はじめに オンライン掲示板兼コミュニティのなに「ダーク・エンライトメント」(/r/DarkEnlightenment/)というコミュニティが存在する。「暗黒啓蒙」と訳せるこのコミュニティには、2019年4月時点で1万5千人を超えるユーザーが参加している。トップページの概要には、「平等主義という進歩的な宗教から生じた近代世界の醜悪な情況について議論するための場所」であることが記され、「普遍的な欺瞞が蔓延している時代においては、真実を語ることは革命的な行いとなる」というジョージ・オーウェルの言葉が引かれている。 トップページをスクロールするとコミュニティのユーザーが共有している思想についてのさらなる詳細な説明を読むことができる。その中には、たとえば〈カテドラル(The Cathedral)〉と彼らが呼ぶコンセプトが出てくる。彼らによれば、現代の世俗的な進歩主義は、ピューリタン的カルヴァン主義の末裔であり、この進歩主義の意匠をまとった宗教は、政治家、ジャーナリズム、教育機関などを通じて社会に影響力を行使しているという。 こうした視点に基づき、彼らは「社会正義」や「平等主義」に矛先を向ける。彼らに従えば、こうした「道徳」観念は近代的な進歩主義という名の宗教が生み出している欺瞞にすぎない。対して、彼らは生得的な差異や能力に基づいたヒエラルキーに価値を認める。それ以外にも、近代以前の伝統的な文化や価値観には、それ相応の合理的な存在理由があると主張する。たとえば、文化は長い年月をかけてそれぞれ地理的に独立して熟成されてきた。それらは同一の価値観に基づき、隣接した文化と競合しながら、生き残った文化が文明を形成していった。だから、それらにはその社会や土地に根付いた、単なるイデオロギーを超えた必然性があるのだという。 ここから、民主主義という名の大衆迎合的なシステム兼イデオロギーの否定、そして独立した小都市国家が乱立する政治システムこそが最善であるという結論に至る。それら都市国家は企業的な競争理念によって運営され、住民は自由に所属する都市国家を選択することで都市国家の間で競争が発生するようにする。つまり、都市国家を運営する者は住民の要求に応え満足させるインセンティブが発生する……云々。 以上に記したこの奇妙な(?)思想は新反動主義、あるいは暗黒啓蒙と呼ばれる。新反動主義の支持者には、たとえばドナルド・トランプ大統領の元側近スティーブ・バノンなどがおり、現在のオルタナ右翼と呼ばれる思想にも多かれ少なかれ影響を与えているとされる。本書は、主にこの新反動主義の形成に寄与したと思われる三人の重要人物──ピーター・ティール、カーティス・ヤーヴィン、そしてニック・ランド──にそれぞれフォーカスを当てることで、新反動主義のエッセンスを取り出すことをさしあたりの目標とする。以下では本書の簡単な見取り図を提示しておこう。 第一章では、ペイパル創業者のピーター・ティールを取り扱う。彼がシリコンバレーで育んできたリバタリアニズム思想は、白人男性的なエリート主義と取り結びながら啓蒙と民主主義の否定に向かう。そして「自由と民主主義はもはや両立できると信じていない」と宣言するに至る。 第二章ではシリコンバレーの起業家カーティス・ヤーヴィンがブログ上で展開し、やがて新反動主義と呼ばれることになる思想を紹介し、それがイギリスの哲学者ニック・ランドの「暗黒啓蒙」へと繫がっていく流れを辿る。 第三章では、ニック・ランドの思想的変遷を80年代から追っていく。その中で、90年代におけるCCRUという活動がその後のさまざまな潮流の源泉のひとつであることを確認する。ダブステップ、思弁的実在論、加速主義……、これら現在にまで様々な影響を与えている諸潮流を取り出してみることで、新反動主義に必ずしもとどまらない混沌とした思想地図を描きたい。 第四章では加速主義にフォーカスを当てる。資本主義に対する唯一のラディカルな応答は、批判でも抵抗でもなく、反対に資本主義のプロセスを限界まで推し進めることである、という態度に要約される加速主義は、マルクスを端緒とし、70年代のドゥルーズ&ガタリ、そして90年代のニック・ランドにおいてひとつの頂点に達する。また、章の後半では、ヴェイパーウェイヴと呼ばれる音楽ジャンルを検討しながら、なぜこのような異端的な思想が現在でも一定のプレゼンスを得ているのかを探っていく。その過程で見えてくるのは「失われた未来」というキーワードである。 もとより、この小著で新反動主義の全体像や系譜的流れをすべてカバーできるとは思っていない。それでも、この本が新反動主義の見取り図に少しでも貢献できれば幸いである。 目次 はじめに 1 ピーター・ティール ピーター・ティールとは誰か ルネ・ジラールへの師事 学内紛争にコミットする 主権ある個人、そしてペイパル創業へ ニーチェ主義とティール 暗号通貨とサイファーパンク 「イグジット」のプログラム 「ホラー」に抗う 啓蒙という欺瞞、そして9・11 2 暗黒啓蒙 リバタリアニズムとは何か 「自由」と「民主主義」は両立しない カーティス・ヤーヴィンの思想と対称的主権 新官房学 反近代主義とその矛盾 人種問題から「生物工学の地平」へ 3 ニック・ランド 啓蒙のパラドックス ドゥルーズ&ガタリへの傾倒 コズミック・ホラー グレートフィルター仮説 クトゥルフ神話とアブストラクト・ホラー 死の欲動の哲学 CCRUという実践 CCRUとクラブミュージック ハイパースティション 思弁的実在論とニック・ランド カンタン・メイヤスー レイ・ブラシエ ニック・ランドの上海 4 加速主義 加速主義とは何か 左派加速主義とマーク・フィッシャー 右派加速主義、無条件的加速主義 トランスヒューマニズムと機械との合一 加速主義とロシア宇宙主義 ロコのバジリスクと『マトリックス』 ヴェイパーウェイヴと加速主義 ヴェイパーウェイヴと亡霊性 ノスタルジーと失われた未来 未来を取り戻せ? あとがき 参考文献 ピーター・ティールとは誰か 世界最大のオンライン決済サービス・ペイパルの共同創業者、フェイスブックを創業から支える外部投資家、シリコンバレーで大きな影響力を持つペイパル・マフィアを束ねるドン、ドナルド・トランプの熱烈な支持者、そして新反動主義に霊感を与えた異端的リバタリアン……等々。 いくつもの顔を併せ持つ男、ピーター・ティール(Peter Thiel)。しばしば矛盾した面すら見せるティールの解きほぐしがたさ、とっつきにくさは、そのまま新反動主義(Neoreaction: NRx)なる不透明な思想動向の解きほぐしがたさに直結しているように思える。 意外なことに、ティールは学部生時代、哲学を専攻していた。彼はスタンフォード大学でルネ・ジラール(René Girard)の講義に出席し、ジラールの著書『世の初めから隠されていること』を読みふけった。同書は彼の思想にも大なり小なり影響を与えている。また、同時期に大学内で巻き起こった人文系カリキュラムを巡る学内抗争においては、ティールはみずから学内新聞を発行して積極的に論陣を張っていった。この頃のティールは、現在のイメージと異なり、論客や言論人、もっといえば思想家的な傾向を持っていた。 ティールの思想形成を辿っていくことで、その後のティールの幅広い活動の根底に横たわる一貫した「思想」の過程を取り出してみること。言ってみれば、ピーター・ティールを「思想家」として扱ってみること。そして、その作業を通じて新反動主義のエッセンスを少しでも抽出しようと試みること。これが本章のさしあたりの目標である。 ピーター・ティールは1967年10月11日、西ドイツのフランクフルトでドイツ人として生を受けた。ティールの父は科学エンジニアで、各地の鉱山会社で工程管理の仕事をしていた。そのため、一家は引っ越しを繰り返す生活を送っていた。ティールが1歳のときに一家はアメリカへ移住。そして6歳のとき、父親がウラン鉱山で働くことになり、一家はアフリカ・ナミビアのスワコプムントへ移住する。1973年、折しも第一次オイルショックがアメリカを直撃していた時期にあたる。 かつてはドイツ領だったこの小さな湾岸都市で、ティールはチェス盤とフランスのコミックと世界地図とともに暮らした。スワコプムントの学校の厳しい規則は彼を苦しめ、幼いながらも抑圧に対する反発心を目覚めさせた。自由を何よりも求める彼のリバタリアン的傾向は、この頃にすでに胚胎していたのかもしれない。 ティールが9歳のときに一家はアメリカに戻り、10歳の1977年にカリフォルニアのフォスターシティに住まいを移す。フォスターシティはサンフランシスコ湾の海辺に建設された計画都市で、当時はまだサンノゼからサンフランシスコにかけてのびる半島が「シリコンバレー」と呼ばれることもほとんどなかった。しかし、すでにアップル、ヒューレットパッカード、インテルなどの企業がこのエリアに本拠地を置き、爆発的な成長を遂げようとしていた。1977年といえば、アップルがパーソナルコンピュータ、アップルⅡを発表した年だ。コンピュータを個人が所有する、そんな時代が本格的に到来しようとしていた。 ティールはこの揺籃の地で、70年代の終わりから80年代にかけてを多感な十代として過ごした。チェス、数学、SF小説、コンピュータゲームに興じた。チェスの才能はめざましく、13歳未満の部門で全米7位に入った。フィクションではトールキンの『指輪物語』と当時劇場公開がスタートした『スター・ウォーズ』シリーズが大のお気に入りだった。 1985年、地元の高校を優秀な成績で卒業したティールは、フォスターシティからほど近いスタンフォード大学へ進学することを決める。スタンフォード大学は当時、シリコンバレーという注目を集めるエリアの中心的な存在だった。 のちにティールは当時を振り返りこう語る。「1985年を振り返ると、とにかく楽観的でした」。彼の中にはこれといった明確な進路や目標が存在しなかった。「私が方向性を決めずにいたのは、何でもできるという自信があったからです。(中略)将来についてあまり具体的になる必要はないと思ったのは、80年代の楽観主義の表れです。私の望みは何らかの形で世界に影響を与えることでした」(ジョージ・パッカー『綻びゆくアメリカ 歴史の転換点に生きる人々の物語』)。 ルネ・ジラールへの師事 「何らかの形で世界に影響を与える」ためのツールとしてティールが選び取ったのは、意外なことに哲学だった。彼はスタンフォード大学の哲学科で、フランスの哲学者ルネ・ジラールと出会い、そこから決定的な影響を受けている。のちにティールは、ジラールの著書『世の初めから隠されていること』を生涯の一冊に挙げ、自身の思想形成の土台を成していることを公言している。 ルネ・ジラールは、ある社会や共同体において「暴力」がどのように機能しているかを、人類学や宗教学の見地から解きほぐしたことで知られる。ジラールによれば、法体系を持たない未開の社会では、共同体内でひとたび暴力が発生すれば、それは復讐の連鎖となって共同体を最終的に絶滅に追いやる。この「相互的暴力」の伝染を防ぐために共同体がとる解決策が供犠というシステムである。共同体の全員が満場一致で成員の一人を身代わりとして、すなわち贖罪の生贄として共同体から追放する。この共同体の内部から暴力を浄化する供犠という儀式を通じて、共同体に安定と秩序がもたらされる。この暴力を追放する暴力は「創設的暴力」とも呼ばれる。ジラールの見立てによれば、人間によるすべての社会や共同体は、一見すると安定していても、その始原にこの暴力を放逐する根源的暴力、すなわち「創設的暴力」を覆い隠しているという。たとえば、ジラールは『福音書』におけるキリストの磔刑を、そのような秩序創設の根源に隠された暴力の物語として読み替える。つまるところ、ジラールによれば、どんな社会も共同体も国家も暴力によって成り立っているのだ。 それでは、私たちが何らかの集団生活を営んでいる限り、この「創設的暴力」という名の原罪から逃れるすべはないのだろうか? もちろん、ある、とジラールは言う。それは「信仰」だ。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ、5の44)。信仰に基づく暴力の無条件的な放棄だけが、人類を真の平和と高みへと導いていくだろう……。 このような敬虔なクリスチャンとしてのジラールの教えが、保守的な福音派の家庭で育ったティールにどのような感情をもたらしたのかは定かでない。しかし、ティールを含む、明確な信仰を持たない現代のシリコンバレーの若者たちにとっては、ジラールの思想は一種の出口の見えないディスピアとして響いたかもしれない。 『世の初めから隠されていること』では、模倣(ミメーシス)の観点から暴力のメカニズムが考察されている。人間は、他者の欲望を模倣する生き物である。というのも、欲望とは、畢竟するに他者の欲望だからだ。たとえば、あなたが何か高価な宝石を欲望するとき、それは宝石そのものが美しいから欲するのではなく、皆がその宝石を欲しがっているから欲するのだ。こうした欲望の模倣と連鎖は、不可避的に苛烈な競争と暴力の連鎖を生み出す。ジラールに従えば、人間の欲望とは、究極的には死へと向かう欲望なのだ。 すべてのものが死へと集束していきます。フロイトの思想のように、またフロイトと同じようにそこに本能のようなものを認めうると信じている動物行動学者の思想のように、そうした集束の傾向に注目している思想もまた、死へと集束していきます。あるいはまたおそらく、宇宙の進化全体を特徴的にあらわすあの有名なエントロピーへの傾向も例外ではないでしょう。 もしわれわれ人類の上にのしかかっている脅威が、ある本能から生まれたものであり、人類の歴史のありとあらゆる災難が、非情な科学の法則に特有な一様相にすぎないのだとすれば、われわれを運び去る動きに身をまかせるほかに道はないということになります。相手はわれわれの思いどおりにはならない運命なのですから。 (ルネ・ジラール『世の初めから隠されていること』) 文中に出てくる「われわれ人類の上にのしかかっている脅威」とは、おそらく当時の核戦争の脅威を念頭に置いている。この、死の欲動を宇宙の法則であるエントロピーにまで敷衍させるジラールの暗いビジョンを、ティールは一種の天啓として受けとめた。 彼は、これまでの競争に明け暮れた生活を顧みた。学校では常にトップの成績を目指し、チェスでは相手を打ち負かすために寝食を忘れた。「人はさまざまなモノを求めて激しく競争します」と彼は言う。「ところが、ひとたび手に入れると少しばかり失望する。なぜなら、どうしてもほしいと思うものは、だれもがほしがっているという事実に突き動かされるからであって、必ずしも魅力のあるものではないからです。私は、だれよりもその罪を犯していたので、ジラールの理論を積極的に取り入れようとしたのです」(『綻びゆくアメリカ』)。 ただし、ティールはジラールと異なり、「信仰」に競争と暴力からの脱出の糸口を見出せなかった。代わりに、暴力に基づく共同体からの解脱は、端的にその共同体から「脱出」することによってなされるとティールは考えた。この考えは、ティールの現在まで貫かれる経営理念や起業家精神、そして特異なリバタリアニズムにまで影響を与えている。 学内紛争にコミットする またこの時期、ティールはスタンフォード大学における人文系カリキュラムを巡る学内紛争に積極的にコミットすることを通じて、そこでも自身の思想的土台を形成していた。 80年代後半のスタンフォードでは、「西洋文化」と呼ばれる必修科目を巡り学生内でも対立が激化し、さながら60年代の大学紛争が奇妙な形で再来したかのようだった。マイノリティとリベラルな学生たちは、人文系カリキュラムがアリストテレスやシェイクスピアといった「死んだ白人男性」たちによって占められていることに憤った。彼らは、白人的な西洋中心主義ではない、「文化的多様性」や「ジェンダー」の観点を取り入れたカリキュラムを導入するべきだと主張した。それに対して、ティールを含む保守派の学生たちは、リベラル学生がカリキュラムを利用してスタンフォードに左翼思想を吹き込もうとしていると激しく反発した。学生間の対立は激しくなり、ある学生グループはスタンフォード大学の学長室まで占拠した。 こうした事象は、当時のアメリカ国内のキャンパスで沸き起こっていた「ポリティカル・コレクトネス」を巡る抗争の一幕といえた。ポリティカル・コレクトネスは、日本語では「政治的公正」、あるいは「政治的に正しい言葉遣い」などと訳され、その言葉の通り、政治的/社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や態度のことを指す。近年ではドナルド・トランプが、このポリティカル・コレクトネスを痛烈に批判したことが記憶に新しいが、最初にこの言葉が広く論争の的になったのは、ティールがスタンフォード大学に在籍していた、まさに80年代後半から90年代初頭にかけての大学キャンパスにおいてであった。 なお、その際に大きな影響力を持った書物に哲学者アラン・ブルーム(Allan Bloom)の『アメリカン・マインドの終焉 文化と教育の危機』(1987)がある。ブルームは、ポリティカル・コレクトネスという言葉こそ用いていないものの、同書の中でアメリカの大学教育における近年の進歩的傾向を、伝統主義者の立場から嘆いてみせた。ブルームにとって、キャンパスにおける悪しき相対主義に基づいたカリキュラムの多文化主義化は、西洋の偉大な精神をないがしろにすることであり、それは取りも直さず教育の堕落を意味していた。 さて、ティールは二年生の終わりの1987年6月、友人と共同で『スタンフォード・レビュー』という学生新聞を創刊、みずから論陣の前線に切り込んでいく。この学生新聞はスタンフォードの保守派の牙城をなし、資金面ではネオコンの父と呼ばれるアーヴィン・クリストルが1978年に保守派学生の活動を支援するために立ち上げた組織からの援助があった。ティールはこの新聞の編集長として、記事の方向性を基礎づけていった。すなわち、進歩派に対する攻撃と、リベラルな学生と教授陣、そして大学当局に蔓延する「ポリティカル・コレクトネス」に対するシニカルな嘲笑である。 キャンパスの文化戦争は全米に広まっていた。1987年初頭には民主党の大統領候補がスタンフォードを訪れ、学生を率いて「西洋文化はもうたくさんだ!」と叫びながらデモ行進を行った。一方ティールの『スタンフォード・レビュー』は、レーガン政権の教育長官ウィリアム・ベネットを招いて学内で講演会を開き、大学が推し進めようとする行き過ぎた進歩的改革について意見を仰いだ。「偉大な大学がおとしめられました」とベネットは述べた。当時はレーガノミクスの時代であり、保守思想と新自由主義経済政策が影響力を持っていた。ティールはもちろん一貫してレーガンを支持していた。 ティールが大学を卒業しロースクールに進学したのちも文化戦争は続いた。ティールの友人デイヴィッド・サックス(David Sacks)が『スタンフォード・レビュー』の新たな編集長に就任すると、同紙は「言論の自由」、ジェンダー、セクシュアリティといった論点に戦線を移していった。もちろん、その際の主な攻撃対象もポリティカル・コレクトネスであった。一部の学生にとってポリティカル・コレクトネスとは、結局のところ言いたいことを言うことができる権利の制限、言い換えれば自由の圧殺を意味していた。たとえば、ティールのとある友人は学内の言論の自由の限界を検証するために、同性愛者の講師の自宅の前で「このホモ野郎! エイズになって死んじまえ!」と叫んだ。この友人はスタンフォードから追放されたが、ティールらはこの事件を「魔女狩り」と主張した。 非西洋文化圏やジェンダーや人種的多様性を扱う講座が次々と新設されていくスタンフォードの風潮に警鐘を鳴らすため、1995年、ティールとサックスは共著『多様性の神話:キャンパスにおける多文化主義と政治的不寛容(The Diversity Myth: Multiculturalism and Political Intolerance on Campus)』(未邦訳)を出版する。この書は、「大学の多文化主義化」という実験がいかに失敗したかを声高に主張する。彼らによれば、この実験によって、言論の自由は制限され、ポリティカル・コレクトネスという名の新しい不寛容、反西洋的でヒステリックなカリキュラム、学生生活の政治化、多様な人種とエスニシティの対極化がキャンパスに蔓延したという。アメリカ文化の先端を行くスタンフォードで起きたこの実験の失敗は、将来の多文化社会に対する警鐘であると同書は結論付ける。 『多様性の神話』とスタンフォードにおける文化戦争は、さながら昨今のアイデンティティ・ポリティクスを巡るリベラル対オルタナ右翼の抗争を先取りするかのようで、その意味ではまさしく予言的な書であり、示唆に富んでいる。 なお、同書はティールがトランプ支持を明らかにした近年になって、ふたたびメディアによって取り上げられるようになった。たとえば、リベラル系メディアの『ガーディアン』は、2016年10月21日付けの記事において、『多様性の神話』に言及しながら、ティールの女性蔑視やアンチ・フェミニズム的傾向を批判的に取り上げている。同書では、1991年にスタンフォード大学で起こったデートレイプ事件──17歳の新入生が酔っ払って学生寮でレイプされた事件について扱っている。著者らは、男女ともに泥酔していた状況で、どちらも責任を問えるのに、常に男側が犯罪者になるのは不当であると主張する。 また、同書では人種差別問題に対しても、人種差別は多くが幻想にすぎないと吐き捨てている。過剰なポリティカル・コレクトネスと人種的意識は、より人種間の緊張を高めるだけだという。 パラドキシカルに思えるのは、レイシズムに過剰に焦点を合わせることは、辛辣さの源泉にしかならないということです。たとえば、多文化主義者が白人に対して「制度的レイシズム」や「無意識的レイシズム」などと言って、取るに足らない無形のレイシズムをあげつらう現象などです。結果として、レイシズムへの配慮は、かつては人種間の分断を終わらせる希望であったのに、現在では論争と抗争の主要な原因となっています。 (ピーター・ティール+デイヴィッド・サックス『多様性の神話』) 現在、ティールは『多様性の神話』内の主張の一部を撤回し謝罪している。メディアはティールのトランプ支持と20年前に書かれた著書との間に連続性を見出そうとしているが、その意味ではティールの思想は20年前から一貫していると言うことができるかもしれない。言い換えれば、80年代から90年代にかけて巻き起こったスタンフォードにおける文化戦争は、現在に至るまでティールにとって決定的な意味を持っているといえる。 主権ある個人、そしてペイパル創業へ ロースクールを卒業したティールは、ニューヨークの法律事務所で働きはじめる。のちに「揺れ動く二十代の危機」と総括することになるこの時期を通して、ティールは競争ばかりの人生にますます疑問を募らせていった。週80時間の労働、昇進を巡る同僚との熾烈を極めた競争。そこはまさしくルネ・ジラールの哲学を体現しているような世界だった。1996年、法律事務所を早々に辞めたティールは、ふたたびシリコンバレーに戻ってきた。 ティールがニューヨークから戻ってきた年、折しもシリコンバレーにはドットコムバブルが到来しようとしていた。当時、ビル・クリントン政権の副大統領アル・ゴアがぶち上げた情報スーパーハイウェイ構想のもと、世界中を結ぶインターネットこそが来るべき情報化時代を牽引していく、といった空気が醸成されていた。たとえば、1994年にウェブブラウザ「モザイク」をベースに「ネットスケープ・ナビゲータ」を開発したネットスケープは、第一次ブラウザ戦争の先鞭をつけた。続く96年にヤフー、97年にアマゾン、98年にイーベイが株式を公開した。今やシリコンバレーに拠点を置くインターネット関連のIT企業に世界中の注目が集まりはじめていた。 このような状況の中、ティールは1998年にペイパルを創業する。以前から電子決済市場に目をつけていたティールは、ウクライナ出身のプログラマー、マックス・レフチンとともに、携帯デジタル端末の暗号化ソフトウェアの会社を立ち上げた。レフチンが開発した暗号化ソフトウェアは、安全な電子決済を可能にするものだった。携帯デジタル端末を電子ウォレットとして使うことで、ユーザーはクレジットカードまたは銀行口座に紐付けられた一定の金額を端末間で転送することができるようになる。まさに革命的なサービスだ。 事業を開始したペイパルは、すぐさま主要フィールドを携帯端末からインターネット上に移す。当時すでに普及していた電子メールを利用することで、誰でも簡単に送金を行うことが可能になった。2000年3月の時点で、ペイパルのユーザー数は100万人を突破していた。 それにしても、どうしてティールは電子決済サービスに目をつけたのだろうか。その背景を考えると、ティールが折に触れて生涯の愛読書の一冊に挙げているとある書物の存在が浮上してくる。その書物とは、金融評論家ジェームズ・デビッドソン(James Davidson)と貴族ウィリアム・リース゠モッグ(William Rees-Mogg)による共著『主権ある個人:情報化時代への変遷を支配する(The Sovereign Individual: Mastering the Transition to the Information Age)』(未邦訳)である。1997年に初版が発行されたこの書物は、90年代におけるティールの思想形成に決定的な影響を与えていると思われるので、少し詳しく見ていきたい。 まず、この書物が出版された1997年といえば、世界を世紀末の空気が覆っていた時期に当たることに留意したい。西暦2000年が近づいている今、世紀の終わりに西洋文明が大きな変動に見舞われるのではないか。そうした「予感」がこの書物の通奏低音を構成している。 『主権ある個人』の冒頭のパラグラフには、発明家ダニー・ヒリスによる以下のような文章が引かれている。 何か巨大なことが起こりつつあるようだ。増加しつづける人口、大気中の二酸化炭素濃度の上昇、地表を覆うネット、メガバイト換算のドル。それらすべてが世紀の向こう側の一点へ向けて、漸近線を描きながら上昇していく。──シンギュラリティの到来。私たちが知っているすべてのことの終わり。私たちが知らないすべてのことの始まり。 (『主権ある個人』) つづく第一章の冒頭において、著者は2000年の到来が何らかのカタストロフィを引き起こすという想像力に西洋は取り憑かれてきたと述べ、世界は2000年で終わると推測したアイザック・ニュートン、1999年に第三のアンチクリストが現れると予言したノストラダムス、1997年に水瓶座の時代への精神的移行と新たな人類の到来を幻視したカール・グスタフ・ユングなどの例を挙げている。また、2000年になるのと同時にコンピュータが誤作動を起こし、世界中の経済が麻痺するのではないか、といったいわゆる2000年問題がマスメディアで盛んに騒がれていたのもこの頃に当たる。 日本に目を向けてみると、五島勉の『ノストラダムスの大予言』に端を発するノストラダムス・ブームがあり、オウム真理教は地下鉄サリン事件を起こし、他方で『新世紀エヴァンゲリオン』といった世紀末の空気を湛えた特異なサブカルチャーが社会現象を巻き起こしていた。『主権ある個人』は、このような時期にアメリカで出版された。 同書の主張を一言で要約すれば、「国民国家は時代遅れなのでやがて崩壊するだろう」ということに尽きるだろう。この予言的なリバタリアン的終末論とでもいうべき趣の本は、先に述べたようなインターネットの勃興期に書かれたという点でも重要だ。この時期は、国家とは別の共同体のあり方を可能にするオルタナティブな空間として、しばしばサイバースペースに対するユートピア的期待が向けられていた。奇しくも、ジョン・ペリー・バーロウ(John Perry Barlow)が「サイバースペース独立宣言」を起草したのは、本書が刊行される一年前の1996年である。 我々が作りつつある世界はどんな人でも入ることができる。人種、経済力、軍事力、あるいは生まれによる特権や偏見による制限はない。 我々が作りつつある世界では、誰もがどこでも自分の信ずることを表現する事が出来る。それがいかに奇妙な考えであろうと、沈黙を強制されたり、体制への同調を強制されたりすることを恐れる必要はない。 (ジョン・ペリー・バーロウ「サイバースペース独立宣言」) 政府によるインターネット規制の法案「通信品位法」に反対するために起草されたこの宣言文は、国家政府からのサイバースペースの独立を訴える苛烈なアジテーションに満ちている。 だが、『主権ある個人』の主張は、ある意味よりラディカルである。というのも、同書の予言によれば、サイバースペースの拡大によって、国家システムそれ自体が遠からず崩壊するであろうとされているからだ。 そこにおいて鍵となるのは暗号化技術と電子マネーの登場だ。グローバル化した電子商取引によって、中央銀行は通貨発行益を失い、政府は個人間の取引に介入したり、収入に課税したりすることができなくなる。言い換えれば、政府は個人から税金という名の「みかじめ料」を取ることができなくなり、代わりに貨幣の流れを個人がコントロールできるようになる。 この帰結として、税収を絶たれた政府のシステムは不可避的に機能しなくなっていく。民主主義は崩壊し、福祉制度の解体とともに富の不平等は加速し、暴力やテロが都市を覆う。 こうしたポスト・アポカリプス的な状況、さながら『マッドマックス』、あるいは『バトル・ロワイアル』のような世界の只中に現れるのが、新たな階級としてのSovereign Individual、すなわち「主権ある個人」である。彼らは、一言でいえばニーチェの「超人」の起業家版であり、国家の制約から解き放たれた彼らは独力で富と権力を築き上げ、ポスト終末の世界をサヴァイヴしていく。同書の中で、「主権ある個人」はしばしばギリシア神話におけるオリンポスの神々に喩えられている。 近代的な国民国家の秩序が崩壊していくさまを予言的な筆致とディストピアSF的な幻視力で描いてみせた本書は、まさに世紀末特有のダークなビジョンで満ちている。だが、実はこうした「西洋の没落」的なテーマはさほど珍しくなく、欧米においては常に一定の需要のあるテーマとして盛んに書かれてきた(それこそ前述の『アメリカン・マインドの終焉』も広義の「没落」テーマ本といえるだろう)。 ドイツの哲学者シュペングラーの『西洋の没落』は、まさにそうした「西洋の没落」人気に先鞭をつけた書物として特筆に値する。1918年、第一次世界大戦が終結した年に第一巻が刊行された『西洋の没落』は、当時の時代精神とリンクしていたこともあり、はからずもベストセラーになった。第一次世界大戦という世界史と西洋近代が最初に直面した「大量死」は、「西洋文明」あるいは「近代」それ自体の優位性を揺るがしかねない、ヨーロッパにとってトラウマ的な出来事であり、いみじくも当時の教皇ベネディクト十五世が大戦のさなかに評した「文明ヨーロッパの自殺」だった。『西洋の没落』は、この「文明ヨーロッパの自殺」を解明してくれる書として読まれたのだ。 『西洋の没落』は、それまでの歴史観に代わる新しい歴史観の提示と、西洋の未来についての予言からなる。ゲーテとニーチェから霊感を受けたシュペングラーは、歴史を直線的でなく円環的なものとして捉える。それまでの西洋の歴史観では、歴史は「古代─中世─近代」といった単線的なモデルに従って弛まず発展していくものとされた。このような進歩史観は退けられ、代わりにニーチェの「永劫回帰」的な円環モデル、すなわち「春(誕生)─夏(発展)─秋(成熟)─冬(死)」というサイクルからなる運命的歴史観が提示される。 そのうえで、シュペングラーは未来の予言として、「西洋の没落」は避けられない宿命であると結論付ける。彼によれば、現在のヨーロッパはローマ時代の反復を生きているという。土地に根ざした「民族」の代わりに、世界都市に生きる「民衆」が台頭し、議会主義および民主主義は資本に支配されている。今後到来するであろうカエサル主義の時代においては、少数のカエサルたちが世界戦争を引き起こし、最終的に一人の勝者が世界帝国を打ち立てる。従来の国家は消滅し、少数の世界都市だけが生き残る──。 このシュペングラーによる暗い未来のビジョンは、ナチスにも影響を与えたとされるが、だが同時に先ほど見てきた『主権ある個人』が提示する未来像とも驚くほど似通っている。 同書の著者らもまた、シュペングラーと同じく単線的な進歩史観に抗って、循環的なアンチ・タイムライン史観を提示している。彼らは、西洋文明が繰り返し世紀の終わりに大変革を経験してきたというシンクロニシティに着目する。たとえば、今から約500年前、15世紀の最後の10年間にヨーロッパで鉄砲革命が起こり、コロンブスがアメリカに向けて出航している。さらにその5世紀前、10世紀の終わりに中世が始まっている。その5世紀前の終わりにはガリアの最後の軍隊が分裂してローマ帝国が滅びた。そして、20世紀前の最後の10年に、キリストが生まれている。 こうした世紀単位のサイクルを提示してみせた上で、しかし現在われわれの目の前に迫っている世紀末は、それまでのどの世紀の変わり目とも比べ物にならない大変動を引き起こすだろうと断言する。 『主権ある個人』は、シュペングラーの『西洋の没落』をリバタリアン好みにアレンジしたものだと言える。国民国家は影響力を弱め、代わりに小さな企業型都市国家が統治権を握る。──封建主義2・0の到来。福祉のシステムが機能しなくなった弱肉強食の世界では、テクノロジーを手中に収め政府の支配から独立した主権ある個人が、イノベーティブなアイディアと国境なきサイバースペースを武器にのし上がっていく。本書は黙示録的であるが、同時にどこか楽観的でもあり、読みようによっては起業家向けの自己啓発書としても読める。近年インターネットで生まれた「終末楽天主義者(Apocaloptimist)」なるスラングがあるが、その意味では本書はまさしく終末楽天主義的であるといえる。 ニーチェ主義とティール 同書にニーチェの名前は一度も出てこないが、しかしリバタリアニズムとニーチェの奇妙な親近性を考えてみることは有益に思える。たとえば、森村進編著『リバタリアニズム読本』所収の「ニーチェとリバタリアニズム」というテキストでは、ニーチェをリバタリアニズムの先駆者として再解釈するという大胆な読みが行われている。