「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」 僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少くともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。 しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。 8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。──8年間。長い歳月だ。 もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。 20歳を少し過ぎたばかりの頃からずっと、僕はそういった生き方を取ろうと努めてきた。おかげで他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、また同時に多くの不思議な体験もした。様々な人間がやってきて僕に語りかけ、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして二度と戻ってはこなかった。僕はその間じっと口を閉ざし、何も語らなかった。そんな風にして僕は 20代最後の年を迎えた。 今、僕は語ろうと思う。 もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。 しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。 弁解するつもりはない。少くともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。 ☆ 僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。殆んど全部、というべきかもしれない。不幸なことにハートフィールド自身は全ての意味で不毛な作家であった。読めばわかる。文章は読み辛く、ストーリーは出鱈目であり、テーマは稚拙だった。しかしそれにもかかわらず、彼は文章を武器として闘うことができる数少ない非凡な作家の一人でもあった。ヘミングウェイ、フィツジェラルド、そういった彼の同時代人の作家に伍しても、ハートフィールドのその戦闘的な姿勢は決して劣るものではないだろう、と僕は思う。ただ残念なことに彼ハートフィールドには最後まで自分の闘う相手の姿を明確に捉えることはできなかった。結局のところ、不毛であるということはそういったものなのだ。 8年と 2ヵ月、彼はその不毛な闘いを続けそして死んだ。 1938年6月のある晴れた日曜日の朝、右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りたのだ。彼が生きていたことと同様、死んだこともたいした話題にはならなかった。 僕が絶版になったままのハートフィールドの最初の一冊を偶然手に入れたのは股の間にひどい皮膚病を抱えていた中学三年生の夏休みであった。僕にその本をくれた叔父は三年後に腸の癌を患い、体中をずたずたに切り裂かれ、体の入口と出口にプラスチックのパイプを詰め込まれたまま苦しみ抜いて死んだ。最後に会った時、彼はまるで狡猾な猿のようにひどく赤茶けて縮んでいた。 ☆ 僕には全部で三人の叔父がいたが、一人は上海の郊外で死んだ。終戦の二日後に自分の埋めた地雷を踏んだのだ。ただ一人生き残った三人目の叔父は手品師になって全国の温泉地を巡っている。 ☆ ハートフィールドが良い文章についてこんな風に書いている。「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」(「気分が良くて何が悪い?」 1936年) 僕がものさしを片手に恐る恐るまわりを眺め始めたのは確かケネディー大統領の死んだ年で、それからもう 15年にもなる。 15年かけて僕は実にいろいろなものを放り出してきた。まるでエンジンの故障した飛行機が重量を減らすために荷物を放り出し、座席を放り出し、そして最後にはあわれなスチュワードを放り出すように、 15年の間僕はありとあらゆるものを放り出し、そのかわりに殆んど何も身につけなかった。 それが果たして正しかったのかどうか、僕には確信は持てない。楽になったことは確かだとしても、年老いて死を迎えようとした時に一体僕に何が残っているのだろうと考えるとひどく怖い。僕を焼いた後には骨ひとつ残りはすまい。「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない。」死んだ祖母はいつもそう言っていた。 祖母が死んだ夜、僕がまず最初にしたことは、腕を伸ばして彼女の瞼をそっと閉じてやることだった。僕が瞼を下ろすと同時に、彼女が 79年間抱き続けた夢はまるで舗道に落ちた夏の通り雨のように静かに消え去り、後には何ひとつ残らなかった。 ☆ もう一度文章について書く。これで最後だ。 僕にとって文章を書くのはひどく苦痛な作業である。一ヵ月かけて一行も書けないこともあれば、三日三晩書き続けた挙句それがみんな見当違いといったこともある。 それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。 十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。少し気を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える……そんな気がした。 それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。僕はノートのまん中に 1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの……僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。 僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が 1本だけ引かれた一冊のただのノートだ。教訓なら少しはあるかもしれない。 もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。 夜中の 3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。 そして、それが僕だ。 2 この話は 1970年の8月 8日に始まり、 18日後、つまり同じ年の8月 26日に終る。 3「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」 鼠はカウンターに両手をついたまま僕に向って憂鬱そうにそうどなった。 あるいは鼠のどなった相手は僕の後にあるコーヒー・ミルなのかもしれなかった。僕と鼠はカウンターに隣りあって腰かけていたのだし、わざわざ僕に向ってどなる必要なんて何もなかったからだ。しかし何れにせよ、大声を出してしまうと鼠はいつものように満足した面持でビールを美味そうに飲んだ。 もっとも、まわりには鼠の大声を気にするものなど誰ひとりいなかった。狭い店は客で溢れんばかりだったし、誰も彼もが同じように大声でどなりあっていたからだ。それはまるで沈没寸前の客船といった光景だった。「ダニさ。」鼠はそう言っておぞましそうに首を振った。「奴らになんて何もできやしない。金持ち面をしてる奴らを見るとね、虫酸が走る。」 僕は薄いビール・グラスの縁に唇をつけたまま黙って肯いた。鼠はそれっきり口をつぐむと、カウンターに載せた手の細い指をたき火にでもあたるような具合にひっくり返しながら何度も丹念に眺めた。僕はあきらめて天井を見上げた。 10本の指を順番どおりにきちんと点検してしまわないうちは次の話は始まらない。いつものことだ。 一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように 25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の床いっぱいに 5センチの厚さにピーナツの殻をまきちらした。そしてそれは、そうでもしなければ生き残れないくらい退屈な夏であった。「ジェイズ・バー」のカウンターには煙草の脂で変色した一枚の版画がかかっていて、どうしようもなく退屈した時など僕は何時間も飽きもせずにその絵を眺めつづけた。まるでロールシャハ・テストにでも使われそうなその図柄は、僕には向いあって座った二匹の緑色の猿が空気の抜けかけた二つのテニス・ボールを投げあっているように見えた。 僕がバーテンのジェイにそう言うと、彼はしばらくじっとそれを眺めてから、そう言えばそうだね、と気のなさそうに言った。「何を象徴してるのかな?」僕はそう訊ねてみた。「左の猿があんたで、右のがあたしだね。あたしがビール瓶を投げると、あんたが代金を投げてよこす。」 僕は感心してビールを飲んだ。「虫酸が走る。」 鼠はひととおり指を眺め終えるとそう繰り返した。 鼠が金持ちの悪口を言うのは今に始まったことではないし、また実際にひどく憎んでもいた。鼠の家にしたところで相当な金持ちだったのだけれど、僕がそれを指摘する度に鼠は決まって、「俺のせいじゃないさ。」と言った。時折(大抵はビールを飲み過ぎたような場合なのだが)、「いや、お前のせいさ。」と僕は言って、そして言ってしまった後で必ず嫌な気分になった。鼠の言い分にも一理はあったからだ。「何故金持ちが嫌いだと思う?」 その夜、鼠はそう続けた。そこまで話が進んだのは初めてだった。 わからない、といった風に僕は首を振った。「はっきり言ってね、金持ちなんて何も考えないからさ。懐中電灯とものさしが無きゃ自分の尻も搔けやしない。」 はっきり言って、というのが鼠の口癖だった。「そう?」「うん。奴らは大事なことは何も考えない。考えてるフリをしてるだけさ。……何故だと思う?」「さあね?」「必要がないからさ。もちろん金持ちになるには少しばかり頭が要るけどね、金持ちであり続けるためには何も要らない。人工衛星にガソリンが要らないのと同じさ。グルグルと同じところを回ってりゃいいんだよ。でもね、俺はそうじゃないし、あんただって違う。生きるためには考え続けなくちゃならない。明日の天気のことから、風呂の栓のサイズまでね。そうだろ?」「ああ。」と僕は言った。「そういうことさ。」 鼠はしゃべりたいことだけをしゃべってしまうと、ポケットからティッシュ・ペーパーを取り出しつまらなそうに音をたてて鼻をかんだ。鼠がいったいどこまで真剣なのか、僕にはうまく把めなかった。「でも結局はみんな死ぬ。」僕は試しにそう言ってみた。「そりゃそうさ。みんないつかは死ぬ。でもね、それまでに 50年は生きなきゃならんし、いろんなことを考えながら 50年生きるのは、はっきり言って何も考えずに 5千年生きるよりずっと疲れる。そうだろ?」 そのとおりだった。 4 僕が鼠と初めて出会ったのは 3年前の春のことだった。それは僕たちが大学に入った年で、 2人ともずいぶん酔払っていた。だからいったいどんな事情で僕たちが朝の 4時過ぎに鼠の黒塗りのフィアット 600に乗り合わせるような羽目になったのか、まるで記憶がない。共通の友人でもいたのだろう。 とにかく僕たちは泥酔して、おまけに速度計の針は 80キロを指していた。そんなわけで、僕たちが景気よく公園の垣根を突き破り、つつじの植込みを踏み倒し、石柱に思い切り車をぶっつけた上に怪我ひとつ無かったというのは、まさに僥倖というより他なかった。 僕がショックから醒め、壊れたドアを蹴とばして外に出ると、フィアットのボンネット・カバーは 10メートルばかり先の猿の檻の前にまで吹き飛び、車の鼻先はちょうど石柱の形にへこんで、突然眠りから叩き起こされた猿たちはひどく腹を立てていた。 鼠はハンドルに両手を置いたまま体を折るようにかがみこんでいたが、怪我をしたというわけではなく、ダッシュボードの上に一時間前に食べたピザ・パイを吐いているだけの話だった。僕は車の屋根によじのぼり、天窓から運転席をのぞきこんだ。「大丈夫かい?」「ああ、でも少し飲みすぎたな。吐くなんてね。」「出られるかい?」「引っぱり上げてくれ。」 鼠はエンジンを切り、ダッシュボードの上の煙草の箱をポケットにつっこんでから、おもむろに僕の手をつかんで車の屋根によじのぼった。僕たちはフィアットの屋根に並んで腰を下ろしたまま、白み始めた空を見上げ、黙って何本か煙草を吸った。僕は何故かリチャード・バートンの主演した戦車映画を思い出した。鼠が何を考えていたのかはわからない。「ねえ、俺たちはツイてるよ。」 5分ばかり後で鼠はそう言った。「見てみなよ。怪我ひとつない。信じられるかい?」 僕は肯いた。「でも、車はもう駄目だな。」「気にするなよ。車は買い戻せるが、ツキは金じゃ買えない。」 僕は少しあきれて鼠の顔を眺めた。「金持ちなのか?」「らしいね。」「そりゃ良かった。」 鼠はそれには答えなかったが、不満足そうに何度か首を振った。「でも、とにかく俺たちはツイてる。」「そうだな。」 鼠はテニス・シューズの踵で煙草をもみ消し、吸殻を猿の檻に向って指ではじいた。「ねえ、俺たち二人でチームを組まないか? きっと何もかも上手くいくぜ。」「手始めに何をする?」「ビールを飲もう。」 僕たちは近くの自動販売機で缶ビールを半ダースばかり買って海まで歩き、砂浜に寝ころんでそれを全部飲んでしまうと海を眺めた。素晴しく良い天気だった。「俺のことは鼠って呼んでくれ。」と彼が言った。「何故そんな名前がついたんだ?」「忘れたね。随分昔のことさ。初めのうちはそう呼ばれると嫌な気もしたがね、今じゃなんともない。何にだって慣れちまうもんさ。」 僕たちはビールの空缶を全部海に向って放り投げてしまうと、堤防にもたれ頭の上からダッフル・コートをかぶって一時間ばかり眠った。目が覚めた時、一種異様なばかりの生命力が僕の体中にみなぎっていた。不思議な気分だった。 「100キロだって走れる。」と僕は鼠に言った。「俺もさ。」と鼠は言った。 しかし実際に僕たちがしなければならなかったのは、公園の補修費を金利つきの三年割賦で市役所に払いこむことだった。 5 鼠はおそろしく本を読まない。彼がスポーツ新聞とダイレクト・メール以外の活字を読んでいるところにお目にかかったことはない。僕が時折時間潰しに読んでいる本を、彼はいつもまるで蠅が蠅叩きを眺めるように物珍しそうにのぞきこんだ。「何故本なんて読む?」「何故ビールなんて飲む?」 僕は酢漬けの鰺と野菜サラダを一口ずつ交互に食べながら、鼠の方も見ずにそう訊き返した。鼠はそれについてずっと考え込んでいたが、 5分ばかり後で口を開いた。「ビールの良いところはね、全部小便になって出ちまうことだね。ワン・アウト一塁ダブル・プレー、何も残りゃしない。」 鼠はそう言って、僕が食べつづけるのを眺めた。「何故本ばかり読む?」 僕は鰺の最後の一切をビールと一緒に飲みこんでから皿を片付け、傍に置いた読みかけの「感情教育」を手に取ってパラパラとページを繰った。「フローベルがもう死んじまった人間だからさ。」「生きてる作家の本は読まない?」「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」「何故?」「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」 僕はカウンターの中にあるポータブル・テレビの「ルート 66」の再放送を眺めながらそう答えた。鼠はまたしばらく考え込んだ。「ねえ、生身の人間はどう? 大抵のことは許せない?」「どうかな? そんな風に真剣に考えたことはないね。でもそういった切羽詰まった状況に追い込まれたら、そうなるかもしれない。許せなくなるかもしれない。」 ジェイがやってきて、僕たちの前に新しいビールを 2本置いていった。「許せなかったらどうする?」「枕でも抱いて寝ちまうよ。」 鼠は困ったように首を振った。「不思議だね。俺にはよくわからない。」 鼠はそう言った。 僕は鼠のグラスにビールを注いでやったが、彼はまだ体を縮めたまましばらく考え込んでいた。「この前、最後に本を読んだのは去年の夏だったよ。」鼠がそう言った。「題も作者も忘れた。何故読んだのかも忘れた。とにかくね、女が書いた小説さ。主人公は有名なファッション・デザイナーで 30歳ばかりの女なんだが、なにしろ自分が不治の病に冒されてると信じこんでるわけさ。」「どんな病気?」「忘れたね。癌かなにかさ。