづくくらやみの長い年月のあいだに、しじゅう指輪を出してゴクリはそういっていたのです。「あれが今しつようだ。どうしてもしつようだ。」  ゴクリが必要だったのは、それが魔法の指輪だったからで、その指輪を指にはめると、すがたが見えなくなるのです。あかるい日の光をあびた時だけ、すがたがわかります。影ができるからです。でも、それもうすくて、あまりはっきりはしていません。  「たんじょうびのおいわいのしなだ。あれはたんじょうびに、手にはいった。いとしいしと。」いつもゴクリは、このような魔法の指輪がこの世にたくさんあったむかしむかし大昔のころ、ゴクリがおいわいにもらったといいはっているのですが、そんなことは、わかったものではありません。その昔のゴクリのむれをとりしまっていたゴクリの頭でも、知らないにちがいありません。ゴクリは、はじめ、あきるまで指にはめていました。そのつぎには気がかりになるまで、からだにつける財布のなかにしまっておきました。それからいまは、島の岩にあいた穴のなかにかくしておいて、いつも指輪を見に帰るようにしたのです。そしてときどきは、指輪とはなれていられない気持ちになったり、おなかがぺこぺこにへっているのに魚があきていやになってくると、指輪を指にはめることがありました。そして、暗いトンネルをのぼって、道にまよったゴブリンをさがしにいくのでした。時には、たいまつがともっていて、ゴクリの眼をくらますようなところにも、平気でふみこんでいくこともあります。そんなところでもゴクリは安心でした。まったく安全だったのです。だれひとり、ゴクリを見かけるものもいなければ、気のつくものもいないで、相手ののどに手をかけることができました。ほんの四、五時間まえに、ゴクリは指輪をはめて、小さな、ゴブリン小人の子どもをひとりつかまえました。その子どもは、なんとさわいだことでしょう。かじるためにまだ骨が一つ二つ残してあるのですが、ゴクリはもっとやわらかいものが食べたいのでした。  「し、し、しんぱいない。安全だとも。」と、ゴクリはひそひそひとり言をいいました。「こっちは見えないからな。いとしいしと。こっちが見えなければ、あんな小さな剣など、しこしも役に立たないよ。」  ゴクリがいきなりビルボのそばを立ちさって、船にのって、やみにこぎだした時に、その悪い心にうかんだ悪い考えというのは、こうだったのです。ビルボの方は、ゴクリがこれきり来ないだろうと思いましたが、それでもすこし待っていました。ひとりでは、出口を見つけるちえがなかったものですから、とにかく待っていたのです。  するとふいに、ビルボは金切声をききました。背なかに、ざわざわとふるえがはしりました。ゴクリがやみのなかで、あくたいもくたいをついているのですが、その声からすると、あまり遠くはないようです。ゴクリは島で、あちこちをひっくりかえして、むなしくさがしまわっているところでした。  「どこへいった? どこへいった?」ビルボは、わめき声をききました。「なくなった! いとしいしと。ないよ。なくなったよ! ちきしょう、ちきしょうめ、いとしいしとがなくなった!」  「いったい、どうしたんだ?」とビルボがさけびました。「何をなくしたんだね?」  「そんなこと、きくな!」とゴクリがさけびかえしました。「あいつの知ったことかよ。知ったことか。ゴクリ。なくなっちゃった! ゴクリ、ゴクリ、ゴクリ。」  「こっちは、道をなくしてるんだ。」とビルボが大声でいいました。「それでそれを見つけたいと思ってるんだ。かけに勝ったんだからな。あんたは約束しただろう。だから早くもどってこい! もどって、見つけだしてくれ! 力をかしてくれ。」  ゴクリの声がなんともあわれにきこえましたが、ビルボはかわいそうに思う気になりませんでした。どうもゴクリがさがしているものが、いいものとは思えないのです。「早くこい!」と、ビルボはどなりました。  「まだ、だめだ、ああ、いとしや!」とゴクリが答えました。「し、さがさなけりゃならない。なくなったかよ。ゴクリ。」  「だけど、あんたは、さいごのなぞをあてなかったぞ。その約束はどうした?」  「あたらなかった!」とゴクリがいいました。そして、だしぬけに、やみのなかから、シューシューいう声を高くして「し、し、あいつのポケットのなかに、何がある? 教えてくれ。それをまず、あいつは、知らせなけりゃいけないぞ。」  ビルボの方には、もう教えてはいけないわけはなかったのです。ところが、一足さきにゴクリの心は、答えを見つけてしまっていました。それもそのはず、ゴクリは長年のあいだ、その一つのものだけをだいじにかかえこみ、いつもぬすまれまいかとびくびくしてきたのですから。しかしビルボの方は、おそくなることが気がかりでした。なにしろいのちをかけたかけに、みごとにかったのです。「答えはあてるものだ。教えるものじゃない。」とビルボはいいました。  「でも、あれは、正しいききかたじゃなかった。なぞじゃない。いとしいしと。」とゴクリがいいました。  「ききかたを問題にするのなら、わたしの方がさきに、さっきからきいているじゃないか。あんたは、何をなくしたのだ? さあ、答えなさい。」と、ビルボがいいました。  「し、し、あいつのポケットに、何がある?」シューシューいう声は、まえよりも高く大きくなりました。ビルボが、まえの方を見つめておどろいたことに、ビルボの方をじっとうかがっている二つの青いあかりのぽちぽちがはっきり見えました。ゴクリの心にうたがいが強まると、ゴクリの眼のあかりは、青い炎になってもえあがるのです。  「あんたは何をなくしたのかね?」とビルボは、しつこいほどたずねました。  けれどもいまはゴクリの目玉のあかりは、緑の火になってもえあがり、だんだんに近よってきました。ゴクリはふたたび船にのり、やみくもに暗い岸べにこぎよせてきたのです。なくしものをしたいかりと、ビルボに対するうたがいで、ビルボの剣がちっともこわくないくらい、ゴクリはかりたてられていました。  ビルボには、なにがこんなに、このいやな奴をかりたてているのかがわかりませんでしたが、もう話はおわって、ゴクリが自分を殺しにやってきたのだということはわかりました。もはやこれまで、とビルボはふりむいて、これまでくだってきた暗い道を、やみくもにかけもどりながら、なるべく壁ぎわにそって、左手で壁をさわって、かけました。  「ポケットのなかに、何がある?」うしろに大きなよびかけと、船からとびおりるばしゃんという音とを、ビルボははっきりききました。「いったいわたしが、何を持っているというんだろう?」とビルボは、むねのなかでたずねながら、こけつまろびつ、道をたどりました。そしてポケットのなかへ左手をいれました。指輪がひやりと指にさわり、さぐっていた人指し指にするりとはまりました。  シューシューいう声が、うしろにせまりました。ビルボがふりむくと、ゴクリの緑色のランプのようにもえた目玉が、坂をのぼってくるところでした。おそろしさのあまり、ビルボはむちゅうで走ろうとして地面のでこぼこにつまずき、小さな剣を下にしてたおれてしまいました。  その時、ゴクリがおいつきました。けれども、ビルボは何もできません。息をととのえ、からだをおこして、剣をふるうというだんどりにかかるまえに、ふしぎふしぎ、ゴクリはビルボに気がつかず、ぶつぶつふんがいしながら、ビルボのすぐそばをかけぬけていったのです。  いったいこれは、どうしたことでしょう? ゴクリは、くらやみで目がきくはずです。ビルボは、ほんのすぐうしろにその目玉がぼうと光ってきたのを見たのです。ようやくビルボは起きあがって、もう光がかすかになってしまった剣をさやにおさめ、この上なく気をつけながら、ゴクリのあとをおいかけはじめました。ほかにすることはなにもありません。ゴクリの住む湖へひきかえしてはなりません。ゴクリのあとについていけば、ゴクリがそのつもりでなくても、出口につれていってくれるかもしれません。  「ちきしょう、ちきしょう、ちきしょう!」とゴクリはののしっていました。「バギンズのやつめ! いっちまった! ポケットのなかに何がある? わかったぞ、あてたぞ、あてたぞ! いとしいしと。あいつが見つけたんだ、あいつにちがいない。ああ、たんじょうびのおいわいのしな。」  ビルボは耳をそばだてました。そしてとうとう、わけがわかりはじめました。ビルボは、できるだけゴクリのあとにぴったりせまろうとして、急ぎました。そのゴクリが、ふりかえりもせず、右に左に首をふってかけていくのが、ビルボに壁にうつるかすかな照りかえしでわかりました。  「たんじょうびのおいわいのしなだ! ちきしょうめ、どうしてなくしちゃったんだろう? いとしいしと。そうだ。このまえこの道をかけて、あのちびのきいきい泣くのをしねった時かよ。そうにちがいない。ちきしょうめ! あの時おちたんだ。長い長いあいだ、だいじにしてたのに! ああ、なくなった。ゴクリ。」  だしぬけにゴクリは、ぺたりとすわりこんで、泣きはじめました。そのひいひい、ごろごろとのどの音をたてて泣きわめくひびきが、おそろしくきこえました。ビルボも立ちどまって、トンネルの壁にぴたりと身をつけて待ちました。しばらくするとゴクリは泣きやみ、今度はしゃべりはじめました。ひとりでいいあらそっているようでした。  「しっかえして、さがそうか? それはだめだ。でも、道の全部はおぼえていないぞ。いや、そんなしつようはない。バギンズのやつ、ポケットにあれを持ってるんだな。あのしどいやつめ、見つけやがったな。」  「あてたぞ、わかったぞ、いとしいしと。でも、あのしどいやつを見つけだして、さがしてみなけりゃ、わからないぞ。そりゃそうだ。あいつは、いとしいものをどうしればいいのか、知っていない。ただ、ポケットにしまってるだけだ。そうだ。あいつは知らない。遠くにはいくまい。あいつは、道に迷ってるぞ。しどいやつめ。出口がわからないのよ。そういってたぞ。」  「そうだ、そういってた。でもそれはあやしいぞ、ごまかしだよ。それがどういうことだか、あいつはいわない。ポケットに何があるんだか、あいつはいわなかった。ではあいつは知ってるんだ。そうとも、入口を知って、はいってきたんだから、出口も知ってるにちがいない。そうとも。裏口へいくぞ。裏口だ、それにちがいない。」  「そうすれば、ゴブリンどもが、あいつをつかまえるだろう。あの道からにげられない。いとしいしと。」  「しし、し、し、ちきしょう! ゴクリ、ゴブリンどもめ! そうだ、もしあいつが、だいじなものを持ってるとすると、いとしいだいじなものが、ゴブリンどもの手にはいる。ゴクリ。あいつらに見つかるぞ。あいつらは、あのものの使い方も見つけるぞ。そうなれば、こっちは、いままでのように安全にしていられない。どうしてもあぶなくなる。ゴクリ。ゴブリンたちのひとりが、それをはめれば、そいつはだれにも見えなくなる。どんなに目のきく者にでも、見つけられない。そんなやつがこんど、こっそりやってきて、こっちをだましてつかまえたら、ゴクリ、ゴクリ、ゴクリ!」  「もう話は、やめよう、いとしいしと。大急ぎだ。バギンズがあっちへいったのなら、すぐおいついて、見つかるにちがいない。いこう。まだおそくない。急げ。」  ぴょんとゴクリはとびおきて、大またにひょろつきながらかけはじめました。ビルボは急いでそのあとをおいました。けれども用心ぶかく、こんどはでこぼこにつまずいて、ばったりたおれて声をたてるようなことのないように気をくばりました。頭のなかは、のぞみとなぞでうずまいていました。ビルボのひろった指輪は、たしかに魔法の指輪のようでした。見えなくするというのです。ビルボは、昔からつたわるかずかずの物語で、そういうことをきいていました。けれども、まったくまぐれあたりにそんな指輪をほんとうにさがしあてるとは、夢にも思いませんでした。でも、たしかにそうでした。ぎらぎら目玉のゴクリが、ほんの一メートルとはなれないところをなにもしらずに通りすぎたではありませんか。  ふたりはどんどんいきました。ゴクリは先頭で、ぶつぶつもんくをはきながらぴたりぴたりとかけましたし、ビルボはそのうしろに、ホビットとしてできるかぎりの速さでついていました。するとまもなく、ビルボがくだる途中で気のついていた、わき道がたくさんでているところに出ました。ゴクリは、すぐに指を立ててかぞえはじめました。  「左がしとつ、右がしとつ、右が二つ、左が二つ。」こんなふうに、きちんとかぞえていくのです。しかしかぞえるにつれて、ゴクリはだんだんのろくなり、元気がなくなり、泣き声をたてはじめました。住処の湖をはるかあとにして、しだいにおそろしくなってきたのです。このあたりにはゴブリンたちがうろついているかもしれないのに、かんじんの指輪がありません。そのうちにとうとうゴクリは一つの低い穴の道のそばに立ちどまりました。のぼりの道にむかって左がわにありました。  「右が七つ、しだりが六つ!」ゴクリがシューシューいいました。「さあ、ここだ。ここが裏口へ出る道だ!」  ゴクリはなかをうかがって、たじたじとあとずさりをしました。「でも、はいっていかない方がいい。はいってはだめだ。ゴブリンがいるぞ。たくさんいる。においがする。し、し、し。」  「どうしたらいい? ちきしょうめ、ここで待ちかまえなくちゃいけない。いとしいしと。すこし待ってみよう。」  こうしてふたりは、ぱったりそこで立ちどまりました。ゴクリはとうとうビルボを出口までつれてきました。けれどもビルボは、そこをこえていけません。ゴクリがその穴の入口にぴたりとふさがったまま、眼をつめたく光らせて、うずくまったひざのあいだから、まんべんなくあたりをさぐっていたからです。  ビルボは、壁ぎわから、ネズミよりも静かに、身をずらせました。けれどもゴクリはすぐにからだをかたくして、くんくんにおいをかぎ、目玉をぎらぎらと緑色に光らせました。ゴクリは、低いおそろしい声で、なにかいいました。ゴクリはホビットのすがたを見ることができませんでしたが、ゆだんなく気をくばっていました。ゴクリは、くらやみに住んでいたせいでかんがするどくなっていました。耳とはながよくききました。ゴクリは、地面へ両手をついて、からだを平たくちぢめ、首をつき出して、はなをはたらかせました。その眼のはなつ光のなかで黒いかげのように見えながら、きってはなすためにひきしぼった弓のつるのように、ゴクリがはりきっているのが、ビルボには感じられました。  ビルボはほとんど息をとめて、じっと動かないでいました。やぶれかぶれでした。まだ少しでも力の残っているうちに、このおそろしいくらやみからぬけださなければならない。戦わなければならない。この気味のわるい奴をつきさし、目玉をぬきとり、殺さなくてはならない。そうすると、こちらも死ぬかもしれない。いや、いけない。これは正々堂々とした戦いではない。ビルボはすがたがわからない。ゴクリは剣を持っていない。それにゴクリは、殺すぞといったこともなければ、まだ手をかけてもいない。しかもそいつは今、みじめで、ひとりぼっちで、どうしていいかわからなくなっている。──だしぬけにわきおこった同情とあわれみが、おそれの気持ちとまじりあって、ビルボの心をみたしました。なんというあわれな奴! 目的もなくはてしなくつづく日々。光もなく、暮らしがよくなるのぞみもなく、かたい岩とつめたい魚をあいてに、うごめき、ささやくばかり……こんな思いが、ビルボの胸のなかを、またたきするまにちらりと、とおりすぎました。ビルボはぞっと、身をふるわせました。するとつづいて、にわかに新しい力と決心におしだされたように、それとちがった一つの考えがいなずまとなってひらめいて、ビルボは、ぴょんととびあがりました。  人間のおとながとぶような、大きな一とびではありません。けれども、やみのなかの一とびです。ゴクリの頭の真上をこえて、ビルボは、ちゅうに高さ一メートル、はば二メートルも、みごとにとんだのです。まったくのところ、穴の入口の低い弓なりの天井に、あぶなく頭の骨をぶつけるところでした。  ゴクリは、うしろざまにとびはねて、自分の上をとんでいくホビットをつかまえようとしましたが、ておくれでした。その手はぱちんと空をうち、ビルボはすっくとむこうがわにおり立って、さっさと新しいトンネルの道を走っていました。ゴクリが何をしているか、ふりかえるひまがありません。はじめ、すぐうしろに、シューシューいうのろいの声をきいたのですが、それが急にきこえなくなりました。と思ったとたんに、にくしみとやけのまじった、血のこおるようなさけびが一つ、やみをつんざいてきこえました。ゴクリがまけたのです。ゴクリはもうさきへいかれませんでした。ゴクリは何もかもなくしてしまいました。えさをなくしました。そのうえ、自分が何よりもだいじにしてきた、いとしいものをなくしました。このさけび声をきくと、ビルボの心ぞうは口からとびださんばかりでしたが、やはりビルボはかけつづけました。そのうち、そのさけび声は、かすかに、けれどもおそろしい山びことなって、うしろの方からおいかけてきました。  「どろぼう、どろぼう、どろぼうう! バギンズめ! にくむ、にくむ、いつまでも、にくむう!」  それから、ぷっつりと音がしなくなりました。それはなおのこと、ビルボにおそろしく思われました。「ゴブリンが近くにいるから、ゴクリがそのにおいをかいだんだ。」とビルボは思いました。「とすれば、ゴブリンたちは、あのさけび、あののろいをききつけただろう。さあ気をつけろ。さもないと、もっと悪いところへとびこむぞ。」  天井が低くなり、石がごろごろするようになりました。それはホビットにとって、たいしてつらいことではありませんが、どんなに注意をこらしても、たまには、ぎざぎざの石ころにつまずいてしまいます。「ゴブリンの道にしてはすこし小さいな。まして大きなやつらには通れまい。」とビルボは思いました。ところが山の巨人のような大きな者でも、地面に手をすれすれにたらして、とぶように走ることを、ビルボは知らなかったのです。  まもなく、いままでくだりだった道が、ふたたびのぼりはじめました。しばらくして、急な坂になりました。ビルボの足はおそくなりました。ようやく坂がおわって、道は角をまがり、もう一度くだって、その短い下り坂がおりきった底のところに、もう一つまがり角があり、その角から、──光が、さしてくるのが見えました。焚火やちょうちんのような赤い光ではなく、まっ白なそとの光でした。そこでビルボは、走りだしました。  足のつづくかぎり速くかけて、ビルボはさいごのまがり角をまわりました。ふいにがらんとひらいた場所にとびだしました。いままでずっとくらやみにいたあとでは、光がまぶしいほど明るくみえました。ほんとうはその光が、門をとおしてさしこんだ一すじの日ざしにすぎなかったのです。門の大きな石のとびらが、すこしあいたままになっていました。  ビルボはまたたきをしました。するととつぜん、ゴブリンたちのすがたを目にしました。ゴブリンたちはみな、よろいを着て、ぬきみの剣をさげ、とびらのうちがわにこしかけて、目を皿のようにして門を見張り、また門に通ずる道を見張っていました。ゴブリンたちはなにがきてもよいように身がまえし、けいかいしていました。  ビルボが見つけるより早く、ゴブリンたちがビルボを見つけました。たしかに、ビルボのすがたを見たのです。偶然のいたずらなのか、それとも指輪が新しい主人につかえるまえにちょいとためしてみたのか、ともかく指輪が指にはまっていませんでした。よろこびのさけびをあげて、ゴブリンたちはビルボめがけてどっとおしよせました。  おそろしさとしまったという思いが、まるでゴクリののろいのこだまのように、ビルボにおそいかかりました。ビルボは、剣をぬくこともわすれて、両手をポケットにつっこみました。すると左のポケットに指輪があって、するりと指にはまりました。ゴブリンたちは、にわかにぱたりと立ちどまりました。ビルボのすがたが見えません。消えてしまったのです! ゴブリンたちは、まえの倍も大声を出してわめきましたが、今度はよろこびの声ではありませんでした。  「どこにいった?」と、ゴブリンたちは口々にさけびました。  「もどってさがせ!」とどなる者もありました。  「こっちだ!」とどなる者があれば、「あっちだ!」とわめく者もありました。  「門をしっかり見張れ!」と、頭が命じました。笛がなり、よろいががしゃがしゃ音をたて、剣がふれあい、ゴブリンたちはのろうやらののしるやら、わめきながらあちらこちらへ走りまわって、さては、たがいにぶつかってたおれて、ますますいかりたちました。すさまじいさけび声、そうどう、ごちゃごちゃがおこりました。  ビルボはおびえきっていましたが、ぜんたいのなりゆきをつかむ分別がありました。ゴブリンたちにぶつかって、ふんづけられて死んだり、さわられてつかまったりしないように、ゴブリンの番兵たちの飲む大きな酒だるのうしろにそっとかくれました。  「あのとびらのところにいきつかなけりゃいけない。あそこまでいきつかなけりゃ!」とビルボは、心のなかで思いつづけました。けれどもとびだすおりは、なかなか来ませんでした。いざとびだすと、命がけの鬼ごっこでした。走りまわっているゴブリンたちのむれの中であわれな小さいホビットは、あっちへよけ、こっちへよけ、知らないでいるゴブリンにぶつかり、四つんばいになってやりすごし、おりよく頭の両足のあいだをくぐりぬけ、そして立ちあがって、とびらのところへ走りよりました。  とびらはまだ少しあいていました。けれどもひとりのゴブリンがしめようとしていました。ビルボは、がんばってあけようとしましたが、どうにも動かせません。それで、わずかなあきまをくぐりぬけようとしました。ビルボは、むりやりもぐりこみ、もうちょっともぐりました。そして、はさまってしまいました。身の毛のよだつおそろしさでした。ボタンがとびらのかどと門柱とに、はさまれたのです。ビルボは、すがすがしい空気にふれて、おもてをながめることができました。両がわの高い山々にはさまれた小さな谷にむかって、ここから五、六だんのかいだんをおりていくようになっています。雲間から日があらわれて、門のそとがわにかっと照りかがやきました。ですがビルボは、通りぬけられません。  するとふいに、門のなかにいたひとりのゴブリンが、さけびました。「みろ、とびらに影がさしている。そとにだれかいるぞ!」  ビルボの心ぞうは、口からとびださんばかりでした。ビルボは、ここをせんどと、もがきました。ボタンが、四方八方にとびちりました。ビルボは、通りぬけました。上着もチョッキもちぎれたまま、ヤギのようにかいだんをとびおりて走りました。そのあいだ、うろたえたゴブリンたちは、かいだんにおちていたビルボのきれいなしんちゅうボタンをひろいあつめました。  もちろんすぐさまゴブリンたちも、あとをおいかけました。「ほーい、ほい」とか、「おーい、まて」とかさけんで、森のなかをさがしまわりました。けれどもゴブリンたちは、お日さまが大きらいです。その光にあうと、足がすくみ、頭がくらくらしてくるのです。ゴブリンたちは、ビルボを見つけることができませんでした。ビルボは指輪をはめて、日光にふれないようにひそんでいて、木かげをぬってはするすると音もたてずにすばやく、走りました。そこでまもなくゴブリンたちは、ぼやいたりのろったりしながら、裏門を守りにもどっていきました。ビルボは、とうとうのがれでてしまったのです。 6 一難去ってまた一難  ビルボはこうしてゴブリンたちからのがれたものの、どこに出てきたのかがわかりません。頭巾も、マントも、食べものもなくし、馬も、ボタンも、友だちも、なくしました。ビルボは、さんざんさまよいました。迷っているうちに、お日さまが西の方へ沈みはじめました。それは──山脈のうしろに沈んだのです。山々のかげが、ビルボのゆくてにおち、ビルボはふりかえりました。それから、ゆくてをのぞみました。すると自分のまえには、山の背とくだりの斜面が見えるばかりで、時々そのさきの低い土地と平原が、木の間ごしにちらりとのぞかれました。  「しめた!」とビルボは声をあげました。「どうやらわたしは、霧ふり山脈をこえて、そのさきのおくの国の入口にたどりついたようだ。だがどこにいるだろう? ガンダルフとドワーフたちは、どこに行きついただろう? まだゴブリンどもにとらわれて山の中にひきとめられていないように、いのるばかりだ。」  ビルボは、山の小さな谷をのりこえ、そのさきのくだり坂をどんどんたどっていきました。そのあいだ、とてもうしろめたい気持ちが、胸のなかにそだっていました。こうして魔法の指輪を手にいれたからには、あのぞっとするほどおそろしいトンネルにひきかえして、友だちをさがさなければいけないのではないか。思いだすだけでもぞっとするのですが──そして、とうとう、あそこへひきかえすのが自分のつとめだと、はっきりかくごをきめた、そのとたんに、ビルボは、なにかの声をききました。  ビルボは立ちどまり、耳をかたむけました。ゴブリンの声のようではありません。でも、用心して、地面をはいながら、近よりました。うねうねまがる石ころの多いくだり道でした。道の左手は岩壁でしきられ、右手は、ずっと落ちこんで、小さな谷がいくつかあり、やぶや低い木立をかぶっています。そのようなやぶにおおわれた小谷の一つで、だれかが話しているのでした。  ビルボは、なおも近づきました。そしてだしぬけに、二つの大きな丸い岩のあいだから赤頭巾をかぶった頭が出ているのを、見つけました。バーリンでした。バーリンが見張っているところでした。ビルボが、大よろこびで手をたたき、声をあげたかというと、そうはしませんでした。ビルボはまだ、思いがけないいやなものに出あうかもしれない心配にかられて、指輪をはめたままでいました。そして、自分がいるのに気がつかないで、バーリンがこっちをぽかんと見ていることを知りました。  「みんなをおどろかしてやろう。」とビルボは考えて、小谷のはしのやぶのなかにはいこみました。ガンダルフがドワーフたちと、いいあっていました。みんなは、トンネルのなかで出あったできごとを話しあい、これからどうしたらいいかと思案にくれて、相談しているところでした。ドワーフたちはぶつぶつ反対していましたが、ガンダルフは、バギンズ君をゴブリンたちの手に残したまま、まだ生きているか死んでいるかをたしかめもせず、また助けだす手だてをとりもせずに、みんなといっしょに、この旅行をつづけてはいけないと、いっているところでした。  「なんといっても、あれは、わしの友だちじゃ。」と魔法使いがいいました。「けちな、まがったやつではない。わしは、あの男に責任を感じておる。どうか、あれを見殺しにしないでいただきたい。」  ドワーフたちは、いったいホビットがどんな役に立ったのか、どうして友だちからはなれずにいられなかったのか、また魔法使いがなぜもっと働きのあるものを仲間にえらばなかったのかと、口々にのべました。「あの男は、役に立つより、やっかいをまくばかりだった。」とだれかがいいました。「あれをさがしに、あのいまわしいトンネルにひっかえさなけりゃならないなんて、くそくらえだ。」  ガンダルフは、おこって答えました。「わしがあれをつれてきたのじゃ。わしは役に立たぬものをつれてはこないぞ。いっしょに力をかして、あれをさがすか、それともわしだけ仲間をはなれ、ここでわかれ、諸君は諸君だけでせいぜいやるようにするかじゃ。ただし、もしここであの男がふたたびぶじに助けだせれば、すべてがおわったあかつきに、かならず諸君はこのわしに感謝することになろう。ドーリ、君はいったい、あれをふりおとしたまま平気でさきへいきたいのか?」  「あなただって、あのさい、ふりおとしたでしょうよ。」とドーリがいいました。「ゴブリンがくらやみから、いきなりあなたの足をひっつかみ、ねじりたおして、けとばしたら、ね。」  「ではどうして、そのあと、あれをひろいあげなかったのじゃ?」  「とんでもない。なんてことをいうんです! ゴブリンたちがくらやみでつかみあい、かみあい、とっくみあい、たおれてなぐりあっていたんですよ。あなただって、すんでのところ、グラムドリングでわたしの首をはねるところだったじゃありませんか。トーリンもあちこちでオルクリストをふるっていた。そしてとつぜん、あなたが例の目つぶしのいなずまを一ぱつあげ、ついでゴブリンたちがクモの子をちらすようにさけびながら逃げるのを見ましたね。あなたはどなった──みんな、わしにつづけ、とね。あのとき、ひとりのこらずあなたのあとについていくべきだったのです。わたしたちは、もちろんみんなが来たと思っていた。あなたもよくごぞんじのように、あのさい頭数をかぞえるひまも何もありませんでした。そして門の守りをつき破り、下の門からとびだして、あわてふためいてここにたどりつきました。それがいまのありさまです──忍びの者がいないんだ。いまいましい!」  「忍びの者、ここにあり!」とビルボはみんなのまんなかへとびおりて、指輪をぬきとりました。  いや、一同の、とびあがったのなんの! われにかえって、みんなは、おどろきとよろこびの声をあげました。ガンダルフもみんなと同じにあっけにとられ、ついで、みんなよりもいちだんと深くよろこびました。ガンダルフは、見張りのバーリンをよびつけて、こんなふうにとがめもせず、みんなの中へひとをふみこませるようでは、見張りの役がつとまらぬと、注意しました。しかし、じつのところ、このことがあってからというもの、ビルボの忍びのわざに対する評判は、ドワーフたちのあいだでたいしたものになったのです。ガンダルフがあれほどいっても、ビルボが一流の忍び手だと思わなかった者も、いまはつゆほどもそれをうたがいませんでした。だしぬかれたバーリンは、いちばんびっくりしてしまいました。ですが、いまはだれもかれも、すばらしい忍びのわざだったとほめそやしました。  ビルボは、こういうほめ言葉をきいてうれしくなり、心のなかでいくぶんてれくさくもあって、とうとう指輪のことは何もいわないでしまいました。みんなが、どうしてぬけだせたかときいた時も、「いやいや、ただはいだしただけですよ──もっとも、ごく注意ぶかく、静かにやりましたがね。」といいました。  「まったく、こんなことははじめてだ。小さなネズミがどんなに注意ぶかく静かにはっても、この鼻さきが通りぬけられたことはなかったのに、こんどばかりは見おとしたよ。」とバーリンがいいました。「わたしは、あんたに頭巾をぬいで、おじぎをする。」バーリンは、その言葉のとおりにしました。  「バーリン、お足もとにふしたてまつる。」とバーリン。  「こちらこそ。バギンズです。」とビルボ。  それから、一同は、わかれてあとのビルボの冒険をすっかり知りたがりました。ビルボはすわりこんで、いっさいがっさいを語りました。ただ指輪のことばかりは話しませんでした(「今はその時でない。」とビルボは思ったのです)。みんなは、なぞくらべのところではとくに身をのりだし、ゴクリの様子をきいて、目で見ているようにぞくぞくと身をふるわせました。  「それでわたしは、となりにこんな奴にすわりこまれては、もうなぞが思いつけなくなった。」ビルボは話のおしまいを、こう話しました。「そこで、わたしは、ポケットのなかに何がある? ときいてやった。あいつは、三回答えてあたらない。でわたしはつめよった。約束はどうした? 出口を教えろ、とね。だがあいつは、わたしにせまってわたしを殺そうとする。わたしは逃げて、からだをふせた。するとあいつはわたしを見すごして、やみのなかへかけていった。そこでわたしはそのあとをつけた。あいつがひとり言をいっているのをきいたからだ。あいつはわたしが出口を知っていると思ったので、出口へ先回りしようとしたんだよ。そして出口にすわりこんでしまったからそこを通りぬけることができない。そこでわたしはあいつの上をとびこえて、その手をのがれ、門の方へ走りくだったんだ。」  「門番たちは、どうやった?」とみんながたずねました。「いなかったか?」  「いたとも、いたとも。どっさりいた。だがわたしは、そいつらをまいて走った。とびらがほんのすこししかあいていないので、そのあいだにはさまった。おかげでボタンをすっかりなくしてしまったよ。」と、ビルボはかなしそうにちぎれた着物を見ながら、いいました。「だがなんとかぶじにくぐりぬけた──こうして、ここに来られたわけです。」  ドワーフたちは、ビルボが番人たちをやりすごし、ゴクリの上をおどりこえ、門をすりぬけてきたと、かくべつむずかしくも、おそろしくもなかったように、いうのをきいて、あらためてビルボをあおぎ見ました。  「どうじゃ、わしがさっき、何といった?」とガンダルフが笑いながらいいました。「バギンズ君は、諸君の考える以上の人物なのじゃ。」こういってガンダルフは、もしゃもしゃはえた眉毛の下から、ビルボにみょうな目つきをおくりました。ホビットはそれで、自分がいわなかったことまで魔法使いが見ぬいたのではないかと、思いました。  今度はビルボの方が、ききにまわる番でした。ガンダルフがすでにドワーフたちに話してきかせていたとしても、ビルボはまだ何もきいていませんでした。ビルボは、魔法使いがどうしてまいもどってきたか、またみんなが今いるのはどこか、を知りたいと思いました。  魔法使いは、ほんとうのところ、自分のりこうぶりをくりかえしてきかせるのはちっともおっくうにしませんでしたから、ビルボに、つぎのように話しました。ガンダルフもエルロンドも山脈のあのあたりに、悪いゴブリンたちがいることをよく知っていました。けれどもゴブリンたちの表入口は、まえには山ごえのしやすいべつの峠道についていました。そこで、その表入口のちかくで夜をすごすひとたちを、ゴブリンはよくつかまえることができたのです。けれどもその後旅人たちはその道をこえることをやめてしまったにちがいありません。そこでゴブリンたちも、ごく近ごろ、ドワーフたちの通ったあの峠道の頂上のあたりに、新しい入口をもうけたらしいのです。その道はつい近ごろまでまったく安全だったのです。  「こうなったからには、なんとかわけのわかる巨人にたのんで、あの入口をふさいでもらうように、しなければならんな。さもないと、まもなく、どこからも山ごえができなくなってしまう。」とガンダルフはつけくわえていいました。  ガンダルフは、ビルボのさけび声をきくより早く、どんなことがおこったかがよめました。ガンダルフにおそいかかったゴブリンたちをうち殺したあの稲光のひらめくなかで、ガンダルフは、ちょうどしまりかけていた岩のわれめにおどりこみました。そしてひきたて役のゴブリンたちと、めしとられたドワーフたちのあとについて、大広間の入口に来ました。そこにすわってガンダルフは、そのくらやみの中で、あらんかぎりの魔法の力をふるいおこしたのでした。  「とてもやりにくい仕事じゃったぞ。」とガンダルフはいいました。「さわればドカンじゃ。」  とはいえガンダルフは、火とあかりのまどわしの術をきわめた名人でした(ごしょうちのように、ホビットでさえも、昔トックじいさまの真夏の夜の祭りにしたふしぎな花火が忘れられなかったものです)。そこからわたしたちの知っている話になりますが、じつはガンダルフが、裏口のことをよく知っていたのです。その裏口をゴブリンたちは、下の門とよび、ビルボがボタンをすっかりなくしたあの出口でした。じつのところ、その裏門は、この山脈のこのあたりのことをよく知っている者には、よく知られた場所でした。けれども暗いトンネルのなかで、その方角をさだめて、正しい方へ一同をみちびくには、魔法使いのなみなみならぬ苦心がいりました。  「ゴブリンたちはあの門を、ずいぶんむかしに作ったものじゃ。」とガンダルフがいいました。「一つには、にげだす必要がある時のにげ口じゃが、一つにはおくの国々へぬけ出る近道にも使っておる。やみにまぎれて出ていっては、悪いことをしこたましでかしてくる。ゴブリンたちはいつもここを守っていて、いまだだれもそこを破った者がない。だが、こうなっては、やつらもけいかいを二重にして門を守っとるじゃろう。」とガンダルフは笑いました。  ほかの者もみな笑いました。みんなのなくしたものはもとより大きいのですが、それでも大ゴブリンを殺し、そのほかゴブリンどもをおおぜい殺しましたし、そのうえ全員がぶじにのがれましたから、まあうまくやったといえるかもしれません。  けれども魔法使いは、みんなの気持ちをひきしめました。「わしらは、すぐさま、でかけなければならないぞ。もうたっぷり休んだ。」とガンダルフがいいました。「夜がくれば、ゴブリンどもは何百となくくりだして、わしらのあとを追うだろう。もうこんなに日かげが長くなった。あいつらは、わしらが通ってから何時間たっても足あとのにおいをかぎつけてくる。夕やみがおりる前に、何キロも進んでいなければならん。もし晴れていれば細い月があるはずじゃ。運がいいぞ。あいつらには月などおかまいなしだろうが、こっちには道をきめるたよりになるからな。」  「ああ、そうか!」と、ガンダルフは、ホビットがまだわからないでいた事がらをききましたので、それに答えました。「ゴブリンのトンネルのなかで、時間の感じをくるわせたのじゃな。きょうは木曜日じゃ。わしらがつかまったのが月曜の夜か火曜の朝じゃった。わしらはあそこで何十キロと歩きまわり、山のどまんなかを通りぬけて、山脈の反対がわへこえたのじゃ。たいした近道になったわけじゃよ。だがわしらは峠をこえておりてくるはずの道には出てこなかった。ずっと北へはずれている。だいぶやっかいな土地にさしかかった。ここはまだかなり高い山のなかじゃ。さあ、でかけよう!」  「ものすごくおなかがすいてるんです。」と、ビルボは泣き声をあげました。前の前の前の晩からごはんを食べていなかったことを、いきなり思いだしたのです。ホビットのならいを考えれば、それもむりはありません。命がけの事件がすぎさってみると、胃ぶくろがからになり、足ががくがくしました。  「そうしてはおられぬ。」とガンダルフがいいました。「それとも、これからひっかえして、わたしの馬につけた荷物だけでも返してくれと、ゴブリンたちにていねいに頼んでみるか?」  「めっそうもない!」  「それならよし。さあ、バンドをきりりとしめあげて、てくてく歩くんじゃ。さもないとわしらが夕めしのたねにされるぞ。食べるどころではないわい。」  進むとちゅう、ビルボはまんべんなく左右を見まわして、食べられるものをさがしました。しかし今は黒イチゴがようやく花をつけたばかりですし、もちろんクルミのようなものもなく、グミの実などもありません。ビルボはイタドリの葉をちぎってなめ、道を横ぎる小川の水をすくって飲みました。その岸で見つけた野イチゴを二つぶ三つぶ口にいれましたが、これはたいしてうまくありませんでした。  一同はなおも進みに進みました。でこぼこ道はなくなりました。やぶや、丸石のあいだにしげるせいの高い草むら、ウサギのかじった野シバの一すみ、タイムやセージやマヨラナなどというかおりの強い薬草のはえているところ、黄色い岩バラの咲くあたりもすぎさって、いつしか見られなくなりました。そしていつのまにか、ひどいガレのあとがのこって、石のごろごろ落ちている大きなけわしいがけの上に立っていました。一同ががけをおりはじめますと、岩のかけらや小石などが足もとからざらざらところがり落ちました。と思うまもなく、かなり大きな岩のわれたのが、がらがらがらとくずれ落ちてゆき、たくさんのかけらをともなって、ざざざっところがっていくと、つぎに大きな岩のかたまりがつりこまれてころがりだし、土けむりととどろきをのこしてくだけちりました。するとほどなく、一同の上も下も、あらゆる斜面が一度に動きだしたように思われ、一同はたがいにごたごたになって、ごうごうがらがらと、すべりくずれる岩や石のかたまりのなかにのみこまれて、すべり落ちてしまいました。  一同のいのちを助けたのは、谷底の林でした。谷間をうずめる黒々とした暗い森のなかからぬきんでて、山の斜面にのびていたマツ林の高いこずえのはしに、みんなはひっかかったのでした。ある者は幹につかまって、低い枝にぶらさがり、またある者は(ホビットのような小さい者たちは)、岩のなだれから身を守ろうとして、木のうらがわにかくれました。まもなく危険はおわりました。地すべりはとまり、動いて落ちたいちばん大きな岩が、はずんで、くるくるまわりながら、はるか下のワラビやマツの根のなかに落ちこんでいく、さいごの音がかすかにひびいてきこえました。  「やれやれ、えらくやられたもんじゃ。」とガンダルフがいいました。「わしらをつけてくるゴブリンたちでも、ここまでしずかにおりてくるのは、たいへんじゃぞ。」  「そりゃそうでしょう。だけどゴブリンどもが、わたしたちの頭の上に石を落とす気なら、そんなことぞうさない。」ボンブールが反対しました。ドワーフたちは(ビルボも)、いやあな気持ちになって、それぞれすりむいたりきずついたりした手足をこすりました。  「なにをばかな! わしらはこれから、この地すべりの道からそれて、べつの道をゆくのじゃ。さあ、急がなけりゃならんぞ! 日ざしを見ろ!」  日は、とうに山のうしろに沈んでいました。宵やみは一同のまわりにはや深くなり、黒いこずえの上や枝のあいだからながめやるはるかかなたの平原の上には、おぼろに明るいたそがれの光を見ることができました。一同は、南の方へのびてゆくくだり道を見つけて、マツ林のゆるい斜面を、足をひきずりながらも、できるだけ急いで、たどっていきました。時とすると、海のようにひろがるワラビの原をわけていきますが、すくすくのびたそのしげみは、ホビットの頭をこしました。また時には、じゅうたんのようにマツ葉をしきつめた道を、音もたてずに進みました。そしてそのあいだに、森のくらやみはますますこくなり、森の静けさはいよいよ深くなりました。いつも木々の葉むらを吹きならす海鳴りのような風も、その晩はそよとも吹きませんでした。  「まだどれだけ歩かなけりゃならないんですか?」とビルボがたずねました。そのころは、自分とならんでいるトーリンのひげがふわふわゆれるのがやっと見えるほどに、暗くなっていましたし、ドワーフたちのはく息がまるで馬の鼻息のように荒々しくきこえるくらい、静まりかえっていました。「足のさきは全部けがをしてまがってるし、足はずきずきします。おまけに胃ぶくろが、からのふくろのようにぽこぽこ、ゆれてますよ。」  「もうすこしじゃ。」とガンダルフがいいました。  それからずいぶん長いことたったと思うころ、一同はふいに、木のはえていない、がらんとしたあき地に出ました。月がのぼって、そのあき地をくっきりと照らしました。そこはなんとなく、一同の心に、よくない場所だと思われました。といって、見まわしたところ、悪いものも見あたりません。  この時、とつぜん、一同は、どこか遠く山のふもとから一つのほえ声をききつけました。ふるえをおびた長いほえ声でした。と、その右てにあたって、べつの声にうけつがれました。今度の声は、だいぶ近いところでした。つぎには、あまり遠くない左がわから、べつのなき声がしてきました。月にほえるオオカミでした。オオカミの集まりでした。  バギンズ君の家のあたりには、オオカミが住んでいませんが、その声はよく知っています。ビルボはオオカミの話をいろいろ読んでいました。またその(トック家の方の)年上のいとこのひとりがたいした旅行家で、ビルボをおどかすために、よくオオカミの声をまねしたものでした。ところが、月のさす森の中で、ほんものの声をきくのは、ビルボにはひどくこたえました。魔法の指輪さえ、オオカミにはあまりききません。ことにこの土地の悪オオカミのむれには、通じないのです。いったい、ひとの知らない国々のさかいにあたる荒地のくにの入口から、ゴブリンどものはびこる山地いったいにかけて、じつに悪いオオカミが住んでいて、ゴブリンよりも鼻がきき、えもののすがたを見る必要もないくらい、においがわかるのでした。  「どうしよう? どうしたらいいだろう?」とビルボはさけびました。「ゴブリンから逃げて、オオカミにつかまる。」といいましたが、このことばは、のちにことわざになりました。「一難去ってまた一難」という意味で、いまでは「フライパンをにげ出して火にとびこむ」ともいっています。  「早く木にのぼれ!」とガンダルフがどなりました。みんなは、あき地のはずれの木のあるところへかけつけて、ちょうど低く出ている枝や、とびついてもだいじょうぶなしなやかな幹をさがしました。さきをあらそって、よい木を見つけ、からだの重みでおれないぎりぎりのところまで、高くのぼっていきました。いい年よりが、木のぼりをして遊んでいる子どものように木の上にこしかけて、長いひげをたらして、鈴なりになっているのですから、はたから見たらずいぶんこっけいだったでしょう。フィーリとキーリは、とても大きなクリスマスツリーのような高いカラマツのてっぺんにいました。ドーリ、ノーリ、オーリ、オイン、グローインの五人は、大きなマツの幹からかわりばんこにぎょうぎよくつき出している枝に、らくらくとこしかけていました。ビフールとボフールとボンブールとトーリンはべつのマツの木にいました。ドワーリンとバーリンとは、いく本かの枝の出たしなやかな大きいモミの木にとりついて、こずえの葉むれのなかに、いいかくれ場所をさがそうとしていました。ほかのドワーフよりもずっと背の高いガンダルフは、あき地のいちばんそばにはえていた、ほかの者ののぼれない大きなマツの木にうまくのぼって、枝のあいだにかくれました。ただよく見れば、顔をのぞかせているので、その眼に月の光がきらきらかがやくのがわかりました。  ではビルボはどこに? ビルボはまだどの木にもとりつけないで、幹から幹へ走りまわっていました。犬におわれたウサギが自分の巣の穴を見うしなってしまったようなようすでした。  「おまえはまた、忍びの者をのこしてきたな。」とノーリが下にいるドーリを見ていいました。  「ぼくだって、いつも背なかに忍びの者をおぶっているわけにいかないよ。」とドーリがいいました。「トンネルをくだるにも、木にのぼるにもおぶってるのかい? いったいぼくをなんだと思ってるんだ? 荷かつぎかい?」  「なんとかしなければ、あれはくわれてしまうぞ。」とトーリンがいいました。そういえば、一同をかこむいたるところから、ほえる声がおこり、それがだんだんに近づいてきます。「ドーリ!」とトーリンが、いちばんとりつきやすい木のいちばん低いところにいたドーリをよびました。「いそげ、バギンズどのをひろいあげろ!」  ドーリは、ぶつぶつ文句をいいましたが、根はやさしい男でした。ドーリはいちばん下の枝までおりて、できるだけ手をのばしましたが、あわれなビルボは、ドーリの手にとどきません。そこでドーリは木をよじおりて、ビルボを背なかにかきあげました。  ちょうどその時、オオカミがうなりながらあき地にかけこんできました。あっというまに、何百という目がふたりの上に集まりました。それでもまだドーリはビルボをのせていました。ビルボが肩から枝にはいあがるのを待って、ドーリは、その枝へおどりあがりました。あわやというところでした! 一匹のオオカミがとびあがって、ドーリのマントにくらいつきました。すんでにドーリをつかまえるところでした。またたくうちに、その木のまわりは、オオカミのむれにかこまれました。オオカミどもは、目を光らせ、舌をたらして、さかんにほえたてたり、幹にとびついたりしました。  けれどもさすがのアクマイヌ(荒地のくにのさかいからさきにいる、たちの悪いオオカミはこう呼ばれていました)でも、木にはのぼれません。ですからひとまずみんな安全でした。つごうよくあたたかい晩で、風もありません。木の上は、長いことすわっているにはあまりらくなところではありません。けれども、さむい、風のふく日に、下で待ちうけているオオカミのむれにかこまれた場合は、それこそやりきれない場所ですよ。  木々にかこまれたこのあき地は、もともとオオカミたちの集まる場所なのでした。むれはますますふえつづけました。そのむれは、ドーリとビルボのいる木の根もとに見張りをのこして、どの木にひとがいるかと、一本一本かぎまわって、さがしあてては見張りをおきました。のこりのむれは、もう何百匹になるかわからないくらいで、あき地に大きな輪をつくってすわりこみました。輪のまんなかに一匹の大きなはい色のオオカミがいました。その大オオカミは、おそろしいオオカミ語でむれのものに話しました。ガンダルフにはその言葉がわかりました。ビルボにはわからなくても、ぞっとする声にきこえました。そしてその話のなかみが、むごたらしくていやらしいことのように思われましたが、まったくそのとおりだったのです。ときどき、輪になったアクマイヌたちは、そろって、はい色の親分に返事をしますが、そのおそろしいどよめきは、あわれなホビットをマツの木からゆりおとさんばかりでした。  ビルボにはわからなくて、ガンダルフにはわかった、オオカミたちの話のなかみを知らせましょう。アクマイヌたちとゴブリンたちとは、たびたび、悪い仕事のあいぼうになりました。ゴブリンたちは、ふつう、住んでいる山からあまり遠くまで出かけません。もっとも、山を追われて新しい住処を見つける時や、戦争(ありがたいことに、もうずいぶん長いこと、戦争がおこりませんが……)にむかう時は別です。でもこのごろ、ゴブリンたちはよく、大ぜいでどろぼうにでかけました。食べものをかすめにいくこともあれば、奴隷をさらいにいくこともありました。そんな時に、ゴブリンたちはよくこのアクマイヌたちに手伝わせて、ぶんどり品のわけまえをくれてやりました。ときにはゴブリンたちは、人間が馬に乗るように、オオカミの上に乗ってでかけました。そしてちょうどこの夜、大がかりな「ゴブリン荒し」をやりにいくところだったらしいのです。アクマイヌどもはゴブリンたちとここで出あうつもりで来たのですが、ゴブリンの方がおくれました。そのわけは、いうまでもなく、あの大ゴブリンが死んだため、またドワーフたちとビルボと魔法使いのひきおこした大さわぎのためで、ゴブリンたちはまだこの一同のあとをさがしまわっていたからなのです。  さて、これほど遠いさまざまな危険がある土地に、ちかごろ、勇気のある人間たちが南のくにからはいりこんできました。そして、木をきりたおし、谷間や川ぞいの明るい森をえらんで、住む土地をきずきあげていました。そういう人たちはみな勇気があり、しっかりと武器をそなえていましたから、アクマイヌたちも、その人たちがたくさん集まっているところや明るい昼間は、おそいかかることができませんでした。ところがこの時、オオカミたちはゴブリンたちとくんで、夜になってから、山にいちばん近い森の人の村々をおそう計画をたてていたのです。そうなればあくる日村人たちは、そのいく人かはゴブリンにとらえられて、洞穴につれていかれ、のこった人はみなごろしになってしまうでしょう。  きくだけでもおそろしい話でした。勇ましい森の男たちとその奥さんたち、子どもたちにとってばかりでなく、さしあたって、ガンダルフとその友だちにとっても危険な話でした。アクマイヌどもは、自分たちのだいじな集まりの場所に、どうしてこんな連中がいるのかとあやしく思い、またふんがいしていました。そしてこの連中は森の人たちの仲間で、こちらをさぐりに来たにちがいないと考えました。そんなスパイだとすると、こちらの考えを谷いったいにふれまわるでしょうし、そうなれば、オオカミとゴブリンとが、寝おきをおそって人々をつかまえたり殺したりすることができなくなり、森の人たちとはげしい戦いをまじえなければならなくなるはずです。そこでアクマイヌどもは、とにかく朝までは、ここをひきはらってはならない、木にのぼっている連中を逃がしてはならないと思いました。それにまもなくゴブリンの兵士たちが、山をくだってくるだろう。ゴブリンたちなら木にものぼれるし、木をきりたおすこともできる。オオカミたちはそういっていました。  こんなわけで、オオカミどものうなり声さけび声をきいているうちに、魔法使いの身でありながらガンダルフさえ、そらおそろしく思いはじめ、逃げられないこの場所をいまいましく思いはじめたとて、ふしぎでありますまい。それとともにガンダルフは、オオカミどもをその仕事におもむかせないようにしたいのですけれども、そのオオカミにかこまれて、高いこずえにくぎづけされていたのでは、いったい何ができましょう。しかし、ガンダルフは方々の枝から大きなマツカサを集めました。それからその一つに青い火をつけて、ひゅっと、オオカミどもの輪のあいだに投げつけました。それは一匹の背なかにあたり、すぐにふさふさした毛皮に火がついて、そのオオカミは、おそろしくなきながら、あちこちはねまわりました。つづいてつぎつぎに、青いほのお、赤いほのお、緑のほのおとなって、マツカサがとびました。それらは、オオカミの輪のまんなかの地面におちて、もえあがり、さまざまの色の火花と煙をだしました。とくに大きい火の玉が、親分オオカミの鼻にあたり、そのオオカミは三メートルも宙にとびあがって、いかりとおそれのあまり、ほかのオオカミにかみつきながら、輪のまわりをぐるぐると走りまわりました。  ドワーフたちとビルボとは声をあげて、はやしたてました。オオカミのくるいたったいかりは、見るもおそろしく、オオカミのまきおこしたさわぎは、森じゅうにこだましました。オオカミというものは、いつでも火をおそれます。しかしこれは、とくべつおそろしくて、とくべつふしぎな火でした。火花が毛皮にとぶと、からだにとっついて毛皮をもやします。そしてオオカミがすぐにごろごろ地面にころがらないかぎり、すぐにからだじゅうほのおにつつまれてしまいます。たちまちのうちに、森のあき地じゅうに、ごろごろとオオカミどもがころがって、背なかについた火花を消しはじめました。一方、火につつまれたオオカミどもは、ほえさけびながら走りまわって、ほかのオオカミに火をうつしました。つけられた方のオオカミは、おこってあいてをおいはらいましたから、火のついたオオカミはなきながら山の斜面をくだり、水をさがしにでかけました。  「こよいの森のこの大さわぎは、なんだ?」とワシの王がいいました。王は、月の光をあびて、黒々とすわっていました。そこは霧ふり山連山の東のはしにある、一つとびはなれた岩の峰の頂上でした。「オオカミの声だな。ゴブリンどもが森の中でいたずらをしおったのか。」  王は空中にまいあがりました。するとすぐに、王の左右にいたおつきの二羽が、岩からとびたって、王のあとをおいました。三羽は空に輪をえがいて、はるか下の下の方に小さな点になってみえるアクマイヌたちの輪を見おろすところへ来ました。ワシというものは、鋭い眼を持っていて、たいへん遠くにある小さなものまで見ることができます。ことに霧ふり山のワシの王は、なみすぐれた眼を持っていて、まじろがずにお日さまを見すえることができましたし、月あかりのなかで、一キロ半も下で走っているウサギを見つけることができました。ですから王は、木にのぼったひとたちを見つけだすことはできませんでしたが、オオカミの大さわぎをながめ、あちこちでもえる火を見たり、かすかにきこえてくるうなり声さけび声をきいたりすることができました。その上、王は、ゴブリンたちの槍やかぶとが月光にきらめくのも見てとりました。この悪い小人たちは長い列をつくって、門から山すそへおしだし、森の中へねりこんでいくところでした。  ワシはもともと、けっしてやさしい鳥ではありません。なかには、おく病なくせにひどいことをするものもいますけれども、北の山国にいる昔からのワシの一族は、あらゆる鳥たちのうちでいちばんえらいものでした。そのワシたちは、気位が高くて強く、またけだかい 魂 を持っていました。このワシたちはゴブリンが大きらいで、かれらをおそれませんでした。こんなものはくちばしにかける食べものでなく、したがっていつも注意はしませんが、たまたま眼にとまれば、たちまちとびかかって、その洞穴においかえし、悪いことに手だしをさせないのです。それでゴブリンたちはワシたちをにくみ、またおそれていましたが、ワシたちの住む高い巣のありかまでいくことができず、山からワシたちをおいはらうことができませんでした。  今夜、ワシの王は、何がおこっているのかが知りたくてなりませんでした。それでたくさんのワシたちについてくるように命じました。ワシのむれは山をとびたって、ゆっくり上空で輪をえがきながら、オオカミの輪の方へ、ゴブリンたちの集まる場所へ、だんだんにまいおりてきました。  それが、ちょうどこうつごうでした。下では、おそろしいことがおこなわれようとしていたのです。火がついて森の中へ逃げこんだオオカミたちは、森のあちこちに火をつけてしまいました。いまは夏のさかりですし、山の東がわのこのあたりは、しばらく雨がふりませんでした。黄色くすがれたワラビやおちていた枯枝、つみかさなったマツバやあちこちの枯木が、たちまちほのおにつつまれました。アクマイヌのいるあき地のまわりは、どこにも火がおどっていました。けれどもオオカミの見張り役は、木の下を逃げようとしません。ますますくるいたち、おこりながら、オオカミどもはあちこちの幹のまわりをうなってかけめぐり、舌を出しながら、おそろしいオオカミ言葉でドワーフたちをのろって、ほのおのように赤くはげしく目玉を光らせました。  その時、とつぜん、ゴブリンたちがさけびながら走ってきました。ゴブリンたちは、森の人たちと戦いがはじまっているのだとばかり考えていたのですが、たちまち、どういう事件がおこったかがわかりました。すると、地べたにすわって笑う者もありますし、槍をうちふる者、矢でたてをたたく者もありました。ゴブリンたちは火をおそれません。たちまち思うさま自分たちが楽しめる、よからぬ計画を思いつきました。  ゴブリンたちのある者は、すぐさまオオカミをよびよせにかかりますし、またある者は、シダや枯枝を集めてきて、ドワーフたちの木のまわりにつみあげました。またある者は、あたりをかけまわり、ふんだりたたいたり、もんだりけったりして、ひろがるほのおを消してまわりました。消すといっても、ドワーフたちのいる木のそばの火は、消しませんでした。それどころか、わざわざ、枯葉や枯枝をくべ、ワラビをつんで、火をおこしにかかりました。こうしてまもなく、ドワーフたちをぐるりとかこむ、煙とほのおの輪ができました。その輪を、ゴブリンたちは、うちへうちへともえたてるようにつとめました。火はしだいにせばまり、やがてちらちらともえるほのおが、木の下につみあげたたきぎの山へもえうつりました。ビルボの眼に煙がはいりました。からだに、ほのおのほてりを感じました。そしてビルボには、煙をこして、まるで真夏の夜祭りの焚火をかこむもののように、ゴブリンたちが輪になってぐるぐる踊っているのを見ることができました。槍とほこをもつゴブリン兵士たちの踊りの輪のそとがわでは、じゃまにならないようにあいだをとって、オオカミたちが、じっと見守り、じっと待ちかまえていました。  ビルボには、ゴブリンたちがおそろしい歌をうたいだしたのが、きこえてきました。 モミの木五本に、小鳥が十五羽、 ほのおにあおられ、羽毛がそよぐよ。 おかしな小鳥だ、つばさがないぞ。 こんな小鳥は、どうしたらよかろ? なまであぶるか、なべにいれるか? フライにするか、ぐつぐつにるか?  それから、ゴブリンたちは、歌をやめて、子どもの遊びの文句をはやしたてました。「とべ、とべ、小鳥。とべるものならとんでみろ。さもなきゃ巣ごと火であぶろ。うたえ、うたえ、小鳥。どうして歌をうたわない?」  「こら、あっちへいけ、小僧ども!」とガンダルフが、どなりかえしました。「小鳥の巣なんかとるものじゃない。火いたずらをするいたずら坊主どもは、きっと、ばつをくうぞ。」ガンダルフがこういったのは、ゴブリンどもをおこらせるため、また自分がこわがってないところを見せつけるためでした。でももちろんガンダルフのような魔法使いでも、こわかったのです。けれどもゴブリンたちは、ガンダルフにかまわずに、また歌をうたいつづけました。 もえろ、もえろ、木よ、シダよ! じりじりこげろ、たいまつあかり、 こよいの楽しみ、てらすため。 ヤァ、ホーッ! やこう、あぶろう、フライにあげよう! ひげはパチパチ、かみの毛ジリリ、 目玉ばくはつ、からだがはれつ、 あぶらみとろり、ほねはかりかり、 すっかりはいになって、 ドワーフたちが、この世におさらば。 こよいの楽しみ、おいらがたき火。 ヤァ、ホーッ、ヤァ、ホーッ、ホーッ!  このさいごのホーッといった時、ほのおがガンダルフのいる木にとどきました。そしてたちまち、ほかの木にももえひろがりました。幹の皮がもえ、下枝が音をたてはじめました。  この時ガンダルフは、木のてっぺんにのぼっていました。そしていきなり、ガンダルフの魔法の杖から、いなずまのようなはげしいかがやきがひらめきました。これでいよいよガンダルフが木のてっぺんからゴブリンどもの槍ぶすまのなかに身をなげるのか、とうとうさいごをとげるのか、ガンダルフがかみなりさまのように、ごろごろぶつかって、ゴブリンたちをたくさん殺しにかかるのかと、思われました。ところが、ガンダルフは、とびおりたのではありませんでした。  おりしもこの時、ワシの王が空からさっとまいおりて、ガンダルフを爪にかけて、つれていってしまいました。  ゴブリンたちのあいだに、おこるやらおどろくやら、大さわぎがおこりました。一方、ワシの王は、ガンダルフがすっかり話すのをきいて、はげしくさけびました。王とともにいた大きな鳥のむれが、はばたきしながらまいもどって、黒い大きな影のように、おりていきました。オオカミどもは、ひめいをあげて、歯をがちがちかみあわせました。ゴブリンたちは、きいきい声をたてて足をふみならし、空に槍をとばしました。だが、だめでした。オオカミとゴブリンの上を、ワシたちがおそいかかりました。力強いつばさを黒々とひろげておりるたびに、ゴブリンたちはたたきつけられ、オオカミはふきとばされました。ワシの爪はゴブリンの顔をひきさきました。一方ほかのワシのむれは、木の上にまいあがって、これほど高くのぼったことのないこずえまでのぼっていたドワーフたちを、つかまえました。  あわれなちびのビルボは、ここでもあぶなくとりのこされそうになりました。ドーリがさいごに連れ去られるまぎわに、なんとか足にしがみつくことができました。ふたりはいっしょになって、大さわぎの火事場の上をとび、ビルボは両方の腕がぬけそうになりながら、空中をぶらさがっていきました。  はるか下のゴブリンたちやオオカミたちは、森の中に広くちらばって逃げています。なん羽かのワシがあとにのこって、火事場の上をぐるぐるめぐりながら、とんでいます。木々のまわりのほのおが、いきなりめらめらとてっぺんの枝をつきぬけて、もえあがりました。それは、ぱちぱちとはぜてもえる火柱になりました。火の粉と煙がひときわ高く風をまいて、のぼりました。ビルボは、ほんの一足のところで、たすかったのです。  まもなく、火事のあかりは、かすかになり、地上の黒い床の上の、ほんのかすかな赤い点になりました。そしてドワーフたちは、強いはばたきの輪にのって、空高くはこばれていきました。ビルボは、ドーリのくるぶしにしがみついたまま空をとぶこの時のつらさを、のちのちまで忘れませんでした。ビルボは、「腕が、腕が!」とうめきますし、一方ドーリは、「足が、足が!」とうなりました。  高く高くのぼりつめた時、ビルボは、くらくらと目をまわしました。いったいビルボは、ちょっとしたがけのはじに立ってながめおろしても、めまいがするたちでした。はしごがきらいで、木のぼりもしませんでしたが、昔はオオカミから逃げだす必要もなかったのですから、高いところへのぼったことがなかったのです。そのビルボが、ぶらつく足のあいだから下を見て、はるか下に広くひろがるまっ黒な地上が、ところどころに月の光をうけて、山あいの岩や野原の川がきらりと光っているのをながめた時に、頭がくらくらしたのは、むりもありませんでした。  山脈の青くかがやく頂上が、しだいに近づいてきました。暗いかげからくっきりと月光にひかって浮かびあがる岩のほが、いくつも見えてきました。夏でもいつでも、季節をこえてたいそう寒そうに見えました。ビルボは目をとじて、これ以上もちこたえられるだろうかと、思いました。そして、ここで手をはなしたらどうなるだろうと、考えました。するとにわかに、気持ちが悪くなりました。  この飛行は、すんでのところビルボがもうだめというまぎわに、ちょうどおわりました。ビルボの腕がきかなくなるほんのちょっとまえだったのです。ビルボは、にぎったドーリの足首をはなして、ワシの巣のある岩だなへころがりおちました。そしてそこに、言葉もなくたおれていましたが、その思いには、思いがけず火あぶりからすくわれた時のおどろきと、このせまい岩だなへおちないで、すぐわきの深いかげのなかにのまれたらどうだったかというおののきが、いりまじっていました。ほんとうのところ、ビルボの頭の中は、この時、飲み食いもせずつぎからつぎへと三日間、おそろしい冒険がつづいたあとで、こんぐらかって、おかしくなっていました。そこで思わず、こんなひとり言がもれました。「ああ、ベーコンが、フライパンのなかからフォークにもちあげられて、たなの上にもどされた気持ちが、よくわかる!」  「そんなこと、ないじゃないか。」