この章の執筆者・橋本努によれば、世俗社会における国家や教会といった、人々を「畜群」へと訓育していく大組織をニーチェは痛烈に批判しているが、この精神は、国家を否定して自由を重んじるリバタリアンとも通ずるところがあるという。 またニーチェは、平等主義を信奉する心理の根底にはルサンチマンがあると指摘している。「毒ぐもタランチュラ」という寓意を用いてニーチェが指摘するところによれば、隠れた復讐心を持つタランチュラは、権力にありつくことができないという嫉妬心から、「われわれに対して等しくないすべての者に、復讐と誹謗を加えよう」と企てる。 このニーチェの平等主義に対する批判は、どこかティールのポリティカル・コレクトネスに対する批判と似通ったところがある。彼はロースクール卒業間際に『スタンフォード・レビュー』に寄せた最後の論説の中で、経済的平等を重んじるリベラルを嘲笑し、代わりに資本家を擁護する。「強欲の代案としてのポリティカル・コレクトネスは、自己実現や幸福とは無縁であり、価値あることに取り組む人々への怒りと嫉妬にほかならない」。ティールにおいては、強欲は嫉妬よりもはるかに望ましく前向きなものとして肯定される。これは、ティール流の「超人」思想なのであろうか。 ニーチェは、ルサンチマンに基づく低劣な道徳を退け、いかなる道徳にも規定されない、孤独の中で創造的な精神を陶冶する「超人」の到来を歓待する。 「超人」とはすなわち、国家に対抗する力量をもった崇高な精神的存在である。(中略)言いかえれば超人は、規律訓練や徳育によって自らの欲望を抑制するのではなく、欲望を無際限に肯定し、そして祝福しなければならない。従来、肉欲と支配欲と我欲の三つは、各人が抑圧すべき悪しき欲求であるとみなされてきたが、ニーチェはこれらの欲求が、超人の理想において肯定しうることを示している。超人は、我欲をもって、巨大な組織(国家)に抵抗する意志を示す存在である。ニーチェは超人のもつ「創造力としての自由」を擁護するために、人間を凡庸なものへとおとしめる国家装置を批判したのであった。 (橋本努「ニーチェとリバタリアニズム」『リバタリアニズム読本』) リバタリアン流「超人」においては、「創造力としての自由」とはさしずめイノベーティブなアイディアと起業家精神であろうか。ともあれ、こういった「超人」のビジョンは、封建主義2・0の時代に到来するであろう主権ある個人を思わせるに充分すぎるだろう。 もちろん、ニーチェの「超人」は市場競争を賛美したわけではない。だが、それはティールも同様だった。ティールをその他の一般的なリバタリアンから分け隔てる特異性はここにある。 先にも述べたように、ティールは「競争」を忌避していた。これはともすれば、他のシリコンバレーのリバタリアンから見れば異端と受け取られかねない。一般的に知られるように、リバタリアニズムは個人の自由を何よりも重んじる。よって、政治的立場としては、国家の役割や福祉を最大限に抑える最小国家論を、経済的立場としては政府の介入を否定し市場競争を推進する市場原理主義的立場をそれぞれ取る。 もちろん、ティールも経済的自由を否定するわけではない。しかし、ルネ・ジラールの教えに対して忠実なティールは、競争と暴力が支配するフィールドには可能性が残されていないと見なしていた。代わりにティールが重視するのは、フロンティアの開拓と「独占」である。まだ誰も開拓していない未知の領野を独力で切り拓き、野心と才能によって新天地を支配すること。そのためにはまず、今いるこの束縛と不毛の地から「脱出」しなければならない。 ティールがスタンフォード大学で行った講義をまとめた著書『ゼロ・トゥ・ワン』の中で、競争とはイデオロギーに過ぎないと断じられている。たとえば、アメリカの教育システムは競争への強迫観念を反映したものであり、成績による評価システムを通して生徒にステータス信仰を植え付けている。 アメリカ人は競争を崇拝し、競争のおかげで社会主義国と違って自分たちは配給の列に並ばずにすむのだと思っている。でも実際には、資本主義と競争は対極にある。資本主義は資本の蓄積を前提に成り立つのに、完全競争下ではすべての収益が消滅する。だから起業家ならこう肝に銘じるべきだ。永続的な価値を創造してそれを取り込むためには、差別化のないコモディティ・ビジネスを行ってはならない。 (ピーター・ティール『ゼロ・トゥ・ワン』) よって、ティールは将来の起業家たちに、クリエイティブな独占企業を目指すようアドバイスする。こうした起業観は、彼自身が主張するようにある意味で創造論的である。ティールは、起業に際しては進化論ではなくインテリジェント・デザイン的な思考法が重要であると説く。ゼロからワンへの跳躍、言い換えれば無から有を生み出すためには神にも似た視点に立たなければならないのだ。この点については、ティールは明確に反ダーウィン主義者といえる。 また、ティールは別の箇所で、経済学の数式は19世紀の物理学の理論をそのまま模倣したものに過ぎないとしながら、完全競争が成立した均衡状態をエントロピー理論における熱的死の状態に喩えている。つまり、そのような死の空間においては創造的なものは何も生まれないというわけだ。この考えには、ジラールが『世の初めから隠されていること』で示した、欲望の連鎖がエントロピーのように「死」へと傾斜していくビジョンが反響しているように見える。 暗号通貨とサイファーパンク 話がだいぶ逸れたが、ティールがなぜペイパルという電子決済サービスを立ち上げたのか、ともあれ、これで見えてきたことと思う。 『主権ある個人』では、来るべきサイバースペースが国家を無用のものとし、国境なき電子マネーが個人に力を与えるというビジョンが描かれていた。ティールは、ペイパルを創業することで、このビジョンの現実化に貢献しようとしたのではないか。ティールが、同書の中で描かれた主権ある個人を自身と重ね合わせていたであろうことは想像に難くない。 ここで、ティールとは別の形で『主権ある個人』におけるリバタリアン的予言の現実化に貢献した人物として、サトシ・ナカモト(Satoshi Nakamoto)の名前を挙げておきたい。 サトシ・ナカモトは、ブロックチェーン、そしてその上で作動する暗号通貨(cryptocurrency)と呼ばれる技術を発明した正体不明の人物だ。暗号通貨の最大の特徴は貨幣を中央で管理する者──たとえば中央銀行──が存在しない点にある。その代わり、ブロックチェーンと呼ばれる各取引の台帳記録をすべてのユーザーが共同管理することで、記録の改ざんや二重取引などの不正を防ぐことが可能となっている。ビットコインに代表される暗号通貨、それは国家などの中央集権的な権力に抗う分散ネットワークを介して当事者間の直接取引を可能にする。その意味では、ティールのペイパルとも響き合う要素を持っている。他方で、ネットのプラットフォーム上に散らばる自分の個人データを一元的に自身のブロックチェーン上で管理するという、いわゆる自己主権型アイデンティティ(Self-Sovereign Identity)という考え方も近年活発化を見せている。 暗号通貨の誕生の背景には、サイファーパンクと呼ばれる対抗カルチャーの存在がある。サイファーパンク=cypherpunkとは、cyberpunk(サイバーパンク)とcypher(暗号)をかけ合わせた合成語で、その名の通り暗号化技術を武器に国家権力との闘争を続けるアナーキスト集団である。 市民のプライバシーと権利を守るための武器としての暗号化技術は、アメリカのハッカー文化においては常に一定の存在感を保っている。たとえば、2013年にエドワード・スノーデンのリークによって、アメリカ国防総省下のNSA(アメリカ国家安全保障局)による一般市民まで含めた世界規模の盗聴の実態が明らかになり、改めて市民のプライバシーの問題が問われたことは記憶に新しい。 サイファーパンクの起源は90年代初頭、著名なハッカーたちが集っていたメーリングリストであり、暗号通貨の誕生は2008年にサトシ・ナカモトがこのメーリングリストに投稿したメッセージがきっかけとされている。サトシ・ナカモト含め、サイファーパンクのメンバーは度合いの差はあれど過激なリバタリアンたちによって占められている。 ビットコインは現在ではもっぱら投機の対象というイメージを持たれがちだが、誕生初期の頃はそれこそ反体制的な領域で用いられることが多かった。たとえば、ビットコインがそのプレゼンスを上げるきっかけとなったのは、当時ダークウェブに存在していたブラックマーケット「シルクロード」だ。 ダークウェブとは、専用のソフトウェアを使わないとアクセスできないインターネット上の特定の領域──サーバーの所在地が秘匿化されたウェブサイトが数多く存在する──を指して呼ばれる。そこでは、国家や法執行機関の監視を逃れる形で取引を行う必要から、必然的にビットコインが重宝されていた。 ダークウェブを成り立たせているのは、Torネットワークと呼ばれる、暗号化技術によって通信元を秘匿化する技術だ。このサイファーパンクのメンバーもプロジェクトに関与しているTorネットワークは、2010年代初頭の頃は「アラブの春」と、それに続くウォール街のオキュパイ運動にも貢献したとされる。インターネットが検閲されたり制限されている地域において、ジャーナリストたちが安全かつ自由に情報を発信することができるからだ。 しかし、結果的に「アラブの春」は中東に平和をもたらさず、代わりに誕生したのはイスラム国だった。オキュパイ運動も大した成果を残さなかった。「アラブの春」でもてはやされたSNSは、革命ではなくヘイトスピーチをもたらし、2017年にはドナルド・トランプ大統領を誕生させた。 同様にTorネットワークも、とりわけ2011年の「シルクロード」誕生以降は、アナーキーな脱法空間、すなわちダークウェブとしての存在感を高めていく。そこで決定的な役割を果たしたのが、ビットコインに象徴される暗号通貨だった。 なお、サイファーパンク運動の主導者の一人ティモシー・メイ(Timothy May)は、1992年に「暗号無政府主義者宣言(The Crypto Anarchist Manifesto)」という短い文章を書いている。「亡霊が徘徊している。暗号無政府主義という亡霊が」という、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』のオマージュから始まるこのテキストでは、サイバースペースにおけるドラッグマーケットや暗殺マーケット、さらに政府による規制やコントロールに縛られない経済圏の登場が予言されている。言い換えれば、現在のダークウェブのあり方が1992年の時点でほぼ正確に予言されている。民主主義に対する苛烈な批判者でもあるメイは、ニーチェ哲学を信奉し、暗号化技術は超人を可能にすると信じていた。彼は自分の飼い猫にニーチェという名前をつけていた。 ダークウェブという空間は、ある意味で『主権ある個人』が幻視してみせた国家なき後のポスト・アポカリプス的世界にもっとも近いかもしれない。ダークウェブで力を得るのは、国家でも大企業でもなく、プログラミング・コードと暗号化技術で武装した個人だ。 たとえば、「シルクロード」の運営者ドレッド・パイレート・ロバーツ(Dread Pirate Roberts:DPR)は、ユーザーからカリスマ的な人気を得ており、まさに主権ある個人として振る舞っていた。また、DPRは「シルクロード」のフォーラム上で定期的に読書会を開いていたが、そこで主に読まれていたのは右派リバタリアニズムの書だった。その中の一冊ウォルター・ブロック(Walter Block)『不道徳な経済学 擁護できないものを擁護する』は、貨幣偽造者、投機家、ダフ屋、麻薬の売人、中毒者など、法的に禁止されている多種多様な活動をリバタリアニズムの観点から擁護した本だ。「シルクロード」はあらゆる違法薬物を扱っていたが、それとてリバタリアンからすれば充分に正当化されうるのだった。 ダークウェブ、そこは犯罪、違法薬物、児童ポルノが渦巻き、麻薬の売人、ハッカー、詐欺師が暗躍する、弱肉強食の法則が支配する無政府的空間だ。そこはあるいは、『主権ある個人』のダークな予言をサイバースペース上において現実化した空間と言えるかもしれない……。 とはいえ、リバタリアンの予言と異なり、ペイパルも暗号通貨も、今のところ国民国家を消滅させるまでには至っていないことは現在までに至る歴史が証明している。しかし、ブロックチェーン技術を応用することで、既存の国家という枠組みを超越しようという動きはすでにある。 たとえば、ブロックチェーン上に国家を作るプロジェクト「ビットネーション(Bitnation)」は、そのような試みのひとつとしてある。「ビットネーション」では、国民はブロックチェーン上に記録されたIDと紐付けされる。このことにより、国家という概念は地理的な制約から解放される。つまり、地球上のどこに住んでいようと、IDと紐付けされている限り「ビットネーション」の国民を名乗ることができる。 似たような試みとしては、エストニアのe-Residencyプログラムがすでにあり、エストニア国民に限らず誰もがエストニアのデジタルIDを取得することで、オンラインでの会社設立や銀行口座の開設といったサービスを受けることができる。 「ビットネーション」では、国籍を持たない難民に対してIDを発行する取り組みも行っている。土地登記、婚姻届、出生届、パスポートなどのID、戸籍登録、財産権の記録などの行政サービスをブロックチェーンが代替する。 今後、スマートコントラクトを利用した投票機能や民事契約のシステムが実装されれば、「ビットネーション」はいよいよ既存の近代的国民国家像に取って代わる、中枢の存在しないフラットな自律分散型国家を形成するようになるかもしれない。 ブロックチェーン上に国家を作ることができる。これは言い換えれば、誰もが暗号通貨を作ることができるように、いわば誰もが国家を作ることができる、ということである。あり得る未来では、人々はもはや地理的な制約に縛られず、各人が選択したそれぞれのブロックチェーン国家に所属して生活を営むことになるだろう。そうなったとき、既存の国民国家は、果たして現在のような影響力を維持することができるのだろうか……? 「イグジット」のプログラム だが他方で、ティールはあくまでサイバースペースを副次的なものと捉えはじめていた。 2009年4月、ティールはリバタリアン系のオンラインフォーラム『Cato Unbound』に「リバタリアンの教育(The Education of a Libertarian)」というエッセイを寄稿しているが、そこで自身の過去20年間の活動を振り返っている箇所がある。 ティールは、90年代にはペイパルを創業し、デジタルな貨幣流通のあり方を生み出し、00年代にはフェイスブックへの投資を通じて、国民国家に縛られないオルタナティブなコミュニティ空間の創出に貢献した。ティールの過去20年間の活動は、インターネットというフロンティアとともにあったといえる。だが一方で、インターネットには限界もあるという。というのも、サイバースペースはあくまでバーチャルな領域であり、往々にして現実よりも想像に偏りがちだからだ。「私の望みは何らかの形で世界に影響を与えることでした」と言うように、ティールの目線は常に現実世界に向いていた。 また、現実主義者ティールは、フロンティアとしての宇宙空間も考察しているが、そこでの評価も芳しいものではない。ロケット工学は1960年代以降飛躍的な進歩を遂げていない。現実問題として、そこには技術的な制約が深く根を下ろしている。何らかの技術的特異点が訪れでもしない限り、宇宙空間の開拓にはまだまだ時間を要するであろう、というのがティールの見通しだ。 そこでティールは、サイバースペースと宇宙の間に存在する第三のフロンティアとして海上にそれを見出している。「seasteading(海上入植)」計画への関心がそれだ。 「seasteading」計画とは、国家の影響が及ばない海上に自治的な都市国家を建造しようという計画で、ここにはティールが愛読するアイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』からの影響を認めることができる。 1957年に出版された『肩をすくめるアトラス』は、リバタリアンにとってのバイブルとも言える小説だが、その中に、崩壊しゆくアメリカに見切りをつけた一部のリバタリアンたちがコロラド山中に「ゴールト峡谷」と呼ばれる新世界を作り上げるくだりが出てくる。小説タイトル内の「アトラス」とは、ギリシア神話に登場する天球を支える巨人の神のことである。つまりはアトラスであるところのリバタリアンたちが、政府の徴税と圧迫に耐えかねて一斉にストライキを起こしたら、言い換えればアトラスが肩をすくめたら世界はどうなるのか? という一種の思考実験の結果がこの小説というわけだ。 破滅へ突き進むアメリカと、それに見切りをつけて独立の道を歩むリバタリアン、そして彼らになぞらえられるギリシア神話の神々。こうしたモチーフを拾っていくと、明らかに『主権ある個人』と共通するところが多いことに気づくだろう。ティールはこのような書物たちから影響を受け、そして実際にこれらのビジョンを現実化しようとしていたのだ。 煎じ詰めれば、ティールにとってもっとも重要なのは脱出、すなわち「イグジット(Exit)」のプログラムを練り上げ、それを実行に移すことだ。それはルネ・ジラールとの出会いから現在まで一貫していると言える。国家からの「イグジット」、政治からの「イグジット」、競争からの「イグジット」……等々。ティールにとっての主権ある個人とは、荒廃した弱肉強食の世界から超越=イグジットした、それらを統べる支配者のことだ。競争のフィールドから超越し、新世界の空白地帯に王国を築き上げること。競争を避け、独占を目指せ、というティールの起業論とはすなわちそういうものだ(ティールが現在のシリコンバレーに対してアンビヴァレントな違和を表明し、一定の距離を置いているのも、そこにもはやフロンティアの余地がないと感じ取っているからなのだろう)。それこそがティール流の「超人」なのだ。 その意味で、ティールの思想的先祖の一人は、「戦争」という競争の究極段階から離脱し、ジャングルの奥地で原住民を率いてみずからの王国を築き上げた、あの『地獄の黙示録』のカーツ大佐かもしれない。 「ホラー」に抗う カーツ大佐がジャングルの奥地で小さく呟いた「The Horror」という言葉を正確に聴き取ること。ホラー、恐怖、しかし何に対しての? ティールにとってのホラーとは、それはたとえば「死」に対するホラーであったかもしれない。この章の主要参照源のひとつでもあるジョージ・パッカー『綻びゆくアメリカ』における、ピーター・ティールの章の冒頭に置かれた印象的なエピソードをここで引いておきたい。 ピーター・ティールが死について知ったのは三歳のときだった。一九七一年、クリーヴランドのアパートで家族と暮らしていた彼は、自分の座っている敷物に目をとめた。ピーターは父親に訊ねた。「これはどこからきたの」 「牛だよ」。父は言った。 (中略) 「牛はどうなったの」 「死んだんだよ」 「どういうこと?」 「つまり、牛はもう生きていないんだ。すべての生き物は死ぬ。すべての人間もね。いつか私も死ぬ。いつかお前も」 (『綻びゆくアメリカ』) このトラウマ的原体験がティールという実存の根底を成している。死というエントロピーの法則に抗うこと、それはとりもなおさずティールにとって根源的な「ホラー」に抗うことを意味する。 すでに2006年、ティールは寿命延長研究を進めるメトセラ財団に350万ドル寄付している。メトセラ財団の会長兼主任研究員オーブリー・デ・グレイ(Aubrey de Grey)は、SENS(老化防止のための工学的戦略)と呼ばれる研究財団の責任者でもあり、「アンチ・エイジングではなく、ストップ・エイジングだ」といった挑発的な発言を繰り返すことでも知られている。 不老不死の実現は、シンギュラリティ(技術的特異点)に対する畏れにも近い期待とも関わっている。たとえば未来学者でAIに関する発言でも知られるレイ・カーツワイル(Ray Kurzweil)は、2045年にAIが人類を超越し、シンギュラリティが訪れると予言している。同様に、遺伝子工学とナノテクノロジーとロボティクスの飛躍的進化によって、人類はトランスヒューマン、すなわち不死の体を手に入れるだろうと述べている。 ティールはAIにも期待を抱いており、「フレンドリーなAI」の研究を進める非営利団体、機械知能研究所(MIRI)に繰り返し資金援助を行っている。MIRIの設立者でAIリサーチャーのエリーザー・ユドコウスキー(Eliezer Yudkowsky)は、シンギュラリティ以降の世界において人間は、友好的な知性を備えたスーパーコンピュータに意識をアップロードすることで不死になると考えていた。 これらに共通して見られるのは、近い未来において歴史に決定的な「切断線」が訪れるという強迫観念にも近い予感だ。たとえば、近年見られるそうした「切断線」の議論のひとつに「人新世(Anthropocene)」がある。 「人新世」を最初に称えたのは、オゾン層破壊の研究で1995年ノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェン(Paul Crutzen)である。私たちは、最終氷期が終わった1万8千年前に始まった完新世という安定の時代を生きてきた。だが今や、人口とエネルギー使用の増加、工業化が加速度的に進んだ20世紀半ばの「グレート・アクセラレーション」を経て、人間の活動が地球環境に不可逆的な影響を与える時代、すなわち「人新世」の時代に突入しているのだという。 歴史学者のディペッシュ・チャクラバルティ(Dipesh Chakrabarty)は、人新世は大部分が人間の活動の帰結であるが、しかし今や私たちは人新世の影響を制御できない状況にあると主張する。 このような視点に立ったとき、人新世のプロセスの不可逆的かつ破壊的な帰結としての「絶滅」というビジョンが見えてくる。実際に、人間による地球環境破壊がこのまま進めば、2100年までに全生物種の半分が絶滅するという予測もある。もちろん、何も手を打たなければ人間も遠からず「絶滅」という運命から逃れることはできないだろう。 近い未来における「絶滅」という決定的な切断線。このダークなシンギュラリティのビジョンを共有するシリコンバレー界隈の億万長者は少なくない。ペイパル・マフィア(ペイパルの創業期に関わったメンバーを指す)の一人イーロン・マスク(Elon Musk)は、スペースXの設立を通して民間の宇宙船開発を推し進めているが、その目的のひとつは地球からのイグジットに他ならない。 マスクによれば、人類は地球とともに近いうちに絶滅する運命にある。これを避けるためには、人類は宇宙に脱出し多惑星種になる他ないという。その足がかりとして彼が目下の関心を寄せるのが火星移住計画だ。マスクの見通しによると、2020年頃までに乗組員の選別と訓練、推進装置やシステムの開発が終わり、その後宇宙船と推進ロケットのテストを重ねて、2030年代前半頃を目処に人を火星に送るという。 啓蒙という欺瞞、そして9・11 西洋の没落、綻びゆくアメリカ、国民国家の解体、人新世、絶滅、そして死──。 これらに共通するのは、つまるところ「終末」の予感、あるいは「ホラー」である。ティールはディストピアSFに親しんでいたが、それらが近いうちに現実のものとなることが予感されていた。国家、文明、人類、地球、すべてが緩やかに衰退と滅亡へと傾斜していく……。 その意味で、2001年の9・11はティールだけでなくアメリカにとっても決定的な意味を持つ経験だった。2004年、スタンフォード大学でルネ・ジラールを囲んで開かれたシンポジウム「政治と黙示録(Politics and Apocalypse)」は、まさに9・11以後におけるアメリカ政治の再検討をテーマにしていた。このシンポジウムは2007年に同名のタイトルで書籍化されているが、シンポジウムの発表者の中にピーター・ティールの名前を見つけることができる。「シュトラウス主義の時代(The Straussian Moment)」と題した発表においてティールは、9・11という経験は西洋近代の遺産である「啓蒙」というプログラムの完全な失効を決定づけるものであった、という見方を示した。イスラムという西洋近代の「外部」からの出現者に対抗するためには、アメリカもまた西洋近代を基礎づける諸々の時代遅れの価値観を根底から解体しなければならない、という。ここにはティールのもっとも率直な政治思想的表明がある。ティールは言う、17世紀後半以降、つまり啓蒙の時代以降、西洋はヒューマニズムという普遍的かつ偽善的な価値観のもと人間の根源的なあり方を覆い隠してきた。その根源的なあり方とは、人間に潜在する暴力性と悪徳である(もちろんこれはジラールの教えでもある)。ティールからすれば、オサマ・ビンラディンとは、モダニズムが抑圧してきたものの文字通り暴力的な回帰なのだった。そして、この西洋の「外部」からの暴力の洪水=テロリズムが、我々を健忘症的な眠りから叩き起こすだろう、何かのあやまちから「啓蒙」と名付けられたこの深い眠りから……云々。ここからティールは、近代的思考に取って代わるべきオルタナティブな思考として、カール・シュミットとレオ・シュトラウスを召喚するに至る。つまるところ、ここで要請されているのは、ある種の「例外状態」であり、またその「例外状態」において立ち現れる主権ある個人(!)に違いないのであるが、それはともかく。 ともあれティールは、「平等」と「デモクラシー」というドクトリンに束縛された西洋の衰退と滅亡は避けがたいと考えていた。そして、9・11の出来事はその観念を確信へと変えた。 他方で、現在ティールは来る西洋の崩壊からの「イグジット」としてニュージーランドに目をつけており、すでにニュージーランド国籍も取得している。この美しく、かつ資本家にとって魅力的な税制を敷いている地に注目しているのはティールだけではない。彼と同じく「終末」の予感を感じ取った億万長者たちが、この地に広大な土地を買い、そこに巨大な地下シェルターを建造して差し迫るアポカリプスに備えているという。 終末論者としてのピーター・ティール。彼の思想は、別の形でインターネットの仄暗い空間に誕生した一群の思想に受け継がれている。 ──新反動主義。ティールの「自由と民主主義はもはや両立しない」というテーゼに霊感を受けたシリコンバレーの起業家カーティス・ヤーヴィン、そしてそこにイギリスの異端的哲学者ニック・ランドが加わり、「暗黒啓蒙(The Dark Enlightenment)」として体系化されたこの新たな反動の思想は、現在のオルタナ右翼にも影響を与えているとされる。 続く章では、この「暗黒啓蒙」と新反動主義に焦点を当てながら、彼らの思想に迫っていくことにしたい。 リバタリアニズムとは何か 前章ではピーター・ティールについて見てきた。ティールの思想の根底には幼少の頃から培ってきたリバタリアニズム思想がある。リバタリアニズム思想はシリコンバレーの起業家やエンジニア界隈にも浸透しており、本章で述べるカーティス・ヤーヴィンに端を発する新反動主義の思想的土壌を形成しているとも考えられる。そこで、まず新反動主義に詳しく立ち入る前に、リバタリアニズムの基本的な考え方を簡単に確認しておこう。 リバタリアニズムとはそもそもどのような思想的立場なのだろうか。リバタリアニズムは個人の自由を最大限に尊重する思想である。とはいえ、その自由は必ずしもリベラル左派的な自由を意味しない。あるいは、リベラル左派的な自由に限定されない、と言うべきか。というのも、リベラル左派の信奉する自由とは、精神的自由や政治的自由のようないわゆる人格的自由であるからである。そのような人格的自由を説く一方で、リベラル左派は市場経済に関しては、経済活動への介入や財の平等的再分配を要求するのが一般的で、ここにリバタリアニズムとのもっとも大きな思想的差異がある。リバタリアニズムとは、一言でいえば人格的自由だけでなく経済的自由の尊重をも説く思想なのだ。 もちろん、リバタリアニズムは主流保守派とも相容れない。なぜなら保守主義者は一般的に経済的自由は尊重するが、人格的自由に対しては比較的慎重だからである。さらにリバタリアニズムの対極に、経済的自由も人格的自由もともに尊重しない権威主義が位置する(その極端な例が全体主義である)。これらの点から言えば、リバタリアニズムは左派/右派、どちらの座標軸とも相容れない。 リバタリアニズム思想の根底には「自己所有権」という概念がある。これは、自分の身体とそれが所有するものに対する絶対的な所有権で、すべての人間に生まれ持って与えられている不可侵の権利=自然権としてリバタリアニズムの基本理念であり続けている。 この点に関して、ロバート・ノージック(Robert Nozick)の『アナーキー・国家・ユートピア』という書物の与えた影響力はいくら強調してもしすぎることはない。本書が刊行された1970年代半ば、リバタリアニズムはアイン・ランド主義者や一部の市場原理主義者だけが信奉する思想と受け取られていた。ところがノージックの登場によって、リバタリアニズムはひとつの洗練された政治思想としてみずからを提示し直すことに成功した。 そこで重要な役割を果たしたのが先の自己所有権という理念である。ノージックは本書において、絶対的な所有権──自分自身と世界の中の事物とに対する所有の権利──としての自己所有権を提起する。この自己所有権は、あなたが他者の自己所有権を侵害するようなケースを除けば、誰一人としてあなたの人身(person)やあなたの所持物(possessions)に介入してはならない、という形ですべての政治的諸価値の根幹を成す。 諸個人は権利を持っており、個人に対してどのような人や集団も、(個人の権利を侵害することなしには)行いえないことがある。この権利は強力かつ広範なものであって、それは、国家とその官史たちがなしうること──が仮にあるとすればそれ──は何かという問題を提起する。個人の権利は、国家にどの程度の活動領域を残すものであるのか。本書の中心的関心は、国家の本質、適正な国家の機能、国家の正当化(それがあるなら)にあり、研究の過程で広い範囲の多様な主題がからみ合ってくることになる。 (ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア 国家の正当性とその限界』) ノージックにとっては、まず何よりも自己所有権が根底にあり、この自己所有権がもっとも尊重されるにはどのような国家形態が適しているのか、という順序で論が展開されていく(決して逆ではないことに注意)。それに対するノージックの回答は、いわゆる最小国家である。 国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。 (同右) よって、以降のノージックの記述は、この最小国家の正当性と、それ以上の拡張国家の不当性を論証するために費やされることになる。 ノージックが弁護する自由尊重主義的最小国家は、古典的自由主義における、諸個人の人格的権利と所有権を保護するためだけに存在する「夜警国家」とも似ている。国家は、自己所有権を侵害する諸々の暴力から市民を保護するために存在するべきなのであり、同時にそれが国家の唯一の正当化理由である。それ以上の広範な計画を引き受けるならば、国家は人々の自己所有権を侵害することは避けられない。たとえば、福祉システムに代表される富を個人から個人へと強制的に移転させる財の再分配は、個人の自己所有権に対する侵害を含まざるを得ないという理由から退けられる。このように、ノージックは自由の権利を政治哲学のすべての領域の根幹に置く。とはいえ、たとえばジョナサン・ウルフが批判するように、ノージックの「自己所有権」は見方によっては極端に形式的、もっと言えば無内容であるとも言える。ノージックはこの概念を、人間が生まれながらにして所与のものとして与えられている権利として叙述する。だが、彼はこの概念を擁護するためのそれ以上の論拠や基礎づけを避けているように見える。自己所有権は自明の真理なのだから、それ以上の説明は要らないとでも言うように……。たとえば、『正義論』のジョン・ロールズであれば、権利は先行する正義の構造との関係で相対的なものであり、何物であれ「絶対的に私のもの」はなく「そのルールによって私のもの」に過ぎないと言うだろう。 他方で『アナーキー・国家・ユートピア』は、ノージックによる特異なユートピア論でもある。第三部「ユートピア」では、最小国家を参加と脱退が可能な多元主義的なユートピアを可能にする共通の枠として提起しなおす。ここで重要になってくるのが「許容」と「奨励」の区別である。リバタリアニズムは権利を侵害しない限りでいかなる自由も許容するが、必ずしもそれらを奨励しているわけではない。たとえば、無制約な市場原理主義も許容されるが、かといってそれが奨励されているわけではない。つまり、人々はどのような制度を作ろうと、それが個人の自己所有権と抵触しない場合に限り、諸個人の自由の行使として無差別に許容されなければならない。 このレッセ・フェールのシステム内では、それが許されているにもかかわらず現実に機能している「資本主義的」機関は存在しない、ということも可能である (同右) レッセ・フェールな枠としての最小国家のうちでは、「資本主義」は存在することが「許されているにもかかわらず」「存在しない、ということも可能」なのだ。したがって自由尊重主義は必ずしも資本主義を要請しない。ここから、最小国家のもとでの多元主義的なコミュニティの可能性が開かれてくる。たとえば、あるコミュニティでは住人たちの同意のもとで、最小国家が行わない規制を行うかもしれない。あるいは、あるコミュニティでは特定のルール(政治的、経済的、宗教的、等々)が課されるかもしれない。そのコミュニティに留まるかどうかは、そうした諸々の規制やルールに従うかどうかに左右されるだろう。共産主義者によるコミュニティ、特定の宗教に基づくコミュニティ、特定のライフスタイルに基づくコミュニティ、等々が並列的に存在する。人々は、自分たちの真の楽園を求めてひとつのユートピアから別のユートピアへと移動していく。 