それ以外に不治の病があるかい? ……それでね、彼女は海岸の避暑地にやってきて最初から最後までオナニーするんだ。風呂場だとか、林の中だとか、ベッドの上だとか、海の中だとか実にいろんな場所でさ。」「海の中?」「うん。……信じられるかい? 何故そんなことまで小説に書く? 他に書くべきことは幾らでもあるだろう?」「さあね?」「俺は御免だね、そんな小説は。反吐が出る。」 僕は肯いた。「俺ならもっと全然違った小説を書くね。」「例えば?」 鼠はビール・グラスの縁を指先でいじりまわしながら考えた。「こんなのはどうだい? 俺の乗っていた船が太平洋のまん中で沈没するのさ。そこで俺は浮輪につかまって星を見ながら一人っきりで夜の海を漂っている。静かな、綺麗な夜さ。するとね、向うの方からこれも浮輪につかまった若い女が泳いでくるんだな。」「いい女かい?」「そりゃね。」 僕はビールを一口飲んで頭を振った。「なんだか馬鹿げてるよ。」「まあ聞けよ。それから俺たち二人は隣り合って海に浮かんだまま世間話をするのさ。来し方行く末、趣味だとか、寝た女の数だとか、テレビの番組についてだとか、昨日見た夢だとか、そういった話をね。そして二人でビールを飲むんだ。」「ねえ、ちょっと待ってくれ。一体何処にビールがあるんだ?」 鼠は少し考えた。「浮いてるのさ。船の食堂から缶ビールが流れ出したんだな。オイル・サーディンの缶と一緒にね。これでいいかい?」「うん。」「そのうちに夜が明けてきた。〈これからどうするの?〉って女が俺に訊ねる。〈私は島がありそうな方に泳いでみるわ〉って女は言うんだ。でも島は無いかもしれない。それよりここに浮かんでビールでも飲んでれば、きっと飛行機が救助に来てくれるさ、って俺は言う。でもね、女は一人で泳いでいっちまうんだ。」 鼠はそこで一息ついてビールを飲んだ。「女は二日と二晩泳ぎつづけてどこかの島にたどりつく。俺は俺で二日酔いのまま飛行機に救助される。それでね、何年か後に二人は山の手の小さなバーで偶然めぐりあうんだな。」「それでまた二人でビールを飲むんだろ?」「悲しくないか?」「さあね。」と僕は言った。 6 鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。 ☆「私が間違っていたと思う?」女がそう訊ねた。 鼠はビールを一口飲み、ゆっくりと首を振った。「はっきり言ってね、みんな間違ってるのさ。」「何故そう思うの?」「うーん。」鼠はそう唸ってから上唇を舌でなめた。答えなど無かった。「私は腕がもぎとれるくらい一生懸命に島まで泳いだのよ。とても苦しくて死ぬかと思ったわ。それでね、何度も何度もこんな風に考えたわ。私が間違っててあなたが正しいのかもしれないってね。私がこんなに苦しんでいるのに、何故あなたは何もせずに海の上にじっと浮かんでいるんだろうってね。」 女はそう言うと軽く笑って、しばらく憂鬱そうに目の縁を押さえた。鼠はモジモジしながらあてもなくポケットを探った。三年振りに無性に煙草が吸いたかった。「僕が死ねばいいと思った?」「少しね。」「本当に少し?」 「……忘れたわ。」 二人はしばらく黙った。鼠はまた何かをしゃべらなければならないような気がした。「ねえ、人間は生まれつき不公平に作られてる。」「誰の言葉?」「ジョン・ F・ケネディー。」 7 小さい頃、僕はひどく無口な少年だった。両親は心配して、僕を知り合いの精神科医の家に連れていった。 医者の家は海の見える高台にあり、僕が陽あたりの良い応接室のソファーに座ると、品の良い中年の婦人が冷たいオレンジ・ジュースと二個のドーナツを出してくれた。僕は膝に砂糖をこぼさぬように注意してドーナツを半分食べ、オレンジ・ジュースを飲み干した。「もっと飲むかい?」と医者が訊ね、僕は首を振った。僕たちは二人きりで向い合っていた。正面の壁からはモーツァルトの肖像画が臆病な猫みたいにうらめし気に僕をにらんでいた。「昔ね、あるところにとても人の良い山羊がいたんだ。」 素敵な出だしだった。僕は目を閉じて人の良い山羊を想像してみた。「山羊はいつも重い金時計を首から下げて、ふうふう言いながら歩き回ってたんだ。ところがその時計はやたらに重いうえに壊れて動かなかった。そこに友だちの兎がやってきてこう言った。〈ねえ山羊さん、なぜ君は動きもしない時計をいつもぶらさげてるの? 重そうだし、役にもたたないじゃないか〉ってさ。〈そりゃ重いさ〉って山羊が言った。〈でもね、慣れちゃったんだ。時計が重いのにも、動かないのにもね〉。」 医者はそう言うと自分のオレンジ・ジュースを飲み、ニコニコしながら僕を見た。僕は黙って話の続きを待った。「ある日、山羊さんの誕生日に兎はきれいなリボンのかかった小さな箱をプレゼントした。それはキラキラ輝いて、とても軽く、しかも正確に動く新しい時計だったんだね。山羊さんはとっても喜んでそれを首にかけ、みんなに見せて回ったのさ。」 そこで話は突然に終った。「君が山羊、僕が兎、時計は君の心さ。」 僕は騙されたような気分のまま、仕方なく肯いた。 週に一度、日曜日の午後、僕は電車とバスを乗り継いで医者の家に通い、コーヒー・ロールやアップルパイやパンケーキや蜜のついたクロワッサンを食べながら治療を受けた。一年ばかりの間だったが、おかげで僕は歯医者にまで通う羽目になった。 文明とは伝達である、と彼は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。いいかい、ゼロだ。もし君のお腹が空いていたとするね。君は「お腹が空いています。」と一言しゃべればいい。僕は君にクッキーをあげる。食べていいよ。(僕はクッキーをひとつつまんだ。)君が何も言わないとクッキーは無い。(医者は意地悪そうにクッキーの皿をテーブルの下に隠した。)ゼロだ。わかるね? 君はしゃべりたくない。しかしお腹は空いた。そこで君は言葉を使わずにそれを表現したい。ゼスチュア・ゲームだ。やってごらん。 僕はお腹を押さえて苦しそうな顔をした。医者は笑った。それじゃ消化不良だ。 消化不良……。 次に僕たちのやったことはフリー・トーキングだった。「猫について何んでもいいからしゃべってごらん。」 僕は考える振りをして首をグルグルと回した。「思いつくことなら何んだっていいさ。」「四つ足の動物です。」「象だってそうだよ。」「ずっと小さい。」「それから?」「家庭で飼われていて、気が向くと鼠を殺す。」「何を食べる?」「魚。」「ソーセージは?」「ソーセージも。」 そんな具合だ。 医者の言ったことは正しい。文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことが失くなった時、文明は終る。パチン…… OFF。 14歳になった春、信じられないことだが、まるで堰を切ったように僕は突然しゃべり始めた。何をしゃべったのかまるで覚えてはいないが、 14年間のブランクを埋め合わせるかのように僕は三ヵ月かけてしゃべりまくり、7月の半ばにしゃべり終えると 40度の熱を出して三日間学校を休んだ。熱が引いた後、僕は結局のところ無口でもおしゃべりでもない平凡な少年になっていた。 8 喉の乾きのためだろう、僕が目覚めたのは朝の 6時前だった。他人の家で目覚めると、いつも別の体に別の魂をむりやり詰めこまれてしまったような感じがする。やっとの思いで狭いベッドから立ちあがり、ドアの横にある簡単な流し台で馬のように水を何杯か続けざまに飲んでからベッドに戻った。 開け放した窓からはほんのわずかに海が見える。小さな波が上ったばかりの太陽をキラキラと反射させ、眼をこらすと何隻かのうす汚れた貨物船がうんざりしたように浮かんでいるのが見えた。暑い一日になりそうだった。周りの家並みはまだ静かに眠り、聴こえるものといえば時折の電車のレールのきしみと、微かなラジオ体操のメロディーといったところだ。 僕は裸のままベッドの背にもたれ、煙草に火を点けてから隣りに寝ている女を眺めた。南向きの窓から直接入り込んでくる太陽の光が女の体いっぱいに広がっている。彼女はタオル・カバーを足もとにまで押しやったままぐっすりと眠っていた。時折息づかいが激しくなって、形のよい乳房が上下に揺れる。体はよく日焼けしていたが、時間が経ったために少しくすんだ色に変わり始め、水着の形にくっきりと焼け残った部分は異様に白く、まるで腐敗しかけているように見えた。 煙草を吸い終ってから 10分ばかりかけて女の名前を思い出してみようとしたが無駄だった。第一に女の名前を僕が知っていたのかどうかさえ思い出せない。僕はあきらめてあくびをし、もう一度彼女の体を眺めた。年齢は 20歳より幾つか若く、どちらかといえば瘦せていた。僕は指をいっぱいに広げ、頭から順番に身長を測ってみた。 8回指を重ね、最後に踵のあたりで親指が 1本分残った。 158センチというところだろう。 右の乳房の下に 10円硬貨ほどのソースをこぼしたようなしみがあり、下腹部には細い陰毛が洪水の後の小川の水草のように気持よくはえ揃っている。おまけに彼女の左手には指が 4本しかなかった。 9 彼女が目覚めるまでに、それからざっと 3時間ばかりかかった。そして目覚めてから、物事の順序が幾らか理解できるようになるまでに 5分かかった。その間、僕は腕を組み、水平線の上に浮かんだぶ厚い雲が姿を変え、東の方に流れるのをじっと眺めていた。 しばらく後で僕が振り向いた時、彼女は首までひっぱり上げたタオル・カバーにくるまって、胃の底に残ったウィスキーの匂いと闘いながら無表情に僕を見上げていた。「誰……あなたは?」「覚えてない?」 彼女は一度だけ首を振った。僕は煙草に火を点け、一本勧めてみたが彼女はそれを無視した。「説明して。」「どのあたりから始める?」「最初からよ。」 いったい何処が最初なのか僕には見当もつかなかったし、どんな風に話せば彼女を納得させられるのかもわからなかった。うまくいくかもしれないし、駄目かもしれない。僕は 10秒ばかり考えてから話し始めた。「暑いけれど気持の良い一日だった。僕は午後じゅうプールで泳いで、家に帰って少し昼寝をしてから食事を済ませた。 8時過ぎだね。それから車に乗って散歩にでかけたんだ。海岸通りに車を停めてラジオを聴きながら海を眺めてた。いつもそうするんだ。 30分ばかりしてから急に誰かに会いたくなった。海ばかり見てると人に会いたくなるし、人ばかり見てると海を見たくなる。変なもんさ。それで『ジェイズ・バー』に行くことにした。ビールも飲みたかったし、あそこでなら大抵は友だちにもあえるしね。でも奴は居なかった。それで一人で飲むことにしたんだ。一時間ばかりかけてビールを三本飲んだよ。」 僕はそこで言葉を切って煙草の灰を灰皿に落とした。「ところで『熱いトタン屋根の猫』を読んだことあるかい?」 彼女はそれには答えず、まるで浜辺にうちあげられた人魚のようにしっかりとタオルにくるまったまま天井を睨んでいた。僕は構わずに話しつづけた。「つまりね、一人で酒を飲む度にあの話を思い出すんだ。今に頭の中でカチンと音がして楽になれるんじゃないかってさ。でも現実にはそううまくはいかない。音なんてしたこともないよ。そのうちに待ちくたびれたんで奴のアパートに電話をかけてみたんだ。出て来て一緒に飲まないかって誘うつもりだった。でもね、電話に出たのは女だった。……変な気がしたよ。奴はそういったタイプじゃないんだ。たとえ部屋の中に 50人の女を連れこんでグデングデンに酔払ってたとしても自分の電話は必ず自分で取る。わかるかい? 僕は番号を間違えたフリをして謝って電話を切ったよ。切ってから少し嫌な気分になった。何故だかはわかんないけどね。そしてもう一本ビールを飲んだ。でも気分は晴れなかった。もちろんそんなのは馬鹿げてるとは思うよ。でもね、そういうもんさ。ビールを飲み終るとジェイを呼んで勘定を払い、家に帰ってスポーツ・ニュースで野球の結果を聞いて寝ちまおうと思った。ジェイは僕に顔を洗えと言った。たとえビールを一ケース飲んだって顔さえ洗えば運転できると信じてるんだね。仕方ないから僕は顔を洗うために洗面所まで行った。本当のことを言うと顔なんて洗うつもりはなかったんだ。フリをするだけさ。あの店の洗面所は大抵排水口がつまって水がたまってるからね。あまり中に入りたくない。でも昨夜は珍しく水がたまってなかった。そのかわり床に君が転がってた。」 彼女は溜息をついて目を閉じた。「それで?」「君を抱き起こして洗面所から連れ出し、店じゅうの客に君のことを知らないかって訊ねてまわった。でも誰も知らなかった。それからジェイと二人で傷の手当をした。」「傷?」「転んだ時にどこかの角で頭を打ったのさ。でもたいした傷じゃなかった。」 彼女は肯いてタオルの中から手を出し、指先で額の傷口を軽く押えた。「それでジェイと相談した。どうすりゃいいだろうってさ。結局僕が家まで車で送ることになった。君のバッグをひっくり返してみると財布とキー・ホルダーと君あての葉書が一枚出てきた。僕は財布の金で勘定を払い、葉書の住所を頼りに君をここまで連れてきて、鍵を開けてベッドに寝かせた。それだけさ。領収書は財布の中に入ってるよ。」 彼女は息を深く吸った。「何故泊ったの?」 「?」「何故私を送り届けた後ですぐに消えてくれなかったの?」「僕の友だちに急性アルコール中毒で死んだのがいるんだ。ウィスキーをがぶ飲みした後でさよならって別れてから家まで元気に歩いて帰ってね、歯を磨いてパジャマに着がえて寝たのさ。朝になったら冷たくなって死んでたよ。立派な葬式だったな。」 「……それで私を一晩中看病してたってわけね?」「本当は 4時頃には帰るつもりだったよ。でも眠っちゃってね。朝起きた時も帰ろうと思った。でもね、やめた。」「何故?」「少くとも何があったのか君に説明しなきゃいけないと思ったんだ。」「ずいぶん親切なのね?」 僕は彼女の言葉の中にこめられた精いっぱいの毒を、首をすくめてやりすごした。それから雲を眺めた。「私……何かしゃべった?」「少しね。」「どんなこと?」「いろいろさ。でも忘れたよ。たいしたことじゃない。」 彼女は目を閉じたまま喉の奥で唸った。「葉書は?」「バッグの中に入ってるよ。」「読んだ?」「まさか。」「何故?」「だって読む必要なんて何もないよ。」 僕はうんざりした気分でそう言った。彼女の口調には僕を苛立たせる何かがあった。もっともそれを別にすれば、彼女は僕を少しばかり懐かしい気分にさせた。古い昔の何かだ。もっとごくあたり前の状況でめぐりあえたとしたら、僕たちはもう少し楽しい時間を過ごせたかもしれない。そんな気がした。しかし実際のところ、ごくあたり前の状況で女の子にめぐりあうというのがどういうことなのか、僕にはまるで思い出せなかった。「何時?」 彼女がそう訊ねた。僕は幾らかホッとして立ち上がり、机の上の電気時計を眺めてからグラスに水を注いで戻ってきた。 「9時。」 彼女は力なく肯いてから起き上がり、そのまま壁にもたれかかって一息に水を飲み干した。「ずいぶん飲んだ?」「かなりね。僕なら死んでる。」「死にそうよ。」 彼女は、枕もとの煙草を手に取って火を点けると、溜息と一緒に煙を吐き出し、突然マッチ棒を開いた窓から港にむかって放り投げた。「着るものを取って。」「どんな?」 彼女は煙草をくわえたまま、もう一度眼を閉じた。「何んだっていいのよ。お願いだから質問しないで。」 僕はベッドの向い側にある洋服ダンスの扉を開き、少し迷ってから袖のないブルーのワンピースを選んで彼女に手渡した。彼女は下着もつけずに頭からすっぽりとそれをかぶり、自分で背中のジッパーをひっぱり上げてもう一度溜息をついた。「もう行かなくっちゃ。」「何処に?」「仕事よ。」 彼女は吐き捨てるようにそう言うと、よろめきながらベッドから立ち上がった。僕はベッドの端に腰を下ろしたまま、彼女が顔を洗い、髪にブラシをかけるのを意味もなくずっと眺めていた。 部屋の中はきちんと片付けられてはいたが、それもある程度までで、それ以上はどうしようもないといった諦めに似た空気があたりに漂っていて、それが僕の気分を幾らか重くさせた。 六畳ばかりの部屋に安物の家具をひととおり詰めこんだ後には人間ひとりがやっと横になれる程度の空間しか残ってはいない。彼女はそこに立って髪をとかしていた。「どんな仕事?」「あなたに関係ないわ。」 そのとおりだった。 煙草が一本燃えつきるまでの時間、僕はずっと黙っていた。彼女は、僕に背を向けたまま鏡の中で目の下にできた黒い筋を指先で押え続けていた。「何時?」彼女がもう一度訊ねた。 「10分過ぎた。」「もう時間がないわ。あなたも早く服を着て自分の家に帰って。」彼女はそう言って、エアー・ゾルのオーデコロンを腋の下に吹きかけた。「もちろん家はあるんでしょ?」 あるさ、と言って僕はTシャツをかぶり、ベッドに腰かけたままもう一度窓の外を眺めた。「何処まで行く?」