とドーリがどこかで答える声がしました。「ベーコンなら、おそかれ早かれ、またフライパンにいれられるものだ。わたしたちは、ベーコンになりたくないね。それに、ワシはフォークじゃないよ。」  「そうだよ、ちっともポークじゃありゃしない。いや、フォークじゃないというつもりだったんだ。」と、ビルボは、からだをおこしてすわって、心配そうに、すぐそばにとまったワシを見あげました。ビルボは、自分がずいぶんばかなことをいってしまって、ワシが失礼なやつだと思いはしないかと、気になったのです。ホビットほどの小さな小人が、夜の夜なか高いワシの巣にいるのですから、ワシに失礼なことをしてはなりませんとも。  でもそのワシの方では、岩でくちばしをといで、はねをかいつくろって、すましていました。  まもなく、ほかのワシがとんできました。  「ワシの王が、おまえのめしつれた者どもを、大岩だなへつれてこいと、おおせだぞ。」とそのワシは、さけんで、またとび去っていきました。こちらのワシは、ドーリを爪につかむと、ビルボだけをその場に残して、夜のやみのなかにとんでいきました。ビルボが、ようやく、使いのワシが「めしつれた者ども」といったことを思いだし、さては、晩ごはんにウサギのようにひきさかれるのではないかと、あやしみはじめたころ、ようやく自分のじゅんばんがまわってきました。  ワシは、もどってきて、ビルボの着物の背なかをするどい爪でひっかけ、はばたきしてとびあがりました。今度は、すこしのあいだとんだだけでした。まもなくビルボは、おそれおののきながら、広い岩だなの上におろされました。空をとぶよりほかに、そこにのぼる道はなく、だんがいをとびおりるほかに、おりる道はありません。そこに、ほかのドワーフたちが岩かべにもたれてずらりとすわっているのが、見えました。ワシの王もおなじくそこにいて、ガンダルフと話していました。  ビルボには、これから食べられるのではないらしいことがわかりました。魔法使いとワシの王とは、おたがいにすこしは知りあいのようですし、かなりなかがいいようにさえみえます。じつのところ、ガンダルフは、よくこの山にも来たことがあり、昔はワシに力をかしてやったことも、王の矢きずをなおしたこともありました。ですから「めしつれた者ども」とは、ただゴブリンから助けだした者という意味で、ワシのえもののことではなかったのです。ガンダルフの物語るのをきいて、ビルボも、とうとうあのおそろしい山から、うそいつわりなく、ぬけだせるところなのだということが、わかってきました。ガンダルフは、あれこれとワシの王とうちあわせ、うまくドワーフたちやビルボをはこんで、かなたの平地を通りぬける道のほとりにおろしてもらうように、話しこんでいたところでした。  ワシの王は、ひとの住むところには、一同をつれていくつもりはないといいました。「人間どもは、イチイの木の大弓で、ワシどもをうつ。人間どもは、ワシどもが、かれらのヒツジをおそうと考えているからだ。まあ時にはそんなこともあろう。だが、ことわっておく。なるほど、ワシどもは、ゴブリンのわるふざけをからかってやるのがすきだし、またあんたにお礼をかえしたいとも思っているが、この小人たちのために、ワシどものいのちをかけてまで南の方へでむくことはしないぞ。」  「それでけっこうじゃとも。」とガンダルフがいいました。「どこへでも、あなたがたのすきなだけ遠くへ、つれていってくだされ。今までのことだけでも、まことにありがたく思っておりますぞ。だが、こうしているあいだにも、はらがへって、死にそうじゃわい。」  「わたしは、もう死にます。」とビルボが、かすかな声でいいましたが、それはだれにもきこえませんでした。  「それはみたしてとらせよう。」とワシの王がいいました。  それからしばらくして、高い岩だなの上では、明るい焚火が見られました。それをかこんでドワーフたちが料理をし、すてきな肉をあぶるにおいがしました。ワシたちが、火にくべるかわいたたきぎをはこんでくれたばかりか、いろいろなウサギや、一頭の小さいヒツジまで持ってきました。ドワーフたちがしたくをすっかりととのえました。ビルボはあまり弱っていたので、手だすけができません。それにとにかくビルボは、今まで料理するばかりになった肉を肉屋にとどけてもらっていましたから、ウサギの皮をはいだり、その肉をきざんでこしらえたりするのは、うまくなかったのです。ガンダルフも、火をおこす手つだいをすますと横になっていました。火をおこすにも、オインとグローインが、だいじな火つけ箱をなくしてしまったので、ガンダルフの魔法をかりなくてはなりませんでした。いまでも、ドワーフはマッチをつかう習慣がありません。  こうして、霧ふり山での冒険は、おわりました。やがてのこと、ビルボのおなかはくちくなり、また気持ちもおちつきました。肉を棒にさしてあぶったものよりは、バタつきパンの方が食べたかったのですが、それでも、やすらかに眠れるような気になりました。そしてビルボは、その晩自分の住居の穴のふわふわした羽根ベッドで寝るよりも、もっとぐっすり、かたい岩の上で、まるまって眠ってしまいました。けれども一晩じゅう、わが家の夢を見て、その夢のなかで、あの部屋この部屋と歩きながら、もう忘れてしまったり、見つけられなかったりするなつかしいものを、さがしまわっていました。 7 ふしぎな宿り  つぎの朝、ビルボは、のぼる朝日をまぶたにうけて、目をさましました。とびおきて、時間をしらべ、お湯をわかしにいこうとしましたが、ここはわが家ではありませんでした。そこで、腰をおろして、顔をあらい、歯をみがきたいものだと、思ってもしかたがないことをねがいました。顔をあらったり歯をみがいたりするどころか、朝ごはんのお茶もトーストもベーコンももらえません。やっと、つめたいヒツジの肉と、ウサギの肉が出ただけです。それがすむと、早いかどでの用意にとりかからなければなりませんでした。  今度はビルボは、ワシの背なかによじのぼって、しっかりとつばさのあいだにしがみついてよいことになりました。空気がからだの上をぴゅうぴゅう流れ、ビルボは目をとじました。ドワーフたちが、さよならをさけんだり、今度来られたらワシの王にお礼をさしあげるとちかったりするうちに、十五羽の大きな鳥たちがいっせいに山のきわからまい立ちました。お日さまは、まだ東のはてにのぼるところでした。朝の空気はつめたく、霧が谷々やくぼ地から、あちこちの峰々やとがったいただきにまつわりついて、立ちのぼっています。ビルボは目をあけて、あたりをながめました。鳥たちはもう高くのぼって、地上がはるか下になり、うしろにぎざぎざの峰をつらねた山々がかなり遠くに見えました。ビルボはふたたび目をつぶって、いっそうしっかりとしがみつきました。  「しがみつくな!」と、ビルボのワシがいいました。「ウサギみたいに、びくつくことはないぞ。顔はずいぶん、ウサギににてるがなあ。風のないよくはれた朝じゃないか。ここをとぶよりも、すてきなことがあるかい。」  ビルボは、よほどいいたかったのです。「あたたかい風呂にはいって、そのあとでゆっくり、芝生で朝ごはんを食べるほうが、すてきですよ。」と。けれども、ここでは、なにもいわない方がいい、しがみついている手をすこしゆるめる方がいいと、思いました。  かなりたってから、ワシたちは、このように高い高いところからでも、めざしていた地点をさがしあてたにちがいありません。大きくぐるぐると輪をえがきながら、しだいに下へおりはじめました。だいぶ長いこと、そうしてらせんをえがいているうちに、とうとうホビットもふたたび目を見ひらきました。大地はぐんと近くなっていました。眼の下には、カシやニレのような木々が見え、広い草地が見え、草地を流れる一すじの川が見えました。ところがそこに、地面からにわかに高くもり上がって、川の流れのまんなかに立ちはだかり、流れをせきわけている一つの大きな岩がありました。岩というよりもそれは、まるではるかな山々のさいごのなごりのような、または力の強い巨人が広野に投げこんだ山の一部のような、ほとんど岩山にちかいものでした。  その岩のてっぺんに、つぎつぎとすばやく、ワシたちははばたいており、乗せていたひとたちをおろしました。  「ごきげんよう!」と、ワシたちは、さけびました。「旅路のはての空まで、つつがなく!」──この言葉は、ワシ仲間でいう、ていねいなわかれのあいさつでした。  「日がめぐり、月があゆむところ、よい風をきってみなさんのつばさがはばたきますように!」正しいあいさつのおかえしを知っていたガンダルフが、答えていいました。  こうして、ワシたちと小人たちは、わかれました。そののちの話になりますが、ワシの王があらゆる鳥たちの王におされて、金のかんむりをつけ、その十五羽のえらい家来たちが、金の首輪をつけたものです(この金の首輪は、ドワーフたちがあたえた金でできていました)。けれどもビルボはふたたび、ワシたちにあいませんでした。いや、例の五軍の戦の時、はるか戦場の空高くに見かけたのですが、それはこの物語のおしまいに出てくることなので、ここではこれ以上お話しないでおきましょう。  岩山の頂上には、平らな場所があり、そこから川に、よくふみならされた段々がおりていて、そのすそから、川を渡る大きな平たいとび石の列があり、それを渡れば、草原の道につづいていました。さてその段々の下、川のとび石のそばには、小さな洞穴があり、小石をしきつめた、きよらかな場所でした。ここで一同はより集まって、これからどうしたらいいかを論じあいました。  「わしは、できたら、みんなをぶじに山ごしさせようと考えておった。」と、魔法使いがいいました。「そして、よいはからいと、よい運のおかげで、それをはたした。じつのところ、わしはみんなといっしょに行くとかねていっておったところより、はるかに東まで来てしまった。なにしろこれは、わしの冒険ではないのじゃ。諸君の冒険の片がつく前に、またみんなにあうこともあろう。だがそれまでのあいだに、わしはほかの急ぎの仕事に手をかさなければならんのじゃ。」  ドワーフたちは、うめき声をあげて、みじめな顔をしました。ビルボはむせび泣きました。一同は、何となくガンダルフが、これからもずっといっしょに行ってくれて、危険があればかならず助けてくれるものと、思いはじめていたのです。「いますぐに、いなくなるとは、いっていないぞ。」とガンダルフはいいました。「まだ一日二日、つきあえる。いまの難場から、みんなを救いだせるかもしれん。そしてまた、わし自身すこしばかりだれかの助けが必要じゃ。食べものもない、荷物もない、乗る馬もない。そのうえ、みんなは、いまどこにいるのかも、さっぱりわからんじゃろう。それは教えてあげられる。あんなに火がついたようにあわてて、山をにげだしたのでなければ、いまごろ歩いているはずの道から、数キロ北にいる。わしが数年前に来た時から変わりがなければ、このあたりに住む者はごく少ない。そしてここからあまり遠くないところに、わしの知りあいのあるひと(といっても人間とはいえないが)が住んでおる。そのひとがこの段々を作ったのじゃ。たしかこの岩山をあのひとは、見張り岩と呼んでいたな。そのひとは、あまりここへ来ない。ことに昼間は来ない。ここで待っていても、どうにもならん。じつをいうと命にかかわる危険なめにあうかもしれん。こっちからあのひとをさがしに行かなければならん。そしてもしうまく出あえ、しゅびよく話がついたなら、その時にわしは、みんなとわかれ、あの大鳥たちがいったように、旅路のはてまで、ごきげんようと、いのることにしよう。」  一同は、ガンダルフに行かないでくれとせがみました。小人たちは、竜のもつ金や銀や宝石をやるとまで、ちかいました。けれどもガンダルフは、がんとして気持ちをかえませんでした。「いずれまた、あおうではないか。」ガンダルフはいいました。「わしはもう、竜の金の分け前をもらうくらい働いたと思うが。みんながあの宝をとりかえせたらばの話だが……」  こういうわけで、一同は、もうせがむのをやめました。そしてそろって、着物をぬいで、渡り場の浅瀬でゆあみをしました。川は小石をしいた、きれいな流れでした。もう日ざしが強く暖かくなっていましたから、からだをかわかして、一同は元気をとりもどしました。といっても、まだいたむところがあり、おなかも少しすいていましたが……。やがて一同は渡り場を渡りました(ホビットはおぶさってです)。それから、たけの高い草のなかをわけ、枝をひろげたカシの木と背の高いニレの木の列をたどって、進みはじめました。  「あの岩を、どうして見張り岩というんです?」と、ビルボが、魔法使いとならんで歩きながら、たずねました。  「あのひとが見張り岩という名をつけたんじゃ。なんでも自分流に名をつけるひとで、だから、あの岩は見張り岩じゃ。あのひとの近くにこの岩しかないし、この岩のことをよく知っているものじゃから。」  「こんな名をつけたひとって、だれなんです? 岩をよく知っているというそのひとは、だれなんです? あのひとってばかりいいますが、それはだれなんです?」  「さっきいったように、あるひとじゃ──じつにたいした人物でな。みんなをひきあわせる時は、できるだけていねいにふるまってくれなくてはこまる。わしは、ゆっくりと、みんなを一度にふたりずつ、ひきあわせるつもりじゃ。どうかみんなもできるだけ気をつけて、ぜったいにあのひとにうるさがられないようにしなければいけない。さもないと、たいへんなことになるわい。あのひとはきげんのいい時はじつに親切だが、一度怒ると、ぞっとするほどすさまじくなってしまう。しかも、まことに、怒りっぽいひとなんじゃ。」  ドワーフたちは、魔法使いがビルボにこんな話をきかせているのをきいて、まわりにより集まってきました。「そんなひとのところへ、これからわたしたちをつれていくのですか?」とドワーフたちはたずねました。「もっと、やさしいひとはいないのですか? もっと、くわしくそのひとのことを話してくださいな。」などと、口々にきいたのです。  「そうとも、これからゆく。いや、ほかにおらん。とにかくわしは注意深く話したはずじゃ。」とガンダルフが、おこったように答えました。「これ以上知りたいというならいうが、そのひとの名は、ビヨルン。たいへんな力持ちで、皮をとりかえるひとじゃ。」  「なんだ、それじゃ、毛皮やさんですね。ウサギの皮を売って歩いて、リスの皮ととりかえたりするんでしょう?」とビルボがたずねました。  「なんてことをいうんじゃ。ちがう、ちがう、大ちがいじゃ。」とガンダルフがいいました。「バギンズ君、どうかつとめて、ばかなことをいわないようにしてくれたまえ。どんなことがあっても、あのひとの家から百キロとはなれていないところでは、毛皮やなどといってはならんぞ。また、毛皮の敷物とか首巻きとか肩かけとか、手巻きのマフとか、そんなたぐいの不吉な言葉は、まちがっても口にするな。あのひとは、自分のからだの皮をとりかえるんじゃ。ばけるんじゃな。大きな黒クマになる時があるし、力の強い黒髪の大男となって、太い長い腕とひげぼうぼうの人間になる時もある。せいぜいそれくらいで、これ以上は話すことができん。あのひとは、山に巨人たちが来て住むまで山地にいた大昔の大グマの一族のすえだという者もあるし、またはじめての人間の子孫で、その祖先はスマウグやそのほかの竜どもがこのあたりに来る以前、ゴブリンどもが北のくにからこの山地にはいりこむ以前に、ここで栄えていたといううわさもある。わしにはどうともいえないが、あとの話のほうがほんとうではないかと思うな。なにしろあのひとは、やたらにものがきけるような相手ではないからなあ。  とにかく、あのひとは、だれかの術にかかって身をかえるのではない。自分で術をかける。カシの森のなかの、大きな木のやしきに住んでいる。人間としては、牛や馬を飼っているが、それらがまた、飼主と同じようにすばらしい生きものじゃ。動物たちは、あのひとのために働き、あのひとと話をする。あのひとの方も、家畜を食べない。いや野生のけものをとったり食べたりしたことがない。大きなはげしいハチどもを何箱となく飼っていて、その蜜や牛のクリームなどを食べて暮らしている。ところがクマになると、広く遠くまで動きまわる。わしは一度、あのひとがこの見張り岩のてっぺんで、霧ふり山脈のほうに沈む月を見つめながら、ひとりですわっているすがたを見かけたことがある。その時わしは、クマの言葉で──奴らがほろびる日は近づいた。その時わしはもどっていくぞ、と深くうなる声をきいた。これがわしの、あのひとがむかし山から追われてここに来たのだと思うわけなんじゃ。」  ビルボとドワーフたちは、あれこれと思いめぐらすたねがたくさんできました。そしてこれ以上たずねませんでした。道は前方に長くつづいていました。山坂をのぼり、谷地にくだり、一同はとぼとぼと進みました。ひどくあつくもなってきました。ときどき木々の下で休むことがありますと、ビルボはとてもおなかをすかせていましたから、みのって地面におちるどんぐりでもあったら、それさえひろって、食べてしまったことでしょう。  午後のなかばをすぎたころ、あちこちに花々がたくさんむらがって咲いているあたりに来たことに気がつきました。同じ種類の草花がまとまってはえていて、だれかが植えつけたように見えます。ことに、クローバーが多くて、とさかのような赤ツメクサ、むらさきツメクサが広がってゆれ、あまい蜜のようなかおりの白ツメクサの草原がのびていました。空中には、ずーずー、びーびー、ぶんぶんうなる音がしました。いたるところ、ハチたちがせわしげにとんでいました。また、そのハチときたら! ビルボは、こんなすごいハチを見たことがありませんでした。  「この一匹にさされたら、わたしのからだが二倍にふくらまっちまうぞ。」とビルボは思いました。  このハチたちは、スズメバチよりずっと大きいものでした。そのおすバチは、人の親指よりもだいぶ大きく、まっ黒なからだの黄色のすじは、あざやかな金のようにかがやいていました。  「もうすぐだ。」とガンダルフがいいました。「あのひとのハチ飼い場の入口にはいった。」  しばらくすると、おそろしく年をへた大木のカシの木の林に出ました。そこをこすと、のぞき見もできず、よじのぼりもできない高いイバラ垣の前に出ました。  「みんなはここに待っているがいい。」と魔法使いがドワーフたちにいいわたしました。「そしてわしが呼ぶか口笛をふくかしたら、わしのいる方へやってくるんじゃ。だから、わしが行くところをよく見ておきなさい。また来る時は、かならずふたりずつじゃ。五分ごとにふたりずつ来るんじゃよ。ボンブールは、いちばんふとってるから、ひとりでふたり分として、いちばんさいごに、ひとりで来るがよい。ではバギンズ君、行こう。こっちをまわりこんだところに、門があるはずじゃ。」こういって、ガンダルフは、びくびくしているホビットをつれて、垣根について先へ行きました。  ふたりはまもなく、木でできた、広くて高い門に出ました。その門のむこうに、花や木の庭があちこちにあり、やはり木でできた建物が一むれになって立っていました。建物のいくつかは屋根をふいてあり、あらい丸太でできていて、みな低いかまえです。納屋、うまや、物置、それに細長くて低い木づくりのやしきです。大きな生け垣の南がわにそって、垣のうちには何列も、つりがね形のワラづくりのハチの巣箱がならんでいて、大きなハチがうなりを立ててあちこちにとびかい、巣に出入りしたり空中にまいあがったりしていました。  魔法使いとホビットとは、重くてきしむ門をおしてはいり、やしきに通ずるはばの広い道をおりていきました。いく頭かの馬が、どれもぴかぴかとよく手いれのされている馬たちですが、草地をとことことかけあがってきて、たいそうりこうそうな顔でふたりをしげしげとながめました。それからそろって、建物の方へ急いでかけ去りました。  「見知らぬ者が来たと、あのひとに知らせにいったんじゃ。」とガンダルフがいいました。  すぐにふたりは、ひろい庭先に出ました。その庭の三方は、木でできたやしきと、やしきの左右にはりだした長い袖にかこまれていました。庭のまんなかに一本の大きなカシの幹が切りたおされていて、そのそばには、かりとった枝がたくさんちらかっていました。そして木のそばに、顔じゅう黒いひげだらけの黒髪の大男が立っていました。むきだしの腕も足も大きく、こぶこぶの筋肉がもり上がっています。ひざの上までくる毛織りのかんたんなかぶり着を着ています。大男は大きな斧をついて、身をもたせていました。さきほどの馬たちが、大男の肩に鼻づらをのせて、うしろにしたがっています。  「ほー、来たぞ!」と大男は、馬たちにいいました。「危険な者とは見えん。いってよし!」そして大男は 雷 のようにからからと高笑いをして、斧をおいて、進みでました。  「だれだ? して、何用だ?」大男はぶっきらぼうにそうたずねて、ふたりの前に立ちますと、ガンダルフははるかに上をあおがなければなりませんでした。ビルボの方は、大男の茶色の胴着のすそをくぐるのに、首をひょいとさげるまでもなく、らくによけて歩けるくらいです。  「わしは、ガンダルフですじゃ。」と魔法使いがいいました。  「きいたことがない。」と大男がうなりました。「してそのちびは?」と大男は、身をぐっとかがめ、太い黒々とした眉毛をしかめてホビットをじっとながめました。  「これはバギンズどの、ほまれ高いよい家がらのホビットですじゃ。」とガンダルフがいい、ビルボがおじぎをしました。ここでぬごうにも帽子がなく、またボタンがあらかたなくなっているのは、つらいことでした。「わしは、魔法使いじゃ。」とガンダルフは話しつづけました。「あなたがわしのことをきいたことがなくとも、わしの方ではあなたのことをきいとります。だがあなたはきっと、わしのよいいとこのラダガストのことは、ごぞんじじゃろう。やみの森の南さかいの近くに住んでいる者じゃが。」  「知っとる。魔法使いにしては、悪くない奴だ。むかしはときどきあったものだ。」とビヨルンがいいました。「それで、だれだかはわかった。すくなくとも、名のりはきいた。では、なんの用だ?」  「ほんとうのことを申しあげれば、わしらは、荷物をうしない、道にまよってしまったので、ぜひ力をかしていただきたいのじゃ。それがごむりなら、せめてご忠告をいただきたい。山のなかでゴブリンどもに出あって、なんぎいたしたものじゃから。」  「ゴブリンどもだと?」と大男は、すこしきげんをなおしました。「ほほう、するとあんたがたは、奴らとごたごたをおこしたのだな。ではなんで奴らと出あったのか?」  「出あうつもりではなかったのですわい。わしらが越えようとしていた峠の道で夜おそってきたのじゃ。西のくにからこちらがわへぬけようとしていたところで──それは長い話になりますわい。」  「では、なかへはいって、話してくれ。まさか一日かかるまい。」とそのひとはいって、前庭から家のなかへ通ずる暗い入口を通って、ふたりをみちびきいれました。  あとについていくと、まんなかに炉のある広々とした広間に出ました。夏でもたきぎがもえています。その煙が、屋根にあけた煙出しの穴へぬけようとして、黒くなっているたる木の方へのぼっています。あかりといえば、炉の火と天井の穴とから来るばかりの、うす暗いその広間を通りぬけて、さらに小さい入口をくぐりますと、丸太の柱がたくさんつき出ている上に組まれた一種のベランダに出ました。そこは南にむかっていて、まだ暖かく、おりからの西日が、ななめにいっぱいさしこんで、花ざかりの花壇をまぶしく浮きあがらせていました。その花壇はベランダの階段のすぐ下のところからきています。  ベランダの木のベンチに三人はこしをおろし、ガンダルフは話をはじめましたが、ビルボはたらした足をぶらぶらさせながら、花壇の花をながめて、大部分見たことがないが、花々の名はなんというのだろうと思っていました。  「山にさしかかった時、わしら、友だちのひとり、いやふたり……」と魔法使いがいいました。  「なに、ふたり? ひとりしか見えないが。しかもえらく小さいやつだが。」とビヨルンがいいました。  「ほんとうのことを申しあげると、おいそがしいところ、大ぜいでおしかけては、あなたのおじゃまかと思いましてな。よろしければ、呼びますが……」  「呼びたまえ。」  そこでガンダルフは、びゅうと長い口笛を吹きました。するとほどなくして、トーリンとドーリが、家をぐるりとまわって、庭の道を通ってきて、みんなの前で低くおじぎをしました。  「ひとり、いや三人というところだな。」とビヨルンがいいました。「だがこれは、ホビットではない。ドワーフだ。」  「トーリン・オーケンシールドです。お見知りおきくだされい。ドーリです。お役に立てばさいわいでございます。」と、ふたりのドワーフが、またおじぎをしました。  「かたじけないが、お役に立っていただくこともない。むしろこちらの助けがほしかろうが。」とビヨルンがいいました。「おれは、ドワーフがとくに好きというのではないが、きらいではない。あなたがトーリンであるなら、あのスロールの息子スラインの、息子であろう。ではその連れも、しかるべきもので、みな、ゴブリンどもの目のかたきであり、おれの土地にいるあいだは、いたずらをせぬということなら──ところで、いったいおまえたち、なにをはじめたんだな?」  「この者たちは、先祖の地をおとずれる途中でした。それはやみの森のはるか東の方にありますので。」とガンダルフが口をはさみました。「いま、このあなたの地をふんだのは、まったく思いがけないしだいです。わしらは、大峠をこえて、ここからはるか南にあたる道に出ようと思っていたところ、はからずもゴブリンの悪党どもにおそわれたのじゃ。いまそれをお話しようとしておったところです。」  「では、さきをつづけたらよかろう。」と、もともとあいそのよくないビヨルンが、うながしました。  「おそろしい嵐でしてな。石の巨人どもが岩を投げころがしておったので、峠のさきでわしらは、ある洞穴に逃げこんだのじゃ。ホビットとわしと、なかま数人‥‥‥」  「ふたりを数人というのか?」  「いいや。まことはたしか、ふたりよりももっとおった。」  「どこだ? 殺されたか、食われたか、逃げもどったか?」  「いいや。わしが口笛を吹いた時、みな来なかったとみえる。はずかしいんでしょう。ご承知のように、おもてなしをうけるには大勢すぎて、ご迷惑をかけるのをたいへんおそれてもおりますからな。」  「さあ、も一度口笛を吹きなさい。だいぶにぎやかな集まりになるようだ。さらにひとりふたり加わっても、たいしたちがいでない。」とビヨルンがひくい声でいいました。  ガンダルフが、また口笛を吹きました。けれどもまだ吹き終わらぬうちに、ノーリとオーリが、来ておりました。おぼえていましょうが、五分ごとにふたりずつで来いとガンダルフがいいわたしてあったのです。  「よう!」とビヨルンがいいました。「これはばかに早いな。どこにかくれていた? びっくり箱の小人人形だな。」  「ノーリです。お役に立てば……。オーリです。お役に……」ふたりがいいはじめました。ビヨルンがおわりまでいわせませんでした。  「いや、けっこう。役に立ってもらう時は、こちらからたのむ。すわってくれ。そして話をつづけてくれ。さもないと、話がすまぬうちに、夕めしになってしまう。」  ガンダルフが話をつづけました。「わしらが眠りについたかと思うまに、洞穴のうらがぱっくりわれました。そしてゴブリンどもが出てきて、ホビットとドワーフたちをつかまえ、わしらの馬のむれを──」  「馬のむれ、だと? あんたがたはなんだ、旅まわりのサーカスか。それとも品物を山ほど運んでいたのか。いやさ、六頭でも、むれというのか?」  「いいや。まことのところ、六頭以上ござった。わしらも六人以上でしたのでな。ほれ、またふたり、まいりましたわい。」ちょうどこの時、バーリンとドワーリンとがあらわれて、ていねいにおじぎをしたので、ふたりのひげが石の床をはきました。大男もはじめはしかめ顔をしていましたが、ふたりがまことにおそれいってていねいに心をつくし、首をまげ、からだをおり、ふかくおじぎをして、ひざの前に頭巾をしゃくう(ドワーフ流のよいおぎょうぎで)ことをくりかえしていますので、とうとう大男もしかめ顔をくずし、くすくす笑いをもらしてしまいました。ふたりがとてもおかしく見えたのです。  「まことに、むれだな。」と大男はいいました。「しかも、おかしなむれだ。さあ陽気な一座に加わるがよい。名は何という? 役に立つなどといわんで、名のみなのれ。ここにすわって、もうぺこぺこするのをやめろ。」  「バーリンとドワーリンです。」ふたりはとても気にさわった顔などできないで、むしろおどろいたような顔で、床にぺたりとすわりました。  「では、つづけろ。」とビヨルンが魔法使いをうながしました。  「どこまで話しましたかな。そうじゃ。わしは、つかまらなかった。わしは、火花をとばせて、ゴブリンをひとりふたり殺しましたわい。」  「よくやった!」と太い声でビヨルンがいいました。「それでこそ、うでのよい魔法使いだ。」  「──で、しまらぬうちに、そのわれめのなかにしのびこみました。そして大広間まで来てみると、ゴブリンがいっぱいおる。大ゴブリンも、三、四十人のごえい兵をつれて、そこにおった。わしがひそかに思うには、かりにドワーフたちがみなつながれていないとしても、これほどの人数に、一ダースの力では──」  「一ダースだと。八人を一ダースとは、初耳だ。では、びっくり箱から、まだまだ人形をくりだす気か?」  「さよう、はやそこに、ふたり来たようですな。フィーリとキーリでしょう。」とガンダルフがいいますと、そのふたりがあらわれて、にこにこしながら、おじぎをはじめました。  「たくさんだ!」とビヨルンがいいました。「すわって、口をきくな。さあ、また話せ、ガンダルフ!」  そこでガンダルフは、話を進めて、暗やみのなかの戦い、裏門の発見、バギンズ君をおきわすれたのを知った時の心配と、だんだんに話してまいりました。「わしらは、数をかぞえてみて、ホビットがいないのに気づきました。残った者は、十四人!」  「十四人? 十から一をひいて十四という算術は、はじめてきいたぞ。九人だったろう。でなければ、仲間の名まえをまだ申したてていないのだな。」  「なるほど、あなたはまだ、オインとグローインにあっておりませんな。やあ、なんと、そこにおります。ごめんどうのだん、おゆるしくだされ。」  「早く、みんなよべ! そのふたり、ここへ来て、すわれ! だが、ガンダルフ、まだここにはあんたと十人のドワーフとホビットだけだ。あの時そのホビットはいなかったのだな。そのホビットをはずせば、十一人で、十四人ではない。それとも魔法使いの数えかたは、ほかの者とちがうのか? まあよい、先を話せ。」ビヨルンは、あまり話に乗り気なようすを見せないようにしていましたが、ほんとうのところ、すっかり気をひかれはじめていたのです。というのも、むかしむかしこのひとは、ガンダルフがいま話している山のその場所をよく知っていたものでした。ホビットがふたたび出てきてめぐりあったところや、土砂くずれにあっておし流されたところ、森でオオカミにかこまれたところへくると、大男はうなずいたり、うなったりしました。  ガンダルフの話が、オオカミに追いたてられて一同が木にのぼったところまできますと、ビヨルンは立ちあがって、のしのしと歩きながら、思わずひとり言をもらしました。「そこにおれがいたらなあ! そんな花火なんかより、すごいやつをくらわせてやれたのに!」  「ところで、」と、ガンダルフは自分の話が相手にいい感じをあたえていることを知って、すっかりうれしくなりました。「わしはできるだけのことをやりました。わしらの下にはオオカミが、しだいに気がくるったようになっておる。森はいたるところでもえはじめる。一方ゴブリンどもが山からおりてきて、わしらを見つけた。ゴブリンは歓呼の声をあげて、わしらをからかう歌をうたいおった。  モミの木五本に、小鳥が十五羽……」  「ちくしょうめ!」とビヨルンが、うなりました。「ゴブリンどもが、数をまちがえたなどというな。奴らは数がよくわかる。十二は十五じゃないくらい、知っとるぞ。」  「そのとおりですわい。ビフールとボフールがおりました。わしは、ひきあわせるのをえんりょしておりましたが、ちょうど、まいりましたので……」  ビフールとボフールがやってきました。「それに、わたしです。」と、そのうしろから、はあはあ息をきらせながら、ボンブールが顔を出しました。ボンブールはふとっていて、さいごにひとり残されるのをふんがいしていました。五分間まつのをやめて、そのふたりのあとをすぐに追いかけてきたのです。  「なるほど、あんたのいうとおり、十五人だ。ゴブリンは数えかたがうまいから、木の上にのぼったのは、十五人で全部だろうな。ではきっと、これ以上じゃまがはいらず、話がきけるにちがいない。」ようやくバギンズ君には、ガンダルフがりこうにやったことが、わかりました。たびたび話のじゃまがはいったおかげで、ビヨルンはなおのこと話にむちゅうになってしまいましたし、またこのお話のおかげで、ドワーフたちはものほしそうなこじきのようにおっぱらわれないですんだのです。ビヨルンは、よほどのことがないかぎり自分の家に、お客をよばないようにしていました。だいたい友だちというものがごく少なく、それもみな遠くでゆったりと暮らしている者ばかりでした。それでビヨルンは自分の家に一度にふたり以上お客をよんだことがなかったのです。それなのに、いまここの家の庭さきには、十五人もの見知らぬ連中がおしかけていました。  魔法使いが、ワシが助けてくれたこと、見張り岩まで運んでくれたことまで話して、長話をしめくくったころ、日は霧ふり山の峰々のうしろにおち、日陰がビヨルンの庭に長くおちていました。  「じつにおもしろい話だった。」とビヨルンはいいました。「ひさしく、これほどすばらしい話はきいたことがない。わが家にたよりくる者どもがみな、かくもよい物語をきかせてくれるのであったら、かくべつのなさけをうけようものを。もちろん、あんたも話をうまうまとでっちあげたのかもしれない。が作り話にしても、こんな話にはたっぷりごちそうするねうちがある。さあ、みんなに、ごちそうしよう。」  「どうぞそうねがいます。」と、一同はいっせいにいいました。「まことにありがたいしあわせ!」  広間のなかは、すっかり暗くなっていました。ビヨルンが手をたたくと、四頭の美しい白い小馬と、数匹の胴の長い大型の灰色の犬たちが、とことこはいってきました。ビヨルンは、まるでけもののほえる声をおりまぜたような、みょうな言葉を使って、馬と犬に何事かをいいつけました。すると馬と犬とはまた出ていき、しばらくして、口々にたいまつをくわえてもどってきますと、それに火をともして、まんなかの炉のまわりにある広間の柱の、ひくいたいまつたてに立てていきました。犬たちはいつでも用のある時は後足で立って、前足でものを運ぶことができました。そしてさっさとまわりの壁から台とくみたての脚とを持ってきて、炉のそばにすえつけました。  すると、ベーベーベーとなく声がきこえ、今度は雪のようにまっ白なヒツジたちが、一匹の石炭のように黒い大きな牡ヒツジにみちびかれてやってきました。一匹は、裾に動物のかたちをふちどりした白いテーブルかけを背なかにかけていますし、ほかのヒツジたちは、はばの広い背なかに、鉢や皿やナイフや木のさじをいれたおぼんをせおっています。それを犬たちがとりあげて、組み立てテーブルの上へ、どんどんならべていきます。そのテーブルは、ビルボにもらくなように、たいへん低くなっています。そのそばに、一頭の小馬が二脚のすわりの低いいすをおしてきました。すわる部分は灯心草で編んであり、脚はがっしりした短いもので、ガンダルフとトーリンのすわるものです。そしていちばんはずれに、その馬は大きな黒いビヨルンの同じようないすを一脚おきました。このいすにビヨルンはすわって、大きな足をテーブルのむこうにつき出しておりました。これらはみな、ビヨルンが広間におくいすで、ビヨルンにつかえるすばらしい動物たちにつごうのよいように、テーブル台と同じように低くなっていました。ほかのドワーフたちのすわるところも、忘れられたわけではありませんでした。小馬たちが、大木の幹を太鼓のように丸く輪切りにしてぴかぴかにみがきあげたものを、ころがしてきました。そのいすは、ビルボにもいいくらい低いものでした。こうして、まもなく一同はビヨルンのテーブルにつきました。この広間でこれほどさかんな集まりは、長年見られなかったものでした。  こうして一同は、夕ごはんにありつきました。それとも晩さんといった方がいいでしょうか。西の「さいごの憩」館をはなれ、エルロンドにさよならをつげてからというもの、これほどちゃんとした食事を食べたことがありません。たいまつとそだ火のあかりが、あたりをちらちらと色どり、テーブルの上には二つの長い蜂ろうでできた赤ろうそくが立っていました。一同が食べているあいだ、ビヨルンは、その深いとどろくような声で、山のこちらがわのさびしい地方のこと、ことに暗くて危険な森の話を話してくれました。その森は、南北に馬で一日かかるほどひろがり、一同が進む東への道をふさぐ、おそろしいやみの森のことでした。  ドワーフたちは、話をきいて、ひげをふるわせました。というのは、一同がまもなくはいらなければならないその森は、あの山ごえの大事件のあとで、竜のとりでにのりこむ前に、どうしてもさけられない、いちばんてごわい危険な場所であることを、知っていたからです。夕ごはんがすんで、一同はめいめいの話にふけりはじめました。けれどもビヨルンは、ねむくなったようすで、それらの話にほとんど注意もむけませんでした。一同は金や銀や宝石のこと、鍛冶仕事や金銀細工の話をしました。ビヨルンは、そういう話に興味をみせませんでした。なるほど、この広間には、金銀でできたものはなく、金属でできたものもナイフのほかにありません。  一同は、木のおわんにハチミツ酒をなみなみとみたして、長いことテーブルにすわっていました。暗い夜が、そとに来ています。広間のまんなかの火は、新たなたきぎをつぎたしてもえあがりましたが、たいまつは消されました。それでも一同は、森の木々のように上の方を暗くしてそびえる柱をうしろにせおって、めらめらおどるあかりのなかにすわっていました。魔法なのかどうかわかりませんが、ビルボは、木々の枝をわたる風のような、天井のたる木を動きまわる音と、フクロウの鳴き声を聞いたような気がしました。まもなくビルボは、こっくりこっくりいねむりをはじめ、みんなの声が遠くなったと思っているうちに、びっくりしてはっと目をさましました。  大きなドアが、ぎいときしんで、ばたんとしまりました。ビヨルンが出ていきました。ドワーフたちは、火をかこんで床の上に、あぐらをかいてすわっていました。そしてそのうち歌をうたいはじめました。その歌は、つぎのようなもので、ほんとうはもっと長く、ドワーフたちもずいぶん長いあいだうたいつづけたのです。 風は枯れたヒースに鳴りわたったが、 森では、木の葉もそよがなかった。 ものかげは、昼も夜も森にこもり、 黒いものどもが、音もなくはいよってきた。 風はひえきって山から吹きおろし、 うず潮のようにうなり、あれた。 枝々はたわみ、森はなげき、 木の葉はあらそって地にかえった。 風は、西から東へ吹いた。 森の動きはまったくたえたが、 沼地をこえて甲高くはげしく、 うそぶく音が天に流れた。 草は音をあげて、首をたれ、 芦はかまびすしく鳴りわたった。 波立つ池に空は寒く、 走る雲はちぎれて散った。 風は、はなれ山の肌を枯らして、 竜のふしどの穴を吹いた。 暗く、ごつごつした岩穴から、 なまぐさい煙がのぼっていた。 風はこの世を遠くはなれ、 夜の海原の上を飛んだ。 月ははやてに乗って天がけり、 星々はこなごなにくだけて散った。  ビルボは、ふたたびこくりこくりやり始めました。するといきなり、ガンダルフが立ちあがりました。「わしらの寝る時がきた。だが、おそらくビヨルンの寝る時ではあるまい。わしらはこの広間で、安らかにやすむことができる。ただ一つだけ、はっきりことわっておくが、ビヨルンがここを出ていく前にいったことは忘れないでもらいたい。日がのぼるまで、そとに出てぶらつかないこと、さもないと、いのちがあぶない──とな。」  ビルボは、広間の壁ぎわに、ちゃんと寝床ができているのを見つけました。それは、柱と外壁のあいだの高くなっている床につくってありました。そこに、小さいわらのしきぶとんと毛布のかけぶとんがおいてあったのです。いまは夏でしたが、ビルボはいそいそとそこにもぐりこみました。火はゆっくりともえ、ビルボはぐっすりと眠りこみました。ところが夜中に、目がさめました。火はわずかなおきになって残っているだけでした。ドワーフたちもガンダルフも、その寝息でみれば、みなぐっすり眠っているようです。床に一か所、高くのぼった月の光が、屋根の煙出し穴から、さしこんでいます。  おもてで、うなる音がし、入口でどしんどしん歩く大きなけものの足音がしました。ビルボは、いったい何だろうと思い、ビヨルンがすがたをかえたのかとも考え、クマのすがたではいってきたら殺されるかもしれないと、心配しました。そこでビルボは、毛布をひっかぶって、頭をかくしていますと、たいへんこわくはありましたが、そのうちにとうとう、また眠ってしまいました。  ふたたび目をさました時は、もう朝でした。ドワーフのひとりが、かげに寝ているビルボのからだにつまずいて、はずんで、高くなった床から下の床へ、どすんと音をたてて、ころがりました。それはボフールでした。おかげでビルボが目をさますと、がみがみこういうのです。  「ねぼすけめ、早くおきろよ。さもないと、朝ごはんを食べそこなうぞ。」  ビルボは、はねおきました。「朝ごはんか? どこだ?」  「おさきにたっぷりちょうだいしたよ。」と、広間をあちこち歩いているほかのドワーフたちがいいました。「でも残りものは、ベランダにある。日がのぼってからずっと、ビヨルンをさがしてるんだが、どこにも、見えないんだ。もっとも、起きたらちゃんと朝ごはんはできていたけれど。」  「ガンダルフは、どこ?」とビルボがたずねました。そしていっこくも早く食べものを見つけようとして、ベランダの方へ出むきました。  「ああ、おもてのどこかにいるだろう。」とドワーフたちが答えました。けれどもビルボは、その日夕方になるまで一日じゅう、魔法使いのかげも形も見かけませんでした。日が沈むほんのすこし前、ガンダルフは、広間にはいってきました。広間では、ビルボやドワーフたちが、いつものようにあのふしぎなけものたちにサービスされながら、夕ごはんをとっているところでした。前の晩からずっと、ビヨルンのことを見た者も、きいた者もなく、そのことをへんだと思っていました。  「ここのご主人は、どこです? また、あなたは、一日じゅうどこにいっていたんです?」と、一同は口々にさけびました。  「一度にひとりずつきいてくれ。夕ごはんがおわるまでは、おあずけじゃ。わしは、朝ごはんから、一つぶも食べておらんからな。」  やがてのことに、ガンダルフは、自分の皿とコップをからにして、さげました。ガンダルフは、大きなパンのかたまりを二つ、それにバタと蜜とクリームをこってりつけて食べた上、たっぷり一リットルのハチミツ酒をかたづけたのです。ようやくガンダルフは、パイプをとりあげました。「二つめの質問から答えるとしよう。」といいながら「だが、どうじゃ、ここは、なんとタバコの輪をふかすによいところじゃろう。」とつけくわえました。こういうわけで、かなり長いあいだ、一同はひと言もきくことができず、ガンダルフはむちゅうで、広間の柱をめぐる煙をふきあげたり、その煙の色や形をさまざまに変えてみたり、さいごには、屋根の煙出し穴からつぎつぎと追うように煙の輪を通らせたりして楽しみました。そとから見ればずいぶんふしぎな見ものだったでしょう。緑、青、赤、いぶし銀のような色、黄色、白がつぎつぎに穴からぽこりぽこりと空中にとびだすのです。大きい輪もあれば、小さいのもあり、小さいのが大きいのをくぐりぬけたり、8形にくっついたり、鳥のむれのようになって遠くに消えたりするのですから。  「わしは、クマの足あとをつけまわったんじゃ。」と、とうとうガンダルフが話しだしました。「ゆうべは、このおもてのところで、クマたちが集まる晩にあたっていたものらしい。クマの足あとがありすぎて、ビヨルンのだけでないことが、すぐわかった。また形もさまざまでな。小さいクマあり、大きなのあり、ふつうのもあれば、特大のもあって、おもてで夜じゅう、ほとんど明け方まで踊っていたらしい。足あとは四方八方からついておった。ただ西のかた、川をこえて山につづく方からは、来ていないのじゃ。ところがその方向に、たった一つだけ足あとが残っているものがある。むこうから来たあとではなくて、ここからそっちへ出かけていったあとじゃ。わしは、あとをつけて、見張り岩まで行った。そこで足あとは、川へ消えていたが、流れが深くまた早いので、岩のさきへ渡ることができない。おぼえとるだろうが、こちら岸から浅瀬の渡り場をとおって見張り岩へいくことはやさしいが、むこうがわは、きりたつがけで、下はうずまく早瀬になっている。そこでわしは、もっと川が広く浅くなって、らくに渡りも泳ぎもできるような場所を、何キロも探しまわってから、むこう岸へついて、またクマの足あとがたどれるところまで、何キロも岸をもどらなければならなかった。とかくするうちに、あまりおそくなったので、遠くまで行けないようになったが、足あとは、まっすぐに、霧ふり山の東がわにあるマツ林の方へむいている。そこはわしらが、この前の夜、あのアクマイヌどもと楽しいパーティをやったところじゃ。というわけで、みんながきいたはじめの方の質問にも、ちゃんとお答えできたと思うが、どうじゃ?」とガンダルフが話をむすびました。そして、しばらくおしだまって、そこにすわったままでおりました。  ビルボには、魔法使いが何をいおうとしたのかがわかったように思われました。ビルボは声をあげて、「わたしたちは、どうすればいいんです? ビヨルンが、アクマイヌどもやゴブリンどもをひきつれて、もどってきたら、みんながつかまって、今度こそ殺されちゃいますよ! あなたは、ビヨルンがゴブリンどもの友だちでないと、おっしゃったじゃありませんか?」  「そうとも、いったさ。だから、そうとりみだすな。あんたは寝た方がいいな。もう頭がねぼけてるぞ。」  ホビットは、ぺちゃんこにやられた思いで、することといえば、ほんとうに寝るだけしかないようでした。それで、ドワーフたちが、まだおきて、歌をうたっているうちに、ビルボは、ねむい頭でビヨルンのことをしきりと考えながら、いつしか眠ってしまいますと、その夢のなかでは、たくさんの黒グマたちが、庭さきの月あかりで、輪になってどたんどたんとぶきような踊りをおどるありさまを、夢みました。それからビルボは、ドワーフたちがすっかり眠ってしまったころに目をさまして、前の晩とおなじような、ごしごしこする音、どしんどしんふむ音、ふんふんかぐ音、はげしくうなる音をききました。  つぎの朝、一同は、ほかならぬビヨルンにおこされました。「ちゃんと、みんな、うちのなかにいてくれたな。」とビヨルンはいいました。そしてホビットをつまみあげて、笑いました。「アクマイヌどもやゴブリンどもにやられもせず、悪いクマどもにも食われずに、ぶじでおったな。」こういってビヨルンは、バギンズ君のチョッキのおなかのあたりを、おそろしくろこつにつつきました。「かわいいウサちゃんは、パンと蜜をたらふく食って、またふんわり、よくふとったな。」こういって、くすくす笑うと、「さあ、どんどんやってくれ。」とごはんにさそいました。  こうして一同は、ビヨルンといっしょに、朝ごはんを食べました。ビヨルンは、うってかわって、大はしゃぎです。すてきに上きげんらしく、つぎつぎにおかしな話をしながら一同を笑わせました。そして一同が、このひとがいままでどこに行っていたのか、どうしてこんなにきげんがいいのかといつまでもふしぎがるまでもなく、ビヨルンの方から、すすんでその話をしたのです。ビヨルンは、川をこえて、山へいってきたのでした。こうきけばおわかりでしょうが、ビヨルンは、クマのすがたになっている時は、じつに早く旅ができるのです。あの焼けたオオカミ広場からみて、ビヨルンには、きいた話がほんとうだったことが、すぐわかりました。いやそこでビヨルンは、それ以上のことを見つけだしました。まだ森のなかをうろついていたオオカミ一匹とゴブリンひとりをつかまえて、それから、つぎのようなニュースをききだしたのです。ゴブリンたちの追せき隊がアクマイヌどもといっしょになって、ドワーフたちをさがしまわっている。何しろみんなかんかんにおこっているが、ゴブリンたちは大ゴブリンが殺されたからだし、オオカミたちは親分が鼻をやけどしたり、りっぱな仲間たちが魔法使いの火で焼け死んだりしたからだというわけです。ビヨルンにおどかされると、こいつらはだいぶ白状しましたが、それでもビヨルンは、すぐに、もっとひどい悪いことがおこるにちがいない、きっとオオカミとゴブリンがすっかりまとまって、山地にちかい南の森へ、これまでにないあばれこみをかけるところではあるまいかと、見当をつけました。ゴブリンたちは、どうしてもドワーフたちをさがしだすつもりですし、そのドワーフたちを、南の森をきりひらいている人間たちがかくまっているにちがいないと、きめこんでいるようすですから。  「あれは、すてきな話だったぞ。あんたがたの話は。」とビヨルンはいいました。「だが、いまはほんとの話がわかって、おれにはなおのこと、まんぞくだ。あんたのいったことを信じなかった点は、ゆるしてもらいたい。なにしろ、やみの森のそばに住んでいると、兄弟のようによく知りあった者の言葉でないと、信じられないものだ。そのかわり、おれは、あんたがたのぶじをたしかめ、あたうかぎりの力をかすために、できるだけ大急ぎで、わが家へ帰ってきたのだ。いや、これからさき、ドワーフのなかま諸君には、もっと心をこめてつきあうつもりになった。大ゴブリンをやっつけた者、大ゴブリン殺しだからな。」ビヨルンはこういって、はげしくからだをゆすって、くすくす笑いをつづけました。  「それで、あなたは、ゴブリンやオオカミをどうなさったのです?」と、だしぬけにビルボがたずねました。  「こっちへ来てみい!」とビヨルンがいい、一同はそのあとについて、やしきのまわりをめぐりました。一つのゴブリンの首が、門のおもてにさらされていて、一匹のオオカミの毛皮が、そのすこしさきの木に、のばしてとめてありました。ビヨルンは敵にすればおそろしいひとですが、いまは一同の友でした。ガンダルフは、こうなったらいっそ、ドワーフたちの旅のいきさつやこれまでの苦労をかたり、すっかりわけを話したら、ビヨルンができるだけの力をかしてくれるにちがいない、と考えました。  その結果、ビヨルンがみんなのためにしてくれると約束してくれたのは、つぎのようなことでした。これから森までの旅にあたって、みんなに一頭ずつ小馬をあてがう。ガンダルフには馬をかす。それからまた、何週間分かの食べものを小馬につけ、できるだけ持ちはこびによいような荷物にする。木の実草の実にコムギ粉、くだものを日にほしてつめた壺、赤いすやきの蜜がめ、長もちするように二度焼きしたお菓子、そのほか、かずかずの長旅にいる食べものでしたが、これらの食べものの作り方は、ビヨルンのひとに知らせない秘密の一つでした。けれども、食事の料理にかならず蜜が使ってあったように、どれにも蜜が使われていました。蜜を食べると、のどがかわきますが、からだにはいいのです。水は、ビヨルンのいうところによると、森のこちらがわでは、持っていく必要がないそうで、道にそって流れもあり泉もあるということです。「だが、あんたたちが通るやみの森の道は、暗いし、危険で、困難だぞ。」とビヨルンがいいました。「やみの森では、水も食べものもめったに見つからない。木の実や草の実がみのる時はまだ早い。とはいえ、あんたたちが森のむこうがわへぬけるまでには、実のなる時がきて、それもすぎさってしまうだろう。あそこで食べるものは、木の実ぐらいのものだ。あそこの生きものはなんでも、黒くて、あやしくて、たちが悪いぞ。おれは、水をいれる皮ぶくろをやろう。そのほかに、弓矢も持たせよう。だが、やみの森で目にしたものが、よい食べものや飲みものになるとは、ぜったい思えないな。なるほど森に一つの流れがある。道を横ぎる強い流れで、水は黒い。その流れでは、水をくむな。また水をあびてもいけない。うわさでは、そうすると、魔法にかかって、ひどく眠くなり、すっかりものを忘れるということだ。森のおぐらいものかげで、どんなにすてきなえものとみても、弓を射てはならん。道からはなれてまようことになるぞ。それだけは、どんなことがあろうとも、してはならん。  おれにできる忠告といっては、それくらいだ。森の入口を一歩はいれば、おれの力はおよばない。せいぜい運をたのんで、めいめいの勇気をもとに、おれの贈る食べものだけをたよりにいくのだな。森の入口についたら、おれの馬と小馬とを送りかえしてもらいたい。ではとどこおりなくいくように。もしあんたがたがこの道をもどることがあったら、いつでも、おれのやしきはよろこんでむかえるぞ。」  一同は、もちろん心からビヨルンにお礼をのべ、くりかえしおじぎをし、頭巾をうちふって、そのたびに、「木でできた広間にのぞむご主人よ、今後もよろしく。お役に立てばさいわい。」などと申しました。けれども一同の心は、ビヨルンの心配そうな言葉をきいて沈み、今さらこの冒険が、はじめに考えていたよりもずっとずっとおそろしいものだと、身に感じていました。かりにこれからさきの旅のあらゆる苦難がぶじにすぎても、さいごには竜が待ちかまえているのです。  朝のうち、一同は旅のしたくにおわれてすごしました。ひるすぎに、いよいよビヨルンのやしきのさいごのごはんをごちそうになり、そのあとで一同そろって、ビヨルンのかしてくれた馬にまたがり、かさねてビヨルンにわかれをのべながら、その門をくぐって、急ぎ足で乗りだしていきました。  ビヨルンのさくを打った土地の東がわの高い生け垣をあとにしますと、一同は北へむかい、やがて北西へ馬をむけました。ビヨルンの言葉にしたがって、やしきの南にあたる、森をつらぬく大きな道へ進まないことにしました。そっちへ出ていくとなると、山脈から流れでる川にそってくだって、見張り岩の南の方で大きな川にあわさるところに出てしまいます。そこは深い渡りになり、小馬がいればどうやら渡れますが、渡れば道は森へ出て、そこがむかしの森の道の入口になります。けれども、ビヨルンがそこをゆくのをとめました。その道はいまはよくゴブリンたちが使いますし、だいいち、うわさでは森の道の東がわの方はだれも行く者がないのですっかり荒れはて、通れない沼地にはいって、道がなくなるということでした。それに、東の出口に出られたところで、あのはなれ山からずいぶん南へはずれたところにきてしまい、そこからまた北へ長いこと歩いて、つらい思いを重ねなければなりません。見張り岩から北へ大川をさかのぼれば、やみの森が川へぐっと近よっているところがあって、そこには山もせまっています。ビヨルンはそこへいくようにすすめました。見張り岩から北へ数日間馬を進めれば、やみの森をつらぬく、あまり知られていない通路の入口へ出て、そこから森をぬければ、はなれ山へは、ほとんどまっすぐに行ける、ということです。  ビヨルンはこういいました。「ゴブリンどもも、見張り岩の北へ大川をこえて百キロ以上も追いかけていきはすまいし、おれのやしきにも近よるまい。ここは夜のまもりができているからな。だが、おれなら一刻も早く出発する。ゴブリンどもがまもなくおそってくるとすれば、やつらは川の南をわたってきて、あんたがたをやっつけようとして森の外がわをくまなくさがしまわるだろうし、アクマイヌどもは小馬たちより速いからなあ。かりにあともどりしてゴブリンどものとりでに近づくようにみえても、北へいく方がずっと安全だ。ゴブリンどもがそう思わないところだし、またあんたがたをつかまえるためには、はるかに遠くからかけつけなければならないからだ。では、できるだけ早く行くように……」  こういうわけで、いま一同は、声もたてずに、草地だろうが、はだかの土地の上だろうがかまわずに、馬を走らせていました。その左手には、黒々とした山脈をのぞみ、遠くにある木立をまとう川のすがたにしだいに近づいていきました。日は、出かけた時は、わずか西にかたむきかけていましたが、夕方まであたりいったいの土地にまぶしくかがやいていました。それで一同は、あとからゴブリンたちが追ってくるとは思えなくなり、ビヨルンの家から何キロもへだたってくるにつれて、ふたたび話したりうたったりしだして、前に横たわる森の暗い道のことを忘れはじめました。けれども夕ぐれのやみがおりて、山の峰々が日の沈む空に暗い顔をみせはじめるころ、一同はとまり場をつくり、見張りをおいて、不安げな眠りにはいりましたが、その夢には、オオカミの遠ぼえとゴブリンのさけび声がいりまじってくるのでした。  つぎの朝も、明るく晴れてあけました。地上には白く、秋のような霧がたちこめ、空気はひえびえとしていました。しかしまもなく東の空に赤く日がのぼって、霧は消え、まだ影が長くひいているうちに、一同はでかけました。こうしてさらに二日のあいだ馬を乗りついだのですが、そのあいだ、草や花々、鳥たちやまばらな林を見かけるばかりです。ときには赤シカの小さなむれが、ひるひなかのものかげに草をはんだり、すわったりしていました。ビルボもときどき、牡ジカの角が長い草からつき出しているのを見かけ、はじめのうち、枯木の枝かと思ったくらいでした。三日めの晩にも、一同は一心に馬を進めていました。なにしろビヨルンが、四日めの早いうちに森の入口に着かなければならぬと、いったからです。そこで一同は暗くなってもまだ乗りつづけ、月光をあびて進みました。たそがれのやみがこくなるころ、ビルボは、右かと思えば左にと、大きなクマのようなものかげが、一同の進む方にともなってくるように思いました。そこでビルボがたまりかねて、ガンダルフにそういいますと、魔法使いはただ、「しーッ、見るな!」といっただけでした。  あくる朝は、夜明け前に、ろくに眠りもしないうちにおきて、出かけました。明るくなったばかりのころ、ゆくてにあたって、黒々としたいかめしい城壁のような森が、待っていたぞというかのように立ちあらわれました。大地はしだいにゆるくのぼりはじめ、ホビットにとっては、無言のいかめしさが、一同の上にかぶさりはじめたような気がしました。鳥は、はたとうたわなくなりました。シカはいず、ウサギさえも見かけません。ひるすぎになって、やみの森の外がわにたどりつき、そそり立つ木々の張りだした枝の下にすわって、一休みしました。それらの幹はまことに大きく、こぶこぶだらけで、枝はねじくれ、葉は黒くてだらりとしています。ツタカズラが木々の上にまつわって、地上にさがっています。  「さて、ここが、やみの森じゃ!」と、ガンダルフがいいました。「北のくにの森のうちでは、いちばんに大きな森じゃ。この森のようすにおじけづかないでもらいたい。ところで、かりてきたこのりっぱな小馬たちを、かえさなければいけないぞ。」  こうきくと、ドワーフたちは、ぶつぶついいはじめました。ところが魔法使いは、ドワーフたちをおろか者ときめつけました。「ビヨルンは、思いがけない近くにおるぞ。何としても約束をきちんと守るがいい。ビヨルンを敵にまわしたら、大ごとじゃ。バギンズ君の目は、諸君のよりもするどいわい。諸君は、夜ごと夜ごと大きなクマが、わしらのそばにしたがってずっと歩いてきたこと、野宿するわしらを見守りながら月あかりをよけて遠くの方に休んでいたことに、気がつかなかったろう。あれは、わしらを守り、みちびくばかりでない。小馬たちを見張ってもおったのじゃ。ビヨルンはなるほど、わしらが友じゃ、がまた、あのけものたちは、ビヨルンのいとし子なんじゃ。そのけものたちをさしだして、ドワーフたちをこれほど遠くまで、これほど早く運ばせたのは、どれほどの親切なことか、わかるまい。それにもし森の中まで小馬に乗っていこうとすれば、どんなことになるか、それも思いがつくまいなあ。」  「では、その馬は、どうするつもりじゃ?」とトーリンがいいました。「なぜあんたは、自分の馬を送りかえすといわぬのじゃ?」  「送りかえさないからじゃ。」  「では、ビヨルンとの約束は、なんとした?」  「約束は守る。送りかえすのではなくて、乗って帰るのじゃ。」  ここで一同は、ガンダルフが、今このやみの森にさしかかったばかりの時に、一同に別れて去るということを、はじめて知りました。一同はすっかり気をおとしてしまいました。けれども、口をきわめてどういおうと、ガンダルフの気持ちを変えさせることはできませんでした。  「すべて、見張り岩についた時、わしらのあいだできめたではないか。」とガンダルフがいいました。「今さらいうことはない。前にもいったとおり、わしは南のほうに急ぎの仕事がある。諸君とここまでつきあったのも、すでに時間をかけすぎた。あらゆることがかたづく前に、またあうこともあろうし、あわぬかもしれぬ。それも運しだいじゃし、諸君の勇気と機転によってきまることじゃ。ここにわしは、バギンズ君を諸君の味方につけておいた。いくども申しておいたように、このホビットどのは、諸君の思う以上の人物なのじゃ。それはまもなく、かならずわかる時がこよう。では、元気でな、ビルボよ。そんなにめそめそするな。元気でな、トーリンならびにみなのしゅう。とどのつまりは、諸君ご自身の遠征の旅ではないか。目的の宝のことをただひたすらに考えよ。森のことも竜のこともみな忘れておるがよい。とにかくあしたの朝までは、な。」  そのあくる朝がきて、ガンダルフはまた同じことをいいました。一同のすることはもはや、森の入口の近くで見つけたきよらかな泉から、皮ぶくろに水をくんだり、小馬の荷をおろしたりすることのほかに、何もありませんでした。一同は、かつぐ荷物をできるかぎり公平にふりわけましたが、それでもビルボは自分の分をいやになるほど重いと思い、それを背にして何十キロも何百キロもたどることを考えると、つくづくうんざりしました。  「心配するな!」とトーリンがいいました。「じきに軽くなるぞ。そのうち食べものが少なくなってごらん、もっと荷が重ければよいにと思うにきまっとるわい。」  こうしてとうとう、一同は小馬たちにわかれをつげ、小馬たちの首をビヨルンの家の方へむけてやりました。小馬たちはいそいそとひづめをならし、やみの森に尻尾をふって立ち去るのがいかにもうれしげに見えました。小馬たちが出かけていってから、ビルボはふと、クマのようなものの形が木かげをはなれて、すばやくそのあとを追ってかけていったのを、見たように思いました。  ここでガンダルフも、わかれをのべました。ビルボは地べたに腰をおろして、やるせない思いにかられながら、大きな馬にまたがった魔法使いのそばにいられたらと、ねがわないわけにいきませんでした。じつはビルボは、たいへんとぼしい朝ごはんをとったあとで、ほんのすこし森の中へはいってみたのです。するとそこは、朝なのに夜のようにまっくらで、その上おそろしくえたいのしれない感じでした。「何かがじっと見張っていて、待ちかまえているような……」とその感じをビルボは思わずひとり言にしていいました。  「さらば!」とガンダルフは、トーリンにいいました。「みなのしゅう、いざさらば。ごぶじでな。ではこの道をひたすらにまっすぐ行かれるがよい。ふみまよわぬようにな。わき道すれば、このやみの森をぬけ出す千に一つのかねあいもないぞ。さすれば、ふたたびあうことがかなわぬ。」  「ほんとうに、この森をぬけていかなければいけないんでしょうか?」とホビットがうめき声をあげました。  「そうとも、いけないんじゃ!」と、魔法使いがいいました。「むこうがわに行こうとするからには、かならず通りぬけるのじゃ。いくか、やめるか、どちらか一つ。だがいまとなっては、あんたがもどるといってもゆるさぬぞ。バギンズ君、そんな弱気を出しては、はずかしいぞ。わしにかわって、ドワーフたちを守っていくんじゃ。」と魔法使いは笑い声をあげました。  「いえ、いえ、そんなつもりでいったのではありません。ほかにまわり道は、ないのかときいたのです。」  「ある。もしここから北のかたへ三百キロ進むか、六百キロ南へくだるつもりがあれば、ないことはない。だがその道さえも、安全とはいえない。とにかくこのあたり全土にわたって、安全な道は一つもないのじゃ。とにかく今、荒地のくにのさかいを遠くふみこえて来ていることを考えてみるがいい。いずこへいこうとおそろしいところじゃ。かりに北にのぼって森をさけてまわるとすれば、その前にたそがれ山の山脈のふもとにかかり、そこにはゴブリンやホブゴブリンのほかに、なんともたとえようのない悪いオーク鬼がいて、てごわいことじゃ。では南へくだって森をまわるとすれば、死人うらない師のくにへはいる。このきたない魔法使いめの話は、こと改めてきかせるまでもなかろう。とにかく、あいつの黒い塔の見渡すかぎりの土地には、近づかぬがよい。