もちろん、このユートピアのロジックには限界もある。たとえば、ユートピア間における生存競争という問題。ユートピアには必然的に繁栄していくユートピアと、反対に衰退していくユートピアが現れるはずだ。長期的に見れば、経済法則による適者生存のプロセスが、マイノリティや弱者からなるユートピアを淘汰していき、一方で大きな市場勢力を持つユートピアが肥大化していく。したがって多元主義的なユートピアは、多様性ではなく反対に一元的な均質性に収斂していくことになるのではないか。この問題について、ノージックは明確な回答を与えていない。 他方で、ノージックによる多元主義的ユートピアの夢は、第一章で見てきたビットネーションのビジョンと奇妙にリンクするかのようである。ビットネーションの構想では誰もがブロックチェーン上に仮想国家を設立することができる。人々は既存の国家概念や地理的な制約に囚われることなく、自由にブロックチェーン国家を選択し、そこに帰属することが可能になる。 ブロックチェーンは、もともと中央集権的な構造にプロテストするために開発されたものだった。同様に、ブロックチェーンの開発に寄与したサトシ・ナカモトはリバタリアンであったし、そこには国家に反抗心を抱くハッカー思想やサイファーパンク運動の文脈も横たわっていた。その意味でも、ブロックチェーンのひとつの最新形であるビットネーション構想は、リバタリアンが掲げる多元主義的ユートピアの夢を再演するものであったと言えるかもしれない。 「自由」と「民主主義」は両立しない 2009年4月、第一章でも触れたように、ピーター・ティールはリバタリアン系オンラインフォーラム『Cato Unbound』に、「リバタリアンの教育」というエッセイを寄稿している。この記事はティールにとってのリバタリアン宣言のようなものであり、彼が十代の頃から一貫して抱いてきた自身のリバタリアニズム思想を今一度整理した上で次なる展望を語るという内容になっている。 ティールは、自分は十代の頃からリバタリアン的信念を捨てたことはないが、しかしリバタリアンが目指す目標を達成するための方法については、その考え方を大きく改めざるを得なくなったという。 先の章でも述べたように、ティールはスタンフォードに在学中、学内新聞の発行を通じて政治的ディベートの渦中に飛び込んでいった。言い換えれば、政治的手段をもって「自由」を獲得しようと試みていた。しかし、とティールは振り返って言う。そこでの達成はあくまで限定的であり、労力のわりには幅広い意味での勝利は得られなかった、と。 加えて大学を卒業してみると、社会は自由市場経済に対するペシミズムで覆われていることに気づいた。とりわけ2008年から09年にかけての金融危機では、リバタリアン的な政治がかつてないほどの困難に曝された。不動産バブルの崩壊、リーマン・ブラザーズの倒産。それは一言でいえば、国家の介入に基づく金融政策の破綻だった。そして、その破綻を補塡するためにさらなる国家の介入を招くという悪循環。加速度的に積み上がっていく国家の負債……。 このような国家の金融政策と市場の泥沼的関係性は、元を辿れば1930年代のニューディール政策に端を発するとティールは推測する。ニューディール政策では、1929年に起きた大恐慌からの立て直しを図るため、国家の大規模な介入による福祉国家化──社会民主主義が目指された。だがこのことは結局、自由市場を尊重するリバタリアン的信念が「政治」の次元に回収されてしまうことを意味した。 ティールはこれらの情況を見ながら、近年の出来事の数々は、リバタリアニズムと政治が根底において和解不可能であることを決定づけたという見方を示す。かつてのリバタリアンは、自由は政治を通してのみ達成できると考えていたが、それが今では間違いであったことがわかってきた。その上で、ティールは次のように高らかに宣言する。すなわち、「私はもはや『自由』と『民主主義』が両立できるとは信じていない」と。そして次のように書き記す。 これらの現実に直面して、人は絶望するかもしれない。自身の地平が政治によって限定されているとしたら。しかし私は絶望しない。なぜなら私は、私たちの未来の可能性が政治によって包含されているとはもはや信じていないからだ。私たちの時代におけるリバタリアンの重要な使命は、そのあらゆる形態における政治から逃走する道をみつけることだ。 (ピーター・ティール「リバタリアンの教育」) カーティス・ヤーヴィンの思想と対称的主権 2012年、オンライン上に「暗黒啓蒙(The Dark Enlightenment)」と題された長大な文章が発表された。著者はイギリスの哲学者ニック・ランド(Nick Land)。第一章「新反動主義者はイグジットを目指す」の中で、ピーター・ティールのあの印象的なフレーズが引かれているのが見つかる。 しかし、何かが起こりつつある。少なくとも、何か別のことが。ひとつのマイルストーンは、2009年4月に『Cato Unbound』がリバタリアンの思想家(そこにはピーター・ティールとパトリ・フリードマンが含まれていた)を招いて開いた誌上討論会だった。そこでは稀に見る率直さで、民主主義政治の進路と可能性とに関する幻滅が表明された。ティールは、この趨勢を無遠慮に次のように要約してみせた。「私はもはや自由と民主主義が両立できるとは信じていない」 (ニック・ランド「暗黒啓蒙」) 端的に言えば「暗黒啓蒙」の主眼は、近代=啓蒙というプログラムを乗り越えるオルタナティブな形の模索である。啓蒙主義は、暗黒の中世を理性の光で照らすことによって近代を準備した。その意味では「暗黒の啓蒙」とは撞着語法に他ならない。だが、そのような矛盾の只中に留まることによって、まったく新たな思考、近代というスキームを逸脱する「未知」の領野の開拓が可能になるのではないか。ランドの「暗黒啓蒙」という概念にはそのような思惑が込められていた。そして、その「暗黒啓蒙」に深い霊感を与えたのが、先のティールの「自由と民主主義はもはや両立しない」というテーゼだったのである。 ここで、「暗黒啓蒙」が執筆されるまでの過程を簡単に確認しておこう。 「暗黒啓蒙」の成立には、ティールの他にもう一人重要なキーパーソンが関わってくる。それはカーティス・ヤーヴィン(Curtis Yarvin)である。 ヤーヴィンは、アメリカのソフトウェア・エンジニアで、シリコンバレーにおいてTlonというスタートアップ企業を営んでいる。Tlonの主要プロダクトであるUrbitは、既存のクライアントサーバモデルに拠らない、ピア・トゥー・ピアをベースとした完全なる自律分散型インターネットの構築を目指すプロトコルである。発案者のヤーヴィンは言う、「ビットコインがデジタル通貨であるなら、Urbitはデジタル国家だ」(「Urbit: The Bold Pitch to Re-Decentralize the Internet, on Top of the Internet」)。 このプロジェクトにピーター・ティールは多大な出資を行っている。したがって、ヤーヴィンとティールは無関係であるどころか、思想的にも近い位置にいるのだ。 ヤーヴィンは、2007年頃からメンシウス・モールドバグ(Mencius Moldbug)というハンドルネームで言論活動を行っていた。彼のブログ「Unqualified Reservations」では、その特異かつ反゠近代主義的なリバタリアニズム思想が断続的に開陳されていた。 その中のひとつ、「対称的主権のマジック(The Magic of Symmetric Sovereignty)」というテキストには、ヤーヴィンの思想が比較的わかりやすい形で現れている。そこでは、「主権(sovereignty)」というタームに着目しながら彼独自の政治思想がアクロバティックな形で展開されている。 「主権」とは、ほとんどの思想家にとって──少なくとも左派の思想家にとっては制限されるべきものであると信じられてきた、とヤーヴィンは述べる。主権は市民の権利を侵害するいかなる資格も有していない、と。ところがヤーヴィンはこの見方に真っ向から反対する。 私の主張はこうだ。制限された主権という概念は、自己矛盾であり非形式主義的(informalist)であると。実際、この制限された主権(国民主権はそのうちのひとつ)は、啓蒙主義的政治が用いる道具箱の中のもっとも大きな誤った観念だと思われる。この無垢で大衆を惹きつける観念は、現代の恐ろしい混沌の原因のかなりの割合を形成してきたと私は考えている。 (カーティス・ヤーヴィン「対称的主権のマジック」) 代わりに、ヤーヴィンが提起するのは、左派がしばしば「全体主義的」と名付けるような主権のあり方である。 まずヤーヴィンは主権(sovereignty)を「独立的に確保された所有権」、または「根源的な所有権」と定義する。この主権の定義は明らかにリバタリアニズムにおける自己所有権が念頭に置かれていると思われる(自己所有権は英語ではindividual sovereigntyやself-ownershipなどと表記されることが多い)。 しかしヤーヴィンはここから、この主権の定義の意図的な拡大解釈を通じて、既存のリバタリアニズムすら逸脱するような地平へと向かっていく。まず彼は、土地や財産の所有は、この主権の定義に照らせば、せいぜい二義的にしか「根源的な所有権」が達成されていないとする。なぜなら、それは常に剝奪されたり差し押さえられたりする可能性があるからだ。事実、近代以降「根源的な所有権」は世界にほとんど存在したことがないのだ、とまでヤーヴィンは言い切る。ここでヤーヴィンが想定している主権──根源的(絶対的)な所有権──の理念的なあり方とは、もちろん専制である。つまるところ、ヤーヴィンは完全な自己所有権の達成を一種の独裁制に見出しているのだ。 それでは、ヤーヴィンはヒトラーを賛美するファシストに過ぎないのであろうか。もちろん話はそう単純ではない。ヤーヴィンはヒトラーの第三帝国を、あくまで専制の失敗した形式、あるいは堕落した形式に過ぎず、それどころか腐敗した民主主義の最終到達点に他ならないと見ている。というのも、そこでの主権も未だに完全に確立されているわけではないからだ。ヒトラーに代表される独裁者は、常に暗殺や革命の可能性、つまり自身の主権が剝奪される可能性に怯えている。だからこそ、大規模な粛清や虐殺が起こるわけだ。このような不完全な主権を有した独裁者は、よって恐怖から人民を弾圧する。 それでは、完全なる主権とは何か。というか、そのようなものが果たして存在するのか。ここから、ヤーヴィンはいささか唐突にSF的な思考実験にシフトしてしまう。ヤーヴィンは言う。もし、独裁者がヒトラーのような悪魔的な人間ではなく、というか人間ですらなく、超知性的な存在、あるいは宇宙人であったらどうなるだろうか。 その宇宙人──仮にフナルグルと名付けよう──は、不死の存在である。人間によるいかなる攻撃も通用しない。さらに彼が指をパチンと鳴らせば人間の息の根を一瞬で止めることができる。ただし、この他にはいかなる力能も持たず、歩くことさえできない。また、彼には人間的な善悪の価値観が存在しない。そして同時に(ここが一番重要な点なのだが)、この宇宙人には利潤を最大化しようとする欲望しか存在しない。つまり、極めて資本家的な資質を備えた独裁者なのだ。さて、この黄金を求めて地球にやってきた独裁者は、とにかく黄金を最大限に獲得するために行動するとする。この場合、この地球連合国を支配する宇宙人が採るであろう政策とはどのようなものであろうか。換言すれば、彼はどのような命令を我々に下すのだろうか。 もっとも考えられる可能性は、我々全員を金鉱山で働かせることだろう。だが、これはおそらく正しくない、とヤーヴィンは述べる。なぜなら、鉱山奴隷にも食べ物が必要であり、さらにショベルカーなどの建設機械も必要になるだろうから。誰が一体それを作ればいいのか? 我々はすぐさま気づくだろう、フナルグルが黄金の収穫量を最大化させるためのもっとも効率的なやり方とは、結局シンプルに人間たちに自身の経済を営ませて、それに対して課税(もちろん黄金という形で)することなのだ。言い換えれば、フナルグルは歴史上における人間が営むほとんどの国家とまったく同じ目標を持っているのである。彼の繁栄は、人間たちから取り立てた税金という形で収穫された黄金の量に比例する。もちろん課税の度合いは、その人間たちの支払能力にある程度依存しなければならない。よって、我々が富めば富むほど、フナルグルも富むのである。 (同右) つまり、奇妙な形ではあるが、フナルグルと我々の利害はここに至って一致する。フナルグルの繁栄は、我々の繁栄をも意味するのだ。他にもたとえば、公正かつ合理的な法システムを敷くことは、我々にとってだけでなくフナルグルにとってもインセンティブとして働く。なぜなら、人間は無益な争いや揉め事から解放された環境においてより生産的に働くからである。同様に、人間は圧政や弾圧の恐怖から解放された環境においてより生産的に働くだろう。よってフナルグルは無闇な殺生も弾圧も避け、公正な法手続きを尊重するようになるに違いない。また、フナルグルは人間から財産を理不尽に取り上げたりするような真似はせず、反対にきわめて秩序立った税制を採用するだろう。なぜなら、人間は未来の予測が容易な環境においてより生産的に働くだろうから、等々……。 念のため、全体主義的な専制に見られる、他の様々な懸案事項はどうだろうか。たとえば、言論の自由はそこでは果たして保証されるのか? とはいえ、フナルグルが言論の自由を統制しようとする理由がどこにあるだろうか。ビスマルクはかつてこう言った。「彼らには彼らの言いたいことを言わせておけ。私は私のやりたいことをやる」。ビスマルクは必ずしもそうしなかったが、フナルグルはそうするだろう。結局のところフナルグルは、暴力を防ぐための法律(というのも治安の悪化は生産性を下げるから)以外は積極的に制定しようとしない、個人の自由が保証された、きわめて健全かつリバタリアン的な国家を営もうとするに違いない。 すなわち、ヤーヴィンによる結論はこうなる。フナルグルはかつてないほど理想的な独裁者である、と。 ヤーヴィンは、このフナルグル的な専制のモデルを、全体主義から区別して対称的主権(symmetric sovereignty)と呼ぶ。というのも、通常言われている全体主義と異なり、そこでは主権の所有についても他の所有についてと同じ原理が「対称的に」適用されるからである。「所有権の範囲は確保された実際の力によって定義される」という同じ原理が「根源的な所有権にも二次的な所有権にも適用される」。それゆえ、ヤーヴィンが言う意味での「主権」は、他から脅かされることのない絶対的な力でなければ、自己矛盾に陥ることになる。もしもこの絶対的な力が実際に存在することを仮定してよいならば、そこからは、支配者と非支配者の運命共同体的な同一性にもとづく、シンメトリカルな共益関係が生じることになるだろう……。さながら、ここではリバタリアニズムと全体主義のアクロバティックな融合が試みられているかのようだ。 それでは、フナルグルを20世紀の全体主義的な独裁者たち──ヒトラーやスターリン──から隔てるもっとも大きな差異はどこにあるのだろうか。それは先ほども触れたヤーヴィンによる主権の定義、根源的な所有権にある。フナルグルが所有する自身の身体と大地(所有物)は、彼に対する不可侵性──不死と全能──によって絶対的に護られている。フナルグルとは、ヤーヴィンが提示する根源的な所有権を具現化した存在なのだ。だから、もしフナルグルから不死と全能の能力を取り上げたら、話はまったく変わってくる。なぜなら、そこではもはや彼の自己所有権は絶対のものではない、二義的なものに格下げされているからだ。フナルグルは、自身の身体と大地に対する所有権を保とうと必死に足搔き、彼の敵を排除しようとするだろう。かくして恐怖政治が始まる……。 とはいえしかし、ヤーヴィンのこの奇矯な思考実験には前提条件が多すぎる。まず、主権者が不可侵であり全能であること。そして彼が(有能な企業家のように)利潤の最大化にしか関心がないこと、等々。フナルグルは文字通り人間を超えた存在なのだから、人間がその位置に就くのは不合理でしかない。ヤーヴィンもこの点を理解しており、現実政治への実装性の可否については言明を慎重に避けている。だがもしかしたら、ヤーヴィンはこの宇宙人のような超知性的な存在として、シンギュラリティ以降に現れる人工知能(AI)を暗に想定しているのかもしれない。いずれにせよ、ヤーヴィンの考えによれば、専制君主が常に合理的な意思決定を行う限りにおいて、「主権独裁」(シュミット)は民主主義より功利的な観点から見て望ましいとされるのだ。 ヤーヴィンがここで示してみせた思考実験は、のちに彼が名付ける新官房学(Neo-cameralism)としてより洗練された形で体系化されていくことになる。ともあれ、私たちはそろそろ「暗黒啓蒙」に戻る必要性があるだろう。 新官房学 ヤーヴィンは、前述した通り、ブログ「Unqualified Reservations」において自身の思想を大量に書き連ねていた。ヤーヴィンの思想とは大雑把に言えば、さしずめティールの「自由と民主主義はもはや両立しない」というテーゼを、「自由にとって民主主義は悪である」と読み替え、かつそれを徹底的あるいは愚直なまでに推し進めようとする、といったものであるだろう。早くも2010年には、リバタリアン系のブロガー、アーノルド・クリング(Arnold Kling)が、ヤーヴィンとその周辺の論者の思想に新反動主義(Neoreaction)という名前を与えている。今や新しい未知の思想が生まれ出ようとしていた。 そして2012年、ニック・ランドの「暗黒啓蒙」がオンライン上で発表される。このイギリス出身の哲学者もまた、カーティス・ヤーヴィンの思想から感銘を受けていた。事実、「暗黒啓蒙」はヤーヴィンがこれまで断片的に書き連ねてきた思想に体系的なまとまりを与えようとしたもので、ヤーヴィンの思想=新反動主義の紹介にかなりの分量が割かれている。 第一章「新反動主義者はイグジットを目指す」の前半部は、先に述べたティールの引用に続き、新しい形のリバタリアン思想が展望される。すなわち、「政治」からの脱出である。 まずランドは、「ヴォイス(Voice)」と「イグジット(Exit)」という二項対立を持ち出してくる。ランドによれば、「ヴォイス」とはある意味で民主主義そのものであり、その起源はジャン゠ジャック・ルソーにまで遡ることができる。「ヴォイス」の体制の下では、国家は人々=国民の意志を表象するものとみなされる。たとえば、人々は現在の政権に不満があれば、実際に声を上げ(たとえばデモ活動)、そして選挙における投票行為を通じて現状を良い方向に改革していくことを目指すことができる。だがリバタリアンからすれば、それらは単なる騒音と空疎な馬鹿騒ぎでしかない。投票は単なる大衆による人気コンテストにすぎないし、その結果くだらない法案が可決されて少数者(つまり我々リバタリアン)の自由がいたずらに圧殺される。政治家は贈賄にかまけ、ポピュリズムは際限なく肥大化していく。それに比例して、国家もまた肥大化の一途を辿るだろう。彼らにとって民主主義とは、大衆の蒙昧と悪徳と憤りを集合的にまとめ上げて無理やり包括=統合させた、あらかじめ崩壊が約束された腐敗臭漂うシステムに他ならない。 代わりに、リバタリアンは「イグジット」というコンセプトを対置させる。民主主義の制度のもとで愚直に「声」を張り上げるのではなく、黙ってその制度から立ち去って、新しいフロンティアを開拓していく。これこそが、リバタリアンが選択すべきもっとも賢明なプログラムとなるだろう。第一章でも触れた「seasteading(海上入植)」計画の主導者であり、また経済学者ミルトン・フリードマンの孫であるパトリ・フリードマンは以下のように述べる。「自由なイグジットはあまりにも重要だと思われたので、我々はそれを唯一の普遍的な人権と呼んでいた」(「Nothing against Bioshock」)。 「ヴォイス」と「イグジット」の二項対立は、ティールのいう「民主主義」と「自由」の二項対立を言い換えたものであることに気づくだろう。「民主主義」に対して「自由」を、「ヴォイス」に対して声なき「イグジット」を。さしあたり、これらが新反動主義者の合言葉となる。 それでは、民主主義の具体的なオルタナティブとはどのようなものなのか。ランドは、単なる伝統主義/保守主義への回帰という選択肢も取らない。保守主義にあっては、自由も市場経済も共に政治から切り離せないものと捉えられており、それらに積極的価値が充分に与えられているとは言いがたい。保守主義のもとでは、自由も市場経済も民主主義と共に荒廃していくことは避けがたいだろう。それならば、どうするか。 カーティス・ヤーヴィンが召喚されるのは、ここに至ってである。ヤーヴィンただ一人だけが、「イグジット」の向こう側のビジョンを明確に描き出そうとしていた。「イグジット」の向こう側、それこそが新官房学である。 新官房学は、先に見てきた対称的主権の概念と「自由なイグジット(free exit)」の概念を総合させたものと見なすことができる。ヤーヴィンに従えば、新官房学の下では、国家は企業のように運営されるべきであるとみなされる。まず国家は一人のCEOを投票によって選出する。選ばれたCEOには主権、つまり国家に対する一切の所有権が与えられる。すなわち、CEOは専制君主として振る舞う権利を持つ。ただし、ここでの支配者と被支配者の関係性は、CEOとシェアホルダーの関係性とほぼ同義とみなされていることに注意しよう。つまり、CEO的な君主が相対するのは、国民というより自社の株主なのである。 CEOは自身が保有する国家゠企業(gov-corp)の利潤を最大化するように努めなければならない。というのも、CEOが国家゠企業の運営に失敗した場合、国民゠シェアホルダーはそのCEOが治める国家゠企業から去り、別のCEOが治める国家゠企業に自由に移住していくだろうから。つまり、いわば企業間競争のようなものが国家間で発生しているわけだ。これらの点から、国家゠企業は都市国家のような、なるべく小規模の形態が望ましいとされる。新官房学における国家゠企業は、民主主義的な「ヴォイス」ではなく、声なき「イグジット」という概念をベースにデザインされている。 またここには、ノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』で描いてみせたユートピアの理念との奇妙な類似性が見て取れる。ノージックのビジョンでは、最小国家の下での多元主義的なコミュニティが描かれていた。そこでは人々はコミュニティ間を自由に移動し合うことで自分にとってのユートピアを探求することが可能であるとされていた。このノージックの多元主義的ユートピアのビジョンを、対称的主権という概念を用いることで一種の封建主義的な専制君主制に反転させてみせたのが、ヤーヴィンによる新官房学のビジョンであると言えよう。 ところで、新官房学というタームの元となっている官房学とは、17~18世紀の神聖ローマ帝国やプロイセンにおいて発展した、経済の行政・管理に関する学問のことで、封建主義下における経世論として領邦君主によって重宝されていた。背景としては、17世紀以降の諸領邦が陥っていた、宮廷の衒示的消費などによる財政危機がある。そこで、収支監査の徹底、国税・国債制度の確立、鉱山業や林業における産業開発といった改革、また伝統的貴族の行政手腕ではなく商人の力を重視することによって、これらの財政危機の打開が目指された。そして、この重商主義的な経済政策の際の指針となったのが官房学だったといわれている。 官房学は19世紀以降の市民革命とともに衰退したが、ヤーヴィンは新官房学としてアップデートしたそれを自身の思想の中核に据えた。ヤーヴィンが根本において反近代主義者であるのは、たとえば新官房学の理念的なロールモデルを、18世紀のプロイセン王フリードリヒ二世が採った合理的な国家経営に求めていることからもうかがえる。また、完全な新官房学が実現したケースは歴史上存在していないとしながらも、現代の香港、シンガポール、ドバイなどを新官房学的な国家として高く評価している。これらの都市国家では民主主義の基盤がほとんど存在していないにもかかわらず、市民は高い生活水準を享受している。政治的自由は確保されていないが、代わりに充分な経済的自由が確保されている。ヤーヴィンにとってみれば、政府が安定していてかつ機能的であれば、政治的自由はさほど重要ではないのだ。 とはいえ、新官房学がいくら「自由なイグジット」を設けたところで、先に見た実装可能性に対する根本的な疑念は拭いえないように思う。たとえば、新官房学は「自由なイグジット」は保証するが、それに対応する「自由な入り口」は果たして保証されているのだろうか。すべての国家゠企業に自由意志で入国でき、またそこに居住できる権利があらかじめ確保されていてこそ、国家゠企業から立ち去るインセンティブが発生するのではないか。しかし、ヤーヴィンはこの点について充分に言及しているとは言いがたい。また、国家゠企業のトップに就くCEOは具体的にどのような人物が適しているのか。言い換えれば、その専制が全体主義と暴力に傾斜していかないという保証が、その専制君主一人の意志に依存しているというのは、いかにも不安定で危ういシステムなのではないか。もちろん、宇宙人や超知性的なコンピュータであれば話は別であろうが……。この点についてもヤーヴィンの記述は充分に説得的であるとは思えない。というのもヤーヴィンは、国家゠企業のトップに就くべき世界でもっとも適している人間は、議論の余地なくスティーブ・ジョブズ(!)に他ならないと断言しているからである(最近ではジョブズの代わりにイーロン・マスクを推しているようだ)。 反近代主義とその矛盾 さて、「暗黒啓蒙」の第一章においてヤーヴィンの新官房学を概観してみせたのち、ランドは次のように述べている。 ヨーロッパの古典時代にあっては民主主義とは、自然に衰退していくことが条件づけられた循環的な政治的発展段階のひとつ、すなわち専制へ移行していくための準備段階に過ぎないと認識されていた。ところが今日、この古典的理解は完全に失われ、代わりにグローバルな民主主義的イデオロギーが取って代わった。〔この歴史的発展段階のひとつでしかないはずの〕批判的な自己省察を欠いたイデオロギーは、信頼に足る社会科学的な命題でもなければ自発的な民衆の熱望ですらなく、宗教的な信条によって自己の正当性を力説するのだ。 (「暗黒啓蒙」) この、宗教的な信条によって自己の正当性を主張するグローバルな民主主義的イデオロギーは、ヤーヴィンによって〈普遍主義(Universalism)〉というタームが当てられている。すなわち、進歩主義、多文化主義、リベラリズム、ヒューマニズム、平等思想、ポリティカル・コレクトネス、人権主義、等々……。これらは、世俗化され非有神論化されたキリスト教のセクトであり、それも元を辿ればプロテスタンティズム、とりわけイギリス国教会に歯向かいアメリカ新大陸に渡ってきたピューリタンの系譜に端を発しているとヤーヴィンは主張する。この、ユニテリアン派や超越主義を経ながら進歩主義運動を形成してきたピューリタンの系譜こそが、グローバルな民主主義的イデオロギーの土台を成している。そして、このイデオロギーは現在の知的エリートやエスタブリッシュメントの間でパンデミックのように蔓延し、欧米のマスメディアや教育機関を根底から支配している。そう、現在の西洋社会は〈普遍主義〉という名の秘教的な権力の上に建造された大聖堂、〈カテドラル(Cathedral)〉の支配下にあるのだ……。 さしあたり、ランド&ヤーヴィンの主張の中でもっとも目を引くトピックとしては、以上の新官房学と〈カテドラル〉論の二点に集約される。見てきたようにその骨子は、民主主義に対する苛烈なイデオロギー批判(しかしヤーヴィンはマルクスに対する言及を慎重に避けている)と、民主主義に代わるオルタナティブな国家形態の模索である。だが、少し子細に検討すれば、彼らの主張はすぐさま矛盾に突き当たるように思われる。 たとえば、彼らは市民革命と近代を用意した啓蒙思想を憎悪するが、ヤーヴィン(ちなみに彼はジャコバイトを自称している)が理想的な君主として顕揚するフリードリヒ二世は、他方で啓蒙思想を掲げて上からの近代化を図った、いわゆる啓蒙専制君主を代表する一人として知られていた。 また、リバタリアンが重視する自由主義的な諸価値観も、元を辿れば啓蒙思想が育んだものとして知られている。ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』を通じて「言論の自由」を寿いだ。アダム・スミスは市場の自由を謳歌することで現在の新自由主義のベースとなる市場原理主義への道を開いた。いずれも啓蒙時代のキーパーソンだ。こうした点と、リバタリアン的な思想の持ち主の中に古典的自由主義(Classical liberalism)を標榜する者が一定数いるという事実はおそらく無関係ではない。古典的自由主義とはすなわち啓蒙の原点に立ち返ることを意味する。 他方で、プロテスタンティズムが現在の資本主義と自由主義経済に与えた影響についても、今さらマックス・ウェーバーを引くまでもないだろう。たとえば、アメリカ大陸に移住してきたピューリタンは、国家や政治的支配者に依存しない教会の設立という理念をこの地で実現させた。深井智朗『プロテスタンティズム』によれば、国営教会の廃絶は、教会をひとつの自発的結社、あるいは民間団体として扱うという見方を可能にし、いわば宗教の自由市場化をもたらした。このことが、現代のアメリカにおける自由な競争という理念、ひいては起業家(ヤーヴィンもその一人)の精神にまで影響を与えていても不思議ではない。それとも、ヤーヴィンは自身のスタートアップ企業をも〈カテドラル〉の産物であるとして糾弾するのであろうか。ピーター・ティールは、「自由」と「民主主義」の両立不可能性を説いたが、しかし「自由」も「民主主義」も共に啓蒙思想の産物でありその両面に過ぎないとしたらどうだろう。 こうした点について、『中国における技術への問い 宇宙技芸試論』などで知られる中国出身の哲学者ホイ・ユク(Yuk Hui)が電子ジャーナル『e-flux』に寄せた「新反動主義者の不幸な意識について(On the Unhappy Consciousness of Neoreactionaries)」というテキストが参考になりそうだ。ホイ・ユクはその中で、ヤーヴィンやランドら新反動主義者に見られる二律背反的な身振りを「不幸な意識」と呼んでいる。「不幸な意識」とはヘーゲルが『精神現象学』の中で用いた言葉である。ヘーゲルは自己意識の発展段階を記述していく中で、自己のみで完結している自己充足的な自己意識の段階から、自己の中に「他」が入り込んでくる段階への変遷を記述している。完全性を志向する自己意識が内部に止揚できない「他」を抱え込むことで、矛盾と分裂に苦しむ。いわば自己意識の最初の挫折ともいえる宿命的な段階こそが「不幸な意識」である。しかも、この矛盾は感覚としてのみ知覚され、決して概念化して捉えることはできない。 ホイ・ユクの見立てによれば、新反動主義者にとっての啓蒙思想は、まさに自己意識にとっての異物としての「他者」なのだ。それは同時に薬でもあり毒でもあるアンビヴァレンスなもの──ファルマコンとして、しかし認識はされずあくまで感覚の内にとどまっている。そして、この不幸な意識からの無益な脱出の試みが、新反動主義を病理的なまでに混沌とした思弁的迷宮へと傾斜させていくのだ。 この二律背反的な分裂は、第一章でも触れたピーター・ティールの「シュトラウス主義の時代」の結末部で述べられた問題提起に端的に表れているという。引用箇所においてティールは次のように述べている。 近代ヨーロッパは自身の信仰を失った。啓蒙とポスト啓蒙の時代を経て、この信仰の喪失は多大な商業的かつ生産的な力を解放させた。と同時に、この喪失はヨーロッパに脆弱性をもたらした。果たして、それらを両方とも破棄することなく、つまりは大事なものを無用なものといっしょに捨てることなく近代ヨーロッパを強固にする道はあるのだろうか? (ピーター・ティール「シュトラウス主義の時代」、出典はホイ・ユク「新反動主義者の不幸な意識について」より) これは言い換えれば、いかにすれば西洋は自己の特権と優越性を失わずに一方的なグローバリゼーションを維持することができるのか? ということである。かくして「不幸な意識」は、啓蒙というダブルバインドに引き裂かれて身動きが取れなくなる。新反動主義者にとっての啓蒙とは、聖書における「主は与え、主は奪う」に等しい。 啓蒙がもたらした「自由」「個人」「平等」「国家」といった概念は、20世紀を経てそれぞれが肥大化していく中で相互の相容れなさが浮き彫りになってきた。新反動主義者や古典的自由主義者らは、「平等」や「国家」は今や「自由」と「個人」にとっての足かせになっていると感じてきている。ピーター・ティールの「自由と民主主義はもはや両立しない」というテーゼもその文脈のもとで理解できる。啓蒙という「近代」のプログラムそれ自体の捻じれを体現した言説、それこそが新反動主義のもうひとつの側面なのだ。しかし、このことが彼らの間で充分に自覚されることはない。 こうしたダブルバインドは、新反動主義者のキリスト教に対するアンビヴァレンスな態度にも現れているかもしれない。というのも、たとえばヤーヴィンの「主権独裁」論は、明らかにジョゼフ・ド・メーストルやフアン・ドノソ・コルテスらカトリック反動の思想家によって提唱され、のちにカール・シュミットが着目した「政治神学」を無神論的にアップデートしようとした試みにも見えるからだ。 「政治神学」においては、主権の不可侵性と不可謬性は端的に神から授けられた神性によって保証される。またメーストルはカトリックの立場からフランス革命と啓蒙に反対したが、その際の論拠も聖書に従っている。すなわち、人格神たる絶対君主の否定は、不可避的に世界を暴力と頽廃で覆い尽くすであろう、なぜなら人間は原罪によって堕落しているからである、という原罪説の立場である。アダムとイブが知恵の実を食べて楽園を追放されて以降、人間は根源的な悪に染められている。