「港の近くよ。どうして?」「車で送る。遅刻しなくて済むよ。」 彼女はヘアブラシを片手に握りしめたまま、いまにも泣き出しそうな目で僕をじっと見た。泣けたらきっと楽になるのだろう、と僕は思った。しかし彼女は泣かなかった。「ねえ、これだけは覚えといて。確かに私は飲みすぎたし、酔払ったわ。だから何か嫌なことがあったとしても、それは私の責任よ。」 彼女はそう言うとヘアブラシの柄で殆んど事務的に何度か手のひらをピシャピシャと叩いた。僕は黙って話の続きを待った。「そうでしょ?」「だろうね。」「でもね、意識を失くした女の子と寝るような奴は……最低よ。」「でも何もしてないぜ。」 彼女は感情の高まりを押えるように少し黙った。「じゃあ、何故私が裸だったの?」「君が自分で脱いだんだ。」「信じられないわ。」 彼女はブラシをベッドの上に放り投げ、ショルダー・バッグの中に財布や口紅や頭痛薬やこまごましたものを詰めこんだ。「ねえ、本当に何もしなかったってあなたに証明できる?」「自分で調べてみりゃいい。」「どうやって?」 彼女は確かに真剣に腹を立てているようだった。「誓うよ。」「信じられないわ。」「信じるしかないさ。」僕はそう言った。そして嫌な気持になった。 彼女はそれ以上しゃべるのをあきらめて僕を部屋の外に放り出し、自分も外に出てドアをロックした。 僕たちは一言もしゃべらずに、川沿いのアスファルト道を車の停めてある空地まで歩いた。 僕がフロント・グラスのほこりをティッシュ・ペーパーで拭き取っている間、彼女は疑わしそうに車のまわりをゆっくり歩いて一周してから、ボンネットに白ペンキで大きく描かれた牛の顔をしばらくじっと眺めた。牛は大きな鼻輪をつけ、口に白いバラを一輪くわえて笑っていた。ひどく下卑た笑い方だった。「あなたが描いたの?」「いや、前の持ち主さ。」「何故牛の絵なんて描いたのかしら?」「さあね。」と僕は言った。 彼女は二歩後ろに下り、もう一度牛の絵を眺め、それからしゃべり過ぎたことを後悔するかのように口をつぐんで車に乗った。 車の中はひどく暑く、港に着くまで彼女は一言も口をきかずにタオルで流れ落ちる汗を拭き続けながら、ひっきりなしに煙草を吸った。火を点けて三口ばかり吸うと、フィルターについた口紅を点検するようにじっと眺めてからそれを車の灰皿に押し込み、そして次の煙草に火を点けた。「ねえ、昨日の夜のことだけど、一体どんな話をしたの?」 車を下りる時になって、彼女は突然そう訊ねた。「いろいろ、さ。」「ひとつだけでいいわ。教えて。」「ケネディーの話。」「ケネディー?」「ジョン・ F・ケネディー。」 彼女は頭を振って溜息をついた。「何も覚えてないわ。」 車を下りる時、彼女は何も言わずに千円札を一枚バックミラーの後ろにねじこんでいった。 10 ひどく暑い夜だった。半熟卵ができるほどの暑さだ。 僕は「ジェイズ・バー」の重い扉をいつものように背中で押し開けてから、エア・コンのひんやりとした空気を吸いこんだ。店の中には煙草とウィスキーとフライド・ポテトと腋の下と下水の匂いが、バウムクーヘンのようにきちんと重なりあって淀んでいる。 僕はいつもと同じカウンターの端の席に座り、壁に背中をつけて店の中を見回してみた。見なれない制服を着たフランスの水兵が三人、その連れの女が二人、 20歳ばかりのカップルが一組、それだけだった。鼠の姿はない。 僕はビールとコーンビーフのサンドウィッチを注文してから、本を取り出し、ゆっくりと鼠を待つことにした。 10分ばかり後で、グレープフルーツのような乳房をつけ派手なワンピースを着た 30歳ばかりの女が店に入ってきて僕のひとつ隣りに座り、僕がやったのと同じように店の中をぐるりと見まわしてからギムレットを注文した。彼女は飲み物を一口だけ飲んでから立ち上がり、うんざりするくらい長い電話をかけ、それが終るとハンドバッグを抱えて便所に入った。結局 40分ばかりの間にそれが 3回続いた。ギムレットを一口、長電話、ハンドバッグ、便所だ。 バーテンのジェイが僕の前にやってきて、うんざりした顔で、ケツがすりきれるんじゃないかな、と言った。彼は中国人だが、僕よりずっと上手い日本語を話す。 女は三度目の便所から戻ると、あたりを見回してから僕の隣りに滑りこみ、小声で言った。「ねえ、悪いんだけど、小銭を貸していただけない?」 僕は肯いてポケットの小銭をあつめ、カウンターの上に並べた。 10円玉が全部で 13枚あった。「ありがとう。助かるわ。これ以上店で両替すると嫌な顔されるのよ。」「構いませんよ。おかげでずいぶん体が軽くなった。」 彼女はニッコリ肯いて、すばやく小銭をかきあつめると電話の方に消えた。 僕は本を読むのをあきらめ、ジェイに頼んでポータブル・テレビをカウンターに出してもらい、ビールを飲みながら野球中継を眺めることにした。たいした試合だった。 4回の表だけで二人の投手が 2本のホームランを含めて 6本のヒットを打たれ、外野手の一人はたまりかねて貧血を起こして倒れ、投手交代の間に 6本のコマーシャルが入った。ビールと生命保険とビタミン剤と航空会社とポテト・チップと生理用ナプキンのコマーシャルだった。 女にあぶれたらしいフランス人の水兵の一人がビールのグラスを手にしたまま僕の後ろに来て、何を見ているのか、とフランス語で訊ねた。「野球。」と僕は英語で答えた。「ベースボール?」 僕は簡単にルールを説明してやった。あの男がボールを投げる、こいつが棒でひっぱたく、一周走って 1点入る。水兵は 5分ばかりじっとテレビを見ていたが、コマーシャルが始まると、何故ジューク・ボックスにジョニー・アリディのレコードが無いのか、と僕に訊ねた。「人気がないからさ。」と僕は言った。「じゃあフランス人の歌手では誰が人気がある?」「アダモ。」「ありゃベルギー人だ。」「ミシェル・ポルナレフ。」「糞だ。」 水兵はそう言うとテーブルに戻った。 5回の表になってやっと女が戻ってきた。「ありがとう。何かおごらせて。」「気にしなくっていいですよ。」「借りたものは返さないと気の済まない性格なのよ。良きにつけ悪しきにつけね。」 僕はニッコリしようとしたが上手くいかず、ただ黙って肯いた。女は指でジェイを呼んで、この人にビール、私にギムレット、と言った。ジェイは正確に 3回肯いてカウンターの端に消えた。「待ち人来たらず、ね。あなたは?」「らしいですね。」「相手は女の子?」「男です。」「じゃあ私と同じよ。話が合いそうね。」 僕は仕方なく肯いた。「ねえ、私って幾つに見える?」 「28。」「噓つきねえ。」 「26。」 女は笑った。「でも悪い気はしないわよ。独身に見える? それとも亭主持ちに見える?」「賞金は出るんですか?」「出してもいいわよ。」「結婚してる。」「ん……、半分は当たってるわね。先月離婚したのよ。離婚した女の人とこれまでに話したことある?」「いいえ。でも神経痛の牛には会ったことがある。」「何処で?」「大学の実験室でね。 5人がかりで教室に押しこんだ。」 女は楽しそうに笑った。「学生?」「ええ。」「私も昔は学生だったわ。 60年ごろね。良い時代よ。」「どんなところが?」 彼女は何も言わずにクスクス笑ってギムレットを一口飲み、思い出したように突然腕時計を見た。「また電話しなくちゃ。」そう言って、ハンドバッグを手に立ち上がった。 彼女が消えた後も僕の質問は答えのないまま、しばらく空中をさまよっていた。 ビールを半分飲んでからジェイを呼んで勘定を払った。「逃げ出すのかい?」ジェイが言った。「そう。」「年上の女は嫌なのかい?」「歳は関係ないさ。とにかく鼠が来たらよろしくって伝えといて。」 僕が店を出る時、女は電話を終えて四度目の便所に入るところだった。 家に帰る途中、ずっと口笛を吹いていた。それは何処かで聴いたことのあるメロディーだったが、題名はなかなか浮かんではこなかった。ずっと昔の唄だ。僕は海岸通りに車を停め、暗い夜の海を眺めながらなんとか曲名を思い出そうと努力してみた。 それは「ミッキー・マウス・クラブの歌」だった。こんな歌詞だったと思う。「みんなの楽しい合言葉、 MIC・ KEY・ MOUSE。」 確かに良い時代だったのかもしれない。 11 ON やあ、みんな今晩は、元気かい? 僕は最高に御機嫌に元気だよ。みんなにも半分わけてやりたいくらいだ。こちらはラジオ N・ E・ B、おなじみ「ポップス・テレフォン・リクエスト」の時間だよ。これから 9時までの素晴しい土曜の夜の二時間、イカしたホット・チューンをガンガンかける。なつかしい曲、想い出の曲、楽しい曲、踊り出したくなる曲、うんざりする曲、吐き気のする曲、何んでもいいぜ、どんどん電話してくれ。電話番号はみんな知ってるね。いいかい、間違えないようにダイヤルしてくれよ。かけて損、受けて迷惑、間違い電話、少し字余り、なんてね。ところで 6時の受付開始から一時間、局の 10台の電話は休む暇もなく鳴りっぱなしだ。ねえ、ちょっとベルの音でも聞いてみるかい? ……どうだい、すごいだろ? よーし、その調子だ。指が折れるまでどんどん電話してくれ。ところで先週は電話がかかりすぎてヒューズが飛んじまってみんなに迷惑をかけたね。でももう大丈夫。昨日特別製のケーブルにつけかえた。象の足くらいある太いやつだ。象の足、キリンの足より、ずっと太い、少し字余り。だから安心して気が狂うくらい電話してくれよ。たとえ放送局員の全員が気が狂ったとしても、ヒューズは絶対に飛ばない。いいね? よーし。今日もうんざりするような暑さだったがそんなものは御機嫌なロックを聴いて吹き飛ばそう。いいかい。素晴しい音楽ってのはそういうためにあるんだぜ。可愛い女の子と同じだ。オーケー、一曲目。これをただ黙って聴いてくれ。本当に良い曲だ。暑さなんて忘れちまう。ブルック・ベントン、「レイニー・ナイト・イン・ジョージア」。 OFF ……ふう……なんて暑さだい、まったく…… ……ねえ、クーラーもっときかないの? ……地獄だよ、ここは……おい、よしてくれよ、俺はね、汗っかきなんだ…… ……そう、そんなもんだ…… ……ねえ、喉が乾いちゃったよ、誰かよく冷えたコーラ持ってきてくれない? ……大丈夫さ。小便なんて出やしないよ。俺の膀胱はね、特別に頑丈に……そう、ボーコー…… ……ありがとう、ミッちゃん、素敵だよ……うむ、よく冷えてる…… ……ねえ、栓抜きがないよ…… ……馬鹿言え、歯で開くわきゃないだろ? ……おい、レコードが終るよ。時間が無いんだ、悪ふざけはよせよ……ねえ、栓抜き! ……畜生…… ON 素晴しいね、これが音楽だ。ブルック・ベントン、「雨のジョージア」、少しは涼しくなったかい? ところで今日の最高気温、何度だと思う? 37度だぜ、 37度。夏にしても暑すぎる。これじゃオーブンだ。 37度っていえば一人でじっとしてるより女の子と抱き合ってた方が涼しいくらいの温度だ。信じられるかい? オーケー、おしゃべりはこれくらいにしよう。どんどんレコードをかける。クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル、「フール・ストップ・ザ・レイン」、乗ってくれよ、ベイビー。 OFF ……おいおい、もういいよ、マイク・スタンドの角で開けちゃったよ…… ……ふう、うまい…… ……大丈夫だよ。しゃっくりなんて出やしないさ。心配性だね、あなたも…… ……ねえ、野球はどうなってる? ……他の局で中継やってんだろう? …… ……おい、ちょっとまってくれ、何故放送局にラジオが一台も無いんだ? 犯罪だよ、そりゃ…… ……わかったよ、もういいよ。それはそうと今度はビールが飲みたいね。グッと冷たい…… ……おい、参ったね、しゃっくりが出そうだよ…… ……ムッ…… 12 7時 15分に電話のベルが鳴った。 僕は居間の籐椅子に横になって、缶ビールを飲みながらひっきりなしにチーズ・クラッカーをつまんでいる最中だった。「やあ、こんばんは。こちらラジオ N・ E・ Bのポップス・テレフォン・リクエスト。ラジオ聴いててくれたかい?」 僕は口の中に残っていたチーズ・クラッカーを慌ててビールで喉の奥に流しこんだ。「ラジオ?」「そう、ラジオ。文明が産んだ……ムッ……最良の機械だ。電気掃除機よりずっと精密だし、冷蔵庫よりずっと小さく、テレビよりずっと安い。君は今何してた。」「本を読んでました。」「チッチッチ、駄目だよ、そりゃ。ラジオを聴かなきゃ駄目さ。本を読んだって孤独になるだけさ。そうだろ?」「ええ。」「本なんてものはスパゲティーをゆでる間の時間つぶしにでも片手で読むもんさ。わかったかい?」「ええ。」「よーし、……ムッ……これで話ができそうだね。ねえ、しゃっくりの止まらなくなったアナウンサーと話したことあるかい?」「いいえ。」「じゃあ、これが最初だ。ラジオ聴いてるみんなも初めてだよな。ところで何故僕が放送中に君に電話してるかわかるかい?」「いいえ。」「実はね、君にリクエスト曲をプレゼントした女の子が……ムッ……いるわけなんだ。誰だかわかるかい?」「いいえ。」「リクエスト曲はビーチ・ボーイズの〈カリフォルニア・ガールズ〉、なつかしい曲だね。どうだい、これで見当はついた?」 僕はしばらく考えてから、全然わからないと言った。「ん……、困ったね。もし当たれば君に特製のTシャツが送られることになってるんだ。思い出してくれよ。」 僕はもう一度考えてみた。今度はほんの少しではあるけれど記憶の片隅に何かがひっかかっているのが感じられた。「カリフォルニア・ガールズ……ビーチ・ボーイズ……、どう思い出した?」「そういえば 5年ばかり前にクラスの女の子にそんなレコードを借りたことがあるな。」「どんな女の子?」「修学旅行の時に落としたコンタクト・レンズを捜してあげて、そのお礼にレコードを貸してくれたんだ。」「コンタクト・レンズねえ……、ところでレコードはちゃんと返した?」「いや、失くしちゃったんです。」「そりゃまずいよ。買ってでも返した方がいい。女の子に貸しは作っても……ムッ……借りは作るなってね、わかるだろ?」「はい。」「よーし。 5年前に修学旅行でコンタクト・レンズ落とした彼女、もちろんラジオは聴いてるね? えーと、それで彼女の名前は?」 僕はやっと思い出した名前を言った。「ねえ、彼がレコードを買って返してくれるそうだ。よかったね。……ところで君は幾つ?」 「21です。」「素敵な年だ。学生?」「はい。」 「……ムッ……」「え?」「何を専攻してる?」「生物学です。」「ほう……動物は好き?」「ええ。」「どんなところが?」 「……笑わないところかな。」「ほう、動物は笑わない?」「犬や馬は少しは笑います。」「ほほう、どんな時に?」「楽しい時。」 僕は何年かぶりに突然腹が立ち始めた。「じゃあ……ムッ……犬の漫才師なんてのがいてもいいわけだ。」「あなたがそうかもしれない。」「はっはっはっはっは。」 13「カリフォルニア・ガールズ」 イースト・コーストの娘はイカしてる。 ファッションだって御機嫌さ。 南部の女の子の歩き方、しゃべり方、 うん、ノックダウンだね。 中西部のやさしい田舎娘、 ハートにグッときちゃうのさ。 北部のかわいい女の子、 君をうっとり暖めてくれる。 素敵な女の子がみんな、 カリフォルニア・ガールならね……。 14 Tシャツは三日目の午後に郵便で送られてきた。 こんなシャツだ。 15 翌日の朝、僕はその真新しいチクチクするTシャツを着てしばらく港の辺りをあてもなく散歩してから、目についた小さなレコード店のドアを開けた。店には客の姿はなく、店の女の子が一人でカウンターに座り、うんざりした顔で伝票をチェックしながら缶コーラを飲んでいるだけだった。僕はしばらくレコード棚を眺めてから、突然彼女に見覚えがあることに気づいた。一週間前に洗面所に寝転がっていた小指のない女の子だ。やあ、と僕は言った。彼女は少し驚いて僕の顔を眺め、Tシャツを眺め、それから残りのコーラを飲み干した。「何故ここで働いてるってわかったの?」 彼女はあきらめたようにそう言った。「偶然さ。レコードを買いにきたんだ。」「どんな?」 「〈カリフォルニア・ガールズ〉の入ったビーチ・ボーイズの LP。」 彼女は疑り深そうに肯いてから立ち上がってレコード棚まで大股で歩き、よく訓練された犬のようにレコードを抱えて帰ってきた。「これでいいのね。」 僕は肯いて、ポケットに手をつっこんだまま店の中をぐるりと見回した。「それからベートーベンのピアノ・コンチェルトの 3番。」 彼女は黙って、今度は 2枚の LPを持って戻ってきた。「グレン・グールドとバックハウス、どちらがいいの?」「グレン・グールド。」 彼女は 1枚をカウンターに置き、 1枚をもとに戻した。「他には?」 「〈ギャル・イン・キャリコ〉の入ったマイルス・デイビス。」 今度は少し余分に時間がかかったが、彼女はやはりレコードを抱えて戻ってきた。「次は?」