この森の道をつき進め、勇気をふるいおこせ、最善をのぞめ。すればかならずおびただしい幸運にめぐまれて、眼の下にたての湖をのぞむところに行きつくだろう。湖をこえれば、東のかたにひときわ高く、あのスマウグめの住むはなれ山があるのじゃ。スマウグが諸君のくることを知っていなければよいがなあ。」  「まことに力になるお言葉のかずかずじゃ。」とトーリンがうめくようにいいました。「では、さらば! わしたちとともに来るのでなければ、このうえ多くを申されることなく、すみやかに行かれるがよい。」  「では、ごぶじでな。では、まことに、さらばじゃ!」とガンダルフがいいました。そして馬の首をたてなおすと、ガンダルフは西の方に歩ませて去りました。それでも魔法使いはさいごのひと言をいい残さずに去る気になれませんでした。もう声のとどかないところへはなれる前に、くるりとふりむき、口へ両手をあてて、一同へさけびました。みんなは、かすかな声をききとりました。「さらばじゃ! たっしゃでな、気をつけて──道をそれるでないぞお!……」  それからガンダルフは、馬を早め、まもなく一同の目から消えました。  「ああ、おさらば、さっさといってしまった!」ドワーフたちは口のなかでつぶやきました。ドワーフたちは魔法使いがいなくなったのでまったく気がめいって、なおのこと、むかむかと腹をたてていたのです。これから、この長い旅のうちで、いちばん危険なところへふみいりました。一同はめいめいに、重い荷と、わけまえの水ぶくろをかつぎ、おもての世界にてりかがやく光にわかれて、森の中へもぐりこんでいきました。 8 ハエとクモ  一同は、一列になって歩きました。道の入口は、弓形の門のような形になって、うすぐらい木々のトンネルにつづいています。そのトンネルは、両がわの大木が重なりあってできていますが、木々はみな、おそろしく年をとった大木で、ツタカズラをまとい、コケをつけ、枝には黒ずんだ葉をいく枚かのぞかせているばかりでした。森の道ははばがせまくて、木々のむれのあいだをうねうねと見えがくれしてつづいています。入口のそとの明るい光は、まもなくうしろに遠く小さなあかり穴のようになり、あたりがひどくしんとして、一同の足音がこだまするようにひびきましたが、森の木々がいっせいに、からだをかしげて、その足音に耳をすませているかのようでした。  くらやみに目がなれてくるにつれて、一同は、道の左右両がわに、かすかな深い緑色のかがやきをはなつ細道を見ることができました。ときどき思いがけなく、日光の細いすじが、はるか上の方の木の葉のすきまごしにもれて、その下にからまりあう大枝やしげりあう小枝のあみをうまくかいくぐり、明るい小さなこもれ日となって一同の前におちかかることがありました。けれども、それもしだいにまれになり、やがてまったく見られなくなりました。  森には、黒リスがいました。何でも見たがるビルボの鋭い目が、ようやくものの形を見ることになれますと、道のべをちらりとかけたり木の幹のうしろにちょろっとかくれたりするリスをたびたび見かけるようになりました。そのほかにも、草むらのなかや、森の地面にかぎりなく厚くつもった落葉のあいだを、ごそごそがさがさいわせるふしぎな音がありました。けれどもその音の正体は見ることができません。一同がいちばんいやだと思ったのは、クモの巣でした。見たこともないほど太い糸をこまかくかけめぐらした大きなクモの巣で、木から木へはりめぐらしたのもあり、低い枝のあいだにかけわたしたのもあります。けれども、道をつっきってかけた糸は一つもありません。いったい何かの魔法がはたらいて、クモの糸をはらうのか、それともほかにわけがあるのか、ドワーフたちにはわかりませんでした。  そうするうちに、一同は、しんからこの森がいやでたまらなくなりました。ゴブリンのトンネルもいやでしたが、森の方は、いつおわるというのぞみの持ちようがないのです。けれども、とにかく先へ先へといそがなければなりません。そしてうんざりしながら歩くうちに、一同はお日さまが見たい、空が見たい、風に顔をなぜられてみたいと、心がうずくようになりました。森の下やみには、そよとの風もなく、いついつまでも静かで暗くて、どんよりしているのです。いつも地下にいてトンネルを掘っているドワーフたちは、日光のささないところで長いあいだ暮らせるはずですが、そんなドワーフたちでさえ、日光や風がたまらなくほしい思いでしたし、穴を住居にしているホビットだって、夏のあいだはおもてですごすことが多かったのですから、だんだんに息がつまるような気になってきました。  夜のあいだは、もっとひどいのです。よくうるしのようなやみといいますが、「ような」などというものではない、それこそ、黒うるしにとっぷりつかった、しんのやみになります。なにも見えません。ビルボは、手をはなのさきでひらひらさせてみましたが、さっぱりそれが見えませんでした。じつは、何も見えないといったのはまちがいで、眼を見たのです。一同はたがいにからみあうようにくっつかって、眠ったのですが、交代で見張りを立てました。ビルボの見張りの番の時に、あたりのやみのなかに、光るものを見かけました。ときどきは、一つがいの(二つならんだ)黄色い眼、赤い眼、緑の眼が、ごく近くまでよってきてビルボをじっと見つめることもあり、そんな時はまもなく、光がかすかになり消えてしまいますが、またべつのところで、ゆっくり光りはじめるのです。いや、ビルボのすぐ頭の上の枝から目玉が光りだしたことがありました。ビルボはそれにはぞっとしました。けれどもビルボのきらいな眼は、球根のような形の青白く光るやつでした。「虫だな。」とビルボは心で思いました。「けものじゃない。でも虫にしては大きすぎる。」  夜はさほど寒くはありませんでしたが、なんとか見張りの焚火をたこうとしてみました。けれどもやがて、焚火をあきらめなければなりませんでした。それが、おびただしい眼をあたりによびよせるようだからです。もっとも、何だかわからないそういう生きものは注意ぶかくて、火あかりのゆらぐところには、すがたをあらわそうとしませんでした。さらに悪いことには、何千とない黒い蛾のむれを呼ぶことでした。蛾はやや黒いのからまっ黒のまで、手のひらぐらいの大きさのもあって、一同の目のところでぐるぐるばたばたとぶのです。それにはみんな、がまんがなりませんでした。いや、シルクハットのように黒い大コウモリもやってきました。そんなわけで一同は、焚火をあきらめて、やみのなかにすわり、とほうもなくぶきみなまっくらがりのなかで、うとうとと眠るほかはありませんでした。  こうしたぐあいで、ホビットにとっては、もう何年も何年も長い年月がたったような気がしました。おまけにビルボはいつもおなかをすかせていました。それというのは、一同が、きびしく食べものをおしんでいたからです。日に日がついですぎても、森のすがたはちっとも変わりがないようで、こうなると一同は心配にとりつかれはじめました。食べものは、かぎりなくつづくわけにいきません。そしてじっさい、とぼしくなりはじめていました。一同はリスを射とめようとして、たくさんの矢をむだにしたあげく、どうやら道ばたに一匹射たおすことができました。けれどもそれをあぶってみると、じつにひどい味がしましたので、リスうちはそれきりやめてしまいました。  その上、のどのかわきにも苦しみました。もう手もとの水はたくさんありませんでしたし、とちゅうずっと、泉も流れも見かけませんでした。そんなありさまのある日のこと、ゆくてが一すじの川にはばまれているのを見かけました。流れは早く、強いのですが、はばはたいしたことがありません。ただ水はまっ黒でした。すくなくとも森の暗がりではそう見えました。この川が、ビヨルンの注意してくれた川で、もしあれほどあのひとにいましめられていなかったら、どんな色をしていようと、一同はあらそってその水をのんだり、からっぽの皮ぶくろにつめたりしたでしょう。でも今は、どのようにしてからだをぬらさないで渡ろうかと、その渡り方を考えるだけでした。むかしは木の橋があったのですが、とうにくさって落ち、今は岸の近くにこわれた橋のくいが残るばかりです。ビルボは、高い切岸の上にひざまずいて、前方をうかがっていましたが、「あそこの岸に船があるぞ! ああ、どうしてこっちにないんだ?」と、大声でいいました。  「どのくらい、遠くじゃ?」とトーリンがたずねました。ビルボがみんなのなかでいちばん目のきくことは、もうみんなにもよくわかっていました。  「あんまり遠くじゃありません。十メートルぐらいでしょう。」  「十メートルだと。わしは、三十メートルぐらいあると思っとった。この目は、百年も使ってきて、もうよく見えん。なに、十メートルでも一キロでもおんなじことよ。どうせとびこせないし、歩いて渡ったり泳いだりもできんからな。」  「だれか、投げなわができませんか?」  「そんなことして、なんになる? 船はつないであるはずじゃ。たとえ、なわをひっかけたところで、だめだし、だいいち、なわがかかるまい。」  「いや、船はつないでないと思う。」とビルボがいいました。「このあかりでは、もちろん、はっきりわかりませんが……ただ岸にすこし引きあげられているだけのように見えます。そこはちょうど、道が川にむかってくだった、土手の低いところなんです。」  「ドーリがいちばん力がある。けれどもフィーリはいちばん若いし、目がいちばんたしかじゃ。」とトーリンがいいました。「フィーリ、こっちへ来て、バギンズどのがいっている船が見えるかどうか、ながめてくれ。」  フィーリも見えるように思いました。そこでフィーリが長いあいだ見さだめて、方角を頭にいれますと、ほかの者がフィーリに、なわを手渡しました。いく本かのなわをもちだして、そのいちばん長いなわのはしに、肩からひもをさげて荷物をひっかけるのに使っていた大きな鉄のかぎのさきを一つ、しっかり結びつけました。フィーリは、その結びめを手にして、しばらく調子をはかっていましたが、やがて、川のむこうに、なわをとばしました。  バシャン! なわが水に落ちました。「とどかない!」と、むこうをうかがっていたビルボがさけびました。「もう五十センチのばせば、船にとどく。もう一度、やってみましょう。あのなわのさきのぬれたところにさわっても、害になるほど魔法が強いとは思えませんね。」  フィーリは、なわをひきよせて、それでもきみわるそうに、かぎを手にしました。もう一度フィーリは、もっと力をこめてなわを投げました。  「あたった!」と、ビルボがいいました。「船のむこうがわの木の部分に、うまくひっかかった。しずかにたぐりなさいよ。」フィーリは、ゆっくりなわをたぐりました。しばらくすると、ビルボがいいました。「気をつけて! いまはかぎが船の上で横になってるから。さあ、はずさないように、ひっぱって!」  フィーリはいっしんにひっぱりました。なわはぴんとはって、フィーリがどんなにけんめいにひっぱっても、動きません。キーリが手だすけにのりだし、オインもグローインも加わりました。みんなして力のかぎりたぐりにたぐりました。そのうちいきなり、みんな、あおむけざまに、すとんとたおれてしまいました。けれども見張りをつづけていたビルボが、なわのはしをつかまえ、木の枝でいま川をおどりくだろうとする黒い小船をおさえとめました。「手をかしてくれ!」とビルボがさけんだ時、ちょうどバーリンが、すんでに波に運びさられようとした船をおさえることができました。  「やっぱり、つながれていたんだな。」とバーリンが、きれてぶらさがったままぶらぶらしていたもやいづなをながめながらいいました。「よくひっぱりよせたなあ。わたしたちのなわの方がずっとじょうぶにできていて、よかったなあ。」  「いちばんはじめに、だれがいく?」とビルボがたずねました。  「わしがいこう。」とトーリンがいいました。「あんたがいっしょにきてくれ。フィーリとバーリンもだ。一度に乗りこめる数といったらそれぐらいじゃろう。わしたちのあとは、キーリとオインとグローインとドーリじゃ。つぎがオーリとノーリ、ビフールとボフールで、さいごがドワーリンとボンブールじゃぞ。」  「わたしはいつだって、おしまいだ。それがいやなんです。」とボンブールがいいました。「きょうのおしまいは、ほかのものにしてください。」  「そんなに、ふとっとるから、いけないんじゃ。だから、おまえはつみ荷をかるくしてさいごに乗らなくちゃならない。いいつけにそむいて、ぶつぶついっていると、ろくなことにならんぞ。」  「かいがありません。どのようにして、船をむこう岸へこぐんです?」とホビットがたずねました。  「では、べつのなわをもう一つなぎと、もう一つかぎをください。」とフィーリがいいました。なわのさきにかぎがつけられると、フィーリがふたたび、前方のやみに、できるかぎり高く、ひと投げしました。なわがどさりと水に落ちませんでしたから、木の枝にひっかかったにちがいないと思われました。フィーリはこう説明しました。「ここへ乗りこんだら、ひとりが、むこうの木に張ってあるなわをたぐる。もうひとりは、はじめに使ったかぎを持っていて、ぶじにむこう岸へついたら、そのかぎを船にとりつけ、こっち岸でひきもどせばいいんです。」  こういうやり方で、まもなく一同は安全に、魔の川を乗りこえました。ドワーリンが手になわをまいて、船からあがり、ボンブールが、まだぶつぶついいながら、そのあとから岸へあがろうとした時、思いがけぬことがおこりました。道のゆくてに、あわただしいひづめの音がおこりました。そしてだしぬけに、やみのなかから、一頭のひた走る牡ジカがあらわれました。シカはいきおいこんでドワーフたちのなかにかけこみ、一同をてんてこまいさせてから、一とびするため身がまえました。そして高くとびあがって、力のこもった一とびで、川をおどりこえました。けれども、シカはぶじにむこう岸についたわけではありません。というのはトーリンだけが、足をしゃんとふんばって、とりみださないでおりました。一同が岸へあがるとすぐさま、トーリンは弓に矢をつがえて、船の持ち主があらわれはしまいかと不意にそなえていたのです。そこでトーリンは、とぶシカめがけて、すばやく矢をはなちました。シカはむこう岸におりたつ時に、がくんとよろめきました。だが、やみがシカのすがたをのみこみ、やがてよろめく足音がし、そのまましずかになりました。  けれども、一同が弓のうでまえをほめたたえようとしたとたん、ビルボのおそろしい悲鳴が、一同の気持ちをひきさいてしまいました。「ボンブールが落っこったぞ! おぼれているぞ!」なんともはや、そのとおりだったのです。ボンブールは、シカがのしかかるようにむかってきて、頭の上をとびこえたその時、岸に片足をかけたばかりのところでした。あおりをくって、ボンブールはよろけ、船を岸からつきはなすと、黒い流れにころがりこみました。ボンブールの手が、つるつるした岸の木の根をつかんで、ずるずるとはなしてしまうあいだに、船はゆっくりとはなれて、すがたを消していきました。  一同が川岸へかけつけた時、ボンブールの頭巾がまだ見えました。さっそく、ボンブールに、かぎのついたなわを投げてやりますと、その手がなわをつかみましたので、一同はえいえいとボンブールを岸へひきあげました。もちろん髪から靴さきまで、全身びしょぬれでしたが、それどころではない、こまったことがおこっていました。岸の上へ横たえると、かれはもうぐっすりと眠りこんでいて、片手でしっかりとにぎりしめたなわを、どうほどこうとしても、はなしません。それに、みんなができるだけの手をつくしたのに、ただこんこんと眠りつづけるばかりです。  一同はボンブールをかこんで立ったまま、運の悪さをなげき、ボンブールののろまさかげんをのろい、船をなくして、もうシカをさがしにもどれないことをくやしがりました。が、そのうち、森のかなたで、つのぶえがかすかに鳴り、犬たちがほえる声がきこえてきました。そこで、みんなは、だまりかえってしまいました。そして、がっかりして腰をおろしていると、何も見えはしませんが、道の北がわを大きな狩の一たいが通りすぎていくもの音がするのを、耳にしたように思いました。  一同は、しばらくのあいだ、すわりこんで、何もする気がおこりませんでした。ボンブールは、今までのなやみつらみをすっかり忘れたかのように、ふとった顔ににっこり笑みを浮かべたまま、眠りこけています。すると、いきなりゆくてにあたって、いく頭かの白いシカがあらわれました。さっきの大ジカが黒かったのと反対に、一頭の牝ジカも、子ジカたちも、雪のように白く、やみのなかにきらきらとかがやいてみえました。トーリンがかけ声をかけるよりも早く、三人のドワーフがぴょんと立ちあがって、弓から矢をきってはなちました。だがだれも、まとを射あてなかったようでした。シカたちは、くるりとむきをかえて、来た時とおなじように音もなく、木々のうちに消えさり、ドワーフたちはただいたずらにそのあとへ矢をとばせました。  「やめい! やめい!」とトーリンがさけびました。けれどもそれはておくれで、夢中になったドワーフたちは、さいごの一本までうちはたして、せっかくビヨルンがくれた矢は、むだづかいされてしまいました。  その夜のやどりは、まことにゆううつなものでした。そしてそのゆううつな気分は、それからいく日かのあいだ、ますます深まるばかりでした。一同は、魔の川をこえることはこえました。けれどもそのさきの道は、あいかわらずだらだらとかぎりなくつづくようでしたし、森の中には、なんのかわりも見られませんでした。でももし一同が、あの狩のこと、白いシカたちがあらわれたことの意味をよく考えてみたら、ようやく森の東がわへ近づいてきていることがわかったでしょうし、勇気をふるいのぞみをかき立てれば、もうすぐに、しげみはうすくなり、日の光がふりそそぐ場所に出られたことでしょうに。  けれども一同は、そのことをいっこうに知らずに、ボンブールの重たいからだをかついで歩きました。ボンブールをつれていくためには、かつぐよりほかにしかたがありません。そのくたびれ仕事には、四人がかりで順番にあたり、あとのものは四人の荷物をひきうけました。この荷物が、四、五日のあいだにぐっと軽くならなかったら、とてもつづかなかったでしょう。荷物のかわりに、にっこり笑ったまま眠りこけてかつがれているボンブールは、重くて言葉どおりの荷やっかいでした。いっぽう飲みものと食べものの方は、とうとう、底をつく日がやってきました。口にいれていいものは、森の中でなに一つさがせません。森には青白く光る毒草や、いやなにおいのするキノコ類がはえているだけでした。  あの魔の川から四日たったころ、一同は、ほとんどブナの木ばかりしげっている場所にでました。はじめのうちは、このかわり方に声をたててよろこびました。それは、びっしり茂る下草がなく、くらがりがひどくなかったからで、あたりには緑色のほの明るさがただよい、道の両がわがかなり遠くまで見とおせるところが、ほうぼうにありました。明るいといっても、とほうもなく大きなたそがれの広間のなかに立ちならぶ柱の列のように、黒っぽい幹が限りなく列をつくっているのが見えるだけです。でも空気には動きがあり、風の音もします。もっともそれはかなしげな音でした。木の葉がひらひらまいおちてきて、森のそとに秋が来ていることを思い知らせました。いままでのかぞえきれない秋ごとに、森の中に落ちてはつもったかぎりない落葉が、ぶあつく赤いじゅうたんとなっていますが、ふきよせられて道の上にもふかくつもったその落葉を、一同はかさかさけちらして歩きました。  あいかわらずボンブールは、眠りこけています。一同はすっかりくたびれてしまいました。その上ときどき、一同の心をかき乱すような笑い声がきこえます。おりおりは、どこか遠くでうたう声もします。笑い声は、ゴブリンのでない、明るい笑い方でしたし、歌声も美しいのですが、どこか不気味で、変わったひびきでした。一同は心が安らぎませんでした。それどころか、あまり残っていない力をふりしぼって、いそいでこのあたりをとおりすぎようと足を早めました。  それから二日たって、道がくだりになっているのを見、それからほどなくして、ある谷地に出ましたが、そこはほとんどまったく、大きなカシの木ばかりのこんもりした森でした。  「こののろわれた森には、はてしがないのか?」と、トーリンがいいました。「だれか、木にのぼって、森の上に首をだして、あたりのようすを見てこなけりゃいかん。それには、道にのぞむいちばん高い木をえらぶことじゃ。」  もちろん、「だれか」といっても、ビルボのことでした。みんなはビルボをえらびました。なにしろ、木にのぼってから、いちばんさきの葉さきの上に首をださなければならないのですから、いちばん高い、いちばん細い枝にもたえるくらい軽いひとでなければならないのです。気の毒なわがバギンズ君は、木のぼりをあまりやったことがなかったのですが、ドワーフたちがみんなして、道につきでている一本の大きなカシの木のいちばん下の枝にビルボをおしあげたので、そのさきビルボもできるかぎりがんばってのぼらなければなりませんでした。よじのぼるうちにぴしぴしとうるさい小枝が目にはねかえりますし、もっと大きな枝はよごれた皮でべたべたよごすしまつです。一度ならず手足をすべらして、あやうくつかまって助かったこともありました。そしてちっとも手がかりの枝がないむずかしい幹でさんざんもがいたすえに、やっとてっぺんのちかくへたどりつきました。木にのぼるあいだじゅう、ビルボはどこかにクモがいやしないか、こんどおりる時はどうすればいいかと思いつづけていました。おりるといっても、落ちればかんたんですが……。  ついにビルボは、てっぺんの葉のしげりの上に首を出しました。その時、クモを見かけましたが、それはごくふつうの小さいクモのなかまで、チョウチョをねらっていました。ビルボの目は、光にくらみました。はるか下の方からドワーフたちが大声でよびかけているのはきこえましたが、ただじっと木につかまって、目をぱちぱちするだけで、答えることができません。お日さまは明るくぎらぎらと照っています。そのまぶしさになれるのに、ずいぶんてまがとれました。ようやくなれてくると、一面のこいみどりの海のような木の葉の屋根のつらなりが、あそこでもここでもそよ風に波立っているのが見えました。そのいたるところに、何百何千というチョウチョのむれがとんでいました。カシの木のてっぺんが好きな「テイオウムラサキ」というチョウの一種かと思われますが、それがちっともむらさき色ではなくて、なんのもようも見えないほどまっ黒な、ぬば玉のやみのように黒いチョウでした。  ビルボは、長いあいだ、「テイオウグロ」チョウをながめ、髪をふきぬけ顔をなぜるそよ風の感じをたのしんでいました。けれども、下のほうで待ちきれなくて足ぶみしだしたドワーフたちのさかんなさけび声が、どうやらビルボのはじめの役目を思いださせました。役目の方は、かんばしくありませんでした。どれほどくわしくながめても、どちらの方角も木々のつらなりと木の葉の海で、はてしがありません。お日さまをながめ、風に吹かれて明るくはずんだビルボの心は、なまりのように沈みました。なんの食べものもなく、下へおりて帰らなければならないのです。  前にいいましたように、ほんとうのところは、森の出口が遠くはなかったのです。もしビルボに、見とおす力さえあったら、自分ののぼった木は、たとえどんなに高くても、広い谷間のくぼみにはえていたのですから、そのてっぺんからは、まわりじゅうが大きなおわんのまわりのようにもり上がって、はてしなくながめられたので、どこまで森がつづくかが見られっこないことが、よくわかったことでしょう。そういうことがわかりませんでしたから、ビルボは、すっかりがっかりして、木をよじくだりました。きずだらけで、ほてって、そのうえ気がめいって、ようやく下までたどりつくと、地面はまるで暗くて何一つ見ることができません。ビルボのしらせは、ビルボとおなじように、ほかの者たちをがっかりさせてしまいました。  「森は、東西南北どちらにも、かぎりなくどこどこまでもつづいているって! それじゃいったい、どうしたらいいんだ? ホビットを見にやって、なんの役に立ったんだ?」とドワーフたちは、まるでバギンズ君がわるいことでもしたように、いいたてました。ドワーフたちは、チョウのことなど気にもとめませんでした。ただ気持ちのいいそよ風のことをきかされて、みんなからだが重いものですから、木にのぼって風にふれることができず、やたらに怒りっぽくなってしまうばかりでした。  その夜は、みんなで、これがさいごの残りものを集めた食事をとりました。つぎの朝、目をさましてまず一同は、おなかがしめつけられるようにすいているのに気がつきましたが、つぎには、雨ふりで、森の地面のあちこちに、しずくがはげしくふりそそいでいることに、気づきました。するとその雨が、心をなごめるどころではなくて、はんたいに、ひりつくようなのどのかわきを思いださせるたねになりました。大きなカシの木の下に立って、口をあけて、雨だれが舌の上におちてくるめぐりあわせを待ってみても、はげしいのどのかわきはとまりません。ところが、わずかな心の安らぎは、思いがけなくもボンブールからあたえられたのでした。  ボンブールは、ふいに目をさまして、頭をかきかき、むっくり起きあがりました。ボンブールは、ここがどこだか、どうしてこんなにおなかがすいているのかがわかりませんでした。なにしろ、とおい五月のある朝に旅立ちをしてからのできごとをすっかり忘れてしまったのです。ようやく思いだすさいごのことといえば、ホビットの家での集まりのことで、それからのちのかずかずの冒険を話してきかせて、のみこませるまでが大骨折りでした。  ボンブールは、もう食べるものが何もないときかされると、ぺたんとすわって、さめざめと泣きました。それはボンブールがからだがよわって、足がよたよたしたためです。「どうしてわたしは、目をさましたんだろう!」とボンブールは、大声でなげきました。「とてもすてきな夢をみてたんだ。夢のなかで、ここと同じ森を歩いていた。ただ木々にはたいまつがかかり、枝々にランプがゆれ、地面には焚火がもえて、明るかった。そこに大宴会がひらかれて、いつまでもつづいてたんだ。森の王が、木の葉の 冠 をかぶってのぞんでいたし、たのしい歌がわきおこっていた。それに、飲みくいするごちそうの数もありさまも、いいつくせないくらいだった。」  「いいつくそうとする必要はない。」とトーリンがいいました。「そのことしか話せぬなら、だまっているのがいちばんじゃ。おまえには、まったく手をやいたぞ。もし目をさまさなかったら、おろかしい夢を見させたまま、森へおきざりにしようと思っておったところじゃ。食べものがとぼしくなってひさしいのに、ばかなずうたいを運ぶほど、わしらはみなすいきょうではないぞ。」  もうこの上は、からっぽのおなかにバンドをぎゅっとしめなおし、からっぽの荷ぶくろをゆすりあげて、とぼとぼと道をたどるほかはありません。道ばたにたおれてうえ死にする前に、目的地につこうというけなげなのぞみも消えはてていました。一日じゅうかかって、一同は、のそのそだらだらと歩いていきますと、そのあいだじゅうボンブールは、足がもつれて歩けないとか、横になって眠りたいとか、泣きごとをいいつづけました。  「だめだよ。」とドワーフたちがいいました。「自分の足を動かせよ。わたしたちは、いやというほどおまえをはこんできたんだから。」  すると、ボンブールは、ふいに、これ以上歩くのはいやだといいだして、地面へ身を投げだしました。「みなさん、行かなけりゃならないんなら、どうぞいらっしゃい。わたしはここに横になって、眠って、食べものの夢でもみますよ。どうせ食べものが手にはいらないんですから。これっきり目がさめないでもらいたいもんだ。」  その時でした。すこし先へ行っていたバーリンが、大声をあげました。「ありゃなんだ? 森の中で、あかりがちらつくみたいだぞ。」  一同はいっせいに、そちらを見守りました。すると、すこしばかり遠くの方に(と見えましたが)、やみにまたたく一点の赤い灯を見つけました。するとまたつぎつぎに、そのあたりに灯があらわれでました。ボンブールさえも、起きあがりました。一同はそちらへ足を早めました。トロルなのかゴブリンなのかを気にする者もありません。あかりは、一同の進むさきの、道の左手にあって、そのあたりの道までいって、真横から木の間ごしに見ますと、たいまつや焚火が、道からかなりはなれた地面にもえているようなのです。  「まるで、わたしの夢が正夢になったようだ。」とボンブールが、うしろから息をはずませてとぎれとぎれにいいました。そして、そのあかりをめがけて、やにわに森の中にかけこもうとしました。けれども、ほかの者たちは、魔法使いとビヨルンのいましめを、はっきりおぼえておりました。  「宴会とはあやしいぞ。そこに行けば、生きて帰れないかもしれんわい。」とトーリンがいいました。  「でもごちそうを食べなけりゃ、どっちみちそう長くは生きのびられませんよ。」とボンブールがいいました。ビルボは心からこの言葉にさんせいでした。みんなは長いあいだ、このことをあれこれと論じあいました。そしてとうとう、さぐりをいれにふたりのスパイをおくりこむことに、意見がまとまりました。ふたりはあかりのそばまで忍んでいって、もっとくわしくしらべてくるのです。さてそのあと、それではだれをおくりこむかということになって、なかなか意見がまとまりません。だれも、自分が道にまようかもしれず、そうなれば二度となかまの顔が見られなくなるかもしれませんから、その危険をおかしたくないのです。けれどもさいごには、あれほどのいましめを破って、ひもじさが一同の心をきめてしまいました。なにしろボンブールが、夢で食べた森のごちそうのかずかずをあとからあとからあげるのですからたまりません。一同は、うちそろって道をそれ、もろともに森の中にはいりこみました。  かなりのあいだ、からだをふせてひざではいながら進んだあと、木の間をうかがってみますと、木々がとりはらわれて地面が平らにされた広場を、見いだしました。そこには、エルフらしいたくさんのひとたちが、緑と茶の服を着て、たおれ木を輪ぎりにしたいすをぐるりと大きな円形にならべて、そのいすにこしかけています。輪のまんなかに焚火がもえていて、まわりの木々にかずかずのたいまつがとりつけられています。けれどもなにより目をうばうありさまは──かれらが、飲んだり食べたり、たのしげに笑ったりしていることでした。  あぶり肉のにおいがあまりにこたえましたので、たがいに相談するいとまもなく、一同はわれ知らず立ちあがって、食べものをもらおうという一心で、集まりのなかによろけこみました。だれかが広場へ一歩ふみこんだとたん、まるで魔法にかかったように、あかりがいっせいに消えました。焚火をけとばす者があって、焚火はのろしのように火花を散らして、とんで消えました。一同は、まったくのやみのなかで方角を失い、しばらくのあいだ、おたがいのありかもわかりませんでした。すっかりとりみだして、やみのなかでうろうろしたり、丸太につまずいてたおれたり、木の幹にいやというほどぶつかったり、森じゅうの生きものをたたきおこすほどの大声でたがいにさけんだり呼びあったりしたあげく、とうとう一同は、どうやらまとまりあうことができ、手でさわって人数をかぞえてみました。もちろんそのころには、もとの道がどっちの方だったかがわからなくなっていましたから、すくなくとも朝になるまでは、みんなとほうにくれた迷子になってしまいました。  とにかく、いまいるところにそのまま夜をあかすほかはありません。地面の上で食べもののかけらをさがそうにも、またはなればなれになるおそろしさを思いますと、手が出せません。といって、一同はそこでゆっくり夜をあかすこともできませんでした。それというのは、ビルボがうとうととしはじめたころ、いちばんはじめの見張り番に立っていたドーリが、こうふんした声でこうささやいたからです。  「あっちの方に、またあかりがついた。今度は前よりたくさんだ。」  いっぺんに一同ははねおきました。たしかに、あまり遠くないところに、たくさんのあかりがまたたいていて、さんざめく声やどっと笑う声がとてもはっきりときこえます。一同はたての一列になって、たがいに前の者の背なかにさわりながら、ゆっくりとあかりの方へむかって、はい進みました。近くまで来た時に、トーリンがいいました。「今度はあわててふみこむな。わしがいうまで、だれもかくれ場所から動くでない。あの連中にまず話しかける役にバギンズどのをさしむけよう。まさかバギンズどのなら連中もこわがるまい──(「わたしの方はどうだと思ってるんだろう!」とビルボが心のなかで思いました)──とにかくバギンズどのに、ひどいことはしでかさないでもらいたいものじゃ。」  一同は、あかりの輪のそとまで来て、いきなりビルボをうしろからつき出しました。ビルボはあの指輪をはめるひまがないまま、焚火とたいまつのあかるみのなかに、よろめきはいりました。それがよくありませんでした。たちまちあかりがぜんぶ消えて、あやめもわかぬやみとなりました。  この前にもより集まるのがたいへんだったのに、今度はもっとひどいことになりました。ホビットだけが見つかりません。いくらたがいにかぞえなおしても、十三人です。ドワーフたちはさけびにさけび、呼びに呼びました。「ビルボ・バギンズ! ホビットやーい。迷子の迷子のホビットやーい。ごたごた野郎、どこへいった?」などと、いろいろに申しましたが、さっぱり答えがありませんでした。  一同がのぞみをすてようとした時、ドーリがまったくゆきあたりばったりに、ホビットのからだにつまずいたのです。やみのなかで、ドーリは、丸太につまずいて倒れたのだと思いました。そして、さわってみて、ホビットがからだを丸めてぐっすり眠っているのを見つけました。ずいぶんてまをかけて、からだをゆすぶって、目をさまさせましたのに、目をあけたビルボは、ちっともよろこびませんでした。  「とってもいい夢をみてたところだ。」と、ビルボはぶつぶついいました。「この上なしのぜいたくなごちそうを、ちょうだいしようとしてたところなのに。」  「なむさん、ホビットも、ボンブールみたいになったぞ。」とドワーフたちはいいました。「夢の話なんかするな。夢のごちそうは、絵にかいたもちで、ごしょうばんにあずかれない。」  「こんな場所では、夢がいちばん。」ビルボはこう口のなかでつぶやいて、ドワーフたちのそばにばたんと横になり、さっさと眠って夢のつづきを見ようとしました。  ところが、森のあかりはこれでおしまいではありませんでした。もう夜もだいぶふけたころ、その時見張りにあたっていたキーリが、こうさけんで、またまた一同を起こしました。  「あまり遠くないところに、あかりがぱっちりついている。たくさんのたいまつや焚火が、魔法の力でだしぬけに、ともされたにちがいない。それにあの歌声とたてごとの音をきいてごらんなさい!」  目をさまして横になったまま、しばらく耳をすませていますと、そのそばに近よって、食べものがもらいたい気持ちは、おさえきれなくなってきます。そこでふたたびあかりに近づいていきました。すると今度はもう、たいへんなことになったのです。一同が見たごちそうは、今までにまして多く、またすばらしいものでした。宴会の人々のつづく列のまっさきにはボンブールが夢の話でのべたのとそっくりのかっこうで、森の王が、黄金色の髪の上に木の葉の 冠 をかぶって、すわっていました。エルフたちは、手から手へと、ごちそうをもった鉢をわたし、焚火をこえていったり来たりしています。たてごとをかなでる者もあって、多くの者がそれにあわせて歌をうたっています。みなかがやくような髪に、花をさしていますし、緑の宝石や白く光る石を、えりもとやバンドにきらめかせています。顔にも歌にも、うきうきする楽しさがあふれています。歌声は高く、澄んできよらかです。そこへトーリンが、ぬっとわってはいりました。  ぴたりと、物音がとだえました。あかりというあかりが消えました。焚火は黒い煙をあげ、灰ともえくずが、ドワーフたちの目にとびこみ、森はまた、ドワーフたちのさわぎとさけびでみたされました。  ビルボは、ただぐるぐると(と自分では思ったのですが)走りまわり、呼びに呼んでいました。「ドーリ、ノーリ、オーリ、オイン、グローイン、フィーリ、キーリ、ボンブール、ビフール、ボフール、ドワーリン、バーリン、それにトーリン・オーケンシールドやーい!」一方、ビルボが見もさわりもできなかったドワーフたちの方でも、ビルボのまわりをかけまわって同じことをしていました(こっちには、ときどき「ビルボやーい」の声がまじったわけです)。けれども、ほかのひとたちの呼び声はしだいに遠くかすかになり、しばらくたつうちに、いつしか呼び声が遠くの方で助けを求めるさけび声にかわってしまったらしく、ビルボに思われました。そのさけび声もついにはきこえなくなり、ビルボはただひとりで、何もきこえない何も見えない、しんとしたやみのまんなかに、ひとりでとりのこされていました。  それは、ビルボにとっていままでにない、かぎりなくみじめな時でした。けれどもやがてビルボは、夜があけてすこしでも明るくなるまでは、かえって何かしようとしてはいけない、朝ごはんを食べて元気になるのぞみがないのだから、むだにあちこち動きまわってつかれたらもうだめだ、と気がつきました。そこで、一本の木に背をもたせてすわりこみ、あのなつかしい台所のある遠いわが家のホビット穴を、いつものように思いだしたのですが、それはこれがさいごにはなりませんでした。ビルボは、卵やきベーコンと、バタぬりのやきパンのことをじっと考えているうちに、何かがからだにふれるのをおぼえました。何だかねばねばする強い糸のようなものが、左手にふれました。それでからだを動かそうとすると、もう両足が同じ糸でぐるぐるまきになっていましたので、起きあがろうとして、たおれてしまいました。  すると、ビルボがうとうと眠っているあいだに、せっせと糸をかけていた大きなクモが、うしろからかけよってきました。ビルボにはやっとその眼が見えるばかり、自分のまわりにぐるぐるいやらしい糸を大いそがしでかけていく毛むくじゃらの足は、さわるのでわかりました。運がついていたのでしょう、あわやという時に、ビルボは正気にもどりました。もうまもなく、まるっきり動けなくなるというまぎわでした。その時ビルボは、いのちがけの戦いをしかけて、自由になろうとしました。その奴を両手でなぐりつけました。クモの方は、よく小さいクモがハエにするように、ビルボをじっとさせようとして、毒をうとうとしました。ふとビルボは、自分の剣を思いだして、すらりとひきぬきました。するとクモは、びくりととびすさり、そのまにビルボは両足の糸を切りすてることができました。そのあとは、ビルボがむかっていく番でした。たしかにこのクモは、横手から針をくりだすようなこんな相手に、あったことがなかったものとみえます。さもなければすばやくにげ去ったでしょう。そのまえに、ビルボはクモに近よって、クモの両眼めがけて、剣をふるいました。すると、クモめは、気がくるったようになり、ぴょんぴょんとんで、おどりまわり、長い足をおそろしいほどびくびくとひきつらせて弱ったところへ、ビルボはまた一たちあびせて、殺しました。それからその場にぶったおれて、長いこと何もおぼえていませんでした。  いつものように、森の一日のうす暗いあけ方の光があたりをぼうっとそめるころ、ビルボはようやく正気づきました。クモは、ビルボのすぐそばにたおれて死んでいて、剣のぬきみにまっ黒な血がこびりついていました。ともかく、とほうもない大グモを殺したのです! それもやみのなかで、たったひとりで、です! 魔法使いの力をかりたのでもなければ、ドワーフたちの加勢でもありません。これが、わがバギンズ君をがらりと変えるみなもとになりました。ビルボはいま、ちがったひとになりかわった気がしました。胃ぶくろだけはからっぽですのに、勇気りんりん、みなぎる熱気を感じながら、剣を草葉でぬぐって、さやにおさめました。  「おまえに名まえをつけてやろう! よし、つらぬき丸とよぼう。」と、ビルボは剣にいいました。  それからホビットは、たんけんに出かけました。森はうす暗くて、静かです。とにかく何をおいても、友だちを見つけださなくてはなりません。みんなは、エルフやほかの悪い者たちにつかまってめしとられたのでなければ、それほど遠くには行っていないはずです。ビルボは、名まえをどなるのは安全でないと思いました。しばらく立ったまま、どちらへ行けばもとの道へ出られるだろう、どちらへむかえば友だちがさがせるだろう、と考えました。  「ああ、なんだってわたしたちは、ビヨルンのいましめをきかなかったのだろう! ガンダルフの忠告も耳に残っていたのに!」とビルボはなげきました。「わたしたちは、なんという羽目におちいったのだろう。わたしたちか! ああ、わたしたちとはうれしい言葉だ。ひとりぼっちは、おそろしいことだもの。」  やがてのことに、ビルボは、きのう助けを求めるさけび声がきこえてきた方角を、よくよく考えて、さだめました。そして運のいいことに(ビルボ・バギンズは、生まれつき運にめぐまれるたちでした)、やがておわかりになりますが、それがおおよそまちがいでなかったのです。いったんかくごをきめますと、ビルボは、じょうずにからだをふせて進みました。ホビットというものは、まえにもお話ししましたように、とくに森の中では、音をたてないものなのです。その上ビルボは、出かける時に、身をかくす指輪をはめていました。だから、クモどもは、ビルボが来るのを見もせずききもしなかったわけなのです。  かなりのあいだ、こっそり進んでいきますと、ゆくてにあたって、ばかに黒々としたものかげがかたまっている場所に気づきました。その黒さは、森のなかでもめだって黒く、ひきあげきらなかった夜のなごりのようでした。近づくにつれて、そこは、ごちゃごちゃもつれあい、上下や横にならびあっているクモの巣だということがわかりました。そしてふと、頭の上の枝に、大きなおそろしいクモたちがすわっているのに気づきました。指輪があろうとなかろうと、見つかりはしないかというおそろしさで、ビルボはからだがふるえました。一本の木のうしろに立って、しばらくじっと、クモの集まりをながめているうちに、音も動きもない森の静けさのなかで、この胸くそのわるくなる生きものが、おたがいにかわしている話がきこえてきました。その声は、一種かん高いキーキー声、シュッシュッという声でしたが、そのしゃべった言葉から、ビルボはいろいろとききだすことができました。話はドワーフたちのことでした。  「いそがしい仕事だったぞ。が、それだけのこと、あるぞ。」と一匹がいいました。「ばかげて皮のあつぼったいやつらにちがいないぞ。が、なかみはうまい汁気あると、思うぞ。」  「そうよ。うまいもんになるぞ、すこしぶらさげとけば。」と、ほかの奴がいいました。  「ぶらさげすぎるな。」と三匹めがいいました。「おぬしら、いうほど、ふとってないぞ。ちかごろあまり、くらってなかったろ。」  「ころしちまえ。」と、四匹めが、シューシュー声でささやきました。「いますぐ、ころして、そのまんま、しばらくぶらさげろ。」  「いまごろ、死んでるぞ、きっと。」と、はじめの奴がいいました。  「まだ、死んでない。まだもがいてるの、みた。よーくおねんねしたら、きっと、息を、ふっかえすぞ。いま、みせてやる。」  こういって、ふとったクモどもの一匹が、するするとつなをつたわっていきますと、高い枝から一列になって十二このつつみがさがっているところに、近よりました。ビルボはあらためてぞっとしました。やみにぶらさがっているものにはじめて気がついて、よくよく見れば、つつみの底からドワーフの足がつき出しているのもありますし、つつみのあちこちに、鼻のさきが出たり、ひげのはしや頭巾のとがりがのぞいているのがあるのです。  このつつみのなかで、いちばんふとって大きい方へ、このクモははっていきました。「あれは、きっと、きのどくなボンブールだ。」とビルボが思いました。クモは、つき出している鼻を、ぎゅっとつねりました。なかから、息のつまったさけび声がしました。そして足ゆびをあげて、そのクモをきつくけりあげました。ボンブールはまだ生きているのです。すると、たるんだまりをけるようなにぶい音がして、かっとおこったクモがその枝から落ちましたが、やっと糸をくり出して、からだをささえました。それを見て、ほかのクモたちは、笑いました。「おぬしのいうとおり、えさが生きてて、けっとばすよ。」  「みておれ、すぐさま、こいつにけりをつけてやるぞ!」と、怒ったクモは、もとの枝によじのぼりながらいいました。  ビルボは、すぐ何かやらなければならない時がきたのを、知りました。あのちくしょうどものところへ、のぼっていくことができませんし、こちらから射かける道具もありません。けれどもあたりを見まわしますと、昔の川ぞこだったとみえる、いまはかわいたみぞのなかに、たくさんの石がころがっているのを見つけました。ビルボは、石なげにかけてはたいした名人でした。にぎりやすい、すべらかな卵がたの手ごろの石を見つけるのに、てまはとりませんでした。子どものころ、ビルボは、まとに石をうちあてるれんしゅうをしたものでした。そして、ウサギやリスや、とぶ鳥でさえも、ビルボが石を投げると見たしゅんかんに、はや電光のように逃げていくくらいの腕前になっていました。おとなになってからでさえ、たっぷり時間をかけて、輪なげや投げ矢や棒なげ、かわらけ投げやボーリングまで、いつもやっていましたし、もっと静かな遊びにも、ねらって投げつけるようなことを、たくさん楽しんだものです。タバコの煙の輪をあげること、なぞかけ遊び、それにこれまでお話しするひまがなかった料理などのようなビルボの楽しみに、ものを投げることもはいっていたのです。さて今は、ためらう時でありません。ビルボが石をひろっているあいだに、クモはボンブールのところにたどりつきました。もうすぐ、ボンブールは殺されるでしょう。この時、ビルボは、投げました。石は、クモの頭をうちくだきました。クモはたちまちがくりとして、木から落ち、地にどさりとたおれて、ぜんぶの足をちぢめました。  つぎの石はぴゅうとうなって、大きな巣をくぐり、ふとい糸目をたち切って、巣のまんなかにすわっていたクモにあたり、ぴしゃっ、ころりとやっつけました。こうなると、クモのなかまの集まりに、たいへんなさわぎがまきおこって、しばらくはドワーフたちのことを忘れてしまいました。クモたちは、ビルボを見ることができませんでしたが、石がとんでくる方向をうまくつかむことはできました。いなずまのようにすばやく、ホビットめがけてクモたちは走ったり、とんだりして来ました。そして四方八方から長い糸を投げつけるものですから、空中にかすみあみがびっしりはられたようでした。  けれどもビルボは、さらにすばやく、ちがったところへ逃げのびていました。一つの考えが頭にわいて、怒ったクモたちを、できるだけドワーフたちからひきはなしてしまおう、いちどきに、なんだろうとふしぎがらせ、夢中にさせ、怒らせてしまおうと思いついたのです。およそ五十匹ばかりが、まえにビルボの立っていたところにおしよせたころ、ビルボはそこにも、そのうしろにつっかえている奴らにももっとどしどし石を投げつけました。それから木々のあいだをとびまわって、クモどもをもっとむかむかさせて、一度にあとを追わせるように、そのうえ自分の声をドワーフたちにきかせるように、こんな歌をつくってうたいました。  これが、その歌です。 クモのでぶめが、木の間で糸くり! クモのでぶめは、おれさま見えない。 糸くりテンテン、糸くりテンテン おや、どうしたね? 糸くりやめて、おれさまさがせ! クモのとんまが、でかいずうたい。 クモのとんまは、おれさま知らない。 糸くりテンテン、糸くりテンテン ほら、こられるか? その木にあがって、おれさまとらえろ!  きっと、あまりうまい歌ではありますまい。けれども、あのおそろしい時のはずみで、ビルボがむりにも自分で歌をこしらえなければならなかったことを、考えてやる必要がありましょう。それはとにかく、その歌は、ビルボののぞみどおりにはたらきました。ビルボはうたいながらも、ますます石を投げ、足ぶみをしました。そしてじっさい、そこにいたクモたちはぜんぶ、ビルボのあとを追いました。あるクモは、地に落ち、あるクモは枝をつたい、木から木へとびうつりながら、やみのなかに新しい糸を張りめぐらしました。そしてクモどもはみな、ビルボのたてる音に対して思ったよりもすばやく動きました。どのクモもおそろしいほどいかりくるっていました。それは石のことをべつにしても、糸くりテンテンなどといわれるのがいやでしたし、とんまとよばれるのを、もちろん、ひどいあざけりと感じたからなのです。  ビルボが場所をかえて逃げまわっているうちに、いく匹かのクモたちは、クモのたまりになっていたこの森のあき地のあちこちに走って、いそがしげに木々のあいだに巣を張りはじめました。まもなくホビットは、身のまわりをすっかりぶあついクモの糸のかべにとりまかれてしまうでしょう。これが、クモどもの考えだったのです。あとを追って糸をくり出すクモどものまんなかに立って、ビルボは、勇気をふるいたてて、こんな新しい歌をうたいはじめました。 のろのろのろまの、くるくるクモが、 おれさままこうと、糸をくる。 おれさまのからだは、いちばんうまいが、 クモめに、おれさまは見つからない。 ほれほれここだぞ、ちっちゃいハエだぞ。 きさまら、ふとっちょ、のろまグモ。 きさまらの糸は、だらしがなくて、 そんなものに、おれさまはかからない。  こううたいながら、ビルボは身をひるがえして、大きなあみでぬりこめられた二本の高い木のあいだに、さいごのすきまを見つけました。それは、運のいいことに、ちゃんとしたあみではなくて、あわただしく二重にかけた糸のよりを幹から幹へ前後にかけわたしただけのものでした。あの小さな剣がひきぬかれました。その糸をずたずたにたち切って、ビルボはうたいながら、すりぬけていきました。  クモたちが剣を見て、なんと思ったかはわかりません。とにかくすぐさまクモたちは一かたまりになって、地面や枝をつたってホビットを追いました。毛むくじゃらな足をうちふり、口のかんぬき、しりの糸くりをかちかちいわせ、眼をとび出させて、あわをふきたて、いかりにくらんで走りました。ぞろぞろビルボのあとを追っかけているあいだに、ビルボはできるだけ遠くまでおびきだしてから、ネズミよりも早く、もとの場所にこっそりたち帰ってきました。  ビルボには、クモどもががっかりして、ドワーフたちのぶらさがっているもとのふる巣にもどるまでに、たいせつな時間がすこししかないのがわかっていました。そのあいだに、ドワーフたちぜんぶを助けださなければなりません。その仕事のいちばんつらいところは、つつみがぶらさがっている高い枝にのぼりつくことなのです。もしクモがおりよくもそこに糸を一本たらしておかなかったら、どうなったことかわかりません。とにかくそのおかげで、その糸をたぐり(とはいえ、それは手にざらざらあたって、きずがつきました)、よじのぼりますと、たった一匹、ばかにふとった、のろまの年よりグモが、ほりょたちの見張りに残っていて、どれがいちばんおいしそうかと、あちこちせっせとつまんでみてあるいていました。そいつは、ほかの者どもがいないあいだに、ごちそうをいただこうと思っていたのですが、わがバギンズ君がいち早くかけつけて、年よりグモは、なにがなんだかわからないうちに剣の一さしをうけ、あえなく枝からころがり落ちました。  ビルボのつぎの仕事は、ドワーフたちをほどいてやることでした。でも、どうやったらいいでしょう。もしつつみをつるさげている糸を切ったら、みじめなドワーフは、はるか下の地面にどしんとぶつかってしまいます。あわれなドワーフたちをくだもののようにぶらぶらおどらせている、その枝の上をもぞもぞはい進んで、ビルボはまずはじめのつつみにたどりつきました。  「フィーリかキーリだな。」てっぺんからつき出ている青い頭巾のさきを見て、ビルボは思いました。「たぶんフィーリだ。」ぐるぐるまきの糸のあいだから、つんと長い鼻のさきがつき出しているので、ビルボはそう思いました。どうやらこうやら、からだをかぶせるようにして、そのドワーフのからだをまいている強い糸をすっかり切ってやりますと、思ったとおり、一けり、一もがきして、フィーリの上半身があらわれました。まずつっぱった手足をぎごちなくつき出し、おかしなあやつり人形のように、フィーリがわきの下のクモの糸からおどり出た時、こんな場合に失礼でしたが、ホビットはそれを見てうっかり笑ってしまいました。  ともかくフィーリは、枝の上に立ちました。それからフィーリは、まだ気分がわるく、ふらふらしてはいたものの、ホビットを助けて、できるだけのことをしました。なにしろ、クモの毒がさめやらず、夜と昼とのあいだぐるぐるまわってつるさがり、つき出た鼻でようやく息をしていただけにしては、たいしたものでした。でも、フィーリがその眼や眉にひっかかるいやらしいクモの糸くずをとりのぞくにはずいぶんあとまで時間がかかりましたし、だいじなひげも、大部分を切りおとさなければなりませんでした。さて、ふたりは、つぎからつぎにドワーフたちを切り出して、ひき出してやる仕事をはじめました。だれもみな、フィーリ同様で、なかにはひどい者もいます。息がほとんどできずにいる者(こうなると、長い鼻も便利なことがありますね)、ずいぶん毒がまわっている者がありました。  こうして、ふたりは、キーリ、ビフール、ボフール、ドーリ、ノーリを助けだしました。あわれなボンブールはすっかりつかれていて、──それは、いちばんふとっていましたから、いつもつつかれたりひねられたりしどおしだったのです──枝からころげて、地面にどすんとついらくしました。けれどもさいわいに、枯葉の上で、そのままそこにたおれていました。さて、五人のドワーフがまだ枝のさきにつるさがって残っているうちに、クモどもが、ますますたけりくるって、巣にもどりはじめました。  ビルボはすぐさま、幹に近い枝の根もとにひきかえして、はいあがってくるやつらをおいかえしました。フィーリを助ける時に、指輪をはずしたまま、うっかりまた指にはめるのを忘れてしまいましたので、クモどもはみな、ぶつぶつあわをとばし、シューシューいいはじめました。  「見たぞ、けちなやろうめ! おぬしをくらって、ほねとかわ、ばらばらにして、木にぶるさげるぞ。ちっ、やつは、はり、もってたな。こっちもやつに、一つきさしてやるぞ。それから一日二日、さかづりにしてやるぞ。」  こっちがこうなっているあいだに、自由になったドワーフたちは、まだつかまっているドワーフたちを助けようと、ナイフを使って糸を切っていました。このあとにどんなことがおこるかはわかりませんが、今のところまもなくみんな自由になれそうでした。クモたちは、前の夜にはドワーフたちを何の苦もなくつかまえましたが、それはやみのなかでの不意打ちだったからです。今度は、おそろしい戦いがさけられないようすでした。  ふとビルボは、なん匹かのクモが、地面にたおれているボンブールのまわりに集まって、ボンブールをまたしばりあげて、ひっぱっていくことに気がつきました。ビルボは、はげしいさけび声をあげて、目の前のクモたちに切りつけました。クモたちがいっせいにしりぞくすきに、ビルボは木をよじりおり、とちゅうから、地上のクモのむれのまんなかに、とびおりました。ビルボの小さい剣は、クモ殺しにうってつけの新しい武器でした。それはなんとすばやく、前後にてきぱきと動いたことでしょう。クモをつきさすたびに、剣はうれしそうにかがやきました。六匹までさし殺すと、ほかのクモどもはたいきゃくして、ボンブールをビルボに残していきました。  「おりてこい! おりてこい!」とビルボは、枝のドワーフたちにさけびました。「そこにいてはだめだ。またからまれるぞ!」こういったのは、すぐとなりの木々にクモたちがはいあがって、枝をつたわって、ドワーフたちの頭上に近よるありさまを、みとめたからでした。  ドワーフたちは、幹をよじくだったり、とびおりたり、落っこちたりして、十一人がかたまりました。大部分の者がよろよろして、足がききません。とうとう、みんながまとまりました。あわれなボンブールをまぜて十二人です。そのボンブールは、いとこのビフールと弟のボフールに両がわからささえられています。さてビルボは、あちこちとおどりまわり、つらぬき丸をひらめかせました。しかしいかりくるった何百というクモどもが、前後左右十重はたえに、一同を見守っていました。とてものぞみのないありさまでした。  こうして戦いがはじまりました。ドワーフのなかには、ナイフを持っている者もあり、棒をつかんだ者もいました。大部分は石を手にいれることができました。ビルボはもとより、あのエルフの短剣つらぬき丸をふるいました。いくたびもクモたちはうちはらわれ、たくさん死んでいきました。けれども、そうばかりつづくものではありません。ビルボはつかれきってしまいました。ドワーフたちのなかで四人が、どうやらしゃんと立つことができるだけでしたが、まもなくこの四人も、つかれきったハエのように、うちたおされてしまうでしょう。もうクモたちは、ドワーフたちをかこんでふたたび木の間にせっせと巣をかけはじめていました。  いよいよという時になって、ビルボは、あの指輪の秘密をさらけだしてかかるよりほかに、ドワーフたちを助けだすよいてはないと思いました。秘密をあかすのは残念なことでしたが、といって、しないわけにはいきません。  「これから、わたしは見えなくなりますよ。」とビルボはいいました。「ひとつ、クモめらをおびきだしてみましょう。だからあなたがたは、まとまって、反対の方角へにげてください。この左手の方へいけば、たぶんわたしたちがこの前エルフの焚火を見かけた場所へ出られると思う。」  みんなのふらふら頭にこの言葉をのみこませることは、おまけに、さけび声や棒のうなりや石のとぶさなかで、たいそうむずかしかったのですが、とうとうビルボは、これ以上ぐずぐずしてはいられないとみてとりました。クモどもは、しだいにじりじりとそのかこみをせばめておりました。ビルボは、だしぬけに指輪をはめました。ドワーフたちがきもをつぶしたことに、ビルボは、かき消えてしまったのです。  そしてすぐに、あの「のろのろのろま」や「糸くりテンテン」の歌声が、右手の木の間から流れました。クモたちのあわてたこと。いっせいに進むのをやめました。すぐに声のする方へでかけたものもありました。「糸くりテンテン」という言葉は、クモたちを怒らせて、正気でなくしてしまいました。そこで、ほかの者よりもビルボの考えがよくわかっていましたから、バーリンが攻撃をしかけました。ドワーフたちは一かたまりにまとまり、石の雨をあびせて左手のクモどもを追いはらうと、かこみの一方をきりひらきました。ドワーフたちのうしろのさけび声と歌声は、とつぜんしなくなってしまいました。  ドワーフたちは、どうかビルボがつかまったのでありませんようにと、苦しいねがいをかけながら、にげていきました。といっても、早くはにげていかれません。気分が悪いうえに、ふらふらで、足をひきずったり、よろめいたりする進みぶりですから、すぐクモたちに追いつかれます。そのたびにふりむいて、おそいかかるやつらと戦わなければなりません。そのうちに、ドワーフたちのさきまわりをして、木の上でまちかまえていて、からみつく長い糸をなげつけるクモどももあらわれました。  こうして、ふたたびようすが悪くなってきた時に、思いがけずビルボがあらわれて、あまりのことにあっけにとられているクモどもを、横からおそいました。  「すすめ、さきへ!」とビルボは声をはりあげました。「ここはわたしがくいとめる!」  そのとおりでした。ビルボは、まえへあとへととびまわって、クモの糸を切りふせ、足をたたき切り、近くへよったふとったからだをつきさしました。クモどもはいよいよいかりにはりさけそうになって、歯ぎしりをし、あわをふきたて、おそろしいのろいの言葉をシューシューいいたてました。けれどもクモどもは、すっかりつらぬき丸におそれをなして、そばに近よるものがなく、じりじりとひきさがるばかりでした。クモたちがどんなにのろいの言葉をあびせようと、一度つかまえたえさたちは、ゆっくりと、確実ににげていきました。それはこの上なくつらい仕事で、たいへん時間がかかるようでした。ところが、ビルボがもうほんの一ふりの手もあがらないと思ったさいごのしゅんかんに、クモたちがいっせいに追うことをやめて、こそこそともとのやみの巣の方へ消えうせていったのです。  その時になってドワーフたちは、あのエルフの焚火のつどいがあった場所のはずれに来ていることに気がつきました。ここが、たしかに前の晩に見た場所かどうかは、わかりませんけれども、こういう場所にはよい魔法の力がはたらいていて、クモたちが好かないらしいのです。とにかくここは、あたりにこもる光もあかるい緑色で、枝のしげみもまばらに、おそろしい感じがありません。ドワーフたちは、休んで一息いれるチャンスをつかみました。  そこでしばらく、一同はあえぎあえぎ、横になって息をととのえました。けれども、すぐにドワーフたちは、ききたかったことをききはじめました。からだがかき消えるということを、ていねいに話してもらわなければ気がすみませんでした。そして指輪を見つけたところは、たいへんドワーフたちの心をひいて、しばらくはいまのつらさを忘れたほどでした。とくにバーリンは、ゴクリの話のなぞなぞや指輪のことを、いくたびもくりかえしきいたうえで根ほり葉ほりたずねたものです。しかし、そのうちに、光がうすれはじめますと、今度はほかの質問がつづけられました。いまどこにいるのだろう。道はどこだろう。どこかに食べものはないか。今度はどうしたらいいか。こういう質問を、ドワーフたちはくりかえしてたずねますが、それに答えてもらいたいと思っている相手は、小さなビルボなのでした。このことからみて、ドワーフたちが、バギンズ君についてすっかり考えをあらためてしまい、いまや(ガンダルフがちゃんといったように)小さなホビットをえらく尊敬するようになりはじめたことが、よくおわかりでしょう。じっさい一同は本気で、ビルボが、ここをきりぬけるすてきな考えを思いついてくれるものと思いこみ、ぶつぶついう者がありませんでした。みんなにしてみれば、もしホビットがいなかったら、とうに死んでいたことが、腹のそこからわかったのです。それで一同は、いくどもいくどもお礼をいいました。なかにはわざわざ立ちあがって、ビルボのまえで地面につくほどおじぎをした者がありましたが、足がもつれてひっくりかえり、しばらくは起きあがれなかったくらいです。すがたを消す秘密の正体を知ってからも、ビルボについての考えはすこしも変わりませんでした。なぜといって、ビルボには運や魔法の指輪ばかりでなく、しっかりした根性がそなわっていたことが一同にわかったからです。運と指輪と根性とそろえば、この三つは、まことに役に立つ宝ものではありませんか。一同がビルボをあまりほめそやしましたので、ビルボもいつのまにか自分でも、だいたんふてきな冒険家に生まれついていると思いはじめたくらいでした。食べるものさえあれば、もっと勇ましくなれるはずだとビルボはざんねんに思いました。  けれども、なんにもありません。まるで何一かけないのです。それにドワーフたちはひとりとして、食べものをさがしたりはぐれた道をもとめたりできるからだの者がありません。なに、はぐれた道をさがすのか? ビルボのくたびれきった頭では、もうなにも考えられませんでした。ただじっとすわって、目の前のかぎりない木々のつらなりをながめているだけです。そのうちに、ほかのドワーフたちも、またおしだまってしまいました。バーリンだけはべつでした。ほかの者がしゃべるのをやめて、目をとじてからも、ずっとひとりで、口のなかで何かいったり、くすくす笑ったりしていました。  「ゴクリか! なるほど、うまくやったもんだな! だからこそ、わたしをだしぬいたんだな。わかったぞ、もうわかった! こっそりとかくれて通りすぎたな、バギンズ君? 出口のとびらで、ボタンがすっかりとれたのか! よくやった。ビルボ、ビルボ、ビル…ボ、ボ……」こういいながら、バーリンも眠っていき、長いあいだ、こそとの音もきこえませんでした。  とつぜん、ドワーリンが目をあけて、まわりの一同を見まわしました。「トーリンは、どこだ?」  おそろしいショックでした。もちろん、十三人きりです。十二人のドワーフと、ホビットです。では、トーリンはどこへ行ったのでしょう? また一同は、運の悪いこと、何かの魔法かやみの魔物かが、トーリンにふりかかったのではないかと、思いました。そして森の中でどうしていいかわからずに、ぞっとしました。それからひとりまたひとり、安らかでない眠りにおち、おそろしい夢にうなされているうちに、いつか宵やみが、ぬば玉の夜になりました。さてここで、あまりつかれ苦しんで、見張りもおけずにへたばっているドワーフたちを、ひとまずその場に残しておかなければなりません。  