その悪を浄化し人々を正しい道へ導いていく存在こそが神から主権を与えられた絶対君主なのである。 ところが、もちろん神もキリスト教も否定するヤーヴィンはこの立場を採ることができない。よって、神性に依ることなく君主の主権を正当化しなければならない。新反動主義を取り巻く諸々の困難は、ここにその遠因のひとつがある。新反動主義は神を持ち出すことをあらかじめ自身に封じていた(または封じられていた)からこそ、単なる復古的でない、未来志向の反動という、逆説的かつ奇形的な思想となった、あるいはならざるを得なかった。より具体的には、ヤーヴィンは神の代わりに宇宙人やスティーブ・ジョブズを持ち出さなければならなかった。あるいは、未来のとある一点に現れるであろう超知性的な人工知能による支配といった、神なき千年王国のビジョンが要請されなければならなかった。しかし、これらも彼らが批判する〈普遍主義〉の無神論的バージョンのひとつに過ぎないことは指摘するまでもないだろう。 人種問題から「生物工学の地平」へ 念のため、「暗黒啓蒙」の残りの章についても簡単に見ておこう。第二章以降では〈カテドラル〉と〈普遍主義〉がどのように機能し、現代のリベラル社会を覆い尽くしているのか、さらなる検証が進められる。その際に槍玉に挙げられるのが進化生物学者のリチャード・ドーキンスである。ドーキンスといえば急進的な無神論と理性主義で有名だが、ランド&ヤーヴィンによれば、ドーキンスこそが〈カテドラル〉を代表するイデオローグということになる。どういうことか。なるほどたしかにドーキンスは科学的真理を重んじる無神論者である。しかし、「人類の生物学的平等性」については宗教的盲信の態度で信じている。この点において、彼はポリティカル・コレクトネスというリベラリズムの教義を信じ続けている、敬虔たるピューリタン的有神論者に他ならない、とランドらは結論付ける。 ランド&ヤーヴィンからすれば、ドーキンスが科学的合理主義を推し進めながらも「人類の生物学的平等性」を手前にして立ち止まってしまったことが不満でもあり、またここに近代を支配する〈カテドラル〉的思考の地平を見て取ったのだろう。したがって、今やこの「人類の生物学的平等性」なるものこそが真に問われなければならない。 第四章以降の「暗黒啓蒙」は、よって主に人種に関する論争的問題に議論がシフトしていく。とりわけランドは白人至上主義者の言説に着目する。ランドもヤーヴィンも白人至上主義の立場からは慎重に距離を取りつつも、しかし白人至上主義的な言説に、〈カテドラル〉のイデオロギーから逸脱する潜勢力を明らかに認めている。白人至上主義者の主張はときとして正しい、だがそれが〈カテドラル〉の諸々のイデオロギー──平等や博愛──に抵触するがゆえに弾圧され異端視されるのだ。 人間の生物学的多様性と生物学的平等性、それぞれの科学的メリットに関する意見がどんなものであろうとも、後者の想定、すなわち人種間の平等性のみが許容されていることは議論の余地なく明白である。人間本性についての進歩的かつ普遍主義的な諸々の信条がたとえ正しいとしても、それらは批判的科学的な合理性のための試験を経て到達されたから信じられているわけではない。むしろ、それらは宗教的な教義として、信仰の本質を特徴づける熱烈な激しさを伴って受け止められている。そして、それらに異議を唱えることは、科学的な不正確性に関わる問題ではなく、むしろ「政治的に正しくないこと」と呼ぶ事柄、すなわちかつて「異端」として知られていた事柄に関わる問題なのである。 (「暗黒啓蒙」) 続く段落でランドは、レイシズムを絶対的に糾弾する「道徳」的態度は、宗教における「原罪」に対する態度よりも合理的とはいえない、とまで言い切っている。 なお、先の引用において人間の生物学的平等性と対置する形で提示されている人間の生物学的多様性(human biological diversity)とは、スティーブ・セーラー(Steve Sailer)というオルタナ右翼系のジャーナリスト兼ブロガーが広めたタームで、元は90年代に集団遺伝学(population genetics)の分野で用いられていた。集団遺伝学とは、とある集団内における遺伝子構成の変化を研究する遺伝学の一分野だが、この遺伝学を、特定の人種、階級、地域、共同体に適用させようというのがセーラー流の「人間の生物学的多様性」の議論だ。「人間の生物学的多様性」の支持者は、特定の個人と集団における能力、心理的傾向、知的レベルなどの諸特性の差異の原因を遺伝子傾向に求める。たとえば、個人あるいは諸集団間の生涯賃金の差異の50%以上は遺伝学の観点から説明できるという。この観点に立つとき、平等主義や社会構築主義といった進歩主義的=〈カテドラル〉的ドグマは端的に退けられる。 だが他方で現在、この「人間の生物学的多様性」は、とりわけオルタナ右翼系のコミュニティにおいて、レイシズムを正当化するために用いられている。たとえば、特定の人種(たとえば黒人)や階級(たとえば労働者階級)は遺伝的に能力があらかじめ決定されているという議論が大手を振っており、要は人種差別=優生学を正当化するために疑似科学的な意匠が凝らされたネオ・社会ダーウィニズムに過ぎないとも言える。 もちろん、黒人は黒人だから差別されるべきである、といったあからさまなことは言わない。代わりに、「人間の生物学的多様性」の知見からすると、人種ごとのIQの平均値には統計的な差異が認められるのはデータ的にエビデンスが認められている、といったことを言う。そこから、たとえば白人とアジア人はIQの面で優れている、という結論をほのめかすのだ。さらに、集団内における遺伝子構成の変化が一定の傾向性を持っているのならば、多様な集団が交じって暮らすのではなく、たとえばIQの高い集団はIQの高い集団だけで暮らした方がよい、といった排他主義/分離主義の正当化を招くだろう。また、「人間の生物学的多様性」論者は、異なる人種間をひとつの地域社会に無理やり包摂する政策は、いたずらに対立や緊張を煽るだけであるとし、むしろ分散化する流れに任せたほうが良いとする多元主義の立場を取る傾向にある。 こうした科学的エビデンスをそのまま社会的価値づけに直結させる議論に対しては当然ながら慎重でなければならない。科学的な「事実」と社会的な「価値観」はあくまで別物として取り扱わなければならず、そこには明確な切断線が存在する。どのような科学的「事実」があれど、それとは別様に(あるいはそれをベースに)合意形成を通した社会的「価値」や「公正」を創設していく必要があるのだ。 ランドは、このオルタナ右翼が好んで用いる「人間の生物学的多様性」を擁護するためにこの語を持ち出している。ということは、やはりランドもレイシストの一味に過ぎないのだろうか。この点について、ランドの真意が奈辺にあるのか、完全に見極めるのは困難だが、ヒントは「暗黒啓蒙」最終章にありそうだ。 「生物工学の地平が近づいてくる」と題された最終章では、ヤーヴィンの思想の紹介や追随ではない、ランドのオリジナルの思想がここに至って展開されている。この章では「生物工学の地平(Bionic Horizon)」というターム、そしてやや唐突にオクティヴィア・E・バトラー(Octavia E. Butler)というSF作家の名前が登場する。バトラーは、女性かつアフリカ系アメリカ人の作家で、人種やジェンダーの視座に立ったSF作品で知られている。とりわけ、Xenogenesis三部作と呼ばれるシリーズでは、遺伝子改変と遺伝子交換によって人種や性別といった概念を超越したOankaliと呼ばれる生命体が描かれる。 ランドによれば、バトラーは「生物工学の地平」の向こう側を描き出すことに成功しているという。遺伝子によって自己が規定された存在は、「生物工学の地平」によって限界づけられている。そのような存在論的限界を乗り越える因子こそがテクノロジー、すなわちゲノム編集の技術なのである。 ゲノム編集が一般化すれば、先天的に条件付けられた人種や性別といった概念は過去のものになるだろう。人間は、今やみずからが自分自身を創り上げる。テクノロジーと存在論と文化はここに至って一致する。「暗黒啓蒙」は、次のような文章で締めくくられている。 「生物工学の地平」という観点から見たとき、人種的な災厄の弁証法から立ち現れるものがどんなものであれ、それらは依然として些末さに捕らわれている。進もう、前へ。 (「暗黒啓蒙」) もちろん、ゲノム編集による遺伝子改変が新たな形の優生学や階級制を招来する危険性もあるだろう。しかし、その点についてはランドは何も言及していない。ただ、未来のテクノロジーに対する楽観的な信奉があるだけだ。 ここには、テクノロジーの力が社会や人間観のパラダイムを根本から変革するであろうとする思想、すなわち加速主義(Accelerationism)と呼ばれる立場に近い見方が表明されている。ランドは、90年代から加速主義的な思想を打ち出していたことで知られている。だから、ここに至って唐突にテクノロジー礼賛的な主張が現れるのはおそらく偶然ではない。言い換えれば、ランドの90年代における仕事と「暗黒啓蒙」には多かれ少なかれ連続性が認められ得る。 それでは、加速主義とは、そして90年代におけるランドの思想とは、具体的にどのようなものだったのだろうか。また、それらの思想が「暗黒啓蒙」とどのように繫がってくるのだろうか。それが次章以降で扱うテーマとなる。 啓蒙のパラドックス 前章では、カーティス・ヤーヴィンに端を発する新反動主義、そしてニック・ランドの「暗黒啓蒙」について見てきた。彼らの思想を一言でまとめれば、近代の土台を形成する啓蒙思想の批判と乗り越え、具体的にはリベラル民主主義に対するオルタナティブとしての一種の君主制と、それを支える都市国家群から成る国家゠企業システムの構想であった。本章では、「暗黒啓蒙」の著者ニック・ランドの思想形成を辿ることで、その苛烈な近代主義批判の依って立つところを見極めていきたい。 実のところ、ニック・ランドは常に「啓蒙」を問題にしていた。1988年に発表されたランドの最初期のテキストにあたる「カント、資本、そして近親相姦の禁止(Kant, capital, and the prohibition of incest)」には、啓蒙のパラドックスを分析した箇所が見られる。 したがって、啓蒙のパラドックスとは、根源的な他者を安定的な関係のうちに固定しようとする試みにある。というのも、他者が関係性の内部において固定的に措定されるならば、それはもはや完全なる他者といえないからだ。 (ニック・ランド「カント、資本、そして近親相姦の禁止」) 「カント、資本、そして近親相姦の禁止」は、グローバル化した資本主義体制の分析を目的としている。ランドに従えば、西洋による植民地主義と現代にまで至る第三世界に対する経済的搾取は、近代のあり方そのものと深く関わっている。すなわち、近代性を特徴づける、国家、父系制と同族婚、近親相姦の禁止、女性や階級の抑圧からなる複雑なネットワークが、現在のグローバル世界を形作っているのだ。その際、近代とは資本主義と父権的な体制の共犯的絡み合い──ヨーロッパ中心主義と帝国主義、そしてその帰結としてのファシズムとして立ち現れる。 世界史における不幸、それは資本主義が一連の搾取的な父系制的関係性の解体を通して、父祖の土地の中心部への制御不可能な女性的他者性(すなわち移民)の出現へと至る、同一種族を破壊するラディカルで文化横断的な族外婚──ポスト父系制的総合──を発展させるにまで至らなかったことだ。それどころか、親族関係と交易は互いに体系的に分離されていたので、経済の国際化は外国人嫌悪的(ナショナリスティック)な親族関係の因襲と葛藤することなく一体化することができ、ローカルに定住した孤立的な同一種族のストックの内部で政治と経済的パワーの集中化を維持できたのだった。 (同右) ランドからすれば、近代の狡知とは他者の取り扱い方にこそあった。植民地主義に始まる西洋列強の外部世界への拡大志向、それは換言すれば他者を自己=西洋の内部へ際限なく取り込むことを意味していた。もちろん、他者との相対は常に自身の自己同一性を揺るがす危険な経験となりうる。よって、西洋における近代の課題とは、いかに自身の自己同一性を保ったまま他者を自己の内部に「同化」させるか、というものとなる。と同時に、そこに啓蒙のパラドックスがある。なぜなら、他者を自己に同化させた瞬間、それはすでに本来的な意味での他者とは言えなくなるからだ。そこには自分の鏡像、つまり他者の抜け殻しか残らない。 そして、この啓蒙=近代のプログラムを完成させるための重要な位置を占めたのが、誰あろう哲学者のイマヌエル・カントであった、とランドは論じる。カントこそは、この他者から他者性を抜き取りながら自己の内部に取り込むという近代のプログラムを哲学の領域で完成させた立役者なのだ。 カントは、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』からなる「三批判」と呼ばれる三つの著作を通して近代哲学を根本から塗り替えた、言わずと知れたドイツの哲学者である。事実、カントは西洋の思考法にまったく新しいものをもたらした。カントが創始した超越論哲学についての詳しい解説は割愛するが、そこでの要諦とはすなわち、我々は対象(あるいはランドのいう他者)を直接認識しているのではなく、いわば対象=他者の「現れ」を認識しているに過ぎない、ということである。カントによれば、対象=他者は私たちの主観を構成する認識作用を経て現象する。したがって、対象=他者それ自体(=物自体)をありのままに認識することは不可能であるとされる。ありのままの他者は常にすでに認識の彼岸に追いやられ、取り残されることになる。 言い換えれば、他者は主観側の総合作用によって表象(representation)として現象する。これが、ランドが「抑制された総合(inhibited synthesis)」と名付けるものである。つまるところランドの認識によれば、カントによる「抑制された総合」とは、他者の他者性を圧殺するためのプログラムに他ならず、またそうである限り、近代における西洋列強の植民地主義とも相即するものであったと見なされる。もちろん、植民地主義における他者とは、たとえば異民族、先住民族、黒人、第三世界、女性、等々である。 カントの「総合的アプリオリ」という言葉に、西洋近代的主体の自己同一性の保存に対する論理的な衝動が象徴されているように、「抑制された総合」によって他者は常に既知の表象作用に還元される。同時に、そのことによって主体の自己同一性はより安定的かつ堅硬なものとなる。一言でいえば近代=啓蒙とは、この主体の自己反省的な認識システムが、一種の普遍性にまで高められながら外部を包摂していくプロセスであったと言ってよい。したがって、ヨーロッパ中心主義は理性という名の「普遍主義」としてグローバルに世界を覆い尽くしていく。 ランドは、このグローバルな帝国主義システムを内破させる潜勢力を、ラディカルな「暴力」、わけてもフェミニズム的「暴力」に見出している。 男性性と戦争の繫がりという普遍化した歴史的結合は、フェミニストの効果的な暴力が、現代の世界秩序を統御している父権制的な族内婚を根こそぎにすることへの可能性を開くときのみ、打ち砕かれる。 (同右) ランドは、リベラル社会に取り込まれた穏健的なフェミニズムを、ニーチェから借り受けた「センチメンタル・フェミニズム」という言葉を用いて批判する。代わりにランドが顕揚するのは、例によって具体例は欠いているものの、戦闘的フェミニズムによる、近代という体制を根底から覆す可能性を秘めた「暴力」だ。「カント、資本、そして近親相姦の禁止」は次の言葉で締めくくられる。 想像しうる唯一のカント主義の終わりとは近代の終わりに他ならない。そして、この近代の終わりに到達するために、我々は自身の只中に新たなアマゾーンを育てなければならない。 (同右) 少なくともランドは多くのオルタナ右翼と異なり、ミソジニストではないし(単純な)レイシストでもない。この点は強調しておくべきだろう。ランドの内部には、常にマイノリティへの生成変化こそが近代の体制を脅かすという認識があった。だが、以降ランドの仕事において、このフェミニズム的暴力という主題は徐々に後景に退いていく。代わりにランドは、近代=カント主義を覆す可能性を秘めた潜勢力を、資本主義に内在する自己運動プロセスそれ自体に求めるようになる。テクノロジーと資本のポジティブ・フィードバック・プロセス──非‐人間的な「ダークな意志(dark will)」が、近代というグローバル体制を溶解させるにまで高まる一点、それこそがシンギュラリティであり、またそれを推し進めようとする思想こそが加速主義と呼ばれる当のものに他ならない。なお、加速主義については後の章でも詳しく取り扱う。 ドゥルーズ&ガタリへの傾倒 ニック・ランドは90年代に入ると、カント主義の乗り越えとしてドゥルーズ&ガタリ、とりわけ彼らの『アンチ・オイディプス』に着目するようになる。「資本主義と分裂症」という副題が付されたこの著作は1972年、パリの五月革命の影響下で書かれたもので、全編が革命的な熱気と狂騒に包まれている。哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析家のフェリックス・ガタリは、この書物の中で、西洋近代の成果物である精神分析におけるエディプス・コンプレックスと呼ばれるセントラル・ドグマを批判し、代わりに無意識における多様な欲望の流れと相互接続を肯定する分裂分析を打ち立てたのだった。 エディプス・コンプレックスとは、幼少期に主体の無意識下で展開される母親との近親相姦願望と、それを禁じる父の〈否〉から成るモデルで、『アンチ・オイディプス』ではこのエディプス・コンプレックスが、近代国家の秩序、そして資本主義システムを維持するための装置のひとつとして機能してきたと論じられ、とりわけ批判の対象とされていた。 だが、なかでもランドが参照するのは、この書物の中で概念化されている「脱領土化(Deterritorialization)」と「再領土化(Reterritorialization)」という二項対立である。ここでは概略的な説明に留めるが、脱領土化とは資本主義や分裂症に見られる解体と分散化のプロセス、より具体的に言えば、資本主義であれば資本や土地の流動化とそれに伴う国民国家や家族制度の解体など、分裂症であれば自我の解体、そしてそれの究極段階としてのカタレプシー(強硬症)などである。それに対する再領土化とは、つまるところ総合のプロセスであり、たとえば資本の再分配に基づく福祉資本主義などは、一旦脱領土化したプロセスをもう一度国家のシステムの内に再領土化する試みと捉えることができるだろう。言い換えれば、脱領土化と再領土化がバランスよく相互反復されることによって、現代のグローバルな資本主義国家システムが維持されている。以上がドゥルーズ&ガタリによる大まかな論旨である。 ランドは、このペアのうち「脱領土化」のみを徹底的に推し進めるべきであると提言する。既存のシステムと国家秩序の徹底した解体、それを極限まで突き詰めた先にあの特異点が到来する。これこそが加速主義の要諦に他ならない。そしてこの点において、ランドの思想はドゥルーズ&ガタリからも隔たった地点にある。 同時に、あの「暗黒啓蒙」における「生物工学の地平」が現れるのもこの点においてである。資本とテクノロジーの加速度的かつ再帰的な累積/発達が、不可避的に既存の秩序、価値観、そして私たち人間の定義をすら溶解させ、書き換えていく。 その兆候はすでに現れている。たとえば、近年における「ポスト・ヒューマン」というタームの流行。工学知、ナノテクノロジー、分子生物学の爆発的な展開、そして人工知能とゲノム編集の登場(2018年、中国の科学者がゲノム編集を行った受精卵から双子の女児を誕生させたという報道は記憶に新しい)。これらの動向によって、私たちは既存の人間「理解」に対する変更を否応なく迫られている。さほど遠くない未来に実現するであろう、人工知能が人間の優位性を地に落とし、他方で人間強化(エンハンスメント)やゲノム編集が当たり前になった時代にあって、「人間であること」とは果たして何を意味するのだろうか。 人間の時代がもはや終わりつつあることは、20世紀の思想家や哲学者も予言的に口にしていたことではある。たとえば、20世紀思想の一潮流である構造主義の始祖とされる文化人類学者のレヴィ゠ストロースは、「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」(『悲しき熱帯』)と述べた。同様に、ポスト構造主義を代表すると見なされている哲学者ミシェル・フーコーは、「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろう」(『言葉と物』)と宣告した。彼らに共通するのは、西洋近代を育んできた人間中心主義に対する批判意識である。レヴィ゠ストロースに始まる構造主義は、人類学や神話学にソシュール言語学の方法を適用し、人間社会は主体の意志に依らない無意識のレベルの「構造」によって規定されていると論じた。フーコーは『言葉と物』の中で、人々の知の枠組みは各時代に固有のエピステーメーと呼ばれる知的マトリクスによって規定されると説いた。彼らの反゠人間中心主義のエートスは、ジークムント・フロイトが創始した精神分析にまで遡ることができるかもしれない。フロイトは、主体が統御も意識することもできない無意識の領野を探索することによって、人間を理性に従う意思決定の玉座から引きずり下ろしてみせた。 だが、ランドや彼を奉ずる加速主義者の目には、フロイトとそれに続く構造主義、そしてポストモダンと呼ばれる一連の哲学的ムーブメントが示してみせた反゠人間中心主義ですら物足りなく、中途半端なものと映っていた。彼らからすれば、ポストモダン思想は未だに人間に対するナイーブな未練を残していた。たとえば、ポストモダン思想は基本的に資本主義にもテクノロジーにも反対する傾向がある。それらの左翼教条主義的なテクノロジー批判に一貫して流れているのは、テクノロジーが人間を疎外するという考えである。それに反して加速主義は、人間とテクノロジー、人間と機械(物質)といった二項対立それ自体を疑い、揺るがそうとする。本来的な人間性への回帰、といった牧歌的なヒューマニズムこそが、ランドが何より解体されなければならないと考えていたイデオロギーであった。ランドは言う。「人間、それは乗り越えられるべき何か、すなわち悩みの種であり重荷である」(「メルトダウン」)。 シンギュラリティを、未来から到来してくる全き未知のものを受け入れ歓待するためには、ありとあらゆるリミットを外さなければならない。ランドは既存の秩序と人間性を保守しようとするあらゆる体制やイデオロギー(たとえば「人間の安全保障」)を「ヒューマン・セキュリティ・システム」と名付け批判するが、これは同時に私たちを限界づけるあのカント主義に対する批判でもある。カント主義における批判システムは、私たちが未知の他者にアクセスできる可能性をあらかじめ禁止することで、「ヒューマン・セキュリティ・システム」のヘゲモニーを間接的に可能としている。この点について、「カント、資本、そして近親相姦の禁止」では「抑制された総合」というタームが用いられていたが、このことはドゥルーズ&ガタリのタームにおける「再領土化」ともある程度符合する。私たちの主観性は、再領土化によって常にすでに境界を画定され限界づけられることで、主体性という名の牢獄に閉じ込められている。よって、このカント主義を、この近代を解体するためには、あらゆる限界を突き抜けて未来の果てまで加速しなければならないのだ。「抑制された総合」ではなく、ドゥルーズ&ガタリが提唱する「機械的総合」を目指すこと。 神の審判を乗り越えよ。メルトダウン、すなわち、地球規模のチャイナ・シンドローム。バイオスフィア(生物圏)はテクノスフィアへと解体していき、末期的な思弁的バブル崩壊、そしてキリスト教社会主義の終末論を墜落させる(破壊されたセキュリティの核まで達する)革命が招来する。それはお前のTVを食い、お前の口座アカウントを侵食し、お前のミトコンドリアからゼノデータ(xenodata)をハックするのを待っている。 (ニック・ランド「メルトダウン」) ランドが1994年に発表した「メルトダウン(Meltdown)」は、未来から侵食してくるシンギュラリティが近代的秩序(国家、民主主義、ヒューマニズム、等々)を熱的死に至るまで溶解させていくさまを黙示録的な筆致で叙述したテキストである。このテキストが執筆された1994年という時期に注目したい。第一章ですでに述べたように、この時期は当時のアメリカ副大統領アル・ゴアが提唱した情報スーパーハイウェイ構想が一種のバズワードとなっていた。電子のネットワークから成るインターネットがこの頃に爆発的な普及を遂げ、ドットコムバブルがそれに続いた。情報化時代とそれを牽引するサイバースペースを顕揚する言説がいたるところで現れるようになった。同じく第一章で取り上げた『主権ある個人』が出版されたのは1997年。ピーター・ティールのペイパルは1998年に事業を開始している。そして、ランドの「メルトダウン」においてもサイバースペースは重要なモチーフのひとつとして扱われている。このように、ランドの加速主義は時代ともリンクした形で表れていた。 この時期のランドの叙述には、サイバースペースの他に、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、サイバネティクス、トランスヒューマニズム、暗号学、オカルティズム、サイバーパンクSF、そしてラヴクラフトのクトゥルフ神話など、多岐にわたる分野への言及が折り重ねられている。ニーチェやバタイユから霊感を受けたと思われる、論述ともエッセイともつかない、ときに錯乱的ですらあるその散文的文体は、明らかにアカデミズムのそれから逸脱したものを含んでいた。 ランドにとって、科学とテクノロジーによって媒介される特異点は、私たちの主観性から完全に逸脱した知解不可能のものとして現れる。なぜなら、それはカント主義における主観性のシステムに真っ向から抗うものだからだ。言ってみれば、未来から到来してくるシンギュラリティとは私たちの認識の〈外部(Outside)〉としてのみ存在する。だから、それは究極的には記述不可能なのだ。少なくとも、そのような〈外部〉としての特異点を、既存の人間的価値観であるところの善悪の尺度で推し量ることは定義上不毛であるとみなされる。善悪の彼岸としてのシンギュラリティ──。 よって、そうした〈外部〉としての特異点は、私たちにとっては常にある種の形容不可能な「恐怖」としてのみ知覚されうるだろう。クトゥルフ神話における「古き神々(Old Ones)」が召喚されるのは、この地点においてである。古き神々、それは私たちの認識の〈外部〉であるところの形而上学的宇宙から到来してくる全き未知のものに他ならないのだ。 コズミック・ホラー ランドとホラー、あるいは加速主義とホラー、という関係性について考えてみることは無益でないと思う。それどころか、ホラーという存在論的様態はランドの哲学に通底しているとすら言える。実際、ランドは自身で思弁的ホラー小説と呼べるものまで執筆している。そのうちのひとつが『Phyl-Undhu』(2014)である。 この中編小説では、ランドが関心を寄せる諸々の哲学的モチーフやテーマが、アブストラクト・ホラー(Abstract Horror)の名の下で展開されている。ストーリーはあくまでそのための付加物のようなものであり、事実この小説は暴力的なまでに唐突に物語半ばで途絶されているのであるが、一応簡単なあらすじだけでも述べておこう。 物語はアリソンとターナーという夫妻、そして彼らの11歳の娘であるスーザンの三人を中心に展開されていく。とりわけキーとなるのがスーザンで、彼女はある時期を境に人格が変貌したこと、それにはPhilと彼女が名付けた奇怪なタコのようなぬいぐるみが関わっているように見えること、そして彼女の年齢からは想像しがたい恐るべき観念や哲学を抱くようになったこと、などを夫妻の会話からうかがい知ることができる。スーザンが抱く身も凍るような観念は、彼女が通う小学校の教室にも伝染し、うち同級生の一人を自殺未遂にまで追い込んでいたことが判明する。 やがて夫婦は、これらの出来事にはスーザンがここ1週間あまりハマっている、あるゲームの存在が深く関係していることを知る。小説内では詳しい描写は避けられているものの、このゲームはどうやらウィリアム・ギブスン風の没入型VRゲームのような代物であることがうかがえる。夫妻がスーザンとともにゲームの中にジャックインすると、そこは荒れ狂う天候、そして人間の居住区が点在する密林から成る荒廃した世界だった。だがそれだけではない。彼らの眼前には、朽ちた巨大な建造物が聳え立っていた。それはかつて軌道エレベーターであったもので、雲の彼方まで伸びる塔の残骸は、それが建造されてからの年月の長さを物語っていた。この遺棄された軌道エレベーターの残骸は、この小説ではバベルの塔とも同一視される。神の怒りに触れて破壊された塔、それは一方では文明を象徴し、同時にその滅亡をも象徴している。文明と終末、統合と分散。 アリソンとターナーは娘とともにこのゲームの世界をさまよい歩くうちに、ここは文明が滅んだ後の世界であること、加えてゲーム内の体感時間と現実世界の時間の進み方に(さながら相対性理論のように)大幅なズレがあることを知るようになる。たとえば、現実世界の1日はゲーム内の世界においては3日分に相当する。そして、現実世界の2日はゲーム内の9日、現実世界の3日はゲーム内の27日、現実世界の4日はゲーム内の81日、といったふうに、仮想空間と現実世界の時間的ズレは幾何級数的に大きくなっていく。つまりこの計算でいくと、ゲームの中に1週間ジャックインしたとすると、ゲーム内における体感時間としては約6年の月日が、10日ジャックインすると約162年の体感時間が流れることになる。1週間前にこのゲームを始めたスーザンは、この仮想空間内においては6年もの時間をすでに過ごしていた。彼女の人格が一変したように見え、また子ども離れした思考力を獲得していたのは、これが原因であった。 しかし、このゲームにはもうひとつ別の側面があった。彼らは探求の果てにアーカイブ施設に収蔵された一枚の朽ちた文書を発見する。はるか古代に書かれたように思えるその紙の束は、しかし彼らには見覚えのあるものだった。それは紛れもなく、スーザンが1週間前に読んでいたこのゲームの取扱説明書に他ならなかった。すなわち、このことが示唆するのは、この仮想世界がある種の現実世界のシミュレーションではないのか、ということである──。 『Phyl-Undhu』は、この他にも様々な宇宙論的思弁や邪教的モチーフ、夢や古代文書による暗号的啓示、そしてときにクトゥルフ的なイコンをちりばめながらも、それらの伏線はとくに回収されることもなく、物語は問いを多く残したままぶっきらぼうなまでの唐突さでもって幕を閉じる。 グレートフィルター仮説 とはいえ、ランドが『Phyl-Undhu』に込めたテーマを読み解くヒントは彼自身が提示してくれている。本書に補遺として収録されたテキスト「根絶者について(On the Exterminator)」において、ランドはこの中編小説がグレートフィルター仮説から重要なインスピレーションを得ていることを明かしている。 グレートフィルター仮説とは何か、という説明に入る前に、その議論の前提となるフェルミのパラドックスについて若干の説明をする必要があるだろう。フェルミのパラドックスとは、物理学者のエンリコ・フェルミの問いに端を発するもので、それは「なぜ宇宙はこれほどまでに(空間的/時間的に)広大なのに人間以外の知的生命体が地球に飛来してこないのか?」というものに集約される。宇宙人は果たして存在するのか? 存在するとしたら一体どこにいるのか。あるいは、もし宇宙人が存在しないとするのなら、それは一体なぜなのか? もしくは、こうも言い換えられよう。なぜ宇宙は生の豊穣ではなく絶対的な静けさ──死に満ちているのか? と。 1950年に提示されたこのパラドックスに対して、現在に至るまで数えきれないほどの解答が寄せられている。それらはたとえばスティーヴン・ウェッブ『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』などで詳しく紹介されているのでここで取り立てて扱うことはしない。ともあれ、グレートフィルター仮説はそのフェルミのパラドックスに対する多くの解答のうちのひとつとして、経済学者のロビン・ハンソン(彼の邦訳ではマインド・アップローディングが現実化したシンギュラリティ以後の社会のあり方をひたすら予言的な筆致で描き出した奇書『全脳エミュレーションの時代』が出ている)によって提唱された。以下ではこのグレートフィルター仮説について少し詳しく見ていこう。 グレートフィルター仮説に従えば、フェルミのパラドックスはあるひとつのフィルターの存在を仮定することで解決される。それは知的生命体がある一定の文明を築いたときに不可避的に訪れるとされる、何らかの原因によって文明を崩壊に導くフィルターである。文明を崩壊に至らせる要因については様々考えられる。たとえば、大規模な気候変動(人新世の議論を思い出すこと)、遺伝子的な突然変異、疫病のパンデミック、核などのテクノロジーに端を発するものから、いわゆる「太陽嵐」と呼ばれる太陽のコロナ質量放出、さらには小惑星の衝突といった天文学的カタストロフにいたるまで、私たちは常に「絶滅」のリスクに取り囲まれている。これらの様々な要因が、さながら見えない力が作用しているかのように、一定の段階に達した知的文明を崩壊に追いやっている、とすればどうだろうか。星間飛行のような高度なテクノロジーを有した知的生命体が地球に飛来してこないことの説明もこれでつく。 さて、このグレートフィルター仮説の真の要諦は、私たち人間の文明が、このフィルターをすでに乗り越えているのかどうか、という点にある。もし乗り越えているとしたら何も問題はない。人類は今後も進歩と発展を続けていくだろう。だが、もし乗り越えていなかったら? グレートフィルターは私たちのすぐ目の前に迫ってきているかもしれない。