「それでいいよ。ありがとう。」 彼女はカウンターの上に 3枚のレコードを並べた。「これ、あなたが全部聴くの?」「いや、プレゼント用さ。」「気前がいいのね。」「らしいね。」 彼女は窮屈そうに肩をすくめ、五千五百五十円、と言った。僕は金を払い、レコードの包みを受け取った。「まあとにかく、あなたのおかげで昼までにレコードが 3枚売れたわ。」「良かった。」 彼女は溜息をついてカウンターの中の椅子に座り、伝票の束をもう一度繰り始めた。「いつも一人で店番してるの?」「もう一人女の子が居るわ。今は食事に出てるのよ。」「君は?」「彼女が帰ったら交代するの。」 僕はポケットから煙草を出して火を点け、彼女の作業をしばらく眺めた。「ねえ、もしよかったら一緒に食事しないか?」 彼女は伝票から目を離さずに首を振った。「一人で食事するのが好きなの。」「僕もそうさ。」「そう?」 彼女は面倒臭そうに伝票を脇にやり、プレイヤーにハーパース・ビザールの新譜をのせて針を下ろした。「じゃあ、何故誘うの?」「たまには習慣を変えてみたいんだ。」「一人で変えて。」 彼女は伝票を手もとに寄せて作業の続きを始めた。「もう私に構わないで。」 僕は肯いた。「前にも言ったと思うけど、あなたって最低よ。」彼女はそう言い終ると、唇を丸くすぼめたまま 4本の指で伝票の束をパラパラと繰った。 16 僕がジェイズ・バーに入った時、鼠はカウンターに肘をついて顔をしかめながら、電話帳ほどもあるヘンリー・ジェームズのおそろしく長い小説を読んでいた。「面白いかい?」 鼠は本から顔を上げて首を横に振った。「でもね、ずいぶん本を読んだよ。この間あんたと話してからさ。『私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する。』知ってるかい?」「いや。」「ロジェ・ヴァディム。フランスの映画監督さ。こんなのもあった。『優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができる、そういったものである。』」「誰だい、それは?」「忘れたね。本当だと思う?」「噓だ。」「何故?」「夜中の 3時に目が覚めて、腹ペコだとする。冷蔵庫を開けても何も無い。どうすればいい?」 鼠はしばらく考えてから大声で笑った。僕はジェイを呼んでビールとフライド・ポテトを頼み、レコードの包みを取り出して鼠に渡した。「なんだい、これは?」「誕生日のプレゼントさ。」「でも来月だぜ。」「来月にはもう居ないからね。」 鼠は包みを手にしたまま考えこんだ。「そうか、寂しいね、あんたが居なくなると。」鼠はそう言って包みを開け、レコードを取り出してしばらくそれを眺めた。「ベートーベン、ピアノ協奏曲第 3番、グレン・グールド、レナード・バーンステイン。ム……聴いたことないね。あんたは?」「ないよ。」「とにかくありがとう。はっきり言って、とても嬉しいよ。」 17 三日間、僕は彼女の電話番号を捜しつづけた。僕にビーチ・ボーイズの LPを貸してくれた女の子のだ。 僕は高校の事務所に行って卒業生名簿を調べあげ、それをみつけた。しかし僕がその番号にかけてみるとテープのアナウンスが出て、その番号は現在使われておりません、と言った。僕は番号調べを呼び出し彼女の名前を告げたが、交換手は 5分間捜しまわった末に、そういったお名前ではどうも電話帳には載っておりません、と言った。そういったお名前では、というところが良い。僕は礼を言って電話を切った。 翌日、僕はかつてクラス・メートだった何人かに電話をかけて、彼女について何か知らないかと訊ねてみたが、誰も彼女については何も知らなかったし、大部分は彼女が存在していたことさえ覚えてはいなかった。最後の一人は何故だかはわからないが僕に向って、お前となんかは口もききたくない、と言って電話を切った。 三日目に僕はもう一度学校に行き、事務所で彼女の進んだ大学の名前を教えてもらった。それは山の手にある二流の女子大の英文科だった。僕は大学の事務所に電話をかけ、自分はマコーミック・サラダドレッシングのモニター担当の者だがアンケートに関して彼女と連絡を取りたいので正確な住所と電話番号を知りたい。申しわけないが重要な用件なので、と丁寧に言った。事務員は調べておくので 15分後にもう一度電話を頂けないか、と言った。僕がビールを一本飲んでから電話をかけると、事務員は彼女は今年の3月に退学届けを出したと教えてくれた。理由は病気の療養です、と彼は言ったが、何の病気なのか、今ではサラダを食べられるほどに回復しているのか、そして何故休学届けではなく退学届けだったのか、といったことについては何も知らなかった。 古い住所でもいいんだけどわかりますか、と僕が訊ねると、彼はそれを調べてくれた。学校に近い下宿屋だった。僕がそこに電話をかけてみると女主人らしい人物が出て、彼女は春に部屋を出たっきり行く先は知らない、と言って電話を切った。知りたくもない、といった切り方だった。 それが僕と彼女を結ぶラインの最後の端だった。 僕は家に戻り、ビールを飲みながら一人で「カリフォルニア・ガールズ」を聴いた。 18 電話のベルが鳴った。 僕は籐椅子の上で半分眠りながら、開いたままの本をぼんやりと眺めていた。大粒の夕立がやってきて庭の木々の葉を湿らせ、そして立ち去った。雨が通り過ぎた後には海の匂いのする湿っぽい南風が吹き始め、ベランダに並んだ鉢植の観葉植物の葉を微かに揺らせ、そしてカーテンを揺らせた。「もしもし、」と女が言った。それはまるで安定の悪いテーブルに薄いグラスをそっと載せるようなしゃべり方だった。「私のことを覚えてる?」 僕は少し考える振りをした。「レコードの売れ具合はどう?」「たいして良くないわ。……不景気なのね、きっと。誰もレコードなんて聴かないのよ。」「うん。」 彼女は受話器の縁を爪でコツコツと叩いた。「あなたの電話番号捜すのに随分苦労したわ。」「そう?」 「『ジェイズ・バー』で訊ねてみたの。店の人があなたのお友達に訊ねてくれたわ。背の高いちょっと変った人よ。モリエールを読んでたわ。」「なるほどね。」 沈黙。「みんな寂しがってたわ。一週間も来ないのは体の具合が悪いんじゃないかってね。」「そんなに人気があったとは知らなかったな。」 「……私のことを怒ってる?」「どうして?」「ひどいことを言ったからよ。それで謝りたかったの。」「ねえ、僕のことなら何も気にしなくていい。それでも気になるんなら公園に行って鳩に豆でもまいてやってくれ。」 彼女が溜息をついて、煙草に火を点けるのが受話器の向うから聞こえた。その後ろからはボブ・ディランの「ナッシュヴィル・スカイライン」が聴こえる。店の電話なのだろう。「あなたがどう感じてるかって問題じゃないのよ。少くともあんな風に言うべきじゃなかったと思うの。」彼女は早口でそう言った。「自分に厳しいんだね。」「ええ、そうありたいとはいつも思ってるわ。」 彼女はしばらく黙った。「今夜会えるかしら。」「いいよ。」 「8時にジェイズ・バーで。いい?」「わかった。」 「……ねえ、いろんな嫌な目にあったわ。」「わかるよ。」「ありがとう。」 彼女は電話を切った。 19 話せば長いことだが、僕は 21歳になる。 まだ充分に若くはあるが、以前ほど若くはない。もしそれが気にいらなければ、日曜の朝にエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りる以外に手はない。 大恐慌を扱った古い映画の中でこんなジョークを聞いたことがある。「ねえ、僕はエンパイア・ステート・ビルの下を通りかかる時にはいつも傘をさすんだ。だって上から人がバラバラ落ちてくるからね。」 僕は 21歳で、少くとも今のところは死ぬつもりはない。僕はこれまでに三人の女の子と寝た。 最初の女の子は高校のクラス・メートだったが、僕たちは 17歳で、お互いに相手を愛していると信じこんでいた。夕暮の繁みの中で彼女は茶色のスリップオン・シューズを脱ぎ、白い綿の靴下を脱ぎ、淡い緑のサッカー地のワンピースを脱ぎ、あきらかにサイズが合わないとわかる奇妙な下着を取り、少し迷ってから腕時計も取った。それから僕たちは朝日新聞の日曜版の上で抱き合った。 僕たちは高校を卒業してほんの数ヵ月してから突然別れた。理由は忘れたが、忘れる程度の理由だった。それ以来彼女には一度も会っていない。眠れぬ夜に、僕は時々彼女のことを考える。それだけだ。 二人目の相手は地下鉄の新宿駅であったヒッピーの女の子だった。彼女は 16歳で一文無しで寝る場所もなく、おまけに乳房さえ殆んどなかったが、頭の良さそうな綺麗な目をしていた。それは新宿で最も激しいデモが吹き荒れた夜で、電車もバスも何もかもが完全に止まっていた。「そんな所でウロウロしてるとパクられるぜ。」と僕は彼女に言った。彼女は閉鎖された改札の中にうずくまって、ゴミ箱から拾ってきたスポーツ新聞を読んでいた。「でも警察は食べさせてくれるわ。」「ひどい目にあわされるぞ。」「慣れてるもの。」 僕は煙草に火を点け、彼女にも一本をやった。催涙ガスのおかげで目がチクチクと痛んだ。「食ってないのか?」「朝からね。」「ねえ、何か食べさせてやるよ。とにかく外に出よう。」「何故食べさせてくれるの?」「さあね。」何故だかは僕にもわからなかったが、僕は彼女を改札からひきずり出し、人通りの途絶えた道を目白まで歩いた。 そのひどく無口な少女は一週間ばかり僕のアパートに滞在した。彼女は毎日昼すぎに目覚め、食事をして煙草を吸い、ぼんやりと本を読み、テレビを眺め、時折僕と気のなさそうなセックスをした。彼女の唯一の持ち物は白いキャンバス地のバッグで、その中にはぶ厚いウインド・ブレーカーと 2枚のTシャツ、ブルー・ジーンが 1本、汚れた 3枚の下着とタンポンが 1箱入っているだけだった。「何処から来たの?」 ある時、僕はそう訊ねてみた。「あなたの知らない所よ。」 彼女はそう答え、それ以上は口をきかなかった。 僕がある日スーパー・マーケットから食料品の袋をかかえて戻ってみると、彼女の姿は消えていた。彼女の白いバッグも消えていた。それ以外に消えたものも幾つかあった。机の上にばらまいておいた僅かばかりの小銭と、カートン・ボックス入りの煙草、それに洗いたての僕のTシャツである。机の上には書き置きらしいノートの切れ端があり、そこにはたった一言、「嫌な奴」と記されていた。恐らく僕のことなのだろう。 三人目の相手は大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生だったが、彼女は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた。今では日が暮れると誰もその林には近づかない。 20 彼女はジェイズ・バーのカウンターに居心地悪そうに腰かけ、氷が殆んど溶けてしまったジンジャー・エールのグラスの底をストローでかきまわしていた。「来ないのかと思ったわ。」 僕が隣りに座ると、彼女は少しほっとしたように言った。「すっぽかしたりはしないよ。用事があって少し遅れたんだ。」「どんな用事?」「靴さ。靴を磨いてたんだ。」「そのバスケットボール・シューズのこと?」 彼女は僕の運動靴を指さして疑ぐり深そうにそう言った。「まさか。親父の靴さ。家訓なんだよ。子供はすべからく父親の靴を磨くべしってね。」「何故?」「さあね。きっと靴が何かの象徴だと思ってるのさ。とにかくね、親父は毎晩判で押したみたいに 8時に家に帰ってくる。僕は靴を磨いて、それからいつもビールを飲みに飛んで出るんだ。」「良い習慣ね。」「そう思う?」「ええ。お父さんに感謝するべきよ。」「親父の足が二本しかないことにはいつも感謝してる。」 彼女はクスクス笑った。「きっと立派なお家なのね。」「ああ、立派な上に金がないとくれば、嬉しくて涙が出るよ。」 彼女はストローの先でジンジャー・エールをかきまわし続けた。「でも私の家の方がずっと貧乏だったわ。」「何故わかる?」「匂いよ。金持ちが金持ちを嗅ぎわけられるように、貧乏な人間には貧乏な人間を嗅ぎわけることができるのよ。」 ジェイの持ってきたビールを僕はグラスに注いだ。「両親は何処に居る?」「話したくないわ。」「どうして?」「立派な人間は自分の家のゴタゴタなんて他人に話したりしないわ。そうでしょ?」「君は立派な人間?」 15秒間、彼女は考えた。「そうなりたいとは思ってるわ。かなり真剣にね。誰だってそうでしょ?」 僕はそれには答えないことにした。「でも、話した方がいい。」僕はそう言った。「何故?」「第一に、どうせいつかは誰かに話すことになるし、第二に僕ならそのことについて誰にもしゃべらない。」 彼女は笑って煙草に火を点け、煙を 3回吐き出す間、黙ってカウンターの羽目板の木目を眺めていた。「お父さんは五年前に脳腫瘍で死んだの。ひどかったわ。丸二年苦しんでね。私たちはそれでお金を使い果したのよ。きれいさっぱり何もなし。おまけに家族はクタクタになって空中分解。よくある話よ。そうでしょ?」 僕は肯いた。「お母さんは?」「何処かで生きてるわ。年賀状が来るもの。」「好きじゃないみたいだね。」「そうね。」「兄弟は?」「双子の妹がいるの。それだけ。」「何処に居る?」「三万光年くらい遠くよ。」 彼女はそう言ってしまうと神経質そうに笑い、ジンジャー・エールのグラスを脇に押しやった。「家族の悪口なんて確かにあまり良いもんじゃないわね。気が滅入るわ。」「気にすることはないさ。誰だって何かを抱えてるんだよ。」「あなたもそう?」「うん。いつもシェービング・クリームの缶を握りしめて泣くんだ。」 彼女は楽しそうに笑った。何年か振り、といった笑い方だった。「ねえ、何故ジンジャー・エールなんて飲んでるの?」僕はそう訊ねてみた。「まさか禁酒してるわけじゃないんだろ?」「ん……、そのつもりだったんだけど、もういいわ。」「何を飲む?」「よく冷えた白ワイン。」 僕はジェイを呼んで新しいビールと白ワインを注文した。「ねえ、双子の姉妹がいるってどんな感じ?」「そうね、変な気分よ。同じ顔で、同じ知能指数で、同じサイズのブラジャーをつけて……、いつもうんざりしてたわ。」「よく間違えられた?」「ええ、八つの時まではね。その年に私は 9本しか手の指がなくなったから、もう誰も間違えなくなったわ。」 彼女はそう言って、コンサート・ピアニストが意識を集中する時のように、両手をきちんとくっつけたままカウンターに並べた。僕は彼女の左手を取って、ダウンライトの光の下で注意深く眺めた。カクテル・グラスのようにひんやりとした小さな手で、そこには生まれつきそうであるかのようにごく自然に、 4本の指が気持良さそうに並んでいた。その自然さは奇跡に近いものだったし、少くとも指が 6本並んでいるよりは遥かに説得力があった。「八つの時に電気掃除機のモーターに小指をはさんだの。はじけ飛んだわ。」「今、何処にある?」「何が?」「小指さ。」「忘れたわ。」彼女はそう言って笑った。「そんなこと訊いた人、あなたが初めてよ。」「小指のないことは気になる?」「ええ、手袋をつける時にね。」「それ以外には?」 彼女は首を振った。「全くないと言えば噓ね。でも他の女の子が首の太いのやすね毛の濃いのを気にするのと同じ程度よ。」 僕は肯いた。「あなたは何してるの?」「大学に通ってる。東京のね。」「帰省中なのね。」「そう。」「何を勉強してるの?」「生物学。動物が好きなんだ。」「私も好きよ。」 僕はグラスに残ったビールを飲み干し、フライド・ポテトを幾つかつまんだ。「ねえ……、インドのバガルプールに居た有名な豹は 3年間に 350人ものインド人を食い殺した。」「そう?」「そして豹退治に呼ばれたイギリス人のジム・コルヴェット大佐はその豹も含めて 8年間に 125匹の豹と虎を撃ち殺した。それでも動物が好き?」 彼女は煙草をもみ消し、ワインを一口飲んでから感心したようにしばらく僕の顔を眺めた。「あなたって確かに少し変ってるわ。」 21 三人目のガール・フレンドが死んだ半月後、僕はミシュレの「魔女」を読んでいた。優れた本だ。そこにこんな一節があった。「ロレーヌ地方のすぐれた裁判官レミーは八百の魔女を焼いたが、この『恐怖政治』について勝ち誇っている。彼は言う、『わたしの正義はあまりにあまねきため、先日捕えられた十六名はひとが手をくだすのを待たず、まずみずからくびれてしまったほどである。』」(篠田浩一郎・訳) 私の正義はあまりにあまねきため、というところがなんともいえず良い。 22 電話のベルが鳴った。 僕はプール通いですっかり赤く焼けた顔を、カーマイン・ローションで冷やしている最中だった。 10回ベルをやりすごしてから僕はあきらめて顔の上に市松模様に綺麗に並べたカット綿を払い落し、椅子から立ち上がって受話器を取った。「こんにちは。私よ。」「やあ。」