トーリンは、みんなが気づいたよりずっとさきに、つかまっていました。まえにビルボが、エルフのあかりのなかへふみこんだ時、ぶったおれてこんこんと丸太のように眠ったのを、おぼえているでしょう。そのつぎにエルフの宴会にふみこんだのが、トーリンでしたが、あかりが消えるとトーリンは、魔法にかかって石のようにたおれてしまいました。やみのなかでわからなくなったドワーフたちの呼び声も、クモにつかまってぐるぐるまきにされたさけび声も、そのあくる日の戦いの物音も、すべてをトーリンはきかずに寝ていました。そこへ森のエルフたちがあらわれ、トーリンをしばりあげて、運び去ったのです。  宴会をしていたのは、もちろん森のエルフたちでした。この連中は、すこしも悪い種族ではありません。といっても、知らない者をけぎらいするという、欠点はありました。エルフたちは強い魔法を使えましたが、このお話の時代でも、まだたいへん用心ぶかかったのです。森のエルフは、西のくにの上のエルフとはちがって、それらよりは頭がたりなくて、もっと乱暴でした。それは、もともと森エルフの大部分が(山地にちらばった親類たちといっしょに)、たいへん古い種族から出たもので、この種族は、西のくにへいったことはありません。西のくにでは、空のエルフと地のエルフ(ノウムともいいます)と海のエルフとに、長いあいだわかれてくらしていて、しだいに美しく、かしこく、もの知りになり、魔法をつくり出したり、おどろくほど美しい品物をこしらえる腕をきたえたりしましたが、そののちこの荒地のくににもどってきたのです。荒地のくにで、むかしからずっと森エルフたちは、日ののぼる前と月ののぼる前のたそがれのなかにくらしてきました。そしてのちに、日のかげになる森の中にさまよいこんだのです。このエルフたちのいちばん好きなところは、森のはずれで、そこですと、時には狩をしたり、月あかり星あかりの草地を走りまわることもできました。人間がやってきてからは、まえよりますます多く、うす暗がりとたそがれにかくれ住むようになりました。それでもエルフはやっぱりエルフで、エルフはみなよい種族なのです。  やみの森の東のはずれから、いくキロか森のなかにはいったところに、一つの大きな岩屋があり、そのころは岩屋のなかに、森エルフの大王が住んでいました。ここの大きな岩の入口の前に、森の高地から川が一すじ流れてきていますが、その川は森をでてから、高原の森林地帯のふもとにあるおびただしい沼や湖のむれに流れこんで、さらに流れていくのです。ところで、この大きな岩屋には、数限りない小さな洞穴がいたるところにあって、うねうねと地下ふかくにまでつづいていくほかに、たくさんの通路や大広間ができています。この岩屋は、ゴブリンの山の洞穴よりもずっと明るくて、気持ちがいい方で、あれほど深くもなく、危険でもありません。王の国人である森エルフたちの大部分は、ここに住んでいて、おもての草地に出ては狩をし、そとの地面や木の上に、家や小屋を持っています。エルフたちには、ブナの木がいちばんのお気にいりでした。王の岩屋は、王の宮殿であり、王の宝ぐらであり、敵をふせぐ国人のとりででもありました。  そこはまた、とらえた者の土牢でもありました。それでいま、エルフたちは、岩屋へトーリンをひきたててきました。もちろんていねいなあつかいではありません。エルフたちはドワーフを好きでありませんでしたし、トーリンを敵だと思っていたからです。とおい昔このエルフたちは、あるドワーフ族と戦争をしました。エルフたちはそのドワーフたちが自分たちの宝をぬすんだと非難したのですが、ドワーフたちにはちがういい分がありました。エルフの王が、金銀のあら石を細工してくれとたのんだくせに、あとになってその支払いをしなかったのだから、自分のてま賃をとっただけだ、というのでした。まったくエルフの王には、たいへんな宝ものずきという欠点がありました。ことに銀や白光をはなつ宝石類に目がありませんでした。王のたくわえた宝はたいしたものでしたけれども、昔のエルフ王の宝の山ほどはありませんでしたから、まだまだうんと、ほしがっていました。エルフの国人は、山ほり金ほりをせず、宝石みがきや細工もしませんし、商売もいや、畑仕事もきらいです。こういうことは、ぜんぶドワーフに知られていました。トーリンの一家は、昔のエルフとドワーフの戦いに何のつながりも持たなかったのですが、トーリンも、森エルフの話をよく知っていました。ですからトーリンは、エルフたちがかけた魔法をとかれて正気にもどった時に、敵をあつかうようなこのとりあつかいには腹をたてました。トーリンはぜったいに金や宝石のことを口にすまいと決心しました。  トーリンが王の前にひきすえられますと、王はきびしくトーリンを見つめながら、かずかずの質問をあびせました。けれどもトーリンは、腹がすいて死にそうだ、としかいいませんでした。  「なぜそのほうとその仲間どもは、わしの国人のたのしい集いを三度もおそったのじゃ?」  「おそったのではない。」とトーリンが答えました。「ものごいにまいったのじゃ。腹がへって死にそうでしたからな。」  「いまそのほうの仲間どもは、いずこにおる? して、何をしておる?」  「ぞんじませんな。きっと森で、腹がへって死にかけているのでしょう。」  「そのほうは森で何をしておった?」  「食べものと飲みものをさがしておりました。なにしろ、腹がへって死にそうでしたから。」  「だがなんの目的あって、森へふみこんだのじゃ?」と王が、怒ってたずねました。  その点になると、トーリンはぴたりと口をとざして、もはや何もいいませんでした。  「それならそれでよし!」と王がいいました。「こやつをつれてゆき、しっかととじこめておけ、まことを申したてる気になるまで百年たとうと、な。」  するとエルフたちは、トーリンになわをかけて、じょうぶな木のドアのついた、いちばん奥の洞穴の一つにおしこみ、そのまま立ち去りました。エルフたちは、トーリンに食べもの飲みものをよこしました。たいしてよいものでないにしてもどっさりくれました。森のエルフたちはゴブリンとはちがって、もっともにくむべき敵でも、つかまえたら、きちんと礼儀正しく公平にあつかうのです。このひとたちが、情けをかけずにやっつける相手といえば、大きなクモどもばかりでした。  こうしてあわれなトーリンは、エルフの王の土牢にはいっていました。そしてトーリンが、パンや肉や水をもらってありがたいと思うにつけても、不幸な友だちなかまがどうなったろうと気がかりになりだしました。それがわかるのは、そののちあまり長いことではなくて、つぎの章のことになります。つぎの章は、また新しい冒険のはじまりで、そこでもホビットが大活躍するしだいです。 9 牢から逃げだすたるのむれ  クモと戦ったつぎの日に、ビルボとドワーフたちは、うえとかわきで死なないうちに、なにがなんでも道を見つけようと、さいごの一か八かをやってみることになりました。一同は立ちあがって、十三人のうち八人までが道はこっちだろうと見当をつけた方角へ、よろめきながら歩きはじめました。けれども、その方角があたっていたかどうかは、ついにわからなかったのです。その夕がた、いつもの森の中でのように、光がうすれて、いちだんと夜のやみがふかまるころ、思いがけず一同のまわりに、何百という赤い星があらわれたように、たくさんのたいまつのあかりが、いっせいにともりました。そして弓矢とやりを手にした森のエルフたちがおどりだして、ドワーフたちに止まれと、さけんだのです。  もう戦う気はおこりませんでした。じっさいのところ、よろこんでつかまったくらいですが、こんなありさまにおちいっていなかったところで、たった一つの武器である小さなナイフでは、やみ夜に小鳥の眼さえも射ぬくエルフの矢に、はむかえるはずがありません。ですから一同はすなおにぴたりと立ちどまり、すわって、相手を待ちました。だがビルボだけは、とっさに指輪をはめて、すばやくわきに逃げていました。そんなわけでエルフたちは、ドワーフをじゅずつなぎにしばりあげて数をかぞえた時、ホビットを見かけもしなければ、とらえもしなかったのでした。  エルフたちは、つかまえた者たちを森の中にひきたてていくあいだ、ビルボがそのたいまつのうしろに、ぴたりとついて小走りにつけてくる足音を、ききませんでした。ドワーフたちは目かくしをされていました。目かくしされていなくても、たいしたちがいはなかったでしょう。自分の目をつかって歩いているビルボでさえも、エルフたちのゆくてがわかりませんでしたし、どこでつかまって、いまどこを歩いているかも、知りませんでした。ビルボはいっしょうけんめい、たいまつからはなれないように気をつけました。なにしろエルフたちは、ドワーフたちがいくらからだを悪くしてつかれきっていても、できるかぎり急がせたのです。王が急がせろと命じていたからでした。とつぜん、たいまつがとまりました。ホビットはやっとのところで、エルフたちが橋を渡りはじめたところにおいつきました。その橋を渡って川をこえると王の岩屋の入口にたっするのです。川は黒く、早く、はげしく流れています。橋のむこうに、大きな洞穴の入口をまもる大きな門があります。入口は、木々のこんもりしげったけわしいがけに、ひらいています。川岸の方には大きなブナの木々がしげり、ブナ林は川でおわっています。  この橋を渡って、エルフたちは、ほりょたちをひきたてていきましたが、ビルボはそのうしろでためらいました。こんな岩屋の入口のようすが気にいらなかったのです。けれどもぜったいに友だちを見すてまいと決心して、ようやくエルフのさいごの者のかかとに追いすがったとたんに、バタンと音がして、うしろで王の大きな門の戸がしまってしまいました。  トンネルの中には、たいまつの赤いあかりがともっていて、通路はまがりくねり、ほかの道とまじって音がこだましますが、エルフたちの一行が、そこを進むあいだ、ドワーフをつれていく番兵たちは歌をうたいました。穴の中は、ゴブリンの住処とはだいぶちがっています。トンネルはもっと小さくて、地下ふかくはなく、きれいな空気が流れています。自然石を刻み残した柱のたくさん立っている大広間に、エルフ王が、ほりものをほどこした木のいすにすわっていました。その頭には、木の実と赤い木の葉でできた 冠 がのっています。秋がもう来ていたのです(王は春になると、森の花々であんだ冠をかぶります)。手には、ほりものをしたカシの杖をもっています。  とらわれ人たちは、王の前にひき出されました。王はおそろしい目つきでながめましたが、一同があまりのぼろを着て、つかれはてているので、なわをといてやれと命じました。「そのほかの時も、ここではなわめをかける必要がない。一度この中につれてこられた者にして、いまだわが魔法の入口からのがれ出た者はおらんからのう。」  長いこと、きびしく、王は、ドワーフたちにそのふるまいをたずねました。いったい、どこへ行くところか、またどこから来たのかをききだそうとしました。けれども、ドワーフたちからトーリンの時よりも、ききだせませんでした。一同はつむじをまげて怒っていて、おとなしくしようとするそぶりもみせませんでした。  「わたしたちが、何をしたというんです?」と、いまはいちばん年上の順になったバーリンがいいました。「森の中で迷子になったのが、つみですか? 腹がへって、のどがかわいたのが、つみですか? クモどもの巣におちこんだのがつみなんですか? あのクモどもは、あんたのかいならしているかわいいもので、それをころされて怒ってるんですか?」  こんなたずね方は、もちろん王を、これまでになく怒らせました。王は答えました。「わしの領土をゆるしもなくこそこそうろついていたのがつみじゃ。そのほうどもは、わしの国人がつくりあげた道をふんで、わが国の中におったではないか。しかも三度にわたり、森の中で、国人につきまとい、じゃまをしたあげくに、どなり立てさわぎ立てて、とうとうクモをかり出してしまったではないか。そのほうどもが騒動をまきおこしたからには、わしには、なんでそのほうどもがここに来たかを知る権利がある。いま告げないと申すならば、ことごとく牢につないで、正気にもどり礼儀をわきまえるようになるまで待つほかはない。」  こういって王は、ドワーフたちをひとりびとりべつの牢にいれ、飲みくいをさせるように命じました。ただ、ドワーフのうちでだれかが、王の知りたいことに進んで答える気になるまでは、その小さな牢屋のドアをあけてはならんと、いいつけました。けれども王は、トーリンがすでにとらわれていることを、ドワーフたちに知らせませんでした。そのことをさぐりだしたのは、小さなビルボでした。  かわいそうな、わがビルボ・バギンズ君! ビルボは、このような場所に、ただひとりでうんざりするほど長い時間をすごさなければなりませんでした。ようやくさがしあてた、いちばん遠い、いちばん暗いすみっこにしのびこんで、指輪をはずすことはもとより、眠ることもできないありさまで、いつもかくれていました。そしてすることといったら、エルフ王の宮殿をやたらに歩きまわってしらべることだけです。門は魔法でしまりますが、それでも、すばやくやればしのび出ることもできます。森エルフのむれは、ときどき王を先頭に立てて、馬にのって狩に出ることがありましたし、森や、東がわの草地などに、ほかの仕事をしにいくこともありました。その時ビルボが、すばしこく動けば、エルフたちのすぐうしろについて、しのび出すことができましたけれど、やはりあぶない芸当でした。門のとびらは、さいごのエルフが通ったあとですぐしまるものですから、一度ならず、ビルボはすんでのところでおしつぶされそうになりました。それでもビルボは、エルフのあいだにはさまって歩こうとしませんでした。それは、自分の影(たいまつのあかりでしたから、もう本当にうすくて、ゆれて定まらないものでした)のことがありましたし、だれかにつきあたって見つかったらたいへんと、ひやひやしていたせいです。それに、たまではありましたが、そとへ出かけた時は、よいことがありませんでした。だいたいビルボは、ドワーフたちを見すてようと思わず、ドワーフたちといっしょでなければ、どこへ行って何をするあてもありません。ビルボがエルフについてそとへ出ても、そうしじゅう狩のおともにくっついていられるわけではなかったので、森の中で道がわからなくなって、しょんぼりとあちこちさがしまわったことがありまして、さいわい運よく帰れたものの、その時の迷子になった心細さは思いだしてもぞっとするほどでした。それに自分で狩をするのでありませんから、おもてではおなかがへります。そのかわり岩屋の中にいれば、だれも近くにいない時を見すまして、おくらやテーブルの上から、食べものをぬすんで、どうやらくらしていけたのです。  「にげられないどろぼうみたいだな。毎日毎日おなじ家の中でどろぼうをつづけていかなければならないとは、なさけないなあ。」ビルボはうんざりしていました。「このやりきれない、やっかいな、やばんな冒険のなかでも、ここはいちばんいやらしい、いちばんいらだたしいところだ。ああ、ランプのともっているわたしのあたたかいだんろ! あのなつかしいホビット穴に、もどれたらなあ!」その上ビルボは、魔法使いに手紙を書いて助けに来てもらえたら、とものぞみましたが、それはもちろん、できない話でした。そしてまもなくかれは、なにかしなければならない以上、バギンズ君ただひとりで、だれの助けもかりずにやってのけなければならないということをさとりました。  そこでさいごに、息をひそめて一、二週間くらしてきたすえに、とうとうビルボは、見張りの番兵たちを見張ったり、そのあとをつけていったり、できるかぎりの機会をうかがいながら、ドワーフたちのひとりびとりがとじこめられている場所をさぐりだしてみようとつとめました。そして宮殿のあちこちにちらばっている十二の小さな牢屋に仲間たちがべつべつにいるのを見つけ、しばらくのうちに、それらをすっかりおぼえこみました。そのうちにある日、番兵たちのおしゃべりを立ちぎきして、ドワーフがもうひとり、とくべつふかい暗い牢屋にはいっていることを知って、おどろいてしまいました。ビルボはすぐにそれがトーリンだと、かんづきました。まもなく、そのかんが正しかったことがわかりました。そこでいろいろとむずかしいことがありましたけれども、ビルボはとうとう、あたりにひとのいない時にトーリンの牢屋をつきとめ、おまけにそのドワーフの族長と話をかわすことができたのです。  トーリンはあんまりみじめすぎて、自分の不運に腹をたてることもできず、自分の宝もののことや、それをたずねていく目的のことを、あらいざらい王にうちあけてしまおうかと考えはじめていました(このことは、トーリンがどんなにくじけた気持ちになっていたかを、よくあらわしています)。その時、かぎ穴にビルボの小さな声をききつけたのです。トーリンはとても、耳が信じられませんでした。けれどもすぐにまちがえるはずがないと思いなおして、入口の方に近より、むかいがわのホビットと長い間ひそひそ話をとりかわしました。  こういうわけで、ビルボは、ほかのとらわれのドワーフたちに、ないしょでトーリンの言葉をとりついでやることができました。ドワーフたちには、族長トーリンもすぐ近くにとらわれていることを話し、とにかく今は、エルフ王にドワーフの目的をもらしてはならない、トーリンがよいというまでは話さないでくれということを、伝えました。トーリンは、ホビットがどのようにしてクモどもからドワーフたちを助けだしたかというてんまつをきいて、ふたたび心をふるいおこしました。なんとしてでも逃げようとするのぞみがたえるまでは、ぜったいにエルフ王に宝ものをわけてやる約束をしてゆるしてもらおうとはすまいと、かくごをあらたにしました。いやまったく、このすばらしい人物、すがたをかくすバギンズどの(トーリンは心から、ビルボのことをはなはだ高く買いはじめていました)が、そのうちにきっとすてきなことを考えついてくれるでしょう。  ほかのドワーフたちも、トーリンのしらせをうけると、まったくそれにさんせいでした。ドワーフたちは、めいめい自分の宝のわけまえが、森のエルフたちにわりこまれれば、えらい損をすると思っていました(ドワーフたちは、自分たちのみじめなありさまや、竜をまだほろぼしていないことにはかまわずに、宝ものが自分たちのものだと信じてうたがいませんでした)。そしてドワーフたちは、深くビルボを信じてたよりきっていました。まったく、ガンダルフがいったとおりのことが、おころうとしています。それを見こしたからこそ、魔法使いは、一同をはなれていったのでしょう。  けれどもビルボは、みんなのようにきらくにはなれませんでした。もともとひとからたよりにされることがきらいで、すぐそばに魔法使いにいてもらいたいと思っていました。けれどもそれはできない相談で、たぶん魔法使いとのあいだには、やみの森の黒々とした長い道のりがへだたっているはずです。ビルボはすわりこんで、深く考えにしずみ、頭がわれるほど考えつづけましたが、すてきな考えがうかびません。すがたのかくれる指輪は、たしかにりっぱな力になりますが、十四人ぜんぶにはとても通じません。とはいえ、もちろんみなさんのご想像どおり、けっきょくビルボが友だちぜんぶを助けだしたのです。そのしだいは、つぎのとおりでした。  ある日のこと、いつものようにあちらに鼻をつっこんだり、こちらをのぞきこんだりしながら歩くうちに、ビルボは、興味あることがらを見つけだしました。それは、入口の大きな門ばかりが、岩屋へはいる道ではないということでした。地下の小川が、エルフ宮殿のいちばん下になる部分のすぐ下を流れていて、この小川がさらに東の方へかなり流れくだると、急な山すそのむこうがわで、森の川にそそぐのですが、この山すその急な斜面に、おもての入口がひらいているのです。この地下水の流れが、山からでるところに、一つの水門があります。そのあたりの岩は、天井が水面すれすれに、おおいかぶさっていて、その岩天井から、おとし戸がおとされると、川底をふさいで、何者も出たりはいったりできないしくみになっています。けれどもこのおとし戸はしばしばひらいていました。というのは、水門を出いりする川の中のゆききがかなりあったからです。もしこの水の道を通るとすれば、山の奥底の深いふところにはいっていく、暗いごつごつしたトンネルの中を流れ進むことになります。けれどもただ一か所、エルフの岩屋の真下をくぐるところだけ、岩天井がくりぬいてあり、そこに大きなカシの木のあげぶたがしてあります。ここから上が、エルフ王の穴ぐらになっていて、穴ぐらには、たるがいたるところに立ちならんでいます。それは、森エルフたち、ことに王が、たいへんなブドウ酒ずきで、このあたりには、ブドウがまるでできないために、ブドウ酒そのほかのものは、南のくにのエルフ仲間からか、遠い外国の人間たちのブドウの産地から、はるばると運ばれてくるのです。  とくべつ大きなたるのうらがわにかくれて、ビルボは、穴ぐらのあげぶたがあることとその使い方を見ておぼえましたし、なおもそこにひそんで、王の下働きたちの話をきくうちに、このブドウ酒やそのほかの品物が、川をさかのぼったり、山をこえたりして、たての湖までくることを知りました。してみると、その湖には、今でも人間の町が栄えていて、たくさんの橋をさし渡して、湖のなかに町を作り、あらゆる敵、ことに山に住む竜をふせいでいるように思われました。湖の町から、これらのたくさんのたるが、森の川をさかのぼって、運びこまれるのです。たいていは、たくさんのたるが、大きないかだのように結びあわされ、さおやかいで川をこぎのぼりますが、時には平底船につみこまれてくることもあります。  たるがからになると、エルフたちは、あげぶたをあけて、たるを下に投げこみ、水門をあけて、たるを川に流します。たるはひょこひょこただよいながら、流れにのってずんずんくだり、下流の岸のつき出しているある地点につきます。そこはやみの森の東のはずれに近いところで、エルフたちがたるをふたたびよせ集めて、しばりあわせ、湖の町へ浮かせていきます。湖の町は、森の川がたての湖に流れこむ川口ちかくに、きずかれています。  しばらくのあいだ、ビルボはすわりこんで、この水門について、友だちのドワーフたちを逃がすさいに、役に立つかどうかと、思いめぐらしましたが、とうとう、一か八か、思いきった計画の手はじめをきめました。  晩ごはんが、とらわれ人たちに渡されました。番兵たちは、たいまつを手にとって、通路をもどっていき、なにもかもくらやみにして、いってしまいました。この時、ビルボは、王の給仕頭が、番兵長に、夜のあいさつをしている声をききました。  「まあ、こっちへ来たまえ。そして、今度来たばかりのブドウ酒の味をみてくれ。今晩はくたくたになるほどいそがしく、からの酒だるを運びだすことになるだろうから、まずその仕事はじめにふたりで一ぱいやろうじゃないか。」と給仕頭がいいました。  「たいへんけっこうだね。」と番兵長は、笑いながら答えました。「いっしょに味をみて、王の宴会に出せるかどうか、ためしてみよう。今晩は大宴会があって、みっともない酒は出せないからな。」  この言葉をきいて、ビルボはすっかりどきどきしてしまいました。なにしろたなからボタもちで、運がいきなりふってきて、どうにもならなかった計画がにわかにうまくいくチャンスが生まれたのが、わかったのです。ビルボがこのふたりのエルフたちのうしろについていきますと、ふたりは小さな酒ぐらにはいって、大型のブドウ酒びんののっているテーブルにつきました。すぐにふたりは飲みはじめ、ゆかいそうに笑いだしました。ここでもビルボには、ふつうでない運がついていたのです。森エルフをよっぱらわすのは、よほど強いブドウ酒でなければなりません。ところでこのブドウ酒は、ドルウィニョンの大きなブドウ畑からとれた頭にくるような強いつくりで、兵隊用や召使い用でなく、じつに王ひとりの飲みものでしたから、こんな大きなびんからゴクゴクついではならなかったのです。  まもなく番兵長は、首をこくりこくりふりはじめ、やがてテーブルの上につっぷして、ぐっすり眠ってしまいました。給仕頭の方は、そんなことに気がつかず、しばらくはひとりでやたらにしゃべったり笑ったりしていましたが、これも首をこくりこくりはじめると、たちまち眠りにおちて、その友だちのそばでグウグウいびきをかきだしました。そこで、ホビットがそっとしのび出てきました。たちまちのうちに、番兵長はかぎたばをとられました。ビルボは、できるだけ早く通路をかけて、牢屋にいそぎました。かぎたばは腕に重く、心ぞうはのどからとびだす思いでした。ビルボは指輪をちゃんとはめていましたけれども、一足ごとにかぎが大きな音をたててガチャガチャ鳴るのをふせぎようがなく、音のするたびに、ぞっとしてふるえあがったからでした。  いちばんはじめにビルボは、バーリンの戸をあけて、バーリンがそとに出るが早いか、そっともとどおりにかぎをかけておきました。バーリンは、もちろん、すっかりたまげてしまいました。けれども、あきあきする小さな岩のかこいから出られたことを喜びながらも、バーリンは立ちどまって、ビルボがしたことや、これからしようとすることを、質問ぜめにしました。  「今はそんなひまがない。」とホビットがいいました。「ただわたしのあとについてくればいい。みんないっしょに集まって、けっしてはなれちゃいけないんだ。みんなで逃げるか、それともひとりも逃げられないか、二つに一つなんだ。今は、さいごのチャンスだ。ここで見つかったら、王がみんなに手かせ足かせをはめこんで、どこに投げこむか知れたものじゃないぞ。つべこべいうなよ、いい子だからね、おねがいだ。」  こうしてビルボは、つぎからつぎへ牢屋をあけ、あとにつづくドワーフは十二人になりました。ひとりもきびきび動ける者がありません。くらやみのせいもあり、長いあいだとじこめられていたせいもありました。ドワーフのだれかがやみのなかでぶつかりあったり、ぶつぶつ文句をいったり、ひそひそ話をかわしたりするたびごとに、ビルボの心ぞうがどきどきなりました。「ドワーフときたら、なんてドンチャンさわぎをするんだろう!」とビルボは、ひとり言をいいました。けれども万事うまくいって、番人には出くわしませんでした。それもそのはず、この夜は森の中で、秋の夜祭りがひらかれ、上の広間でも宴会がありました。王の国のエルフたちはだれもかれも、うかれさわいでおりました。  あちこちへぶつかったりまごついたりしたすえに、とうとうみんなはトーリンの地下牢にたどりつきました。そこは洞穴のふかいところでしたが、さいわい、酒だるの穴ぐらに遠くありませんでした。  ビルボが、牢から出て友だちといっしょになりなさいと、トーリンに小声でささやきますと、トーリンはいいました。「げに、まことよ! ガンダルフの申すことは、つねに変わらず、ほんとうじゃったわい。いつか時来らば、あんたはかならず、えらいめいよの忍びの者になるじゃろう。今度は何事があろうとも、われらはあんたにまことをつくすに変わりはないぞ。ときに、今後はどうするのかな?」  ビルボは、ここでできるかぎりうまく、自分の考えをのべておかなければならないと思いました。けれどもどう説明しようとも、ドワーフたちがよくわかってくれるかどうかは、うけあえなかったのです。やはりそのおそれはあたりました。ドワーフたちはビルボの計画をいやがって、こんな危険のせとぎわなのに大声でぐずぐずいいはじめました。  「それじゃ、きずだらけになって、つぶされて、おぼれちゃうぞ、きっと!」と、みんながぶつぶついいました。「やっとそのかぎが手にはいったのだから、あんたはもっとましな計画をたてたかと思ったのに、これじゃ、めちゃくちゃだ!」  ビルボはすっかりがっかりしてしまいました。というよりも、うんざりしてしまいました。「ああ、いいとも。」ビルボはいいました。「さあ、それぞれ牢屋へもどろうじゃないか。もう一度その中へいれて、かぎをかけてあげるよ。そこにらくらくとこしかけて、ゆっくりともっと上等な計画をねったらいいだろう。だがね、わたしがこのかぎをもう一度手にいれたいと思っても、今度はぜったいにとれなくなってしまうだろうよ。」  この言葉は、えらくききめがありました。一同は、たちまちおとなしくなりました。けっきょくはもちろん、ビルボの教えたとおりにしなければなりませんでした。どうみてもドワーフたちには、上の広間へいく道を見つけることはむりでしたし、まして、魔法でしまっている表門から戦って出ていくことはできません。とにかく通路でぶつぶついっていたのでは、またつかまってしまうのが、関の山です。ですからドワーフたちは、ホビットのあとについて、いちばん地下にあたる穴ぐらへ、そっとしのびおりていきました。あるドアを通りぬけると、番兵長と給仕頭が、顔ににっこり笑いを浮かべて、気持ちよさそうにいびきをかいていました。ドルウィニョンのブドウ酒をのむと、楽しい夢がなかなかさめません。あしたになれば、番兵長の顔はこんな楽しそうなわけにいかなくなるでしょう。ビルボは、でかける前にそっと番兵長のそばによって、その帯のあいだにかぎのたばをもどしておいてやったのですが……。  「これでいくらかは、番兵長にふりかかるつみもすくわれるだろう。」とバギンズ君は、ひそかにひとり言をいいました。「このひとも悪いやつじゃなかった。ほりょたちにしんせつにしてくれたもの。かぎをもどしておけば、エルフたちはきっとふしぎがるだろう。そしてわたしたちが、すごく強い魔法を使って、かぎのかかったところをどんどん通りぬけて消えうせたのだと思うだろう。消えうせるだと! そうだ。消えうせられるものなら、できるだけ早く消えうせなけりゃ!」  番兵長と給仕頭が動きだしたら知らせるように、バーリンが、見張りの役をいいつけられました。そのほかのドワーフたちは、すぐとなりの、あげぶたのある穴ぐらへいきました。ぐずぐずしているひまはありません。まもなく、いくたりかのエルフたちが、命令をうけて下へおりてくることをビルボは知っていました。そのエルフたちは給仕頭の手助けをして、からになったたるを、あげぶたから流れに投げこむことになっています。たるは、穴ぐらのまんなかにいく列かに立てて、すぐにおし落とせるようにならべてありました。その大部分はブドウ酒のたるで、これは使えそうもありません。まず底をぬくのに、えらい音をたてて、らくではありませんし、ふたをしっかりするのがまたたいへんなのです。けれどもほかのたるのなかには、バタやリンゴや、いろいろな品物をつめて、この宮殿に運んできたものもありました。  一同はすぐに、ドワーフひとりがらくにはいれるようなたるを、十三こ見つけだしました。中がたっぷりしているたるもありますが、その中にもぐりこみながらドワーフたちは、ゆられて、ごつんごつんぶつかるのではないかと、心配になりました。ビルボは、せっせと短い時間のうちに、できるだけ気持ちよいように気をくばって、わらやなにかをつめこんでやりました。こうしてとうとう十二人のドワーフたちが、つめこまれました。トーリンは、いちばんやっかいでした。たるの中であっちをむき、こっちをむき、からだをよじって、小さな犬小屋にはいった大きな犬のように、うなっていました。やがて、さいごに来たバーリンも、たるの息ぬき穴を見てくってかかって、ふたをする前まで、これでは息がつまると文句をいいました。ビルボは、たるの横腹の穴をふさぎ、ふたをできるだけしっかりとしめることに力をつくしましたが、なおもぐるぐると走りまわって、つめもののぐあいをなおしたり、自分の計画が水のあわになるのではないかという心配をうちけしたりしているうちに、またひとりぼっちになってしまいました。  きわどいところでした。バーリンのふたがきっちりしまって、ほんの一、二分のうちに、上の方からがやがやいう声と、きらきらするあかりが、おりてきました。一むれのエルフたちが、笑ったり話したり、とぎれとぎれの歌をうたったりしながら、この穴ぐらへおりてきたのです。上の広間のどこかでやっているゆかいな宴会をあとにして来たものですから、できるだけ早くそこへ帰りたくてしょうがないようすです。  「おーい、給仕頭のガリオンは、どこだ?」とそのうちのひとりがいいました。「今晩あの男は宴会の席で見かけなかったぞ。ここにきて、おれたちに仕事を教えてくれなければいけないのに。」  「あのとんまが、どこかにぐずぐずしていたらしょうちしないぞ。」と、もうひとりがいいました。「こんなとこにもそもそさせられているあいだに、上でせっかくの歌がうたわれちまうじゃないか。」  「ハ、ハア!」ともう一つの声があがりました。「ここにその悪者めがいるぞ。顔をコップにくっつけて眠ってござるわい。今夜は、友だちの隊長どのとふたりでささやかな宴会をひらいていらっしゃったのだ。」  「ゆりおこせ。目をさませ!」とほかの者たちが、いらいらしてさけびました。  ガリオンは、ゆりおこされるのがいやでしたが、笑い者になるのもたまりませんでした。「おそいぞ。」とガリオンは文句をいいました。「おれがここで待ちくらしているあいだ、きさまたちは酒を飲んでうかれさわいで、役目を忘れおったな。おれが、くたびれてうとうとしたのも、道理だわい。」  「道理だと!」とほかのエルフたちがはやしました。「むりが通れば道理がひっこむ。コップがそばにあるのは、何とした! おれたちにも、その夢見酒を一ぱい、味見させてくれ。そっちの牢番なんか、おこすことはない。その顔つきをみれば、たっぷりきこしめしていることが、よくわかるもの。」  こうしてエルフたちは、すぐに一めぐり飲みまわして、にわかにぱっと陽気になりました。でも、正気をすっかり失うほどではありません。「おいおい、ガリオン!」とどなる者もありました。「あんたは早くからお祭りをやっていて、頭がもうろうとしてるだろ。からのたるをすてないで、つまってるたるをうっちゃっていたにちがいないぞ。たしかに重いやつがある。」  「ごたごたいわずに、さっさとやれ!」と、給仕頭がわめきました。「なまけ者の大酒飲みの手にかかったら、重さの感じがわかるものか。そこにあるのは、みな送りかえすたるばかりだ。まちがいないわい!」  「わかった、わかった!」とエルフたちは答えながら、たるをころがして、投げこみ口へ持っていきました。「もし、バタいっぱいのバタだるや、王さま用のブドウ酒だるが川へ投げこまれて、ただで湖の人間のごちそうにくれてやるようになったって、あんたの責任さ。」 コロコロ、コロコロ、ころげたる。 ころげてコロンと穴の中。 それゆけ、バシャン! うきつ、しずみつ、流れてけ!  エルフたちの歌につれて、たるが順に一つずつ、ごろごろと暗い穴の口へころがっていき、数十センチ下のつめたい水の中へつき落とされました。たるの中には、ほんとうにからっぽのものもあり、ドワーフがきっちりつまっているたるもありましたが、どれもみな、つぎからつぎに、ピシャッ、ドブンと音をたてて落ちてゆき、さかさまにごぼっと水にはいったり、平たくぱしゃんとぶつかったり、トンネルの壁にぎしぎしつきあたったり、たる同士ごつごつぶつかったり、川波にもまれてひょこひょこゆれたりしました。  やっとこの時になって、ビルボはにわかに、自分の計画のあなに気がつきました。たいていの人はとっくにそこに気がついて、ビルボのうっかりかげんを笑ったでしょうが、もしその人がビルボの立場にいたら、ビルボの半分でもやれないでしょう。いうまでもなくビルボは、たるの中にはいっていませんし、たるにもぐりこむひまがあっても、ふたをしてくれる者がありません。今度こそ、きっと友だちと別れてしまって(げんに、ドワーフたちはほとんどみな、暗いあげぶたの下にすがたをかくしてしまいました)、ひとりぼっちであとにとり残され、永久にエルフの岩屋で、そとへ出られぬどろぼうのまま、こそこそ残ってくらさなければならないような、なりゆきが感じられました。かりに、いますぐ上の表門から逃げだせたとしても、ふたたびドワーフたちとめぐりあえるチャンスは、ほとんどないでしょう。ビルボは、たるが集められる場所へ陸づたいにゆく道を知りません。自分がいなかったら、ドワーフたちはどうなることだろうと、ビルボは心配しました。自分がきいて知ったことや、森をぬけだしたらすぐさましなければならないことを、すっかりドワーフたちに話しておくひまがなかったからです。  こんな考えが心をかすめているあいだに、ますます陽気になったエルフたちは、川のあげぶたをめぐって歌をうたいはじめました。エルフのなかには、水門のおとし戸をひきあげるつなをひっぱって、一度にたるをおし流そうとしている者もありました。 流れくだろう、暗い早瀬にのって、 むかし知っていた、あの土地へ! 地下のすまいや岩屋をあとにして、 はてしない森が黒々とわだかまる 北のけわしい山々を立ち出でよう! 木々のむれしげる森をこえて、 ささやく風のおもむくままに、 い草のほとり、芦の原、 水草そよぐ沼べをすぎ、 夜ごとに白く霧たちこめる 池や湖をこえていこう! 空につめたく高くおどっている 星々をめざして、ただよっていこう! あかつき、陸地をそめ、滝をいろどり、 砂丘にあかねさす時、 南へむかっていこう。南のくにへ! さんさんとそそぐ日の光を求めて、 牛たちのにれはむ草地や牧場へ もどっていこう! さんさんとそそぐ日の光にうれて、 草の実がいちめんにかおっている あの丘の林へ帰ろうよ! 南へむかっていこう。南のくにへ! 流れくだろう、暗い早瀬にのって、 むかし知っていた、あの土地へ!  ちょうど、いちばんさいごのたるが、あげぶたから、ころがり落ちるところでした。やけくそになって、どうなろうとかまわずに、あわれなビルボは、そのたるにしがみつき、もろともに下へ落とされていきました。バシャン! つめたい暗い水の中に、たるはビルボを下にして、落ちこみました。  ビルボはネズミのように、水をばしゃばしゃはねかしながら、一心にたるの胴にしがみつきました。けれども、どんなに一心にのぼろうとしても、たるの上にはいあがることができません。しがみつけばそのたびに、たるがぐるぐるまわって、ビルボを下にたぐりこんでしまいます。そのたるは、からっぽでしたので、コルクのようにかるく浮かびました。ビルボは耳が水につかっていましたけれども、上の穴ぐらでまだエルフたちが歌をうたっている声をきくことができました。するとだしぬけに、ドシンとあげぶたがしまって、エルフたちの声がきこえなくなりました。ビルボは、暗いトンネルのなかで、氷のような水の中に、ただひとりで浮かんでいました。たるのなかにつまった友だちは、数のなかにはいりません。ただひとりでした。  そのうちにまもなく、上のくらやみのなかに一点のうすぼんやりした形があらわれました。そしてビルボは、水門がキーキーとあがる音をきき、たくさんのたるのむれが、ぽかぽか浮かんでぶつかりあいながら、水門をくぐって、ひらいた水路へ出ようと、ひしめくまんなかに、自分がかこまれているのを見ました。ビルボは、おしあいへしあうたるにまきこまれまいと、せい一ぱいでした。けれどもそのうちに、おしあっていたたるのむれは、一つまた一つと、ばらばらになって、石の門をくぐって、さっと流れていきました。その時ビルボは、たるの上にむりやり馬のりになれたとしても、だめだったろうということに気がつきました。というのは、ホビットのような小さい者でも、その頭と、急にせまってきた水門の天井のあいだに、すれすれのすきまもなかったからでした。  たるは、両岸からたれさがった木の枝のトンネルのなかを流れていきました。ビルボは、ドワーフたちがどんな気持ちでいるか、そのたるのなかに水がどしどし流れこまなかったろうかと、心配しました。ドワーフたちのいく人かのはいったたるは、ビルボのまわりにぷくぷく浮かんでいましたが、うすやみのなかでも、そういうたるは水にたっぷりひたっているのが見えましたから、ドワーフがいると見当がついたのです。  「ふたがきちんとしめてあればいいが……」とホビットは考えました。けれどもまもなく、ドワーフのことを心配するよりも、自分のことをかまうのに手いっぱいになってしまいました。首だけはなんとかして水の上に出しておくようにしましたが、水のつめたさにはふるえあがってしまい、運がむいてくる前に死んでしまうのではないかと思ったり、あとどのくらいがんばれるだろう、ひとつ、ここで逃げだして、岸の方へ泳いでみた方がよくはないだろうかと、まよったりしました。  運は、まもなく、うまくむいてきました。流れのうずにのって、いくつかのたるが岸の一か所に流れより、そこの木々のかくれた根にからまって、しばらくとまってしまいました。そこでビルボは、自分のたるがじっとおさえつけられているあいだに、ようやくたるの胴によじのぼるチャンスにありつきました。まるでぬれねずみのようにはいあがって、できるだけじょうずに調子をとって、たるのてっぺんにからだをねかせました。吹く風はつめたくても、水の中よりはいい気持ちです。ビルボは、たるがまた動きだす時にふいにふりおとされないように願いました。  しばらくすると、たるはまたそこをはなれ、むきをかえてぐるぐるまわりながら流れくだって川の中心の早い瀬にのっていきました。こうなるとビルボは、たるにしがみついているのがじつにむずかしいので、おそろしくなりました。いごこちのわるいこと、この上もありませんが、なんとかしがみついていきました。さいわいビルボのからだはたいへんかるくできていましたし、たるはがんじょうな大きなもので、すこし水のにじむところからある程度の水をいれて、かえって調子がとれました。それでも、たづなもあぶみもなしに、すぐ草の上へごろごろ寝たがるくせのある太鼓腹の馬に乗っかっているようでした。  このようにして、とうとうわがバギンズ君は、両岸の木がだんだんまばらになってきたところにさしかかりました。木々のあいだから、空がいっそう白々と見えました。そして暗い川がにわかに広くなり、あのエルフ王の表門を通って流れくだる森の川の本流とおちあいました。うす暗い川すじのひろがりに、黒くかぶさる影はなく、なめらかな水の面には、ちらちらと雲や星々の光がうつりました。ここから、ひた走る森の川は、たるのむれをぜんぶ北がわの岸に流しよせましたが、そこは水のいきおいでえぐられた広い入江のようになっていました。そしてきりたった岸の水ぎわが、小石ばかりの浜になって、東がわはかたい岩の張り出した岬でくぎられていました。その浅い浜に大部分のたるがうちあげられ、いくつかは石のさん橋にぶつかりました。  川岸には、見張りのエルフたちがいました。そのひとたちは、すばやくさおをさして、たるを浅い水ぎわに集め、その数をしらべて、たるになわをかけわたし、朝までそのままにしておきました。ドワーフたちには、なんとも気の毒ではありましたけれども、ビルボの方はとてもらくになりました。ビルボはさっそく、たるからすべりおりて、じゃぶじゃぶ岸へわたり、水ぎわに見えていたいくつかの小屋へしのびよりました。ビルボは、このごろではチャンスさえあれば、お客によばれていないよそのごちそうに、考えるよりさきに手がでました。長いあいだに、そうしないわけにいかないくせがついていましたし、ほんとうにおなかがへるということはどんなものかという味を、知りすぎるほど味わってきました。その上、いま木々のあいだに火がもえているのを見かけますと、つめたくじとじととからだにまといつくぬれたぼろを着ているビルボには、焚火に何よりも心がひかれるのでした。  その夜のビルボの冒険のかずかずについて、くわしくお話する必要はないと思います。そのわけは、もう東への旅のおわるまぎわにさしかかっていて、これまでにないさいごの大冒険にはいるとば口ですから、先をいそがなければならないためなのです。もちろん、あの魔法の指輪をはめていたおかげで、はじめのうちは万事たいへんつごうよくいきました。けれどもけっきょくのところ、ぬれた足あとをぺたぺた残したり、行くところ、休むところ、どこへでもぬれたしずくを落としていくので、あばかれてしまい、その上、ひどい鼻かぜをひいて、鼻みずをすすりはじめ、おし殺しているくしゃみがびっくりするほどはげしくとび出して、どんなにかくれようとしても、気づかれてしまいました。たちまちのうちに、川ぞいの村では、たいへんなさわぎがもちあがりました。けれどもビルボは、自分のものではない一かたまりのパンと皮ぶくろにはいったブドウ酒とパイ一ことをいただいて、森の中へ逃げました。その夜は、火にもあたれず、ぬれたままですごさなければなりませんでしたが、ブドウ酒のおかげでそれもしのげましたし、かわいた枯葉をかけて、すこしはまどろむことさえもできました。このころは、その年もしだいにおしつまり、夜気がひとしお寒かったのです。  ビルボは、とくべつ大きなくしゃみを一つとばして、目をさましました。もう白々とした夜明けになっており、岸には陽気なさわぎがはじまっていました。人々は、たるのいかだをこしらえていて、いかだがかりのエルフたちがまもなくいかだをあやつって、湖の町までくだっていこうとしていました。ビルボはまたくしゃみをしました。からだから水をたらすことはなくなりましたが、すっかりかぜをひいてしまいました。いま、こわばった足をできるかぎりとばしてかけおりますと、おりから船出でてんてこまいをしているところにまぎれて、たるのいかだにとりつくのにようやくまにあいました。さいわい、この時は日がまだささないので、かげがさしません。そのうえ、運よくしばらくのあいだ、くしゃみもおこりませんでした。  どんと一つき、強いさおがはいりました。浅い水ぎわに立っていたエルフたちが、もやいづなをはなして、いかだをおしました。ぜんぶくくりつけられたたるは、きしみあい、波を立てました。  「これは、重いいかだだなあ!」とエルフのいくたりかがふしぎそうにつぶやきました。「深くつかりすぎるぞ。きっと、からでないのもあるにちがいない。明るいうちについていたら、中をしらべもしたんだが。」こうエルフたちはいいました。  「いまはそんな時間がない。」と、いかだがかりがいいました。「おし出せ!」  こうしてとうとう、いかだはでかけました。はじめはゆっくり、岩の岬をすぎるまでは、静かに流れて、岬にいたほかのエルフたちがいかだをさおでおしてくれましたが、そのうちにしだいに早く、川のまんなかの流れにのって、ぐんぐん湖へむかってくだっていきました。  ドワーフたちは、エルフ王の牢屋からうまく逃げだしました。けれどもいまは、木のたるの中で、生きているものやら、死んだものやら、とんとようすがわかりませんでした。 10 心からの大かんげい  いかだが流れくだるうちに、しだいに明るく暖かくなりました。しばらくのあいだ、川は左手につき出してきた高い崖をまいて、大きくまわりました。岩でできた崖すそは、えぐられて深い淵となり、ひたひたと波をよせ、あわを浮かべています。とつぜん、崖が消え去りました。両岸は低くなりました。木々がなくなりました。そしてビルボは、広いけしきをながめました。  まわりは、一ぺんにひらけて、川は千すじにわかれて、うねうねとはてしなくつらなり、ときにはところどころに小島を浮かべた沼地や池になっています。とはいえ、水のひろがりのまんなかに、やはり一すじの強い流れが流れていました。そしてはるかかなた、ひとひらのちぎれ雲をまとった黒い山のいただきが見えてきました。あの山が、ついに、おぼろにあらわれたのです! その山の北東にあたって、いちばん近くにならぶ山々も、そのあいだを結ぶ起伏の多い土地も、見えませんでした。山は一つだけきわだってそびえ、水平線のかなたに森をこえて、ながめられました。たしかに、はなれ山でした! ビルボはこれを見るために、はるばると、たくさんの冒険をおかして、やってきたのです。そして今それをながめながら、その山のすがたはどうも虫がすきませんでした。  いかだをこぐエルフたちの話をきいて、そのなかのあれこれのしらせをつづりあわせてみると、これほど遠くからでさえも、とにかくあの山をながめたことは、ビルボにとってじつにめぐまれたことだったのが、わかりました。ビルボがとじこめられてどんなにうんざりしても、いまの立場がどんなにつらくても(ビルボの下にいる気の毒なドワーフたちのことは、いうまでもありません)、とにかく事がらは、思った以上に運にめぐまれていたのです。ビルボがいかだの上できいた話は、すべて水上でとりひきされる商売のことでしたが、それによると、東からやみの森へはいってくる道が消えうせたか、使われなくなったかして、川のゆききがさかんになったこと、さらに、森の川のとりしまりや両岸の見張りについて、湖の人と森エルフのあいだにいいあらそいがあったこと、などでした。このあたりの地方は、むかしドワーフたちがあの山に住んでいたころからみると、がらりと変わっていました。ドワーフたちが山にいたころのことは、おぼろな忘れかけた古い言い伝えになってぼんやりおぼえられているにすぎません。いやこのあたりは、近ごろになってからでも、どんどん変わっていて、この前ガンダルフが見ききした時からも、だいぶちがっていました。いくども大きな洪水や大雨があって、東へ流れる川をたびたびあふれさせました。また一、二度大地震がおこりました(こういうことは、たいてい竜のせいにされがちでした。人々は、のろいの言葉をはき、山の方へ不吉なうなずきかたをしてみせながら、竜のことをほのめかすのです)。そして沼や沢が川の両がわにしだいに広がっていきました。道はなくなりました。見えない道をなんとかして見つけようとして旅に出た人たちは、馬でいった者も歩いていった者もみな、二度と帰ってきませんでした。ドワーフたちがビヨルンの教えにしたがって旅してきた森をつらぬくエルフ道も、森の東の出口のあたりでは、まぎらわしくなり、あまり人の通らないわかりにくいものになっていました。そしてこの川だけが、北がわのやみの森のそとから山のそびえる平野へでる、ただ一つの安全な通路になっていて、森エルフの王にきびしくとりしまられておりました。  そんなわけで、つまりビルボは、ただ一つの安全な道をえらんで、ここまでやってこられたことになります。けれどもこのあたりの道がひどいことを知って、遠くにいたガンダルフは、たいへん心配したものですから、そのいそぎの仕事(その冒険はここではお話しいたしません)をかたづけた上で、トーリンの一行をさがしにこようとしているところでした。もしこのことを知ったなら、たるの上でふるえているわがバギンズ君は、ずいぶんほっとしたにちがいありませんが、それは、ビルボにわかるはずがありませんでした。  わかったことといえば、川がどこどこまでもつづいているように思われることばかり。おまけにビルボはおなかをすかし、いやな鼻かぜをひき、山が近づくにつれて、自分をあざけったりおどかしたりするように見えました。けれども、しばらくすると川は、ずっと南よりに流れ、山はふたたびすがたをかくしました。そしてついにその日もおそくなって、両岸は岩になり、川はほうぼうにちらばる水系を集めて、一すじの深くて早い流れとなり、いかだは、いっさんに矢をいるように流れていきました。  森の川がもう一度東へむきをかえて、たての湖にそそぎいるころ、日が沈みました。そこの広い川口には、岩の崖のような形をした門が立ち、門の両がわの柱のすそは、小石でかためてありました。いよいよ、たての湖です。ビルボはこれまで、海でない水のけしきが、これほど大きく見えようとは思いませんでした。湖はまんまんとして広く、むこう岸が、かなたに小さく見えます。ただ湖がほそ長いものですから、山の方角をさしている北がわのはしは、まるで見えません。ただ地図で見て、ビルボは知ったのですが、北斗七星の星々がはやまたたいている北の方角のはるかかなたで、あの山の谷間を出た早せ川が湖に流れそそいでいるはずです。早せ川は森の川とともに、ふかぶかと湖をみたしているのですが、この湖も、むかしは一つの大きな深い、岩でできた谷だったにちがいないのです。湖の南がわのはしは、二つの川をあわせた水がふたたび流れだし、高い滝になって、まだ人に知られていない土地へあわただしく流れていくのです。今も、しずかな夕べの大気のなかに、大滝の音が、遠いかみなりのようにきこえていました。  森の川が湖にそそぐ川口からあまり遠くないところに、ビルボがエルフ王の地下ぐらで話にきいた、ふしぎな町がありました。湖の岸にもいくつかの小屋や建物がありますが、町はそこにはなくて、湖の水上にたててあります。そこは、岩の岬が、川の流れこむいきおいをふせぎとめ、波のたたない入江になっていて、その入江に、一つの大きな木の橋がつき出し、橋のさきに森の木々でつくった大きな杭をたくさんうちこんで、杭の上に、家々がにぎやかにたちならぶ木の町がきずかれています。そこはエルフの町ではなくて、人間の町で、人間がいまだに、遠い竜の山のみえるこの場所に、がんばって住みついていたのです。しかもこの町の人々はあいかわらず、商売はんじょうしていて、とりひきをする品々は、南のくにから大きな川をさかのぼって運び、大滝をまいて、荷車で町まで持ちあげます。けれどもむかし、北の谷間の町がゆたかにとみ栄えていた盛りの時代には、この湖の町の人々も、もっとくらしがゆたかで、そなえは強く、水上にたくさんの船を浮かべて、ある船には黄金を、ある船にはびびしくかざった武士たちを、どれもいっぱいにのせてゆききしました。そのころはかずかずの戦いがあり、今は言い伝えだけに残るすばらしいいさおしがありました。そのころの、今よりもっと大きかった湖の町のあとは、今でも日照りで水がかわきあがると、くさった杭になって岸ちかくにおびただしく現われたことがあります。  湖の町の人々のうちで、今でも、山のドワーフの王たち、デューリンの種族のスロールやスラインのこと、竜がおそったこと、谷間の人々のほろびたことをうたった古い歌を知っている者がありましたが、それらすべてのできごとをおぼえている人はありませんでした。またある人たちは、いつの日かスロールとスラインが立ちもどり、山の表門から黄金が川になって流れ出て、すべての土地に新しい歌と新しい笑いがみちあふれる時がくるだろうと、うたうこともありました。けれどもこの楽しい言い伝えは、歌のおかげで日ごとの仕事にせいを出すというほどの力をもっていませんでした。  たるをくんだいかだが見えてきますと、いくつもの船が、町の杭をはなれてこぎよってきて、いかだの者たちとあいさつをかわしました。つぎにつなが投げられ、かいがひきあげられて、たちまちいかだは森の川の水流からひきはなされ、引き船されて湖の町の小さな入江の大きな岩のまわりをまわっていきました。そしてつなぎとめられたところは、大きな橋のたもとからあまり遠くない岸でした。そのうちに、南の方から人が来て、たるのいくつかを持っていくでしょうし、この人たちもほかのたるにいろいろな品物をつめて、ふたたび森エルフの国へ川をさかのぼっていくでしょう。それまでのあいだ、たるはしばらくここにつなぎとめてそのままにしておき、いかだのりのエルフたちと船の人たちは、湖の町の宴会にのぞむためにでかけました。  その人たちが立ち去ったあと、夜のとばりがおりてから、岸でおこった事がらをエルフたちが知ったら、どんなにびっくりしたことでしょう。まずビルボの手で、一つのたるのつながとかれて、それが岸にひきよせられ、つぎにふたがあきました。たるのなかから苦しみのうなり声がもれて、世にもみじめなひとりのドワーフが、はい出してきました。よれよれになったひげに、びしょぬれのわらくずがついていました。そのドワーフは、からだがいたみ、こわばり、もみくだかれて、きずとこぶだらけで、立つことも、浅い水ぎわを渡ることもやっとのことで、うなり声をあげて岸にたおれました。一週間もくさりにつながれたまま小屋に忘れられた犬のように、腹ぺこで、おそろしい顔をしていました。これがトーリンであることは、その金の鎖と、よごれた銀色のふさのついた、泥だらけでぼろぼろになった頭巾の、青空のような色とで、やっと見わけがつきました。トーリンがホビットにむかって、ようやくお礼がいえるようになったのは、ややしばらくたってからでした。  「どうなんです? 生きてるんですか、死んでるんですか?」と、ビルボはすっかりふんがいして、たずねました。きっとビルボは、ドワーフたちよりも、すくなくとも一食分はよけいに食事をしていることや、手足を自由に動かせたことや、それに空気が思うさますえたことを、忘れていたにちがいありません。「いったいあんたは、まだ牢屋にとじこめられているんですか、自由になったんですか、どっちです? もしごはんが食べたければ、いや、このばかばかしい冒険をつづけたければ(だいたい、これはあんたがたのもので、わたしの冒険ではないじゃありませんか)、腕をさすり、足をなぜて、立ちあがり、まだチャンスがあるうちに、わたしの手だすけをして、ほかの者たちを出した方が、いいんじゃありませんか?」  トーリンは、もちろん、ビルボの言葉に道理があることをみとめましたので、あと四、五度うなってから立ちあがって、できるかぎりホビットの手つだいをしました。くらやみのつめたい水のなかでよたよたしながら、ふたりは、どれがドワーフのはいっているたるかを見つけだす、むずかしくてやっかいな仕事にかかりました。そとからたたいて、よびかけてみて、何とか返事のできたドワーフを見つけだしたのは、わずかに六人でした。その六人は、たるから出されて、岸まではこばれると、そこでむにゃむにゃいったり、うめいたりして、じっとすわりこむか、たおれてしまうか、動かなくなりました。だれもみな、水につかって、すりむききずだらけで、かじかんでいたので、助けだされたこともわからず、ましてそれをありがたいとも思いませんでした。  なかでもドワーリンとバーリンのふたりが、もっともみじめでした。そのふたりには、手をかせというのがむりでした。ビフールとボフールは、まだうちみも少なく、からだもかわいていましたが、横になったまま、何もできませんでした。けれども、まだ年の若い(もちろん、ドワーフとしては若いということです)フィーリとキーリは、わりに小さなたるにたくさんのわらをうまくつめてもらったものですから、すこしはにこにこしながら出てきました。うちきずも一つ二つで、からだのこわばりもすぐとれてしまいました。  「こんりんざい、リンゴのにおいは、一生かがないぞ!」とフィーリはいいました。「ぼくのたるは、リンゴのにおいでいっぱいだったんだ。こっちがまるで動けないで、寒くて、腹がへって死にそうだというのに、いつまでもいつまでもリンゴのにおいがするのでは、気が変になるよ。今はもう、この自由な天地で、何時間でもたてつづけにものが食べられる。でも、リンゴだけはごめんだ!」  フィーリとキーリがすすんで手だすけするのに力をえて、トーリンとビルボは、とうとう残りの仲間を見つけだし、すっかり助けだしました。あわれなでぶのボンブールは、こんこんと眠っているのか、気を失っているのかわからないありさまでした。ドーリとノーリ、オーリとオインとグローインの五人は、水につかった丸太のように、すっかりぬれそぼって、半死半生のていでした。ですから、残りのひとたちは、ひとりずつ運んで、岸にそっと寝かせておくよりほかにしかたがありませんでした。  「さてこそ! よくもここまでなあ!」とトーリンがいいました。「これこそは、わしらが運命の星と、これなるバギンズどのに心からお礼を申しあげるべきことじゃと思う。バギンズどのこそ、まさに言葉をつくしてたとうべきお方じゃと信ずるが、ただこのたびの旅行はもっと気持ちよくさせてくださるように、考えていただきたかった。とはいえ、バギンズどの、あらためて、いくえにもお礼を申しあげますぞ。わしらが食事をとって、からだをなおしたあかつきには、じゅうぶんにありがたく思うにふさわしい気分になるじゃろう。さて、かく申すうちにも、つぎはいずこへ?」  「湖の町へだと思います。ほかにどこへいくあてがありましょう?」とビルボがいいました。  もちろん、ほかにどこへというあてもありません。そこで、ほかの者をそこに残して、トーリンとフィーリとキーリ、それにホビットの四人が、岸ぞいに大橋にむかっていきました。橋のたもとには番兵たちがいましたが、べつに気をつけて見張っていたわけではありませんでした。というのは、じっさいは長いあいだ、番兵をたてる必要がなかったのです。通行料についてときどきけんかすることをべつにすると、湖の人たちは、森エルフたちと仲よくしていました。ほかの人たちといっても、みな遠くにはなれていましたし、町の若者たちのなかには、山に竜が住んでいることを信ぜず、年よりたちが若い時に竜が空をとぶのを見たといっても、そういうじいさんばあさんをあざわらう者さえありました。そんなわけで、番兵たちが見張り小屋のなかで火にあたりながら、酒をのんだり笑ったりしていて、ドワーフたちをたるから助けだすさわぎも、四人のせっ候の近づく足音もきこえなかったのは、あたりまえでした。そこへとつぜん、トーリン・オーケンシールドが戸をあけて、はいってきた時、番兵たちのおどろきようといったらありませんでした。  「だれだ? して、なんの用だ?」と、番兵たちはぴょんととびあがり、武器をさぐりながら、さけびました。  「われこそは、山の下の王、スロールのむすこスラインの、そのむすこトーリンなるぞ!」と、ドワーフは大音声をあげて名のりました。そしてそのありさまは、ぼろぼろの服とずたずたの頭巾をつけているにもかかわらず、名のりにふさわしく見えました。黄金の光が、首と腰にかがやき、眼光はするどく、深くさえていました。「わしは、ただいまもどってまいった。あなたがたの町の統領におあいいたしたい。」  さあ、それからは、たいへんなさわぎになりました。番兵のうちのおろか者は、一夜のうちに山が黄金になり、湖の水がすっかり黄色く変わってくれると思ったかのように、小屋のそとへおどりだしていきました。番兵長が前へ出てきました。「して、あなたがたは、だれです?」と番兵長は、フィーリとキーリとビルボをさして、たずねました。  「こちらは、わしの父のむすめのむすこたちにあたる、デューリン族のフィーリとキーリで、」とトーリンは答えて、「それにこちらは、西のくにから、わしらとともに旅をつづけてこられたバギンズどのですわい。」と、いいました。  「平和な友として来られたなら、武器はおかれたい!」と番兵長がいいました。  「何一つなし。」とトーリンが答えました。それはほんとうのことでした。ドワーフたちのナイフは、森エルフたちにとりあげられていましたし、名剣オルクリストもそうでした。ビルボは、自分の短い剣を、例によってかくしたまま、持っていました。けれどもそのことはいいませんでした。「古き伝えのごとく、念願かなってふるさとにたちかえるこの身に、武器を持つ必要はない。また、かほどの多勢を相手に戦うこともかなうまい。あなたがたの統領のもとに、つれてゆかれたい!」  「ただいま、宴会中です。」と番兵長がいいました。  「それなら、ますます、そこへつれていってもらう理由がありますぞ。」と、こういう儀式ばったやりとりにやりきれなくなったフィーリが、ごうをにやして口をだしました。「わたしたちは、長旅のあとで、つかれて、うえていますし、病気の仲間もいるのです。この上とかく申しあげずともよろしく手ばやくとりはからっていただきたい。さもないと、統領があとになってあなたに何かいわれぬともかぎりませんぞ。」  「では、ついて来ていただきたい。」と番兵長が、四人のまわりに六人の部下をつけますと、橋を渡り、門をくぐって、町の広場へ案内しました。町の広場は市のたつところで、波立たない水を丸くかこんだ、広い池のようになっていて、まわりはぐるりと背の高い杭をめぐらせ、杭の上にいちだんと大きな家々がたてられていて、長い木のさん橋がいくつも出ていますが、そこにたくさんの階段やらはしごやらがついて、湖の上におりるようになっています。そこの一つの大きな建物から、おびただしいあかりがさし、おおぜいの人声がもれていました。一同はその入口をくぐって、まばゆい光のなかに立ちますと、たくさんの人々が長いテーブルをかこんで、いならんでいるさまが見えました。  「わしは、山の下の王、スロールのむすこスラインの、そのむすこトーリンじゃ! いまもどってまいった!」と、トーリンが入口から大音声でよばわりました。番兵長が口をひらくすきもなく、名のりをあげたのです。  その場の人々が、いっせいにとびあがりました。町の統領は、大きないすからはねあがりました。けれども、広間の末席にすわっていたエルフのいかだのりたちほど、びっくりぎょうてんした者はいなかったでしょう。エルフたちは統領の席へどっとおしかけて、口々にさけびました。  「こいつらは、わたしたちの王のとらわれ人なのに、逃げだしたのです。身のあかしもたてられないルンペンで、森の中をこそこそとうろつきまわり、わたしたちの邪魔をして歩いたドワーフどもです。」  「それは、まことですか?」と、統領はたずねました。じつのところ、この人は、山の下の王などという者がいたのかどうかもあやしいと思っていましたが、ましてそんな者がたちもどってきたなどということは、とてもありそうもないと考えていました。  「まことといえばまことで、わしら一同は、わがふるさとにもどる道すがら、ゆえなくエルフの王にまちぶせされ、ひっとらえられて、牢屋にいれられたことに、ちがいござらぬ。」