そうしたとき、私たちの文明の崩壊あるいは種の絶滅は避けがたいものとなるだろう……。ここに至って、グレートフィルター仮説は一種のコズミック・ホラーに転化する。無限大に広がる宇宙の絶対的な静けさ、それは取りも直さず死の兆候であり、また「それ」が来ることの前兆でもある。 宇宙の沈黙は根源的な不気味さを私たちに告げ知らせる。「それ(A thing)」は理解を超えた力によって知的生命体を餌食にする。 (ニック・ランド「根絶者について」) 「それ」は宇宙という〈外部〉から到来し人間に絶滅をもたらす。ランドは別の箇所で「それ」に根絶者(The Exterminator)という名前を与えている。 私たちは根絶者が存在することを知っている。しかし、それが何なのかについては何も知らない。このことが、ホラーの存在論のアーキタイプを形成するのだ。 (同右) 〈外部〉から到来する知解不可能な根絶者の存在を思考すること、それがランドにとってのアブストラクト・ホラーの感覚に繫がっていくのだ。 クトゥルフ神話とアブストラクト・ホラー だから、ランドがラヴクラフトのコズミック・ホラーあるいはクトゥルフ神話をとりわけ偏愛し、ホラーを形作る際の規範にしているのは驚くことではない。念のため確認しておくと、クトゥルフ神話とはアメリカのホラー作家H・P・ラヴクラフトが創始した架空の幻想神話体系である。この特異な神話体系は、同じ世界観を共有したいと望む後継の作家たちによるさらなる継承と発展と変奏を経て、現在に至るまで小説、映画、ゲーム、アニメなど、様々な領域でクトゥルフ神話の世界観やモチーフが取り入れられ、ミーム的な自己増殖と伝播を続けている。 クトゥルフ神話のベースにあるのは大まかに言えば次の「教義」である。人類の誕生以前、外宇宙から到来してきた〈旧支配者〉と呼ばれる異形の存在たちが地球に君臨していた。悠久の歳月のうちに彼らは地上から姿を消したが、しかし今なお地底や深海、異次元空間にひそんでふたたび地上を混沌に導く機会をうかがっている……。 思うに、神がわれわれに与えた最大の恩寵は、物の関連性に思いあたる能力を、われわれ人類の心からとり除いたことであろう、人類は無限に広がる暗黒の海に浮かぶ《無知》の孤島に生きている。いうなれば、無明の海を乗り切って、彼岸にたどりつく道は閉ざされているのだ。 (H・P・ラヴクラフト「クトゥルフの呼び声」『ラヴクラフト全集 2』) だが、ふとした拍子や偶然から、人は「彼岸」を覗いてしまう、あるいは「彼岸」からの呼び声を聞き取ってしまう。それこそがクトゥルフである。ラヴクラフトにおけるホラーとは、煎じ詰めれば〈外部〉のホラーである。 補足しておくと、〈旧支配者〉にも様々な種類が存在し、人間の言語には発音不可能な名前をもつクトゥルフ、ヨグ゠ソトース、ナイアルラトホテップなどの超越的な力をもった異形の存在をはじめ、彼らと異なり物質性を備えた知的生命体といえる〈古のもの〉や、精神を投影することで他の生物の肉体に寄生する〈大いなる種族〉と呼ばれる精神生命体など、様々な種族が登場する。さらに後年になると、オーガスト・ダーレスをはじめとするラヴクラフト以降の作家らによって神話はさらに体系化と細分化が推し進められる。この頃になると、〈旧支配者〉に対峙する〈旧神〉と呼ばれる宇宙的善を体現する全能の存在が加わったり(善悪二元論の導入)、邪神たちの中にも大神、小神、眷属といったヒエラルキーや、地・水・火・風の四大属性が設けられたりと、明らかにラヴクラフトが最初に創始した神話からは逸脱した傾向を見せだすのだが、それはともかく……。 いずれにせよ、ラヴクラフトがクトゥルフ神話によって提示してみせたコズミック・ホラー(宇宙的恐怖)、とりわけ宇宙という〈外部〉から到来する異形の存在や、見たものは正気を保つことができない人間の認知の〈外部〉に存在する禁断の異次元、といったファクターは、ランドのホラー観のみならず彼の哲学的思弁の全体にわたって深く影響を与えているであろうことは論を俟たない。 人類絶滅のリスクをXリスク(X-risk)と呼ぶ。こうした議論は近年における気候変動、核兵器、人工知能が抱える危険性など、文明とテクノロジーの発展が翻って人類に対して生存のリスクを生み出している、といった科学的知見から出てきた。その意味では、シンギュラリティの想像力は絶滅のホラーと表裏の関係にある。この点を押さえておくことは肝要だろう。だがランドがグレートフィルター仮説から抽出しようとするのは、より未知で不定形な存在論的ホラーの感覚である。私たちはXリスクを未だに摑みきれていない。真の根源的な絶滅可能性は、常に私たちの認識(あるいは科学的知)の〈外部〉にとどまっている。そのような〈外部〉からのサインを、認識を経由せずに直接的に感覚してしまうこと、それこそがランドにとってのアブストラクト・ホラーという概念であり、ひいては哲学的知による実践に他ならない。 ランドは、同じく『Phyl-Undhu』に補遺として収められた「アブストラクト・ホラー(Abstract Horror)」の中で、ホラーの目的は「未知のものを未知のものとして捉える」ことと切り離せないと簡潔に述べている。 ホラーは抽象と呼ばれる、厳格な形而上学だけが遅まきながらに取り戻そうと奮闘できた原初の衝動と契約することによって自身の境界を画定する。私たちとの関係性から徹底的に抽象化された崇高なモノは、理性がそれを追い求めるはるか昔からホラーに属していた。すなわちホラーは、哲学が探求を開始するよりはるか以前にすでに「それ」と出会っていた。 (ニック・ランド「アブストラクト・ホラー」) ランドのいう「抽象(アブストラクション)」という言葉はやや理解しづらいかもしれない。「抽象」とは何か。そして、なぜそれが「ホラー」の感覚に繫がっていくのか。以下はランドが関心を寄せるAIを例に考えてみよう。 ランドが2019年4月にウェブ上に発表した論考「始原的な抽象作用(Primordial Abstraction)」では、Google DeepMindによって開発されたコンピュータ囲碁プログラムAlphaGoについて論じられている。周知のように、AlphaGoは2016年にトップ棋士のイ・セドルに打ち勝ち、囲碁の分野でもAIが人類を追い抜いた。 AlphaGoではプロ棋士たちの過去の棋譜データをベースにしながら、その後はプログラムが自分自身との対局を数千万回繰り返すという強化学習を用いることで飛躍的に力を伸ばすことに成功した。しかし、2017年に発表されたバージョンAlphaGo Zeroでは、人間の棋譜データを一切参照せず、プログラムに「ルール=勝つための条件」以外の知識をまったく教えずに強化学習を行うという「教師なし学習」が取り入れられた。結果、AlphaGo Zeroは三日でそれ以前のバージョンのAlphaGoを追い抜いた。さらに同2017年12月には囲碁だけでなくチェスや将棋も実行することができるAlphaGo Zeroの汎用プログラムAlphaZeroが発表されている。 AlphaGo Zeroは碁から人間という要素を取り除いた。さらに、AlphaZeroはそこから碁という固有名すら取り除いた。なぜなら、それは原理的にはルールを形式化できるいかなるゲームも実行できるからである。こうしたAIの進化に伴う一方向的な「抽象化」の作用を、ランドは「始原的な抽象作用」と呼んでいるのである。AIが実行する数千万回という再帰的な自己言及──フィードバック・ループ。それがある閾値を超えると、人間という楔を解き放ち、それ自身が自律性と呼ぶべきものを獲得する。ランドに従えば、AIが碁に勝つのは、人間がそれについて知っていると考えるものすべてを徹底的に除去することによってである。AIはルールに記述された勝利条件=終局に向かって、あるいは正確に言えばそこから遡って作動する。そして、そこには始原的な抽象作用が働いている。「教師なし学習は、終局(the end)から遡って作動する。それは究極的に言えば、AIは自らの手で、その未来の果てによって駆り立てられているということを示唆している。だから、それはとある逃れがたさを凝縮しているのだ」(「Primordial Abstraction」)。 さしあたり、加速度的な抽象作用が人間本性とそれに付随する価値観をどこまでも減算していき、それがとある閾値を超えたとき、「善悪の彼岸」としての(未来の果てにある)絶対的な「終局」=〈外部〉を指し示してしまうような事態をランドはホラーの感覚として捉えている、と言っていいだろう。 ランドのホラーに対する哲学的関心は、近年の英米哲学シーンにおけるホラーに寄せる関心とも相即していると言える。たとえば、『In the Dust of This Planet』(2011)や『Starry Speculative Corpse』(2015)などで「哲学のホラー(horror of philosophy)」というコンセプトを展開するユージーン・タッカー(Eugene Thacker)、2007年にイギリスのロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにおいて「異様なリアリズム:ラヴクラフトと理論(Weird Realism: Lovecraft and Theory)」と題したシンポジウムを主催し(ちなみにこのシンポジウムには、哲学者のグレアム・ハーマン(Graham Harman)、SF作家のチャイナ・ミエヴィル(China Miéville)、Kode9名義の活動でも知られる電子音楽家スティーブ・グッドマン(Steve Goodman)らも参加していた)、また自身も2017年の遺作となった『The Weird and the Eerie』において「異様さ(Weird)」と「不気味さ(Eerie)」という二分法から成るホラーの存在論を構築した批評家マーク・フィッシャー(Mark Fisher:なお、彼は後述するCCRUにも参加していた)など。彼らに共通するのは、硬直化した旧弊の哲学から意図的に逸脱するためのファクターとしてホラーを用いている点であろう。このことはランドにおける「外部」へのアクセスを目指す志向性、そして後述する思弁的実在論ともリンクしてくる事柄であるが、それは後ほど改めて確認することになるだろう。 死の欲動の哲学 ランドの崩壊と絶滅に対する思弁的オブセッションは、『Phyl-Undhu』におけるモチーフ群と切り離しがたく存在する。たとえば、作中における仮想世界で示された文明の滅亡という自己予言的なシミュレーション(ちなみに文明が滅亡した原因については暗示的言及にとどまっており定かではない)は、終末的予感と死の欲動の感覚に貫かれている。 フロイトは1920年の『快感原則の彼岸』の中で、自己保存欲動に基づく快感原則に反する、あらゆる緊張や興奮を無化し無機物の状態へ回帰しようとする傾向──死の欲動──を無意識の内部に認めた。この理論は、のちにフロイト自身によって社会や文明などの人間の営み一般に敷衍され、たとえば戦争は文明における死の欲動の発露であると見なされるに至る。この死の欲動の概念はドゥルーズ&ガタリにも影響を与え、「器官なき身体」といった主要コンセプトの基底を成している。『アンチ・オイディプス』の著者らは、「器官なき身体は死のモデルである」と明言し、その上で次のように述べる。 ──別の性になること、神になること、ある人種になることにおいて、器官なき身体の上に強度の地帯を形成しながら、あらゆる強度は、固有の生のうちに死の経験を営み、これを内包している。そしておそらく、あらゆる強度は最後には消え、あらゆる生成は、それ自身、死への生成となる! こうして死は現実に到来する。 (ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』) ドゥルーズ&ガタリにおける器官なき身体とは、その上にあらゆる生の力場が形成される強度゠ゼロであり、その意味において死のモデルなのだ。器官なき身体を志向することは、生の果てなき脱領土化、あるいは脱コード化を推し進めることを意味する。生から制約や抑圧を取り払い(脱コード化)、別の生(別の性、別の人種、等々)に成ること、それは別の側面から言えば、生成変化のたびに死の経験を営むということでもある。そして、そうした生の流れの脱領土&脱コード化の果てに、現実の死が訪れる。すなわち、生物としての物理的な死である──。 ランドは、ドゥルーズ&ガタリの器官なき身体というコンセプトを高く評価する。死の欲動を安易なヒューマニズムの観点から退けることなく、むしろ主体化=人間化のシステムに抗う契機をもたらす潜勢的な強度゠ゼロとして提示し直すこと。ランドにとって器官なき身体とは「ヒューマン・セキュリティ・システム」を解体するために限界まで志向するべきものとなる。 また、ドゥルーズ&ガタリは別の箇所で、死の欲動は資本主義に内在するプロセスであるという趣旨のことを述べている。資本主義は既存のあらゆるコード──資本、文化、宗教、国民国家、家族、封建制度、等々の際限なき脱領土化によって拡大してきたことは先にも述べた。その意味では、今や地球全体がグローバルな資本主義機械の内部で器官なき身体を目指していると言えるかもしれない。ならば、資本主義のプロセスを極限まで推し進めることで〈外部〉に突き抜けることを試みる加速主義は、言い換えれば死の欲動を際限なくドライヴさせる試みに他ならないだろう。ランドの哲学が死と一致するかのように見えるのはこの地点においてである。 このランドのダークな積極的ニヒリズムとでも呼ぶべき傾向について、哲学者であり、また以降で詳述する思弁的実在論の主要プレイヤーの一人でもあるレイ・ブラシエ(Ray Brassier)は、2010年に開かれたシンポジウムの中で、その限界を指摘し、ランドの思想は必然的に隘路に陥らざるを得ないと論じた。 ブラシエによれば、ランドの哲学的プログラムの出発点はカント主義の解体にあるという。そのルーツはやはりドゥルーズにある。ここでは詳しく立ち入らないが、乱暴に要約すれば、ドゥルーズはカント的な主観性の構造を退け、ベルクソンの直観論を継承した非人称的かつ強度的な内在性に主軸を置く。だが、ランドはそれをさらにラディカルに推し進め、直観すらも主体が前提とされたものであると退ける。結果、ランドが唯一の価値を認めるのは、強度それ自体となる。強度は主体を溶解させる。だから、ベルクソン的な生気論(vitalism)すら乗り越えて、主体というフレームワークを一切認めない強度性それ自体にアクセスしなければならない。言うなれば、ランド的プログラムの要諦は、ドゥルーズからベルクソン的な「生命の躍動(エラン・ヴィタール)」の残り香を完全に除去して、代わりに無人称的(!)な機械状プロセス、すなわち器官なき身体を目指す死の欲動に全面的に身を委ねるということにあった。 しかし、こうしたランド的プログラムはまさにこのことによって袋小路に行き当たる。というのも、いかなる主体性や現象学的主観性の否定も、不可避的に強度性を経験するフレームワークそれ自体の否定に帰着せざるを得ないからだ。ベルクソン的な生気論に歯向かう死の欲動による強度的プロセスの絶対化は、そのようなプロセスを推し進め経験するはずの行為のエージェンシーそれ自体の完全な抹消に帰結する、というパフォーマティブなジレンマに陥る。 ここから、ランドの近年における政治的立場も説明がつく、とブラシエは述べる。すなわち、政治に参画する行為体(エージェンシー)の否定、つまり政治の際限なき脱領土化である。それは突き詰めれば、資本主義の自己運動的な脱領土化プロセスをただ受け入れ肯定するしかない、という宿命論的ニヒリズムに至るだろう。言葉を変えれば、政治的主体が行うはずの意思決定の否定は、取りも直さず自由市場化、規制緩和、グローバリゼーション、といったネオリベラリズム的、あるいはリバタリアン的資本主義プログラムの盲目的な肯定に堕するしかないだろう……。 政治理論家のジェレミー・ギルバート(Jeremy Gilbert)は、ランドの思想をいみじくもニーチェ主義的右派リバタリアニズムと表現してみせた。ただし、ランドのニーチェ主義はいわば一種の超人なき超人思想である。というのも、彼のニーチェ的強度の肯定は、資本主義の無人称的プロセスという「善悪の彼岸」に外在化されるからだ。とはいえ、もちろんこの外在化された強度性が擬人的な形象を取ることも往々にしてあるだろう。たとえば、カーティス・ヤーヴィンが顕揚する超知性的な独裁者のような形で……。 CCRUという実践 いずれにせよ、ランドは超越論的主観性も現象学的還元も、さらには情動やベルクソン的直観を登録するいかなる「主体」も認めない。というのも、ランドからすれば「主体」やら「自己同一性」はカント主義が用意した認識論的牢獄への幽閉でしかないからだ。それは西洋の帝国主義とも手を結びながら近代のヘゲモニーを握ってきた。そうした主体を構成するあらゆる体制は脱領土化のプロセスの内に解体され溶解されていく、されていかなければならない。よって、ランドの哲学的プログラムは、同時にこの崩壊と解体のプロセスを身をもって引き受ける哲学的実践でもなければならなかった。もちろん、ブラシエが指摘したように、このパラドキシカルな実践は不可避的に隘路に陥りざるをえないのだが。ともあれ、以下ではランドが実際にどのような実践を辿っていったのか、その軌跡を簡単に確認していこう。 ニック・ランドは1987年にイギリスのウォーリック大学で教職を得て、1998年に大学を去るまでの約10年間、そこで教鞭を執っていた。専門は主に大陸哲学とフランス現代思想で、1992年には『絶滅への渇き(The Thirst for Annihilation: Georges Bataille and Virulent Nihilism)』というジョルジュ・バタイユをテーマにした著作も執筆している。 すでに見てきたように、ランドの叙述スタイルはメインストリームのアカデミズムの慣行からは大きく逸脱したものだった。ニーチェ的アフォリズムとドゥルーズ&ガタリ的スキゾフレニックな文体の錯綜したミクスチャは、痙攣した思索の軌跡をランドのテキストにもたらした。のちのセオリー・フィクションとも呼ばれるジャンルにも影響を与えたランドの叙述スタイルは、いわゆる学会で良しとされている端正な論述からかけ離れていたという点で間違いなく「異端」であった。 もちろん、それはランドが半ば意識的に選択した戦略でもあったに違いない。主流派アカデミズムを支配するカント主義というオーソドキシーと権威主義から徹底して距離を置くために、彼は進んで背教者の烙印を押されることを引き受けた。このことは、後年の「暗黒啓蒙」において、知的エリートと主流メディアからなるエスタブリッシュメントが巨大な影響力を行使する〈カテドラル〉を批判する姿勢にも繫がっていくだろう。 ランドにとって、カント主義という正統派教義を打破し知解不可能な「外部」へアクセスするためのプログラムは同時に、哲学的思索の内部にとどまらない、行動を伴う実践でなければならなかった。その実践のうちのひとつが、CCRUの設立である。 CCRU、サイバネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit:CCRU)は、ウォーリック大学の哲学部内において、同僚で公私ともにランドのパートナーであったサディ・プラント(Sadie Plant)とともに1995年に設立された、大陸哲学とSFとオカルティズムとクラブカルチャーを学際的に横断する、学生主体の研究組織である。このCCRUには、後に批評家として活躍することになるマーク・フィッシャー、思弁的実在論で知られることになるイアン・ハミルトン・グラント(Iain Hamilton Grant)とレイ・ブラシエ、Kode9名義で音楽家として活躍することになるスティーブ・グッドマン、出版社アーバノミック(Urbanomic)の編集ディレクターを務めることになるロビン・マッケイ(Robin Mackay)などが参加していた。なお、マッケイはこの時期CCRUにおいて雑誌『***collapse』を発刊している。この雑誌はのちの2006年に創刊され、後述する思弁的実在論ムーブメントのきっかけを作った『Collapse』の前身にあたる。 ランドとともにCCRUを設立したサディ・プラントはフェミニズムの理論家で、なかでもサイバー・フェミニストと呼ばれる一派に属していた。サイバー・フェミニストとは、1990年代に登場した、女性とテクノロジーおよびインターネットなどのニューメディアとの関係性を分析することで、女性の身体、ジェンダー、アイデンティティを問い直すフェミニズムの一派である。たとえばプラントは、著書『Zeros+Ones』において、テクノロジーは根本的に女性的なものであると規定し、男性性的な家父長制を脅かしていくテクノロジーの力をフェミニズムの観点から論じた。こうした見方は、ランドが「カント、資本、そして近親相姦の禁止」で示してみせたフェミニズム的暴力ともある程度一致するものである。 サイバー・フェミニズムのルーツは、オーストラリアのアーティスト集団VNSマトリクスが1991年に起草したマニフェスト、「サイバー・フェミニズム宣言」にまで遡ることができるが、2010年代に入ると、ラボニア・クーボニクスを名乗る集団がゼノフェミニズム(Xenofeminism)を提唱し、現在の加速主義の動向などとも共振しながらサイバー・フェミニズムの思想を今に継承している。 さて、そんなサディ・プラントだが、ランドとともにCCRUを立ち上げたものの、それからわずか二年足らずでウォーリック大学を辞職し、同時にCCRUからも離れている。CCRUは以降、ランドが単独で主導し、結果この組織は大学内外に存在していた一部のランド教徒の学生たちを取り込みながら秘教的なコミュニティに成長していく。ランドのカリスマ性について、音楽評論家のサイモン・レイノルズ(Simon Reynolds)はこの頃のランドを「渦巻きのような存在」と形容している。さながらカーツ大佐のごとく、ランドには出会った人間を自身の磁場に引き込んでしまう存在感があった。CCRUのメンバーの院生たちは、ウォーリック市内のレミントン・スパにあるザ・ボディショップの上階に部屋を借り、そこを活動拠点にして、魔術、数秘学、ブードゥー教、ラヴクラフト、アレイスター・クロウリー(彼もレミントン・スパの出身だった)といった秘教的な思索にふけった。壁にはランドと彼の学生が描いた無数のオカルティックな図形が残された。『ガーディアン』紙のなかでロビン・マッケイは当時を回想して、「CCRUは疑似カルト、疑似宗教と化したのです」と述べている。そしてこう続ける。「私はCCRUが完全な狂気に陥る前に去りました」。大学当局がこのような組織の存在をあまり快く思っていなかったことは言うまでもない。 CCRUとクラブミュージック CCRUの哲学的実践はアカデミズムの内部ではなく、むしろその外部において影響力を持っていた。CCRUは半匿名的な集団であり、ウェブサイト(現在は消失している)を通じてメンバーによる無署名の、かつ造語が溢れた暗号的なテキストを定期的に発表していたが、そこで言及された対象のひとつにたとえばテクノミュージックないしはクラブカルチャーがあった。とはいえ、そこでの対象の取り扱い方は、いわゆるカルチュラルスタディーズ的な「研究」ではなく、より実践的な交差と接続を経ることによる理論と概念の「生産」に比重が置かれていた。カルチュラルスタディーズのように対象から距離を取って社会批評を加えるのではなく、周縁文化の只中に直接立ち会うことで強度的な潜勢力を摑み取ってくること。ジャングル/ドラムンベース、アフロ・フューチャリズム、ブラック・サイエンスフィクション、そしてダブステップ……、それらはカルチュラルスタディーズが研究室で取り扱う「死んだ対象」ではなく、内部に変革を内蔵し未来を活性化させる、それ自体が伝染性のサイバネティック・プロセスに他ならないのだ。もちろんランドとCCRUがカルチュラルスタディーズに向ける敵意に似た感情は、それがいまだにマルクス主義の残滓──たとえば階級意識や左翼ヒューマニズム──を引きずっているという認識に拠るところも大きかったのだが。 サイモン・レイノルズが1999年にCCRUのメンバーに対して行ったインタビューの中で、ランドは「音楽的なモデルは私たちにとっての鍵です」と述べている。「音楽は現実を表象しない、したがって音楽は空虚なメタファーにすぎない、と主張するのは馬鹿げています。音楽のためのリアルな場所を持たない理論家は皆一面的な鬱状態に陥るのです」。 音楽を思索のための概念として捉えるという発想は、CCRUのみならずその周辺の批評家も共有していた。たとえば、テクノ系のZINE『Break/Flow』を編集していたドゥルージアンのホワード・スレイター(Howard Slater)は、「非概念的思考(nonconceptual thought)」と「衝動的交感(impulsional exchanges)」というキータームをもとにレイヴ・ミュージックを論じ、アンダーグラウンドのテクノ・シーンにおけるリゾーム的で非従属的なポスト・メディアエコノミーを礼賛していた。 当時におけるクラブミュージックとある種の哲学の交感については熟考に値する。1993年に設立されたドイツのテクノレーベルMille Plateauxの名前はドゥルーズ&ガタリの著書から採られていることはよく知られている。96年にはこのレーベルからドゥルーズの追悼盤『In Memoriam Gilles Deleuze』がリリースされた。 のちにレーベルHyperdubを主宰し、ダブステップのシーンを牽引していくことになるKode9ことスティーブ・グッドマンは、当時CCRUに学生として参加しており、そこでランドとフィッシャーから決定的な影響を受けていた。グッドマンはランドのテキストから受けた衝撃について以下のように回想している。 90年代中頃のどこかでニックの「Cyberspace Anarchitecture and Jungle Warfare」という論考に出会ったときのことは今でも覚えている。このときこそ私たちが音楽としてのジャングルのみならず、概念を生成するマシーンとしてのジャングルに魅せられた瞬間だった。この論考自体はとりわけジャングル・ミュージックに文字通りの意味では関係していなかったが、読めば読むほど、この地図化されていると思わしき抽象的な風景は、まさしく音楽によって作られるものと等しかった。 (マーク・フィッシャー「ニック・ランド:マインド・ゲーム(Nick Land: Mind Games)」) グッドマンは別のインタビュー記事の中で、90年代初頭のジャングルは一種の「脳の変容」、すなわち速度と強度と新たなサイケデリック文化について考えるためのゲートウェイだったと述べている。 イギリスでは、80年代後半にアシッド・ハウスに象徴されるレイヴ・カルチャーのブーム(セカンド・サマー・オブ・ラブ)があった。DIY精神に基づいてゲリラ的に開催されるレイヴとMDMAやLSDなどのパーティードラッグによって後押しされたそのムーブメントは、90年代に入るにつれて産業化とイギリス政府による野外レイヴ規制とともに下火になっていったが、代わりによりアンダーグラウンドな場所で咲いたのが、ジャマイカ移民の黒いダブにルーツを持つジャングル/ドラムンベースのシーンだった。アシッド・ハウスの祝祭的な恍惚感に「否」を突きつけるようなそのハードでダーク、かつ金属質的なサウンドを、マーク・フィッシャーは「ディストピア的な衝動からくる救いようのない否定性」(『わが人生の幽霊たち』)と表現してみせた。 CCRUも内部にKo-Labsという音楽活動用のサブ組織を作り、ジャングルの楽曲を制作するなどしていた。CCRUの共同設立者のサディ・プラントは、80年代後半から90年代にかけてのレイヴ・カルチャーに積極的にコミットし、当時はバーミンガムのジャングル系のクラブを共同運営していたこともあったという。また、彼女は1999年にはドラッグについての著作『Writing on drugs』をものしている。 CCRUとドラッグの関係性について、はっきりした証言は確認できていないが、ジェレミー・ギルバートはマーク・フィッシャーを追悼したテキストの中で、当時のCCRUのメンバーは、アンフェタミン、MDMA、ケタミンへの偏好があったという「風評」を書き留めている。また、1992年にはドラッグ・カルチャーについてのシンポジウムPharmakonにて、ランドとプラントによる共著となるエッセイ「Cyberpositive」が読み上げられている。このエッセイには、MDMAやLSDなどドラッグに関する広範な言及が含まれる。いずれにせよ、CCRUが当時のレイヴ/ドラッグ・カルチャーに程度の差はあれコミットしていたことは確かなようである。 とはいえ、CCRUのメンバーがレイヴ・カルチャーに魅せられたのは、単に音楽やドラッグという側面からだけではない。レイヴ・カルチャーにおけるボトムアップ型の小規模コミュニティのあり方、ゲリラ的に開かれる野外レイヴ、地下で流通するドラッグ、小さなレーベル組織、自宅スタジオでの個人制作、海賊ラジオ、等々から成る無政府主義的かつマイクロ・ユートピアンな共同体、そこにこそ彼らは可能性を見出していたのだった。 一方、グッドマンは2000年代に入ると、「Hyperdub」というコンセプトを打ち立て、人間とマシンを複製化する情報ウィルスと定義づけた。実際、その後ダブステップはまさにウィルスのようにゼロ年代のUKクラブシーンを席巻していったが、そこにはCCRUで育まれた実践的思想が根底にあったと言ってよいだろう。 また、グッドマンは2010年には著書『Sonic Warfare: Sound, Affect, and The Ecology of Fear』を世に問うている。この書でグッドマンは音楽を「情動」を生産/伝達させる「音‐ウィルス(audio virus)」として定義しなおしている。音は不安や恐怖を生産することができる。たとえば、パナマ侵攻の際、バチカン大使館に立てこもったマヌエル・ノリエガを標的に行われた音響攻撃。またはガザ地区で発生するソニックブーム(爆音)。他方で現代の後期資本主義社会においては、あらゆる場所に音楽が浸透し私たちの情動をコントロールしている。ショッピングモールで流れるミューザック、あるいは工場や会社で流れるヒーリングミュージック。これら情動の管理と伝播のエコロジー=闘争関係をグッドマンは音の戦争(Sonic Warfare)と名付ける。グッドマンは、これら資本主義のシステムに回収されない音の領野として、鳴らない音(unsound)としての潜在性の領野、すなわち人間の可聴化帯の周縁部の音域に思索を向けていく。 ハイパースティション セオリーと現実、あるいはフィクションと現実がインタラクティブな関係を取り結ぶ様を見極めること。さらには、その関係性に実践的に介入すること。ランドとCCRUは、こうした見地からハイパースティション(hyperstition)と呼ばれる概念(または実験)を生産するに至った。この、hyper(超える)とsuperstition(迷信)から成る合成語は、虚構と現実の関係性を問い直すことを第一義とする。彼らによれば、ハイパースティションとは一言でいうならば「自身を現実化するフィクション」(「Lemurian Time War」『Writings 1997-2003』)のことを指す。 ハイパースティションの教義に従えば、世界、宗教、戯言の間に原理上の差異はない。それらはみな顕示と実践的なフィクションの設計を含んでおり、つまり究極的にはすべて確信するには値しない。真理は存在しない、なぜならすべては生産の下にあるからだ。未来はフィクションなので、現在や過去よりも強度的なリアリティを内包している。CCRUは、未来を植民地化し、潜在的なものと交通し、そして不断にそれ自身を再創造するために、ハイパースティションを使役し、なおかつ使役される。 (「Communiqué Two」『Writings 1997-2003』) さしあたり、ハイパースティションは現実を生産し変容させるための触媒として記号を扱おうとする魔術的実践と捉えることができる。グッドマンによる「Hyperdub」の定義はまさしくそのようなものとしてあったし、現在のインターネットカルチャーを見回せば、インターネットミームという名の情報ウィルスがネット上を回遊し、感染と拡散を繰り広げながら現実世界までも侵食しようとしている。あるいは、見方によっては資本主義というシステムそのものがハイパースティション的と言うこともできるかもしれない。たとえば、投資家たちによる株価の予想は、未来に対する予測という意味で潜在的かつフィクショナルなものだが、同時にその予想が株価に実際に影響を与えるという意味ではリアルなものでもある。こうした「予言の自己成就」に見られる、後期資本主義に内在する再帰的なシステムは、現実と潜在的なものとが切り離しがたく結びついていることを教えてくれる。 念のため付け加えておくならば、ハイパースティションはポストモダニズム的なテクスト相対主義とは真っ向から対立する。ポスト構造主義を代表する思想家ジャック・デリダは「テクストの外部はない」と述べたが、CCRUはむしろテクストの外部にあくまでこだわる姿勢を取っている。ポストモダニズム的な「リアルは存在しない=テクストの外部はない」と、CCRU的な「真理は存在しない」は必ずしもイコールではない。「ことはむしろ反対である。真理は存在しない、なぜなら特権的かつ単一のバージョンのリアリティ(reality)など存在しないからである。代わりに、余りあるほどの、過剰な諸々のリアリティが存在するのである」(「Lemurian Time War」『Writings 1997-2003』)。 彼らのこのようなテクスト原理主義からの距離の置き方は、近年の英米系哲学シーンに現れている社会構築主義やポストモダニズムに対する批判的姿勢とも地続きなものとしてある。テクスト主義者によれば、社会は記号=言語とそれが生産する意味の網の目から成る。そこではあらゆる制度、文化、言説、ジェンダー/セクシュアリティ等々はエクリチュールの戯れ、すなわち記号とコンテクストが織りなすネットワークと見なされる。