と僕は言った。「何かしてたの?」「何もしてないさ。」 僕は首に巻いたタオルでひりひりする顔を拭った。「昨日は楽しかったわ。久し振りにね。」「そりゃ良かった。」「ん……、ビーフ・シチューは好き?」「ああ。」「作ったんだけど、私一人じゃ食べ切るのに一週間はかかるわ。食べに来ない。」「悪くないな。」「オーケー、一時間で来て。もし遅れたら全部ゴミ箱に放り込んじゃうわよ。わかった?」「ねえ……。」「待つのが嫌いなのよ。それだけ。」 彼女はそう言うと、僕が口を開くのも待たずに電話を切った。 僕はソファーにもう一度寝ころんでラジオのトップ・フォーティーを聴きながら 10分ばかりぼんやりと天井を眺め、そしてシャワーに入り熱い湯で丁寧に髭を剃ると、クリーニングから戻ったばかりのシャツとバーミューダ・ショーツを着た。気持の良い夕方だった。僕は海岸に沿って夕陽を見ながら車を走らせ、国道に入る手前で冷えたワインを二本と煙草のカートン・ボックスを買った。 彼女がテーブルを片付けてその上に真白な食器を並べている間、僕はワインのコルク栓を果物ナイフの先でこじ開けていた。ビーフ・シチューの湿っぽい熱気で部屋の中はひどく蒸し暑かった。「こんなに暑くなるとは思わなかったわ。まるで地獄ね。」「地獄はもっと暑い。」「見てきたみたいね。」「人に聞いたんだ。あんまり暑いんで気が狂いそうになるともう少し涼しいところにやられるんだ。そしてそこで少し持ち直すと、またもとの場所に戻される。」「サウナ風呂ね、まるで。」「そんなもんだ。でも中には気が狂って、もうもとには戻らないやつもいる。」「そんな人はどうするの?」「天国に連れてかれるのさ。そしてそこで壁のペンキ塗りをやらされるんだ。つまりね、天国の壁はいつも真白でなくちゃならないんだ。シミひとつあっちゃ困るのさ。イメージが悪くなるからね。そんなわけで毎日朝から晩までペンキ塗りばかりしてるんで大抵の奴は気管を悪くする。」 彼女はそれ以上は何も質問しなかった。僕は瓶の中に落ちたコルクの屑を注意深く取り去ってから、グラスに二つ分注いだ。「冷たいワインと暖かい心。」 乾杯する時、彼女はそう言った。「何んだい、それは?」「テレビのコマーシャルよ。冷たいワインと暖かい心。見たことないの?」「ないね。」「テレビは見ない?」「少しだけ見る。昔はよく見たけどね。一番好きなのは名犬ラッシーだったな。もちろん初代のね。」「動物が好きなのね。」「うん。」「私なんて暇さえあれば一日中でも見てるわ。何もかもよ。昨日はね、生物学者と化学者の討論会を見たわ。あなたも見た?」「いや。」 彼女はワインを一口飲んで、思い出すように軽く首を振った。「ねえ、パスツールは科学的直感力を持っていたのよ。」「科学的直感力?」 「……つまりね、通常の科学者はこんな風に考えるのよ。 Aイコール B、 Bイコール C、故に Aイコール C、 Q・ E・ D、そうでしょ?」 僕は肯いた。「でもパスツールは違うの。彼の頭の中にあるのは Aイコール C、それだけなのよ。証明なんて何もないのね。でも彼の理論の正しかったことは歴史が証明したし、彼は生涯に数え切れないくらいの貴重な発見をしたわ。」「種痘。」 彼女はワイン・グラスをテーブルの上に置き、あきれた顔で僕を見た。「ねえ、種痘はジェンナーでしょ? よく大学に入れたわね。」 「……狂犬病の抗体、それに減温殺菌、かな。」「正解。」 彼女は歯を見せずに得意そうに笑ってからグラスのワインを飲み干し、新しく自分で注いだ。「テレビの討論会ではそういった能力を科学的直感力って呼んでいたの。あなたにはある?」「殆んど無いな。」「あればいいと思う?」「何かの役には立つかもしれないな。女の子と寝る時に使えるかもしれない。」 彼女は笑って台所に行き、シチュー鍋とサラダ・ボールとロールパンを持って戻ってきた。いっぱいに開けた窓から涼しい風がやっと少しずつ入ってきた。 僕たちは彼女のプレイヤーでレコードを聴きながらゆっくりと食事をした。その間、彼女は主に僕の大学と東京での生活について質問した。たいして面白い話ではない。猫を使った実験の話や(もちろん殺したりはしない、と僕は噓をついた。主に心理面での実験なんだ、と。しかし本当のところ僕は二ヵ月の間に 36匹もの大小の猫を殺した。)、デモやストライキの話だ。そして僕は機動隊員に叩き折られた前歯の跡を見せた。「復讐したい?」「まさか。」と僕は言った。「何故? 私があなただったら、そのオマワリをみつけだして金槌で歯を何本か叩き折ってやるわ。」「僕は僕だし、それにもうみんな終ったことさ。だいいち機動隊員なんてみんな同じような顔してるからとてもみつけだせやしないよ。」「じゃあ、意味なんてないじゃない?」「意味?」「歯まで折られた意味よ。」「ないさ。」と僕は言った。 彼女はつまらなさそうに唸ってからビーフ・シチューを一口食べた。 僕たちは食後のコーヒーを飲み、狭い台所に並んで食器を洗ってからテーブルに戻ると、煙草に火を点けて M・ J・ Qのレコードを聴いた。 彼女は乳首の形がはっきり見える薄いシャツを着て、腰まわりのゆったりとした綿のショート・パンツをはいていたし、おまけにテーブルの下で僕たちの足は何度もぶつかって、その度に僕は少しずつ赤くなった。「おいしかった?」「とてもね。」 彼女は下唇を軽く嚙んだ。「何故いつも訊ねられるまで何も言わないの?」「さあね、癖なんだよ。いつも肝心なことだけ言い忘れる。」「忠告していいかしら?」「どうぞ。」「なおさないと損するわよ。」「多分ね。でもね、ポンコツ車と同じなんだ。何処かを修理すると別のところが目立ってくる。」 彼女は笑って、レコードをマービン・ゲイに替えた。時計は 8時近くを指している。「今日は靴を磨かなくていいの?」「夜中に磨くさ。歯と一緒にね。」 彼女はテーブルに細い両肘をつき、その上に気持良さそうに顎を載せたまま僕の目をのぞきこむようにしてしゃべった。そしてそれは僕をひどくどぎまぎさせた。僕は煙草に火を点けたり窓の外を眺める振りをして何度か目をそらせようとしたが、その度に彼女は余計におかしそうに僕を眺めた。「ねえ、信じてもいいわよ。」「何を?」「あなたがこの間、私に何もしなかったことよ。」「何故そう思う?」「聞きたい?」「いや。」と僕は言った。「そう言うと思ったわ。」彼女はクスクス笑って僕のグラスにワインを注いで、それから何かを考えるように暗い窓を眺めた。「時々ね、誰にも迷惑をかけないで生きていけたらどんなに素敵だろうって思うわ。できると思う?」 彼女はそう訊ねた。「どうかな?」「ねえ、あなたに迷惑かけてないかしら?」「大丈夫だよ。」「今のところはね?」「今のところは。」 彼女はテーブル越しにそっと手を伸ばして僕の手に重ね、しばらくそのままにしてから元に戻した。「明日から旅行するの。」「何処に?」「決めてないわ。静かで涼しいところに行くつもりよ。一週間ほどね。」 僕は肯いた。「帰ったら電話するわ。」 ☆ 帰り道、僕は車の中で突然、初めてデートした女の子のことを思い出した。七年前の話だ。 僕はデートしている間、始めから終りまで、「ねえ、退屈じゃない?」と訊ね続けていたような気がする。 僕たちはエルヴィス・プレスリーの主演映画を観た。主題歌はこんな唄だった。「僕は彼女と喧嘩した。だから彼女に手紙を書いた。ごめんね、僕が悪かった、ってさ。でも手紙は返ってきた。宛先不明、受取人不明。」 時は、余りにも早く流れる。 23 僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ。 ☆ 僕は以前、人間の存在理由をテーマにした短かい小説を書こうとしたことがある。結局小説は完成しなかったのだけれど、その間じゅう僕は人間のレーゾン・デートゥルについて考え続け、おかげで奇妙な性癖にとりつかれることになった。全ての物事を数値に置き換えずにはいられないという癖である。約 8ヵ月間、僕はその衝動に追いまわされた。僕は電車に乗るとまず最初に乗客の数をかぞえ、階段の数を全てかぞえ、暇さえあれば脈を測った。当時の記録によれば、 1969年の8月 15日から翌年の4月 3日までの間に、僕は 358回の講義に出席し、 54回のセックスを行い、 6921本の煙草を吸ったことになる。 その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上った階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失ない、ひとりぼっちになった。 ☆ そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は 6922本めの煙草を吸っていた。 24 その夜、鼠は一滴もビールを飲まなかった。これは決して良い徴候ではない。そのかわりに、ジム・ビームのロックをたてつづけに 5杯飲んだ。 僕たちは店の奥にある薄暗いコーナーでピンボールを相手に時間を潰した。幾ばくかの小銭の代償に死んだ時間を提供してくれるただのガラクタだ。しかし鼠はどんなものに対しても真剣だった。だから僕がその夜の 6回のゲームのうちの 2回を勝てたのは殆んど奇跡に近いことだった。「ねえ、どうしたんだ?」「何もないさ。」と鼠は言った。 僕たちはカウンターに戻り、ビールとジム・ビームを飲んだ。 そして殆んど何もしゃべらず、黙り込んだままジューク・ボックスに次々にかかるレコードをただぼんやりと聴いていた。「エブリデイ・ピープル」、「ウッドストック」、「スピリット・イン・ザ・スカイ」、「ヘイ・ゼア・ロンリー・ガール」……。「頼みがあるんだ。」と鼠が言った。「どんな?」「人に会ってほしいんだ。」 「……女?」 少し迷ってから鼠は肯いた。「何故僕に頼む?」「他に誰が居る?」鼠は早口でそう言うと 6杯目のウィスキーの最初の一口を飲んだ。「スーツとネクタイ持ってるかい?」「持ってるさ。でも……」「明日の 2時。」と鼠が言った。「ねえ、女って一体何を食って生きてるんだと思う?」「靴の底。」「まさか。」と鼠が言った。 25 鼠の好物は焼きたてのホット・ケーキである。彼はそれを深い皿に何枚か重ね、ナイフできちんと4つに切り、その上にコカ・コーラを 1瓶注ぎかける。 僕が初めて鼠の家を訪れた時、彼は5月のやわらかな日ざしの下にテーブルを持ち出して、その不気味な食物を胃の中に流しこんでいる最中だった。「この食い物の優れた点は、」と鼠は僕に言った。「食事と飲み物が一体化していることだ。」 木々の生い繁った広い庭には様々な色と形の野鳥が集り、芝生いっぱいにまかれた白いポップコーンを懸命についばんでいた。 26 僕が寝た三番目の女の子について話す。 死んだ人間について語ることはひどくむずかしいことだが、若くして死んだ女について語ることはもっとむずかしい。死んでしまったことによって、彼女たちは永遠に若いからだ。 それに反して生き残った僕たちは一年ごと、一月ごと、一日ごとに齢を取っていく。時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐しいことに、それは真実なのだ。 ☆ 彼女は決して美人ではなかった。しかし「美人ではなかった」という言い方はフェアではないだろう。「彼女は彼女にとってふさわしいだけの美人ではなかった」というのが正確な表現だと思う。 僕は彼女の写真を一枚だけ持っている。裏に日付けがメモしてあり、それは 1963年8月となっている。ケネディー大統領が頭を撃ち抜かれた年だ。彼女は何処かの避暑地らしい海岸の防潮堤に座り、少し居心地悪そうに微笑んでいる。髪はジーン・セバーグ風に短かく刈り込み(どちらかというとその髪型は僕にアウシュヴィツを連想させたのだが)、赤いギンガムの裾の長いワンピースを着ている。彼女は幾らか不器用そうに見え、そして美しかった。それは見た人の心の中の最もデリケートな部分にまで突き通ってしまいそうな美しさだった。 軽くあわされた唇と、繊細な触角のように小さく上を向いた鼻、自分でカットしたらしい前髪は無造作に広い額に落ちかかり、そこからわずかに盛り上がった頰にかけて微かなニキビの痕跡が残っている。 彼女は 14歳で、それが彼女の 21年の人生の中で一番美しい瞬間だった。そしてそれは突然に消え去ってしまった、としか僕には思えない。どういった理由で、そしてどういった目的でそんなことが起こり得るのか、僕にはわからない。誰にもわからない。 ☆ 彼女は真剣に(冗談ではなく)、私が大学に入ったのは天の啓示を受けるためよ、と言った。それは朝の 4時前で、僕たちは裸でベッドの中にいた。僕は天の啓示とはどんなものなのかと訊ねてみた。「わかるわけないでしょ。」と彼女は言ったが、少し後でこうつけ加えた。「でもそれは天使の羽根みたいに空から降りてくるの。」 僕は天使の羽根が大学の中庭に降りてくる光景を想像してみたが、遠くから見るとそれはまるでティッシュ・ペーパーのように見えた。 ☆ 何故彼女が死んだのかは誰にもわからない。彼女自身にわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う。 27 僕は嫌な夢を見ていた。 僕は黒い大きな鳥で、ジャングルの上を西に向かって飛んでいた。僕は深い傷を負い、羽には血の痕が黒くこびりついている。西の空には不吉な黒い雲が一面に広がり始め、あたりには微かな雨の香りがした。 夢を見たのは久し振りだった。あまり久し振りだったので、それが夢だと気づくまでにしばらく時間がかかった。 僕はベッドから起き上がり、シャワーで体中の嫌な汗を流してからトーストとリンゴ・ジュースで朝食を済ませた。煙草とビールのおかげで喉はまるで古綿をつめこまれたような味がする。食器を流しに放り込んでから、僕はオリーブ・グリーンのコットン・スーツとなるべくきちんとプレスされたシャツ、それに黒いニット・タイを選び、それを手に抱えたまま応接室のエア・コンの前に座った。 テレビのニュース・ショーのアナウンサーは、今日は夏一番の暑さになるでしょう、と得意気に断言していた。僕はテレビを消すと隣りにある兄の部屋に入り、厖大な本の山から何冊かを選び出し、応接室のソファーに寝転んでそれを眺めた。 二年前、兄は部屋いっぱいの本とガール・フレンドを一人残したまま理由も言わずにアメリカに行ってしまった。彼女と僕は時折一緒に食事をする。僕たち兄弟は本当によく似ている、と彼女は言う。「何処が?」僕は驚いて彼女にそう訊ねてみた。「全部よ。」と彼女は言った。 そのとおりかもしれない。そしてそれは僕たちが十何年間交代で磨き続けた靴のせいだと思う。 時計が 12時を指し、僕は外の暑さを想ってうんざりしながらネクタイを結び、上着を着こんだ。 時間はたっぷりあったし、するべきことは何もない。僕は街の中をゆっくりと車で回ってみた。海から山に向かって伸びた惨めなほど細長い街だ。川とテニス・コート、ゴルフ・コース、ずらりと並んだ広い屋敷、壁そして壁、幾つかの小綺麗なレストラン、ブティック、古い図書館、月見草の繁った野原、猿の檻のある公園、街はいつも同じだった。 僕は山の手特有の曲りくねった道をしばらく回ってから、川に沿って海に下り、川口近くで車を下りて川で足を冷やした。テニス・コートではよく日焼けした女の子が二人、白い帽子をかぶりサングラスをかけたままボールを打ち合っていた。日差しは午後になって急激に強まり、ラケットを振るたびに彼女たちの汗はコートに飛び散った。 僕は 5分ばかりそれを眺めてから車に戻り、シートを倒して目を閉じ、しばらく波の音に混じったそのボールを打ち合う音をぼんやりと聞き続けた。微かな南風の運んでくる海の香りと焼けたアスファルトの匂いが、僕に昔の夏を想い出させた。女の子の肌のぬくもり、古いロックン・ロール、洗濯したばかりのボタン・ダウン・シャツ、プールの更衣室で喫った煙草の匂い、微かな予感、みんないつ果てるともない甘い夏の夢だった。そしてある年の夏(いつだったろう?)、夢は二度と戻っては来なかった。 僕が 2時ぴったりに「ジェイズ・バー」の前に車を着けた時、鼠はガードレールに腰かけてカザンザキスの「再び十字架にかけられたキリスト」を読んでいた。「彼女は何処にいるんだ?」僕はそう訊ねてみた。 鼠は黙って本を閉じ、車に乗りこんでからサングラスをかけた。「止めたよ。」「止めた?」「止めたんだ。」 僕は溜息をついてネクタイをゆるめ、上着を後ろの座席に放り投げてから煙草に火を点けた。「さて、何処かに行きますか?」「動物園。」「いいね。」と僕は言った。 28 街について話す。僕が生まれ、育ち、そして初めて女の子と寝た街である。 前は海、後ろは山、隣りには巨大な港街がある。ほんの小さな街だ。港からの帰り、国道を車で飛ばす時には煙草は吸わないことにしている。