とトーリンが答えました。「なれど、いかなるかぎも鉄ごうしも、いにしえから語りつたえたふるさとへもどるわしらが願いを、さまたげるものならず。またこの町は、森エルフの王国にしたがうものでありますまい。わしの話す相手は、湖の町の人間の統領であって、エルフ王の手下のいかだのりではござらん。」  こういわれて、統領はためらい、エルフたちを見たり、ドワーフたちを見たりしました。エルフ王は、この地方では、この上ない権力をもっていて、統領は、その王とあまりことをかまえたくありませんでしたし、だいたい商売熱心な人で、税金をとりたてたり、荷物や取引のことに心をつかったり、そのおかげで統領になっていたくらいですから、むかしの歌や言い伝えをまじめに考えようとしませんでした。けれども、ほかの人々は、ちがった考えをもっていて、統領ぬきでこの事がらがさっさときまってしまったのです。しらせは、野火のように、官邸の入口から町じゅうにひろがっていきました。町の人々は、官邸の内外で、声をあげてむかえました。さん橋は、かけていく人々のむれでごったがえしました。なかには、山の下の王がたちもどることをうたった古い物語歌のあちこちをうたいはじめる者もありました。帰ってきたのが、スロールでなくて、スロールの孫であっても、この人々にはおかまいなしでした。ほかの者もその歌にあわせてうたい、歌声は、湖の上に高く大きくひびきわたりました。 山の下にすむ王は、 地下の岩屋の王は、 白銀の泉のあるじは、 きっと帰ってくるだろう!  冠 は、かかげられ、 たてごとが、ふたたび鳴って、 広間にりょうりょうと、 むかしの歌が、ひびくだろう。 森は山にしげり、 草は日をあびてそよぐだろう。 王の富は、泉となって流れ、 川は、黄金にさざめくだろう。 流れがよろこびをうたい、 湖は明るく照りわたるだろう。 あらゆる悲しみも苦しみも、 山の王がもどる時、消えるだろう!  こういうような歌が、もっと何番もうたわれ、おまけに、たてごとや胡弓のばんそうがついて、そのあいまにどっとはやす声がたびたびまじりました。この町でこれほどのうちょう天のさわぎは、いちばん年をとったおじいさんの記憶にもなかったくらいでした。森エルフたちも、ひどくふしぎな気がしてきて、しまいにはおそろしくさえ思われてきました。エルフたちには、もちろん、どうしてトーリンが逃げられたかというわけがわかりませんので、自分たちの王が、とりかえしのつかないまちがいをしでかしたのかもしれないと、考えるようになりました。統領の方は、ともかく今は、みんなの大さわぎにしたがうほかにないと考え、トーリンの言い分を信ずるふりをするほうがいいと思いました。そこで統領は、トーリンに、自分のすわっていた大きないすを与え、フィーリとキーリにもそのそばのめいよある席につかせました。ビルボまで、上座のりっぱなところにすわらせられて、どこのだれという説明もなく(歌のなかにもビルボのことはほのめかしてうたう一ふしもないのに)、人々の大さわぎにまぎれて、すこしも身分をきかれませんでした。  それからまもなくして、残りのドワーフたちも、ぼうぜんとするほどの大かんげいのうずまく町のなかにつれてこられました。ドワーフたちはみな、てあつい看護をうけ、食べものをもらい、宿をあてがわれ、いたれりつくせり、下へもおかぬもてなしをこうむりました。トーリンとその仲間には、一けんの大きな家がさしだされました。船もこぎ手も、使えるようにそなえられました。人々はむれをなして、おもてにすわり、一日じゅううたったり、ドワーフのだれかが鼻さきでも出そうものなら、どっと歓呼の声をあげたりしました。  歌のなかには、古くから伝わったものがありました。けれどもなかには、まったく新しくできたものもあって、それは、ばかにあっさりと竜がいきなり死んでしまうことや、川をくだってこの湖の町へすばらしいほうびのかずかずの荷がとどくことをのべていました。そういう歌は、たいてい統領のさしがねで作られたもので、そんな歌をきいても、ドワーフたちはあんまりいい気持ちはしませんでした。けれどもそのあいだに、ドワーフたちはみな、のびのびとくらし、めきめきとふとって、もとのようにすこやかになりました。一週間もすると、すっかり元気をとりもどして、めいめいの色で生地のよい服を作ってもらい、長いひげをくしけずってととのえ、歩く足どりにもほこりがよみがえりました。トーリンは、まるでもう自分の国をとりもどし、スマウグをずたずたにしてしまったかのように、あたりをはらって歩いておりました。  そうなると、トーリンがいったように、ドワーフたちが小さなホビットによせるあたたかい感謝の気持ちは、日ごとに強くなりました。もうぶつぶつ文句をいう者もありません。みなでホビットの健康をいわって酒をのみ、その背なかをたたいては、口をきわめてビルボをほめそやしました。それがちょうどよかったのです。というのもビルボはどうも元気がでなかったからで、それは、あの山のようすがずっと気がかりでしたし、竜のことも忘れられず、おまけにひどいかぜをひいてしまったためでした。三日のあいだ、ビルボはくしゃみとせきになやんで、おもてへ出ることができませんでした。そのあとでさえも、宴会の時のビルボのあいさつといえば、ただ「まごどに、ありがどございます。」というひと言ばかりでした。  そのあいだに、森エルフたちは、荷をつんで森の川をさかのぼって帰りました。エルフ王の宮殿では、たいへんなさわぎがもちあがりました。番兵長と給仕頭がどうなったかは知りません。ドワーフたちが湖の町に世話になっているあいだ、だれもかぎのこととたるのことは、もちろん話に出したことがありませんでしたし、ビルボも用心して、すがたをかくすことをしませんでした。それでも、エルフたちは、あれこれとあてずいりょうをしてだいたいの見当をつけたのだと思います。もっともわがバギンズ君のことだけはどうもわけがわからない人物としてなぞのままでしたが。しかしともかく、エルフ王は、ドワーフたちの目的を知りました。すくなくとも目的を知ったと思いました。そして、ひそかに、こうつぶやきました。  「よかろう。やってみるがよい! このことについてわしの言い分をとおさずには、宝の一かけもやみの森を通りぬけられまいぞ。とはいえ、思うにやつらはみな、むごいさいごをとげることじゃろう。よい気味じゃ。」王には、ドワーフたちがスマウグのような竜と戦ってそれを殺すとは考えられませんでした。王は、ドワーフたちが竜の目をしのんで宝をうばうような、押込どろぼうか何かをもくろんでいるのではないかと、深くうたがっていました。このことでみても、王は頭のまわるエルフで、湖の人たちよりはるかにかしこいことがわかります。けれどもそのかしこい王の考えもすっかりあたったわけでありません。それは、おしまいまで読んでくだされば、わかるでしょう。王は、スパイを湖の岸いったいから、ゆけるかぎり北の方へ山の近くまではりめぐらせておいて、あとを待ちました。  二週間めのおわりに、トーリンは、旅立とうと考えはじめました。ドワーフたちに熱心な思いやりがつづくうちこそ、いろいろの手助けがしてもらえる時なのです。ぐずぐず長居して、つめたい無関心をよんでしまったら、もういけません。そこでトーリンは、町の統領と相談役の人たちに申しいれて、自分と仲間たちは、もうじき山へでかけなければならないと、いいました。  その時はじめて、統領はびっくりし、またすこしあわてました。そしてトーリンがまさしく、むかしの王の子孫だったのかもしれないと、考えました。統領はいままで、ドワーフたちが本気でスマウグに近づくつもりでいると思ったことがなく、これらはさぎしだから、おそかれ早かれ尻尾を出して、おっぱらわれるものと、信じていました。統領は、まちがっていました。もちろんトーリンは、山の下の王のほんとうの孫ですし、ドワーフというものはあだうちをしたり、家がらをふるいおこしたりするために、どんなことをやりだすかは、思いのほかのことでした。  けれども統領は、ドワーフたちを旅立たせることを、すこしも残念に思いませんでした。まずこの人たちをもてなすのは、たいへんなものいりでしたし、ドワーフたちがここに来てからというもの、商売をほうりっぱなしにした長いお祭りにはいったようなものでした。「出かけていって、スマウグを怒らせるがよいわ。どんなに竜めがドワーフたちをむかえるか、さぞかし見ものだろう。」と統領は心で思いながら、うわべでは、こういいました。「おっしゃるとおりですな。スロールの世つぎスラインの世つぎなる、トーリンどの。ご自分の国をとりもどすべきです。古くからの伝えによれば、その時は、間近です。わたしたちは何なりとご用立てし、大いにお力になりましょう。もしわたしたちのお手つだいが役に立ったと思われたら、あなたのお国がとりもどせたあかつきに、おこころざしを示していただけるものと存じますよ。」  こういうわけで、いまは秋も深まって、風がつめたく、木の葉も散りいそいでいるある日のこと、三せきの大きな船が、こぎ手たちとドワーフたちとわがバギンズ君とをのせ、荷物をつんで、湖の町をはなれました。馬や小馬はうちあわせた上陸地でおちあうように、すでに陸のまわり道で送り出されていました。統領とその相談役たちは、湖へおりる官邸の大階段におりたって、わかれの言葉をつげました。人々は、さん橋や窓にすずなりになって、歌をうたいました。白いかいが水につかり、いっせいに水をかきました。船は湖を北にむかってさかのぼり、ドワーフたちはいよいよ、長い旅のさいごにさしかかりました。このなかで、ただひとり浮かないのは、ビルボなのでした。 11 入口の階段に腰かけて  二日のあいだ、一同は北へこぎ進んでたての湖をのぼり、早せ川にはいりました。するとはや、目の前に、きびしく高くそびえ立つはなれ山がはっきりと見えました。川の流れは強く、船の進みははかどりません。三日めのおわりに、川をいくキロかさかのぼったところで、船を左岸、つまり西の岸にこぎよせて、そこでもやいました。すでに、べつに食べものや品物をつんだ馬や、これからドワーフたちの使う小馬たちが、ここでおちあうように送られてきていましたので、一同は、小馬につめるものだけを荷づくりし、そのほかのものは、テントの下にまとめました。ところが町の人々のうち、だれひとりとして、山のすがたのこれほど近いところでは、ドワーフたちといっしょに夜をすごそうとしませんでした。  「あの歌がほんとうになるまでは、ごめんこうむりたい。」と、人々はいいました。この荒れはてた場所で、竜が勝つと思うはやすく、トーリンが勝つと思うことは、むずかしいものです。またその品物には、とくに見張りを立てる必要もありません。なにしろこのあたりは、荒れはてて、まったく人けがありませんでした。そこで今までついてきた人たちは、はやとっぷりと日もくれかけていたのに、ドワーフたちとわかれて、いち早く川を流れくだったり、岸べの道をたどったりして、すがたを消しました。  一同は、寒いさびしい一夜をすごし、心が沈みました。あくる日、ドワーフたちは、ふたたび旅をつづけました。バーリンとビルボがしんがりをつとめて、それぞれ自分の乗っている小馬のそばに、重く荷をつんだもう一頭の小馬をひいてゆきました。ほかの者たちは、もはや道のない荒地のなかを、なるべく平らなところをえらびながら、いくらか先を進みました。一同は、川岸からそれて、ななめに北西にむかいました。すると、一同の方へはりだしていた南がわの山すじの大きな山すそが、しだいに近づいてきました。  それは、まことにしんどい旅でした。静かなしのびやかな旅でした。笑い声も歌も、たてごとのひびきもありません。湖のほとりで古い歌をきいて心にわきあがったあのほこりとのぞみは、とぼとぼたどるしんどさのなかで消えてしまいました。だれもみな心のなかでいよいよ旅のおわりに近づいたということ、そのおしまいがおそろしいことになるのではないかということを考えていました。まわりの土地は、荒れすさんだ、さむざむとしたながめになってきました。けれどもトーリンの話では、むかしここは、緑うるわしい土地だったというのです。草もほとんどはえていず、まもなく、わずかなやぶも立木もなくなり、だいぶ前にやられたと思われる、さけて黒ずんだ木株ばかりとなりました。一同は、竜の荒し場とよぶところにさしかかっていました。おりから、秋も深まりきったころでした。  一同は、竜が自分のねぐらのまわりにつくりあげた荒し場という荒地のほかには、竜のしるしを見かけず、何の危険にもあわず、ともかく、山のふもとにたどりつきました。山は目の前に、黒々としずまりかえって、いっそう高々とそびえていました。一同は南がわの大きな山すじの西がわに、はじめての野宿をとりました。この南にはりだした山すじは、からすが丘とよぶ山頂になっておわっています。この山の上に、むかしは古い見張りのやぐらがありました。けれどもドワーフたちは、まだそこへのぼる気にはなりませんでした。そこはあまりにもあたりから丸見えの場所でした。  さて、一同のいっさいののぞみをかけたかくし戸を、山の西がわの峰々の方にさがしに出かけるにあたって、トーリンは、表門のある南がわのようすをさぐる物見隊を出すことにしました。そのためにトーリンは、バーリンとフィーリとキーリとをえらび、ビルボもいっしょに行くことになりました。四人は何の音もしない黒い崖の下を通って、からすが丘のふもとに進みました。そこは、早せ川が、むかし谷間の町のあった谷を、ゆっくりうねりながらぬけてきたあとで、いま、むきをかえて山すそに近より、音にぎわしく、とうとうと湖の方へ流れていくところです。川岸は荒々しい岩で、流れに深くおちこんでいます。岸から、はばのせまい川をながめおろしますと、川はたくさんの石のあいだをほとばしってあわ立ち、しぶきをあげていますが、目をあげれば二本の腕のような大きな山すじにはさまれた広い谷間に、むかしの家々や塔や壁のくすんだこわれあとが、ありありと見られました。  「あそこにあるのが、谷間の町のあとだ。」と、バーリンが話しました。「山の四面はことごとく、木々の緑でおおわれ、山につつまれた谷には、そのかみ、ゆたかで楽しい町があり、鐘が鳴りひびいたものだ。」そういいながら、バーリンは、いかにも悲しげな、と同時ににがにがしげな顔になりました。バーリンは竜が来たころから、トーリンの仲間だったのです。  四人は、川にそってさらに表門へ近づこうとまではしませんでした。けれども、南がわの山すじのすそをこえてすこし先へ行きますと、かなたに、大きな岩のうしろにかくれて、二つの山すじの根もとにある大岩壁のなかに、暗くぽっかりと洞穴のような入口があいているのを、ながめることができました。その口から、早せ川の滝つ瀬が、おどり出ていました。そしてまた、同じその口から、一すじの湯気と、一すじの黒い煙とが、流れ出ていました。そしてこの煙と、ほとばしる水流のほかに、荒地に動くもののけはいはなく、ただ時おり、一羽のまっ黒な気味のわるいカラス(これはたちのわるい小ガラスです)のすがたが見られました。音といえば、石ばしる水のひびき、それに、時おり鳴くカラスのしわがれた声ばかり。バーリンは、身ぶるいをしました。  「もどろう。ここにいては、いいことがない。それに、どうもあの黒いやつが、好きになれん。あいつらは、悪魔のスパイみたいにみえるなあ。」と、バーリンがいいました。  「竜はまだ生きていて、山の地下の広間にいるんだな。あの煙から、そう思えるが……」と、ホビットがいいました。  「煙だけでは、竜がいる証拠にならぬ。とはいえ、あんたのいうことが正しいのだろう。でも、あいつは時にどこかへ出かけているかもしれんし、山の上へ出て、寝そべりながら見張りをしているかもしれん。そんな時でもやはり、煙と湯気とが、表門から出ているだろうよ。地下の部屋部屋には、あいつの毒気がみなぎっているにちがいないものな。」  こんな暗い思いをいだき、頭の上に鳴きしきるカラスたちにまつわられながら、四人は、とぼとぼと野宿の場所へひきあげていきました。秋がおわり冬をむかえようというこのごろ、エルロンドのすてきなやかたにお客となっていたのは、つい六月のことでしたのに、もう何年も何年もむかしのような気がします。一同は、だれに助けを求めるあてもなく、この危険な荒地にさらされ、もう旅のおわりにさしかかっているにもかかわらず、ドワーフたちのめざす宝さがしの目的は、ますます遠ざかっていくような気持ちになりました。だれひとりとして、心のくじけない者は、ありませんでした。  ところが、まことにふしぎなことですが、この時におよんで、わがバギンズ君ひとり、根性がすわっておりました。ビルボは、トーリンからよく地図をかりて、しげしげとこれをながめ、ルーン文字をくりかえし考えて、エルロンドのよんでくれた月光文字の文句に思いふけりました。そして、なんとかして、ひみつの戸口を見つけるために、山の西がわの危険千万なていさつに、ドワーフたちをおもむかせたのも、バギンズ君だったのです。そこで一同は、西の細長い谷間の一つに野宿をうつしました。その谷は、表門のある南がわの大きな谷間にくらべれば、せまい小さなものですが、低いいくつかの尾根すじにふさがれています。その尾根の二すじは、山の本体から西の方へ、きりたった長い山すじとなってはりだし、平地へおりています。この西がわいったいには、竜が荒しまわった爪あとがあまり見られず、小馬たちの食べる草がいくらかはえていました。この西の野宿地は、日が森のかたへ沈むまで、一日じゅう、崖にさえぎられて、日かげになっていました。ここから、みんなは、毎日毎日隊をくんで、山腹の道という道をさがしまわりました。地図が正しいものでしたら、この谷をのぼりつめた崖のどこかに、ひみつのかくし戸がなければなりません。けれども、日ごとに一同は、何のうるところなく、野宿地にたちもどりました。  けれどもとうとう、みんなは、思いがけぬことで、さがしまわっていたものを見つけだしました。フィーリとキーリとホビットとが、ある日谷をくだって、その南はしの岩がごろごろ重なっているあたりをよじのぼっていました。おひるごろ、一本の柱のようにつっ立った大きな岩のうしろにはいあがってみて、ビルボは、そこに上へのぼる石段を荒くきざんだような場所へ、出たのです。こおどりしてそこをたどっていくと、三人は、はばのせまい小さな道のあとを見つけて、その道を見うしなったりまたさがしあてたりしながら、しだいに上にのぼるうちに、南がわの尾根すじの頂上に出て、とうとう、たいそうはばのせまい一つの岩だなにさそいこまれました。その岩だなは、山の面と直角に北むきになっています。そこから見おろすとかの谷のみなもとにある高い崖のてっぺんにいることがわかり、はるか下の方に自分たちの野宿する場所が見えました。右手の岩かべにしがみつきながら、三人は一列になってその岩だなの上をそろそろと進みますと、岩かべがぽっかりと口をあけているところへ出ました。三人は、けわしい壁にかこまれた穴の、下には草のはえた、しんと静まりかえったその小さなくぼみにむかいました。三人の見つけたこの入口は、崖の出っぱりがあるために、下からまるで見えませんし、すこしはなれると、ごく小さいので、ちょっとした岩のわれめぐらいにしか見えませんでした。それは、横穴というたぐいのものではなく、空にむかって、ひらいていました。しかしくぼみのおくには、一まいの平たい壁が立ちふさがっていて、その地面に近いすその部分は、石屋が作ったように、なめらかでまっすぐになっていますが、つなぎめもわれめも見つからないのです。柱もなければ、まぐさ(上の横木)もなく、しきいも見つかりません。それに、しんばり棒もしめ釘も、かぎ穴も、いっさいがっさいありません。とはいえ三人は、自分たちがとうとう、かくし戸を見つけだしたことを、つゆうたがいませんでした。  三人は、戸をたたいたり、おしたりひいたりしました。はては、戸にとりすがって、どうか動いてくれとたのんだり、ものをあけるまじないをありったけとなえてみたりもしました。それでも、いっかな、動きません。とうとうくたびれて、三人とも足もとの草の上にすわりこんでしまいました。それから夕がたになって、長いくだりにかかりました。  その夜の野宿は、大さわぎでした。あくる朝になって、もう一度動かしてみようと手はずをととのえました。ボフールとボンブールとがあとに残って、小馬たちや川から運んできた品物の見張りにあたりました。ほかの者たちは、谷をくだって、新しく見つけた山道をのぼり、せまい岩だなに出ました。ここは、はばがせまくて、はらはらするところですから、何か荷物があっては渡れません。かたがわは五十メートルほどの断崖になり、下はとがった岩場です。けれどもドワーフのひとりびとりが、腰のまわりにつなをぐるぐるまきつけてささえ、なんとかぶじに、小さな草つきのくぼみに、たどりつきました。  ここに三度めの野宿地をつくることにして、それに必要なものをつなで下からたぐりあげました。同様にして、元気のよいキーリのような者を、ときどきつなで下におろして、上のしらせを下に知らせるかたわら、見張りを交代させて、今度はボフールが上へつりあげられていく、というふうにしました。ボンブールだけは、つなも山道もごめんで、上へいこうとしませんでした。  「ぼくは、ふとってるから、あんなハエのとまるようなことはできないよ。目がまわって、自分のひげにつまずいちゃう。そうすれば、みんなは十三人になるぞ。だいいち、あんな結びめだらけの細いつなでは、ぼくの重みはささえられないさ。」こうはいうもののあとでおわかりになるように、その点がまちがいだったのが、ボンブールにとって幸いでした。  そのあいだにも、ドワーフたちのいくたりかは、岩だなをさらにつたわって、くぼみの上に出て、山の上にのぼっていく道を見つけました。けれどもだれも、その道をのぼっていく気持ちはなく、その必要も感じませんでした。上の高みは、鳥も鳴かないまったく音のない世界で、ただ岩のわれめに風がうそぶく音ばかりです。ドワーフたちは、話し声も低く、大声で呼んだりうたったりしませんでした。危険が岩の一かけ一かけにひそんでいるからでした。戸のあく秘密を熱心にしらべている者たちも、いっこううまくいきません。だれもむちゅうになりすぎて、ルーン文字や月光文字をかえりみず、岩のなめらかな表面に、きっと戸口がかくれているものと考えて、それをさがすのに休もうともしませんでした。一同は、湖の町から、さまざまな道具やつるはしを持ってきていましたので、はじめは、そういうものを使おうとしました。ところが石をたたくと、柄がふっとんで、腕が使えないほどしびれ、鋼のさきが鉛のようにまがるか、われるかして、つるはし仕事は、この戸をとじこめた強い魔法に役立たないことがわかりました。それに、穴にこもるこだまのひびきに、一同はすっかり、おじけづいてしまいました。  ビルボはひとりで、さびしげに、つかれきったように、入口の階段のところに、腰をおろしていました。もちろん、入口の階段などがそこにあったのではありませんが、ドワーフたちは、岩戸と穴の出口までのあいだの草のはえたわずかな床を、じょうだんに階段と呼んでいたのです。それはビルボが、「何かを考えつこうと思ったら、入口の階段に腰かけるのがいちばんだ」といったことを思いだして、ここをわざとそう呼んだわけです。このビルボの言葉は、ホビット穴に思いがけないドワーフたちの集まりをむかえたあの日に出たものです。それも今は遠いむかしのようでした。さて、すわって考えるにせよ、やたらにさがしまわるにせよ、一同はしだいにむっつりとしてふさぎこんでいきました。  ドワーフたちの心は、一時、道を見つけたことによって高まったのですが、今はもうぺしゃんこにしなびてしまいました。かといって、あきらめて帰ってしまう気にはなりませんでした。ホビットも元気のないこと、ドワーフと同様でした。ビルボは、おくの岩戸に背をもたせてすわったまま、入口ごしに、西のかたをはるかにぼんやりとながめているばかりでした。その眼は、崖をこえ、広々とした荒野をこえ、やみの森の黒いひろがりをこえ、はるかその先をさぐって、ときどき遠くかすかに、霧ふり山をちらりととらえたのではないかと思うことがありました。ドワーフが、何をしているんだときくと、ビルボは、こう答えました。  「あんたがたは、中へはいることはもちろん、入口の階段に腰かけて考えているのもわたしの仕事だといったではないか。だから、こうしてすわって考えてるのさ。」けれども、ビルボは、仕事のことを一心に考えているのではなくて、きっと青がすみのたなびくかなたにある土地のこと、平和な西のくにの、お山と、その下にある自分のホビット穴のことを考えていたのでしょう。  さて、この草の床のまんなかに、一この大きな黒っぽい石がたおれていました。ビルボは、ぼんやりとその石をながめ、その上に大きなカタツムリがいくつもはっているのを見ました。カタツムリは、つめたい岩の壁にかこまれた、小さなこのくぼみが好きなようで、ほかにも大きなカタツムリが、たくさん、壁のまわりをゆっくりと、ねばねばと、はっておりました。  「あした、秋のさいごの週がはじまるな。」と、ある日、トーリンがいいました。  「そして、秋のあとに、冬が来ますね。」とビフールがいいました。  「そして、ことしのあとに、来年がくるさ。」と、ドワーリンがいいました。「ここで、どうしようもないうちに、わたしらのひげは長くなって、崖から谷底までたれさがっちゃうぞ。いったいわたしらの忍びの名人は、何をしてくれてるんだ? すがたをかくす指輪を手にいれて、いやが上にもとびきりの名人じょうずになってなけりゃならないんだから、そろそろ、表門をくぐって、ちょっとばかりなかをさぐってきてくれたらどんなものかと、思ってるところだがね。」  ビルボは、この言葉をきいて──ビルボのすわっている穴の真上の岩場に、ドワーフたちがいたのです──「めっそうもない!」と思いました。「やつらは、そんなことを考えはじめているのか? やれやれ、すくなくとも魔法使いがいなくなってからというもの、むずかしいこととなると、手をつけなければならないのは、このわたしなんだ。いったいぜんたい、どうすればいいんだ? さいごに、このわたしにおそろしいことがふりかかってくるにちがいないことは、わかってたんだ。とにかく二度と、あの谷間の町のあわれなすがたは見たくはないな。それに、湯気をあげている表門ときたら、なおさらだ!」  その夜、ビルボは気持ちがふさいで、よく眠れませんでした。つぎの日になると、ドワーフたちはみな、いろいろな方向にちらばっていきました。下にくだって小馬たちに運動させる者もあり、山の斜面をさまよう者もありました。ビルボは、一日じゅう、ゆううつな気持ちで、草のはえた床にすわりこみ、床の上の石をぼんやりながめたり、せまい入口から西のかたをふりあおいだりしていました。何かを待ちうけている、ふしぎな感じが胸のなかに動いていました。「きょう、だしぬけに魔法使いが帰ってくるのかもしれない。」と、ビルボは思いました。  ビルボが顔をあげると、遠くの森がちらりとのぞめます。日は西にかたむいて、その遠い森の木立の上が一面に黄色くかがやいて、西日が秋のさいごのもみじ葉をもえたたせているようでした。しばらくすると、ビルボの目の高さにゆっくり沈んでいく、みかんの実のような夕日が見えました。ビルボが入口までいって空を見ますと、地平線のわずか上に、細い新月が、白くほのかにあらわれていました。  ちょうどこの時、うしろで、トン! と一つ、たたく音がきこえました。見れば、草の上の黒い石に、とほうもなく大きなツグミが一羽とまっています。全身がぬれたようにまっ黒ななかに、胸だけあざやかな淡黄色で、そこにこまかい黒点をまじえています。トン! 鳥はカタツムリをめがけて、石の上でついばみました。トン! トン、トン!  はっと、ビルボはさとりました。危険にかまわず、ビルボは岩だなの上に立って、大声をあげ手をうちふって、ドワーフたちをまねきました。ごく近くにいたドワーフたちは、いったい何事かといぶかりながら、岩の上をこけつまろびつ、急ぎに急いで、岩だなにかけつけてきました。下にいた者たちは、早くつなで上げてくれとさけびました(もちろん、ボンブールは別です。ボンブールはこの時、眠っていました)。  すばやくビルボは、わけを話しました。一同は、しんとしてしまいました。ホビットは、その黒い石のそばに立ち、ドワーフたちはじれったそうに、ひげをうちふりながら、見まもりました。日はしだいに低くかたむきました。そしてドワーフたちののぞみもしだいに消えかかりました。夕日は、横にたなびくまっ赤な雲のなかに落ちて、にわかに暗くなりました。ドワーフたちは、うめき声をあげました。けれども、ビルボはじっと身動きもせずに立ちつくしていました。か細い月は、地平線にかかっていました。夕やみがせまりました。こうして小人たちののぞみが消え去ったとみえたそのしゅんかんに、一すじの夕日の赤い光が、雲のきれめをぬって、指さすようにつつともれ落ちてきました。まばゆい光線は、くぼみのせまい入口から、ひたとさしこみ、なめらかな岩戸の上に落ちました。それまで石の高いところにとまって、ビーズ玉のような眼をみはり、小首をかしげてじっとながめていた、あの大きなツグミが、とたんに、高くさえずりました。そして、トン!! ひときわ大きくついばむ音がしました。まるで皮がはがれるように、岩のおもてが一そぎはがれて落ちました。すると土の上およそ一メートルのところに、ぽっかり一つの穴があいていたのです。  大いそぎで、このチャンスをにがしてはなるものかとおののきながら、ドワーフたちが岩戸へおしかけて、おしました。だが、だめでした。  「かぎだ、かぎだ!」とビルボがよばわりました。「トーリンは、どこだ?」  トーリンが、走りよりました。  「あのかぎ!」とビルボは、さけびました。「地図といっしょにあった、かぎですよ。まだ時間のあるうちに、あのかぎを使ってごらんなさい!」  すぐにトーリンは、歩みよって、首のまわりにくさりでさげてあったかぎを、ぬき出しました。穴にさしこみました。ぴったりはいって、くるりとまわりました。カチャッ! 光は消えうせました。日は沈みました。月もはいりました。夕やみが、大空いっぱいにひろがっていました。  いまやドワーフたちぜんぶが、力をあわせて岩戸をおしました。ゆっくりと、岩戸の一部がひらきました。長いまっすぐのトンネルの口があらわれて、広がりました。高さ一メートル半、はば一メートルの入口のりんかくが、くっきりと見えてきました。戸はゆっくりと、音もなく、内がわにひらいていました。山の表門が蒸気をふき出していたように、この入口は、くらやみをふき出しているように思われました。そのあくまで暗いくらやみをとおして、だれの目にも一寸さきも見えませんでしたが、ぽかりと大きくあけたその口は、おくへ下へとつづいているのでした。 12 中にはいってたしかめる  長いあいだ、ドワーフたちは、入口のくらやみを前にして立ったまま、考えこんでいましたが、とうとうトーリンが、こういいました。  「この時にあたり、わしらは、そんけいするバギンズどのに、このように申しあげよう。バギンズどのは、われらの長い旅のこよない道づれであり、そのからだの大きさをはるかにこえた勇気と機略にみちたホビットであり、あえて申しあげれば、ふつうのめぐみをはるかにこえた運にもめぐまれておられるようじゃ。さて、今この時こそ、バギンズどのが、わしらの仲間に加わられた目的の、そのつとめをはたされるべきおりであり、また、わしらがそれに対してさしあぐるほうびの分をかせぐべきおりであろう。」  重大な場面になるとぶちはじめるトーリンの演説の調子は、もうよくごぞんじのことでしょうから、今の演説はたいへん長くつづくのですが、これくらいにしておきましょう。たしかにここは、重大な場面でした。けれどもビルボは、とてもがまんがなりませんでした。このころになると、ビルボはトーリンのことを何もかも知りつくしていましたし、トーリンが何をねらっているのかも、よく心得ていました。  「おお、スラインのむすこトーリン・オーケンシールドどの、お話ちゅうですが、あなたはこの秘密の入口にまっさきにはいるのが、わたしの仕事だと考えていることをおっしゃりたいのなら、それほどだらだらと、おひげをはやすほど話をひきのばす必要はありますまい。」とビルボは、腹をたてていいました。「はいれと、あっさり、おっしゃってください。わたしは、きっぱりことわるかもしれませんぞ。わたしはこれまでに、二度の急場からあなたがたを助けだした。それはどちらも、はじめのとりきめにはいっていないことです。だからわたしは、もうそのわたしのわけまえをいただいてもよいと思う。けれども、『三度めのはらいで、片がつく』と、わたしの父は口ぐせにいいました。ですから、とにかく、おことわりしないことにいたしましょう。きっとわたしは、むかしよりも、ずっと運が強くなっているのです。それが、自分ではっきりわかってきたのですね。」ビルボがむかしといったのは、自分の家をはなれる前の、この春のことで、もう何百年もむかしのような気がしました。「しかしとにかく、わたしが中にはいって、ひとのぞきして、なんとかやってきましょう。では、だれがいっしょにくる?」  ビルボは、いっせいに志願してくるとは思っていませんでしたから、ちっともがっかりしませんでした。フィーリとキーリとは、おちつかない顔つきをして、もじもじしていましたが、ほかの者たちは、申しでようというそぶりさえみせませんでした。──ただひとり、あの時の見張りをつとめたバーリンは、べつでした。バーリンは、ホビットをことのほか好きになっていました。かれは、自分もすこしなら中へはいろう、いざという時に助けをよぶ声のとどくくらいのところまでは、いってもいい、といいました。  ここで、ドワーフたちの気持ちも、お話ししておきましょう。ドワーフたちにしてみれば、ビルボにはほんとうにその役目に応じてたっぷりと、お礼をはらうつもりでした。ドワーフたちは、自分たちのやりたくない、いやな仕事をしてもらおうと思って、ホビットをやとったので、このあわれな小人が、すきでその仕事をしたって、自分たちのせいじゃないというのです。しかしドワーフたちは、ホビットがのっぴきならない羽目におちいれば、いつでもビルボをそこから助けだすのに全力をつくすつもりでもありました。げんに、これほどホビットがドワーフからありがたく思われないころ、冒険のはじめのトロルの事件では、ドワーフがビルボを助けたのです。たしかにドワーフたちは、気高い英雄ではありません。お金もうけに理想をかける、そろばん高い種族です。なかには、ずるいやつもいれば、裏切り者もいるし、とんでもない悪者もいます。でもなかにはそうではなくて、トーリンとその仲間のように、りっぱな連中もいるのです。といっても、あまり求めなければの話で……。  ビルボのうしろの、うすずみのいりまじった青白い空に、星々があらわれはじめたころ、ビルボは、魔法の戸をぬけて、山のなかへしのびこみました。それは、ビルボの思った以上にたやすいことでした。なにしろここは、ゴブリンの洞穴ではありませんし、森エルフの岩屋でもなく、ドワーフがそのすばらしい富と腕とをかけて作りあげた通路なのです。定木のようにまっすぐ、床もつるつるなら、両わきも天井もすべすべして、ゆるやかでカーブのない、たんたんとした坂が、下のくらやみに長々とつづいていくのです。  しばらくいくと、バーリンがビルボに、「では、しっかりな!」といって、入口のあかりがぽつりと点に見えるところで、立ちどまりました。このあたりには、そとにいるほかのドワーフたちのひそひそ声が、トンネルのこだまのいたずらで、風のなるようにきこえてきます。ひとりになると、ホビットは、指輪をはめた上で、自分のこだまがよそへきこえてはたいへんと、いつもよりも気をつけて、音をたてないように、やみのなかを、下へ、下へ、どんどん下へおりていきました。からだはおそろしさにふるえながらも、その小さな顔は、きびしく決意にみちてひきしまっています。そのむかしハンケチを忘れて袋小路のわが家からあわててかけだしたあのホビットとは、まるで変わったホビットになっていました。そういえばビルボはもう長いことハンケチを持っていません。自分の短剣のこい口をゆるめて、バンドをしめあげると、さらにおくへ進んでいきました。  「いよいよおまえも、どたんばにはまりこんだな。ビルボ・バギンズよ。」と、ビルボは、胸のなかでいいました。「あの夜の集まりで足をつっこんだのが、いま足をぬいて、きまりをつけることになるんだぞ。いやはや、なんてわたしはおろかだったろう。また、なんといまも変わらずおろかなのだろう。」と、心のなかのトックがわでない方の血が、いいました。「わたしは、けっして竜のおさえている宝ものなんか、ほしくはない。わたしのわけまえが、ずっとここにおいたままになってもかまわない。ただ、いまはっと目をさまして、このいまわしいトンネルがわたしの家の客間になってくれればなあ。」  もちろんビルボは、いま目をさましたりしませんでした。あいかわらず先へ先へと進んでいきました。うしろにしてきた入口のあかりは、とっくになくなっていました。もうビルボただひとりでした。するとほどなくして、なにか暖かさを感じはじめました。「ずっと前方の、下に近づくにつれて見えるように思うのは、赤い炎のあかりだろうか?」とビルボは考えました。  そうなのでした。進むにつれて、あつくなり、とうとううたがいのないものとなりました。それは赤い光でした。近づくにつれ、いよいよ赤さがましてきました。その上、トンネルの中は、もうたいへんなあつさです。ぱっぱっと、湯気があがって、それがビルボをつつみ、ビルボは汗をかきはじめました。その上、ある音が、耳をうつようになりました。火にかかってにえたぎる大きな湯がまのなるようなぶくぶくいう音と、とても大きな牡ネコがのどをならしているようなごろごろという音がいりまじっています。これは、なにかよほど大きなけものが、まっ赤な火を前にして眠っているいびきの音にまちがいがなくなってきました。  そこまで来て、ビルボは足をとめました。ここから先へ進むのは、ビルボのこれまでにない勇気のいることでした。そのあとにおこったおそろしいできごとも、この一歩にくらべられるものではありません。ビルボはまちぶせしているその大きな危険をじっさいに目にする前に、トンネルの中で、自分ひとりのはげしい心の戦いを味わいました。けれども、しばらく立ちどまっていたあとで、ビルボはふたたび先へむかいました。そしてとうとうそのトンネルの出口に出ました。出口は、上の入口と同じ大きさ、同じ形で、ひらいていました。その出口から、ホビットの小さな頭が、なかをのぞき見ました。目の前には、山の底根にある、むかしのドワーフ族のどん底の大地下室、つまり本丸広間がひろがっていました。ほとんどが暗いので、そこのだだっ広さは、ぼんやりとけんとうがつくだけですが、岩の床のビルボに近い方からさかんに立ちのぼっているのが、大きな赤い炎でした。スマウグの炎でした!  そこに、スマウグが寝ていました。大きな赤金色の竜は、ぐっすり眠っていました。ごうごういう音が口と鼻からふき出し、煙がぽっぽっと流れ出ていますが、火は、眠っているあいだ弱まっています。大きなからだの下にも、手足の下にも、とぐろを巻いた長い尻尾の下にも、さらに竜のまわり一たいにも、暗くて見えない床の方まで四方八方に、宝石類の山が無数にかさなり、それらのめずらしい石や宝石、細工した金や純金や銀の山づみのむれがみな、赤い光に赤くそまっています。  スマウグは、はかり知れないほど大きいコウモリのようにつばさをたたんで、からだの一部を横ざまにむけて寝ていましたので、ホビットは、その胸と長い白っぽい腹を見ることができました。腹は、ごうかな宝石の寝床に長いこと寝ていたために、金のくずや宝石でかちかちにかためられています。竜のうしろのこちらから近い壁に、よろいかたびらとかぶと、戦のまさかりとほこ、剣と槍などがかかっているのがうすぼんやりと見られます。また、どれほどあるのかけんとうのつかない富のぎっしりつまった、大きな壺やかめが、床にずらりといく列にもなって、ならんでいます。  ビルボのどぎもがぬかれたというと、うまいいい方ではありません。ビルボが、びっくりぎょうてんしたことを、どんなにうまくいい表わそうと思っても、大むかしにこの世がすばらしかったころ、エルフから人間がおそわった言葉というものを、その人間がへたに作り変えてしまったせいで、もう表わせなくなりました。ビルボは、むかし、竜の宝をいいつたえた物語や歌をきいたことがありました。けれども、これほどの宝のきらびやかさ、はなばなしさが、いままでビルボの胸にやどったことはありませんでした。ビルボの心は、うずき、宝の魔力にとらえられ、ドワーフたちのあこがれにつらぬかれました。ビルボは、おそろしい宝の守り主のことを忘れて身動きせずに、ねぶみできないほどの黄金を見つめるばかりでした。  ながいながいあいだ、ビルボはじっと見つめていたような気がしましたが、そのうちに、自分の意志にさからってわれしらず、出口のかげから床の上へ、宝の山のいちばん手近な方へと、こっそり歩き出していました。わきには眠っている竜が見上げるように横たわっていて、寝ていてさえすごいおそろしさをおぼえます。ビルボは、一つの大きなカップをつかみました。二つの取手がついていて、ビルボにようやく持てる重さでした。つかみながらビルボは、ちらりと上の方へ、おそれのまなざしを投げました。スマウグは、つばさを動かし、爪をひらき、ごうごういういびきの調子を変えました。  すぐにビルボは、にげました。けれども竜はまだ目をさまさずに、広間に寝たまま、何かを奪ったり殺したりする夢を見つづけていました。そのまに小さなホビットは、長いトンネルをせっせとのぼっていきました。胸はどきどきしますし、おりていった時よりももっとはげしい病気のようなふるえが足にきました。けれどもビルボはカップをにぎりしめて、「やったぞ! これを見せてやろう。忍びの者というより八百屋のようだと? くそ! もうあんなことはいわせないぞ。」という思いでいっぱいでした。  そしてだれも、ビルボをばかにしませんでした。バーリンは、またホビットにあえたので、大よろこびで、そのうれしがりようと同じくらい、たまげてもいました。バーリンはビルボをかかえあげ、そとへつれだしました。いまは真夜中で、雲がかかって星が見えませんでしたが、ビルボは、目をとじて横になり、あえぎながら、ふたたびさわやかな空気にふれたよろこびにひたって、ドワーフたちがどんなにむちゅうになっているかということにも、どんなに自分をほめそやし、肩をたたいて、末代までもお役に立とうといっているかということにも、うわの空でした。  ドワーフたちが、手から手へとカップを渡し、うれしげに自分たちの宝をとりかえしたことを話していますと、ふいに山の下の方で、古い火山がもう一度火をふいてみせようとしたかのように、大きな地なりがおこりました。みんなのうしろの岩戸がばたんと動き、石一つで、あぶなくしまるところをふせげました。けれども長いトンネルをつたわって、おく底ふかくから、みんなの足もとの地面をゆるがすうなり声とじだんだをふむ音のおそろしいこだまが、ひびいてきました。  するとドワーフたちは、ついさきほどのよろこびも自信にみちた気えんも忘れて、おそろしさにすくみあがりました。やはりスマウグをあなどることはゆるされません。竜のそばにいる以上、いつも竜を頭におかずにすませるはずがないのです。竜というものは、そのねうちのある宝ものをいかして使うことがありませんが、はかりを使ったように、一グラムのめかたまでおぼえています。ことに長いあいだ宝を守ってきた竜ほどそうで、スマウグもそのためしにもれませんでした。スマウグは、不安な夢(その夢のなかに、ひとりの戦士が出てきました。その大きさはとるにたりませんが、切れ味のよい剣とすばらしい勇気をそなえ、この上なくおそろしいすがたでした)がやぶれて、浅い眠りになり、それからはっきりと目がさめました。すると、自分の洞穴に、かぎなれない空気がただよっています。あの小さな穴から、よその空気がはいってきたのでしょうか。穴は小さくても、竜にはいままでいつもその穴のことが気にかかっていました。そこで、その穴をうたがわしげにじっと見つめ、どうしてここをふさがなかったのかと思いました。近ごろスマウグは、上の方から何かをたたくような音がかすかにこだまになって、自分のねぐらまで伝わってくるのをきいたような気がしたことを思いだしました。竜はからだをもそもそ動かして、首をのばしてあちこち、くんくんかぎまわりました。その時、カップがなくなっていることに気がつきました。  どろぼう! 火事! 人ごろし! こういうようなできごとは、スマウグがこの山へ来てから今日まで、おこったためしがありませんでした。それで、スマウグのいかりは、たとえようもありませんでした。使いきれないほどお金を持っている人たちが、ろくに使いもせず、ほしくもないくせに、長いこと持っていた品物を、ある時ふいになくしてしまった時にむちゃくちゃにおこりますね。あんなおこり方でした。竜の火が、かっとふき上がって広間をけむらせました。竜は山のおくをゆすりました。むりやり、小さな穴に首をつっこんでみましたが、だめでした。それで、からだをぐるっとまきちぢめて、地底のかみなりのようにほえたけり、その深いねぐらから広間の大きな出口の方をくぐって、山の下のやかたの大きな通路をとおり、大いそぎで表門へ出ていきました。  どろぼうをつかまえて、ひきさいたりふみにじったりするために、山じゅう岩根をわけてさがしまわろうというのが、竜の一念でした。竜が門を出ると、川の水が蒸気となってはげしくたちのぼりました。竜は炎となって空中にまい、緑と赤の火柱を立てて頂上にとまりました。ドワーフたちは、竜の飛ぶおそろしい音をきいて、草つきの床の壁ぎわにちぢこまりました。石の下にすくんで、何とかして竜のおそろしい眼をのがれようとしました。  ここでもまた、ビルボがいなかったら、ドワーフたちはみんな殺されてしまったでしょう。「早く、大いそぎだ!」とビルボはあえぎながらいいました。「岩戸へ、トンネルへ! ここは、だめだ!」  この言葉にうながされて、ドワーフたちがトンネルのなかへとびこもうとしたその時に、ビフールがさけびました。「いとこが!……ボンブールとボフールがいない。ふたりを忘れた! 下の谷にいるんだ!」  「ふたりとも、殺されてしまうぞ。小馬たちもだ。品物もだめになる。」と、ほかの者が、うめき声をたてました。「どうにもならない。」  「ばかをいうな!」とトーリンが、威げんをとりもどして、いいました。「見すてていかれるものか。バギンズどのとバーリン、それにおまえたち、フィーリとキーリのふたりが、なかにはいるのじゃ。そうすれば、竜も、全員は殺せないわい。ところで、ほかの者たちよ、つなはどこじゃ? 早くせい!」  これは、ドワーフたちが味わったいちばんおそろしいひと時だったでしょう。スマウグのいかりくるったおそろしい音が、山の上にちかい岩の洞という洞にこもってひびきます。竜が、いつ何時、上から一気に飛びおりるか、ぐるぐるまいおりるかわかりませんが、そうなればこの危険な崖のはじで死にものぐるいでつなをひっぱっているドワーフたちを見つけるにきまっています。ボフールがあがってきました。まだ何ともありません。ボンブールが、つなをきしませながら、ふうふうあえいで、あがってきました。まだだいじょうぶでした。道具と荷物のつつみをいくつかひきあげた時に、危険がおそいかかってきました。  ひゅうひゅういう音がきこえました。赤い光が、むれだつ岩のとがりをなぜました。竜が、やってきました。  一同には、荷物をひきこんで、トンネルへにげこむだけが、やっとでした。そこへスマウグが北の方から音をたてて飛びながら、炎で斜面をなめ、あらしのように大きなつばさをはためかせて、おりてきました。竜のあついいぶきは、岩戸の前の草を枯れちぢませ、あけ残しておいたすきまから吹きいって、かくれふしているドワーフたちをあぶりました。炎の舌がめらめらあがるたびに、黒い岩の影がちらちらおどりました。それから、竜が通りすぎて、くらやみがもどりました。小馬たちがおそれのいななきをあげて、つなを切り、あばれて走り去りました。竜は身をひるがえしておそいかかり、小馬たちのあとを追って行ってしまいました。  「あれが、わしらのかわいそうな馬たちのさいごじゃ!」とトーリンがいいました。「スマウグめは一度見つけたら、何ものものがさぬ。わしらはここに住まなければならんじゃろう。かりにだれかが、スマウグの見張りをうけながら、かくれ場もない川までの長い距離を、ひょこひょこ歩いて帰ろうと思いつけばべつだが……。」  もちろんそれはたのしい思いつきではありません。それで一同は、さらにトンネルの下におり、なまあたたかで、むっとする穴のなかで、横になってふるえていますと、やがて夜明けがきて、岩戸のわれめから空が白んできました。夜のあいだもときどき一同は、竜が山のまわりをさがしまわるにつれて、空飛ぶ音が大きくなり、通りすぎ、消えていくのをきくことができました。  竜は、自分が見つけた小馬たちや野宿のあとを手がかりとして、人間どもが湖から川をさかのぼってきて、小馬のいたあの谷から山を登ってきたものと考えました。けれども岩戸には、さがしまわる竜の眼もとどかず、竜のはげしい炎も岩でまもられた小さいへこみまでは、とどきませんでした。竜は、長いこといたずらにさがしまわったあげく、夜明けの寒さにいかりをひやされて、黄金の寝床へ眠りにもどりました。それはもちろん、新しい力をたくわえるためでした。竜は、このぬすみを忘れることもゆるすこともありません。一千年以上たって、竜が燃えあがる石、つまり石炭にでもかわれば別ですが、竜はいくらでも待つことができます。のろのろと音もなく、ねぐらにはいもどって、竜はなかば眼をとじました。  朝がくると、ドワーフたちのおそれはうすらぎました。ドワーフたちは、このくらいの危険はあのような守り番にふれればさけられないものだと思いました。これくらいで自分たちの宝さがしをあきらめてなるものかと思いました。でも、トーリンがはっきりいったように、いまそとへ出ることはかないませんでした。小馬たちは、いなくなったり、殺されたりしています。ですから歩いて長い道のりをぶじに通るには、スマウグの見張りがゆるむまで、かなりの日にちを待たなければならないでしょう。ありがたいことに、一同はかなり食べつないでいけるだけの食べものを助けだしていました。  一同は長いこと、これからどうしたらいいかを論じあいましたが、どうしてもスマウグからのがれる道が考えつきません。ここのところが、はじめからドワーフたちの計画のあなだったのです。ビルボはそれをとりあげていってやりたい気がしました。やがて、まったくとほうにくれた人のつねとして、ドワーフたちはホビットに文句をつけはじめて、はじめはあれほどみんなをよろこばせたことなのに、こんなに来たばかりでカップをとってきたから、スマウグをおこらせたのだと、ホビットをせめはじめました。  ビルボは、おこってしまいました。「それじゃいったい、忍びの者がほかになにをすればいいというんです? わたしは、竜を殺すことをうけおったわけじゃなかった。それは戦士のつとめだ。わたしの役目は、宝をぬすむことだった。わたしは、手はじめにこの上なくじょうずにやってのけたと思う。あんたがたは、わたしがスロールの宝ものをそっくりこの背につんで、とことこ帰ってくると思っていたのですか? 文句をつけるなら、こちらがわにもいいぶんがある。あんたがたは、忍びの者をたったひとりでなく、五百人つれてくればよかったんだ。あんたがたのおじいさんのたいへんなめいよとなることだとは思うが、あれほどものすごい富だというのに、これまでにそのうちわけをわたしに教えようとしたことがあっただろうか。わたしが今の五十倍大きくて、スマウグがウサギのようにおとなしくなったとしても、わたしがあの宝ものをぜんぶはこびあげるには、何百年もかかるでしょうよ。」  こうなると、もちろん、ドワーフたちが、ゆるしてくれとあやまる番でした。「では、わたしたちはこれから、どうすればよいと、お考えかな? バギンズどの。」と、トーリンが、ていねいにたずねました。  「わたしも、いまとっさには、よい考えが出ません。──宝ものをとりかえそうとおっしゃることでしたら、新たに運がめぐってきて、スマウグをやっつけられるかどうかによると思います。竜をやっつけるというのは、けっしてわたしの得手ではありませんが、とにかく一心にその方法を考えてみましょう。わたしとしては今は、よくもとくもありません。ただぶじに生きて国に帰れるようにのぞむばかりです。」  「そのことは、いずれあとで考えるとして! さて、きょうは、これから何をしたらよろしかろう?」  「そうですね、ほんとうにわたしの申しあげることにしたがう気持ちがありましたら、今はここにじっとしていて、何もしない方がいいと申しあげたい。ひるになれば、そとへ出て空気をすっても、あぶなくないでしょう。たぶん遠からずして、ひとりふたり人をえらんで、川をくだって食べものをおぎないにやることもできるでしょう。だがしばらくはみんな、夜のうちトンネルのなかにいるがよいと思いますよ。  ところで、わたしには、してみようと思うことが一つあります。ひるになったら、わたしは指輪をつけて、ふたたびおりていってみましょう。そのころなら、スマウグが寝ているでしょうから、竜がどうしているか、見てきます。きっと何かつかめますよ。『虫にはみな、泣きどころあり』と、父がよくいったものです。自分の経験から、そういったのだとは思いませんがね……。」  もちろんのこと、ドワーフたちは、大さんせいでした。ドワーフたちはまた、小さなビルボをふかく尊敬するようになっていました。いまはビルボは、ドワーフたちの冒険のまことのみちびき手になっていました。ビルボは、自分の考え、自分の計画を持ちはじめていました。あくる日のひるになると、ビルボは、山のおくにくだる二度めの物見にかかりました。もちろん、出かけることは好かないのですが、自分の前に何があるのか、多少とも知っているいまは、まえほどこわくはありませんでした。でも、竜のこと、竜のいんけんな手口のことをビルボがもっとよく心得ていたら、きっとおじけをふるって、竜が眠っているすきをねらおうなどという気はおこさなかったでしょう。  出かけた時は、日がかがやいていましたが、トンネルのなかは、夜のようにまっくらでした。岩戸からもれるあかりも、そのすきまをほとんどとざしていますので、くだるにつれてすぐに消え去りました。ビルボの動きは静かで、そよふく風にのった煙にもおとらないほどでした。やがて下の出口に近づいたころ、ビルボはわれながら、忍びの術を得意に思わないわけにいきませんでした。出口には、ごくかすかな火が見えるきりでした。  「スマウグめ、つかれて寝こんでるな。」とビルボは思いました。「やつは、こちらが見えないし、音もきこえないだろう。うまいぞ、ビルボ! あっぱれだ!」ところがビルボは、もののにおいをとらえる竜のするどさを忘れておりました。いや、きいたことがなかったのです。けれども、竜どもは、うたがわしい時になると、眠っているあいだも、半眼をひらいて見張っていられるというのが、おそろしい事実でした。  スマウグは、たしかに眠りこけているように見えました。ビルボが、出口からのぞいてみると、見えない湯気の呼吸はともかく、ほとんどいびきもかかずに、死んだようになって、黒々と横たわっています。そこでビルボが、床へふみだそうとしますと、スマウグの左の眼のたれさがったまぶたの下から、赤い光線が矢のようにぴかりととんできました。竜は、ただ眠ったふりをしていたのです。そしてトンネルの出口を見張っていたのです。あわててビルボは、足をひっこめて、指輪をはめていた運のよさに、感謝しました。その時、スマウグが、しゃべりかけました。  「きたな、どろぼうめ! におうぞ、きさまの空気がわかるわい。息づかいもきこえるな。こっちへ来い。また、とってみろ。やるものは、どっさりあるぞ。」  けれどもビルボは、まるっきり竜についての知識がないわけでもありませんでした。ですからスマウグがやさしくよびよせようとしたとしても、それはだめでした。「いえ、けっこうです。世にもすさまじきスマウグどの。」とビルボは答えました。「わたしは、おくりものをいただきにきたのではありません。ただ一目、あなたをながめ、ほんとうに物語にあるとおりの大きさかどうか、この目で見たいと思ったのです。わたしは、物語を信じませんでした。」  「で、いまは信じるか?」と竜は、ビルボの言葉を信じなくても、いくぶん得意になって、いいました。  「まことに、歌も話も、あなたのほんとうのすがたに遠くおよびません。わざわいのみなもとにして、ほろぼしのごんげなるスマウグどの。」と、ビルボは答えました。  「うそつきのどろぼうにしては、おせじがいいな。」と竜がいいました。「おまえは、おれの名まえをよく知っているようだが、おれは前におまえのにおいをかいだためしがないように思う。そも、だれで、どこから来たのかな?」  「たしかにありますまい。わたしは、山の下から出かけ、山の下と山の上を通り、空をかけました。わたしは、見えずに歩く者です。」  「なるほど、それはわかった。」とスマウグがいいました。「でもそれは、きさまのふつうのよび名ではあるまい。」  「わたしは、手がかりをつかむもの、くものす破り、また、剣でさすハエです。わたしは運のよい数になるためにえらばれました。」  「いずれも、よい名まえ!」と竜があざ笑いました。「だが運のよい数などめったにあてにならないぞ。」  「わたしは、友だちを生きながらうずめ、生きながらおぼらせ、水のなかから生きながらひきあげる者です。わたしは、ふくろのどんづまりから出てきたが、ふくろをかぶっていたわけではありません。」  「どこまで信じてよいものか?」とスマウグがひやかしました。  「わたしは、クマたちの友、ワシたちの客です。また、指輪ひろっ太郎、運のよしお、たるにのるぞうです。」とビルボはつづけていううちに、なぞをかけることにすっかり調子づいてきました。  「それは、なかなかおもしろい。」と、スマウグがいいました。「けれどもやたらに思いつきに走るな!」  これは、竜に本名をあかしたくないし(それはかしこいことです)、といって、すげなくことわって竜をおこらせたくもない(それは、とてもかしこいことです)場合、竜に話す話し方です。どんな竜でも、なぞめいた話にはひかれ、それをわかろうとして時をついやすおもしろさに、さからうことができません。スマウグにはまるでわからないことだらけでしたが(ビルボののべた話のなか、名まえのなかに、ビルボの通ってきた冒険のかずかずがおりこまれていることは、ごぞんじのとおりです)、スマウグは、よくわかったように考えて、ねじまがった心のなかで、ほくそえみました。  「ゆうべ、そう思ったとおりだ。やっぱり湖のやつらだった。あのみっともないたる売りの湖のやつらの、ばかなさしがねだ。さもなければ、おれもただのトカゲさ。もうだいぶ長いこと、あっちへ行ったことがないな。じきにあそこを一変させてくれるわい!」  「おもしろいな、たるにのるぞうよ!」と、竜が大声でいいました。「たるというのは、きさまの小馬のことだろう。でないとしても、あの小馬は、よくふとっていたな。きさまは、すがたを見せずに歩くというが、道中ぜんぶ歩くわけでもなかろう。教えてやるが、ゆうべは六ぴき小馬をくった。そのうち八ぴきつかまえて、くってやる。うまい肉のお礼に、きさまにききめのある忠告を一つくれてやるぞ。いいか、きさまが力をかしてやっている、ドワーフどもと、これ以上つきあうな!」  「ドワーフ、ですって?」と、ビルボは、おどろいたふりをして、いいました。  「かくすな!」とスマウグがいいました。「おれは、ドワーフのにおいは(味も)よく知ってる。あれよりいいものはないぞ。いいか、ドワーフどもの乗った小馬を食べて、それがわからないなどといえると思うか。きさまが、あんなやつらとつきあっていれば、いいか、どろぼうのたるにのるぞうめ、きさまのさいごは、みじめだろうぞ。帰って、ドワーフたちに、おれからの言葉をそのとおりにきかせても、かまわんぞ。」けれども、竜は、ホビットのにおいがあてられないでいることを、おくびにも出しませんでした。ホビットというものをまだかいだことがなく、ひどくふしぎでなりません。  「どうだ、ゆうべはあのカップを売って、しこたまもうけただろう?」竜は話しつづけました。「どうだ、こっちへ来い。なんでもないぞ。まったくあれは、ドワーフどもらしいやり方じゃないか。やつらはよそでずるけていて、あぶない仕事はきさまがやる。それできさまは、おれさまが、その、見張っていない時に、ぬすめるものをぬすんだ。ところで、わけまえは、よかったか? だまされるなよ! 生きて帰れりゃ、しあわせだぞ。」  ビルボは、なんとも気味わるく感じはじめていました。スマウグのぎょろぎょろする目玉が、かげにひそむホビットをもとめてたまたまビルボのところにひらめくたびに、ビルボはぎょっとしてふるえました。そして、わけのわからないへんな気持ちにとらえられて、走り出て、正体をあらわし、スマウグにほんとうのことをぜんぶぶちまけて白状したくなりました。じつはこの時ビルボは、竜のまじないにかかりそうなおそろしい危険にさらされていたのです。けれども勇気をふるいおこして、ビルボはふたたびこう話しました。  「あなたは、ぜんぶ知っているわけではありませんね、力たけきスマウグどの。わたしどもをここにつれてきたのは、金ばかりではないのです。」  「ハッハ! それ、わたしどもといったな。」と、スマウグが笑いました。「なぜ、わたしども十四人といわないのか。運のよい数どの。おれの金をぬすむほかに、このあたりで何かほかの仕事をなさるとは、うれしい話だな。ぬすみのほかの仕事なら、きさまもきっと、てまひまがはぶけることだろう。  かりにきさまが、すこしずつ、おれの金をぬすむことができたとしても(そいつは、百年もかかる仕事だぞ)、それを遠くへ運べまい? そこをすこしは考えてみたことがあるか? 山のなかでは、役にたつまい。森でもだめだろうて。やれやれ。分捕品のしまつは、考えてあるのか? 十四分の一のわけまえとか、なんとか、そんなとりきめをしたんだろうが? ではそれを運ぶ方法はどうだ? 荷車はあるのか? 武装した番人どもは、またいろいろな手数料は、どうなっている?」こういって、スマウグは、大声で笑いました。竜はいんけん悪らつな心を持っています。いまスマウグは、自分のあてずいりょうが、あまりはずれていないことを知りました。もっとも竜は、湖の人間たちがこのくわだてのうしろにいて、うばいとったものはほとんど、湖の町に持っていかれるものと、かんぐっていました。湖の町は、むかし竜が若かったころ、エスガロスとよばれていました。  みなさんは、そんなことを信じないでしょうが、あわれなビルボは、ふいをつかれて、たじたじとなりました。これまでのビルボの考えも努力も、すべて山にとりつくこと、山へはいる入口を見つけることに集中していました。とった宝ものをどうして運んだらいいかとか、ましてや、自分のわけまえとしてもらうはずの分をどのようにしてふるさとの山の下の袋小路まで持って帰ろうかなどと、あれこれ考えてみたことがなかったのです。  ここで、ばかげたうたがいの念が、むくむくとビルボの心にめばえました。いったいこんなたいせつな点をドワーフたちは忘れていたのか? ひょっとすると、ドワーフたちはいつもビルボをこっそり笑っていたのではあるまいか?──というのです。もちろん、そこが竜のつけめで、竜の話になれない者のひっかかるところです。もちろんビルボが、用心してかかればよかったのです。けれどもスマウグは、とらえたらはなさないたちでした。  「よくおききなさい。」ビルボは、自分の友だちをうらぎらないように、目的を見失わないようにがんばりながら、竜にいいました。「金などは、わたしたちの目的のつけたしです。わたしたちは、山の上をこえ、下をくぐり、波をおかし風をわけて、ふくしゅうのために来たのです。おお、みつもれぬほどの富をもつスマウグどの、あなたがその富をかちえたかげに、うらみをいだく敵を作ったことをごぞんじでないはずはない。」  するとスマウグは、またはげしく笑いました。その荒々しいひびきは、ビルボを床にたおし、はるかトンネルの上のドワーフたちをよりそわせて、ホビットがとつぜんあわれなさいごをとげたのではないかと、心配させました。  「ふくしゅうだと!」竜はうなり、両眼の光が、まっ赤ないなずまのように、床から天井まで広間じゅうをかっと照らしました。「ふくしゅうとな。山の下の王は、死んだ。して、ふくしゅうをもくろむほどの勇気のあるそのあとつぎは、どこにいるのか? 谷間の町の領主ギリオンも死んだ。おれは、あの町の者どもを、ヒツジのむれにはいったオオカミのようにくらいつくした。