こうした主にフレンチ・セオリー(ポスト構造主義など)に代表される大陸哲学の動向に対して、90年代半ば頃から英語圏で発展してきたニュー・マテリアリズム(New Materialism)に見られるような唯物論への回帰、あるいは前述したサイバー・フェミニズムなどの、身体のダイナミズムや物質とテクノロジーの持つバイタリティに着目する新しいフェミニズムの動向は、そうしたテクストというフレームを内破して外に向かおうとする半ば意識的な試みでもあった。ランドらによるCCRUでの実験的実践、そして以下で扱う思弁的実在論は、以上のような動向と相即するものであったということを確認しておこう。 思弁的実在論とニック・ランド 近年における哲学的潮流のひとつとして日本でも注目された思弁的実在論(Speculative Realism:SR)は、いわゆる「相関主義(Correlationism)」に対する批判を通奏低音として持っている。先に述べたように、カント以降の哲学スキームにあっては、私たちは「物自体」を認識できない。私たちがアクセスできるのは、概念的なカテゴリーや論理形式を通じて主観の上に構築される表象のみであり、このようなアプリオリに条件づけられた認識論的な枠組みを指して「超越論的なもの」と呼ぶのであった。言い換えれば、私たちは事物のあり方それ自体を直接問うことはできない。問うことができるのは、私たちの超越論的な思考の枠組みと、事物がそれに従ってどのように現象するか、といった表象作用のみとなる。このような、事物は超越論的なものと関わる限りで問題化することができるとする立場を相関主義と呼ぶ。 こうした議論は、すでに見てきたように、ランドの「カント、資本、そして近親相姦の禁止」において部分的に先取りされていたという見方もできる。繰り返しになるが、ランドによればカント以降、あるいは啓蒙の時代以降、同じ理由からモノは私たちの認識に従属されてしまっている。そこにあっては、他者性も外部性も主体の内部に包摂/同化される。つまり、他者は常にすでに「私たちにとっての」他者に過ぎないものとされる。このカント的な相関主義は、西洋近代のヘゲモニーを特徴づける、外部を際限なく内部に繰り込んでいく帝国主義とグローバリズムとも軌を一にしながら哲学史のセントラル・ドグマとなった。以上がランドによるカント批判の大筋だ。 大雑把に言えば、ランドとSRは両者とも、いかにこの「相関的循環」の外部に抜け出て、物自体=未知の他者と遭遇するか、という問題意識を共有している。実際、ランドとSRは、これから見ていくように意外なほど近いフィールドから出てきている。 ムーブメントとしてのSRは、2007年にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで開かれた「思弁的実在論」と題するワークショップに端を発する。そこに集った、グレアム・ハーマン、カンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux)、そして前出のCCRUにも関わっていたレイ・ブラシエとイアン・ハミルトン・グラントの四人がSRのオリジナルメンバーであるとされる。このワークショップの記録が、やはり前出のロビン・マッケイがディレクターを務める学術系出版社アーバノミックが発行する思想誌『Collapse』第三号に掲載されたことで注目を集めることになる。なお、このアーバノミックは他方でニック・ランドやCCRUの著作、加えて加速主義のアンソロジーなども刊行している。このうちランドが主に90年代の間に書き散らしたテキストを集めた著書『Fanged Noumena: Collected Writings 1987-2007』は、ロビン・マッケイに加えてレイ・ブラシエが編集に参加しており、さらに出版に際して両者による長大な序文が付されている。 若手の中では、マーク・フィッシャーらが立ち上げた出版社Zero Booksから『Slime Dynamics』を上梓し、哲学と科学とホラーフィクションの交配を通して「闇の生気論(dark vitalism)」を提唱した思弁的実在論者ベン・ウッダード(Ben Woodard)にニック・ランドからの影響が色濃く見て取れる。 SRはインターネット、とりわけブログやポッドキャストを通して広まった。SRはインターネット発の哲学的運動であるといった主張もある一方で、ブラシエのように「思弁的実在論のムーブメントは一部のブロガーの妄想の中にしか存在しない」と喝破し、「感化されやすい大学院生たちの誤った熱意を搾取する」傾向性を痛烈に批判する向きもある。 それはさておき、ではSRはどのようにして前述の相関的循環から抜け出ようとするのか。SRは先に述べたように相関主義に対する批判を通奏低音として共有しているものの、統一的なムーブメントではなく、各プレイヤーの思想や主張にはかなりの不一致が見られる。なので、ここでは二人に絞って紹介することとする。まず一人目は、主著『有限性の後で』が邦訳され四人の中では現時点で日本でもっとも紹介が進んでいるメイヤスーの議論を見ていこう。 カンタン・メイヤスー メイヤスーは『有限性の後で』第一章「祖先以前性」において、私たちとは無関係な世界、すなわち非‐相関的な事物それ自体の領域であるところの「大いなる外部」を言い当てているとする言明に着目している。このような言明には、たとえば「地球は四五億六千万年前に形成された」のような、人間や他の生命が発生する以前の世界、言い換えれば思考がいまだ存在していない世界についての自然科学の推論がある。こうしたものが、メイヤスーによって「祖先以前的言明」と名付けられる。メイヤスーによれば、相関主義にはまり込んだカント以降の哲学者は人間=思考が発生する以前の世界について思考することができない。というのも、相関主義者からすれば、思考なしの世界を思考することはナンセンスでしかないからである。思考とは常にすでに何かについての思考であり、それは翻って言えば世界は常にすでに思考にとっての世界でしかない、ということである。 しかし、自然科学による祖先以前的言明は、そうした思考なしの世界にアクセスすることを難なくやってのけている。それでは、どのようにして自然科学は思考なしの世界へのアクセスを可能にしているのか。メイヤスーに従えば、それは数学によって、である。「《大いなる外部》について推論できる数学の能力、すなわち人間どころか生命も存在しない過去について推論できる能力、いったいこれは何なのか」(『有限性の後で』)。 メイヤスーは続く章における相関主義の徹底化という形での相関主義批判を通じて、「偶然性の必然性」という絶対的かつ存在論的な権利要求に数理的な自然科学の基礎を置こうと試みる。つまり、偶然性のみが絶対的なものである、とメイヤスーは主張するに至る。世界がこのようなものとしてあるという絶対的な理由(=充足理由律)を措定することはできない。むしろ、この世界が何の理由もなく(=私たちと無関係に)別様に変化する可能性を認めること。 いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない。世界の事物についても、世界の諸法則についてもそうである。まったく実在的に、すべては崩壊しうる。木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則も、である。これは、あらゆるものに滅びを運命づけるような高次の法則があるからではない。いかなるものであれ、それを滅びないように護ってくれる高次の法則が不在であるからなのである。 (『有限性の後で』) 本書では、続く章でカントールの無限集合論を援用しながら、確率論的な偶然性そのものを無化する絶対的かつ根源的な偶然性についての思弁が推し進められていく。可能的未来の出来事の集合は全体化することができず、よって可能性の確率計算は世界内においては成り立つが、世界それ自体に対しては適用できない。言うならば、可能性の全体=無限集合は思考不可能なものとして、私たちの絶対的外部に置かれることになる。このあたりの議論の是非について、筆者に判断する能力はない。いずれにせよ、メイヤスーの主張によれば、自然法則は完全に偶然的であり、よっていかなるときも世界は何の根拠もなく変化しうる。 ところでメイヤスーは、偶然性(contingence)という語は、ラテン語のcontingereすなわち「到来する」という語を語源に持っていると述べている。その上で次のように続ける。 それは、要するに、何かが最後に到来するときを意味する。他の何かが到来し、それは、すでに数え上げられたあらゆる可能性から逃れて、ありそうもないことも含めてすべてが予見可能である賭博の、その虚しさに終止符を打つのだ。何かが私たちに到来するとき、新しいものが私たちの喉元をつかむとき、計算は終わり、賭けも終わる。そしてついに、真面目なことが始まる。 (同前) ここには明らかに神学的な匂いがすると言わなければならない。実際、一見メイヤスーは数学や自然科学を重視しているように見えるが、しかし「自然法則にはいかなる根拠もない」という結論が一度得られてしまえば、もはや自然科学に役目はない。いわば登りきるために用いた梯子は捨てられなければならないように。そして、私たちが行うべきは、未来から到来する何かを受け入れ、歓待することだけとなる。 もうひとつ気になったのは、メイヤスーが「何かが私たちに到来する」と言うとき、彼が相関主義批判を通して注意深く排除したはずの「私たち」が、奇妙にもここに至って再び回帰しているように見える点である。到来する何かが私たちに対して到来するものとされる限りにおいて、それは私たちとはどこまでも無関係な、さらに言えば私たちの存在しない世界を思考するはずのSRが一貫して批判してきたはずの相関主義的思考に他ならないのではないか。 それはともかく、『有限性の後で』の出版と同年(2006年)に発表された「亡霊のジレンマ」というテキストでは、神学的色彩がより強く押し出されている。「亡霊のジレンマ」の主題を簡潔に言うならば、真の喪はいかにして可能なのか、という問いである。過去に非業の死を遂げていった無数の死者たち、彼らの亡霊を弔うことは果たして可能なのか。メイヤスーは、宗教も無神論もこの喪をついに行い得なかったと主張する。宗教は、来世を約束するが、現世での非業の死を生じさせてきた神を背徳的な存在にしてしまう。他方の無神論は、そうした神の存在を否定するが、その代わり死者たちの喪を諦めなければならない。 こうしたジレンマに対して、メイヤスーは「神は存在する」でも「神は存在しない」でもなく、そこに「神はまだ存在しない」という第三のテーゼを対置させる。端的に言うならば、自然法則の根源的な変更可能性、それこそが未来から到来する神に他ならない。 メイヤスーは、世界を四つの発展段階に分けている。物質(第一世界)、生命(第二世界)、思考(第三世界)、そして来るべき第四の世界である正義の世界。この到来するであろう第四の世界にあっては、非業の死を遂げた死者たちが地上に復活し、真の喪と正義が成される。メイヤスーは、この第四世界への根拠も理由もない変更可能性のプロセスを「世界の神化」と呼んでいるが、これはSR流の一種の千年王国論なのだろうか。 哲学者でSRの紹介者としても知られる千葉雅也は、メイヤスーが人気を得た理由のひとつとして、世界全体が崩壊し変容するということが、時代の不安とマッチしていたからではないか、と示唆している(『思弁的実在論と現代について』)。リーマンショックのような世界レベルの金融危機、気候変動、大地震や津波、等々……。そのような意味では、メイヤスーの思想はピーター・ティールらが抱いていた終末的なホラーの感覚とも共振しているのかもしれない。 レイ・ブラシエ 他方で、同じくSRの主要プレイヤーの一人であるレイ・ブラシエは、主著『ニヒル・アンバウンド:啓蒙と絶滅(Nihil Unbound: Enlightenment and Extinction)』(未邦訳)において、メイヤスーの「祖先以前性」に対して「絶滅」を提示している。ブラシエに従えば、「祖先以前性」が私たちの存在に先立つ世界を提示するとき、それはメイヤスーの意図に反して、単に「私たちにとって」先行する世界といったふうに半端に理解される余地を残している。それに対して、ブラシエは人間が消滅した後の地球、あるいは宇宙の絶対的な消滅──熱的死──に視点をシフトさせることで、私たちから絶対的に切り離された絶滅の「事後性」を強調するに至る。これは同時に、意味が物質のレベルで消滅したポイント、というある種の徹底化されたニヒリズムを提示してみせることでもある。 意味、目的、そして可能性の滅却は、存在することも、存在しないことも不可能であることから生じる「恐怖」が知解可能になる、そのようなひとつのポイントを示している。 (レイ・ブラシエ「絶滅の真理」、『ニヒル・アンバウンド』第七章抄訳) 宇宙が消滅してしまえば、現在の私たちの営みもすべてなかったことになる。なぜなら、我々人間が確かに存在していたことを示す、それまでの膨大な歴史や出来事を示す物体はもはや存在しないからである。宇宙の消滅は、私たちはそもそも最初から存在しなかったという帰結を事後的にもたらすだろう。この究極のニヒリズムを引き受けたとき、思考なき思考、すなわち恐怖(horror)が知解可能になるのだ。 さしあたり、メイヤスーとブラシエの両者に共通するのは「人間なき世界」への志向性であろう。彼らの荒涼とした世界観は、人新世、ティールの終末思想、加速主義、ホラーの哲学などともどこかでシンクロしている。その意味ではSRは現代の時代感覚ともマッチしていた、と言うことができるだろう。 ニック・ランドの上海 話題がだいぶ横道に逸れていった。ニック・ランドに話を戻すと、彼はCCRUでの実践を通して、アカデミズムの外部への回路を形成していった。ゲームデザインコンサルタントAbstract Machines、ドラムンベース系レコードレーベルKatasonix、ビジュアルアーティスト集団オーファン・ドリフト(0(rphan)d(rift>))、アフロ・フューチャリズムの理論家コドウォ・エシュン(Kodwo Eshun)など、アカデミズム内外を問わない多様な分野との共闘とコラボレーション、そして「Virtual Futures」、「Afro-Futures」、「Virotechnics」といった、サイバーカルチャーやトランスヒューマニティ/ポスト・ヒューマニティをテーマとした各種イベントやカンファレンスのオーガナイズなど。このうち96年度の「Virtual Futures」では、DJによるセッションと多彩なゲスト──哲学者のマヌエル・デランダ(Manuel DeLanda)、SF作家のパット・カディガン(Pat Cadigan)、美術家のリンダ・ディメント(Linda Dement)など──によるトークが交互に行われ、音響とビジュアルが会場の空間を包んだ。CCRUが90年代の間に残した功績は決して少なくないだろう。 他方で、ランドは自身の解体のプロセスを着実に加速化させていた。同じく96年度の「Virtual Futures」では、ロビン・マッケイがプレイするジャングルのビートが鳴り響くなか、フロアに横たわり、奇声とも祈りともつかない調子でアルトーの詩を高らかに詠唱するランドの姿が見られたという。 ランドは、「意味」という呪縛に囚われている言語に背を向け、次第に数秘術めいた数字の実験にのめり込むようになった。睡眠を取らず、使い古したアムストラッド社製のパソコンのモニターを一日中凝視しながら、奇怪な数字の配列やシンボルを延々といじくりまわしていた。この時期のランドの実験にはたとえば、QWERTYキーボードとカバラ数秘学を組み合わせるというものがあった。人間的な理性を超越した非‐意味に基づくアンチ・システムだけが〈未知〉=〈外部〉への扉であるという確信。ロビン・マッケイは、この時期のランドを回想しながら、「端的に言って彼は発狂したのだ」(「Nick Land – An Experiment in Inhumanism」)と総括している。 当時のランドがアンフェタミン(中枢興奮作用を持つドラッグ。スピードなどの俗称がある)中毒に陥っていたことを示唆する記述は、後年になって彼が当時の自身を半ば自虐的に顧みたテキスト「A Dirty Joke」の中にも見られる。複数の一人称──Cur・Vauung・Can Sah──が混在する分裂した自我、そして輻輳する幻聴。彼は書き記す。「……救いようのない混沌。それは鏡しかない錯綜した迷宮。その精巧な罠と見分けのつかない、理解を超えた崇高な無意識へと迷い込んでいく」(「A Dirty Joke」)。 ランドの記述の中に誇大表現や自己演出がないとは限らないが、それでも当時のランドが直面していた状態を推し量ることはできる。ランドは、死の欲動のプロセスの絶対化の果てに、「解体」と「崩壊」を身をもって実践してみせるに至った──ある意味で取り返しのつかない形でもって。ランドの実験は今や終わりを告げようとしていた。 1998年、ランドは大学を退職するのと同時に、上海に移住した。ここでの彼のイグジット(Exit)は二重である。すなわち、アカデミズムの領域からのイグジット、そして西洋近代からのイグジット。彼は、加速した果てにある西洋近代の〈外部〉を、サイバーパンクを思わせる上海の摩天楼に見出したのだった。「暗黒啓蒙」でも称賛していたように、上海、香港、シンガポールなどは、リベラル民主主義的な〈カテドラル〉のイデオロギーを輸入することなく科学技術と資本主義の発展を遂げたという意味で、ランドにとっての理念的な都市国家モデルなのであった。前章でも言及したホイ・ユクは、そうしたランドら新反動主義者がアジアの諸都市に抱く、脱政治化を遂げたテクノ資本主義ユートピア像を「中華未来主義(Sinofuturism)」と呼んで批判している。 2000年代に入ると、ランドは上海在住のジャーナリスト兼ブロガーとして再び表舞台に登場してくる。右派系新聞の論説記事、旅行ガイド、そして思弁的ホラー小説などを執筆し、また出版社Time Spiral Pressを立ち上げるなど精力的に活動を続けていた。同時にこの頃になると、ランドのテキストにかつてあった〈外部〉を目指す破壊的かつ狂熱的なトーンはおとなしくなり、代わりにネオリベラリズム的な新自由主義への肯定的論調が目立ってくるようになる。たとえば、2010年にランドが上海国際博覧会のガイドブックに寄せたテキストには、歴史と近代を溶解させるメルトダウンもなければ、死の欲動の解放を寿ぐ黙示録的な響きもない。それどころかむしろ、上海の壮大な摩天楼に世界史の完成形のビジョンを見ようとしさえするのである。 そして2012年、ランドはネット上で一人のブロガー、メンシウス・モールドバグ(カーティス・ヤーヴィン)と出会う。こうして暗黒の啓蒙が始まった。 加速主義とは何か 第三章ではニック・ランドの思想を主に紹介した。ランドの90年代の思想は、資本主義のアンチ・ヒューマンな力を限界まで推し進めることでカント主義的な近代の体制を溶解(メルトダウン)させるという点に賭けられていた。ランドはドゥルーズ&ガタリの仕事から着想を得ており、そしてランドによって解釈し直されたドゥルーズ&ガタリ主義は、見てきたようにCCRUでの実践を通してアカデミズム内外に広範な影響を及ぼし現在にまで受け継がれている。 さて、2010年代に入ると、これらの思想に対して「加速主義」という名前が与えられる。2014年にアーバノミックから刊行された加速主義のアンソロジー『#Accelerate: The Accelerationist Reader』の序文で編集者のロビン・マッケイとアーメン・アヴァネシアン(Armen Avanessian)は加速主義について次のように簡潔に紹介している。 加速主義とは政治的な異端である。というのも、資本主義に対する唯一のラディカルな政治的応答は、抵抗することでも、批判することでも、あるいは資本主義が自身の矛盾によって崩壊していくのを待つことでもない、と主張するからである。それどころかむしろ、資本主義における根絶化、疎外化、脱コード化、抽象化の傾向を加速させよ、と主張するのである。 (『#Accelerate: The Accelerationist Reader』) 2010年9月にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにおいて加速主義についてのシンポジウムが開催されている。ニック・ランドの著書『Fanged Noumena』の刊行に合わせる形で開催されたこのシンポジウムは、マーク・フィッシャー、レイ・ブラシエ、ロビン・マッケイ、ベンジャミン・ノイズ、ニック・スルニチェク、アレックス・ウィリアムズの六名が登壇者として参加した。なお、前章で言及したレイ・ブラシエのニック・ランド批判はこのシンポジウムで発表されたものである。思想的動向としての加速主義を考えたとき、このシンポジウムはひとつのメルクマールとなるだろう。 加速主義という造語を命名したのは批評家のベンジャミン・ノイズ(Benjamin Noys)であり、確認できた範囲では2008年のブログ記事を初出とする。2010年の著書『The Persistence of the Negative』では、「もし資本主義が自身を溶解させる力をみずから生成するのだとしたら、必要となるのは資本主義それ自体をラディカライズさせることである。すなわち、悪くなればなるほど、良くなる(the worse, the better)。我々はこの傾向を加速主義と呼ぶ」(『The Persistence of the Negative』)と定義づけている。続く2014年の『Malign Velocities: Accelerationism and Capitalism』では加速主義の系譜についてさらに本格的に論じられることになる。 ベンジャミン・ノイズが加速主義の聖典として挙げている書物が三冊ある。いずれも1970年代中頃にフランスで出版された哲学書である。すなわち、ドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』(1972)、ジャン゠フランソワ・リオタールの『リビドー経済』(1974)、そしてジャン・ボードリヤールの『象徴交換と死』(1976)である。『アンチ・オイディプス』が1968年の五月革命の狂乱的な熱気をダイレクトに反映した書物であることは前章でも少し触れた。そして『リビドー経済』はその『アンチ・オイディプス』に対するリオタールからの応答として書かれている。いずれの書も、既存の硬直化したマルクス主義の批判と更新がそこでは目指されていた。たとえば、以下はノイズも引いている『アンチ・オイディプス』における加速主義的といえるセンテンスの例。 しかし、どのような革命の道があるというのか。それはひとつでも存在するのか。それは、サミール・アミンが第三世界の国々にすすめているように、世界市場から退いて、ファシスト的な「経済的解決」を奇妙にも復活させることなのか。そうではなく逆の方向に進むことなのか。すなわち市場の、脱コード化の、脱領土化の運動の方向にさらに遠くまで進むことなのか。というのも、おそらく、高度に分裂症的な流れの理論や実践からすれば、もろもろの流れはまだ十分に脱領土化してもいないし、脱コード化してもいないからである。過程から身を引くことではなくて、もっと先に進むこと。ニーチェがいっていたように、「過程を加速すること」。ほんとうは、このことについて私たちはまだ何も理解してはいないのだ。 (『アンチ・オイディプス』) ニック・ランドが以上のような『アンチ・オイディプス』のパッセージから霊感を受けて自身の90年代の思想──脱領土化と脱コード化を徹底することで近代、国家、そして民主政治をメルトダウンさせること──を紡ぎ上げてきたことは想像に難くない(実際、ランドも加速主義を解説したテキストの中で先の引用部を引いている)。 一方、ノイズがリオタールの『リビドー経済』から引いているとりわけ加速主義的なセンテンスは以下である。 イギリスの失業者たちは生存し続けるために労働者になったのではなく、彼らは──断固として己れを堅持せよ、そしてそのことで私に唾を吐け──何かよくわからないがヒステリー的、マゾヒズム的な消尽を享受(enjoy)したのであり、鉱山、鋳造所、仕事場、つまり地獄で耐え抜くことを享受し、確かに彼らに課せられていたところの、自分の有機的身体の気違いじみた破壊のなかで享受し、その破壊を享受したのであり、彼らはそうした破壊が自分に課せられていることを享受した。彼らは、自分たちの人格的同一性の、すなわち農民の伝統が彼らにつくり上げていた人格的同一性の崩壊を享受し、家族と村落の解体を享受し、郊外と朝晩のパブとの新しい怪物じみた匿名性を享受したのである。 (『リビドー経済』) リオタールは、労働者が彼らのコミュニティや身体から疎外されることで苦しんでいるといったヒューマニズム的な立場を採らない。むしろ反対に、工場労働における有機的身体の気違いじみた破壊、その狂乱的な解体の只中で彼らは疎外を「享楽(jouissance)」しているのだという。ここから、左翼的マルクス主義とは反対にむしろ疎外と死の欲動の徹底化こそがある種の「解放」に繫がる(「悪くなればなるほど、良くなる」)とする加速主義におけるニヒリスティックな宿命論とも呼ぶべき側面に繫がっていく。もっとも、リオタール自身は後年になって『リビドー経済』を「邪悪な書(evil book)」と呼んで自己批判(?)しているのだが。 なお、ノイズが挙げている三冊のうち、リオタール『リビドー経済』もボードリヤール『象徴交換と死』も共に英語圏ではイアン・ハミルトン・グラントが90年代に英訳を行っている。あの、思弁的実在論の主要プレイヤーの一人であり、またランドのいたウォーリック大学に在籍しCCRUにも参加していたイアン・ハミルトン・グラントである。グラントはシェリングの自然哲学の研究を通じて思弁的実在論を論じる哲学者として日本でも紹介が進みつつあるが、90年代に加速主義の文脈でも活動していたことは見逃されてはならないだろう。 補足として、加速主義の文脈でしばしば引用されるカール・マルクスの1848年の演説「自由貿易問題についての演説」についても触れておこう。マルクスはこの演説の中で、保護貿易制度を批判し、かわりに社会革命を促進させる自由貿易の破壊的な力を寿いでいる。ここにはすでに後のドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』を通じてニック・ランドに至る道筋が予言的に示されているかのようだ。加速主義はすでにマルクスの時点で胚胎していた。 しかし、一般的には、今日では保護貿易主義は保守的である。これにたいして自由貿易制度は破壊的である。それは古い民族性を解消し、ブルジョアジーとプロレタリアートのあいだの敵対関係を極限にまでおしすすめる。一言でいえば、通商の自由の制度は社会革命を促進する。この革命的な意義においてのみ、諸君、私は自由貿易に賛成するのである。 (「自由貿易問題についての演説」『マルクス゠エンゲルス全集』第4巻) ここに至って、資本主義の破壊と資本主義の促進は奇妙にも一致する。資本主義の自壊作用とは資本主義の本質そのものなのである、とすれば……? もうひとつ、マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で、資本主義を見習い魔法使いに喩えている。つまり、資本主義は自分で力を生み出しておきながら、その力をコントロールすることができない。たとえば周期的に訪れる経済恐慌は、資本主義が自分の力をうまくコントロールできないことの証明に他ならない。そして、マルクスをはじめとした左派思想家たちが革命のための「好機」を捉えるのもまたこの恐慌というタイミングなのだ。 マルクスに従えば、自由貿易の破壊的な力も恐慌も、そのまま革命の狼煙になりうるのだ。悪くなればなるほど、良くなる。いざ最悪の方へ……。 左派加速主義とマーク・フィッシャー 19世紀のマルクスとニーチェ、1970年代のドゥルーズ&ガタリ、そして90年代のニック・ランドとCCRU、決して短くない年月をかけて継承/発展してきた加速主義は2010年代現在、さまざまな分派を形成するに至っている。大まかにまとめれば現在の加速主義は、左派加速主義(Left accelerationism:L/acc)、右派加速主義(Right accelerationism:R/acc)、無条件的加速主義(Unconditional accelerationism:U/acc)の三つに区分できる。 左派加速主義の代表的な論者がニック・スルニチェク(Nick Srnicek)である。スルニチェクは2013年にアレックス・ウィリアムズ(Alex Williams)との連名で「加速派政治宣言(Manifesto for an Accelerationist Politics)」と題した文章をオンライン上に発表した。そこで述べられていることとはすなわち、資本主義/新自由主義に代わるオルタナティブなスキームの模索、そしてそのためにこそテクノロジーの促進と新たな社会技術的プラットフォームの構築が不可欠である、というものである。 スルニチェクらは2011年のオキュパイ運動に象徴されるローカルな政治的直接行動を素朴政治(フォーク・ポリティクス)と呼んで批判する。それに対して、彼らは「抽象化・複雑性・グローバル性・技術からなる近代性にしがらみなく向き合う」加速主義政治を提唱する。 スルニチェクらはニック・ランド流の黙示録的な加速主義からも距離を取る。スルニチェクらは「加速派政治宣言」の中で、ランドは速度(スピード)と加速(アクセラレイション)を混同していると批判する。脳死状態におけるスピード狂的突進ではなく、操縦可能な加速こそが重要なのだ。左派加速主義が誕生するひとつのきっかけとなったのは前述した2010年のシンポジウムであった。そこでのニック・ランド的加速主義の批判的検討が、新たな形の加速主義を要請した。 スルニチェクらは、資本のコントロール不能な速度をただ盲目的に礼賛するのではなく、資本主義のプロセスと「加速」のモーターとしてのテクノロジーを厳密に区別した上で、テクノロジーの可能性を未来に向けて解き放つべきであると説く。現在のテクノロジーはネオリベラル資本主義のもとで生産性極大化のために使役化されている。私たちはテクノロジーが何を成しうるのかをまだ知らない。だから、私たちはテクノロジーを来るべきポスト資本主義に向けて「転用」しなければならないのだ。それは、やがて到来すべきポスト資本主義のあり方を規定する。重要なのは、テクノロジーの発展を明確なビジョンのもとコントロール可能な形で加速させることであり、そのためにこそ新たな「政治」が必要となるのだ。 スルニチェクとウィリアムズは2015年に上梓した『未来を発明する:ポスト資本主義と労働なき世界(Inventing the Future: Postcapitalism and a World Without Work)』(未邦訳)の中で、来るポスト希少性経済(Post-scarcity economy)に向けて、製造の全的オートメーション、それに伴う労働時間の漸進的削減、市民に一定の収入を無条件に支給するベーシックインカム制度の導入などを提唱している。 さて、スルニチェクらに代表される左派加速主義を語る上で避けて通れない思想家がいる。それはマーク・フィッシャーである。フィッシャーは前章でも触れたが、90年代にランドのCCRUに所属していた。だが、フィッシャーはCCRUの問題意識やテーマ(とりわけハイパースティションという再帰的な自己予言性について)を共有しながらも、左派的な立場から一貫して新たなコミュニズムの可能性を探っていた。2003年にはブログ「k-punk」を開始。音楽、映画、政治、社会思想、自身の鬱病など、広範なテーマを扱ったフィッシャーのブログ記事は幅広い読者を得た。サイモン・レイノルズは「k-punk」ブログを「イギリスに存在する大半の雑誌よりも優れたワンマン・マガジン」と賞賛している。 そんなフィッシャーの代表作とも言える著作が2008年の『資本主義リアリズム』である。そこでフィッシャーは、資本主義に代わるオルタナティブな社会を想像することすらできない現在の閉塞した社会状況を「資本主義リアリズム」と呼んでいる。フィッシャーは哲学者スラヴォイ・ジジェクのものとされる「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」というフレーズを引いているが、それはまさしく現在支配的になりつつある、来るべき社会を一足先に飛び越えて世界の終末やコズミック・ホラーに直結してしまうピーター・ティールやニック・ランドに象徴されるポスト・ヒューマンな想像力を正確に言い当てている。 フィッシャーが資本主義リアリズムの例として挙げているのがメンタルヘルスの問題の蔓延である。たとえば鬱病などは個人の脳気質的な問題に還元されてしまい、周囲の労働環境や社会構造は考慮されない。そこでの精神の病はどこまでも個人の問題、つまり自己責任という新自由主義的な倫理に回収されてしまい、それが翻ってメランコリーをさらに深刻化させる。こうした資本主義リアリズムが支配化した社会に見られるストレスと無力感の悪循環──この事態に対して為す術がないという諦め──をフィッシャーは「再帰的無能感」と名付けている。だが、これらメンタルヘルス問題とメランコリーの蔓延は、資本主義が唯一機能しうる社会制度であるというよりも、それが本質的に機能不全であることを指し示している。 しかし資本主義の問題は、それが機能不全でありながらも現実に機能してしまう点にこそある。資本主義の倫理と速度に適応できない人間は鬱病やADHD(注意欠陥・多動性障害)などの診断を与えられ、薬物によって半強制的に社会に組み込まれる。Netflix の『テイク・ユア・ピル:スマートドラッグの真実』というドキュメンタリーでは、アメリカの大学キャンパス内でADHD薬のアデロールが蔓延しているというエピソードが取り上げられている。