マッチをすり終るころには車はもう街を通りすぎているからだ。 人口は 7万と少し。この数字は 5年後にも殆んど変わることはあるまい。その大抵は庭のついた二階建ての家に住み、自動車を所有し、少なからざる家は自動車を 2台所有している。 この数字は僕の好い加減な想像ではなく、市役所の統計課が年度末にきちんと発表したものである。二階建ての家というところが良い。 鼠は三階建ての家に住んでおり、屋上には温室までついている。斜面をくりぬいた地下はガレージになっていて、父親のベンツと鼠のトライアンフ T R Ⅲが仲良く並んでいる。不思議なことに、鼠の家で最も家庭らしい雰囲気を備えているのがこのガレージであった。小型飛行機ならすっぽりと入ってしまいそうなほど広いガレージには型が古くなってしまったり飽きられたりしたテレビや冷蔵庫、ソファー、テーブル・セット、ステレオ装置、サイドボード、そんなものが所狭しと並べられ、僕たちはよくそこでビールを飲みながら気持ちの良い時間を過ごした。 鼠の父親については僕は殆んど何も知らない。会ったこともない。どんな人なのかと僕が訊ねると、俺よりずっと年上で、しかも男だ、と鼠はきっぱりと言った。 噂によると鼠の父親は昔、ひどく貧乏だったらしい。戦前のことだ。彼は戦争の始まる直前に苦労して化学薬品の工場を手に入れ、虫よけの軟膏を売り出した。その効果にはかなりの疑問はあったが、うまい具合に戦線が南方に広がっていくと、軟膏は飛ぶように売れ始めた。 戦争が終ると彼は軟膏を倉庫に放りこんで、今度は怪し気な栄養剤を売りだし、朝鮮戦争の終る頃には突如それを家庭用洗剤に切り替えた。それらの成分はみな同じであるという話だった。ありそうなことだ。 25年前、ニューギニアのジャングルには虫よけ軟膏を塗りたくった日本兵の死体が山をなし、今ではどの家庭の便所にもそれと同じマークのついたトイレ用パイプ磨きが転がっている。 そんなわけで鼠の父親は金持ちになった。 もちろん僕の友だちには貧乏な家の子供もいる。彼の父親は市営バスの運転手だった。多分金持ちのバスの運転手だっているのだろうが、僕の友だちの父親は貧乏な方のバスの運転手だった。彼の家には殆んど両親が居なかったので、僕はよくそこに遊びに行った。父親はバスに乗っているか競馬場に居るかだったし、母親は一日中パート・タイムにでかけていた。 彼は僕の高校の同級生だったが、僕たちが友だちになったのにはちょっとしたきっかけがある。 ある日、昼休みに僕が小便をしていると、彼が隣りにやってきてズボンのジッパーを下ろした。僕たちは殆んど黙ったまま同時に小便を終え、一緒に手を洗った。「おい、いいものがあるんだ。」 彼はズボンの尻で手を拭きながらそう言った。「へえ。」「見せてやろうか?」 彼は財布から一枚の写真をひっぱり出して僕に渡した。それは裸の女がいっぱいに股を広げ、そこにビール瓶を突き立てている写真だった。「凄いだろ?」「確かにね。」「家に来ればもっと大変なのがあるぜ。」と彼は言った。 そんな風にして僕たちは友だちになった。 街にはいろんな人間が住んでいる。僕は 18年間、そこで実に多くを学んだ。街は僕の心にしっかりと根を下ろし、想い出の殆んどはそこに結びついている。しかし大学に入った春にこの街を離れた時、僕は心の底からホッとした。 夏休みと春休みに僕は街に帰ってくるが、大抵はビールを飲んで過ごす。 29 一週間ばかり鼠の調子はひどく悪かった。秋の近づいてきたせいもあるだろうし、例の女の子のせいもあるのかもしれない。鼠はそれについては一言もしゃべらなかった。 鼠の姿が見えない時、僕はジェイをつかまえてさぐりを入れてみた。「ねえ、鼠はどうしたんだと思う?」「さあね、あたしにもどうもよくわかんないよ。夏が終りかけてるからかね。」 秋が近づくと、いつも鼠の心は少しずつ落ちこんでいった。カウンターに座ってぼんやりと本を眺め、僕が何を話しかけても気の無さそうなとおりいっぺんの答えを返すだけだった。夕暮になって涼しい風が吹き、あたりにほんの僅かにでも秋の匂いが感じられる頃になると、鼠はぱったりとビールを止め、バーボンのロックを無茶苦茶に飲み、カウンターの横にあるジューク・ボックスに際限なく金を放り込み、ピンボールの機械を反則サインの出るまで蹴とばしてジェイを慌てさせた。「多分取り残されるような気がするんだよ。その気持はわかるね。」 とジェイは言った。「そう?」「みんな何処かに行っちまうんだよ。学校へ帰ったり、職場に戻ったりさ。あんただってそうだろ?」「そうだね。」「わかってやれよ。」 僕は肯いた。「例の女の子のことは?」「少したてば忘れるよ、きっと。」「何かまずいことでもあったの?」「どうかな?」 ジェイは口を濁して他の仕事に戻っていった。僕はそれ以上は何も訊かず、ジューク・ボックスに小銭を入れて何曲かを選び、カウンターに戻ってビールを飲んだ。 10分ばかりして、ジェイがもう一度僕の前にやってきた。「ねえ、鼠はあんたに何も言わなかった?」「うん。」「変だね。」「そう?」 ジェイは手にしたグラスを何度も磨きながら考えこんだ。「きっとあんたに相談したがっているはずだよ。」「何故しない?」「しづらいのさ。馬鹿にされそうな気がしてね。」「馬鹿になんかしないよ。」「そんな風に見えるのさ。昔からそんな気がしたよ。優しい子なのにね、あんたにはなんていうか、どっかに悟り切ったような部分があるよ。……別に悪く言ってるんじゃない。」「わかってるよ。」「ただね、あたしはあんたより 20も年上だし、その分だけいろんな嫌な目にもあってる。だから、これはなんていうか……。」「老婆心。」「そう。」 僕は笑ってビールを飲んだ。「鼠には僕の方から言い出してみるよ。」「うん、それがいいよ。」 ジェイは煙草を消して仕事に戻った。僕は席を立って洗面所に入り、手を洗うついでに鏡に顔を映してみた。そしてうんざりした気分でもう一本ビールを飲んだ。 30 かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。 高校の終り頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。 それがクールさとどう関係しているのかは僕にはわからない。しかし年じゅう霜取りをしなければならない古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ。 そんなわけで、僕は時の淀みの中ですぐに眠りこもうとする意識をビールと煙草で蹴とばしながらこの文章を書き続けている。熱いシャワーに何度も入り、一日に二回髭を剃り、古いレコードを何度も何度も聴く。今、僕の後ろではあの時代遅れなピーター・ポール&マリーが唄っている。「もう何も考えるな。終ったことじゃないか。」 31 翌日、僕は鼠を誘って山の手にあるホテルのプールにでかけた。夏も終りかけていたし、交通の不便なせいもあって、プールには 10人ほどの客しかいなかった。そしてその半分は泳ぎよりは日光浴に夢中になっているアメリカ人の泊り客だった。 旧華族の別邸を改築したホテルには芝生を敷きつめた立派な庭があり、プールと母屋を隔てているバラの垣根づたいに小高くなった丘に上ると、眼下に海と港と街がくっきりと見下ろせた。 僕と鼠は 25メートル・プールを競争して何度か往復してからデッキ・チェアに並んで座り、冷たいコーラを飲んだ。僕が呼吸を整えてから煙草を一服する間、鼠はたった一人で気持ち良さそうに泳ぎ続けているアメリカ人の少女をぼんやりと眺めていた。 晴れわたった空を、何機かのジェット機が凍りついたような白い飛行機雲を残して飛び去るのが見えた。「子供の頃はもっと沢山の飛行機が飛んでいたような気がするね。」 鼠が空を見上げてそう言った。「殆んどはアメリカ軍の飛行機だったけどね。プロペラの双胴のやつさ。覚えているかい?」 「P 38?」「いや、輸送機さ。 P 38よりはずっとでかいよ。とても低く飛んでいた時があってね、空軍のマークまで見えたな。……あと覚えてるのは DC 6、 DC 7、それにセイバー・ジェットを見たことがあるよ。」「随分古いね。」「そう、アイゼンハワーの頃さ。港に巡洋艦が入ると、街中 M Pと水兵だらけになってね。 MPは見たことあるかい?」「うん。」「いろんなものがなくなっていくね。もちろん兵隊なんて好きなわけじゃないんだけどね……。」 僕は肯いた。「セイバーは本当に素敵な飛行機だったよ。ナパームさえ落とさなきゃね。ナパームの落ちるところ見たことあるかい?」「戦争映画でね。」「人間ってのは実にいろんなものを考え出すものさ。また、それが本当によくできてるんだね。あと 10年もたてばナパームでさえ懐しくなるかもしれない。」 僕は笑って 2本目の煙草に火を点けた。「飛行機は好きなのかい?」「操縦士になりたいと思ったよ、昔ね。でも目を悪くしてあきらめた。」「そう?」「空が好きなんだ。いつまで見てても飽きないし、見たくない時には見なくて済む。」 鼠は 5分間ずっと黙っていたが、突然口を開いた。「時々ね、どうしても我慢できなくなることがあるんだ。自分が金持ちだってことにね。逃げだしたくなるんだよ。わかるかい?」「わかるわけないさ。」と僕はあきれて言った。「でも逃げ出せばいい。本当にそう思うんならね。」 「……多分ね、それが一番いいと思うよ。どこか知らない街に行ってね、そもそもの始めからやり直すんだ。それも悪かないよ。」「大学には戻らない?」「止めたんだ。戻りようもないさ。」 鼠はサングラスの奥から、まだ泳ぎ続けている女の子を目で追っていた。「何故止めた?」「さあね、うんざりしたからだろう? でもね、俺は俺なりに頑張ったよ。自分でも信じられないくらいにさ。自分と同じくらいに他人のことも考えたし、おかげでお巡りにも殴られた。だけどさ、時が来ればみんな自分の持ち場に結局は戻っていく。俺だけは戻る場所がなかったんだ。椅子取りゲームみたいなもんだよ。」「これから何をする?」 鼠はタオルで足を拭きながらしばらく考えた。「小説を書こうと思うんだ。どう思う。」「もちろん書けばいいさ。」 鼠は肯いた。「どんな小説?」「良い小説さ。自分にとってね。俺はね、自分に才能があるなんて思っちゃいないよ。しかし少くとも、書くたびに自分自身が啓発されていくようなものじゃなくちゃ意味がないと思うんだ。そうだろ?」「そうだね。」「自分自身のために書くか……それとも蟬のために書くかさ。」「蟬?」「ああ。」 鼠は裸の胸に吊したケネディー・コインのペンダントをしばらくいじくりまわしていた。「何年か前にね、女の子と二人で奈良に行ったことがあるんだ。ひどく暑い夏の午後でね、俺たちは 3時間ばかりかけて山道を歩いた。その間に俺たちの出会った相手といえば鋭い鳴き声を残して飛び立っていく野鳥とか畔道に転がって羽をバタバタさせているアブラ蟬とか、そんなところさ。なにしろ暑かったからね。 しばらく歩いた後で俺たちは夏草がきれいに生え揃ったなだらかな斜面に腰を下ろして、気持ちの良い風に吹かれて体の汗を拭いた。斜面の下には深い濠が広がって、その向う側には鬱蒼と木の繁った小高い島のような古墳があったんだ。昔の天皇のさ。見たことあるかい?」 僕は肯いた。「その時に考えたのさ。何故こんなにでかいものを作ったんだろうってね。……もちろんどんな墓にだって意味はある。どんな人間でもいつかは死ぬ、そういうことさ。教えてくれる。でもね、そいつはあまりに大きすぎた。巨大さってのは時々ね、物事の本質を全く別のものに変えちまう。実際の話、そいつはまるで墓には見えなかった。山さ。濠の水面は蛙と水草でいっぱいだし、柵のまわりは蜘蛛の巣だらけだ。 俺は黙って古墳を眺め、水面を渡る風に耳を澄ませた。その時に俺が感じた気持ちはね、とても言葉じゃ言えない。いや、気持ちなんてものじゃないね。まるですっぽりと包みこまれちまうような感覚さ。つまりね、蟬や蛙や蜘蛛や風、みんなが一体になって宇宙を流れていくんだ。」 鼠はそう言うと、もう泡の抜けてしまったコーラの最後の一口を飲んだ。「文章を書くたびにね、俺はその夏の午後と木の生い繁った古墳を思い出すんだ。そしてこう思う。蟬や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かが書けたらどんなに素敵だろうってね。」 語り終えてしまうと鼠は首の後ろに両手を組んで、黙って空を眺めた。「それで、……何か書いてみたのかい?」「いや、一行も書いちゃいないよ。何も書けやしない。」「そう?」「汝らは地の塩なり。」 「?」「塩もし効力を失わば、何をもてか之に塩すべき。」 鼠はそう言った。 夕方になって日が翳り始める頃、僕たちはプールから出て、マントバーニのイタリア民謡の流れるホテルの小さなバーに入り、冷たいビールを飲んだ。広い窓からは港の灯がくっきりと見えた。「女の子はどうしたんだ?」 僕は思い切ってそう訊ねてみた。 鼠は手の甲で口についた泡を拭い、考え込むように天井を眺めた。「はっきり言ってね、そのことについちゃあんたには何も言わないつもりだったんだ。馬鹿馬鹿しいことだからね。」「でも一度は相談しようとしただろう?」「そうだね。しかし一晩考えて止めた。世の中にはどうしようもないこともあるんだってね。」「例えば?」「例えば虫歯さ。ある日突然痛み出す。誰が慰めてくれたって痛みが止まるわけじゃない。そうするとね、自分自身に対してひどく腹が立ち始める。そしてその次に自分に対して腹を立ててない奴らに対して無性に腹が立ち始めるんだ。わかるかい?」「少しはね。」と僕は言った。「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いものもいる。タフなのもいりゃ弱いのもいる、金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何かを持ってるやつはいつか失くすんじゃないかとビクついてるし、何も持ってないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配してる。みんな同じさ。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ? 強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」「ひとつ質問していいか?」 僕は肯いた。「あんたは本当にそう信じてる?」「ああ。」 鼠はしばらく黙りこんで、ビール・グラスをじっと眺めていた。「噓だと言ってくれないか?」 鼠は真剣にそう言った。 僕は車で鼠を家まで送り届けてから、一人でジェイズ・バーに立ち寄った。「話せたかい?」「話せたよ。」「そりゃ良かった。」 ジェイはそう言って、僕の前にフライド・ポテトを置いた。 32 デレク・ハートフィールドは、その厖大な作品の量にもかかわらず人生や夢や愛について直接語ることの極めて稀な作家であった。比較的シリアス(シリアスというのは宇宙人や化け物が登場しないという意味でだが)な半自伝的作品、「虹のまわりを一周半」( 1937)の中でハートフィールドは皮肉や悪口や冗談や逆説にまぎらせて、ほんの少しだけ言葉短かに本音を披瀝している。「私はこの部屋にある最も神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。人生は空っぽである、と。しかし、もちろん救いはある。というのは、そもそもの始まりにおいては、それはまるっきりの空っぽではなかったからだ。私たちは実に苦労に苦労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減らし、空っぽにしてしまったのだ。どんな風に苦労し、どんな風にすり減らしてきたかはいちいちここには書かない。面倒だからだ。どうしても知りたい方はロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』を読んでいただきたい。そこに全部書かれている。」 ハートフィールドが「ジャン・クリストフ」をひどく気に入っていた理由は、ただ単にそれが一人の人間の誕生から死までを実に丹念に順序どおり描いてあるという点と、しかもそれが恐しく長い小説であるという点にあった。小説というものは情報である以上グラフや年表で表現できるものでなくてはならないというのが彼の持論であったし、その正確さは量に比例すると彼は考えていたからだ。 トルストイの「戦争と平和」については彼は常々批判的であった。もちろん量について問題はないが、と彼は述べている。そこには宇宙の観念が欠如しており、そのために作品は実にちぐはぐな印象を私に与える、と。