おれに近づこうとする勇気のある、ギリオンの孫どもは、どこにいるのか? おれは、どこでもだれでも殺してやる。おれにはむかう者はない。そのかみの戦士たちさえ、うちたおしたのだ。きょうこのごろはあれほどの戦士たちはいまい。しかもあの時おれは、ひわひわとして、若かった。今おれは年おいて、強いのだ。おぼえておけ、おれは何よりも強いのだぞ。かげにひそむどろぼうめ!」竜は、得意によいしれていました。「おれのうろこは、十重のたて、また、歯はつるぎ、爪はやり、尾の一ふりは 雷 をおこし、つばさはあらしをよび、はく息は、すなわち死だ!」  「わたしがつねづね、ききおよびますところでは、」とビルボは、おそろしさのあまり金切声でいいました。「竜というものは、下はやわらかいそうで、とくに、その、胸のあたりですか、よわいといいますが、これほどけんごにかためていらっしゃる方は、もちろんそのことをよくお考えなのでしょうね。」  竜は、しばらく、気炎をあげるのをやめました。「きさまの知識は、古くさいぞ。」と竜はがみがみいいました。「からだの上も下も、鉄のうろこ板とかたい石ですっかり、よろってある。どんなかたなでも、切れるものか。」  「わたしも、そうではないかと思っておりました。」とビルボがいいました。「刃物の通らぬスマウグどのにくらべられるような方は、どこをさがしても見つかりますまい。すてきなダイヤのチョッキをつけていらっしゃるところは、どんなにすばらしいことでしょう!」  「そうとも、まことにこれは世にたぐいなく、たえなるものだ。」とスマウグは、やたらによろこんでしまいました。竜は、ホビットがこの前来た時にもう、竜のかわった腹がけをすばやくのぞいていたことを知らず、今もビルボが自分のわけがあって、それを近くから見ておきたくてむずむずしていることを知りませんでした。竜は、ごろりとあおむけにころがりました。「見ろ!」と竜はいいました。「どうじゃ!」  「目もあやなるすばらしさ、非のうちどころなし、完全無欠、ぼうぜんといたします!」とビルボは、声をかぎりに、ほめたたえました。けれども心のなかはこうでした。「このばかじじいめ、なんとまあ、左の胸さきに大きな穴があることよ。まるで、からから出たカタツムリのように、からだがむき出しじゃないか!」  これを見とどけてしまった以上、わがバギンズ君の思いは、ひたすらにげ去ることだけでした。「では、この上、あやにかしこきとののおじゃまをすることもかないますまい。」とビルボはいいました。「もっとおやすみになることが必要でしょうから。ところで、小馬にしても遠くへいこうとする時には、どっさりいただくものです。忍びの者もおなじこと。」ビルボは、おわかれの一発をくらわせて、さっとあともどりして、トンネルににげのぼりました。  これは、運の悪い一言でした。たちまち竜は、ビルボのうしろに、すさまじい炎をあびせ、ビルボが坂をどんなに速くかけあがっても、身の毛のよだつようなスマウグの顔が、出口の穴にさしこまれ、ビルボをおびやかしてやみませんでした。さいわい、竜の首がすっぽりはいらなかったので、つき出た鼻から、ビルボのあとに火と蒸気を送りました。ビルボは、あやうくやられるところでしたが、いたみやらおそれやらで、むがむちゅうになって、よろよろとにげました。それまでビルボは、スマウグと話をかわして、うまいことをいってやった、と得意がっていましたのに、さいごにおかしたまちがいが、ようやくビルボに分別をとりもどさせました。  「竜の目の前で、あざわらうなかれ、おろかなビルボよ!」こうひとり言をいいましたが、この言葉は、後の世にビルボの警句となり、やがてことわざとなって伝わりました。「まだまだ冒険はきりぬけられないぞ。」と、ビルボはつけ加えていいましたが、それは、まぎれもない事実でした。  その午後も夕がたになるころ、ビルボはふたたび、入口にたどりつき、よろめいて、「入口の階段」で気を失ってたおれました。ドワーフたちが、息をふきかえさせて、できるかぎりじょうずにやけどの手あてをしました。けれども、ビルボの後髪とかかとがもとどおりになおるまでには、だいぶ長いことかかったのです。ひふまでやけてしまったからでした。そのあいだ、仲間たちは、力のかぎりビルボを元気づけようとつとめました。みな、ビルボの話をききたがり、ことに、どうして竜があんなおそろしい音をたてたのか、またビルボがどのようにしてそれからにげたのか、そのしだいを知りたがりました。  けれども、ホビットは、すっかりつかれていて、からだがまいっていました。一同は、いまビルボからききだすのはむずかしいと思いました。それに、いまふりかえって考えてみますと、ビルボは竜にしゃべった事がらのなかに、しまったと思うところもあって、それでドワーフたちに、すぐに話す気になれなかったのです。れいのツグミは、首を一方にかしげて、近くの岩にとまったまま、ここでの話をぜんぶきいていました。ビルボは、むしゃくしゃしていたものですから、石をつかんで、ツグミに投げつけました。ツグミはちょいとわきへよけて、もとへもどりました。  「いまいましい鳥め。」ビルボがおこっていいました。「こいつは立ちぎきしてるにちがいない。あのようすが好かない。」  「ほっときなされ。」とトーリンがいいました。「ツグミは、よい鳥、人なつこい鳥じゃ。それに、これはたいへん年とっておるし、ひょっとすると大むかしこのあたりに住みついていた古いツグミ族のすえかもしれんぞ。それは、わしの父や祖父になついて、よく手の上にのったものじゃった。ツグミというのは、長生きの、魔力のある鳥でな、これもあの時から二百年かそこら、生きてきたやつかもわからん。谷間の町の人々は、この鳥の言葉のわかるすべを心得ていて、この鳥を使って湖の町の人々やそのほかの土地の人たちとしらせをとりかわしたもんじゃ。」  「では、この鳥がその気なら、このしらせを湖の人にうまくつたえてくれますね。」とビルボがいいました。「もっともあの町に、骨をおってツグミの言葉をわかろうとしている人がいるとは思いませんが……。」  「いったい、どんなことがあったんです?」と、ドワーフたちがみな大声でたずねました。「どうか、ちく一、話してみてください。」  そこでビルボは、おぼえているかぎりくわしくいっさいを話しました。そして、自分がなぞをかけるいいかたをしたせいで、野宿のことや小馬たちのことをだいぶあてられてしまったのは、ばかげた軽はずみのためだったことも、かくさずに白状しました。「わたしたちが、湖の町からやってきたことも、あそこで力をかりたことも、竜はたしかに知っていると思います。それで、竜はつぎにあちらをおそうのではないかという、おそろしい予感がするのです。たるにのるぞうなどと、いわなければよかった。あれでは、どんなとんまにでも、湖の人のことを考えつかせてしまう。」  「まあまあ、いいじゃないか。それはしかたなかったんだし、竜にしゃべる時は口をすべらさないようにする方がむずかしいものだそうだからね。」と、バーリンが一心にビルボをなぐさめました。「わたしの考えでは、君はほんとに、よくやったと思う。とにかく一つはとても役にたつことを見つけだして、ちゃんと生きて帰ったじゃないか。それは、スマウグのたぐいと言葉をかわしたことのあるのを鼻にかけてる連中よりずっとすごいよ。あんなゲジゲジ野郎の腹がけの、むきだしの穴を見つけたのは、天の助け、運のめぐみというものだろう。」  こういったので、話のむきがかわって、みんなはいっせいに、竜退治のことを熱心に話しあいました。歴史に残るもの、多少うたがわしいもの、または遠い神代のいい伝えになっているものをとりあげてみたり、さすの、つくの、えぐるのといういろいろなわざや、これまでに作りあげてきたあの手この手のさくりゃくのかずかずを論じたりしました。そしておちついたところは、竜の寝ているすきをつくのは、いうほどらくではなく、ぐっすり眠っているやつをついたりさしたりしようとすれば、まっ正面から勇敢にぶつかるよりも、かえってひどいめにあうのがおちではないか、ということでした。みんなが話しているあいだじゅう、ツグミはじっときいていましたが、やがて、星々がちらちらのぞきはじめるころになると、音もなくつばさをひろげて、飛び去っていきました。なおもみんなが話しつづけるうちに、日かげがいよいよ長くなり、それとともにビルボはしだいに心がしずみ、いやな虫のしらせが強くなりました。  とうとうビルボは、話にわってはいりました。「ここにいては、じつにあぶないと思います。それに、ここにすわっていて、いいはずがない。あの竜は、見て楽しい緑の草地は全部からしているし、とにかく夜がやってくれば、寒くもなる。なによりもわたしには、この場所がまたかならずおそわれると、ひしひし身にこたえるんです。スマウグはもう、わたしが広間におりていった方法を知っていますし、このトンネルの入口がどこかぐらいけんとうがつくでしょう。やつはかならず、山のこの方面をこなごなにくだいて、わたしたちの入口をふさごうとするでしょう。そのさいわたしたちがつぶされれば、竜には思うつぼなんだ。」  「それは、あまり暗い見方にすぎるわい、バギンズどの!」とトーリンがいいました。「スマウグが、わしらをしめだそうというのなら、どうして下の方の出口の穴をふさがないのじゃ。げんに、ふさぐ音をきいてないから、それをしておらん。」  「わたしにはわからない。どうもわかりません。きっとはじめは、わたしをふたたびおびきよせてつかまえようとしたのでしょう。そしていまは、今夜の山がりのあとまで待つつもりか、自分のねぐらにきずをつけたくないからでしょう。だがこうしてそんなことを論じていてはだめです。スマウグは、いまこの時にもやってくるでしょうし、わたしたちのただ一つの道は、トンネルのなかににげこんで、岩戸をしめきることですよ。」  ビルボがあまり必死の色をうかべていいますので、ドワーフたちもついに、ビルボのいいなりにすることにしましたが、岩戸をしめてしまうことは、ためらわれました。それはあまりにすてばちなやり方のように思われました。なにしろ、だれも、うちがわから岩戸をあけるあけ方を知りませんし、ただ一方の出口が竜のねぐらに通ずるような場所にしめこまれるということが、やりきれなかったのです。その上、トンネルのそとも、トンネルのおくも、どちらもいっさいのものがしずまりかえっているようにみえました。そこで、かなり長いあいだ、一同は半分あけた岩戸のすぐうちがわのあたりにすわって、話をつづけていました。  話は、ドワーフについて竜がのべた腹黒い言葉にふれました。ビルボは、竜の言葉をきかなければよかったのにと思いました。またいま、宝ものを手にいれてからどんなことになるのかはちっとも考えたことがないというドワーフたちの断言をきいて、ビルボはドワーフたちがほんとうに正直なのだということを信じたいと思いました。「わしらは、これが、必死の冒険になるじゃろうと思っておった。」とトーリンがいいました。「そして、今もそう思っとる。ところでわしは、宝を手にいれたあかつきには、そのわけかたをゆっくり考えるひまも生まれるだろうと考えているんじゃ。あんたのわけまえについてはのう、バギンズどの、はっきりうけあうが、わしらはしんから感謝しとるし、わけるだけのものを手にいれしだい、すぐに十四分の一とっていただこう。その宝を国もとへ運ぶご苦労は、さぞたいへんじゃろうとおさっしする。いろいろのなんぎも大きかろう。どの土地も、これから時がたつにつれてひらかれていくかといえば、その反対じゃ。じゃが、わしらは、あんたにできるかぎりのことはする。また、費用も分担して、はらえる時に、はらうことにいたそう。わしの申すことを、信じようと信じまいと、そちらのかってじゃが……。」  このことからつぎに話は、そのたいした宝の山の話、トーリンとバーリンがおぼえている一つ一つの宝の話にうつりました。ドワーフたちは、その宝が下の広間にまだそこなわれないで残っているかどうかをあやぶみました。大王ブラードルシン(このひとはずいぶんむかし死んだ王です)の軍隊のために作られた槍は、槍先に三度きたえた穂をつけ、柄には黄金細工をはめこんでありますが、とうとう軍隊にもとどけられず、費用もはらってもらえませんでした。むかし死んだ戦士たちの使ったたて、スロールの金の大さかずき、このさかずきは、取手が二つあって、花や鳥が浮彫りにしてあり、鳥の眼や花びらは宝石です。金銀をかぶせて、たちきれないように作ってあるくさりかたびら、谷間の町の領主ギリオンの首飾り、これは草葉のような緑色の五百このエメラルドをつづったもので、領主の長男が元服にあたって、ドワーフつづりのくさりかたびらをつけた時の記念にあたえたかざりの首飾りです。またそのくさりかたびらというのが、今までこれほどの細工はできたためしがないというしろもので、なにしろまじりけなしの銀ばかりを三重のはがねのつよさに作りあげたものです。  とはいえ、あらゆる宝もののうちでいちばんすばらしいものは、白くかがやく大宝石で、これをドワーフたちは、山の底根で見つけたので、山の精髄のこりかたまったもの、スラインのアーケン石といいました。  「アーケン石、ああ、アーケン石よ!」とトーリンは、夢みるようにひざの上にあごをのせて、くらやみのなかでつぶやきました。「千の切りだし面をもった大きな球じゃった。火をうければ白銀のごとく、日の光にかざせば水のごとく、星々の下で見れば雪のごとく、月の光をあびて雨のごとく、かがやいたものよ。」  けれども、宝ものがほしいという魔法にかかったような気持ちは、ビルボから消え去っていました。ドワーフたちがむちゅうになっている話も、うわのそらできいていました。ビルボは戸のすぐそばにすわって、おもてのどこかに何か小さな音がおこらないかと、一方の耳をじっとそとにかたむけ、もう一方の耳もそばだてて、ドワーフたちのこそこそ話のむこうに、下の方でおこる動きのことりとするひびきでもききつけようとしていました。  くらやみはますます深まり、ビルボの不安はいよいよはげしくなりました。「岩戸をぴったりしめよう!」とビルボは、ドワーフたちに熱心にすすめました。「骨のずいまで、あの竜がこわい。ゆうべの荒れざまよりも、今のしんとしているようすの方が、ずっといやだ。手おくれにならぬように、岩戸をしめよう!」  その声にひそむうったえが、ドワーフたちに、こうしていられない気持ちをうえつけました。ゆっくりとトーリンは、自分の夢をふりおとして立ちあがり、岩戸がしまらないようにしていた石をけとばしました。それからドワーフたちは戸をおして、ピシリ、ズシン! としめてしまいました。うちがわにはかぎ穴のあとがありません。一同は山のなかに、とじこめられたのです。  それから、ほんのしばらくの間もありませんでした。一同がさほどトンネルのおくにひなんしないうちに、森のカシの木でこしらえた城をぶちこわす破城つちという大がかりなつちを、大男たちがうちあてたようなおそろしい一うちが、ドーンと山腹をたたきました。岩のむれはなりとどろき、岩壁はくずれ、岩くずが、天井から一同の頭におちました。岩戸がまだあいていたら、はたしてどうなったことか、考えてもおそろしい話でした。一同は、命からがらトンネルのおくへにげのびましたが、そのあいだにも、うしろのおもての方で、スマウグのいかりにまかせてほえたける声とあれくるう音がきこえてきました。スマウグは岩をこなごなにくだき、岩壁や崖を大きな尻尾でたたきくずしたので、一同が野宿をした山腹の小さな岩場も、やかれた草場も、ツグミの石も、カタツムリのはいまわっていた穴の壁も、あのせまい岩だなも、どこもかも、こっぱみじんのごたごたになって消えうせ、こなごなになった石の大きななだれが、下の谷めがけて崖をどっと落ちていきました。  スマウグは、音をたてぬ忍び足でねぐらをはなれ、静かに空中にまいあがって、とほうもなく大きなカラスのように重くゆるくくらやみにただようと、気がつかないでいるやつらをつかまえて、どろぼうのつかった道の入口をさぐってやろうと、山の西がわへ風にのってきたのです。そしてそこに、だれも見つけず、あの入口がここにあるにちがいないと見こんだところに、何もさがしだせなかった時に、スマウグのいかりが、ばくはつしたのでした。  竜はこんなふうに、いかりにまかせてくるったあとで、いくぶん気がはれ、もうこっちがわからねぐらをおそわれることはあるまいと、心に思いました。そのうちにスマウグは、さらにふくしゅうの手をひろげることを考えました。「たるにのるぞうめ!」と竜は鼻息をふき出しました。「きさまの足あとは、川岸から来た。あきらかに川をさかのぼってきたのだ。おれは、きさまのにおいを知らないが、もしきさまが、湖のやつらのひとりでないとしても、どうせ、あそこのやつらの助けはかりただろう。やつらに、このおれをおがませて、山の下のほんとうの王がどなただか、思いださせてくれるぞ!」  竜は、火柱となって空にのぼり、南の方へ早せ川をめざして、飛んでいきました。 13 竜のいぬまに  いっぽう、ドワーフたちはやみのなかにうずくまり、そこにひそとも音をたてず静かにこもりました。ほとんどものを食べず、ほとんどものをいいませんでした。時間のたつのをはかることができず、また、身動きすらはばかられました。どんなささやき声も、トンネルにこだまして、がらがらひびくのです。うとうとすることはありましたが、音のしないやみをかき乱さずに、じっと目をあけていました。こうして、まるでいく日もいく日もすごしたように思われましたが、空気がたりなくて息がつまり、頭がぼんやりしてきて、とてもがまんができなくなりました。そうなるとむしろ竜がもどってくる音が下からきこえるのを、待ちうけたいような思いがしました。なにも音のしないところでは、竜のずるがしこいたくらみを考えておそろしかったのですが、それにしても、ここに永久にすわっているわけにいきません。  トーリンがいいました。「入口の戸をあけてみよう。すぐにも顔に風をあてなければならん。さもないと死んでしまうわい。わしはいっそ、ここで息がつまって死ぬよりも、ひろびろとしたところへ出て、スマウグにつぶされた方がましじゃ。」そこで、いくたりかのドワーフたちが立ちあがって、手さぐりしながら、岩戸のしまっているあたりへもどってゆきました。けれどもそのトンネルの上のゆきづまりは、われた岩でがっちりととざされているのがわかりました。前には使えたかぎも魔法も、二度とこの入口をあける役にたたなくなってしまったようでした。  「わなにおちた!」とドワーフたちは、うめき声をあげました。「もうおしまいだ。ここで、死ぬんだ。」  ところが、どういうものか、ドワーフたちが失望のどんぞこにおちいっていたその時に、ビルボは、ふしぎな心のはずみをおぼえました。まるで重いしこりが、チョッキの下から消えてしまったような気持ちです。  「さあ、みんな!」とビルボはいいました。「『命あるかぎり、のぞみあり』と、よく父がいったものです。また『三度めの正直』ともいいました。わたしはこれから、もう一度トンネルをおりていくつもりです。すでに二度おりていきましたが、その時はあっちの出口に竜がいることをはっきり見ておきました。今度は三度めの物見をやってみます。今度はどうなるかわかりません。とにかくおりていくしか、道はない。そして今度は、みなさんもわたしといっしょにくる方がいいと、思います。」  もうあとへひけない気持ちで、みんなはうなずきました。そしてトーリンは、ビルボとならんで先頭に立ちました。  「さあ、じゅうぶん注意してください。」とホビットはささやきました。「できるだけ、静かにねがいます。下にはきっとスマウグがいないでしょう。でもいつやってくるかわかりませんからね。いらざる危険をまねかないようにしましょう。」  下へ下へと、一同はおりました。もちろんドワーフたちには、ホビットほどの忍び足ができずに、かなりふうふういったりばたばた足音をたてたりして、それがおどろくほど大きくこだましました。しかし、ぞっとしたビルボがしじゅう立ちどまっては耳をすませてみましたが、下の方でがさがさする音は一つもきこえてきません。もうじき底かと思われるころ、ビルボは指輪をはめて、さきに進みました。けれども、その必要はありませんでした。あやめもわかぬしんのやみでは、指輪をはめようが、はずそうが、だれのすがたも見えません。じっさいまっくらでしたから、思いがけぬうちに出口から出てしまい、手が空をつかんで、前へつんのめって、広間のなかへまっさかさまにころがりこみました。  広間の床に顔をつけてのびたまま、ビルボは、おきあがる勇気もなく、息をこらしていました。けれども、何も動きません。あかりのちらりとするけはいもありません。でも、ようやくビルボがおそるおそる頭をあげてみますと、すこし上の方、ややはなれたくらやみのなかに、ぼうと白っぽいかがやきが見えたように思われました。竜のなまぐさいにおいは、しつこく残っていて、湯気の味がまだビルボの舌に感じられましたが、この光は、竜の火の火花ではありません。  とうとうバギンズ君も、しんぼうをきらしてしまいました。「ちきしょう、スマウグ、この長虫野郎!」とビルボは、うわずった声でさけびました。「かくれんぼうなんかやめろ、出てこい! あかりをつけて、つかまえられるものなら、つかまえてくってみろ!」  よわよわしいこだまが、何も見えない広間のなかをころげまわりました。けれども、何の答えもありません。  ビルボは、おきあがって、どっちの方角をむけばいいのか、わからなくなりました。  ビルボはつぶやきました。「それじゃいったいスマウグは何をやっているんだろう。やつはきょう(あるいはいまは夜で、今晩かもしれないが、どっちでもいい)ねぐらにいないことは、たしかだ。オインとグローインとが、ほくち箱をなくしていなかったら、わずかなあかりがともせるだろうし、運がよいうちに、あたりが一目見られるだろう。」  そこでビルボは、さけびました。「あかりを! だれか、あかりをつけてくれないか?」  もちろんドワーフたちは、ビルボが広間のなかへ、もんどりうってたおれおちた時には、ひどくおどろき、ビルボがとびだしたトンネルの出口に、かたまりあって、すわってしまいました。  「しーっ、しーっ!」ドワーフたちは、ビルボがどなるのをきいて、だまらせようとしました。ビルボには、その声が、一同のいる場所を知る手がかりにはなりましたけれども、一同を動かして、自分のほしいものを手にいれるのに、まだ時間がかかりました。そしてとうとう、ビルボが床をふみならして、きーきー声をできるだけはりあげて、「あかりだ!」とどなりだすにいたって、トーリンもこうさんして、トンネルの上の荷物をとりにオインとグローインをつかわしました。  しばらくすると、ちらちらするあかりが見えて、ふたりの帰ってくるのがわかりましたが、オインは、片手に小さなたいまつを持ち、グローインは、わきの下にそのたばをかかえこんでいました。すばやくビルボは、出口の方へ走ってきて、たいまつを手にとりました。けれどもビルボは、ドワーフたちに、もっとたいまつをともして、自分といっしょに来なさいとすすめることはできませんでした。トーリンが用心ぶかく説明するように、バギンズどのは、ただドワーフにやとわれた、うでのよい忍びの者、探偵にすぎないからなのです。もしその役目の人が、わざわざあかりをつけるようなあぶないことをしたいならば、かってにひとりでするがいい。それは自分がっての仕事です。そしてドワーフたちは、トンネルのなかで、忍びの者のしらせを待っていればよい、というわけなのです。そこで一同は、その出口の近くにすわって、見守っておりました。  一同はこうして、ホビットの小さい黒いかげが、小さなあかりをかかげながら、ちらちらと広間の床をかけていくのを、見ました。ビルボが近くに見えるあいだは、ドワーフたちは、ときどきホビットが金のかたまりのようなものにつまずくたびに、キラリとか、チカチカとか光るのを、見かけました。ホビットが広い広間のおくの方へいくにつれて、たいまつのあかりが小さくなりました。それから、空中でちらちらおどりはじめました。ビルボは、大きな宝の山の上にのぼっていたのです。やがてビルボはその頂上に立って、しばらく動きまわっていました。つぎに一同は、ビルボがちょっとのあいだ、立ちどまってかがんだのを見ました。けれども、みんなには、そのわけがわかりませんでした。  それは、山の精髄である、アーケンの石でした。ビルボは、トーリンの話からおして、すぐそれだとわかりました。とはいえ、その石はこんな宝のくらのなかにも、いや、全世界にも二つとないものですから、わからない方がふしぎです。ビルボが宝の山へのぼるあいだ、例の白いかがやきが、前の方に光っていて、いやおうなく足をひきつけたのでした。しだいに光はかがやきをまして、ぼうと青白い光を放つ一この玉となりました。今そのそばに来てみると、ビルボのたいまつの火のゆらめきにはえて、石のおもては、虹のようにちらちらとさざなみだつあらゆる色あやに彩られています。今ビルボは、宝石の上に立ってのぞきこみ、思わず息をのみました。すばらしい宝玉が足もとに、うちがわから発する光を放ってかがやいています。ドワーフたちがそのむかし山の奥根からこの石を掘り出し、切りきざみ、みがきあげてできたこのアーケンの石は、その上に落ちるあらゆる光をおさめて、虹の多彩をまじえたさんぜんたる白光の千万の滝にかえてしまうのです。  その魔力にひかれて、ビルボの手がふと宝石の上にのびました。その小さな手では、とうてい石をおおうことができません。それほどその石は大きく、また重かったのです。けれども、ビルボは、目をつむって、石を持ちあげ、ポケットのおくに、しまいました。  「いよいよ、わたしはほんもののどろぼうだ。」ビルボは、心でこう思いました。「けれども、わたしはきっと、このことをドワーフたちにいおう──いつの日にか。ドワーフたちは、わたしのわけまえはわたしが自分でえらんでいいって、確かに、そういったんだ。みんなが、この残りのすべてをとったとしても、わたしのわけまえは、これだと思う。」とはいえ、同時にビルボは、えらんだりとったりするといっても、このすばらしい石はそれにはいらないのではないだろうか、きっといつかは、このためにやっかいなことがおこるのではなかろうか、といういやな感じもいだいたのです。  ビルボは、ふたたび動きはじめました。宝の山を、のぼったのとはんたいがわにおりましたから、たいまつの光が、ドワーフたちの見守る目からしばらく消えました。けれどもまもなく、一同は、ふたたび、はるかにはなれた遠くに火を見つけました。ビルボは広間をわたりきったのです。  ビルボは広間のはじの大きな別の入口に出ました。そこに吹きこむすきま風は、ビルボを元気づけましたが、たいまつは吹きけされそうになりました。おずおずとそのそとをうかがってみますと、大きな通路があり、広い階段があるのが、ぼんやりと見えました。広い階段はやみのなかへのぼっています。そしてやっぱり、スマウグのすがたも音も、まったくありません。ビルボがひっかえそうとしてふりむいた時、何か黒い影がビルボにおそいかかり、顔をなぜました。ビルボは、キャーとさけんでとびあがると、うしろによろけて、たおれました。たいまつがさかさまに落ちて、消えました。  「なんだ、ただのコウモリじゃないのか!」とビルボは、しょんぼりしていいました。「でも、どうしたらいいだろう? どっちが東か、南か北か、また西だろうか?」  「トーリン! バーリン! オイン! グローイン! フィーリ! キーリ!」とビルボは、できるだけ大声をだしてよびました。でも、このくらやみの広さのなかでは、か細い小さな音のようでした。「あかりが消えたよう! だれかわたしをさがして、助けてください!」この時のビルボは、勇気がすっかりくじけていました。  かすかに、ドワーフたちは、この小さいさけび声をききつけました。けれども、耳にはさむことができた言葉は「助けてください!」という言葉だけでした。  「いったいぜんたい何事がおこったのじゃろう?」とトーリンがいいました。「たしかに竜のせいじゃないわい。もしそうなら、あんなさけびをあげるはずがない。」  一同は、しばらくまちました。それでも竜のけはいはありませんし、遠くのビルボの声のほかに、なんのもの音もきこえません。  「よし、だれかひとり、あかりを持っていってやれ。」とトーリンが命じました。「ここは、わしらが出むいて、わしらの忍びの者を助けなければならんようじゃ。」  「今度助けるのは、わたしたちの番です。」とバーリンがいいました。「だれよりもまず、わたしがいきましょう。とにかく、まだしばらくは安全だと思います。」  グローインが、さらにいく本かのたいまつに火をつけました。それから一同は、ひとりまたひとりと、出口からぬき足さし足で広間へ出ていき、できるだけ急いで壁のきわを歩いていきました。それほどたたぬうちに、一同は、みんなの方へめざして来たビルボそのひとと、であいました。ビルボの頭のはたらきは、ドワーフたちのあかりのまたたきを見るが早いか、もとどおり早くなったのです。  「コウモリが出て、たいまつが落ちた。ただそれだけですよ。」ビルボは、みんなの質問ぜめに答えて、そういいました。それで一同はだいぶ安心はしましたけれども、たいしたこともないのにおどかされたことを、内心ふんがいしたようすでした。でも、もしビルボがこの時にアーケンの石のことをうちあけたら、みんなはどういったでしょう。ドワーフたちは、歩いてくるとちゅう、宝ものにちらちらと流し目をくれただけで、はやドワーフもちまえの心の火がかきたてられていました。どんなにりっぱなドワーフの心でも、黄金や宝石にふれると、とたんにむこうみずになり、時にはさいげんもなく荒々しくなるものなのです。  ドワーフたちには、もうほんのさそいをうける必要もありませんでした。誰もかれも、チャンスのあるあいだに、広間をさがし歩きたくてたまらなくなり、スマウグがねぐらをはなれて遠くにいるものときめこんでいました。そしてめいめい、あかりのついたたいまつをにぎり、まずこちらがわを見、つぎにあちらがわをさぐりするうちにしだいにこわさを忘れ、用心さえもなくしました。一同は声高にしゃべり、たがいによびあって、床や壁から古い宝ものをとりあげると、あかりにかざしてみて、時にほおずりしたり、指でなぜたりしました。  フィーリとキーリは、もううかれださんばかりで、いまも、銀の糸をはった金のたてごとがたくさんかかっているのを見つけますと、さっそくたてごとをとって、かなでました。たてごとには魔法の力が残っていて(それに音楽に興味のない竜がふれなかったせいもあって)、いまでも、曲をかなでました。暗い広間には、ひさしくうたわなかった楽の音色がたちこめました。けれどもドワーフたちの大部分は、もっとそろばん高くて、宝石をよりわけて、ポケットにつめこみ、もう持っていけない分を、ため息まじりに指から落としていました。トーリンはこういう者にはまじっていませんでした。とはいえ、トーリンもはじからはじまで何かをさがしまわっていて、まださがし出せないでいました。もちろんそれはアーケンの石でした。けれどもトーリンは、だれにもそのことをもらしませんでした。  そのうちにドワーフたちは、よろいや武器を壁からおろしてきて、からだにつけました。トーリンなどは、堂々とした王家の者に見えました。そのありさまは、黄金の小札をつらねたよろいかたびらに、ひ色の宝石をうった広はばのバンドをしめ、そこに銀の柄をすげたまさかりをおびておりました。  「バギンズどの!」とトーリンは呼びました。「ここに、あなたにお礼する、はつの引出物がありますぞ。その古ぼけた上着をすてて、これをつけなされ。」  こういってトーリンは、ビルボに、そのむかしだれかエルフの若殿が着たと思われる、小さなくさりかたびらを着せてくれました。そのさまは、白銀色のはがねをつらね、それに真珠の玉でよそおったくさりかたびらに、真珠と水晶をぬいつけたバンドをしめ、頭には、下にはがねのはちまきをいれて強め、上にはふちどりに白玉をうってよそおった、あやどりある皮の軽いかぶと、というよそおいでありました。  「りっぱになった気がするな。」とビルボは思いました。「でも、身のほどしらずでばかげて見えるかもしれないぞ。ふるさとのお山では、となり近所がどんなに笑うだろう。そばに鏡があったらなあ!」  それでもバギンズ君は、ドワーフたちのように宝ぐらの魅力にとりつかれてしまわないように、頭をひややかにしておきました。ドワーフたちが宝しらべにあきる前に、ビルボはもううんざりして、床の上にすわりました。そして、心のなかで、こんなごたごたごとにどう終わりがつくだろうかと、やりきれない気持ちで考えはじめました。「ああ、あのビヨルンの木のどんぶりから、元気づけのうま酒をいっぱいでも飲めたら、ここにある金銀の大さかずきをいくらでもくれてやるのに、なあ。」とビルボは思いました。  「トーリン!」とビルボは声高にさけびました。「これからどうします? わたしたちはみなよろいをつけました。けれども、どんなによいよろいを着こんでも、おそろしきものなるスマウグめに、立ちむかえるものでしょうか? この宝ものも、まだどうすることもできません。今は黄金をもとめる時でなくて、にげる道をさがす時なのです。これではあまり幸運にたよりすぎませんか?」  「あなたのいうのは、まことじゃ!」とトーリンも、正気にもどりました。「では、まいろう! わしが案内する。千年もたたぬうちに、この宮殿のなかの道を忘れるはずがないわい。」こうしてトーリンはドワーフたちに呼びかけ、ドワーフたちはより集まって、たいまつを頭上にかかげ、いくどもいくどもふりかえって宝ものをおしみながら、大きな入口を通っていきました。  ドワーフたちは、きらびやかなくさりかたびらの上に、もとのマントをふたたびはおり、かがやくかぶとの上に、ちぎれた頭巾をかぶせて、ひとりまたひとりとトーリンのあとにつづき、くらやみのなかに点々とつづく小さなともしびの列となって進んでいきましたが、ときどき、竜のやってくるけはいはないかと、おそれにかられて、耳をかたむけながら立ちどまるのでした。  むかしの部屋飾りはいたるところ、ひさしくかびがはえて、こわれていましたし、あの怪物が出入りするので、よごしたりこわしたりしていますのに、トーリンは、どの通路もどのわかれ道もよく知っていました。一同は長い階段をのぼって、そのさきをまがり、ばかに音のこだまする広い廊下をくだってから、そのさきをまわって、ふたたび階段をのぼり、さらにそのさきの階段をのぼりました。階段は、自然のままの岩をそのまま切り出して、広々と美しく作ったもので、つるつるになっていました。そこを上へ上へとのぼりますが、何のいきもののかげもなく、かげといえば、風にゆらぐたいまつの火が近づくにつれて、ちらちらともの影がうつりゆくばかりです。  階段は、どのみちホビットの足にあわせて作られたものでありません。ビルボがもうこれ以上のぼれないという気になったとたん、天井が一同のたいまつのあかりが照らし出せないほど、高く遠くなってしまって、そのどこか上の方に入口があるらしくて、一すじの白い光がさしこみ、空気がにわかにすがすがしくなりました。一同にふりそそぐその光は、大きなひらき戸のすきまから、ぼんやりともれてくるのですが、その大きな戸はとりつけられた蝶番がねじれてぶらさがり、なかばやけただれていました。  「ここが、スロールの朝見の間じゃ。」とトーリンがいいました。「宴会や会議をもよおした広間じゃ。もう表門は遠くはない。」  一同は、くずれはてたその部屋を通りすぎました。かずかずのテーブルが、あちこちに立ちぐされになりかけています。いすや長いすの類がほうぼうにひっくりかえって、やけたりくさったりしています。たくさんの骨やしゃれこうべが、ブドウ酒びんや大ばちや、こわれた角形のさかずきやちりにまじって、床にちらばっています。その部屋のはずれをしきるもう一つの入口をくぐりますと、水のひびきが、みんなの耳にはいりました。そして思いがけず、うすあかりがさしこんできました。  「ここが、早せ川のわき出ずるみなもとじゃ。」とトーリンがいいました。「ここから、水は表門へ流れつぐ。では、流れについてゆこう!」  岩かべにできた暗いわき口から、川のみなもとは、こんこんとたぎりあふれて、はばのせまい一すじの水路のなかに、うずまきながら流れだしています。水路は、むかしの工人のたくみな手で、深くまっすぐに掘られています。水路のそばに、石板をしきつめた道が、かなりたくさんの人たちがならんでいけるくらい広くのびています。この道にしたがって、一同はかけだしました。そして大きくゆるやかなまがり角をまがりますと、おお、ごらんなさい! 目の前に、さんさんと日の光がふりそそいでいたのです。前面に、背の高いアーチ門がそそり立っています。それも、すりへって、かけくずれて、黒くなっていましたけれど、なお内がわには、むかしの彫刻のあとが見られました。霧にかすむ日の光が、山の尾根のあいだにだかれたここに、白々とした光を投げ、門のしきい口の石板の上に、いくすじかの金色のもれ日をおとしていました。  一むれのコウモリのうずが、ドワーフたちのたいまつの煙に眠りをさまたげられて、ひらひらと飛びすぎました。はずみがちな足が、竜の出はいりでつるつるになった石の上をすべりました。そのうちに、一同の前に川水がはげしい音をたてて滝をつくり、あわ立ちながら谷の方へ流れ出るところにきました。一同は、光のあせたたいまつを投げすて、そこに立って、まぶしい目でそとをながめやりました。やっと表門について、谷間を見はるかしていたのです。  「さて!」とビルボはいいました。「この入口から、こうしてそとをながめようとは思わなかった。それに、ふたたびお日さまをあおぎ、顔に風のいぶきを感ずることが、こんなにもありがたいものとは思わなかった。けれども、ぶるる! この風のつめたいこと!」  そうなのです。身をきるような東風(このあたりでは冬の寒い風です)が、冬のおそろしい先ぶれとなって吹いていました。風は谷に吹きいって、尾根すじにあたって内がわにまわり、岩間にうそぶいていました。竜の住む洞穴のむしむしするおくに長いことすごしたあと、一同は、日の光をあびて身ぶるいしました。  するとだしぬけに、ビルボは、くたびれたばかりでなく、この上なくおなかがへっていることを、思いだしました。「もう、朝もだいぶおそいようですね。」とビルボはいいました。「では、すこしでも朝ごはんのようなものがありましたら、その時間にしたいのですが、……もっとも、スマウグの表門では、安心してごはんのいただける場所とは思えません。しばらく静かにすわれるようなところを見つけようじゃありませんか!」  「ほんとに、そのとおりだ!」とバーリンがいいました。「わたしが、どこへ行ったらいいか、よく知っている。山の南西にあるむかしの見張り台へいくとよいと思う。」  「そこまでどのくらいかかる?」とホビットがたずねました。  「五時間ぐらい歩くと思うね。歩きにくい道だ。門から川の左岸にそってゆく道は、ぜんぶすたれてしまったようだ。でも、あの下の方をごらんなさい。川が、あれはてた町あとの前で急に東の方へまがって谷を横切るでしょう。まがったあたりにむかしは橋があって、それを渡ると、急な階段があって右岸の崖をのぼり、そのさき、からすが丘にいたる道に出る。その道のさきでわかれる小道があって(むかしはあったのですが)、その小道が見張り台にのぼっていく。むかしの切り石段がまだ残っているとしても、かなりひどいのぼりですよ。」  「やれやれ!」とホビットは、ぶつぶついいました。「めしもくわずに、また歩き、またのぼるのか! いったい、時計のない、時間のないあのいやらしい穴のなかで、どのくらいごはんをぬいたことだろう?」  ほんとうのところ、竜が魔法の入口をこわしてから、ふた晩となか一日で、それもまるっきり食べものを食べずというわけでもなかったのですが、ビルボはまったくかぞえることを忘れてしまい、一日も一週間も、どっちでも同じようになってしまったのです。  「さあ、さあ!」とトーリンが笑いながらいいました。トーリンの元気はよみがえっていて、ポケットの宝石をじゃらじゃらならしながら、「わしの宮殿を、いやらしい穴などといってくださるな。まあ、あそこがきれいに掃除され、かざりたてられてごらん!」といいました。  「スマウグが死ぬまでは、そうもいきますまい。」とビルボはまだ、きげんわるく、「こうしているあいだ、あいつは、どこにいるのでしょう? それを教えてくれたら、たっぷり朝ごはんをごちそうするんですがね。とにかく、あいつが、山の上でわたしたちをにらんでいなければいいが……。」といいました。  こういわれて、ドワーフたちはにわかにあわてふためいて、すぐさまビルボとバーリンのいうとおりだということに、意見をまとめました。  「とにかくここをひきはらわなけりゃだめだ。なんだか頭のうしろがわを竜の眼がにらんでいるような気がするよ。」とドーリがいいました。  「ここは、寒くてさみしい場所だ。水は飲めるかもしれないが、食べもののけはいがない。こんな場所では、竜もいつだって腹ぺこだろうな。」とボンブールがいいました。  「さあ、いこう! いこう!」とほかのドワーフたちがさけびました。「さあ、バーリンの道をたどっていこう。」  こうして一同は、川の左岸の石のあいだを──右岸は川の上にのしかかる岩壁で、道がありません──たどりました。谷の何一つない、あれはてたありさまは、トーリンをさえしゅんとさせました。バーリンののべた橋は、とうのむかしに落ちてなくなり、その石ぐみのあらかたが、せんせんと音をたてる浅瀬のなかに、丸い石になっているだけでした。それでも一同は、たいした困難なく川を歩いて右岸に渡り、むかしの石段を見つけて、高い岸にのぼりました。そこからすこしゆくと、むかしの道にであい、さらにしばらくして、岩のがけにかこまれた深い小さな谷につきました。ここでやっと、しばらくのあいだ休んで、ありあわせの朝ごはんをとりました。それは、おもに「たらふく」というものと水でした(たらふくがどんなものかといっても、わたしには作り方がわかりません。ただ、ビスケットのようなもので、もちがたいへんよいところから、非常食糧とされるくらいで、くちゃくちゃものをかむ練習のために使うのでなければ、とびついてほしがるようなものではありません。長い旅をする場合、湖の人たちが作る食べものです)。  ごはんをすませてから、一同はふたたび進みました。今度は道が西にむかって川岸をはなれ、南につき出た山すじの大きな肩にだんだん近づいていきました。とうとう一同は、山にのぼる道にかかりました。山道はけわしく上にのぼっていて、一同は一列になってのそのそとあがるうちに、その日の午後おそくなって、とうとう尾根のてっぺんに立ちました。そして西の空に沈んでゆく冬めいた夕日をながめました。  そこには、三方にさえぎるもののない、たいらな場所があり、北がわだけ岩面にしきられて、そこに戸口のような穴があいています。その戸口から、東と南と西とがぐるりと広く見わたされました。  バーリンがいいました。「ここに、遠い昔、わたしたちはいつも見張りを立てたものだった。このうしろの戸口をくぐると、岩をくりぬいた部屋にはいる。番兵の詰所だった。この山のぐるりには、こういう見張り場所が数か所ある。けれどもわたしたちの栄えた時代には、こんな見張りの必要がないように思われたものだ。番兵はほんの気休めにおかれたにちがいない。さもなければわたしたちも、竜の来ることをとっくに警戒していたことだろうし、そうしたらなりゆきがすっかり変わっていたかもしれない。それはとにかく、わたしたちはいま、しばらくのあいだここにかくれて、寝とまりができるし、そとから見られないで、どこでもながめることができる。」  「ここに来たところを見られていたら、役にたたないよ。」とドーリがいいました。ドーリは、高い塔にとまった鳥のように、スマウグがとまっていはしまいかというふうに、山の頂上を見あげてばかりいました。  「いずれにせよ、運にまかせて、ここにとどまるよりほかはない。わしらは、きょうはこれ以上進めないわい。」とトーリンがいいました。  「そうとも、そうとも!」とビルボはさけんで、地面にからだを投げだしました。  その岩室には、百人ぐらいはいれそうでした。さらにおくに、小さい部屋が一つあって、そとの寒さがふせげます。そこはまったく使われないままでした。山野のけものさえも、スマウグのはぶりをきかすこのごろではここを使ったようにはみえません。そこでおくの部屋に一同は荷物をおきました。ある者はそのままたおれて、眠ってしまいましたが、ほかのドワーフたちは、おもての戸口のそばにすわって、これからの計画を話しあいました。そういう話のあいだにも、ドワーフたちは、かならず、「スマウグは、どこだ?」のひと言にまいもどってきました。みんなは西の方をながめましたが、何もありません。東にも何も見えません。南がわにもまた、竜の影も形もありません。ただそちらには、おびただしい鳥のむれが見られました。ドワーフたちは、それを見て首をかしげました。しかし、何のけんとうもつかないでいるうちに、はやさむざむと、一番星が光りはじめました。 14 火と水  みなさんも、ドワーフたちと同じように、スマウグの動きが知りたければ、二日前、竜が岩戸をこわして、いかりにかられて飛びさった晩のことに、もどらなければなりません。  その晩、湖の町エスガロスの人々は、たいてい家のなかにいました。暗い東から風が吹いて、寒かったからです。けれども、いくたりかの人たちが桟橋を歩いていて、星々が空に数をますにつれて湖のなめらかな水面にうつりかがやくさまを、いつものようにながめて楽しんでいました。ここからははなれ山が、ほとんど湖のはずれにたたなわる低い山々のむれにかくれていますが、ただ山々のあいだに一つきれめがあって、早せ川が北の方から流れこんでくるので、そこから、はれた日にはなれ山の山頂をのぞむことができました。もっとも町の人たちは、めったに山をあおぎません。朝の光をあびている時でも、山はぶきみでおそろしいのです。でも今は、やみにまぎれて、まったく見えません。  と、思いがけず、山がちらりと見えました。時のまの光が、ひとときぱっと山をそめて、消えたのです。  「みろ!」と散歩していたひとりがいいました。「また光ったぞ! ゆうべも番兵が、真夜中から夜あけにかけて、光がさして消えるのを見た。あそこで何かはじまっているんだな。」  「きっと、山の下の王が、金をとかしているんだ。」とほかのひとりがいいました。「あの人が北へいってから、ずいぶんになる。歌にうたわれたことがすべてほんとうだったのが、いま示されてるところだ。」  「なんの王だ?」と、きびしい声音できいた者がありました。「わしたちの知っているただひとりの山の下の王といえば竜のことだが、たぶんあれは、その竜の荒らしまわっている火だぞ。」  「あなたはいつも、くらいことばかり予言するね。」とほかの人々がいいました。「洪水がおこるの、毒魚がとれるのと。ゆかいなことを考えたらどうです。」  その時だしぬけに、山々の低まったあたりに大きなあかりがあらわれ、湖の北がわのはしが金色にそまりました。  「山の下の王だ!」と人々はさけびました。「王の富は、太陽のよう、王の銀は泉のよう、王の川は、黄金に流れる、という。川が、山から黄金になって流れてきたんだ!」人々はさけび、家という家の窓はひらかれて、多くの足音があわただしく走りだしました。  またもわれかえるようなさわぎと熱狂のあらしがおこりました。けれども、さきのきびしい声音の人は、宙をとんで統領のもとにかけつけました。「竜がやってくる! それがうそなら、おろか者と呼ばれてよい!」男はさけびました。「橋をたちおとせ! 武器をとれ、守りにつけ!」  こうしてけたたましく、警戒のラッパがなりひびき、岸の岩にこだましました。よろこびのさけびはたえ、浮かれ心は、おそれにかわりました。ですから、竜がまるで用意のない人々をおそうことにはならなかったのです。  竜のはやさがすごいので、それからほどなくして、湖の人々は、竜のすがたを見ることができました。それはさながら火の玉がだんだん大きくなり、だんだん明るくなっておそいかかってくるようで、もうどれほどのおろか者にも、歌の予言がはずれてしまったことがうたがえません。ただそれまでに、わずかなひまがありました。町じゅうの壺という壺、かめというかめに、水がみたされ、戦える者はすべて、よろいかぶとをつけ、矢と槍をそなえ、陸にかけた橋はこわされ、はずされました。そのうちにも、スマウグの近づくおそろしいさけび声がどんどん大きくなって、そのすさまじい羽ばたきのもとに、湖は火のように赤くなり、一面に波立ちました。  悲鳴と泣き声とさけびのたちのぼる空に、竜はあらわれて、まず橋におそいかかりました。そしてそこで、竜ははじめて手むかいを受けました。橋は、なくなっていました。竜にむかう相手は、深い水にかこまれた島にこもっていました。暗い水の深くてつめたすぎるのが、竜にはにがてでした。もし竜が水中にとびこんだら、すさまじい水蒸気がたちのぼって、いく日も霧となり、あたりの土地一帯をおおうでしょう。だいいち、火と水ということになれば竜はとうてい湖にはかないません。むこうがわに泳ぎぬける前に、水に消されてしまうにきまっています。  うなりさけびながら、竜は町の上にとびかえりました。雨あられとなってやみの矢が竜にとび、その胸板のうろこと宝石に、かちん、からからとあたっては、矢がらが竜の息でぱっともえたまま、湖にじゅうじゅう落ちて消えました。どんなはげしい花火でも、この夜のありさまにまさるものはありますまい。ぶんぶんうなる弓づるのひびきと、かん高いらっぱの音で、竜のいかりはいやが上にもあおりたてられ、竜はとうとうあとさきのわからない狂気にかられました。ながの年月、竜と戦おうとする勇気のある者はひとりもおりませんでした。この時も人々はたちむかう気がなかったのですが、ただあの、きびしい声音の人(バルドという人です)だけはちがいました。バルドは、弓矢組をあちこちはげましてまわり、さいごの一矢まで戦うべしと命じてほしいと統領にせまっていました。  火が、竜の口からふき出ました。竜は湖をくまなく照らしながら、町の上空をしばらくぐるぐると飛びまわっていました。湖の岸の木々は、あかがね色に、また血のように照りかがやいて、根もとに黒々と影をおとしました。やがて竜は、はげしい矢ぶすまをぬって、まっしぐらにおそいかかりました。いかりにかられてむこうみずになり、うろこでかためた脇腹を敵の方へむけておこうという用心までなくして、ただもうひたすらに、町をもえあがらせてやろうともくろんだのです。  竜がごうっとまいおり、飛びすぎてまためぐってくるそのたびに、火は木はだぶきの屋根や、はりのつき出たところからもえひろがりました。竜のおそってくるあいまに水をかけても、かいがありません。どこかに火の手があがるたびに、多くの人々の手で屋根に水をあびせるのですが、竜はたちまち、身をひるがえして、まいもどってきます。尾を一ふりすると、官邸の大屋根がくずれて、吹きとびました。消せなくなった炎が夜のやみのあちこちに高くもえあがりました。竜が降下するたびに、あの家この家が火につつまれて、くずれおちました。どの矢もスマウグをふせぐことができず、蚊のくうほどにもきずつけることができませんでした。  すでに人々は、町のすみずみにのがれて、水中にとびこんでおりました。女子どもは、町の広場の池に浮かべた荷船のむれに集めてのせられました。武器は、なげすてられました。ほんのすこし前まで、ドワーフたちにめぐりくる楽しい御代のことをうたう古い歌のかずかずがうたわれていたところに、泣く声、なげく声がみちひろがっていました。町の人々は、いまは、ドワーフたちをのろいました。統領も自分用の大きな黄金ぬりの船にのって、ごたごたにまぎれて船を出して助かろうとしていました。まもなく町は、人けがなくなり、焼けおちて、湖に消えていくことになるはずでした。  そこが、竜のねらいでした。竜は、人々がぜんぶ船にのりこむのを待ちかまえていました。満員の船をねらいうつのは、竜にとってどんなにすてきな気晴らしだったでしょう。人々は水にただよってうえ死にするでしょうし、かりに陸にたどりついたら、竜の思うつぼです。たちまちのうちに、湖のまわりの森に火をつけてやきはらい、野原も牧場もことごとく枯らしてしまうでしょう。いま竜にとっては、長年楽しんできたどんな悪いことよりも、この町をなぶりものにする遊びほどおもしろいものはないと思われました。  けれどももえている家々のあいだにしっかととどまっている、一隊の弓矢組がありました。その隊長が、あのきびしい声音きびしい顔つきのバルドで、バルドの知りあいの人たちは、洪水だの毒の魚だのと、えんぎでもないことをいうとバルドの悪口をいいましたけれども、バルドの人間のりっぱさと勇気をよく知っていました。この人は、むかしの谷間の町の領主ギリオンの、ずっとのちの子孫でした。むかし町をこわされた時に、ギリオンのおくがたと子どもが早せ川をくだってのがれ、その血すじが残ったのです。いまバルドも、イチイの木の大弓をかまえ、つぎつぎに矢を射はなすうちに、わずかに一矢を残すばかりとなりました。炎が、バルドにせまりました。仲間もみなバルドからはなれていきました。バルドはいよいよさいごの矢をかまえました。  するとその時、くらやみから何かバルドの肩のあたりにバタバタと飛んできたものがあります。バルドは、はっとしました。けれどもそれは、ただ、年おいた一羽のツグミでした。おそれることなく、そのツグミは、バルドの耳もとにとまって、あるしらせをささやきました。バルドがおどろいたことに、その時バルドには、ツグミの言葉がはっきりとわかったのです。それは、バルドが谷間の町の人々の血をひいていたからでした。  「まて、まて!」とツグミが、バルドにいいました。「いま月がのぼる。竜が飛んできてあなたの上で身をひるがえす時、左のむなさきの穴をみよ。」そしてバルドがふしぎにかられて、手をやすめるあいだに、鳥は、山でおこったできごと、鳥がきいた話をすっかりバルドに話してきかせました。  それから、バルドは、きりきりと耳もとまで、弓のつるをひきしぼりました。竜はくるりとめぐってきて、低く飛んできました。そのとき、月が東の岸の上にのぼって、竜の大きなつばさを銀色にそめました。  「矢よ!」と、この射手はつぶやきました。「黒い矢よ! おまえをさいごまでとっておいた。おまえはいままで、まとをあやまったことがない。そして射たあとでいつもおまえをとりもどしてきたものだ。わしはおまえを父からもらった。父はまた祖父からうけ、代々にうけついだものだ。もしおまえが、山の下のまことの王の鍛冶場から生まれたものならば、今ぞゆけ! 風をきって、つらぬけよ!」  竜は、いままでになく低くせまってきて、にわかにひるがえって身をかわした時、竜の腹が月の光をうけて、宝石のまぶしい炎をはなって白くかがやきました。ただひとところ、光らないところがありました。大弓がなりひびきました。黒い矢はつるからはなれて、まっしぐらに走り、竜の前足が空ざまにのびたそのつけねの、左のむなもとのうつろをめがけて、ひた走りにとび走りました。あたった! とみるまに、矢じりが、矢がらが、矢羽が、ずずっと、見えなくなりました。まことにすさまじい一射でした。けたたましいさけび声があがりました。それは人々の鼓膜をやぶり、木々をおしたおし、岩や石をわりました。そして、スマウグは空中に火煙をはきちらし、身をくねらせながら、高みから、くずれおちた町へ落ちてゆきました。  町のまんなかに、竜はたおれ落ちました。そのさいごの死のあがきで、町は火花をあげ、こっぱみじんになりました。湖は、ひびきわたりました。とほうもない蒸気の柱が一すじ、月のさす湖に、時ならずひろがるかげをわって、もうもうと立ちのぼりました。シューシューいう音、うずまく風の音、ついで何の音もしない静けさがおとずれました。これが、スマウグのさいご、エスガロスのおわりでした。だがバルドは死にませんでした。  月はしだいに高くのぼり、風が強くつめたくなりました。風は、白い霧をなびかせ、ちぎれ雲にして、西のほうへ吹きはらい、やがてやみの森の手前にある沼地の上に、こまかいさぎりとしてまきちらしました。吹きはれた湖のおもてに、点々と黒いかげになって、たくさんの船がちらばっているのが見てとれました。そして風にのって、なくなった町や品々やこわれた家のことをなげく声が運ばれてきました。この時町の人々は何もかもだめになったとあきらめていましたけれども、そのじつ、ありがたいと思わなければならない点がずいぶんあったのです。まず町の人数の四分の三が、どうやら命が助かってにげのびたことです。また、人々の森や野原や牧場や家畜や、それに船の大部分が、そんがいをうけずに残ったこと、さらに、あの竜が死んでしまったことです。そのありがたさが、まだ町の人々にはのみこめませんでした。  人々は、寒い風にふるえながら、西がわの岸にあがって、かなしむ人のむれとなりました。人々の不平といかりは、まず統領にむけられました。統領は、町を守りぬくつもりで戦っていた人がいるのに、さっさと町をはなれていったからです。  「統領は、商売にかけてはやり手だ。とくに、自分の商売はうまいもんだ。でも、一大事となると、まるでだめだ。」とつぶやく者もありました。そして人々は、バルドの勇気と、そのさいごのすばらしい一射をほめそやしました。「もしバルドが殺されていなければなあ。」と人々は、口をそろえていいました。「わたしたちは、バルドを王にするだろう。ああ、竜を射殺す者、ギリオンの子孫、バルドよ。その勇者が殺されるとは!」  この話が出たちょうどそのときに、背の高い人かげが、くらやみから出てきました。この人はびっしょり水にぬれて、黒かみが顔や肩にはりついていましたが、目にははげしい光がともっていました。  「バルドは、死んでおらん!」とその人はさけびました。「バルドは、敵がたおれた時にエスガロスから水中にとびこんだのだ。このわしが、ギリオンの子孫、バルドだぞ。あの竜をしとめた者だ。」  「バルド王! バルド王!」と人々はさけびました。けれども統領は、かたかたなる歯をひきしめ、歯ぎしりしていいました。  「ギリオンは、谷間の町の領主であり、エスガロスの王ではなかった。湖の町では、わたしたちはかならず、かしこい年よりたちのなかから統領をえらんできた。ただ腕っぷしが強いからという理由は、ゆるされたことがない。バルド王は、ご自分の王国にもどられるがよい。谷間の町は、いまバルドの武勇によって解放された。ふるさとへ帰るのをはばむものは、何一つない。バルドといっしょにゆこうというならば、だれでもゆくがよい。この湖の緑の岸べよりも、山の影にかくれるつめたい石の原をえらぼうというなら、それもよかろう。かしこい者は、ここに残って、わたしたちの町をたてなおし、ふたたび平和と富とをいたして楽しもうとするだろう。」  「バルド王をえらぼう!」と、そのそばにいた人々が、それに答えてさけびました。「年よりの、金かぞえばかりの人間は、もうたくさんだ。」そして、はなれている人々もまじって、こうさけびました。「弓矢は上よ、金ぶくろは下よ。」そのさけびは、岸をつたわってこだましていきました。  「わたしも、弓矢の達人バルドをけなそうとする者では、けっしてない。」と統領は用心ぶかくいいました(その時バルドが統領のそばにいたからです)。「バルドは今夜、わたしたちの町に手柄のあった人々の名まえをつらねる表のなかに、ほろびることのない位置をしめた。まことにバルドは、のちのちまで伝わるたくさんの歌をたてまつられるほどのお方であろう。だが、みなさん、」こういって統領はすっくと立ちあがると、ろうろうと声をはげまして、のべたてました。「だからといって、なぜにわたしがみなさんのとがめをうけるのか? どのようなまちがいで、わたしがしりぞかなければならないのか? だれがいったい、竜の眠りをさましたのか、わたしはうかがいたい。だれがわたしたちから、たくさんのおくりもの、じゅうぶんな手助けをもらった上に、古い歌がほんとうになると思いこませるようにしたのか? だれがわたしたちのあたたかい心をもてあそび、わたしたちの楽しい思いをわるふざけの種にしたのか? どんな黄金を、あの連中はわたしたちにお礼として川をくだって運んだというのか? 竜の火とやけあとだけではないか。だれから、このいたましいそんがいのばいしょうをとりたて、夫を失った妻たち、親を失った子たちを助ける金をもとめたらいいというのか?」  これでおわかりのように、統領は、いたずらに統領の位についていたのではありませんでした。この言葉のはたらきは、しばらくのあいだ、人々が新しい王を立てるという考えを忘れて、いかりをトーリンとその仲間にふりむけたところにありました。らんぼうな、ひどい言葉が、ほうぼうからあがりました。前にはいちばん大きな声であの古い歌をうたった者のなかにも、いまは大声で、ドワーフたちが竜をそそのかして、町をおそわせたようにののしる者も、でてきました。  「おろか者め!」とバルドがいいました。「あの気の毒な連中に対して、どうして言葉をつつしまず、いかりをおさえないのだろう? ドワーフたちは、スマウグがこちらに来る前に、まっさきに火にあって死んだにきまっているのに。」こう話しているうちに、バルドの心のなかには、いい伝えにある宝が、守り手もなく持ち主もなく、そのままになっているという考えが浮かびました。そしてぷっつりとものをいわなくなりました。バルドは、統領の言葉を考え、黄金の鐘のなりわたる谷間の町をたてなおすことを考えました。そこに住む国人を見つけだすことができさえすれば、それができるのです。  やがてバルドは、ふたたび話しだしました。「統領、いまは、いかりの言葉をはく時ではなく、また選挙のようなむずかしい問題を考えるべき時でもない。それよりも、手をくだす仕事があります。わしは、いまなお、あなたの下につかえる者です。しばらくあとになれば、あなたの言葉をとりあげて、わしにしたがう者をつれて北にむかうかもしれないが……。」  こういってから、バルドは仮りのやどりの場所をこしらえる仕事やら、病気やけがの人たちの世話やらをきりまわすために、すたすたと歩みさりました。けれども統領は、立ちさるバルドのうしろすがたに顔をしかめ、そのまま、地面にすわりこんでいました。統領はほとんどものをいわずに、長いあいだ考えたきり、ただ、焚火をもせ、食べものをつくれと、ときどき大声で部下をよぶばかりでした。  バルドの方は、どこへいっても、たいへんな宝の山が守る者もなくおかれているうわさが、早くも火のもえうつるいきおいで、人々のあいだにひろがっていくのを知りました。人々は、そんがいのいっさいをつぐなうだけのものが、その宝からまもなく手にはいるはずだし、それ以上のものさえもうけて、南のくにから品ものがたくさん買えるだろうと、話していました。こんなうわさが、ひどいはめにおちている人々をたいへん元気づけました。なにしろその夜は、やりきれない思いでありましたから、これがよかったのです。住居をどうにか手にいれたのは、ほんのわずかで(そのなかには、統領もいました)、食べものもほとんどありませんでした(統領でさえ、食事をきりつめたくらいでした)。町がくずれおちた時にどうやら無きずでにげられた人々のうちにも、その夜、ぬれたためと、寒さとかなしみのために、病気にかかって、あとになって死んだ人も、たくさんありました。そしてこの日からつづく日々のうちに、病気はひろがり、飢えははげしくなりました。  そのあいだバルドは人々の中心になり、いつも統領の名を出してはいましたが、自分の思いどおりにてきぱきと物事を命じました。その上バルドは、人々をおさめ、人々を守ったり家をあたえたりする手はずをきめていく、いちばんむずかしい仕事にあたりました。もし、すくいの手が早くあらわれなかったら、きっと大部分の人たちが、あわただしくやってくる冬のあいだに、死んでしまうでしょう。けれども、すくいの手は、いち早くやってきました。それは、バルドがすぐさま使いの者を出して、森のエルフ王の助けを求めに川をさかのぼらせたためですが、この使いの者たちが、まだスマウグが死んで三日しかたたないというのに、早くもとちゅうで、こちらへやってくるエルフの一隊にいきあったのです。  エルフ王は、じつは自分の出した見張りの者たちや、エルフを愛していた鳥たちから、すでにしらせをうけて、何がおこったかのあらましを、もう知っていました。鳥といえば、竜の荒し場の近くに住んでいるあらゆる鳥のあいだにまきおこったさわぎときたら、それはたいへんなものでした。空は、いったいに、まいくるう鳥のむれでおおわれ、そのすばやいつばさの使いたちが、空をかけて、あちこちに飛んでいきました。森のさかいに飛んできた鳥たちは、その上空で声をかぎりにピーピーとなき立てました。やみの森の空に、「スマウグが死んだ!」というしらせが、流れひろまりました。木々の葉はさらさらとさやぎ、いきものたちの耳がいっせいにそばだちました。エルフ王がこれをきいて馬ででかけるまでには、すでに霧ふり山のマツ林のほうにまで、しらせが伝わっていました。