ADHD薬には集中力を増す効果、眠気を覚ます効果などがある。学生たちはアデロールを服用することで、授業と試験と交友と競争からなる忙しいキャンパスライフをサヴァイヴしているのだ。ところで、アデロールはアンフェタミンと類似した化学構造を持つ中枢神経刺激薬である。あのニック・ランドが常用していたというアンフェタミンである(そしてアンフェタミンはイギリスのレイヴ・カルチャーにおいて重要な役割を果たしたパーティードラッグMDMAと類似した化学構造を持っている)。 アメリカでは落ち着かない注意散漫傾向の子どもに対してこうしたADHD薬が処方されているケースが多いという。しかし、子どもたちはアデロールを摂取することで落ち着きを取り戻すわけではない。そうではなく、何かひとつのこと以外考えられない過集中の状態に陥るのである。だがこのことは、たとえば授業を集中して聞く、あるいはひとつのタスクに集中して取り組むといったこととは相性がいい。注意や集中力を特定の事柄に半強制的に方向づけること、それは資本主義リアリズムが要請する生産性の極大化のイデオロギー=労働倫理とやすやす合致する。 だから、その意味では加速主義者だけではなく私たち全員が等しく資本主義リアリズムのもとで加速している、あるいは加速させられている、と言える。資本主義社会の加速度的スピードについていけない人間は弱肉強食の倫理のもとで切り捨てられる。私たちはこうした状況のもとで、資本主義リアリズムを批判し乗り越えるオルタナティブを模索しなければならない。 しかし、マーク・フィッシャーは自身もまた鬱病と格闘しながら2017年にみずから命を断った。彼も資本主義リアリズムのもとで生き、思索し、そして深く絶望していた。その絶望の深さこそが、「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」という資本主義リアリズムの出口のなさを再帰的に証明することになった。 フィッシャーともCCRUを通じて親交のあったロビン・マッケイは英紙『ガーディアン』の記事の中で、「加速主義は悲観主義に抗するマシンです」と記者のインタビューに答えている。「未到の可能性を考察することで、現在についての陰鬱な気分を和らげることができるのです」。マッケイ自身も鬱状態の時期を経験していたという。その意味では、加速主義もまた資本主義リアリズムのもとで生きるための抗鬱剤の一種と捉えることもできるかもしれない。加速主義、それは未来のユートピアをもはや純粋に信じることができない現代の私たちのためのユートピア思想なのだ。 20世紀は未だに共産主義という明確なオルタナティブのビジョンが存在していた。しかし、ベルリンの壁崩壊以降、すなわち共産主義の崩壊以降、政治学者のフランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を宣言し、共産主義の最終的破算と新自由主義のグローバルな勝利を確約して以降、私たちは有り得べき未来の可能性を失った。もはや「大きな物語」はありえず、未来は「歴史の終わり」の只中で宙吊りにされ、世界を覆い尽くした資本の際限のない自己運動のうちに溶解していく。一方で、中国は鄧小平に端を発する改革開放政策のもと、市場経済体制への移行を急ピッチで進め資本主義大国の一員に加わろうとしていた。ニック・ランドとCCRUがこうした冷戦終了後の90年代に現れたのはその意味で示唆的である。歴史の終わりの中で、共産主義とは別の形で未来を思考するとはどのようなことなのか。加速主義は資本主義リアリズムのヘゲモニーが確定した時代、言い換えれば共産主義が不可能になった時代における最初のユートピア思想なのである。 右派加速主義、無条件的加速主義 マーク・フィッシャー、そしてフィッシャーからも多大な影響を受けた形で展開されたスルニチェクらの左派加速主義は主に英語圏のブログ界隈でプレゼンスを高めていった。だが、フィッシャーの自殺とともに、左派加速主義は思想的にも死んだとする言説が一部のブロガーによって唱えられるようになった。彼らは左派加速主義とは異なる加速主義を奉じる論者たちであり、それらは右派加速主義、あるいは無条件的加速主義と呼ばれている。彼らがとりわけ参照し重んじる思想家はもちろんニック・ランドである。 ニック・ランドは左派加速主義のムーブメントに対して明確に批判的である。左派加速主義は経済とテクノロジーを切り離して取り扱うことが可能だと考えている。だがランドによれば両者は一体のものであり、市場化の加速なしにテクノロジーを加速させることは不可能であるという。ランドは「テコノミック(technomic)」なる合成語を挙げながら、「加速はテコノミックな時間である」と書きつける。そして次のような結論を述べる。「加速主義とは資本主義の自己認識に他ならない。そしてそれは未だほとんど始まっていない」(「A Quick-and-Dirty IIntroduction to Accelerationism」)。 ランドの加速主義はサイバネティクスから多くの着想を得ている。よく知られているように、サイバネティクスは第二次大戦後にノーバート・ウィーナー(Norbert Wiener)によって提唱された、動物と機械における制御と通信についての理論だ。背景には世界大戦を通じてミサイルの弾道計算などの分野で生じていた計算機科学の飛躍的発展がある。 サイバネティクスの核となるのがフィードバックという概念である。ウィーナーの定義に従えば、フィードバックとは過去の実行結果によって未来の動作を調節できるという性質である。たとえばエアコンにおける温度の自動調節機能、あるいは人間における体温の調節機能もこれに含まれる。これらシステムを安定的な状態に保つ目的で行われるフィードバックを「ネガティブ・フィードバック」と呼ぶ。 反対に、ランドはそれと対となる「ポジティブ・フィードバック」に着目する。ポジティブ・フィードバックにおいては、要因と要因が互いに影響しあい、変化の度合いが加算的に大きくなっていく。つまり安定や平衡のプロセスの逆、加速とカオスのプロセスである。この非安定平衡は第三章で触れたようにドゥルーズ&ガタリのタームにおける「脱領土化」に対応している。そして、この自己言及的なポジティブ・フィードバック回路から成る閉じた系こそが資本主義の本質であるとランドは考えた。よって、この自動化された、さながら惑星規模の人工知能のようなフィードバック回路はどこまでも人間の外部に位置する。あるいは人間はその回路におけるひとつの要素に過ぎなくなる。フィードバックのプロセスには(人間が計測できる)意味も目的も大義も存在しない。プロセスの目的とはプロセスそれ自体である。 たとえばマルクスならこの資本のフィードバック・ループは人民の連帯──すなわち共産主義の到来──によってコントロール可能であるというだろう。だが、90年代以降共産主義の理念は不可能になった。ランドは資本蓄積の無目的かつニヒリスティックな累積的加速のみが現在の閉塞を打破することができると考えた。この点については当然のごとく様々な論者から批判が上がっている。 もっとも、現在のランドは90年代と微妙に思想的立ち位置を変えている。2017年のインタビュー記事(「’The Only Thing I Would Impose is Fragmentation’ – An Interview with Nick Land」)の中で、ランドはスキゾフレニックな社会的カオスに耽溺する若者たちをたしなめるような発言をしている。社会の崩壊的無秩序は反動を生み出すだけであり、それは持続的な加速にとってブレーキになる、と。ランドは言う。「私がこれら現在の狂乱的な若者たちに言いたいのは、あなたたちはプログラムを持っていないということです」。 これはインタビュアーも指摘しているように、「メルトダウン」の中で「メルトダウンはスキゾフレニックなHIV+トランスセクシャルの中国系ラティーノで覚せい剤中毒のロサンゼルス売春婦のための場所を用意する」と書きつけた90年代のランドからはだいぶ距離を感じる。事実、上海のメトロポリスにテクノ資本主義の勝利を見て取ったランドは、ヤーヴィンの新反動主義に「プログラム」を見出したのだった。 現在におけるネオリベラル寄りのランド──右派加速主義に対して、近年ツイッターやブログ界隈のコミュニティを中心に勃興してきた一派が無条件的加速主義である。政治理論家ヴィンセント・ガートン(Vincent Garton)が投稿した2017年のブログ記事を発端とし、実践なき実践──反実践(antipraxis)を合言葉に掲げる無条件的加速主義は、90年代のニック・ランドとCCRUへのより忠実な回帰を目指している。左派加速主義に対する反動として出てきた無条件的加速主義は、一方で新反動主義のコミュニティとも近い場所にいるなど、その思想的位置は危うく、複雑なものを含んでいる。 以上に見てきたように、加速主義は様々な派閥が入り乱れているが、すべてに通奏低音として共通するのは、共産主義や人間といった価値観が失効したポスト冷戦/ポスト・ヒューマンの時代におけるオルタナティブな社会の模索である。 他方で、ベンジャミン・ノイズはランド的加速主義を「大学院生の病」と総括している。これから厳しい就職戦線に放り出され、そして死ぬまで労働の奴隷となる運命の大学院生たちに、加速主義は一種のイデオロギー的ストックホルム症候群を与える。つまり、終わりなき資本主義のホラーを、疎外と消尽の享楽へと変容させるのである。これは、マッケイの「加速主義は鬱病に効く」とは一見真逆のようでいて近い立場といえる。 とはいえ、今後AIの興隆やテクノロジーの発展が、労働のあり方や社会のあり方に対して根本的な価値観の変更を迫るであろうことは避けがたい。加速主義が提示するオルタナティブは今後もさらに注目されるだろう。 トランスヒューマニズムと機械との合一 人間の機械への変容、そして最終的に機械と一体となること。トランスヒューマニズムの思想は加速主義者をも魅了している。テクノロジーは自然の限界を乗り越える。たとえばプロメテウス主義を唱えるレイ・ブラシエは、テクノロジーを用いることで身体の境界を再画定しようと試みている。プロメテウスとはギリシア神話における男神で、ゼウスから火を奪い人間に与えた罪で罰せられた。ここで火とはテクノロジーと文明を象徴している。 もちろん、こうした考え方は以前から存在した。マルクスは産業のオートメーション化に伴い、機械が単なる労働者の補助具としてではなく、むしろ労働者が機械の補助物になっていくという情況を描き出した。労働者が機械に命を吹き込むのではなく、機械が労働者に命を吹き込むという、主従の逆転。マルクスはこうした労働者が機械の器官の一部に組み込まれるという情況を資本主義下における疎外のプロセスとして批判した。 しかし、ノーバート・ウィーナーのサイバネティクスの誕生以降、「頭脳とは思考するマシンである」といった、人間とマシンをアナロジー関係のもとで捉える発想が人々を魅了していく。1965年にはD・S・ハラシー(D.S. Halacy)による最初のサイボーグ宣言と呼べる書物『サイボーグ:超人の進化(Cyborg: Evolution of the Superman)』が出版されている。副題が示唆しているとおり、人間と機械の融合はニーチェ的な超人を誕生させるという楽観的希望がこの書には込められていた。 また、同じ年にはI・J・グッド(I. J. Good)が「最初の超知能マシンに関する思弁」と題した論文の中で、いずれ来る人間の知能を超えたマシンの誕生を「知能爆発」と名付けている。そして、このグッドの著述を読んで感化されたSF作家ヴァーナー・ヴィンジ(Vernor Vinge)は、この人類史における特異的な瞬間をブラックホールの比喩を用いながら「シンギュラリティ」と呼んだのだった。 1960年代にこれら関連する一連の思想が発展してきた背景にはサイバネティクスの他にも複数の要因がある。ひとつは冷戦で、アメリカは生産力でソ連を追い抜くためにテクノロジーの発達と産業のオートメーション化が要請されていた。もうひとつはムーアの法則に象徴される、半導体産業に対する楽観的予測である。ムーアの法則とは、インテルの創業者の一人ゴードン・ムーア(Gordon Moore)がやはり1965年に発表した論文の中で示された予測で、ひとつのチップに埋め込まれるトランジスタの数は約18ヶ月ごとに倍増するという法則である。当初、この法則はあくまで予測にすぎなかったが、その後この予測はハイパースティションさながらに現実化し、近年になるとさすがに下方修正を加えられるも概ねムーアの法則通りに半導体産業は発展してきた。 未来学者のレイ・カーツワイルは、このムーアの法則をもとにシンギュラリティは2045年に訪れるとぶち上げている。そしてまた、マシンが人間を超克するのと同時に、人間もまた有機物としての身体を捨ててマシンと一体化することが最善の選択肢となる。マシンとしての生。シンギュラリティのイデオローグであるカーツワイルは、一方でマインド・アップローディングの支持者としても知られる。すなわち、人間の脳をコンピュータ上でエミュレーションすることで、拡張された認知能力と寿命──もっと言えば不死──を得ることが約束されるのだ。 マインド・アップローディングは、脳をマシン上にコピーする全脳エミュレーションという技術的思弁が土台にある。マレー・シャナハン(Murray Shanahan)『シンギュラリティ』によれば、全脳エミュレーションの作業は、マッピング、シミュレーション、身体化という三段階から成る。 マッピングのプロセスでは、被験者の少なくとも前脳のすべてがマップ化される必要がある。とりわけ、各ニューロンや各シナプスの位置と性質、つまり各軸索と各樹状突起とのあらゆる接続の記録とともに取得することで、コネクトーム(神経回路地図)と呼ばれる特定の脳の精巧な青写真を作成する。 第二段階では、この地図を用いてニューロンとその接続の電気化学的シミュレーションを計算によってリアルタイムに構築する。しかし、シミュレーションの時点では未だ身体化されていない計算装置にすぎない。よって、このシミュレーションを人工的な外部環境と接続することで、体外的な行動が可能なエミュレーションが完成する。 もちろん、課題は多い。たとえば人間の脳はニューロン数が800億、シナプスの数に至っては数十兆に達する。これだけの量をマッピングするとなると膨大な計算処理能力を必要とする。たとえムーアの法則をもってしても絶望的なスケールだ。全脳エミュレーションの実現には、バイオテクノロジーやナノテクノロジーの分野における飛躍的なブレイクスルー──たとえば脳の血管網の中を自由に泳ぎ回りニューロンの膜の電位変化や発火現象の情報を検知するナノロボットの開発など──が求められている。 加速主義とロシア宇宙主義 過去に存在した加速主義と近い思想動向はさまざま挙げることができるだろう。たとえば20世紀初頭のイタリア未来派。絵画、彫刻、詩、音楽、建築など多様な分野にまたがって展開されたこの芸術運動は、スピードと流動性と大衆とテクノロジーの強度を芸術に持ち込んだ。この時代、モールスやベルやエジソンは通信に関わる新しい手段を発明し、グローバルなネットワークが人間存在のあり方を決定的に変えようとしていた。未来派のリーダーといえる詩人マリネッティは、1913年の宣言『統辞法の破壊──解き放たれた想像力──自由な状態にある語』の中で次のように述べている。 未来主義は、科学の偉大な発見によってもたらされた人間の感性の完全な刷新にもとづいている。今日、電報、電話、蓄音器、汽車、自転車、オートバイ、自動車、大西洋横断汽船、飛行船、飛行機、映画、大新聞(世界の生活の一日の総合)を利用している人々は、これらの多様な通信・輸送手段や情報が、精神にもたらす決定的な影響力にいまだ気づいていない。 (キャロライン・ティズダル+アンジェロ・ボッツォーラ『未来派』より孫引き) だが他方で、未来派は第一次世界大戦の狂乱のさなか、「戦争──世界で唯一の健康法」というスローガンを掲げて戦争を歓迎した。彼らにとって戦争は閉塞した古臭い過去を一掃する絶好の好機として映ったのだった。以降、未来派はムッソリーニのファシスト党へ接近していくことになる。 加速主義との親近性を感じさせるのは未来派だけではない。ロシアに、未来派と同じく20世紀初頭に現れた特異な思想が存在した。アーバノミックの加速主義アンソロジー『#Accelerate: The Accelerationist Reader』には、マルクスから始まり、ドゥルーズ&ガタリ、リオタール、ニック・ランド、マーク・フィッシャー、ニック・スルニチェク、イアン・ハミルトン・グラント、レイ・ブラシエなど、多様な論者のテキストが収められているが、その中でニコライ・フョードロフの名前はひときわ異彩を放っている。 ニコライ・フョードロフは19世紀後半に活躍したロシア宇宙主義を代表する哲学者。彼の哲学によれば、発展していく科学技術は、外界たる世界だけでなく、やがて自分の器官そのものにも向けられる必要があるという。つまり、自分の器官を統御し、発達させ、根底から変容させるべきなのだ。人間はやがて空を飛べるようにならなければならないし、水中で生活できるようにならなければならない。しかし、それだけではない。「人間がもっとも元素的な物質、すなわち原子や分子から、自分自身を復元できるようになってはじめて、天上の空間のすべてが、天上の世界すべてが、人間のものとなる」。 フョードロフの黙示録的ビジョン、それはすべての人間の不死化、そしてかつて死んでいったすべての先祖の(物理的)復活(!)である。ナノテクノロジー/バイオテクノロジーと全人民の労働を結集させることで、死んだ者たちの遺骸の分散した粒子を集め、それを組み合わせて肉体を復元させるという壮大なプロジェクト。進化の果てに、人類は文字通り「神」にも似た存在、「神人」になる。ロシア宇宙主義のもう一人の代表的な論者ソロヴィヨフは、神人性を獲得した全人類と全自然とがひとつの有機体となったとき、地球は「ソフィア」と呼ばれる完全な調和と統一に満ちた霊的/精神的な空間と化すと主張する。 ちなみに、フョードロフが目指す人間の「復活」には現代科学のクローニングとも似た関心が見られる。フョードロフは、人類全体の遺伝コードを解明することで、血縁における全系列──子があたかも「自分のなかから」生み出すように父を復活させ、さらに父がその父を復活させていき……──を復元することが可能だと考えていた。 かくして、地上は復活した死者たちで満ちるだろう。しかし、ここにまた新たな問題が浮上する。復活させられた幾多の世代の何十億もの人々、その地上に溢れた父たちを住まわせてやる空間を確保しなければならないのだ。そこで、論理的必然性として要請されるフロンティアが宇宙である。宇宙、それは父たちの「天の住まい」だ。 それだけではない。フョードロフによれば、地球とそれを含む太陽系は、遠くないうちに老朽化し、終焉を迎えるだろうという(人口の増加に伴う地球の資源の枯渇、燃え尽きる太陽、等々)。人類は新たな住処のためにさらに遠くの宇宙へと、「天上」へと出帆していかなければならない。 ロシアの科学者ヴェルナツキイは「精神圏」という概念を打ち立てている。「精神圏」とは、「地質圏(非生命的物質)」と「生物圏(生命学的生)」についで現れる、地球の進化の第三段階であるとされる。ヴェルナツキイに従えば、人間はその理性によって発展と進化を遂げ、さらに科学によって自然への直接介入を遂げることで、「生物圏」そのものを作り変え、変容させていく。やがて科学と理性によって統御された地球は精神的な磁場のようなものを形成していき、「生物圏」そのものがひとつの霊的な状態に近づいていく。この霊的なプロセスの行き着く先に「精神圏」が立ち現れる。見方を変えれば、これはひとつのシンギュラリティ理論とも言える。 このヴェルナツキイの発想には、被造宇宙の内に神的なエネルギーを見て取る傾向と、能動的に世界の変容を目指そうとする傾向、すなわち「世界の終わりには人間の創造的な行為も関与している」という、ロシア正教の神秘主義にルーツを持つ能動的/創造的終末論の精神が見られる。そこに当時の進化論が加わり、能動進化という理念、すなわち世界を理性にしたがって変容進化させていくため、人間は新たな意識の発展段階が必要になるという理念と、それに伴う一群の思想潮流が形作られていく。それがロシア宇宙主義である。 ところで、前述したフョードロフにおける宇宙空間へのフロンティア志向は、ソ連時代にコンスタンチン・ツィオルコフスキーによって現実化される。 宇宙時代の幕開けは、1957年にソ連が打ち上げた人工衛星スプートニクによってもたらされたが、それはツィオルコフスキーが定式化したロケット理論という土台があってはじめて可能になった。ツィオルコフスキーは独学時代、ルミャンツェフ博物館付属図書館に毎日通い詰めており、当時そこの司書を務めていたのがフョードロフだった。ツィオルコフスキーは、フョードロフから数々の教えと影響を受けており、ロシア宇宙主義の精神はその際に彼から受け継がれた。 この宇宙へのフロンティア志向は、奇妙なことに現在のシリコンバレーに受け継がれている。たとえば、第一章でも触れたイーロン・マスクの「火星移住計画」。人類は地球とともに近いうちに絶滅する運命にある。これを避けるためには、人類は宇宙に脱出し多惑星種になる他ない。その足がかりとなるのが火星移住なのであった。 ロシア宇宙主義、このボルシェビキのボグダーノフにも密かに影響を与えたとされる思想的地下水脈は、一方ではテイヤール・ド・シャルダンを経由して60年代におけるマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)の「地球村(Global village)」のビジョンに流れ込み、現代のシリコンバレー界隈にも霊感を与えている。 ロコのバジリスクと『マトリックス』 シリコンバレーがロシア宇宙主義から受け継いだのは、もちろん宇宙への憧憬だけではない。トランスヒューマニズムとシンギュラリティへのオブセッションは、シリコンバレーを亡霊のように徘徊している。 AIリサーチャーのエリーザー・ユドコウスキーは、非営利団体・機械知能研究所(MIRI)の設立者として、シンギュラリティ以後の人工知能のあり方について議論を重ねてきた。彼の名前はすでに第一章において、ピーター・ティールの主要な出資先の一人として登場していた。そんな彼が2009年に立ち上げたフォーラム兼コミュニティブログが「LessWrong」だ。 「LessWrong」のテーマは、「合理性への希求」。いかにして、人間に取り憑く認知的なバイアスや感情などの不合理性を克服し、真に合理的な意思決定を獲得できるか。言い換えれば、意思決定から人間的な要素を取り除いて、代わりに抽象的で幾何学的な思考プロセス(まさしくAIのような)を顕揚する。そこではたとえば、ベイズ確率を意思決定理論に応用する議論が盛んに行われるなどしていた。 「LessWrong」のメンバーは、ユドコウスキーの思想や関心領域を多かれ少なかれ共有している。AI(人工知能)、シンギュラリティ、トランスヒューマニズム、人体冷凍保存、功利主義、等々。しばしば「LessWrong」はユドコウスキーを取り巻く「カルト」と形容される。 ユドコウスキーは、多くのシンギュラリティストと同じく、シンギュラリティ以降の社会では、人間は物質の肉体が朽ちた後も、友好的な知性を備えたスーパーコンピュータに意識のコピーをアップロード(マインド・アップローディング)することで文字通り不死になると信じていた。ここに至り、トランスヒューマン(身体の超越)とポスト・ヒューマン(人間の終焉)とシンギュラリティ(AIの知能爆発)はひとつに交わる。つまり、人間は消滅するが、コンピュータに意識をアップロードすることで逆説的に永遠の生を得る、というシナリオである。 しかし、あるときロコ(Roko)という名前のユーザーが「LessWrong」に投稿したひとつの奇想をきっかけに、ユドコウスキーのユートピア的未来像は一転して黙示録的なコズミック・ホラーに転化する。以下の「ロコのバジリスク」については拙著『ダークウェブ・アンダーグラウンド』でも取り上げたので簡潔に記すが、要するにAIが人類にとって必ずしも友好とは限らない──むしろAIが自身の利害を合理的に追求した結果、人類にとって耐えがたい悪夢が現出するのではないか、という一種の思考実験である。すなわち、現在AIの発展に寄与しない人間は、シンギュラリティ以後のとある未来において、マシンにアップロードされた自身のコピーが半永久的に拷問されるのではないか。このホラー的思弁に思い至った瞬間、その人間はAIの寄与に現実的に駆り立てられることになるだろう。結果、この「ロコのバジリスク」のミームは一種のハイパースティションとして、つまり「現実化するフィクション」として機能し、サイバースペースをウィルスのように回遊することとなる。 SF作家ハーラン・エリスン(Harlan Ellison)の1967年の短編作品「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」には、人類を皆殺しにするAI──作中ではAMと呼ばれる──が登場する。このサディスティックなAIは、最後に残った五人の男女を自身のコンピュータの内部に閉じ込め、事実上不死の生命を与えた上で永遠に虐待し続ける。AIやロボットが人類に反旗を翻すという想像力は、それこそカレル・チャペックの戯曲『R.U.R.』以来普遍的に見られるものである。 中でも、近年の作品の中では1999年に第一シリーズが公開された、ウォシャウスキー兄弟による映画『マトリックス』シリーズは、AIの反乱、マインド・アップローディング、ギーク趣味、ポストモダン理論の援用など、SF的想像力を巧みにパッチワークしつつ商業的にも大きな成功を収めた重要な作品といえる。 グレン・イェフェス編『「マトリックス」完全分析(Taking the Red Pill: Science, Philosophy and the Religion in the Matrix)』という、『マトリックス』を科学、文学、哲学、政治学、宗教学などのさまざまな観点から論じた評論集がある。この論集には、シンギュラリティ関連の議論ではおなじみの論者が多く寄稿している。たとえば、前出のレイ・カーツワイルはもちろんのこと、AI脅威論で知られる哲学者ニック・ボストロム(Nick Bostrom)も寄稿者に名を連ねている。そこでのボストロムは自身のシミュレーション仮説をベースに、私たちはすでにマトリックスのような仮想現実世界の内部で生きている可能性が高いという議論を展開している(ちなみに、このボストロムのシミュレーション仮説の熱心な支持者の一人にイーロン・マスクがいる)。 他にも、身体を基盤とした利己的な遺伝子に対する反乱という観点からテクノロジーの革命性を顕揚するテキストを寄稿している経済学者ロビン・ハンソン(Robin Hanson)は、前章で取り上げたニック・ランドのホラー小説『Phyl-Undhu』に思想的ベースを与えた、あのグレートフィルター仮説の提唱者である。加えて、ロビン・ハンソンは前出のコミュニティブログ「LessWrong」の前身に当たるコミュニティブログ「Overcoming Bias」の設立者でもある。第二章で取り上げた新反動主義のカーティス・ヤーヴィンは、この「Overcoming Bias」での議論に参加する形で自身の言論活動をスタートさせた。以降、「LessWrong」時代になっても新反動主義はしばしばコミュニティ内で議論のトピックに挙げられるようになる。繰り返すように、新反動主義のゴッドファーザー、ピーター・ティールは「LessWrong」の設立者ユドコウスキーが運営するMIRIに多大な出資を行っていたのだった。 『「マトリックス」完全分析』は、他にも『マトリックス』におけるボードリヤールの援用を分析した文学者ディーノ・フェルーガとアンドリュー・ゴードン両者による論考が示唆に富んでいる。『マトリックス』がボードリヤールのポストモダニズム理論から着想のひとつを得ていることは比較的よく知られている。映画冒頭、主人公のネオが、本の中身がくり抜かれたボードリヤールの著作『シミュラークルとシミュレーション』からハッカー・プログラムを取り出すシーンが出てくる。さらに、映画本編ではカットされたセリフの中で、モーフィアスはネオに対して「おまえは夢の中で生きてきたのだ、ネオよ。ボードリヤールの洞察にあるとおり、おまえが人生を送ってきたのは、領土ではなく、地図の内部なのだ」と告げる。 ボードリヤールは『シミュラークルとシミュレーション』の冒頭で、小説家ボルヘスの寓話に言及しながら、地図とモデルに過度に依拠するポストモダン社会においては地図とモデルが現実に先行しており、今や現実自体がモデル──シミュラークル──を模倣しはじめる他ない、と論じている。ボードリヤールに従えば、私たちはモデルに先立つ現実世界との接触を完全に絶たれているのだ。 ボードリヤールが提示しているのは、単なる現実と人工(シミュラークル)からなる二項対立の世界モデルではない。記号や広告や商品など、後期資本主義における情報のオーバーフローによって現実は置き換えられた。現実の体験とシミュレーションを区別すること自体が不可能であり、また無意味であるような認識論的地平、すなわち現実性の完全な喪失をボードリヤールは論じているのである。 ところが、ボードリヤールとは異なり『マトリックス』はシミュラークルの世界──AIが管理統御する仮想現実──から脱出し「現実という砂漠」にアクセスすることが可能であるように描かれる。もちろん、モーフィアスが与えるレッドピルを飲むことによって、である。このレッドピルというガジェットの導入によって、『マトリックス』はシミュラークルの物語から真実/偽、または現実/虚構という古典的な二項対立の物語に転化する。 作中でモーフィアスはネオに青い錠剤と赤い錠剤、すなわちブルーピルとレッドピルを手渡す。ブルーピルを飲めば、何も知ることもなく、その代わりこれまでどおり平穏な生活を送ることができる。だがレッドピルを飲めば、もう後戻りはできない。この偽りの世界が見せる「夢」から目覚め、真実の世界──現実界──にアクセスしなければならない。 アンドリュー・ゴードンは、以上のような点から『マトリックス』はボードリヤールの理論に忠実ではなく、『シミュラークルとシミュレーション』の単純化ないしは空想化された観念を提示していると結論付けている。ボードリヤールならびにポストモダン主義者は、現実界への到達不可能性をこそ強調する。シミュレーションの背後には回復するべき現実の世界などもはや存在しない。現実は消滅した。同時に、そのような世界のシミュラークル化は私たち自身の欲望を反映した結果でもある。それに対して、『マトリックス』では私たちの外部に位置する超越的な支配者──AI──がそれを強制しているように描かれる。そして、そのような支配者が構築するイデオロギー的幻想としての仮想世界は、レッドピルによって覚醒した超人的な英雄──救世主──によって打破されるだろう。現実界、それは何としてでも取り戻されなければならない。 レッドピルというガジェットはかくも魅力的なメタファーとして機能する。同じく『「マトリックス」完全分析』に収録された経済学者ピーター・J・ベトケのテキスト「自由と赤いカプセル」では、ブルーピルを隷従、レッドピルを自由のメタファーとして解釈している。AIのもとで盲目的に生きる仮想世界は社会主義や福祉国家に比せられる。私たちは、そのような体制に抵抗し、自由で責任ある個人として選択を行っていかなければならない。それは道徳的な要請ですらあるという。 レッドピルのメタファーはこうした新自由主義的な自己啓発モデルに限定されない。たとえば、カーティス・ヤーヴィンは自身のブログを新規読者に紹介するための記事「A Gentle Introduction to Unqualified Reservations」の冒頭で、レッドピルのメタファーを用いながら読者の脳を「治療」することの意義について書いている。いわく、巷の書店には紛い物のレッドピル──着色料で赤く塗られただけのブルーピル──が多く出回っているが、このブログでは本物のレッドピルを提供する。それはDMT(幻覚剤の一種)のように読者の脳に作用するが、DMTがもたらす素晴らしい世界と異なり、レッドピルがもたらすのは醜悪な真実の世界である。本物のレッドピルはマスマーケットからは拒否される。というのも、それはゴルフボール大の大きさで、飲み込むのに困難と苦痛を覚えるからだ。だが、一旦レッドピルを飲み込んでしまえば、現代のリベラル民主主義に空気のようにまとわりついている幻想と欺瞞、すなわち〈カテドラル〉の体制が手に取るように見えるようになるのだという。もちろん、ヤーヴィンが手渡す「本物」のレッドピルは、真実の世界などではなくもうひとつのイデオロギー的な幻覚をもたらすにすぎないのだが(その意味ではDMTの比喩は正確である)。 私たちが普段生きている「偽の世界」と、その外部に隠された「リアルの世界」という『マトリックス』における二項対立、そしてその二つの世界を媒介するレッドピルというガジェットは、その構造上陰謀論的な思考法と親和性が高い。近年、レッドピルはミームとしてインターネット上を回遊しており、とりわけオルタナ右翼は、リベラル社会の欺瞞を告発するための符丁としてこのミームを多用している。たとえば、オルタナ右翼の一潮流とされるマノスフィア(男性圏)のコミュニティ名は Reddit 上でその名も「レッドピル」と命名されている。このあたりの動向についても拙著『ダークウェブ・アンダーグラウンド』で詳述したのでここでは割愛するが、『マトリックス』におけるボードリヤールの単純化と、虚構/現実という二元論化が現実界へのアクセスを倫理的態度として要請した結果、それが翻ってニーチェ的な英雄崇拝とオルタナ右翼の世界観へと近接していった、という軌跡は看過されてはならないだろう。 ヴェイパーウェイヴと加速主義 2012年、加速主義は一人の音楽評論家によって、当時インターネットで勃興しつつあったアンダーグラウンドな音楽と結びつけられる。