「宇宙の観念」という言葉を彼が使う時、それは大抵「不毛さ」を意味した。 彼が一番気に入っていた小説は「フランダースの犬」である。「ねえ、君。絵のために犬が死ぬなんて信じられるかい?」と彼は言った。 ある新聞記者がインタヴューの中でハートフィールドにこう訊ねた。「あなたの本の主人公ウォルドは火星で二度死に、金星で一度死んだ。これは矛盾じゃないですか?」 ハートフィールドはこう言った。「君は宇宙空間で時がどんな風に流れるのか知っているのかい?」「いや、」と記者は答えた。「でも、そんなことは誰にもわかりゃしませんよ。」「誰もが知っていることを小説に書いて、いったい何の意味がある?」 ☆ ハートフィールドの作品のひとつに「火星の井戸」という彼の作品群の中でも異色な、まるでレイ・ブラドベリの出現を暗示するような短編がある。ずっと昔に読んだっきり細かいところは忘れてしまったが、大まかな筋だけをここに記す。 それは火星の地表に無数に掘られた底なしの井戸に潜った青年の話である。井戸は恐らく何万年の昔に火星人によって掘られたものであることは確かだったが、不思議なことにそれらは全部が全部、丁寧に水脈を外して掘られていた。いったい何のために彼らがそんなものを掘ったのかは誰にもわからなかった。実際のところ火星人はその井戸以外に何ひとつ残さなかった。文字も住居も食器も鉄も墓もロケットも街も自動販売機も、貝殻さえもなかった。井戸だけである。それを文明と呼ぶべきかどうかは地球人の学者の判断に苦しむところではあったが、確かにその井戸は実にうまく作られていたし、何万年もの歳月を経た後も煉瓦ひとつ崩れてはいなかった。 もちろん何人かの冒険家や調査隊が井戸に潜った。ロープを携えたものたちはそのあまりの井戸の深さと横穴の長さ故に引き返さねばならなかったし、ロープを持たぬものは誰一人として戻らなかった。 ある日、宇宙を彷徨う一人の青年が井戸に潜った。彼は宇宙の広大さに倦み、人知れぬ死を望んでいたのだ。下に降りるにつれ、井戸は少しずつ心地よく感じられるようになり、奇妙な力が優しく彼の体を包み始めた。 1キロメートルばかり下降してから彼は適当な横穴をみつけてそこに潜りこみ、その曲がりくねった道をあてもなくひたすらに歩き続けた。どれほどの時間歩いたのかはわからなかった。時計が止まってしまっていたからだ。二時間かもしれぬし、二日間かもしれなかった。空腹感や疲労感はまるでなかったし、先刻感じた不思議な力は依然として彼の体を包んでくれていた。 そしてある時、彼は突然日の光を感じた。横穴は別の井戸に結ばれていたのだ。彼は井戸をよじのぼり、再び地上に出た。彼は井戸の縁に腰を下ろし、何ひとつ遮るものもない荒野を眺め、そして太陽を眺めた。何かが違っていた。風の匂い、太陽……太陽は中空にありながら、まるで夕陽のようにオレンジ色の巨大な塊りと化していたのだ。「あと 25万年で太陽は爆発するよ。パチン…… OFFさ。 25万年。たいした時間じゃないがね。」 風が彼に向ってそう囁いた。「私のことは気にしなくていい。ただの風さ。もし君がそう呼びたければ火星人と呼んでもいい。悪い響きじゃないよ。もっとも、言葉なんて私には意味はないがね。」「でも、しゃべってる。」「私が? しゃべってるのは君さ。私は君の心にヒントを与えているだけだよ。」「太陽はどうしたんだ、一体?」「年老いたんだ。死にかけてる。私にも君にもどうしようもないさ。」「何故急に……?」「急にじゃないよ。君が井戸を抜ける間に約 15億年という歳月が流れた。君たちの諺にあるように、光陰矢の如しさ。君の抜けてきた井戸は時の歪みに沿って掘られているんだ。つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々には生もなければ死もない。風だ。」「ひとつ質問していいかい?」「喜んで。」「君は何を学んだ?」 大気が微かに揺れ、風が笑った。そして再び永遠の静寂が火星の地表を被った。若者はポケットから拳銃を取り出し、銃口をこめかみにつけ、そっと引き金を引いた。 33 電話のベルが鳴った。「帰ったわ。」と彼女が言った。「会いたいな。」「今出られる?」「もちろん。」 「5時に YWCAの門の前で。」 「YWCAで何してる?」「フランス語会話。」「フランス語会話?」 「OUI。」 僕は電話を切ってからシャワーに入り、ビールを飲んだ。僕がそれを飲み終えるころ、滝のような夕立が降り始めた。 僕が YWCAに着いた時には雨はもうすっかり上がっていたが、門を出てくる女の子たちは疑ぐり深そうに空を見上げながら傘をさしたりすぼめたりしていた。僕は門の向い側に車を止め、エンジンを切って煙草に火を点けた。雨で黒く濡れた門柱は荒野に立った 2本の墓石のように見える。 YWCAの薄汚れて陰気な建物の隣りには新しくはあるがその分だけ安手の貸ビルが建っていて、屋上には電気冷蔵庫の巨大な広告パネルが取り付けられていた。エプロンをつけた 30歳ばかりのいかにも貧血症といった感じの女が前かがみになって、それでも楽しそうにドアを開けているおかげで、僕は冷蔵庫の中身をのぞき見ることができた。 フリーザーには氷と 1リットル入りのバニラ・アイスクリーム、冷凍海老のパック、二段めには卵のケースとバターにカマンベール・チーズ、ボーンレス・ハム、三段めには魚と鶏のもも肉、一番下のプラスチック・ケースにはトマト、キュウリ、アスパラガス、レタスにグレープフルーツ、ドアにはコカ・コーラとビールの大瓶が 3本ずつ、それに牛乳のパックが入っていた。 僕は彼女を待つ間、ハンドルにもたれかかったまま冷蔵庫の中身を平らげる順番をずっと考えてみたが、何れにせよ 1リットルのアイスクリームはいかにも多すぎたし、ドレッシングの無いのは致命的だった。 彼女が門から出てきたのは 5時を少し過ぎる頃だった。彼女はラコステのピンクのポロシャツと白い綿のミニ・スカートをはき、髪を後で束ねて眼鏡をかけていた。一週間ばかりの間に彼女は三歳くらいは老けこんでいた。髪型と眼鏡のせいかもしれない。「ひどい雨だったわ。」助手席に乗り込むなり彼女はそう言って、神経質そうにスカートの裾を直した。「濡れた?」「少しね。」 僕は後の座席から、プール以来置きっ放しになっていたビーチ・タオルを取って彼女に手渡した。彼女はそれで顔の汗を拭き、髪を何度か拭ってから僕に返した。「降り出した時は近くでコーヒー飲んでたの。まるで洪水だったわ。」「でもおかげで涼しくはなったよ。」「そうね。」 彼女は肯いてから腕を窓の外につきだし、外の温度を確かめた。僕と彼女の間には、この前に会った時とは違った何かしらちぐはぐな空気があった。「旅行は楽しかった?」僕はそう訊ねてみた。「旅行になんて行かなかったの。あなたには噓をついてたのよ。」「何故噓なんてついた?」「後で話すわ。」 34 僕は時折噓をつく。 最後に噓をついたのは去年のことだ。 噓をつくのはひどく嫌なことだ。噓と沈黙は現代の人間社会にはびこる二つの巨大な罪だと言ってもよい。実際僕たちはよく噓をつき、しょっちゅう黙りこんでしまう。 しかし、もし僕たちが年中しゃべり続け、それも真実しかしゃべらないとしたら、真実の価値など失くなってしまうのかもしれない。 ☆ 去年の秋、僕と僕のガール・フレンドは裸でベッドの中にもぐりこんでいた。そして僕たちはひどく腹をすかせていた。「何か食べ物は無いかな?」僕は彼女にそう訊ねてみた。「捜してみるわ。」 彼女は裸のまま起き上がり、冷蔵庫を開けて古いパンをみつけだし、レタスとソーセージで簡単なサンドウィッチを作り、インスタントのコーヒーと一緒にベッドまで運んでくれた。それは 10月にしては少し寒すぎる夜で、ベッドに戻った時には彼女の体は缶詰の鮭みたいにすっかり冷えきっていた。「芥子はなかったわ。」「上等さ。」 僕たちは布団にくるまったままサンドウィッチを齧りながらテレビで古い映画を見た。「戦場にかける橋」だった。 最後に橋が爆破されたところで彼女はしばらく唸った。「何故あんなに一生懸命になって橋を作るの?」彼女は茫然と立ちすくむアレック・ギネスを指して僕にそう訊ねた。「誇りを持ち続けるためさ。」「ム……。」彼女は口にパンを頰ばったまま人間の誇りについてしばらく考え込んだ。いつものことだが、彼女の頭の中でいったい何が起こっているのか、僕には想像もつかなかった。「ねえ、私を愛してる?」「もちろん。」「結婚したい?」「今、すぐに?」「いつか……もっと先によ。」「もちろん結婚したい。」「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」「言い忘れてたんだ。」 「……子供は何人欲しい?」 「3人。」「男? 女?」「女が 2人に男が 1人。」 彼女はコーヒーで口の中のパンを嚥み下してからじっと僕の顔を見た。「噓つき!」 と彼女は言った。 しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか噓をつかなかった。 35 僕たちは港の近くにある小さなレストランに入り、簡単な食事を済ませてからブラディー・マリーとバーボンを注文した。「本当のことを聞きたい?」 彼女がそう訊ねた。「去年ね、牛を解剖したんだ。」「そう?」「腹を裂いてみると、胃の中にはひとつかみの草しか入ってはいなかった。僕はその草をビニールの袋に入れて家に持って帰り、机の上に置いた。それでね、何か嫌なことがある度にその草の塊りを眺めてこんな風に考えることにしてるんだ。何故牛はこんなまずそうで惨めなものを何度も何度も大事そうに反芻して食べるんだろうってね。」 彼女は少し笑って唇をすぼめ、しばらく僕の顔を見つめた。「わかったわ。何も言わない。」 僕は肯いた。「あなたに訊ねようと思ってたことがあるの。いいかしら?」「どうぞ。」「何故人は死ぬの?」「進化してるからさ。個体は進化のエネルギーに耐えることができないから世代交代する。もちろん、これはひとつの説にすぎないけどね。」「今でも進化してるの?」「少しずつね。」「何故進化するの?」「それにもいろんな意見がある。ただ確実なことは宇宙自体が進化してるってことなんだ。そこに何らかの方向性や意志が介在してるかどうかってことは別にしても宇宙は進化してるし、結局のところ僕たちはその一部にすぎないんだ。」僕はウィスキー・グラスを置いて煙草に火を点けた。「そのエネルギーが何処から来ているのかは誰にもわからない。」「そう?」「そう。」 彼女はグラスの氷を指先でくるくると回しながら白いテーブル・クロスをじっと眺めていた。「ねえ、私が死んで百年もたてば、誰も私の存在なんか覚えてないわね。」「だろうね。」と僕は言った。 店を出て、僕たちは不思議なくらい鮮明な夕暮の中を、静かな倉庫街に沿ってゆっくりと歩いた。並んで歩くと、彼女の髪のヘヤー・リンスの匂いが微かに感じられる。柳の葉を揺らせる風は、ほんの少しだけれど夏の終りを思わせた。しばらく歩いてから、彼女は指が 5本ついた方の手で僕の手を握った。「いつ東京に帰るの?」「来週だね。テストがあるんだ。」 彼女は黙っていた。「冬にはまた帰ってくるさ。クリスマスのころまでにはね。 12月 24日が誕生日なんだ。」 彼女は肯いたが、何か別のことを考えているようだった。「山羊座ね?」「そう、君は?」「同じよ。1月 10日。」「なんとなく損な星まわりらしいな。イエス・キリストと同じだ。」「そうね。」 彼女はそう言って僕の手を握りなおした。「あなたがいなくなると寂しくなりそうな気がするわ。」「きっとまた会えるさ。」 彼女は何も言わなかった。 倉庫のひとつひとつはかなり古びていて、煉瓦と煉瓦の間には深い緑色の滑らかな苔がしっかりと貼りついている。高く暗い窓には頑丈そうな鉄格子がはめられ、重く錆びついた扉のそれぞれには貿易会社の表札がかかっていた。はっきりとした海の香りが感じられるあたりで倉庫街は途切れ、柳の並木も歯が抜けたように終っていた。僕たちはそのまま草の茂った港湾鉄道の軌道を越え、人気のない突堤の倉庫の石段に腰を下ろし、海を眺めた。 正面には造船会社のドックの灯がともり、その隣りには荷物を下ろして吃水線の上がったギリシャ籍の貨物船がまるで見捨てられたように浮かんでいる。デッキの白いペンキは潮風で赤く錆びつき、その脇腹には病人のかさぶたのように貝殻がびっしりとこびりついている。 僕たちは随分長い間、口をつぐんだまま海と空と船をずっと眺めていた。夕暮の風が海を渡りそして草を揺らせる間に、夕闇がゆっくりと淡い夜に変わり、幾つかの星がドックの上にまたたき始めた。 長い沈黙の後で彼女は左手でこぶしを作り、右の手のひらを神経質そうに何度も叩いた。そして赤くなるまで叩きつづけてから、まるで気が抜けたように手のひらをじっと眺めた。「みんな大嫌いよ。」 彼女はぽつんとそう言った。「僕も?」「御免なさい。」彼女は顔を赤らめて気を取り直したように手を膝の上に戻した。「あなたは嫌な人じゃないわ。」「それほどはね?」 彼女は少し微笑むようにして肯いてから小刻みに震える手で煙草に火を点けた。煙は海からの風に乗り、彼女の髪の脇をすり抜けて闇の中に消えた。「一人でじっとしてるとね、いろんな人が私に話しかけてくるのが聞こえるの。……知っている人や知らない人、お父さん、お母さん、学校の先生、いろんな人よ。」 僕は肯いた。「大抵は嫌なことばかりよ。お前なんか死んでしまえとか、後は汚らしいこと……。」「どんな?」「言いたくないわ。」 彼女は二口ばかり吸った煙草を皮のサンダルで踏んで消し、指先でそっと目を押えた。「病気だと思う?」「どうかな。」僕はわからない、という風に首を振った。「心配なら医者にみてもらった方がいいよ。」「いいのよ。気にしないで。」 彼女は二本めの煙草に火を点け、それから笑おうとしたがうまくはいかなかった。「こんなこと話したのはあなたが初めてよ。」 僕は彼女の手を握った。手はいつまでも小刻みに震え、指と指の間には冷えた汗がじっとりとにじんでいた。「噓なんて本当につきたくなかったのよ。」「わかってるよ。」 僕たちはもう一度黙りこみ、突堤にぶつかる小さな波の音を聞きながらずっと黙っていた。それは思い出せぬほど長い時間だった。 気がついた時、彼女は泣いていた。僕は彼女の涙で濡れた頰を指でたどってから肩を抱いた。 夏の香りを感じたのは久し振りだった。潮の香り、遠い汽笛、女の子の肌の手ざわり、ヘヤー・リンスのレモンの匂い、夕暮の風、淡い希望、そして夏の夢……。 しかしそれはまるでずれてしまったトレーシング・ペーパーのように、何もかもが少しずつ、しかしとり返しのつかぬくらいに昔とは違っていた。 36 30分かけて彼女のアパートまで歩いた。 気持ちの良い夜だったし、泣いてしまった後で、彼女は驚くほど上機嫌だった。帰り道、僕たちは何軒かの店に入ってあまり役にも立ちそうにないこまごまとした買物をした。苺の匂いのする歯磨きや派手なビーチ・タオル、何種類かのデンマーク製のパズル、 6色のボールペン、そんなものを抱えて僕たちは坂道を上り、時折立ち止まって港の方を振り返った。「ねえ、車は置いたままでしょ?」「後で取りにいくさ。」「明日の朝じゃまずい?」「かまわないよ。」 それから僕たちは残りの道をゆっくりと歩いた。「今夜は一人でいたくないのよ。」 彼女は舗道の敷石にむかってそう言った。 僕は肯いた。「でも靴が磨けないわ。」「たまには自分で磨けばいいさ。」「磨くかな、自分で?」「律義な人だからね。」 静かな夜だった。 彼女はゆっくりと寝返りを打って、鼻先を僕の右肩につけた。「寒いわ。」「寒い? 30度はあるぜ。」「わかんないわ、寒いのよ。」 僕は足もとに投げ捨てられたタオル・カバーを取って、肩口までひっぱり上げてから彼女を抱いた。彼女の体はガタガタと小刻みに震えていた。「具合でも悪いのかい?」 彼女は軽く首を振った。「怖いのよ。」「何が?」「何もかもよ。あなたは怖くないの?」「怖くなんかないさ。」 彼女は黙った。それは僕の答えの存在感を手のひらの上で確かめてみるといったような沈黙だった。「私とセックスしたい?」「うん。」「御免なさい。今日は駄目なの。」 僕は彼女を抱いたまま黙って肯いた。「手術したばかりなのよ。」「子供?」「そう。」 彼女は僕の背中に回した手の力を緩め、指先で肩の後に小さな円を何度か描いた。「不思議ね。何も覚えてないわ。」「そう?」「相手の男のことよ。すっかり忘れちゃったわ。顔も思い出せないのよ。」 僕は手のひらで彼女の髪を撫でた。「好きになれそうな気がしたの。ほんの一瞬だけどね。……誰か好きになったことある?」「ああ。」「彼女の顔を覚えてる?」 僕は三人の女の子の顔を思い出そうとしてみたが、不思議なことに誰一人としてはっきり思い出すことができなかった。「いや。」と僕は言った。「不思議ね。何故かしら?」