ビヨルンも、木づくりのやしきでこれをきき、山のゴブリンたちも洞穴で会議をひらきました。  いっぽう、エルフ王は、こういいました。「トーリン・オーケンシールドのうわさをきくのはこれでおしまいだろう。あの男も、ここの客になっておればよかったのじゃ。いずれにせよ、運が悪かったな。運はだれにもめぐむわけではない。」そして王はもちろん、スロールの宝のいい伝えを忘れはしませんでした。そのために、たくさんの槍隊、弓矢隊をしたがえてエルフ王がくり出してくるところに、バルドの使いがであったのです。この時カラスのむれが、王の頭上にびっしりかたまって飛んでいました。カラスたちは、いままで長いあいだこの地方になかった戦争がまたはじまることをかぎつけていました。  しかし、エルフ王は、バルドの願いをきいて、心から気の毒に感じました。もともと王は、やさしくてしんせつなエルフ族の人でした。そこで、はじめはまっすぐ山へむかっておこした行列をたてなおして、たての湖へむけて、いそぎ川をくだることにしました。これほどの大軍をのせる船もいかだもたりませんでしたから、まわり道をして行進していかなければなりません。でも食べものの大がかりな荷物は、川でさきに運ぶことにしました。エルフたちは、いたって足早な人たちで、近ごろ長いあいだ行進したことがなく、まして湖へ出るふだん使わないたよりない道でしたのに、まことに早く進みました。竜が死んでやっと五日めだというのに、早くもエルフたちは湖の岸について、町のやけあとを見ました。町の人たちは、もとより大よろこびでエルフたちをむかえました。統領たちは、いまエルフ王が助けてくれたことに対して、将来どんなにお礼をしてもいいと思いました。  人々の計画は、たちまちたてられました。女子どもと老人や病人たちとともに、統領が岸にとどまり、これらの保護される人たちといっしょに、手にわざをもつ職人たちや、細工のうまいエルフたちも残りました。残った人たちは、いそがしく、みずからも木をきり、森から送られてくる材木を集めました。それから、やってくる冬にそなえて、岸にたくさんの小屋をたてる仕事にかかりました。また統領のさしずにしたがって、人々は、新しい町づくりの計画をはじめ、前よりももっと美しく、もっと大きくすることにきめました。ただし、場所はもとのところではありません。湖の岸をもっと北にうつったところでした。人々がのちのちまで、竜のたおれているあたりの湖をおそれたからです。竜は二度と、その黄金の寝床へもどることなく、湖の浅い水底にまがりくねったまま、石のようにつめたくのびていました。何年もたってからでさえ、波おだやかな日には、その山のような骨が、古い町のくずれた杭のあいだに見られました。けれども、こののろわれた場所をこぎまわろうとする度胸のある者はすくなく、まして竜の赤さびたむくろからこぼれおちた宝石を水中にもぐって手に入れようという、身ぶるいの出るふるまいをする者は、ひとりもありませんでした。  一方、湖の人たちのうちでまだ戦える戦士のぜんぶ、エルフ王の軍勢の大部分が、山へむかって北へと進むしたくをしました。こうして、十一日たってから、すたれた町をあとに軍隊の先頭が湖のはじにある岩の門をとおりすぎて、あれはてた土地に進んでいきました。 15 雲がよりつどう時  話かわって、ビルボとドワーフたちの方へもどりましょう。一晩じゅう、だれかひとりが立って見張りをつづけましたが、朝がおとずれても、危険の前ぶれは、見えもきこえもしません。けれども、鳥たちは、いよいよさかんに集まるばかりでした。鳥のむれは、南のほうから飛んできました。それに、まだ山の近くに住んでいたカラスたちも、ひっきりなしに、山の上をぐるぐるまわりながら、なきつづけていました。  「なにか変わったことが、おこったとみえるな。」とトーリンがいいました。「秋の鳥のわたりの時は終わったはずじゃ。またあの鳥どもは、土地に住みついておるものどもじゃ。ムクドリやスズメのたぐいもおるぞ。またそのむこうには、たくさん、くされ肉をくらう鳥どもがおって、まるで、いくさがはじまっとるようじゃ!」  だしぬけにビルボが、指さしました。「あそこに、また、あのツグミがいる!」ビルボが声をあげました。「あの鳥は、スマウグが山の入口をこわした時、うまくのがれたとみえる。でも、カタツムリは助からなかったはずだがな。」  たしかに、あのツグミにちがいありませんでした。ビルボが指さすと、鳥は一同のところへ飛んできて、近くの石にとまりました。そして、つばさをばたばたはばたいてしきりにさえずりました。それからなきやんで、まるで答えをきくように、小首をかしげました。それからまたさえずり、また耳をかたむけました。  「たしかに、この鳥は、わたしたちに何かを知らせようとしているんだ。」とバーリンがいいました。「けれどもわたしには、この鳥の言葉がわからない。たいへんな早口で、むずかしいからね。バギンズ君には、わかるかね。」  「あまりよくわからない。」とビルボはいいました。あまりよくどころか、ほんとうは何もわからなかったのです。「けれど、こいつは、えらく、こうふんしてるね。」  「ツグミでなくて、大ガラスだったらなあ。」とバーリンがいいました。  「カラスはきらいじゃないのかい。ここに来るまでのとちゅう、カラスを見て、びくびくしてたようじゃないか。」  「やつらはただのカラスだ。いやな、うたがいぶかい顔つきをした、不作法ものだ。きみも、あいつらがわたしたちのうしろから、ずうっとひどい悪口をあびせてたのをきいたろう。でも、大ガラスたちはちがうんだ。大ガラスの仲間とスロールの国の人たちとのあいだは、むかしから、じつに仲がよかったものだ。そして大ガラスたちは、ちょいちょいわたしたちに、ひみつのしらせを教えたし、こちらはそのお礼に、カラスがよく巣にかくしたがるような光るものをやったよ。  大ガラスたちは、たいへん長生きだ。ものおぼえもいい。また大ガラスは、そのちえや教えを、子どもに伝えてゆく。わたしがまだほんの子どもだったころ、あの岩山のあいだにたくさん大ガラスが住んでいて、なじみだったものだ。この見張りのある頂上は、むかしからすが丘といわれたところで、それはここに、一くみのかしこい大ガラス夫婦、年とったカークとそのおくさんがいたからだったが、その名高い夫婦は、ちょうどこの見張りの部屋の上のところに住んでいたのだよ。けれども、いまもここに、そのカークの血すじが生きながらえているとは、思えないがね。」  バーリンが、こう話しおえるかおえないかのうちに、例のツグミは一声さけんだと思うと、すぐさま飛び去っていきました。  「わたしたちにはツグミの言葉がわからない。けれどもあの年とった鳥には、こちらの言葉がよくわかったにちがいないな。」とバーリンがいいました。「まあ、じっと見ていよう。きっと、何かおこるだろう。」  ほどなくして、また羽ばたきの音がきこえ、あのツグミがまいもどってきました。そしてツグミといっしょに、この上もなくよぼよぼになった、一羽の年より鳥がやってきました。その鳥は、眼がみえず頭のまんなかがはげていて、飛ぶのもやっとのようす。たいへん大きな、大ガラスのじいさんでした。大ガラスは、しゃちこばって一同の目のまえの地面におりると、ゆっくりつばさをはばたかせて、トーリンのまえにひょいひょいとすすみ出ました。  「おお、スラインのむすこ、トーリンよ。また、フンディンのむすこバーリンよ。」と、大ガラスは、しわがれ声でなきたてました(そしてビルボには、カラスのいう言葉がよくわかりました。というのは、大ガラスが、鳥の言葉でなく、ふつうの言葉を使ったからです)。「やつがれは、カークのむすこのロアークでござります。カークはなくなりましたが、むかし、あなたがたによくしていただきましたな。やつがれは卵から生い出てきてから、すでに百五十三年になりますが、わが父カークの申しつたえし事がらは、忘れておりませぬ。いまは、やつがれが、山の大ガラス族のかしらでござります。わしどもは、いまわずかな数ながら、それでも、むかしの王をよくおぼえとりますぞ。わが部族の者のあらかたは、よそにまいっており、南のくにの大きなしらせがはいってきております。しらせのなかには、あなたがたによろこばしきものもあり、かんばしからぬものもござります。  ほれ、ごらんなされ、鳥どもが、南から東から西から、山に、谷間に、ここかしこまいもどって、むれつどっておりますな。それは、スマウグが死んだ、とききつけたからですわい!」  「なに、死んだ? 死んだ?」とドワーフたちは、さけびました。「死んだとな! それでは、いらざる心配におののいていたのだ。宝ものは、こちらのものよ!」一同はとびあがって、よろこびのあまり、そこらじゅうはねまわりだしました。  「さよう、死にましたぞ!」とロアークがいいました。「これなるツグミが(どうかこの鳥もはねがぬけおちぬように、達者でな)、竜めの死ぬところをしかと見うけました。やつがれは、その言葉を信じますわい。ツグミは、今よりかぞえて三晩まえ、月ののぼるころに、エスガロスの人たちとたたかって竜がたおれたのを見ましたのじゃ。」  しばらくは手がつけられないさわぎでしたが、やっとトーリンが一同をしずめて、大ガラスのしらせをきくようにしました。大ガラスは、たたかいの一部しじゅうを語りおえたあとで、こう申しました。  「さて、よろこびはこれまでですぞ、トーリン・オーケンシールド。なんの危険もなく、地下のやかたへ帰ってゆけますし、さしあたり、宝ものはことごとく、あなたがたのものですわい。されど、鳥のほかにも、ぞくぞくこちらに寄りつどいくる者がたくさんおります。  宝の守り手が死んだというしらせは、もはや遠く広くおよんでおりますし、スロールの宝のいい伝えは、ながの年月語りつがれて消えませんでしたからな。たくさんの者が、えもののわけまえに目の色をかえておりますぞ。すでにしてエルフの大軍が、さしかかっとりますし、肉くい鳥どもが、戦いや殺しあいをのぞんで、それにつれだっております。湖の岸べの人々は、このかなしみはドワーフたちのせいだと、うわさしあっておりますが、それは、みな家もなく、多くの者が殺され、スマウグに町をほろぼされたためで、だからこの人たちもまた、あなたがたが生きておろうと死んでおろうと、この宝ものでつぐないをつけてもらおうと思っとりますぞ。  今こそあなたがたは、ちえをふるってこれからの方針をたてなければなりますまい。だが十三人とは、むかしここに住みて栄え、今は四散してしまわれたデューリンの種族の、なんたるわずかな生き残りでござりましょう。もしやつがれの意見をおめしくださるなら、けっして湖の町の統領を信じてはなりませんぞ。じゃが、その弓で竜を射殺した者なら信じなさるがよい。それはバルドと申す者で、ギリオンの血すじにあたる谷間の者の子孫でござります。まことにきびしき男ではありますが、正しき者じゃ。どうか、あの荒れはてた長い年月のあとに今一度、ドワーフと人間とエルフのあいだに、平和のよみがえりまするように、やつがれは心からのぞみます。なれどそのためには、万金をついやすかもしれませぬが……申しあぐるは、それまででござります。」  すると、トーリンが、いかりをぶちまけました。「かたじけないぞ、カークのむすこロアークよ。そなたと、そのともがらは、わしらの心に忘られることはあるまい。だが、わしらが生きているかぎり、わしらの黄金の一かけらといえども、ぬす人にとられず、どんな暴力にもうばわれぬつもりじゃ。もし、そなたがこのさきもわしらの感謝をうけたいと思うなら、ひきつづき、どんなしらせでもとりついでくれ。またこれはぜひのたのみじゃが、そなたのうちに、若くてつばさの強い者あらば、北のくにの山に住むわが血すじの者どもに使いに立ってもらいたい。また西にも東にも、わしらのこのありさまを、親族たちに知らせてほしい。ことに、わがいとこ、くろがね山のダインのところへ飛んでくれ。ダインは一騎当千の部下をそなえ、ここにいちばん近いところに住んでおる。急いでくるように命じてくれ。」  ロアークは、しわがれ声をあげました。「やつがれは、ご意向のよしあしは、申したてますまい。なれどやつがれになしうることはいたしましょう。」こういって、大ガラスは、ゆっくりと飛びたちました。  「では、山へもどろう!」とトーリンがさけびました。「あまり時間をむだにできん!」  「その上、あまり食べものが、残っていない。」と、ビルボは、いつものとおり食べものとなるとぬけめなく、さけびました。いずれにせよ、ビルボは、竜が死んだ以上は、冒険は終わったのだと、思ったのです。(これはたいへんなまちがいでした。)そして、この問題を平和のうちにおさめるためなら、自分のわけまえをそっくり投げだしてもいいとさえ思いました。  「山へかえろう!」と、ドワーフたちは、ビルボの声がきこえなかったように、さけびました。こうしてビルボも、ドワーフたちとうちつれて、山へもどらなければなりませんでした。  そののちにおこったいろいろな出来事を知っている方々には、ドワーフたちがそれまでにいく日かをすごしたこともおわかりでしょう。ドワーフたちは、もう一度地下のほうぼうをしらべまわって、思っていたとおり、入口はただ表門だけがひらいていることをたしかめました。そのほかの門は、(もちろん、あの小さな秘密の戸をべつにして)とうのむかしに、スマウグにこわされ、とざされて、あとかたもありませんでした。そこで今、ドワーフたちは、ただ一つの表門を守りかため、そこから中への道を修理するために、一心に工事をはじめました。むかしの金ほりや石きりや穴づくりたちが使っていた道具がたくさん見つかりましたし、もともとこういう工事にかけては、ドワーフたちは、たいしたうでまえを持っていました。  せっせと働いているうちにも、大ガラスたちは、たえずしらせを運んできました。それによってドワーフたちは、エルフ王が湖へ立ちよったことを知って、やっと一息いれることができました。その上うまいことに、小馬のうち三頭が助かって、早せ川の下手の岸をぶらぶらしていることがわかりました。そこは荷物の残りが残っている場所からあまり遠くありません。そこで、ほかの者たちが仕事を続けている間にフィーリとキーリが、一羽の大ガラスの案内で、小馬たちを見つけに出かけ、荷物をすっかりつんでもどりました。  こうして四日たった時、湖の町の人々とエルフたちの連合軍が、山をめざしていそいでくることを、一同はきき知りました。けれどもそのころ、ドワーフたちの意気も、一だんと高くなっていました。それというのも、うまく使えば何週間かもつだけの食べものを手にいれたのです。もちろん、おもに「たらふく」で、だれもこれにはうんざりしていたのですが、それでも、ないよりはましです。また、表門は、四角く切りだした石をつんで、高く厚い壁にして、入口をふさいでしまいました。壁には、のぞいて見たり、矢を射たりすることのできる穴がいくつもあけてありますが、出入り口はなく、ドワーフたちははしごをかけて、のぼりおりをしたり、つなでものをひきあげたりしました。また、川の流れ出る出口のために、新しい壁の下に川水にぎりぎり一ぱいの小さい穴をつけ、新しい壁のそとでは、せまい川はばを作りかえて、山ぎわから、川が谷間へ流れおちる滝の落ち口まで、まんまんとひろがるよどにしてしまいました。ですから、表門に近づくには、水を泳いでくるのでなければ、おもてから門にむかって右がわの、けわしい崖についたせまい道をたどってくるほかにありません。ドワーフたちがつれてもどった小馬たちも、むかしの橋にのぼる段々の手前までしか来られず、ここで荷をとかれ、もとのかい主のところへもどれと命じられて、乗り手なく、南の方へ帰されたのです。  ある夜、にわかに、一同の見張る南の谷間に、かがり火やたいまつのかずかずがあらわれました。  「来たぞ!」とバーリンがよばわりました。「敵陣はすこぶる大きい。あれは、川の両岸から、やみにまぎれて谷にのぼってきたにちがいない。」  その夜ドワーフたちは、あまり眠りませんでした。ほのかに夜空が白むあけがた、一同は、近づく大軍を目にしました。壁のうしろからながめますと、大軍は谷の入口にさしかかって、じりじりとのぼりはじめるところでした。ほどなくして、そのなかから、戦のよそおいをした湖の町の人と、エルフの弓隊とを見わけることができました。やがて軍の先頭は、ごろごろする岩場をのぼって、滝の上にあらわれました。そして先頭の者たちが見て、あっとたまげたのは、目の前の水の広がりと、表門をふさいで新しくつみあげた石の壁でした。  軍勢が立ちどまって、表門を指さして口々によびさわぐさなかに、トーリンがおそろしい大音声でよびかけました。「だれじゃ、山の下の王スラインのむすこトーリンの門に、かく戦じたくでおしよせる者は? してまた、何がのぞみじゃ?」  けれども先頭の者たちは、何も答えません。いくたりかが、あわただしくひきかえし、そのほかの者も、しばらく門の守りをながめてから、あとをおってひきあげました。その日のうちに、軍陣が動いて、山の根もとのあいだにうつりました。それから、たくさんの人声と歌声が、岩々にこだましました。それは長いあいだ、たえてなかったことでした。その上、エルフのたてごとの音、やさしい音楽のしらべが流れました。楽の音が岩々にこだますると、きびしい山の空気までなごんで、春さく森の花々のかおりをほのかにはこぶようでした。  それをきくと、ビルボは、この暗いとりでからにげだして、山をかけおりて、焚火をかこむ人々のにぎやかな集まりに加わりたくてしかたがありませんでした。年の若いドワーフのなかにも、心をゆすられた者があり、事件がこんなふうにならないで、うまくいってくれたなら、あの人たちを友だちとしてむかえたろうに、などとひそひそ話していました。けれどもトーリンは、しぶい顔をくずしませんでした。  そのうちに、ドワーフたちは、宝の山からとりもどしたたてごとやそのほかの楽器をもち出してきて、トーリンの気分をやわらげるために音楽をかなでました。けれどもその歌声はエルフの歌とはことかわり、ずいぶんむかしビルボのあのホビット穴でうたった歌ににていました。 山の下根の暗く深きところ、 王は王座に帰ってきた! 敵なるおそろしきかの竜は死にたえ、 もはやいかなる敵も立ちむかえない。 剣はするどく、槍は長く、 矢はすばやく、守りの門はかたい。 黄金に見いる心はおおしく、 ドワーフたちは、もう何者にも屈しない。 そのかみドワーフたちは、強き魔法を使って、 黄金うつつちをなりひびかせた。 ものみな眠る暗きところ、鐘の音のように、 山のふところにつち音をなりひびかせた。 銀の首かざりには、星あかりをつなぎ、  冠 には、竜の炎をかざし、 金糸をよりあわせてつくったたてごとで、 たえなるしらべをかなでたものだった。 いま山の王国はふたたびよみがえった! いざ、さまよえるわがともがらよ! いそぎきたれ! ひたすらいそいで荒地をわたれ! 一族の王は、めしたまう。 われらは、山の寒気をついてさけぶ。 「なつかしの岩屋へ、もどろうよ!」 門さきには王が待っている。 両手に、玉と黄金を山とだいて── 王は、王座に帰ってきた、 山の下根の暗く深きところに。 敵なるおそろしきかの竜は死にたえ、 もはやいかなる敵も立ちむかえない!  この歌は、トーリンをよろこばせたようにみえました。トーリンはふたたび笑顔をつくり、陽気になりました。そして、ここからくろがね山までの道のりを考えて、ダインがこのはなれ山につくには、使いがとどいてただちに出かけたとして、どのくらいかかるだろうと、考えはじめました。けれどもビルボの方は、歌をきいても、話をきいても、心がめいるばかりでした。どれもみな、なにがなんでも戦いをしたがっているようにきこえました。  つぎの朝早く、槍組の一隊が、川をわたって山をのぼってくるのが見られました。その隊は、槍のほかに、エルフ王の緑の旗と、湖の町の青の旗をかかげていました。隊はのぼり進んで、門の壁の前に立ちどまりました。  ふたたびトーリンが、大音声でよびかけました。「戦わんがための武装をして、山の下の王スラインのむすこトーリンのとりでの門に来た者は、だれじゃ?」すると、今度は、答えがかえってきました。  ひとりの黒い髪の背の高い男が、きびしい顔つきで進み出て、こうよばわりました。「トーリンにもの申す。なぜにあなたは、ぬす人がとりでにこもるように、かくふせぎ守るのか? われらはけっして敵ではない。どころか、われらの心配をこえて、あなたたちが生きているのを見て、よろこんでいる。この地に生きのびた者はあるまいと思いつつ来たのだ。だがこうなればたがいに談合会議の要ありと、見てとった。」  「そちらはだれじゃ? また、何の談合じゃ?」  「わたしはバルドだ。この手で竜を殺し、あなたの宝をすくった者だ。あなたに関係がないといえるだろうか? そのうえわたしは、正しく谷間の町のギリオンのあとをうけた子孫であり、あなたの宝の山のなかには、スマウグめのうばった谷間の町の宝ものもたくさんまざっている。そのことも、話しあうべき問題ではなかろうか? さらにいえば、スマウグはさいごの戦いで、エスガロスの人々の住居をすっかりやきほろぼした。このわたしは、エスガロスの統領につかえる者だ。統領の代理としてわたしは、あなたがエスガロスの人々のかなしみとみじめさに同情なさるかどうかを、おたずねする。湖の者たちは、あなたがたの苦境を助けたが、そのおかえしは、あなたがたにそのつもりがなくとも、エスガロスの町のほろびをもたらしたことになるのですぞ。」  バルドの言葉つきが、きびしくてえらそうにひびいたとしても、それはどこからみても正しい事がらでした。ですからビルボは、トーリンがすぐさまその正しさをみとめることと思いました。もちろんビルボとしては、竜の弱みを見つけだしたのが、ほかならぬ自分だということをだれかに思いだしてほしいなどとは、思ってもいませんでした。けれどもまた、ビルボは、竜が長いあいだかかえこんでいた黄金にひそむ力というものについても、ドワーフたちの心についても、まだよく知らなかったのです。いく日ものあいだ、トーリンは宝のなかにすごしてきたので、宝ものをほしがるおさえがたい欲が、重くつもりにつもっていました。トーリンはなによりもアーケン石をさがしていたのですが、ほかのかずかずのふしぎな宝ものにも、心をひかれていました。それらには、トーリンの部族の者のそのむかしのはげしい働きと強いかなしみの思い出がこもっていたのです。  「さいごにのべた申し条こそ、いちばん肝心なものであろうが、いちばんまちがっておるぞ。」とトーリンが答えました。「わがともがらの宝には、何人も、よこせと申す権利はない。けだし宝をうばったスマウグはその時わが部族の命と住居をうばったからじゃ。宝はもともとスマウグのものにあらず、スマウグのよこしまなおこないがつぐなわれるべきものであるとしても、そのつぐないに宝をあてるべきではない。わしらが湖の町の人々より受けた品物のあたい、また助力のむくいは──時いたれば──それにふさわしくかならず支払う。だがこのようなおどかしをかけられては、一文だに出すことはできぬ。パンくずさえごめんじゃ。わしらの入口をよろい武者の大軍がかこんだとあれば、その方たちこそ敵ともぬす人とも見なすわい。  ところで、さいごにそちらにたずねたいと存ずるのは、もしかりに、寄せ手の方々が、宝を守る者とてなく、わしらがみな殺されているのを見たとしたら、その場合わしらの血すじの者どもに、その相続分をいかほどおはらいくださるつもりであったかな?」  「いかさま、ごもっともなおたずねなれど、」とバルドが答えました。「あなたがたは死んでいないし、わたしどもも、ぬす人ではない。その上また、富める者は、権利の義務のという立場をこえて、真実ほしがっていた時に自分を助けてくれた貧しい者に、あわれみの心を持ちたいものではないか。しかもわたしのさきほど申しのべた事がらには、ご返事をきいておらん。」  「すでに申したとおり、門前を武者どもにかこまれて、談合するつもりはない。わしがいささかの情けも受けなかったエルフ王の大軍をひかえては、なおさらのことじゃ。この談合にエルフどもの加わるすじはない。わしらの矢がとぶ前に、うせるがよい。このうえ話がしたいなら、まずエルフの軍を、そのもともとの森の住処に追いはらい、しかるのちにこのとりでに近づく前に武器をすてて立ちもどるがよい。」  「エルフ王は、わたしの友だ。また王は、湖の者が王の友情のほかに求めなかったにもかかわらず、必要なものをめぐんで湖の者を助けてくれた。」とバルドが答えました。「わたしどもは、あなたがさきほどの言葉を正すよゆうを与えよう。ふたたびここに来る前に、よりよりご相談なさるがよい。」こういってバルドはそこをひきはらい、陣地にもどりました。  それからあまりたたないうちに、旗手たちがたちもどり、らっぱ手たちが前へ出て、一吹きらっぱを吹きました。  ひとりが大声をあげました。「エスガロスとエルフ森の名において、山の下の王とみずから名のるオーケンシールド家の、スラインのむすこトーリンにもの申す。さきほど申しこみし要求のほどをしかと心得られるべし。さもない時はわれらの敵とみなされるものである。少なくともトーリンは、バルドに対し、竜を退治した者として、またギリオンの子孫として、財宝の十二分の一をさしだすべきである。そのわけまえから、バルドは、エスガロスをすくう分をさし出すことになろう。ただしトーリンが、むかしの父祖がなしたように、となりあう国々とむつびあい信義をとりかわしたいと思うなら、さらに自分の財宝より何がしかを加えて、湖の町の者の見舞いにさしいだすがよろしかろう。」  するとトーリンは、大角の弓をつかんでその使者に矢を射ました。矢は使者のたてにあたって、ぶるんと、つき立ちました。  「これが、返答よな。」と、おりかえして使者はさけびました。「では、山をとりかこむと、申しわたすぞ。もはやそちらから、休戦和議の申したてがあるまでは、そこをはなれることはできまい。何の武器もおびないままに、このままひきあげることとする。そちらは黄金にゆだねておこう。くらいたくば、黄金をくらうがよいわ。」  使者は、こういい残して、足早に立ちさりました。ドワーフたちは、こうしてとり残され、このなりゆきを考えることになりました。トーリンはもうすっかりにがりきって、おそろしい顔をしていましたから、たとえほかの者たちが何かいいたくても、トーリンのまちがいをあげてせめる勇気がもてませんでした。また、ほんとうのところ、たいていのドワーフが、トーリンの心にさんせいしているようでした。それでも、たぶんふとっちょのボンブールやフィーリとキーリは、ちがっていたでしょう。それにもちろん、ビルボは、こうなったことのなりゆきに、まったく不さんせいでした。山のごたごたはこれ以上ごめんですし、まして山のなかにとじこめられることは、とうてい好みにあったことではありませんでした。  「どこもかも、竜のひどいにおいが残っている。」とビルボは、ひそかにこぼしました。「そのために、気持ちがわるくなる。おまけにたらふくが、のどにつまりだした。」 16 真夜中のとりひき  くる日もくる日も、あきあきするほどのろのろとすぎました。ドワーフたちはたいてい、宝ものをつみかえたり、ならべかえたりして、時間をすごしました。トーリンは、スラインのアーケン石のことを語りきかせては、ドワーフたちに、あらゆる場所をくまなくさがすように、きつくいいつけました。  「わが父のアーケン石には黄金の川といえどもおよばぬ価値がある。わしにとっては、あたいをつけがたいものじゃ。あらゆる宝のうちで、あの宝石だけは、わしの手にいれたい。わしをだしぬいて、あれを見つけ、ひきぬいたやつには、思いしらせてくれるわい。」  ビルボは、こんな言葉をきいて、もしあの石が見つけられたらどうなるだろうと、おそろしくなりました。宝石を、枕に使っているぼろくずのなかにつつみこんでおいたのです。それでもビルボは、その石のことをしゃべりませんでした。それは、毎日のくったくがしだいにやりきれなくなるにつれて、ビルボの小さな頭のなかに、ある思いつきがそだちはじめたからでした。  しばらくは、そのようなありさまで日を重ねていくうちに、大ガラスが新しいしらせをはこんできました。それは、ダインと五百人以上のドワーフ軍が、くろがね山から急いで出発して、もう谷間まで二日というところに、北東のかたから、さしかかっているというのでした。  「しかし、ダインの軍は、気づかれずにこの山にはいれませんぞ。」とロアークがいいました。「やつがれは、この谷間に戦がおこるのではなかろうかとしんぱいでなりませぬ。このあいだの話しあいはけつれついたしました。ダイン軍がいかに強しといえども、ここをかこむ大軍がやすやすとうちやぶれるでござりましょうか? よしかりにダイン軍がかこみを破りしとても、それでこちらが勝てるものでござりましょうか? 冬が、また雪が、すぐせまっておりますぞ。となり近所の国々とむつび、信義をとりかわすことなくして、あなたがたはどのようにして食べてゆけましょうか? 竜がもはやいなくとも、あの宝ものは、あなたがたの命とりになりましょうぞ。」  けれども、トーリンはこの言葉に動かされませんでした。「冬と雪とは、人間をもエルフをもおかすじゃろう。しかもこの荒野に、寒さをしのぐにたえる住居を求めなければならぬ。うしろからはわしらが友のダイン軍、せまるに冬をもってすれば、あの者たちといえども、もっとへりくだった心をもって和議にのぞむじゃろう。」  その晩、ビルボは決心しました。空は暗く、月がありません。とっぷり暮れるとまもなく、ビルボは、門のすぐ内がわの部屋のかたすみに行って、自分の荷物のたばから、一巻のつなと、ぼろにつつんだアーケン石とをとりだしました。それから、とりでの壁のてっぺんにのぼりました。そこには、ボンブールがただひとり見張りの番にあたっていました。ドワーフたちは、そこにひとりだけ見張りを残しておいたのです。  「ひどく寒いよ。」とボンブールがいいました。「むこうの陣で火をたいているように、ここでも焚火をしたらいいと思うな。」  「壁の内がわは、あたたかいよ。」とビルボがいいました。  「そうだろうな。でもわたしは、真夜中までここにいなくちゃならないんだ。」と、ふとっちょのドワーフがこぼしました。「まったくいやな仕事だよ。といって、トーリンに反対することもできないや。あのひげがますます長くなりますように。でもトーリンは、ほんとにがんこじじいだよ。」  「わたしの足ほど、トーリンもこわばってはいまい。」とビルボがいいました。「段々や石の廊下をいったり来たりするのは、もうまいったよ。この足で青草を心ゆくまでふみしめたいよ。」  「わたしはよくきく酒を心ゆくまでのどに流しこみたいし、たっぷり晩ごはんを食べたあとでやわらかいベッドに心ゆくまで眠りたいね。」  「かこみがつづくあいだは、それができないなあ。ところでわたしが見張りをしたのは、だいぶ前になるから、よかったら、あんたの番を今かわってあげよう。今夜は、眠れないんだ。」  「あんたは、はなせるひとだなあ、バギンズ君。ではせっかくしんせつにいってくれるのだから、おねがいしよう。なにか変わったことに気がついたら、まっさきにわたしをおこしてくれたまえ。ここから遠くない、あの左がわの小部屋で横になっているからね。」  「さあ、行きなさい。」とビルボはいいました。「真夜中になったら、おこしてあげよう。そうしたらあんたが、つぎの番のひとをおこせばいい。」  ボンブールが行ってしまうとすぐにビルボは、あの指輪をはめ、つなにからだを結びつけて、壁のそとへすべりおりて、ぬけだしました。これから、およそ五時間はあります。ボンブールは眠っているでしょう。なにしろいつ何時でも眠れますし、森の冒険にであってからは、あの時に見た美しい夢をもう一度味わいたいと、いつも眠るくせがつきました。それにほかのドワーフたちも、トーリンの命令でひまがありません。フィーリとキーリのような連中さえも、番がくるまでは壁の上にのぼってくることはなさそうでした。  そとはまっ暗でした。あらたにつけられた山道をはなれて、川下のほうへおりていくあいだしばらくは、ビルボにも道がわからないほどでした。どうやら川のまがりめに来ましたが、ビルボが行こうと思っている陣地には、ここで川を渡らなければなりません。川底は浅かったのですが、そのあたりはだいぶ川はばがひろく、やみのなかで瀬を渡るのは、小さなホビットにとってらくなことではありません。すんでに渡りこそうというまぎわに、ビルボは丸い石の上で足をふみすべらせて、しぶきをあげて、水の中にたおれました。ようやく遠い岸にはいあがって、身ぶるいして水をふりきっていますと、やみの中からエルフたちが、明るいちょうちんをかざして、やかましい音のしたわけをしらべにやってきました。  「魚じゃないな。」とひとりがいいました。「スパイがうろついてるんだ。あかりをかくせ。もしスパイが、あいつらのしもべだといううわさの、あのへんなちびだと、あかりはこっちよりも、そいつの方にうまくつかわれるぞ。」  「しもべだと、ふん。」とビルボが鼻をならしました。すると鼻をならしているあいだにむずがゆくなって、大きなくしゃみをとばしました。エルフたちは、すぐにその音のした方に集まってきました。  「あかりをさしむけてくれ。」とビルボは声をかけました。「ほら、ここだ。つかまえたいなら、つかまえるがよろしい!」そして指輪をはずし、身をかくしていた岩からとびだしました。  エルフたちは、あっとおどろきながらも、いち早くビルボをつかまえました。「おまえは、だれだ? ドワーフたちのホビットか? 何をしてるんだ? どうしてわれらの番兵をやりすごして、こんなおくまでこられたのか?」などと、エルフたちは口々にたずねました。  「わたしは、ビルボ・バギンズです。」とビルボは答えました。「知りたくば教えるが、トーリンの仲間だ。あなたがたの王のことは、見てよく知っているが、先方はわたしを見てはいないだろう。だが、バルドならば、わたしを見おぼえていてくれるだろう。それでわたしがとくにあいたいと思うのは、バルドの方です。」  「そうか。」とエルフたちはいいました。「そして、あんたのしたいことはどんなことか?」  「どんなことであっても、このわたしひとりの考えですることです。エルフのみなさん。あんたがたが、この寒い、楽しみのない荒野をひきはらって、あんたがたのふるさとの森へ帰りたいならば──」と、身ぶるいしながらビルボは答えました。「いっこくも早く、わたしをからだのかわかせる、火のあるところへつれていってもらいたい。それからできるかぎり早く、あんたがたの上の人たちにわたしと話をさせてもらいたい。一、二時間しか、ひまがないから。」  表門からぬけだして、二時間ばかりたったころ、ビルボは、一はりの大テントの前でたいているあたたかい焚火のそばにすわっていました。そのそばにまた、エルフ王とバルドがともにすわって、ふしぎそうにビルボを見つめていました。エルフのよろいをつけたホビットは、古毛布を一まいかりてくるまっていますが、ふたりにはめずらしい者のようにうつりました。  「ごしょうちのように、」とビルボは、じょうずな商売のとりひきをする時の調子でいいだしました。「こうなっては、手がつけられません。わたしひとりの気持ちを申せば、つくづくいやになりました。ひとりでさっさと、わたしの郷里の西のくににひきあげてしまいたいほどです。わたしたちの郷里の者の方が、まだものわかりがいいでしょう。けれどもわたしは、この事がらには、強い関心をよせています。さいわいにもまだ持っているはずの手紙によりますと、十四分の一のほうびをもらうことになっているからです。」こういってビルボは、古いジャケツ(それをよろいの上に着ていました)のポケットから、くちゃくちゃになって、こまかくたたまれたトーリンの手紙をとりだしました。その手紙は、あの五月にビルボの家のだんろだなの時計の下におかれていたものです。  「ここに、えた利益のなかからわけまえを、と書いてあります。」ビルボは話しつづけました。「わたしは、それをはっきりおぼえています。わたしとしては、あなたがたの申し出をしんちょうに考えた結果、わたしのわけまえを要求する前に、宝ものぜんたいのなかから、これくらいが正しいと見こんで得たものをさしひいて、みなさんにあげたいと思うのです。けれども、みなさんがたは、わたしほどトーリン・オーケンシールドをよくごぞんじない。ちかって申しますが、トーリンこそは、あなたがたがここに腰をすえているかぎり、黄金の山にすわりこんで、うえ死にする方をえらぶでしょう。」  「では、それもよかろう。」とバルドがいいました。「そんなおろか者は、うえ死にが当然。」  「まったくそのとおりです。」とビルボはいいました。「わたしも、あなたの考え方と同じです。ではありますが、冬が急ぎ足でせまってきます。遠からずして、みなさんがたは雪にみまわれます。そのうえ食べものなども、やりくりがつかなくなります。それはエルフといえどもたいへんなことでしょう。加えてさらに、いっそうたいへんなことがおこります。あなたがたは、ダインとくろがね山のドワーフ兵のことをきいたことがありませんか?」  「ある。久しいむかしだが。しかしそれがわれらと何のつながりがあるのか?」と王がたずねました。  「たいへんなつながりがあると思います。どうやら、みなさんがたの知らない情報をわたしが知っているようですね。お教えしましょう。ダインはいま、ここから二日とかからないところに進軍してきています。すくなくとも五百をくだらぬいかめしいドワーフ兵をひきいています。多くの兵が、それこそみなさんが知っておられるはずの、あのおそろしいドワーフとゴブリンとの戦いできたえぬかれた、一騎当千の勇士たちですぞ。ダイン軍がついたら、えらいやっかいになりましょうな。」  「なぜ、そのようなことを教えるのか? あんたは、友なる人々をうらぎるのか? それともわれらをおどすのか?」とバルドが、きびしくたずねました。  「これはしたり、バルドどの!」とビルボがかん高い声をあげました。「そういきりたたないでいただきたい。こんなにうたがい深い方にあったことがない。いいですか、わたしはただ、ぜんたいにおよぶ戦をさけようとしているのですぞ! では、一つの申し出をいたしましょう!」  「きかせてくれ!」とふたりがいいました。  「これをごらんなさい!」とビルボがいいました。「これです!」そしてビルボは、アーケン石をひき出して、そのつつみを投げすてました。  さすがにすばらしいもの、美しいものを見なれているエルフ王そのひとが、あっとおどろいて、棒立ちになりました。バルドでさえも、口をきかずに、さんたんの眼で石を見つめました。それは、いっぱいに月の光をつめこんだ一この大きな玉のようで、いま霜夜の星々のきらめきを織りあげた光のあみとなって、目の前にさしだされたのです。  「これが、スラインのアーケン石です。」とビルボがいいました。「山の精髄です。そしてまたトーリンの命です。トーリンは、黄金の川もおよばぬといいました。これを、あなたがたにあげましょう。これでなら、とりひきがなりたちましょうね。」そうはいうものの、ビルボも、いささか身ぶるいをおさえきれず、いささか流し目をおさえきれずに、すばらしい宝石をバルドに手渡しますと、バルドは目がくらんだようにして、それを手におさめました。  「どうしてこれを、手にいれたのですかな?」と、バルドは、さいごにやっとの思いできり出しました。  「それは──」とホビットは、心苦しい気持ちで答えました。「手にいれたといわれると、まずい。けれども、さよう、わたしは、自分のもらう権利をすっかり帳けしにしても、くやみません。そのつもりなんです。わたしは、忍びの者かもしれない。ドワーフたちは、そういっています。わたしは内心では忍びの者と思ったことはないが、かりにそうでも、正直な忍びの者でありたい。とにかく今はひとまずわたしはもどりましょう。そしてドワーフたちがわたしにしてもらいたいと思う用をつとめましょう。ではわたしの申し出をうまく使っていただきたい。」  エルフ王は、あらたにおどろきの心をおこして、ビルボをながめました。「ビルボ・バギンズよ!」と王はいいました。「あなたは、今着ているエルフの王族のよろいをつけるにふさわしい方だ。そのよろいは、もっとよくにあう者がたくさんあろうが、あなたこそふさわしいとわしは思う。だが、トーリン・オーケンシールドもそう思うだろうか? わしは、あなたよりもドワーフというものの性質を知っているつもりじゃ。今からわしらのところにとどまるように、心から忠告する。ここにくれば、あなたはめいよをあたえられ、あつくむかえられますぞ。」  「まことにかたじけないきわみです。」とビルボは、深くおじぎをして答えました。「しかしわたしは、いっさいのことをいっしょにやってきたあげく、今になって、友だちのもとをはなれるということをしたくありません。それに、真夜中にあのボンブールをおこすと約束しております。では、わたしは、大いそぎでいかなければなりません。」  これ以上ビルボをひきとめる言葉はありませんでした。そこでひとりの兵が守りにつけられ、ビルボが立ち去ることになりますと、王とバルドとは、ともにビルボにていねいな礼をこめてわかれのあいさつを送りました。ビルボたちが陣地を通りぬけようとした時、黒いマントをはおったひとりの老人が、テントの入口にすわっていましたが、つと立ちあがって、歩みよりました。  「よくやったぞ。バギンズ君!」そう老人はいって、ビルボの背をたたきました。「いつもあんたは、ひとの期待を上まわるりっぱなことをやってのけるひとじゃわい!」老人は、ガンダルフでした。  ここ長い日々のうちで、今はじめて、ビルボは、心からうれしくなりました。けれども面とむかってききたいことをききだす時間がありません。  「いっさいがよい潮めにのって、うまくいった!」とガンダルフがいいました。「わしの予想にくるいがなければ、あらゆることがおわりに近づいている。ただ、あんたはさしあたって、ふゆかいな時をむかえるが、だが、ぶじにきりぬけるじゃろう。大ガラスでさえもききこんでいないような、たいへんなできごとがぼっぱつしようとしとるんじゃ。では、お休み!」  なにかしらと思いながらも、うれしくなって、ビルボは道を急ぎました。ビルボは、案内のエルフたちに、安全な浅瀬をみちびかれて、ぬれないで川を渡りました。そしてエルフたちにわかれをつげ、注意をこらして表門の方へ山をのぼりました。大きなつかれが、どっとビルボにおそいかかってきました。けれどもビルボがつなをのぼった時(つなは、ちゃんともとのままさがっていました)、時間は真夜中まえでした。ビルボはつなをといてかくし、防壁の上にすわりこむと、さて今度はどうなるだろうと、あれこれ心をなやませました。  真夜中になって、ビルボは、ボンブールをおこしました。そしてかわりに自分がいつものすみにごろりと横になり、もうふとったドワーフのお礼には耳もかしませんでした(お礼をいわれても、それがうけられない気持ちだったのです)。ビルボはまもなく、朝がたまでいっさいの心配をわすれて、ぐっすりと眠りました。そしてもちろん、夢にみたものは、ベーコン卵のごはんのことでした。 17 雲がふきちる時  つぎの日の朝早く、陣地にらっぱがなりわたりました。まもなくただひとり、せまい山道をせっせとかけあがってくる者が見られました。門からかなりのあいだをとって、その使者は立ちどまると、あいさつを送って、新しいしらせがあり、ようすががらりと変わったから、トーリンにもう一度代表とあってくれまいかと、たずねました。  「きっとダインのことじゃ!」と、使者の言葉をきいて、トーリンはいいました。「やつらは、ダインの来るうわさをかぎつけたのじゃろう。それで心を変えたものとみえる。では、人数をごくわずかにして、武器をもたずに来れば、きいてやると、いえ。」トーリンは、使者にどなりました。  昼ごろ、森の旗と湖の旗が、しゅくしゅくと進んでくるのが見られました。そして二十人の一隊が近づいてきました。せまい山道のはじまるところに、その一隊は剣と槍をおいて、門の方へのぼってきました。そのなかに、バルドとエルフ王がいるほか、先頭にマントすがたで頭巾をかぶったひとりの老人が、鉄の金具をうった木のがんじょうな小箱をもっているので、ドワーフたちは、いぶかりながらながめていました。  「トーリンにもの申す!」とバルドが声をかけました。「まだ考えは変わらないか?」  「わしの心は、いくどか日がのぼり沈みしたくらいで変わらぬぞ。」とトーリンが答えました。「そちらは、わしと益のない問答をしにきたのか? わしの命じたとおりにエルフ軍がひきあげぬではないか! ひきあげるまでは、いつ来ても、とりひきは無用じゃ。」  「それでは何かとひきかえにあなたの黄金をいただけないものだろうか?」  「そなたやそなたの仲間がさしだすものでは、何もあるまい。」  「スラインのアーケン石では、どうかな?」バルドがこういったしゅんかんに、例の老人が小箱をひらいて、その宝石をとりあげてみせました。光はその手から、朝の大気に明るく白くほとばしりました。  とたんにトーリンは、おどろきとこんらんにおそわれて、ものがいえずにぼうぜんとしました。長いあいだだれひとり口をきる者がありません。  とうとうトーリンが、その沈黙を破りました。その声は、いかりでふくれていました。「あの石は、わしの父のもの、わしのものじゃ。わしのものを、どうして買いとらなければならんのか?」けれども、ふしぎに思う気持ちをおさえかねて、こうつけくわえました。「だが、どのようにして、家代々のかくし宝のところに来られたものか? ぬす人よばわりをせぬつもりでも、うたがいなきをえないわい。」  「われらは、ぬす人ではない。」とバルドが答えました。「われらのものをいただくかわりに、あなたのものをかえそうというのだ。」  「どのようにして、手にはいった?」とトーリンは、またつのってきたいかりにおされて、さけびました。  「わたしが、やったのです!」とビルボが金切声でいいました。ビルボも、防壁の上からのぞいていましたが、今は、たえがたいおそれにおののいていました。  「きさまが! きさまが!」とトーリンはどなって、ビルボの方にむき、両手でかれをわしづかみにしました。「このみっともないホビットめ! この、いじけきったちびの──どろぼうめ!」ののしる言葉をなくして、トーリンは、あわれなビルボを、ウサギのようにゆさぶりました。  「デューリンの長ひげにかけて、のろってやる! せめて、ガンダルフがいてほしいわい。きさまをえらんだつみをかぞえたててやるんだが……。あいつのひげが、ちぢみあがればいい。きさまを、岩にたたきつけてくれよう!」こうさけんで、トーリンは、ビルボを目よりも高くさしあげました。  「待て! あんたの願いは、はたされておるぞ!」と声がかかりました。箱を持っていた老人が、頭巾とマントをかなぐりすてました。「ガンダルフじゃ! おそすぎはしなかったようじゃな。かりにわしのすいせんした忍びの者がおきらいだとしても、どうか、けがをさせないでいただきたい。ビルボをおろして、ビルボのいわんとすることを、まず、きこうではないか!」  「みんな、ぐるだな!」とトーリンは、壁のてっぺんにビルボをおろして、いいました。「このさき二度と、わしは、魔法使いとも、その知りあいともつきあわんわい。で、何がいいたいのか? このネズミのすえめ!」  「ああ、どうしたらいいだろう!」とビルボはいいました。「今度のことは何から何まで、この上なくわたしには、やりきれないんです。あなたは、前にわたしが、自分のわけまえを自分でえらんでよろしいといったことを、おぼえているでしょう? たぶんあまり正直に受けとりすぎたんだ……。ドワーフというものは、じっさいよりも言葉の方があまいと、前から話にきいていたとおりだった。あれは、あなたがたが、わたしが役にたったと思った気がした時だったのでしょう。そのわたしを、ネズミのすえだと! トーリン、あなたは、自分の子々孫々までわたしの役にたちたいとまでいったではありませんか? わたしがこのくらいは自分の分としていいと思ったものはとって、こうして、ほかにわけてやってもいいでしょう!」  「わしはみとめる。」とトーリンは、にがにがしくいいました。「そうしたことをゆるしてやろう。──だが、二度とあわんぞ!」こういってトーリンは、むきなおると、壁の上から申しました。「わしは、裏切られた。わが家の宝アーケンの石をどうしても買いもどさずにいられないことが、ちゃんとわかっておったのじゃな。その石のかわりに、宝石類を別として、金銀をことごとく集めた山の十四分の一をさしだそう。だがそれは、この裏切者に約束したわけまえにあてることとする。だからその礼金をもって、そやつは立ちさるがよい。そしてそれを好きなようにわけるがよい。ただし、そやつのとりまえは、あまり残るまいぞ。では、そやつを生かそうと思うなら、早くつれてゆけ。いまかぎり、そやつとの友情は、おわりじゃ。」それから、ビルボにむかって、こういいました。「きさまの友だちどものところへ、おりてゆけ! さもないと、なげおとすぞ。」  「金銀は、どうするのです?」と、ビルボがたずねました。  「したくができしだい、あとからくれるわ。早くいけ!」  「その時まで、この宝石はとっておく。」とバルドがさけびました。  「あなたのすることは、山の下の王のりっぱな柄にふさわしくない。」とガンダルフがいいました。「だが、なりゆきはまだ変わるじゃろう。」  「たしかに、なりゆきは、変わるとも。」とトーリンもいいました。トーリンとしては、宝ものが心を強くまどわすので、ダインの力をかりて、アーケン石をうばいかえし、お礼のわけまえを支払わないですませるかもしれないと、早くも考えていたのでした。  ところで、このようなわけでビルボは、防壁からぶらさげておろされ、あれほどつらい冒険をしたのに、さきにトーリンからもらったよろいのほかは、何一つもらわないで、仲間をはなれていきました。そしてドワーフたちのうち、ビルボが去っていくのを残念にも思い、このやりかたをはずかしく感じていた者はひとりふたりではありませんでした。  「さらば!」とビルボは、ドワーフたちにさけびました。「友だちとして、またあいたいなあ。」  「うせろ!」とトーリンがどなりました。「きさまの着ているよろいは、われら部族のつくったもの、矢もとおさぬわい。だが、急いでうせないと、そのみっともない足を射通してくれるぞ。とっととゆけ!」  「そうあわてるな!」とバルドがいいました。「あすまで待とう。昼ごろここに、またのぼってくる。宝石に見あうわけまえを、宝もののなかから持ち出してあることをたしかめたい。ごまかしがないとわかれば、われらはここを立ち去り、エルフ軍は森へ帰る。ではそれまで、さらば!」  こういって人々は陣にひきあげていきました。けれどもトーリンは、ロアークのカラスの使いをダインに飛ばせ、ことのしだいをつげて、さとられぬように急いでこいと命じさせました。  日はすぎ、夜もあけました。つぎの日は風が西にかわりました。あたりは暗く、どんよりとしていました。朝まだ早いうちに、陣のうちから、さけび声があがりました。しらせの者たちが走りこんできて、ドワーフの大軍が山の東がわのすそをまわってあらわれ、谷間に急いでくるところだと、知らせてきました。ダインがやってきたのです。ダインは夜どおし急いだらしく、トーリンたちの思ったよりも早くはせつけたのです。ダイン軍の戦士たちは、ひざまでたれるはがねのくさりかたびらを身によろい、足には、自由にまがる金属のすばらしいあみめでできた股引をはいていましたが、この作り方はダイン部族だけが知っている秘密なのです。いったいドワーフは、背の高さにくらべてたいそうな力もちですが、この部族はドワーフのなかでもことに強いひとたちです。戦いになると、重いくわ形のつるはしを両手で持ってふりまわしますが、めいめいに腰には広はばの短い剣をさげ、丸いたてを背にかけています。兵士たちのひげはこまかくわけてあんでたらし、バンドにはさみこまれています。鉄の頭巾、鉄の靴をつけたこの戦士部族の顔つきは、おそろしいものでした。  すぐさまらっぱがなり、湖の人たちとエルフたちに、武装せよとよびかけました。まもなく、ドワーフ軍が、たいへんないきおいで谷間にのぼってくるのが見られました。軍はいったん、東の山すそから川にかけての道でとまりました。しかしいく人かの戦士がさらに進み、川を渡って陣地に近づいてきました。そして戦士たちは、武器をその場において、平和のしるしに手をかかげて立ちました。バルドがあいに出てきました。ビルボもしたがいました。  「われらは、ナインのむすこダインからつかわされた。」使いの者たちは質問にこう答えました。「われらは、いにしえの王国がよみがえったのを知ったので、山のわれらの身うちのところへ急ぐもの。して、防壁を前に敵のごとくに平地に陣どるあなたがたは、いったいどなたか?」もちろん、これは、こんな場合のつねとして、ていねいで、古めかしい言葉を使ってはいますけれども、あっさりいってしまえば、「きさまらは、ここに用はない。われらのゆくてに、道をあけるか? とめだてすると、うちやぶるぞ。」ということなのです。ドワーフたちは、川のうねる谷間の土地をつっきろうというわけでした。山と川のあいだのせまい土地は、がっちりと守りがかためられていないようだったからです。  もとよりバルドは、そのまま山へいくことをゆるさぬと、きっぱりことわりました。バルドは、アーケン石とひきかえに金銀が運ばれてくるまで待とうと思っていました。それは、ひとたびこのようなはやりたけった大軍が、とりでの中にどっと加わってしまったら、とりひきができなくなると考えたためでした。ドワーフ軍は、大がかりな荷物にして食べものを運んで来ていました。ドワーフは、じつに重い荷をかつぐことができるもので、ダイン軍の戦士たちも、あれほどの急行軍にもかかわらず、武器のほかに、背なかに大きな荷をおってきたのでした。ダイン軍は、何週間もろう城するつもりでした。そうしていれば、ますますほかからもドワーフたちがかけつけてくるでしょう。なにしろトーリンは、たくさん親せきを持っているのです。その上ダイン軍は、あちこちに入口をつけなおして、そこを守りかためることもできますし、そうなれば、せめ手の軍は、山のまわりをぐるりとかこまなければなりません。とてもそれほどの人数はないのです。  じつのところ、これはそこを見こしてドワーフたちのたてた作戦でした。そのために大ガラスの使いが、トーリンとダインのあいだをせわしくゆききしたのです。けれども今のところ道は、ふさがれてしまいました。それで、いかりの言葉をなげつけたあとで、ドワーフの使者たちは、ひげのあいだでぶつくさつぶやきながら、ひきあげました。バルドはすぐさま表門に使いの者を出してみました。けれども、黄金もなく、宝もありません。どころか、使いの者たちが、矢ごろの距離にふみこむやいなや、ぴしぴし矢がとんできましたので、あわててにげかえるしまつでした。すると、陣地の方では、戦いがはじまるように、ざわめいていました。ダインのドワーフ軍が川の東岸を進んでいくからでした。  「おろかものめ!」とバルドは笑いました。「山すそにまわるとは、なんたるやつ! なるほど地下の穴での戦はこころえているかしれないが、地上の戦いをわきまえぬ者よ。やつらの右翼にそびえる岩のあいだには、われらが手の弓矢組と槍組がたくさんにかくれている。ドワーフのよろいがいかにすぐれておろうとも、ほどなく身にこたえることだろう。やつらが休みをとらぬまに、われら両がわから、はさみうちにしようぞ!」  けれどもエルフ王は反対しました。「黄金をめぐって戦いをはじめるのは、できるだけひかえたい。しょせんドワーフどもは、われらがその気なら、通りぬけることがかなわんのじゃ。さもなくば、考えもつかぬことをやらねばならぬが、それができるはずもない。仲なおりにもちこめる道が何かあろうではないか。いざとなれば、不幸にして一気にせめるとしても、数において敵ではない。」  けれどもエルフ王は、ドワーフたちの心を見そこなっていたのです。ドワーフたちは、アーケン石がせめるがわの手にあると思うと、矢もたてもたまりませんでしたし、バルドやその友軍のためらいを見ぬきましたから、相手がごたごたいいあっているうちに討ってでようと、心をきめました。  あいずもなく、いきなりドワーフたちは、音もなくおどり出て、討ってかかりました。弓づるは高なり、矢が宙にひびきました。戦いのまくが切っておとされるまぎわでした。  ところがそこにだしぬけに、にわかな暗がりが、おそろしい早さでかぶさってきました。一かたまりの黒雲が、あわただしく空をおおいました。一じんの荒々しい風にのって、冬の 雷 が、大きくなりわたり、山じゅうにとどろいて、稲光が、峰々を照らしました。そして雷のとどろくうちに、べつの一かたまりの暗がりが、つむじをまいて進んでくるのが見られました。けれどもその暗がりは、風にのってきた黒雲ではありません。ひろい雲のような鳥のむれが北の方からやってきたもので、そのむれのあつさは、つばさごしに光が見えないくらいでした。  「戦をやめい!」だしぬけに立ちあらわれたガンダルフが、前進するドワーフ軍とそれを待ちうけるこちらの軍とのあいだに、すっくと立って、両手を高々とあげながら、さけびました。  「やめい!」ガンダルフは、 雷 のような声でさけび、その杖から、稲光のような光を投げかけました。「すべての者に、おそろしいことがおこったぞ! やんぬるかな! わしの思っておった時より早く来たわい。ゴブリンどもが、やってきたのじゃ! 北のくにのボルグがせめてきたのじゃぞ。おお、ダインよ! あなたは、ボルグの父をあのモリアの戦いで殺したではないか。みよ! コウモリどもが、ボルグ軍の上に、バッタの雲のように、とんでおるわ。ゴブリンどもは、オオカミの背にまたがり、あのアクマイヌどもが、隊列をくんでおしよせるところじゃ!」  両軍に、おどろきとさわぎがまきおこりました。ガンダルフが声をあげて教えるうちにさえも、あたりの暗さは、しげくなりました。ドワーフ軍もみな立ちどまって、空を見あげました。エルフ軍は、さまざまな声音をあげて、口々にさけびました。  「こちらへ!」とガンダルフがよびかけました。「まだ話しあいをする時間がある。ナインのむすこダインを、いますぐ、こちらのわしらの陣へよぼうではないか!」  こうして、だれひとり思ってもみなかった戦いがはじまりました。それは、のちに五軍の戦とよばれたように、世にもすさまじいものでした。一方は、ゴブリン軍と荒々しいオオカミ軍、もう一方は、エルフ軍と人間の軍とドワーフ軍でした。こうなってしまったわけは、つぎのようなしだいです。まず、霧ふり山の大ゴブリンがたおれてからというもの、ゴブリン族のドワーフにむけるにくしみは、はげしいいかりにもえていきました。使いの者が、ゴブリンのあらゆる町、あらゆる村、あらゆる城をかけまわりました。ゴブリンたちは、北のくにのこの領土を手にいれようと、心をきめたからです。そして、ほかに知られない方法で、いろいろなしらせを集めました。あらゆる山のなかに、鍛冶場と武器工場を作りました。それから、やみにまぎれ、トンネルをくぐって、あの山この谷へと集まったすえに、とうとう、北のくにの高山グンダバードの山のまわりや山の下にやってきました。ここはゴブリンたちの都で、ここに数しれぬ大軍がすっかり勢ぞろいをしたのは、嵐をまって、嵐に乗じて人しれず南へ一気におしよせようというのでした。この時ゴブリンたちは、スマウグの死をきき知りました。ゴブリンたちはよろこびにいさみました。そこで夜ごとに山々のなかを急行軍したあげく、まったくだしぬけに、ダイン軍のあとをおそって、とうとうこの山へあらわれたのです。大ガラスたちでさえ、ゴブリンたちが、はるかうしろの山々とこのはなれ山とのあいだの荒地にすがたを見せる時までは、ゴブリンたちの動きを知りませんでした。どうしてガンダルフが知っていたか、どのくらい知っていたかはわかりませんが、そのガンダルフさえ、あきらかに、あまりの早さに度胆をぬかれたところでした。  ガンダルフは、エルフ王とも、バルドとも、さらにダインとも、いっしょに相談して、作戦をきめました。このドワーフ族の長は、いま敵陣に加わったわけですが、なにしろゴブリンはすべての者の敵ですし、そのゴブリンどもが来たのですから、いままでの争いは水に流したのです。一同のたのむところは、ただ、山の尾根すじのあいだの谷に、ゴブリン軍をおびきよせることでした。そしてこちらは、南と東にはりだした二つの大きな尾根すじの山のなかにすっかり陣ぞなえをしておくのです。けれどもこの作戦も、まことに危険でした。もし人数をたのんで敵が山を越えてまわったらどうでしょう。そして山の上と、背後からせめてきたらどうなるでしょう? とはいえ、ほかの計画をねるひまもありませんし、これ以上助けを求めるところもありません。  まもなく、 雷 は、ごろごろひびきながら、南東の方に遠ざかりました。けれども黒雲のようなコウモリのむれは、山のかたのあたりにむらがって光をさえぎり、低くとんだり、ぐるぐるまわったりして、人々におそろしさをよびおこしました。  「山へむかって進め!」とバルドが命じました。「山へ! まだ時間があるうちに、よい場所を陣どろう。」  南の山すじには、山あいと山すその岩場とにエルフ軍が陣をすえました。東のはり出しには、人間の軍とドワーフ軍がかくれました。だが、バルドと、足のはやい人間とエルフがいく人かえらばれて、北の方を見わたすために、東尾根のいただきによじのぼりました。ほどなくして、ふもとの前にひろがる地に、せめよせる大軍がまっ黒になって見うけられました。それからまもなく、いちばん先方のゴブリン兵たちが、尾根のふもとをめぐって、谷間におしよせてきました。それは、すばらしく早いオオカミにのった一隊で、そのさけび声やうなり声が、大気をつんざいて遠くからひびきました。いくたりかの勇ましい戦士が、いつわってくいとめるふりをして、ゴブリン軍の前におどり出ましたが、うまくひきあげて山ににげこむさいに、にげおくれてうち死にした者もかなり出ました。ガンダルフがねがったとおりに、ゴブリンの大軍は、ちょいちょい手むかいをうけた先頭の軍のすぐあとにつれて、むちゃくちゃになってこの谷間になだれこみますと、山すじにかこまれた谷間を、しゃにむにつき進んで、敵をさがしにかかりました。ゴブリンの黒と赤の旗さしものは数しれず谷間をうずめ、その大軍は、さながら大潮のように、たけりくるい、算をみだして、おしよせました。  すさまじい戦いでした。この戦は、ビルボの生涯のうちでもっともおそろしいもの、そしてもっともにくむべきものでしたが、またこうもいえるでしょうか、ビルボはその戦いでえらい手柄をたてたわけでもないのに、もっともこれをほこりに思い、また後々までくりかえして思いだしては、もっとも楽しむものになりました。ほんとうのところ、ビルボは、朝早くから指輪をはめて、人の目からかくれていましたのに、やはりあぶないめからのがれたとはいえませんでした。こういう魔法の指輪は、ゴブリンの突撃をふせぎきるものではありませんし、まぐれ矢やところかまわずつき出される槍をよけることもできません。とはいえ、指輪があれば、修羅場をぬけ出す役にたちますし、自分の首がゴブリンの兵士たちがふりまわす切っさきの目立った的にならずにすみます。  エルフ軍が一番槍をつけました。エルフたちがゴブリンをにくむこと、まことに深くはげしいものがありました。エルフたちの槍と剣は、いかりをこらしてにぎるこぶしから、つめたい炎ともえて、やみにかがやきました。敵の大軍が谷間にひしひしとつめおわったとみるやいなや、エルフ軍はいっせいに矢の雨をあびせました。矢はそれぞれに、炎の舌のようにしゅるしゅると飛んでいきました。矢のあとから、一千の槍組が山からかけおりて、おそいかかりました。ときの声は耳をつぶすばかりにとどろきました。あたりの岩は、ゴブリンの血しぶきをあびて、黒くそまりました。  ゴブリン軍がようやくはげしい攻撃をくいとめ、いきおいをもりかえしてエルフたちをおしはじめた時、谷間をわたった反対のほうから、おく深いうなり声に似たさけびがわきおこりました。そして、「モリア!」とか「ダイン、ダイン!」とか、口々に合言葉をさけびながら、くろがね山のドワーフ軍が、あのつるはしをふりまわしふりまわし、どっと反対がわにおどり出たのです。しかも、そのわきから、湖の人たちが、長い剣をふりかざしてつづきました。  手のつけようもないこんらんが、ゴブリン軍におこりました。新手のこうげきをむかえようとふりむけば、エルフ軍があらたに数をまして、ふたたびうちかかってきます。ゴブリン軍の大勢が、このはさみうちをのがれようとして、川下の方へにげかえっていきました。オオカミの多くは、ゴブリンたちに歯むかい、死んだ者やけがした者をくいあらしていました。もう勝利は三軍の手のなかにあるようにみえました。その時、大きなさけび声が、はるか上の 頂 からとどろきわたりました。  ゴブリン軍が、北がわから山によじのぼっていて、たくさんの兵たちが、表門の真上の斜面にさしかかっており、そのほかの兵たちも、山頂から尾根すじをおさえるために、しゃにむになだれをうって、山をくだってくるところで、なかにはそそっかしい者が、金切声をあげて、崖やだんがいから落ちていくのもあります。どの尾根すじにも、山の中央にある主峰から山道をたどって、おりていくことができます。その道をがっちりふせぎとめるには守り手の数がとてもたりません。勝利ののぞみは、消え去りました。三軍は、黒い潮のこうげきの第一波をやっとくいとめたにすぎませんでした。  ひるが近づきました。ゴブリンたちは、谷間で陣をたてなおしました。また血にうえてうろついていたアクマイヌの大群も集まり、そのオオカミといっしょに、ボルグの用心棒といわれる、はがねの半月刀を持った大きなゴブリンたちの一隊が、やってきました。そのうちに空は、嵐をはらんでますます暗くなりましたが、一方大きなコウモリのむれは、エルフや人間の頭上や耳もとをかすめてとびまわり、はては、けがをした者たちの上へ吸血鬼のようにくいついたりしました。いまやバルドは、東の尾根を守るために戦っていましたが、すこしずつおされてきました。エルフの貴族たちは、南の尾根の上のからすが丘の見張り場のそばで、エルフ王をかこんで、ぎりぎりの立場においこまれていました。  すると、だしぬけに大音声がとどろいて、表門から高らかにらっぱが鳴りひびきました。人々はみな、すっかりトーリンを忘れていたのです! 防壁の一部が、てこのしかけでぐいと動いて、はげしい音をたてて水たまりのなかに落ちこみました。そこから、山の下の王がおどり出し、つづいてその仲間たちがあらわれ出ました。頭巾も外套もつけておりません。かがやくよろいに身をかため、どの目にもなみなみならない赤い光が光っています。くらやみのなかに、ひときわ大きなドワーフが、消えかけている炎をあびて、純金のようにかがやきわたりました。  岩石のかたまりが、山上のゴブリンたちの手で崖からころがり落とされました。けれども、ドワーフたちは滝の下までとびおりて、うまく岩石をやりすごし、戦いにつき進んでいきました。オオカミとそれに乗ったゴブリンたちは、トーリンたちの前にたおれたり、にげたりしました。トーリンは、りんりんと斧をふるい、歯むかう者がないようにみえました。  「わしにつづけ、わしにつづけ! エルフたちよ、人間たちよ! わしにつづけ! わが身うちの者たちよ!」こうトーリンはさけびました。そのさけびは、角笛のように谷間にひびきわたりました。  前後かまわず、ダイン軍のドワーフたちはこぞって、トーリンを助けにくだり集まりました。そこへ湖の人たちの大部分も、かけおりて加わりました。そのいきおいをバルドもおさえきれなかったのです。その上ほかの方から、エルフ軍の槍組がどっとくりだしてきました。そこでふたたび、ゴブリンたちは、谷間におされ、きずつき、やぶれていきました。ゴブリン兵はるいるいとおりかさなってたおれ、谷間は、そのなきがらで黒ずみわたり、気味の悪いありさまになりました。オオカミたちも追いちらされ、トーリンは、ボルグの用心棒どものなかに、討ってはいりました。けれどもトーリンは、用心棒どもの隊列をうち破ることができませんでした。  ゴブリンたちのあいだにはいったトーリンのうしろには、死んだ者がごろごろころがっていました。たくさんの人間、たくさんのドワーフ、それにたくさんのやさしいエルフのしかばねがありました。戦いがなければ、エルフたちはこのさき長年のあいだ、森のなかで楽しく暮らしたことでしょうに。さて、谷が広がるにつれて、トーリンの武者ぶりは、しだいににぶくなりました。トーリンにしたがう者は、ごくわずかでした。トーリンの左右は守る者がなくて、がらあきでした。そこでまもなく、せめていた方がせめられる立場になりました。どちらをむいても敵ばかり。大きな円陣にかこまれてしまいました。このこうげきにぞくぞくかけつけてきたゴブリンたちやオオカミたちに、十重はたえにとりまかれたのです。ボルグの用心棒のめんめんが、おめきながらあらわれて、砂地の崖にうちかかる波のように、ドワーフたちの隊におそいかかりました。仲間の戦士たちもこの一隊を助けることができません。というのは、山からしかけるこうげきが、ぞくぞく新手をくり出して、いっそう強くなったので、二手にわかれた人間とエルフたちの軍は、ともにしだいしだいにうちしりぞけられていたからです。  こういうありさまを、ビルボはちく一たえがたい気持ちでながめました。ビルボは、からすが丘のエルフ軍にまじっていました──それは一つには、ここからならにげる時にいっそうつごうがよいためで、もう一つには(これはビルボの心にあるトックの血すじのせいですが)いよいよさいごという時になったら、エルフ王を守りぬいてやろうときめた気持ちがあったからでした。その上ガンダルフもそこにいました。魔法使いは深いもの思いにふけっているように地面にすわりこんで、おそらく、いっさいがっさいが終わる前に、さいごの大魔法をぶちまけるしたくを思いめぐらせていたのでしょう。  それもあまり先のことではなさそうでした。ビルボはこう思いました。「ゴブリンどもが表門をせめおとすのも、もう間があるまい。そうなれば、わたしたちはみな、切り殺されるか、追いつめられてつかまるかだ。人の命が失われてから、いくらなげいてもどうなるものか。こんな悪い連中が勝って、かわいそうなボンブールやバーリン、フィーリやキーリ、そのほかの友だちが、いやその上、バルドも湖の人たちも、さては陽気なエルフたちまで、みじめなさいごをとげるくらいなら、あのスマウグが、いまいましい宝ものをかかえて生きている方が、ずっといい。ああ、やりきれない! わたしは今まで、かずかずの戦のほめ歌をきかされてきた。そしていつも、ほろびる者に栄光があると思ってきた。だが戦とは、ひさんなばかりでなく、まことにやりきれないものだ。この戦に加わらなかったらなあ!」  雲が風にちぎれて、赤い夕日が西からかっとさし出ました。くらがりがにわかにかがやきわたったので、ビルボは、まわりを見まわしました。そして思わずあっと、さけびました。心ぞうがとびあがるばかりの光景を見てとったのです。はるかな空のかがやくなかに、いまだ小さいながら堂々とした、黒い点が浮かぶのを……。  「ワシだ! ワシだぞ!」ビルボはさけびました。「ワシのむれが、やってくるぞ!」  ビルボの目は、くるいませんでした。ワシのむれは、風をまいて一列また一列と、北のくにのあらゆる高山の住処から集まってきたにちがいないと思われる大群になって、ぐんぐん飛んできました。  「ワシだ! ワシだ!」とビルボは、こおどりをして、両手をふりふり、さけびつづけました。そのすがたはエルフたちに見えなくとも、その声はきこえました。まもなくエルフたちも、声をあわせてさけびはじめ、そのさけびは谷間をぬって、こだましました。山の南の尾根からでなければ、まだ何も見えなかったのですが、谷間ではなんだろうといぶかって、天空を見あげました。  「ワシが来たぞ!」もう一度ビルボは、さけびました。けれども、その瞬間に、上からがらがらと落ちてきた石が一つ、ビルボのかぶとにはげしくうちあたって、ビルボは音をたててその場にたおれ、あとは何もわからなくなりました。 18 帰りの旅  ビルボがわれにかえってみると、文字どおりのひとりぼっちでした。からすが丘のしき石の上にたおれていて、あたりには、だれひとりいませんでした。雲一つない明るい空が、真上にひろがり、ひるまなのに、ひえびえとしました。ビルボは、身ぶるいしました。からだは石のようにひえきっているくせに、頭だけは、かっかと火のようにもえています。  「いったい、どうなっているのだろう?」ビルボは、ひとり言をいいました。「とにかくまだ、死せる英雄にまつられたわけではないな。そうなるのは、まだまださきのことらしい!」  ビルボは、いたむからだをおこして、すわりました。谷間をながめやると、生きて動いているゴブリンどものすがたが見えません。しばらくして頭がすこしはっきりしてくるにつれて、下の岩のあいだにエルフたちが動いているのが見えたように思いました。目をこすって、見なおしました。たしかに、平地のかなりむこうに、あいかわらず三軍の陣地があります。それにまた、表門を出はいりしている者たちがあるのは、あれはなんでしょう? ドワーフたちがせっせと防壁をとりこわしているようです。けれども、何もかも、おそろしく静かでした。なんのよび声もあがらず、歌声もひびきません。深いかなしみが、あたりいったいにこもっているかのように思われました。  「とうとう勝った、のだろうな!」とビルボは頭がずきずきするのを感じながら、いいました。「それにしては、ばかにふさいでるようじゃないか。」  するととつぜん、だれかが山をのぼって、こっちに近づいてくることに気づきました。  「おーい、ここだ!」ビルボは、よわいふるえ声でよびかけました。「よう、どうした? どうなったのだい?」  「岩のあいだで声がするのは、いったいだれだ?」その人は、ビルボのすわっているところから、あまりはなれていないあたりに立ちどまって、ビルボのほうをうかがいました。  とたんに、ビルボは、指輪のことを思いだしました。「これはたまげたぞ!」とビルボはいいました。「かくれみのも、ぐあいのわるいものだなあ。これさえなければ、ベッドのなかで、あたたかく気持ちよく寝られたかもしれないのに。」そしてあわてて指輪をはずすと、大きな声を出して名のりました。「わたしは、ビルボ・バギンズだ。トーリンの仲間だ!」  「あなたを見つけたのは、つごうがよかった!」とその人は、急いで近よってきました。「どうしてもあなたに来てもらいたいので、もう長いことみんなで探していたのです。もし魔法使いのガンダルフが、あなたの声をこのあたりできいたといわなかったら、たくさんの戦死者のなかにかぞえいれられてしまったでしょう。わたしがここに探しにつかわされたのも、これでさいごというところでした。けがはひどいですか?」  「頭にひどい一うちをくらったようです。」とビルボがいいました。「けれども、かぶとをかぶっていましたし、だいたいわたしは石頭なんです。でもやっぱり気分がわるくて、両足がわらでできたようにへなへなですよ。」  「谷間の陣まで、おろしてあげますよ。」とその人は、ビルボをかるがるとだきあげました。  その人の足は早く、しっかりしていました。ほどなく、ビルボは、谷間のテントの前に、おろされました。そこにガンダルフが、片手をほうたいでつって立っていました。魔法使いさえも、きずをおわずににげることができなかったのです。そういえば全軍にきずのない者は、かぞえるほどでした。  ガンダルフはビルボを見て、大よろこびでした。「バギンズ!」とガンダルフは思わずさけびました。「なんとしたこと! 生きていてくれたか。うれしいぞ! あんたもとうとう運にみはなされたかと、思いはじめていたところじゃ。いや、すさまじいものじゃった、またなんともむごたらしいものじゃった。ところで、ほかに知らせることがある。いいか!」とガンダルフは、重々しい声になってつけくわえました。「あんたは、よばれとるんじゃ。」そしてガンダルフは、ホビットをまねいて、テントのなかにいれました。  「いかがじゃ? トーリン!」と、テントにはいりながら、ガンダルフがよびかけました。「かれをつれてきたぞ。」  そこにはまさに、トーリン・オーケンシールドが、たくさんのきずをおって、ふしており、ばらばらになったよろいと、ぼろぼろになった斧が、床におかれてありました。トーリンは、そばに来たビルボを見あげました。  「さらばじゃ! わがしたしき忍びの者よ。」とトーリンはいいました。「わしはこれから、父祖のかたわらにいこうはずの天の宮居におもむくのじゃ。この世がすっかりあらたまる時までな。わしはもう、ありとある金銀をすてて、そのようなものの役立たぬところへおもむくのじゃから、心をこめてあなたとわかれたいと思う。わしが表門のところであなたにあびせたあの言葉とふるまいを、きれいに水に流してほしいのじゃ。」  ビルボは、かなしみに胸をふさがれて、片方のひざをつきました。「さらば、山の下のまことの王よ!」とビルボはいいました。「こんなさいごをむかえなければならないとは、まことにつらい冒険でした。これは、山なす黄金をもってしても、つぐないきれません。でもわたしは、命をかけてあなたと冒険をともにしたことが、うれしくてなりません。それだけは、わが家のだれもうけたことのないわたしのほこりです。」  「いいや!」とトーリンがいいました。「あなたの心のなかには、あなたが知らないでいる美しさがあるのじゃ、やさしい西のくにのけなげな子よ。しかるべき勇気としかるべき知恵、それがほどよくまじっておる。ああ、もしわしらがみな、ためこまれた黄金以上に、よい食べものとよろこびの声と楽しい歌をたっとんでおったら、なんとこの世はたのしかったじゃろう。だが、かなしいにせよ楽しいにせよ、もうわしは、ゆかなければならぬ。さらば、じゃ!」  それからビルボは、うしろをむき、ひとりしょんぼりとテントを出て、毛布にくるまってただすわっておりましたが、信じようと信じまいとみなさんの勝手ですけれども、ビルボの目は赤く、声はしわがれるまで、むせび泣いていたのです。まことにビルボ・バギンズは、小さなやさしい心をもったホビットでした。こののちビルボが、冗談がいえるようになるまでには、長くかかったものです。「天のめぐみだったのだ、」と、やっとさいごにビルボはひとり言をいいました。「あの時目がさめて気がついたのは。トーリンには生きていてもらいたかった。だがああしてなかよくわかれたのはうれしいなあ。だがビルボ・バギンズよ、おまえはばかだぞ。あの宝石ではとんだ大失敗をやらかしてしまった。せい一ぱい平和と安らぎをあがなおうと努力したのに、大戦争がおこってしまったからなあ。とはいえ、それはどうにもしかたがなかったのだ。」  ビルボが気を失ってからおこったできごとをビルボはあとになってきかされました。でもそれは、ビルボにはよろこびよりもかなしみの種になりました。そしてすっかり自分の冒険にあいそがつきました。今は家へ帰りたくて、骨がうずくほどでした。けれども帰りは、もうすこしばかりおくれることになりますから、そのあいだに、できごとのあらましをお話ししておきましょう。  ワシ族は、かなり前から、ゴブリンたちがもそもそしているのをあやしいと思っていました。ワシのするどい見張りの目にかかっては、山のなかのどんな動きも、かくし通せるものではないのです。そこで、ワシたちも、霧ふり山のワシの王の下に、ぞくぞく集まってきて、とうとう遠くから戦いのけはいをかぎつけ、ちょうど折よく大風にのってすばやく飛んできたのです。山のゴブリンどもをだんがいから投げおとしたり、あわてふためくゴブリンたちを三軍のなかへ追いこんだりして、さしもの大軍を山からすっかり追いはらったのは、ワシのむれでした。こうしてたちまちはなれ山をうばいかえしてくれたので、谷をはさんだ山にいたエルフと人間は、下でおこなわれていた戦いにはせ加わることができました。  けれども、ワシのむれが加わってさえも、数の上では、まだまけていました。こうしてふたたびじりじりおされてきたどたん場に、ビヨルンがあらわれたのです──どうして、またどこからこのクマのひとがやってきたのか、だれもわかりませんでした。ビヨルンは、ただひとりで、しかもクマの形をしたままでやってきました。このひとは、みなぎるいかりで、とほうもない大きさにふくれあがったように見えました。  ビヨルンのあげるうなりは、さながら大太鼓か大砲のようでした。ゆくてのオオカミやゴブリンどもを、あたるをさいわいわらか羽根のようにおしのけていきました。にげる者はうしろをおそい、 雷 がおちかかるようにくだいてしまいました。ドワーフのむれは、低い丸い丘の上で、族長たちをかこんで、にっちもさっちもいかないありさまになっていました。するとビヨルンは、からだをかがめて、槍をさされてたおれていたトーリンをひろいあげ、戦いのさなかから運びだしていきました。  そしてすばやくひきかえすと、いかりを倍につのらせて、もはや敵する者なく、やぶる武器のないいきおいでした。ビヨルンは、用心棒どもをけちらし、総大将のボルグさえひきたおして、ふみつぶしてしまいました。そのためにゴブリン軍には、大こんらんがまきおこりました。そしてだれもかれも、あらゆる方角ににげちりました。けれども、ゴブリンの敵である三軍の人々には、新しいのぞみがわいてきて、にわかに元気をもりかえしました。三軍はゴブリンたちを追いかけて、その大部分がにげのびられないようにしました。多くのゴブリンたちを早せ川に追いつめました。南と西の方ににげた者は、森の川にそう沼地でさがし出され、そこで、いちばんあとまで残った残りの敵の大部分はうちほろぼされました。また、どうやらこうやら森エルフの王国のあたりまで落ちのびてきた者も、そこで討ちはたされるか、やみの森の道のないくらがりにのみこまれて、人しれず死にはてるかしてしまいました。その時のかずかずの歌によりますと、北のくににさかえたゴブリンの四分の三がこの日にほろび、山々はそののち長らく平和になった、ということです。  勝利は、夜がおとずれる前に、たしかになりました。けれども、ビルボが陣に帰って来たころも、追撃はまだつづけられていました。そこで、ひどい手負いの者のほかは、谷間にあまり残っていなかったのです。  「ワシのむれは、どこですか?」とビルボは、その夜ガンダルフにたずねました。ビルボは、あたたかい毛布をたくさん重ねて横になっていました。  「いくらかは追撃中じゃ。」と魔法使いがいいました。「だがあらかた、巣に帰っていった。ワシたちは、ここに残りたがらず、しののめの光がさすとともに飛び去っていった。ダインが、ワシの王に黄金の 冠 をさずけ、とことわにワシ族と仲よくしようとちかっておった。」  「それは、残念です。いやわたしは、ワシたちにまたあえるかと思って……」とビルボは、ねむそうにいいました。「きっと、家へ帰るとちゅうであえるでしょうね。もうまもなく、帰れるでしょうか?」  「いつでも、すきな時に帰れるさ。」と魔法使いはいいました。  ところがほんとうにビルボが出かけたのは、それからいく日かたってからでした。人々は、トーリンを山のおくぞこ深くにほうむりました。そしてバルドが、なきがらの胸に、あのアーケン石をのせてやりました。  「山がくずれるまで、その胸にいこわせよう!」とバルドがいいました。「ここに住むトーリンのともがらに、のちのちまでよい幸せをもたらすように!」  そのあとで、トーリンの墓にエルフ王がオルクリストをささげました。これはトーリンをつかまえた時にとりあげた、エルフの名剣です。歌にもうたわれていますが、その剣は、敵が近づけば闇にかがやき、ドワーフのとりでがおびやかされないといいます。さて、ナインのむすこダインは、ここに住居をさだめ、山の下の王の位につきました。そのためにあまたのよそのドワーフたちも、即位を祝って、むかしの部屋部屋に集まってきました。トーリンの十二人の仲間のうち、十人が生き残りました。フィーリとキーリとは、たてをかかげ、このふたりの母の兄さんにあたるトーリンをからだでかばったまま、たおれたのです。ほかのドワーフたちはみな、ダインとともに住むことになりました。ダインがじょうずに宝ものをわけてくれたからです。  もちろん、はじめに考えてあったようなやり方で、バーリンとドワーリン、ドーリ、ノーリ、オーリ、オインとグローイン、ビフール、ボフール、ボンブール、さてはビルボもいれて、それぞれに宝をわけることは、なんの問題もありませんでした。しかもなお、十四分の一の金銀は、細工したものもしないものもあわせて、バルドにあたえられました。ダインは、「われらは、死んだ者が約束したことを重んじよう。しかもあの人は、いま、アーケン石を手にいれているのだから。」といったのです。  十四分の一のわけまえといっても、人の世の王さまの持ちものにくらべれば、はるかにはるかにたちまさった大財産でした。その宝のなかからバルドは、湖の町の統領に、たくさんの黄金をおくりました。また、自分の部下や友だちにも思うさまふるまいました。またエルフ王には、とくに王の宝石ずきなところから、ダインが自分にかえしてくれたギリオンのエメラルドをそっくりさしあげました。  ビルボにむかって、バルドはこう申しました。「これらの宝は、わたしのでもあるが、あなたのものだ。前の話しあいがなりたたなかったのも、宝をとるのやらぬのであまり欲が強すぎたからだった。あなたは、当然とってよいわけまえをぜんぶ自分から進んで投げ出されたのではあったが、いくら後悔したとはいえ、トーリンの言葉がほんとうになってはならない。つまりあなたにわけまえをさしあげなかったら、とんでもないことです。わたしたちは、あなたにいちばんたくさんとっていただこうと思っています。」  「まことにありがたいことです。」とビルボはいいました。「けれどもいただかないほうが、わたしは心がかるくなります。いったいそれほどの宝ものをことごとく、道中戦いもなく殺しあいもなく、家へ持ち帰れるものでしょうか? さらに、かりにそれを持ち帰ったものとして、さてそれで、わたしに何ができるものでしょうか? あなたがたの手におまかせしておくのがいちばんだと思いますよ。」  こうしてさいごに、ビルボはようやく、一つには金、一つには銀をつめた二つの小箱なら、じょうぶな小馬一頭で運べますから、それだけ受けとることにしました。「これくらいでしたら、わたしにもなんとかなるでしょう。」とビルボはいいました。  とうとう、すべての友だちに、さよならという時がきました。「さよなら、バーリン!」ビルボはひとりびとりにいいました。「ではさらば、ドワーリン、さらば、ドーリ、ノーリ、オーリ、さよなら、オイン、グローイン、たっしゃで、ビフール、ボフール、ボンブール。みなさん、ひげをどうぞすりへらさないように。」こうあいさつをのべてから、山の方へむかって、ひと言つけ加えました。「さらば、トーリン・オーケンシールドよ! フィーリとキーリよ! あなたがたの思い出は、消えることがあるまい!」  やがて、ドワーフたちは、表門にならんで低く頭をさげました。けれども言葉はのどにつっかかってしまいました。「さようなら、お元気で!」と、やっとバーリンがいいました。「この部屋部屋がむかしのように美しくなったころ、いつかまた、あなたが来てくれたら、すてきなごちそうをいっしょに食べましょう!」  「またみなさんがわたしの家の方をとおりかかったら、」とビルボもいいました。「ノックするまでもありません。お茶は四時。とはいえ、いついらっしゃっても、あなたがたなら大かんげいですとも!」  そしてビルボは、みなに背をむけて遠ざかっていきました。  エルフ軍は、堂々と進んでいきました。兵士の数がずいぶんへったのは悲しいことでしたが、いまは北の国々が、このさき長く陽気になるというので、軍は勇んでいました。竜は死に、ゴブリンどもはほろびました。エルフたちの心は、冬のあとによろこびにみちた春をのぞむようでした。  ガンダルフとビルボは、エルフ王のあとにつづいて、馬に乗り、その横にビヨルンが、また人間のすがたにもどって、のっしのっしと歩いていました。ビヨルンは、みちみち大声で笑ったりうたったりしていました。このようにして一同は進んでいくうちに、とうとうやみの森の入口に近い、森の川が流れだすところより北寄りの土地に来ました。そこで一同はとまりました。エルフ王がしばらく宮殿にたちよってくれとたってたのんだにもかかわらず、ガンダルフとビルボは森の中へふみいろうとしませんでした。ふたりは森のふちをたどって、ぐるりと北のはしをまわり、森とたそがれ山のふもとまでのあいだにひろがる荒野に進むつもりだったのです。その道は長くて、たいくつなものでしたが、いまはゴブリンどもがいなくなったので、木々の下かげのおそろしい道をたどるよりは、安心がいくように思われました。その上、ビヨルンも、いっしょにその道をいくはずでした。  「さらば! おお、エルフ王よ!」とガンダルフがいいました。「この世が若いうちに、緑の森に楽しくいませ! あなたの国のみなさんも、楽しくすごされよ!」  「さらば! おお、ガンダルフよ!」とエルフ王もいいました。「あなたというひとは、いちばん助けがほしいところに、まったく思いがけずにあらわれるかたじゃ。どうかわが宮殿にもたびたびあらわれて、ますますわしをよろこばせてもらいたい!」  「おねがいがありますが、」とビルボがもじもじして口ごもりながら、だしぬけにいいだしました。「このおくりものをうけてくださいませんか!」こういってビルボは、別れにあたってダインがくれた、銀のひもに真珠をつづった一かけの首飾りをさしだしました。  「おお、ホビットよ、いったいなんのわけがあって、わしがこのようなおくりものをいただくのかな?」と王がたずねました。  「それはその、あなたは、ごぞんじないでしょうが、その、」とビルボはこまってまごついたようにいいました。「つまりその、あなたの、なんといいますか、おもてなしに、わずかばかりのおかえしがしたいのですよ。忍びの者にも一分のなさけはあると申すことです。わたしは、あなたの酒をたくさんいただき、あなたのパンをどっさりいただきました。」  「いただこう、あなたのおくりものをな。まことの貴人ビルボどの!」と王は重々しくいいました。「ではわしは、あなたをエルフの友とよび、幸せをいのろう。あなたの影もさかえますよう(でないと、ついまた、ものとりがしたくなろうから)! では、さらば!」  こうしてエルフたちは森の中へとってかえし、ビルボは、家路へむかう長い旅をはじめました。  ビルボは、帰りつくまでに、かずかずの困難と冒険にであいました。人けのない荒地のくには、やはり荒地のくにでした。そのころはゴブリンのほかにも、いろいろな魔物が住んでいました。しかしビルボは、しっかりと案内され、守られていました。なにしろ魔法使いがいっしょですし、道をこころえたビヨルンまでいるのです。ですからたいした危険にはおちいらずにすみました。とにかく、冬至までに、ガンダルフとビルボとは、森のはしをぐるりとまわりきって、ビヨルンのやしきの入口にたどりつきました。そしてそこでしばらくのあいだ、ふたりはとどまることになりました。年のくれの祭りのころは、あたたかで、にぎやかでした。森の開拓の人々が、ビヨルンのまねきに応じて、遠く広くから集まってきました。霧ふり山のゴブリンたちは、今はほんのわずかになって、びくついて、ようやくさがした山の奥根にかくれてしまいましたし、オオカミどもも森から消えうせてしまいましたので、人々は安心してそとを歩くことができました。ビヨルンは、これからのち、おしもおされもしないこの地方の大主公となり、山地と森のあいだの広い土地をとりしまりました。うわさによりますと、そののち長いあいだ、ビヨルンの血すじをひいた家の者に、クマの形をとる力が伝わり、子孫のうちには荒々しい者も悪い者もありましたが、ほとんどがビヨルンと似て、あれほどの大きさや力は持ちあわせませんでしたけれども、心の正しいひとたちでした。そのころになるとさいごまで残っていたゴブリンたちも、霧ふり山から追い出されて、新しい平和が、荒地のくにのさかいにおよんできたのです。  もう春でした。陽気のよい、明るい日のさす晴れわたったある日、ビルボとガンダルフとは、ついにビヨルンの家をはなれることにしました。ビルボにしてみれば、あれほど待ちのぞんだ家路につくわけですが、今はビヨルンの庭の花々が、夏のさかりにおとらないすばらしさで咲きほこっていて、ビルボは旅立つのに心残りなほどでした。  とうとうふたりは、長い旅にのぼり、この前ゴブリンにとらえられたあの峠にかかりました。けれどもふたりは、朝のうちに峠について、そこから来た方をふりかえって、眼路のかぎり広がった土地の上に、白っぽい朝日がさすさまをながめました。そのかなたに遠く青みかすんで、やみの森がひろがり、春になってもその森の手前の緑は黒ずんでみえました。さらに遠く、見えるか見えないかのさかいにはなれ山がありました。まだ雪のとけていない絶頂は、白く光っておりました。  「まことに、火のあとには雪がくる、だ。竜にもさいごはあるものだなあ。」とビルボはいいました。そして今ビルボは、自分のへてきた冒険にくるりと背なかをむけました。ビルボの血のなかのトック家の気質は、いっぺんにおとろえたようで、バギンズ家の方が、これから日ごとに強くなっていきました。「今はただ、わたしのひじかけいすにかけたいと思うばかりだ。」とビルボはいいました。 19 もとの古巣  ふたりが、「さいごの(こんどは、はじめの、となりますが)憩」館のある、さけ谷の谷間の川岸に、ようやくたどりついたのは、五月一日のことでした。その時も夕方で、ふたりの小馬はつかれ、ことに荷物をつけた方がすっかりまいっていました。そこでふたりも馬も、ゆっくり休みたいものだと思っていたところでした。そう思いながらけわしい山道をくだっていきますと、ビルボは、まるで自分が別れた時からずっと変わらずに、木々のあいだでうたいつづけていたかのような、エルフの歌声を耳にしました。そして乗り手たちが森の下手の草地にでるが早いか、むかしと同じように、どっとエルフたちが歌をうたいはじめました。それは、こんな歌でした。 竜はとうとう死にうせたよ! 骨はばらばらにくずれおちた。 うろこもよろいも、ぼろになった。 竜の栄華は むなしくなったよ! すべてこの世の 剣はくちはて、 王座も王冠も くずれおちて、 とわにと願う権力も富も、 いっさいがっさい 消えたとて、 ほら、青草は またもえ出した! 木の芽も ふたたびゆらぎ出た! あわだつ水は ほとばしり、 われらエルフは いまもうたうよ! おいで! ツララ、ラリー! さあ、谷間にもどっておいで! はかりしれない宝石よりも、 星々は 明るくきらめくよ。  銀 をつみ重ねたよりもあでやかに、 月は白々と かがやき出るよ、 いろりに燃えるいろり火は、 土から掘りだす黄金よりも赤いよ。 だのにどうしてそんなにあくせくするの? よお! ツララ、ラリー! さあ、谷間にもどっておいで! そのおふたりさん、どこへいくの? こんなにおそく、かえってきたの? 川はさらさら流れているし、 星はきらきらもえているのに。 そんなにくたびれて、悲しそうに、 そんなにわびしそうに、どこへいくの? われらエルフがどんななやみでも、 やさしくむかえてなおしてあげよう。 歌は、ツララ、ラリー! さあ、谷間にもどっておいで! ツラララ、ラリー、 ファラララ、ラリー、 ファラ!  それから谷間のエルフたちがすがたをあらわして、ふたりをにぎやかにむかえ、川を渡ってエルロンドのやかたにみちびきました。そこには心からの暖かいもてなしがありましたし、夕になれば、ふたりの冒険のお話に耳をかたむけるたくさんの熱心なきき手がおりました。その晩話をしたのはガンダルフで、ビルボの方は、すぐにもの静かになり、うとうとしてしまったのです。お話は、ビルボがその中にいたのですから、ビルボがなによりもよく知っていたところですし、帰りの道中でも、ビヨルンのやしきでも、ビルボがすっかり魔法使いに話してきかせたものでした。それでもときどきビルボは、自分の知らない部分がでてくると、ひょいと片方の目をあけて、じっとききいるのでした。  そんなふうにして、ビルボは、ガンダルフがどこでどうしていたかを知りました。ビルボは、エルロンドに話していた魔法使いの話を耳にしたのです。それによると、ガンダルフは、さまざまな知識とよい魔法をおさめつくしたりっぱな魔法使いたちの一大会議に出かけていたのでした。しかもこの魔法使いたちが力をあわせて、やみの森の南に暗いかくれ家をかまえていたおそろしい死人うらない師をとうとう追いはらってしまったというのです。  「やがて、あの森も、ずっとすがすがしいものになるじゃろう。」とガンダルフはいいました。「北のくには、長いあいだのおそろしさからぬけだせたのじゃ。それにしても、あのいやらしいやつをこの世からきれいになくしたかったよ。」  「ほんとうに、そうだとよかったなあ。」とエルロンドがいいました。「しかしあれを退治するには、これから長いあいだかかるだろう。」  ふたりの旅の話がすむと、またべつの、話が話され、大むかしの物語やら、近ごろでの物語やら、どの時代でもない物語やらがさかんにとりかわされて、とうとうビルボは首ががっくりと胸もとにおち、すみの方ですやすやといびきをかいて眠ってしまいました。  目がさめてみると、まっ白いベッドの上に寝ていて、あけはなたれた窓から月がさしていました。月の下には、たくさんのエルフたちが、流れの岸で、声高らかにひびきよく歌をうたっていました。 うたおうよ、うきうきと。うたおうよ、もろともに! 風はこずえに、ヒースの原に吹く。 星は花ざかり、月は咲きみちて、 夜の宮居の窓は、あかるい。 踊ろうよ、うきうきと。踊ろうよ、もろともに! 草はやわらかく、ふめば羽根のよう。 川は銀色に、影をきらめかす。 楽しきは五月、楽しきはこの集い。 うたおうよ、こころよく。あの人に夢をおりこもう! 眠りの波にただよわせ、静かにそばをはなれよう! 旅人はいま眠る。枕よ、安かれ! ハンの木、ヤナギ、ねんころり。 あすの風が吹くまでは、なやみつらみはいうまいぞ。 月はかくれろ、眠りをかくせ、 カシの木、ノバラ、ねんころり。 あかつき空をそめるまで、流れはつぶやきいうまいぞ。  「やあ、陽気なみなさん!」と、ビルボがそとをのぞいて、いいました。「この月では何時ごろでしょう。あなたがたの子守歌では、よっぱらいのゴブリンでも目をさましてしまうな! でも、わたしはうれしいんですよ。」  「あなたのいびきでは、石の竜でも目をさますでしょう。でもわたしたちはうれしいの。」とエルフたちは、大笑いしながら答えました。「もうそろそろ、夜明けになるところです。それにあなたは、夕方から眠りましたからね。きっとあしたは、すっかりつかれがぬけるでしょう。」  「エルロンドのやかたでは、ちょっと寝てもほんとに安まります。」とビルボがいいました。「でもできるだけゆっくり休みましょう。では、あらためて、お休みなさい、やさしいみなさん!」こういってビルボは、ふたたびベッドにもどると、朝おそくまで眠りました。  こうしてまもなく、ビルボのつかれは、エルロンドのやかたですっかりとれました。ビルボは、谷間のエルフのむれにまじって、明けても暮れても陽気な遊びや踊りに加わってすごしました。けれども、こんな楽しいところでさえも、ビルボをそうそうひきとめてはおけませんでした。ビルボの心には、いつもふるさとのわが家のことがありました。それで、一週間たつと、ビルボは、エルロンドに別れをつげ、エルロンドがよろこんで受けとってくれるようなこまごましたおくりものをわたして、ガンダルフと小馬にのって立ち去りました。  ふたりが谷間をはなれると、前方の西の空がくもって、風雨がおそって来ました。  「楽しきは、五月、か!」とビルボは、雨が顔をうちはじめた時、いいました。「でも、すぎこし方は、すでに昔がたりになり、わたしたちは家路についているんだ。この雨は、はじめてふれるふるさとの味なんでしょうね。」  「まだ道中は長いぞ。」とガンダルフがいいました。  「でも、この道でおしまいですよ。」とビルボはいいました。  ふたりは、荒地のくにのさかいになっている川について、(みなさんは、おぼえておいででしょうが)あのけわしい岸をおりて、川の渡り場に立ちました。川水は、夏の近づくころの雪どけのためと、降りつづいた雨のためとで、あふれかえっていました。それでだいぶなんぎではありましたが、ふたりは川を渡りおえて、夕やみのかかるころに、旅のさいごの道すじへ足をふみいれました。  それは、前に経験したとおりにやはりなかなかたいへんなものでした。けれどもこんどは、道づれが少なく、ずっと静かでした。その上、今はトロルがいませんでした。道のそこここで、ビルボは、一年前のできごとやら会話やらをまざまざと思いだしました。(一年前、でもビルボには、十年以上も前のように思われました。)もちろんビルボは、いちはやく小馬が川に落ちこんだ場所に気がつきました。そのために一同がトムとバートとビルのトロルたちとのとんでもない冒険にまきこまれたのでしたっけ。  この道からあまりはなれていないところに、ふたりはトロルの黄金を見つけだしました。うめておいたのがそのまま、だれの手にもかからないで、ありました。その黄金を掘りだした時、ビルボは「わたしはもう、一生つかいきれないくらい持っています。」といいました。「あなたが、とった方がいい、ガンダルフ。あなたの方が、きっと使い道があるはずだ。」  「使い道はあるさ。」と魔法使いがいいました。「でも、きちんとわけようや! あんたにだって、思いがけない使い道ができるものじゃ。」  こうしてふたりは、めいめいのカバンの中に黄金をわけてしまい、小馬につけましたが、小馬の方こそ、重くなってめいわく千万でした。それからはおもに、ふたりとも馬からおりて歩いたもので、進みがだいぶおそくなりました。けれども大地は青々として、ホビットが気持ちよく足のうらでふみしめていける青草がしげっていました。ビルボは、赤い絹のハンケチで顔をふきました。いや、自分のハンケチは一枚もぶじに残らなかったので、エルロンドからこの赤い一枚をかりてきたのです。いまは六月、初夏にかかっていましたし、天気がまぶしいほどよくて顔の汗をふくほど暑くなっていました。  なにごとにもおわりがあるように、このお話にも、とうとうさいごの日が来ました。その日ふたりは、ビルボの生まれて育った土地を目にしました。土地のすがたも木々の形も、ビルボには、自分の手のひらの中のように見おぼえがありました。道の高みにのぼって、ビルボは、自分の住むお山をはるかにながめることができました。するとビルボはふいにその場に立ちどまって、こんなことを口ずさみました。 道は、はてしなくつづく。 岩をこえ、木をくぐり、 日の照らしたことのない洞穴のわき、 海にそそいだことのない流れのそばを。 冬ふりつもった雪をのりこえ、 六月の楽しい花野をわたり、 草をふみ、石をしだき、 月あびる山々の下を、道はつづく。 道は、はてしなくつづく。 雲のかげに、星の下に、 とはいえ、遠くさまよった足も、 ついには、家路にむかうものよ。 火と剣を見てきた目、 岩の奥処のおそろしさを見た目も、 とうとう、むかしから見なれていた、 緑の牧場と木々と山をながめるのだ。  ガンダルフは、まじまじとビルボをながめました。「なんと、ビルボ!」ガンダルフがいいました。「あんたは、どこかえらく変わったなあ! もうむかしのホビットじゃないわい!」  こうしてふたりは、橋を渡り、川ぞいの水車場をすぎ、ビルボの家の入口に、帰りつきました。  「こりゃ、どうだ! いったい、どうなっているんだろう?」ビルボは、声をあげました。そこは、たいへんなごったがえしのさいちゅうなのでした。ちゃんとした人もあり、そうでない人もあり、あらゆる人たちが、戸口のそばにむらがっていて、たくさんの人がそこから出たりはいったりしていました。しかもその出はいりに、入口のマットで足をふく者さえないしまつです。それに気がつくと、ビルボはやきもきしてしまいました。  ビルボがたまげたとしたら、その人たちの方は、もっとぶったまげたのです。売り立てをしているさいちゅうに、その家の主人が帰ってきたのですから。なるほど、おもての門のところに黒字と赤字でしるした大きなビラがはってあり、「六月二十二日、うじ・うじ・もぐり商会は、ホビット村山の下袋小路、故ビルボ・バギンズどのの家具調度類を、せり売りにて売り立てます。正十時開始。」と書いてありました。ところで今は、お昼ごはんのころで、品物のあらかたは、ただに近い値段から二そく三文までのはばで売りとばされていました。せり売りではそれもべつだん変わったことではありませんが。ビルボのいとこにあたるサックビル・バギンズの一家のものが、今むちゅうで自分たちの家具をどこにおいたらいいかと、ビルボの部屋をしらべまわっているさいちゅうでした。かんたんにいいますと、ビルボは「死んだものとみとめ」られていたのです。そして、このみとめ方がまちがいとわかっても、うれしがる人ばかりではありませんでした。  ビルボ・バギンズどのが帰ってきたことから、お山の上も下も、川むこうもいたるところに、わけのわからない不安がもちあがってしまいました。人のうわさは七十五日、どころではありませんでした。まったくのところ、めんどうな法律てつづきがそれから長年つづいたのです。つまりバギンズどのが、たしかに生きているとみとめられるには、まことに長くかかったのでした。売り立てでとくな買いものをした連中には、くどいほどいってきかせなければならず、けっきょく時間がむだでしたからビルボは、たくさんの自分の家具を買いもどさなければなりませんでした。でも自慢の銀のさじの大部分は、まことにふしぎな話ですが、消えうせてしまって、どこをどうさがしてもわかりません。ビルボにしてみれば、サックビルの一家をあやしいと思いました。ところが先方では、帰ってきたバギンズを、本物とぜったいにみとめず、のちのちもビルボとは言葉をかわしませんでした。ほんとうのところサックビル一家は、ビルボのすてきなホビット穴に、住みたくて住みたくてならなかったのです。  まもなくビルボは、自分のなくしたものがさじどころではないことを、はっきりとさとりました。ビルボは、まともな評判をなくしてしまいました。なるほど、そののちもずっと変わらずに、エルフの友でしたし、ドワーフ族や魔法使いの仲間や、この道を通ってゆく旅人たちからは、ふかい尊敬をうけましたけれども、もはやふるさとでは、ちゃんとしたひとではなかったのです。近所となりのホビットたちから「変なひと」といわれることになりました。ただ、トックの家すじの若いおいやめいからは、変に思われませんでしたが、そんな若い者たちも、年上の者から、ビルボと仲よくするといい顔をされませんでした。  それでもビルボの方は、いっこうそんなことを気にかけませんでした。ビルボはすっかり満足していました。だんろにかかった湯わかしのわく音は、あの思いもかけない集まりの日よりむかしには、感じなかったほど今は美しい音色にきこえました。ビルボの剣はだんろ台の上にかけてあります。ビルボのよろいかたびらは、広間の台にならべてあります(よろいはのちに、博物館に貸しましたが……)。ビルボの金銀は、時に役にたつおくりものに、時にむだなおくりものになって、あらかた使われてしまいました。若いおいやめいがビルボを好きだったのも、いくらかはこれが原因でした。また、ビルボの魔法の指輪は、これはもう、まったく秘密にしておきました。そして、おもにいやな人が訪ねてきたりした時に、これを使いました。  ビルボはよく、詩を書いたり、エルフを訪ねたりしました。するとたいていのホビットたちは、頭を横にふって、額のはしをそっとさわっては、「きのどくなバギンズだわい!」などといいました。そしてビルボの物語を信ずる者はあまりなかったのですけれども、ビルボは、生涯を終わるまで、この上もなく幸せにすごしました。その生涯というのが、またとほうもなく長かったのです。  そののちいく年かたったある秋の晩、ビルボは、書斎にすわって、むかしの記録を書きしるしていました。ビルボはその記録を、「ゆきて帰りし物語、あるホビットの休暇の記録」とするつもりでした。すると──その時入口で、おとずれる音がきこえました。それは、ガンダルフと、ひとりのドワーフで、なんとバーリンだったではありませんか。  「さあ、さあ、どうぞ、どうぞ!」とビルボはいいました。まもなく三人は、火のそばのいすにおちつきました。バーリンが、ビルボのチョッキがだいぶふとってしまったこと(それに金ボタンがついていること)に気がつけば、ビルボの方も、バーリンのひげが十センチほど長くなったこと、その宝石をちりばめたバンドが、じつにたいしたものだということに気がつきました。  三人は、もちろんのこと、みんながいっしょにしたむかしの話にふけりました。そしてビルボは、山の方ではどうなっているかをたずねました。はなれ山ではみんな、たいへんよくいっているようすでした。バルドが谷間に町をきずき、そこに住む人々が、湖からも、南や西のくにからも集まってきて、谷間はあまねく、ふたたびたがやされ、ゆたかになりました。竜の荒し場は、春になると花が咲き鳥がうたい、秋にはくだものがみのり、祝いがひらかれました。また湖の町も、土台からやりなおして、いままでよりも栄え、たくさんの富が、早せ川をのぼりくだりしました。このあたりでは、エルフとドワーフと人間とが、まことに仲よくなりました。  湖の統領は、悪いさいごをむかえました。バルドは統領に、湖の人々を助けるための黄金をたくさんあたえたのですが、統領はやはりあの竜の黄金病にとりつかれ、黄金をたくさん持ちだしてにげましたが、仲間にみすてられて、荒野にのたれ死にをとげました。  「新しい統領は、ずっとかしこい人だよ。」とバーリンがいいました。「それに人気がある。なにしろこの人のおかげで、いまの繁栄にいたったのだからね。湖の人たちは、この人の御代に、川は黄金となって流れるという歌を作ったくらいなんだ。」  「では、古い歌の予言したところは、どうやらやっと、ほんとうになってきたのですね!」とビルボがいいました。  「もちろんじゃ!」とガンダルフがいいました。「歌がまことをあかさないことがあろうものか。あんたも、予言を信じないわけにはいくまいよ。なにしろあんたも予言の実現には手をかしたひとじゃからな。ところであんたは、あの冒険がすべて、ただ運がよかったために、欲の皮をつっぱらせただけで、きりぬけたと思っとるのじゃなかろうね。あんたは、まことにすてきなひとなんじゃよ、バギンズどの。わしは、心からあんたが好きじゃ。だがそのあんたにしても、この広い世間からみれば、ほんの小さな平凡なひとりにすぎんのだからなあ!」  「おかげさまで!」とビルボは笑いだし、ガンダルフにタバコ入れを手渡しました。 これでおしまい。 訳者のことば 瀬田貞二  この本は、ある小さな小人族の冒険物語です。小人族といってもいろいろありますが、これは私たちのあまりお目にかかったことのない、妖精でない小人のホビット族で、この本の原著の題は、「そのホビット──ゆきて帰りし物語──」という、ずばり、あっさりしたものでありましたけれども、ホビット族という小人たちに、私たちはおなじみではありません。おそらく、この本の作者が作り出した種族かもしれません。そこで私は、ここに『ホビットの冒険』と訳しておいたのですが、どうかこの本も、アリスやピノキオやニールスと同じように、「ホビット」だけですぐわかり、愛されるようになってもらいたいものだと、思います。  というのは、この本が、たぐいまれなファンタジーの傑作で、人によっては、「古典となるように運命づけられている」とまで言っているからです。これも私をして言わせれば、何万年とないビルボ・バギンズのむかし(ビルボがこの物語のさいごに、自分の冒険をかえりみて、「ゆきて帰りし物語、あるホビットの休暇の記録」という原稿を書いていたことをご存じでしょう)から今日まで伝わってきた物語であるからには、今後もそのくらい長く読みつがれるのは、あたりまえだと思うのです。  ところで、ファンタジーというのは、ゆたかな空想力をもって、この世ならぬふしぎな世界をつくりあげ、その架空世界のさまざまな事件をかきつらねた物語のことを、文学の一つの方面として名づけた名前ですが、このホビット物語は、まさにファンタジーのきわみです。このお話の舞台は、今をさること何万年かしれない大昔の、ようやく人間族が地上にあらわれて、妖精たちも野や山にくらし、さまざまな小人たちが地中に住居をきずいて、魔法がおこなわれ、木々がずっと緑だったころの、いわば、妖精時代と人間時代のあいだにあたるころあいだったと思われます。ただし、ふしぎな世界とはいっても、それをことごとくこの作者がかってに作り出したものばかりでなく、人類のうちでことに自然のあらあらしい力にむかいあって生きてきた、古代の北方の民族──ゲルマンとかノルマンとかアングロ・サクソンとかよばれる、強い一種族のなかではぐくまれたさまざまな空想上の言い伝えが、もとの形をとどめて、どっさりこの物語のなかにも登場します。それらは、妖精のエルフやゴブリン、小人のドワーフや竜であり、また熊のすがたになるビヨルンたちですが、また、すがたをかくす指輪ややみにかがやく名剣や、ワシやオオカミたちにも、古代北方民族の空想のおもかげを見ることができます。これは、いつも世界のよみがえるあの神話や、のろいのこもった指輪にまつわる英雄物語や、アイスランドのようなさびしい土地をさまよいあるく熊人や幽霊の伝説を、まるで伝承の宝ぐらのように、忠実に集めたものといってさしつかえないくらいです。この物語の登場人物や事件が、私たちの想像をこえてふしぎなのは、そのように古代からのすごい想像力がにつめてあるからだと思います。  ところで、わがビルボ・バギンズ君は、さきほどもすこしふれましたように、これは作者のまったくの想像から生まれたホビット小人ですが、私の考えでは(つまりあてずいりょうでは)、作者がある時ウサギ穴でも見て、ホビットの住居を空想したのではないかと思われてなりません。というのは、地中にほりぬいたトンネル様のホビット穴といい、茶色の毛が頭にも足にもふさふさと生えている特長といい、忍び歩きの名手、平和でおく病なわがバギンズ君は、トロルにさかづりされた時も、ゴクリの頭をとびこした時も、何かウサちゃんを思わせたではありませんか。しかし私が感心するのは、北ヨーロッパの伝説をうつしたにせよ、野山の小動物からヒントをつかんだにせよ、この物語の人物は、もとのおもかげをしのばせながらも、ふしぎの世界に行動しながらも、ひとりのこらず、きわめて人間的だという点なのです。妖精や小人を人間的だというのは、私たち人類のようだというのでなく、私たちを人間にしている心の暖かさや品格の高さ、つまり人格のいきいきした躍動が感じられるからなのです。この物語の主人公であるビルボ・バギンズ君は、私たちと同じように平凡で平和で、ひっこみ思案でおく病で、少々まぬけで、失敗ばかりしながら、しかししだいに事件にむかってきたえられ、しんが強く、ちえをめぐらし、勇気をもつようになります。しかも、魔法の世界でありながら、かんたんに魔法を使わずに(つまり、急場になると神さまがすぐ助けてくれるような安っぽさはみじんもなく)、ことにあたってあくまで自分の全力をあげてたちむかっていく、困難なきまじめなやり方で、成長していくのです。私たちはビルボとともに、一喜一憂しながら、事件のなかにはいりこみ、しだいに人格を年輪のようにふやしていくすがたをながめ、ついに、詩人になっていた小さなバギンズを発見して、おどろきます。詩人とは、むかしから神に愛される最高の人格で、さすがのガンダルフも帽子をぬがずにいられない徳をそなえているのです。ビルボは、自分でそれとさとらない品格の高さを身につけましたが、それにいたるうつりゆきの自然さは、私たちの方がよくわかるというものです。ガンダルフにしても、りっぱな魔法使いでありながら、深いちえを働かす予言者のようにえがかれ、トーリンは、尊大な勇者ながらに、欲望と正義になやむ族長として生かされています。どんな端役にいたるまでも、はっきりした人がらをそなえているのが、この物語の奥ゆきの深いところです。  こういうファンタジーですから、近ごろよく見かけるような、かよわい蝶のはばたきやら星のかけらやら夢のなごりやらを追いかける、気まぐれファンタジーの逃避的な小作品とは、まったくことかわって、さながら天界地界のまんだらをまざまざと織りこんだ、手のこんだ壁掛刺しゅうの大画面のように、堂々と実体をそなえた物語世界が、一つの別宇宙としてくりひろげられます。それは山あり谷あり、地の底や川の上、はては火ぜめのスリルまであってさいごの合戦にいたるまで、時にゆるく、時に早く、いよいよ早くなって局面ががらりと変わるところに、明暗のリズムを配したすばらしい物語絵をなしています。この壁掛は、この世とちがう図柄とはいえ、その生地は草木や鉱物からとり、色どりは古代錦、また織り方が、今の小説とはちがう物語文学のうまずたゆまぬ語り織りとなっているので、すこぶる丈夫で強いものです。叙事詩に似た、ずばりという言い方やくりかえしのういういしさ、かさね言葉のなまなましさがうまくいりまじっています。そして、ところどころにちりばめられた歌のあれこれは、やはり伝承物語歌謡のうたい口をふくんで、全体の図柄に変わり織りのおもむきをそえています。  だがこれほど、こしの強い古代ふうな表現や題材にもかかわらず、私たちはこの物語から、きわめてモダーンな感じをも、印象づけられるのではないでしょうか。さきにのべた人物の私たちに似た人間みをたたえたあつかい方や、全体の暖かい結末のみちびき様は、これらはけっして古代叙事文学にみられないものでした。ニーベルンゲンやベオウルフやサガや神話にあらわれる人物たちは、はじめからしまいまでかたくなな性格をくずすことがありませんでしたし、すべての物語は、一種の宿業というような重苦しい運命にあやつられて、いたましいさいごにみちびかれるものばかりだったからです。この物語でも、トーリンをはじめとして、多くの者が死にましたが、ただしここでは、死や宿業が大切な問題なのではなく、邪悪なものとの戦い、ホビットの経験する信頼と愛と勇気と、悲劇をも生かしひらいていくちえという大きな心が、問題なのです。ここに作者が古代をかりて、何を語ったかがとかれる鍵があるような気がします。ゴブリンどもの攻撃や、竜の湖の町のやきほろぼし作戦のところをごらんなさい。とくにこの竜の波状攻撃は、二つの大戦に私たちが知ったおそろしい空襲のすがたをまざまざと写しているではありませんか。作者は、ファンタジーの魅力にすっかりとらえられたのが、戦争中のことだったと、語っているそうです。この世の現実は、作者の呪文によって一きょに形を変え、古代のすがたになりました。しかも現実が、うそもかくしもなく、ふたたびあらわれでるところに、この物語の象徴としての力があります。  では作者をご紹介しましょう。J・R・R・トールキン。その名前はジョン・ロナルド・ロウエルです。一八九二年に南アフリカに生まれ、一八九六年にイギリスにもどり、バーミンガムの学校をおえて、オクスフォードに学びました。第一次大戦中はランカシャーの歩兵連隊に勤務し、そのあいだに結婚して、のちに四人の子をもうけました。一九二〇年から、いろいろな大学で先生となり、ベオウルフやアーサー王やチョーサーなどについて、すばらしい研究書を出して、中世英語学・英文学で学界に重んじられ、やがて一九四五年から十余年間オクスフォード大学の有名な学寮の主任教授となり、一九五九年に隠退しました。  このトールキン教授が、自分の四人のお子さんたちに語ってきかせたのが、ホビットのもとで、本になったのは一九三七年のことでした。教授には、まとまったファンタジー論(「妖精物語について」のちに「木と木の葉」)があり、そこで、読むにたえるファンタジーなら、子どもの独占物ではなく、おとなこそよくその意義にこたえるだろうし、空想力はけっして科学の敵ではなく、むしろその親であるとのべています。もっともおもしろいのは、この世を第一の世界、ファンタジーの舞台を第二の世界として、その深いつながりを説いたところで、第二世界というのは、宮沢賢治のいわゆる心象世界にあたるといえましょう。教授には、子どものためのファンタジーがほかに二冊あるほか、その考えにもとづいて、魔法の指輪物語という三部作の、おとなむきの大長篇を書きあげました。作者の学問とちえをつくしたこの作品には、ビルボ・バギンズのおいにあたるフロドというホビットの若者が、指輪を持って旅をする主人公となって登場します。もちろんガンダルフも、活躍します。もし、あなた方がおとなになっても、こういうファンタジーを喜んで読むようになったら、私もこの本と同じように、とっぷり物語のなかにひたりきって、夢中になって訳してみたいと思います。  また画家の寺島竜一さんは、この物語の壮大でち密な特色をつかんで、訳者のあれこれのだめおしをききいれ、作品のイメージを心ゆくまで再創造してくれました。訳者は絵入りのスウェーデン版、ドイツ版も見ましたが、それらはむしろ物語をきずつける挿絵で、いま日本版にいたってはじめて作者の意にそうことができたろうとほこらしく思います。なお、二つの地図は、トールキン教授の描いたものを、寺島さんにトレースしてもらいました。月光文字は、はぶかせていただきました。 一九六五年秋 「途中でやめることのできない」冒険 斎藤惇夫 (作家・編集者)  一九六五年は、私たちの国の子どもたちにとって輝かしい年でした。オクスフォード大学の教授で著名な言語学者トールキンによって書かれた『ホビットの冒険』が、瀬田貞二先生の名訳を得て上梓され、子どもたちがそれを、『クマのプーさん』や『たのしい川べ』、アリスやニルスと同じように、自分たちの宝物に加えた年だったからです。  多くの子どもたちは、親に買ってもらったり、あるいは自分で図書館から借りてきた分厚い『ホビットの冒険』を前にして、いつものように「面白くなかったら途中でやめるぞ」と思いながら、しかし、見開きに描かれた細密な「荒地のくに」の地図に早くも心ときめかせ、第一ページを開き、そこではじめて白雪姫にでてくるドワーフよりも小さくて、ガリバーにでてくるリリパットよりは大きいホビットに出会いました。そしてたちまちにして、主人公のホビット、ビルボ・バギンズと共に、「途中でやめる」どころか、「途中でやめることのできない」とんでもない大きな冒険に駆り出されることになってしまったのです。何しろ物語の舞台は、ようやく人間がこの世に登場しはじめた頃、妖精や小人があちこちに住み、どこもかしこも緑したたり、世界全体が魔法に満ちていた頃なのです。一歩村を出れば、荒野や森や山々が果てしなく広がっています。詳しい地図などあるはずもありませんし、どこに何が潜んでいるのか見当もつきません。一度冒険に出てしまったら、一人で戻ることなど全く不可能なことだったのです。  けれども子どもたちが冒険を途中でやめなかったのは、なんといってもこの物語の類まれな面白さによるものでした。  まずは主人公の性格。この主人公は、静かな団欒と煙草を愛する、冒険など夢にも思わないごく普通の中年のホビット、子どもたちにとっては退屈な小父さんでした。ところが、この主人公は、突然訪れた魔法使いのガンダルフによって、十三人のドワーフの冒険に「忍びの者」として加わるように推薦されるや、もともと自分の中にあった「深い山々へいってみたい、松風や滝の音が聞いてみたい、洞穴を歩きまわり、杖でなく剣を身につけてみたい」という、冒険と芸術に憧れる性質にはじめて気づき、あわてうろたえながらも、冒険に出かけてしまうのです。要するにこの主人公は、おとなの知恵はつき、自分でも落ちついたおとなと思っていたのに、ひとたび心の中に灯がともれば、何かとんでもないことを仕出かすかもしれないという、子どもたちにとてもよく似た性格を持っていたのです。(これは、この物語がそもそも、作者が自らの子どもに語ったことから生まれたことと無関係ではないでしょう)。したがって子どもたちもまた、主人公に頼りなさを感じながらも、自分たちと似た主人公と共に旅立つことになります。案の定、主人公は臆病で、まぬけで、失敗ばかりしています。ところが、自分で解決しなくては、生き抜くことすら危ない数々の事件に遭遇し、仕方なくそれに立ち向かうことによって、物語の最後には真の勇士になり、しかも自分ではそうとは気づかずに詩人になって故郷に凱旋します。これはそのまま輝かしい子どもたちの勝利でもありました。子どもたちはそれと知らずに、新たな自分を発見(dis-cover)し、主人公と共に成長していったのです。  さて、冒険の目的は、ドワーフの父祖の、竜に奪われた宝物を取りもどすことでした。これは、冒険物語の最も古い、もっとも心躍らせる形式の一つで、それだけで子どもたちを旅に誘う十分な理由になりましたが、行く先々で主人公を待っていたのが、エルフであり、トロルであり、ビヨルンであり、ハエやクモ、ワシやオオカミ、そして竜とくれば、いずれも、すでに子どもたちにとってはヨーロッパの神話や昔話や伝説でお馴染みの、ある意味では日本の妖精よりももっと身近に居るものたちであり、彼らとの知恵比べや、死をかけたなぞなぞ遊びや、激しい戦いは、子どもたちの心の中では日常起こっている出来事といってもいいものでした。さらに物語の中で重要な位置をしめるすがたをかくす指輪や、闇に輝く名剣は、千里靴や身を隠すマントなどと同様、子どもたちは誰しも一度は身につけてみたいと願っていたものです。  つまり、子どもたちはこの物語の最初のページを開くと同時に、やすやすと、慣れ親しんでいるお馴染みの豊饒な遊びの世界に入っていったのです。いや、お馴染みの世界のもう一歩奥まで入り、その世界全体を経験することができた、といった方がいいのかもしれません。なぜなら、子どもたちが断片的に知っていた、小さな物語としての数々の妖精の物語は、決して原型を損なうことなく(そこが、イギリスの代表的な言語学者である作者の 志 の高さと、伝承文学、子どもたちへの愛の深さを感じさせるところですが)、宝物を取りもどすという雄大で素朴で激しいこの物語の流れに支流として流れこみ、子どもたちは神が創りたもうたこの世界とは別の、もう一つの世界そのものを──古い、しかし強い材木で新たに作られた大きな堅固な家、あるいは遥か昔に織られたと思わせる新しい絨毯と言ったらいいのでしょうか──「その国に吹く風」すらも、経験することができたのですから。  ただ、子どもたちはこのもう一つの世界の物語に、昔話や神話などにない新しい生命も読み取っていました。登場人物たち、例えばガンダルフも十三人のドワーフたちも、主人公同様に、昔話や神話の登場人物とは違い、一人一人が今を生きる揺れ動く人間的な者としてとらえられていますし、しかも、結末は、昔話にみられるハッピーエンドとも、神話の、宿命や運命を予測させる悲劇的な結末とも違うものでした。最後の激しい戦いでたしかに多くの登場人物は死を迎えましたが(訳者の瀬田先生は、トーリンの死の場面は涙なしには訳せなかったとおっしゃっていました)、その悲劇を超えて、主人公の幸せな帰還が語られています。子どもたちはそこに、そうとは知らずに、二つの世界大戦を経験した作者からの、あたたかいメッセージを受け取っているにちがいないのです。  子どもたちが「途中でやめることのできない」冒険に出かけた理由には、もちろん、古い叙事詩を思わせるような、高雅で力強く、しかも簡潔で滑らかな瀬田先生の文章の力がありますが、瀬田先生は戦後間もなく、『児童百科事典』(一九五一年より平凡社から刊行。全二十四巻)を編集なさり、その「河童」の項目で、「河童は生きている」とお書きになった方でもありました。神話や昔話や伝説に造詣が深く、また物語(ファンタジー)と子どもたちを愛してやまなかった先生は、わたしたちの国で作者のトールキンと、最も近い世界に住んでいた方であったことは疑いをいれません。子どもたちにとって、これ以上の水先案内はいなかったのです。その先生は晩年、わが国最後の天狗が、最後の魔法をふるって倒れる長編ファンタジーを書こうとなさっていました。『ホビットの冒険』の続編、『指輪物語』をお訳しになっていた長野の山小屋の前を、炭焼きが通るのを見て思いつかれたのだそうです。しかし、自然破壊の激しさが先生に書くことを躊躇させ、お書きになる前にお亡くなりになってしまいました。  一体誰によって、私たちの国から本格的なファンタジーが生みだされるのか、それはとても興味深い問題です。けれども私は密かに、子どもの頃に『ホビットの冒険』を読み、それを自分の宝物として、それに連なる多くの物語を読みながら、私たちの国の言葉・物語の世界に深く分け入っていった子どもたちによってなのだろうと確信しています。 二〇〇〇年七月 作者 J.R.R.トールキン(1892-1973) 南アフリカのブルームフォンテンで生まれ,4歳のときイギリスに移り住んだ.オクスフォード大学を卒業.のちに同大学の教授となって中世の英語学と文学を講じた.ベオウルフやチョーサーについてのすばらしい研究がある.『ホビットの冒険』と『指輪物語』三部作には,北ヨーロッパの古代の伝承の影響が色濃く見られる.「ナルニア国ものがたり」(全7冊)の作者C.S.ルイスと親しかった. 訳者 瀬田貞二(1916-1979) 東京生まれ.東京大学で国文学を専攻.企画編集した『児童百科事典』(全24巻)や,ライフワーク『落穂ひろい』で児童文化史に大きな足跡を残した.翻訳は,トールキン『指輪物語』,ルイス「ナルニア国ものがたり」(全7冊)など.『お父さんのラッパばなし』などの創作もある. 扉

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