その音楽とはヴェイパーウェイヴ(vaporwave)。イギリスの音楽評論家アダム・ハーパー(Adam Harper)は、2012年に音楽メディア Dummy Mag 上で発表されたエッセイ記事「ヴェイパーウェイヴとバーチャルプラザのポップアート」の中で、このハイパー資本主義のあり方を捉えた音楽と加速主義──とりわけニック・ランド──の親和性に着目している。 ハーパーの論旨に分け入る前に、ヴェイパーウェイヴについての基礎知識を確認しておこう。ヴェイパーウェイヴは2011年頃を境に音楽ダウンロード販売サイト Bandcamp やソーシャルメディア/掲示板サイト Reddit などを中心にオンライン上で活性化してきた音楽ジャンル。その音楽的特徴としては、ラウンジミュージック、スムースジャズ、エレベーターミュージック(デパートで流れる業務用BGM)といった80年代~90年代のムード音楽をサンプリング&加工(スクリュー、ループ、ピッチ変更)させたスタイルが第一に挙げられる。一言でいえば、80~90年代の商業BGMを実験音楽の手法で再構築したのがヴェイパーウェイヴといえよう。 同時に、ヴェイパーウェイヴはサウンド面だけでなくビジュアルイメージも重要な役割を担っている。一昔前の3Dグラフィックス、初期のインターネットやビデオゲームのイメージ、ニューエイジ、アニメ、ギリシア彫刻、直訳調の奇妙な日本語など、こうしたヴェイパーウェイヴで用いられる80年代~90年代のノスタルジックなイメージは「AESTHETIC(美学)」と呼ばれている。 ヴェイパーウェイヴはミラーボールが照らすフロアではなく、オンライン・アンダーグラウンドで生まれ、育っていった。それらの音源はレコードショップを経由することなく、ベッドルームの個人スタジオから直接 Bandcamp や SoundCloud を通じてネット空間へと伝播した。 ヴェイパーウェイヴにおける商業音楽の解体と再構築は、資本主義に対するアンビヴァレントな批評を含んでいる、とアダム・ハーパーは指摘する。 それは資本主義に対する批判なのか、それとも降伏なのか? どちらでもあり、どちらでもない。これらの音楽家たちを、モダンテクノ文化とその表象の欺瞞と凋落を暴き立てる皮肉な反‐資本主義者と解釈することもできるし、片や心地よいサウンドの新しい波に歓喜とともに打ち震えるモダンテクノ文化の自発的な促進者と解釈することもできるのだ。私たちは彼らの音楽に、昨今資本主義の哲学者の間で流通している特定の感情と実践を表現するために用いられたタームを当てはめることができるだろう。すなわち、加速主義である。 (「Comment: Vaporwave and the pop-art of the virtual plaza」) ハーパーは同じ記事の中で、アイロニーとして聴こうが、真に加速主義者のものとして聴こうが、どちらにせよこれらの音楽家たちの無政府資本主義的なポップ音楽はニック・ランドのビジョンのサウンドトラックのようなものだ、とまで述べている。 インタビューの中で「未来は恐れるものではなく拍手喝采するべきもの」と語り、みずから「楽観主義者」を自称するジェームス・フェラーロ(James Ferraro)は、とりわけ加速主義的なアーティストとみなすことができる。彼が2011年に発表した『Far Side Virtual』は、その後のヴェイパーウェイヴのスタイルにも影響を与えている最重要アルバムの一枚に数えられる。アルバムジャケットにはニューヨークを映したグーグルストリートビューの画像や iPad がコラージュされ、サウンド面に関してもムード音楽に Mac の起動音や Skype のデバイス音のサンプリングが重なるなど、非常にコンセプチュアルな仕上がりになっている。「バーチャルの向こう側」というボードリヤールを想起させるタイトルの通り、ハイパーリアリティ、大量消費文化、90年代のレトロフューチャリズムなどがテーマとして織り込まれている。 だが、フェラーロによる BEBETUNE$ と BODYGUARD という別名義プロジェクトは、そうした彼の加速主義的側面をさらに推し進めたものになっている。ヴェイパーウェイヴと異なりヒップホップやR&Bの要素をフィーチャーし、金属質なビートやオートチューンによるロボティックなボイスを加えたダークなサウンドを、ハーパーは「ストリートにとっての『Far Side Virtual』」と表現している。ハーパーはこれらのプロジェクトとその周辺の音楽スタイルをディストロイド(Distroid)と名付けた。 ハーパーによればディストロイドという言葉は、disturbing(不穏な)、dystopian(ディストピアの)、android(アンドロイド)、steroid(ステロイド剤)の各単語を組み合わせた造語である。「仮にヴェイパーウェイヴがバーチャルプラザのホールを彷徨い歩く、皺を寄せた顔に空虚な笑みを貼りつかせた日本の絶望したビジネスマンだとしたら、ディストロイドは私営の国際セキュリティ会社で働いている元兵士とボディビルダーだ。彼はモンスターエナジーのロゴが刻印された黒のTシャツをまとい、男らしく顔をしかめ、盛り上がる筋肉には剣と炎のタトゥーが彫られている」(「Comment: “Distroid” – the muscular music of hi-DEF doom」)。 ディストロイドはハイパー資本主義が垣間見せるポスト・ヒューマンな未来を示している。オートメーションによる無人化、ステロイドによるエンハンスメント(人間強化)、未来都市を徘徊する監視用ドローンとヒューマノイドロボット……。だが他方で、ディストロイドはそうした黙示録的なディストピアの破壊性を歓待しているようでもある。 ディストロイドはその後ヴェイパーウェイヴと異なり知名度を得ることはなかったが、ハードヴェイパー(Hardvapour)と呼ばれるヴェイパーウェイヴのサブジャンルの中にその系譜を見出すことができる。2015年にリリースされた HKE の Sandtimer 名義でのアルバム『Vaporwave Is Dead』は、硬質なテクノのビートとダークなシンセが特徴な、明確にヴェイパーウェイヴに対するアンチを突きつけている作品だ。ハードヴェイパーは、ヴェイパーウェイヴにあった80年代への架空のノスタルジーを未来のディストピア的悪夢へと反転させる。 やはり HKE の別名義にあたる THE DARKEST FUTURE の『FLORAL SHOPPE 2』は、アメリカの音楽家 Vektroid によるヴェイパーウェイヴの金字塔といえる作品『FLORAL SHOPPE』の悪意に満ちたパロディであると同時に、ある意味でヴェイパーウェイヴのひとつの極北といえる作品だ。資本主義に対する批判的アイロニーの極点、それは端的に世界の終末──アーティスト名が表しているように「もっともダークな未来」──を提示することであり、そのためにはヴェイパーウェイヴそれ自体を破壊することすら厭わない。 ヴェイパーウェイヴを加速主義という観点から捉えるのであれば、それは概ね二つの方向性に分けることができると思われる。ひとつは、ジェームス・フェラーロからディストロイドを経由してハードヴェイパーへと繫がっていくライン、すなわち加速する資本主義の果てにあるディストピアを幻視する方向性。もうひとつは、そうした破壊的な加速のプロセスから零れ落ちていくもの、すなわちノスタルジーの感覚に焦点を合わせる方向性。ヴェイパーウェイヴのメインストリームとなったのは主に後者の方である。 ヴェイパーウェイヴと亡霊性 それにしても、ヴェイパーウェイヴという言葉はどこから出てきたのか。前出のハーパーの記事によれば、この言葉のオリジネーターは INTERNET CLUB 名義で活動するロビン・バーネット(Robin Burnett)のようだ。英語にはもともと “vaporware” という言葉がある。テック系の企業が発売を公表していたのにもかかわらず結局日の目を見ることがなかったソフトウェアやハードウェアに対して使われる言葉だ。しかし中には、ライバル企業を出し抜くために、意図的に発売するつもりのない商品を発売予定ということにしておくケースもあるという。それは後期資本主義における広告戦略から生まれた、最初から存在しない煙のような商品なのだ。ロビン・バーネットはヴェイパーウェイヴについて次のようにコメントしている。「このジャンルの音楽は、霧に包まれた場所を思い起こさせます。そこではすべてが曖昧で不確かなのです」。そしてこう付け加える。「その基底にあるのは不確かさ、ときには恐怖です」。 ヴェイパーウェイヴに特徴的なスクリューによるピッチダウンは、しばしばホラー映画のサウンドトラックのような印象を抱かせる。往年のポップスの歌声が、レコードの狭間から幻聴のように響いてくる亡霊たちの声に変容する。 ヴェイパーウェイヴはその語源からもうかがえるように、ある種の亡霊性に取り憑かれている。そのことはヴェイパーウェイヴがこれまでに幾度も死亡宣告されてきたという事実にも表れている。2013年には早くも「ヴェイパーウェイヴは死んだ」という言説がコミュニティ内から現れるようになる。Metallic Ghosts 名義で活動するチャズ・アレン(Chaz Allen)は、2013年の『シカゴ・リーダー』の記事の中で、アダム・ハーパーの記事がヴェイパーウェイヴを殺すことに加担した、と述べている。ハーパーの記事はヴェイパーウェイヴの知名度を飛躍的に上げることに貢献したが反面、既存の閉鎖的なヴェイパーウェイヴ・コミュニティの内部からは反発もかなりあったようだ。 さらに近年になると、メジャーなアーティストや大企業がヴェイパーウェイヴの美学を取り入れるケースも出てくる。たとえば2015年には、MTVがヴェイパーウェイヴ風のグラフィックを全面的に取り入れて話題になった。2018年に配信開始した『スプラトゥーン2』のダウンロードコンテンツ「オクト・エキスパンション」もまたヴェイパーウェイヴの意匠を大胆に取り入れたものだった。こうしたメインストリームによるヴェイパーウェイヴの取り込みがなされるたびに、ヴェイパーウェイヴは死を宣告され、殺害者の告発が行われた。 しかし、ヴェイパーウェイヴは何度死んでも、結局死に切ることはなく、現在に至るまで無数のサブジャンルを生み出しながらネットの海を漂っている。それというのも、ヴェイパーウェイヴは見てきたようにもともと亡霊的な音楽だからである。ある意味で、それは最初から死んでいたのだ。ヴェイパーウェイヴは亡霊として生まれ、亡霊として拡散した。そして、それは今もインターネットに憑依している。 ジャック・デリダは1993年の『マルクスの亡霊たち』の中で、憑在論(hauntology)を提唱している。憑依(haunt)と存在論(ontology)の合成語であるこのタームは、生者と死者、現前と不在の間にあるものを指し示している。デリダが亡霊として第一に挙げるのはマルクス主義である。20世紀の終わり、ソ連の崩壊とともにマルクスの亡霊は新自由主義の名のもとに祓いのけられたように見える。だがデリダに従えば、マルクスの亡霊は今もヨーロッパを漂い続けている。ならば、その遺産をどう引き継ぐべきなのか。 亡霊、それは時間的な側面から見るならば、根本的にアナクロニズム(時間の錯綜)の性格を備えている。『ハムレット』の台詞にあるように、「時間の蝶番が外れてしまっている」のだ。フロイトは抑圧されたものの回帰として「不気味なもの」を論じたが、亡霊も常に現在に回帰してくるという点でデリダが「反復可能性」と呼ぶ位相に位置している。 ヴェイパーウェイヴが単なるノスタルジーへの還元を拒むとすれば、それはこの亡霊性に起因するだろう。過去から回帰した音が現在に取り憑くとき、そこに不気味なものとしての異化された文脈──亡霊性が宿る。ハーパーはヴェイパーウェイヴに「浅薄で捨て去られるようなガラクタを、ときに神聖もしくは神秘的な何かに変容させる不気味な傾向性」を認めている。同様に、Vektroid も「不気味の谷」効果に言及しながら、制作過程において音から馴染み深さを剝ぎ取ることに注力したことを語っている。「馴染み深さを剝ぎ取って、文脈を再構築したかったのです。だから、それはほんの少し本来ある場所から外れているのです」。 憑在論は2005年頃からマーク・フィッシャーとサイモン・レイノルズによって音楽評論の分野で用いられるようになる。フィッシャーはダブステップを代表するアーティスト、ベリアル(Burial)のサウンドに現在のロンドンの姿──レイヴという過去の亡霊と失われた未来に取り憑かれている都市──を暗示するものを見て取った。かつて過ごした集団的な恍惚は今では打ち捨てられ、終わりなき労働と日常がそれに取って代わったロンドンの姿を。 ベリアルのロンドンは、ふたたび見られた過去の夢であり、放棄されたジャンルの遺物を、夢幻的なモンタージュのなかで凝縮したものである。彼の生み出す音は、メランコリーよりも喪の作業によってできているものだ。なぜなら、彼はいまだに失われたものを熱望しているからであり、いまだにそれが戻ってくる希望を放棄することを拒んでいるからである。 (マーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち』) ヴェイパーウェイヴもまた喪とメランコリーに取り憑かれている。だがそれはベリアルと異なり、必ずしもレイヴという亡霊とは限らない。ヴェイパーウェイヴの作り手の多くは80年代~90年代前半生まれのミレニアル世代に属している。ビデオゲーム、ダイヤルアップ接続のインターネット、深夜のTVコマーシャル、きらびやかなショッピングモール等々、ヴェイパーウェイヴが参照するのは彼らが幼少時代に触れていた在りし日の失われた消費文化だ。 加えて、ミレニアル世代はとりわけ「失われた未来」に属する世代である。彼らはもはや自分たちの未来を純粋に想像することすらできない。というのも、今や未来は彼らに対して深刻な生存困難性を突きつけているからである。 社会学者のジグムント・バウマンは著書『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロトピアに魅せられるのか』の中で、ほとんどのミレニアル世代は将来生活条件が悪化すると予想しており、親世代が手にした社会的地位を高めるどころか、失うことを恐れている最初の戦後世代であると述べている。拡大する不平等、福祉の削減、増加する移民、深刻な気候変動、AIが雇用を奪うのではないかといった恐れ、等々……。米国人の上位10%がアメリカの富の86%を保有しているのに対して、その他の90%の人々が保有しているのは国富のたった14%にすぎない。ミレニアル世代にとって、「未来」はもはや「喪失」に他ならないのだ。こうした社会不安と比例するかのように、人々の間で過去への憧憬やノスタルジアが広がっているとバウマンは指摘する。レトロトピアは、未来ではなく過去へユートピアを求める心性に根ざしている。 こうした状況からミレニアル世代はノスタルジアの倒錯したブランディングを求める。これらの点に自覚的なジェームス・フェラーロはインタビューの中で次のように述べている。 多くのアメリカ国民、特に消滅しつつある中産階級は、もっと安定してもっと豊かだった時代と繫がるためにノスタルジーを欲求している。昔のいい思い出だけを集めて、いっしょくたに混ぜ合わせて、奇妙なノスタルジックのハイブリッドを作るんだ。フランケンシュタインみたいに、消費者のフェティシズムとアメリカのノスタルジアを混ぜ合わせた総体。その前面に現れるのが国民意識だ。 (「ジェームス・フェラーロとショッピングモールの美学」) アダム・ハーパーは2012年の時点で、ヴェイパーウェイヴはニック・ランドのビジョンのサウンドトラックのようなものだ、と書き付けた。しかし、ヴェイパーウェイヴにおけるニック・ランド的な側面は、ハードヴェイパーのような破壊的かつ黙示録的なサウンドに一部受け継がれているとはいえ、結局主流となることはなかった。なので、今や私たちはこのテーゼに少しばかりの修正を加える必要があるだろう。すなわち、ヴェイパーウェイヴはマーク・フィッシャーのビジョンのサウンドトラックのようなものだ。 ノスタルジーと失われた未来 マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で次のように資本主義社会を分析している。 生産のたえまない変革、あらゆる社会状態のやむことのない動揺、永遠の不安定と運動は、以前のあらゆる時代とちがうブルジョア時代の特色である。固定した、さびついたすべての関係は、それにともなう古くてとうとい、いろいろの観念や意見とともに解消する。そしてそれらがあらたに形成されても、それらはすべて、それが固まるまえに、古くさくなってしまう。いっさいの身分的なものや常在的なものは、煙のように消え、いっさいの神聖なものはけがされ、人々は、ついには自分の生活上の地位、自分たち相互の関係を、ひややかな眼で見ることを強いられる。 (『共産党宣言』) 資本主義における加速度的なスピードの中では、あらゆるものは即座に過去の中に埋没していく。そして、亡霊は蓄積された過去の廃墟の中から「実現されなかった未来」の形をとって立ち現れる。 オランダ出身のアーティスト、猫 シ Corp. はインタビューの中で「ぼくが思うに、ヴェイパーウェイヴには、9・11以前に存在していた古き良き世界のノスタルジアが深く関係してるんだ。80年代から90年代にかけて生まれた世代の、ノスタルジックな過去への逃避でもある」と述べている。猫 シ Corp. にとって、世界は9・11を境に変わってしまった。それも取り返しのつかないほど良くない方向に。猫 シ Corp. の作品『NEWS AT 11』は、あの9月11日の朝のニュース番組のサンプリングから始まる。しかし、ニュースが不吉な事件を告げようとする直前、唐突に心地よいムード音楽のサンプリングが割って入る。まるであんなトラウマ的な出来事など起こらず、私たちはこれからも平穏の日常を送っていくかのように──。もちろん、現実はそうはならなかったのだが。『NEWS AT 11』は、9・11以降決定的に失われてしまった私たちの「未来」を暗示する。 そんな 猫 シ Corp. は、ヴェイパーウェイヴの派生ジャンルのひとつ Mall Soft の立役者としても知られる。80年代~90年代のショッピングモールで流れていた心地よいミューザック(エレベーターミュージックとも呼ばれる)のサンプリングと加工、そして3DCGのように無機質でのっぺりとしたエスカレーターや、ヤシの木が生えリゾート感を演出されたモールのどこか非現実的な空間イメージを強調したこの音楽は、かつて存在していたであろう過去への憧憬と幻想であると同時に、決して実現することのなかった架空の未来を私たちに幻視させる。アメリカのショッピングモールは2008年のリーマンショック以降衰退し、多くが廃墟となっていったが、さながらそうした現実に抗うかのように。9・11は起こらなかったし、リーマンショックも起こらなかった。私たちは幼少時代に家族とショッピングモールを歩きながら感じていた安定した繁栄を今後も変わらず享受していく。エスカレーターは永遠に続いていく。 昨今の音楽シーンにおけるニューエイジ・リバイバルや日本のシティポップの海外での再発見もまた、「時間の蝶番が外れてしまった」現在が失われた未来の亡霊に際限なく取り憑かれていることの証左となる。シカゴを拠点に活動するシティポップDJ、Van Paugam は、『シカゴ・リーダー』の記事の中で、アメリカにおける日本のシティポップのブームの背景には、商業化された過去のノスタルジアの飽和状態が関係していると指摘する。際限なくリブートされる映画シリーズ、再結成されるバンド、等々。もはや、アメリカの若い世代は自分たちの過去の記憶に純粋なノスタルジアを感じることができなくなっている。その代わり、日本という他者──自分たちが経験したものではない時代と場所の記憶に、ある種の新鮮で穢れていないノスタルジアを求めているのだという。シティポップの全盛時代である80年代といえば、日本はバブル景気に湧き、アメリカには安価な日本製品が大量に流入してくるなど、日本のプレゼンスが否応にも高まっていた時期に当たる。シティポップが内蔵していた楽観的で多幸的なビジョンは日本においては90年代以降説得力を失った。だが、その楽観的で多幸的なビジョンが現在のアメリカという地で需要されている。存在したかも定かでない時と場所への郷愁と期待感。 未来を取り戻せ? 2016年の大統領選挙においてドナルド・トランプを支持したピーター・ティールは、ニューヨーク・タイムズのインタビューの中で次のように述べている。「若い世代はちっぽけな期待しか持てなくなっています。こんなことはアメリカの歴史の中で初めてのことです」。そしてこう続ける。「たとえトランプに懐古趣味や過去へ戻ろうとする側面があったとしても、多くの人々は未来的だった過去へ戻りたいと思っているのではないでしょうか。『宇宙家族ジェットソン』、『スター・トレック』、それらは確かに古い。だけどそこには未来がありました」。 40年代のマンハッタン計画、60年代終わりのアポロ計画と月面着陸。テクノロジー産業の長足の進歩。ティールが幼少時代を過ごしたオハイオ州のクリーヴランドでは当時、現在のインターネットの基礎となる防衛研究が行われていた。未来に無限の可能性があると信じられていた時代だった。 だが、未来はティールの期待していたものとは違った。アメリカ人は火星に行かず、代わりに中東を侵略した。空飛ぶ車は発明されず、代わりに私たちが手にしたのは手のひらに収まる小型デバイスと140文字のプラットフォームだった。大量の法律は規制を生み出しイノベーションを抑圧し、未来へのグランドビジョンとそれを実現するための野心的なプロジェクトが生まれる土壌はすでに潰えている。ティールはトランプを「政治家」ではなく「建設者」と表現している。零から一へ、なにか新しい土台を打ち立てること。ティールにとって、トランプは来るべき新世界のCEOであり本質的に反‐政治家なのだ(もっとも、一方でティールはトランプが期待したほどの大きな変革を起こさないのではないか、といった危惧も示しているのだが)。 トランプは「再びアメリカを偉大に」というキャッチフレーズを唱えることで、過去の中から巧みに未来のビジョンを掘り出してパッケージングしてみせた。それは他方で、未来は今や存在し得ず、それは常に過去から回帰してくる亡霊としてのみ捉えることができるという情況の反映でもある。 ヴェイパーウェイヴが現在までに生み出している無数のサブジャンルのなかでも、一部のトランプ支持者が制作しているとされるヴェイパーウェイヴをファッショウェイヴ(Fashwave)と呼ぶ。それ自体はオルタナ右翼による悪意あるミーム改竄(定形やミームに別の文脈を付加すること)に過ぎないが、オルタナ右翼の論客リチャード・スペンサー(Richard Spencer)は、ファッショウェイヴとオルタナ右翼のイデオロギーの間に思想的親和性を見出そうとしている。いわく、「オルタナ右翼は80年代への回顧に魅了されている、それというのも80年代こそは穏やかな日々、すなわち白人のアメリカの最期の日々だったからだ」。 たとえば、YouTube 上にはトランプをフィーチャーしたファッショウェイヴの動画がいくつか存在するが(それらはトランプウェイヴと呼ばれる)、動画に登場するのは現在ではなく80年代の不動産王時代のトランプだ。すなわち、80年代の新自由主義的な資本主義国アメリカを象徴するイコンとしてトランプのイメージが用いられているのである。 ファッショウェイヴを代表する投稿者の一人、C Y B E R N Δ Z I のある動画タイトルは「未来を取り戻せ(Take Back Our Future)」である。アーティストの SLEEP ∞ OVER は、ファッショウェイヴをいみじくも「兵器化されたノスタルジア」と表現しながら批判している。 未来が失われていると感じているのは、もちろん右派だけではない。ニック・スルニチェクは、左派の素朴政治が未来を貧困化し創造困難なものにしたと難じる。私たちはプラカードを捨て、もっと遠くの未来を目指さなければならない。彼の著書『未来を発明する(Inventing the Future)』(未邦訳)は、あえて空想的社会主義の伝統に立ち戻り、未来に対するグランドビジョンを持つことの必要性を説く。同様にマーク・フィッシャーも、過去の亡霊をいまだ実現していない現実の潜勢力として捉えようとしていた。亡霊はハイパースティションのように現実に影響を与え、未来を改変する。フィッシャーはオンラインメディア Quietus に発表されたインタビューの中で、「私たちは未来を発明しなければなりません」と述べていた。 そうした側面からすれば、ランドに代表される右派加速主義の黙示録的態度は、未来がもはや存在しえないことをニヒリスティックに肯定する身振りといえるだろう。すべては未知と混沌へと消尽していく。未来が失われた時代にあって、盲目的なスピードで破壊へと突き進んでいくことをひたすら享楽すること。汝の意志することを行え、それが法のすべてとならん。 ピーター・ティールは前出のインタビューの中のとある箇所で、自身の両義性をあけすけに語っている。「あの選挙は黙示録的な感覚を授けました。それがトランプの面白いところです。つまり、黙示録の予感と面白さを同時に味わうことができたのです」。 あとがき ピーター・ティールが愛読書の一冊に挙げているSF小説にニール・スティーヴンスン(Neal Stephenson)の『ダイヤモンド・エイジ』がある。 舞台はナノテクノロジーが発達した21世紀なかばの上海周辺。国民国家は消滅し、人種や思想、宗教、趣味、技術などを共有する者たちが集まり、それぞれの都市国家(クレイヴ)を形成している世界。三大種族のひとつ、上海周辺に都市国家をもつネオ・ヴィクトリア人の新アトランティスは、19世紀のヴィクトリア朝思想を復活させ、女王の膝下で企業株主による擬似貴族制度をしいている。物語は、とある株主貴族の公爵の一人が自分の孫娘の教育用に作らせたブック型インタラクティヴ・デバイス、「若き淑女のための絵入り初頭読本(プライマー)」と、それを偶然に手にしてしまった貧しい少女を軸に展開していく。ナノテクノロジーをはじめとした様々な科学技術やガジェットと、それを巡って対立する国家都市。そして少女の成長物語。 1995年に発表され、翌年度のヒューゴー賞とローカス賞をダブル受賞した本作は、その精巧に作り込まれた世界観と魅力的なストーリーで幅広い読者層を得た。 現在『ダイヤモンド・エイジ』で描かれた世界観を見てみると、それがまるで新反動主義のビジョンを予言していたかのようで興味深い。国民国家は消滅し、代わりに世界は多種多様な都市国家に細分化されている。ネオ・ヴィクトリア人は女王をいだき、一方で企業株主による擬似貴族制度をしく。 この90年代半ばのSF小説の中で描かれた近未来の世界に郷愁にも近い魅惑を覚えているのはティールだけではない。EUからの脱退(イグジット)、すなわちブレクジットを巡る議論で湧いている現在のイギリスにおいて、保守党系論者の一角で唱えられている「アングロスフィア(Anglosphere)」なる言説が存在する。東京大学助教の馬路智仁によれば、「アングロスフィア」とは「カナダやオーストラリア、ニュージーランドといった世界に散らばる英語圏諸国──すなわち、かつてのイギリスの「移住植民地」(settler colony)、あるいは「ドミニオン」(Dominion・イギリス帝国内の自治植民地を指す)と呼ばれた国々──との一層緊密な統合を訴える」(「ブレクジットの背後でうごめく「帝国2・0」という奇妙な思想」)構想を指すという。かつての大英帝国に対するノスタルジアによって駆動される反動的思想──「帝国2・0」。興味深いのは、「アングロスフィア」という言葉の初出とされるのが『ダイヤモンド・エイジ』であるということだ。「帝国2・0」の思想の背後には、90年代に出版されたSF小説に描かれたビジョン──19世紀のヴィクトリア朝思想を復活させた新アトランティス──があるのだろうか。 未来が失われた時代にあっては、人々は過去に未来を求める。あるいは過去に書かれたフィクションの中に未来を求める。人々はいまだに17世紀にフランシス・ベーコンが幻視した「ニュー・アトランティス」を未来のどこかに探し求めている。 マーク・フィッシャーは、このディストピアな「現実」に抗う唯一の方法はオルタナティブな世界を欲望することであると信じていた。オルタナティブな世界は、たしかにそれが欲望される時点ではいまだフィクションでしかない。だが、それはいつか「現実」を侵食していき、そして「現実」になる。だから、幻視を、空想を、思弁を、欲望を諦めてはいけない。それ自身を現実化させるフィクションとしてのハイパースティションを革命の基盤に据えること。 フィッシャーが死の直前まで書いていた『アシッド・コミュニズム(Acid Communism)』では、60年代後半~70年代初頭に花開いたカウンターカルチャーとサイケデリックカルチャーがテーマに据えられている。カウンターカルチャーは、現在ヘゲモニーを握っているネオリベラル資本主義に取り込まれ、そのユートピア的理念の可能性の種はとっくに摘み取られたかのように見える。だがフィッシャーは、かつて夢見られた「こことは異なる生」、そして「自由な世界」を求める欲望を決して諦めてはいけないと説く。なぜなら欲望を諦めることは資本主義リアリズムに屈服することを意味するからだ。 しかし彼の仕事が完成することはなかった。『アシッド・コミュニズム』の序文を遺し、フィッシャーはこの世から去った。 一方、ニック・ランドは今もブログやツイッター等を中心に精力的に活動を続けている。現在は暗号通貨をテーマにした著書『Crypto-Current: Bitcoin and Philosophy』を準備中のようだ。 ところで、本文では割愛してしまったテーマに、ニック・ランドとCCRUが日本でどのように受容されてきたのか、というのがある。残念ながら90年代においてニック・ランドとCCRUが日本で紹介された形跡を見つけることはまだほとんどできていない。ただ、詩人の桜井夕也によれば、現代詩人で現在は海外を拠点にノイズ・ミュージシャンとしても活動している白鳥健次(Kenji Siratori)は、90年代後半~2000年代初頭頃にかけてドゥルーズやCCRUに影響された日本語による現代詩をウェブ上に掲載していた。それらの作品の一部は今もオンライン上で読むことができる。のちに白鳥は英語で詩を掲載するようになり、2002年にはアメリカのインディペンデントの出版社から『Blood Electric』という詩集を出版している。 白鳥健次から影響を受け、また彼からニック・ランドとCCRUの存在を教えられた桜井夕也は、2000年代初頭から自身のウェブサイト「Cult Trash」上でニック・ランドやCCRUのテキストの翻訳を行いはじめている。これらは、おそらく日本語圏にニック・ランドとCCRUが輸入されてきたもっとも早いケースとして特筆にあたいする。近年になると、思弁的実在論の動向に伴いニック・ランドの名前が散発的に言及されるようになる。たとえば批評家の仲山ひふみは、2015年にブログ記事「哲学のホラー──思弁的実在論とその周辺」の中でニック・ランドについて概略的な紹介を行っている。意外に思えるのは、近年になるまでニック・ランドやCCRUは思想界隈ではほとんど取り上げられず、その代わり一部の現代詩を経由して日本に人知れず輸入されていたという事実であろう。このあたり、まだまだ興味深い事実はありそうなので、今後とも引き続き調査を行っていきたい。 本書をひとまず書き終えてみて改めて気付かされたのは、ニーチェの影響力である。実際、本書の影の主人公はニーチェではないかと思わされるぐらいだ。ジェレミー・ギルバートのいう「ニーチェ主義的右派リバタリアニズム」、それはニック・ランドの思想だけでなく本書の至るところに亡霊のようにまとわりついている。ニーチェの「プロセスを加速させること」というフレーズを引用したドゥルーズ&ガタリと、それに端を発する加速主義。機械と人間の融合がニーチェ的超人を可能にするというサイボーグ思想。同じく暗号化技術が超人を可能にすると信じ、飼い猫にニーチェという名前までつけていたティモシー・メイ、等々……。 ニーチェは「神の死」を宣告し、世界はあらゆる神聖な価値も人間的な価値も失った虚無の深淵の中に転げ落ちていくと予言した。こうした神なきニヒリズムの世界に現れるのは、最後の人間=終末の人間である。彼らは「一切は空しい、むしろ受動的に消え去ることだ! 虚無への意志よりもむしろ意志の虚無だ!」と呟く。しかし、この価値の失効とニヒリズムの只中で、最後の人間を超えた彼方に、ニヒリズムを乗り越えてすべての価値転換を行う人間、〈超人〉が現れる。完成されたニヒリズムはニヒリズム自体によって克服される。 既存の価値の失効、終末的な世界、そしてその後に起こる革命的な大変動と現れる英雄的〈超人〉。ピーター・ティールをはじめとした起業家からシンギュラリティ思想まで、こうした(俗流)ニーチェ主義的なビジョンは現代において広く共有されているように思われる。そのことが何を意味するのか、私自身まだ充分に摑みきれていない。あるいはこれらもまたポストモダンの病のひとつに過ぎないのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。このテーマについても、機会を改めて再考するべきであろう。 最後に、本書を書く上でお世話になった方々に簡単な謝辞を。まず何より声をかけてくださった編集担当の石川詩悠氏、そして素晴らしい装丁に仕上げてくださったデザイナー氏にそれぞれ感謝を。他にも、原稿に対して有益なアドバイスをくださった仲山ひふみ氏、ツイッター上で取材に応じてくださった桜井夕也氏、表紙デザインにメモ書きを載せる許可を二つ返事で与えてくださったニック・ランド氏、その他本書に関わったすべての人たちに感謝を捧げる。
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