「多分その方が楽だからさ。」 彼女は横顔を僕の裸の胸につけたまま、黙って何度も肯いた。「ねえ、もしどうしてもやりたいんなら、何か別の……。」「いや、気にしなくていい。」「本当?」「うん。」 彼女は僕の背中に回した腕の力をもう一度強めた。僕はみぞおちのあたりに彼女の乳房を感じた。たまらなくビールが飲みたかった。「ずっと何年も前から、いろんなことがうまくいかなくなったの。」「何年くらい前?」 「12、 13……お父さんが病気になった年。それより昔のことは何ひとつ覚えてないわ。ずっと嫌なことばかり。頭の上をね、いつも悪い風が吹いてるのよ。」「風向きも変わるさ。」「本当にそう思う?」「いつかね。」 彼女はしばらく黙った。砂漠のような沈黙の乾きの中に僕の言葉はあっという間もなく飲みこまれ、苦々しさだけが口に残った。「何度もそう思おうとしたわ。でもね、いつも駄目だった。人も好きになろうとしたし、辛棒強くなろうともしてみたの。でもね……。」 僕たちはそれ以上は何もしゃべらずに抱き合った。彼女は僕の胸に頭を乗せ、唇を僕の乳首に軽くつけたまま眠ったように長い間動かなかった。 長い間、本当に長い間、彼女は黙っていた。僕は半分まどろみながら暗い天井を眺めていた。「お母さん……。」 彼女は夢を見るように、そっとそう呟いた。彼女は眠っていた。 37 やあ、元気かい? こちらはラジオ N・ E・ B、ポップス・テレフォン・リクエスト。また土曜日の夜がやってきた。これからの 2時間、素敵な音楽をたっぷりと聴いてくれ。ところで夏もそろそろおしまいだね。どうだい、良い夏だったかい? 今日はレコードをかける前に、君たちからもらった一通の手紙を紹介する。読んでみる。こんな手紙だ。「お元気ですか? 毎週楽しみにこの番組を聴いています。早いもので、この秋で入院生活ももう三年目ということになります。時の経つのは本当に早いもんです。もちろんエア・コンディショナーのきいた病室の窓から僅かに外の景色を眺めている私にとって季節の移り変わりなど何の意味もないのだけれど、それでもひとつの季節が去り、新しいものが訪れるということはやはり心の躍るものなのです。 私は 17歳で、この三年間本も読めず、テレビを見ることもできず、散歩もできず、……それどころかベッドに起き上がることも、寝返りを打つことさえできずに過ごしてきました。この手紙は私にずっと付き添ってくれているお姉さんに書いてもらっています。彼女は私を看病するために大学を止めました。もちろん私は彼女には本当に感謝しています。私がこの三年間にベッドの上で学んだことは、どんなに惨めなことからでも人は何かを学べるし、だからこそ少しずつでも生き続けることができるのだということです。 私の病気は脊椎の神経の病気なのだそうです。ひどく厄介な病気なのですが、もちろん回復の可能性はあります。 3%ばかりだけど……。これはお医者様(素敵な人です)が教えてくれた同じような病気の回復例の数字です。彼の説によると、この数字は新人投手がジャイアンツを相手にノーヒット・ノーランをやるよりは簡単だけど、完封するよりは少し難しい程度のものなのだそうです。 時々、もし駄目だったらと思うととても怖い。叫び出したくなるくらい怖いんです。一生こんな風に石みたいにベッドに横になったまま天井を眺め、本も読まず、風の中を歩くこともできず、誰にも愛されることもなく、何十年もかけてここで年老いて、そしてひっそりと死んでいくのかと思うと我慢できないほど悲しいのです。夜中の 3時頃に目が覚めると、時々自分の背骨が少しずつ溶けていく音が聞こえるような気がします。そして実際そのとおりなのかもしれません。 嫌な話はもうやめます。そしてお姉さんが一日に何百回となく私に言いきかせてくれるように、良いことだけを考えるよう努力してみます。それから夜はきちんと寝るようにします。嫌なことは大抵真夜中に思いつくからです。 病院の窓からは港が見えます。毎朝私はベッドから起き上って港まで歩き、海の香りを胸いっぱいに吸いこめたら……と想像します。もし、たった一度でもいいからそうすることができたとしたら、世の中が何故こんな風に成り立っているのかわかるかもしれない。そんな気がします。そしてほんの少しでもそれが理解できたとしたら、ベッドの上で一生を終えたとしても耐えることができるかもしれない。 さよなら。お元気で。」 名前は書いてない。 僕がこの手紙を受けとったのは昨日の 3時過ぎだった。僕は局の喫茶室でコーヒーを飲みながらこれを読んで、夕方仕事が終ると港まで歩き、山の方を眺めてみたんだ。君の病室から港が見えるんなら、港から君の病室も見える筈だものね。山の方には実にたくさんの灯りが見えた。もちろんどの灯りが君の病室のものかはわからない。あるものは貧しい家の灯りだし、あるものは大きな屋敷の灯りだ。あるものはホテルのだし、学校のもあれば、会社のもある。実にいろんな人がそれぞれに生きてたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。泣いたのは本当に久し振りだった。でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。 僕は・君たちが・好きだ。 あと 10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことをまだ覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。 彼女のリクエストをかける。エルヴィス・プレスリーの「グッド・ラック・チャーム」。この曲が終ったらあと 1時間 50分、またいつもみたいな犬の漫才師に戻る。 御清聴ありがとう。 38 東京に帰る日の夕方、僕はスーツ・ケースを抱えたまま「ジェイズ・バー」に顔を出した。まだ開店してはいなかったが、ジェイは僕を中に入れてビールを出してくれた。「今夜バスで帰るよ。」 ジェイはフライド・ポテトにするための芋をむきながら何度か肯いた。「あんたが居なくなると寂しいよ。猿のコンビも解消だね。」ジェイはカウンターの上にかかった版画を指さしてそう言った。「鼠もきっと寂しがる。」「うん。」「東京は楽しいかね。」「どこだって同じさ。」「だろうね。あたしは東京オリンピックの年以来一度もこの街を出たことがないんだ。」「この街は好き?」「あんたも言ったよ。どこでも同じってさ。」「うん。」「でも何年か経ったら一度中国に帰ってみたいね。一度も行ったことはないけどね。……港に行って船を見る度そう思うよ。」「僕の叔父さんは中国で死んだんだ。」「そう……。いろんな人間が死んだものね。でもみんな兄弟さ。」 ジェイは僕にビールを何本かごちそうしてくれ、おまけに揚げたてのフライド・ポテトをビニールの袋に入れて持たせてくれた。「ありがとう。」「いいのよ。気持ちだけ。……でも、みんなあっという間に大きくなるね。初めてあんたに会った時、まだ高校生だった。」 僕は笑って肯き、さよなら、と言った。「元気でね。」とジェイが言った。 8月 26日、という店のカレンダーの下にはこんな格言が書かれていた。「惜しまずに与えるものは、常に与えられるものである。」 僕は夜行バスの切符を買い、待合所のベンチに座ってずっと街の灯を眺めていた。夜が更けるにつれて灯は消え始め、最後には街灯とネオンの灯だけが残った。遠い汽笛が微かな海風を運んでくる。 バスの入口には二人の乗務員が両脇に立って切符と座席番号をチェックしていた。僕が切符を渡すと、彼は「 21番のチャイナ」と言った。「チャイナ?」「そう、 21番の C席、頭文字ですよ。 Aはアメリカ、 Bはブラジル、 Cはチャイナ、 Dはデンマーク。こいつが聞き違えると困るんでね。」 彼はそう言って座席表をチェックしている相棒を指さした。僕は肯いてバスに乗り込み、 21番の C席に座ってまだ暖かいフライド・ポテトを食べた。 あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。 僕たちはそんな風にして生きている。 39 これで僕の話は終わるのだが、もちろん後日談はある。 僕は 29歳になり、鼠は 30歳になった。ちょっとした歳だ。「ジェイズ・バー」は道路拡張の際に改築され、すっかり小綺麗な店になってしまった。とはいってもジェイはあい変わらず毎日バケツ一杯の芋をむいているし、常連客も昔の方が良かったねとブツブツ文句を言いながらもビールを飲み続けている。 僕は結婚して、東京で暮らしている。 僕と妻はサム・ペキンパーの映画が来るたびに映画館に行き、帰りには日比谷公園でビールを二本ずつ飲み、鳩にポップコーンをまいてやる。サム・ペキンパーの映画の中では僕は「ガルシアの首」が気に入っているし、彼女は「コンボイ」が最高だと言う。ペキンパー以外の映画では、僕は「灰とダイヤモンド」が好きだし、彼女は「尼僧ヨアンナ」が好きだ。長く暮していると趣味でさえ似てくるのかもしれない。 幸せか? と訊かれれば、だろうね、と答えるしかない。夢とは結局そういったものだからだ。 鼠はまだ小説を書き続けている。彼はその幾つかのコピーを毎年クリスマスに送ってくれる。昨年のは精神病院の食堂に勤めるコックの話で、一昨年のは「カラマーゾフの兄弟」を下敷きにしたコミック・バンドの話だった。あい変わらず彼の小説にはセックス・シーンはなく、登場人物は誰一人死なない。 原稿用紙の一枚めにはいつも、 「ハッピー・バースデイ、 そして ホワイト・クリスマス。」 と書かれている。僕の誕生日が 12月 24日だからだ。 左手の指が 4本しかない女の子に、僕は二度と会えなかった。僕が冬に街に帰った時、彼女はレコード屋をやめ、アパートも引き払っていた。そして人の洪水と時の流れの中に跡も残さずに消え去っていた。 僕は夏になって街に戻ると、いつも彼女と歩いた同じ道を歩き、倉庫の石段に腰を下ろして一人で海を眺める。泣きたいと思う時にはきまって涙が出てこない。そういうものだ。「カリフォルニア・ガールズ」のレコードは、まだ僕のレコード棚の片隅にある。夏になるたびに僕はそれをひっぱり出して何度も聴く。そしてカリフォルニアのことを考えながらビールを飲む。 レコード棚の隣りには机があり、その上には乾いてミイラのようになった草の塊りがぶらさがっている。牛の胃袋から取り出した草だ。 死んだ仏文科の女の子の写真は引越しに紛れて失くしてしまった。 ビーチ・ボーイズは久し振りに新しい LPを出した。 素敵な女の子がみんな、 カリフォルニア・ガールならね……。 40 最後にもう一度デレク・ハートフィールドについて語ろう。 ハートフィールドは 1909年にオハイオ州の小さな町に生まれ、そこに育った。父親は無口な電信技師であり、母親は星占いとクッキーを焼くのがうまい小太りな女だった。陰気なハートフィールド少年には友だちなど一人もなく、暇をみつけてはコミック・ブックやパルプ・マガジンを読み漁り、母のクッキーを食べるといった具合にしてハイスクールを卒業した。卒業後、彼は町の郵便局に勤めてはみたが長続きするわけはなく、この頃から彼は自分の進むべき道は小説家以外にはないと確信するようになった。 彼の五作目の短編が「ウェアード・テールズ」に売れたのは 1930年で、稿料は 20ドルであった。その次の 1年間、彼は月間 7万語ずつ原稿を書きまくり、翌年そのペースは 10万語に上り、死ぬ前年には 15万語になっていた。レミントンのタイプライターを半年毎に買いかえた、という伝説が残っている。 彼の小説の殆んどは冒険小説と怪奇ものであり、その二つをうまく合わせた「冒険児ウォルド」のシリーズは彼の最大のヒット作となり、全部で 42編を数える。その中でウォルドは 3回死に、 5千人もの敵を殺し、火星人の女も含めて全部で 375人の女と交わった。そのうちの幾つかを、僕たちは翻訳で読むことができる。 ハートフィールドは実に多くのものを憎んだ。郵便局、ハイスクール、出版社、人参、女、犬、……数え上げればキリがない。しかし彼が好んだものは三つしかない。銃と猫と母親の焼いたクッキーである。彼はパラマウントの撮影所と FBIの研究所を除けば恐らく全米一の完璧に近い銃のコレクションを持っていた。高射砲と対戦車砲以外は全てである。中でも彼の自慢の品は銃把に真珠の飾りをつけた 38口径のリヴォルヴァーで、それには弾は一発しか装塡されてはおらず、「俺はいつかこれで俺自身をリヴォルヴするのさ。」というのが彼の口癖だった。 しかし 1938年に母が死んだ時、彼はニューヨークまででかけてエンパイア・ステート・ビルに上り、屋上から飛び下りて蛙のようにペシャンコになって死んだ。 彼の墓碑には遺言に従って、ニーチェの次のような言葉が引用されている。「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」ハートフィールド、再び…… (あとがきにかえて) もしデレク・ハートフィールドという作家に出会わなければ小説なんて書かなかったろう、とまで言うつもりはない。けれど、僕の進んだ道が今とはすっかり違ったものになっていたことも確かだと思う。 高校生の頃、神戸の古本屋で外国船員の置いていったらしいハートフィールドのペーパー・バックスを何冊かまとめて買ったことがある。一冊が 50円だった。もしそこが本屋でなければそれはとても書物とは思えないような代物だった。派手派手しい表紙は殆んど外れかけて、ページはオレンジ色に変色している。恐らくは貨物船か駆逐艦の下級船員のベッドの上に乗ったまま太平洋を渡り、そして時の遥か彼方から僕の机の上にやってきたわけだ。 ★ 何年か後、僕はアメリカに渡った。ハートフィールドの墓を尋ねるだけの短かい旅だ。墓の場所は熱心な(そして唯一の)ハートフィールド研究家であるトマス・マックリュア氏が手紙で教えてくれた。「ハイヒールの踵くらいの小さな墓です。見落とさないようにね。」と彼は書いていた。 ニューヨークから巨大な棺桶のようなグレイハウンド・バスに乗り、オハイオ州のその小さな町に着いたのは朝の 7時であった。僕以外にその町で下りた客は誰ひとり居なかった。町の外れの草原を越えたところに墓地はあった。町よりも広い墓地だ。僕の頭上では何羽もの雲雀がぐるぐると円を描きながら舞い唄を唄っていた。 たっぷり一時間かけて僕はハートフィールドの墓を捜し出した。まわりの草原で摘んだ埃っぽい野バラを捧げてから墓にむかって手を合わせ、腰を下ろして煙草を吸った。五月の柔らかな日ざしの下では、生も死も同じくらい安らかなように感じられた。僕は仰向けになって眼を閉じ、何時間も雲雀の唄を聴き続けた。 この小説はそういった場所から始まった。そして何処に辿り着いたのかは僕にもわからない。「宇宙の複雑さに比べれば」とハートフィールドは言っている。「この我々の世界などミミズの脳味噌のようなものだ。」 そうであってほしい、と僕も願っている。 ★ 最後になってしまったが、ハートフィールドの記事に関しては前述したマックリュア氏の労作、「不妊の星々の伝説」( Thomas McClure; The Legend of the Sterile Stars: 1968)から幾つか引用させていただいた。感謝する。一九七九年五月村上春樹 “CALIFORNIA GIRLS” Words & Music by Mike Love and Brian Wilson © Copyright by SEA OF TUNES PUBL. CO. All rights reserved. Used by permission. Print rights for Japan administered by YAMAHA MUSIC PUBLISHING, INC. “Return To Sender” Words & Music by Otis Blackwell and Winfield Scott Copyright © 1962 by Elvis Presley Music, Inc. Copyright Renewed and Assigned to Elvis Presley Music All Rights Administered by Cherry River Music Co. and Chrysalis Songs International Copyright Secured All Rights Reserved “Return To Sender” Words & Music by Otis Blackwell & Winfield Scott © 1962

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう