タクシーのラジオは、 FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ。運転手もとくに熱心にその音楽に耳を澄ませているようには見えなかった。中年の運転手は、まるで舳先に立って不吉な潮目を読む老練な漁師のように、前方に途切れなく並んだ車の列を、ただ口を閉ざして見つめていた。青豆は後部席のシートに深くもたれ、軽く目をつむって音楽を聴いていた。 ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の冒頭部分を耳にして、これはヤナーチェックの『シンフォニエッタ』だと言い当てられる人が、世間にいったいどれくらいいるだろう。おそらく「とても少ない」と「ほとんどいない」の中間くらいではあるまいか。しかし青豆にはなぜかそれができた。 ヤナーチェックは一九二六年にその小振りなシンフォニーを作曲した。冒頭のテーマはそもそも、あるスポーツ大会のためのファンファーレとして作られたものだ。青豆は一九二六年のチェコ・スロバキアを想像した。第一次大戦が終結し、長く続いたハプスブルク家の支配からようやく解放され、人々はカフェでピルゼン・ビールを飲み、クールでリアルな機関銃を製造し、中部ヨーロッパに訪れた束の間の平和を味わっていた。フランツ・カフカは二年前に不遇のうちに世を去っていた。ほどなくヒットラーがいずこからともなく出現し、そのこぢんまりした美しい国をあっという間にむさぼり食ってしまうのだが、そんなひどいことになるとは、当時まだ誰ひとりとして知らない。歴史が人に示してくれる最も重要な命題は「当時、先のことは誰にもわかりませんでした」ということかもしれない。青豆は音楽を聴きながら、ボヘミアの平原を渡るのびやかな風を想像し、歴史のあり方について思いをめぐらせた。 一九二六年には大正天皇が崩御し、年号が昭和に変わった。日本でも暗い嫌な時代がそろそろ始まろうとしていた。モダニズムとデモクラシーの短い間奏曲が終わり、ファシズムが幅をきかせるようになる。 歴史はスポーツとならんで、青豆が愛好するもののひとつだった。小説を読むことはあまりないが、歴史に関連した書物ならいくらでも読めた。歴史について彼女が気に入っているのは、すべての事実が基本的に特定の年号と場所に結びついているところだった。歴史の年号を記憶するのは、彼女にとってそれほどむずかしいことではない。数字を丸暗記しなくても、いろんな出来事の前後左右の関係性をつかんでしまえば、年号は自動的に浮かび上がってくる。中学と高校では、青豆は歴史の試験では常にクラスで最高点をとった。歴史の年号を覚えるのが苦手だという人を目にするたびに、青豆は不思議に思った。どうしてそんな簡単なことができないのだろう? 青豆というのは彼女の本名である。父方の祖父は福島県の出身で、その山の中の小さな町だか村だかには、青豆という姓をもった人々が実際に何人かいるということだった。しかし彼女自身はまだそこに行ったことがない。青豆が生まれる前から、父親は実家と絶縁していた。母方も同じだ。だから青豆は祖父母に一度も会ったことがない。彼女はほとんど旅行をしないが、それでもたまにそういう機会があれば、ホテルに備え付けられた電話帳を開いて、青豆という姓を持った人がいないか調べることを習慣にしていた。しかし青豆という名前を持つ人物は、これまでに彼女が訪れたどこの都市にも、どこの町にも、一人として見あたらなかった。そのたびに彼女は、大海原に単身投げ出された孤独な漂流者のような気持ちになった。 名前を名乗るのがいつもおっくうだった。自分の名前を口にするたびに、相手は不思議そうな目で、あるいは戸惑った目で彼女の顔を見た。青豆さん? そうです。青い豆と書いて、アオマメです。会社に勤めているときには名刺を持たなくてはならなかったので、そのぶん煩わしいことが多かった。名刺を渡すと相手はそれをしばし凝視した。まるで出し抜けに不幸の手紙でも渡されたみたいに。電話口で名前を告げると、くすくす笑われることもあった。役所や病院の待合室で名前を呼ばれると、人々は頭を上げて彼女を見た。「青豆」なんていう名前のついた人間はいったいどんな顔をしているんだろうと。 ときどき間違えて「枝豆さん」と呼ぶ人もいた。「空豆さん」といわれることもある。そのたびに「いいえ、枝豆(空豆)ではなく、青豆です。まあ似たようなものですが」と訂正した。すると相手は苦笑しながら謝る。「いや、それにしても珍しいお名前ですね」と言う。三十年間の人生でいったい何度、同じ台詞を聞かされただろう。どれだけこの名前のことで、みんなにつまらない冗談を言われただろう。こんな姓に生まれていなかったら、私の人生は今とは違うかたちをとっていたかもしれない。たとえば佐藤だとか、田中だとか、鈴木だとか、そんなありふれた名前だったら、私はもう少しリラックスした人生を送り、もう少し寛容な目で世間を眺めていたかもしれない。あるいは。 青豆は目を閉じて、音楽に耳を澄ませていた。管楽器のユニゾンの作り出す美しい響きを頭の中にしみ込ませた。それからあることにふと思い当たった。タクシーのラジオにしては音質が良すぎる。どちらかといえば小さな音量でかかっているのに、音が深く、倍音がきれいに聞き取れる。彼女は目を開けて身を前に乗り出し、ダッシュボードに埋め込まれたカーステレオを見た。機械は真っ黒で、つややかに誇らしそうに光っていた。メーカーの名前までは読みとれなかったが、見かけからして高級品であることはわかった。たくさんのつまみがつき、緑色の数字がパネルに上品に浮かび上がっている。おそらくはハイエンドの機器だ。普通の法人タクシーがこんな立派な音響機器を車に装備するはずがない。 青豆はあらためて車内を見まわした。タクシーに乗ってからずっと考え事をしていたので気づかなかったのだが、それはどう見ても通常のタクシーではなかった。内装の品質が良く、シートの座り心地も優れている。そしてなにより車内が静かだ。遮音が行き届いているらしく、外の騒音がほとんど入ってこない。まるで防音装置の施されたスタジオにいるみたいだ。たぶん個人タクシーなのだろう。個人タクシーの運転手の中には、車にかける費用を惜しまない人がいる。彼女は目だけを動かしてタクシーの登録票を探したが、見あたらなかった。しかし無免許の違法タクシーには見えない。正規のタクシー・メーターがついて、正確に料金を刻んでいる。 2150円という料金が表示されている。なのに運転手の名前を記した登録票はどこにもない。「良い車ですね。とても静かだし」と青豆は運転手の背中に声をかけた。「なんていう車なんですか?」「トヨタのクラウン・ロイヤルサルーン」と運転手は簡潔に答えた。「音楽がきれいに聞こえる」「静かな車です。それもあってこの車を選んだんです。こと遮音にかけてはトヨタは世界でも有数の技術を持っていますから」 青豆は肯いて、もう一度シートに身をもたせかけた。運転手の話し方には何かしらひっかかるものがあった。常に大事なものごとをひとつ言い残したようなしゃべり方をする。たとえば(あくまでたとえばだが)トヨタの車は遮音に関しては文句のつけようがないが、ほかの何かに関しては問題がある、というような。そして話し終えたあとに、含みのある小さな沈黙の塊が残った。車内の狭い空間に、それがミニチュアの架空の雲みたいにぽっかり浮かんでいた。おかげで青豆はどことなく落ち着かない気持ちになった。「たしかに静か」と彼女はその小さな雲を追いやるように発言した。「それにステレオの装置もずいぶん高級なものみたい」「買うときには、決断が必要でした」、退役した参謀が過去の作戦について語るような口調で運転手は言った。「でもこのように長い時間を車内で過ごしますから、できるだけ良い音を聴いていたいですし、また──」 青豆は話の続きを待った。しかし続きはなかった。彼女はもう一度目を閉じて、音楽に耳を澄ませた。ヤナーチェックが個人的にどのような人物だったのか、青豆は知らない。いずれにせよおそらく彼は、自分の作曲した音楽が一九八四年の東京の、ひどく渋滞した首都高速道路上の、トヨタ・クラウン・ロイヤルサルーンのひっそりとした車内で、誰かに聴かれることになろうとは想像もしなかったに違いない。 しかしなぜ、その音楽がヤナーチェックの『シンフォニエッタ』だとすぐにわかったのだろう、と青豆は不思議に思った。そしてなぜ、私はそれが一九二六年に作曲されたと知っているのだろう。彼女はとくにクラシック音楽のファンではない。ヤナーチェックについての個人的な思い出があるわけでもない。なのにその音楽の冒頭の一節を聴いた瞬間から、彼女の頭にいろんな知識が反射的に浮かんできたのだ。開いた窓から一群の鳥が部屋に飛び込んでくるみたいに。そしてまた、その音楽は青豆に、ねじれに似た奇妙な感覚をもたらした。痛みや不快さはそこにはない。ただ身体のすべての組成がじわじわと物理的に絞り上げられているような感じがあるだけだ。青豆にはわけがわからなかった。『シンフォニエッタ』という音楽が私にこの不可解な感覚をもたらしているのだろうか。「ヤナーチェック」と青豆は半ば無意識に口にした。言ってしまってから、そんなことは言わなければよかったと思った。「なんですか?」「ヤナーチェック。この音楽を作曲した人」「知りませんね」「チェコの作曲家」と青豆は言った。「ほう」と運転手は感心したように言った。「これは個人タクシーですか?」と青豆は話題を変えるために質問した。「そうです」と運転手は言った。そしてひとつ間を置いた。「個人でやってます。この車は二台目になります」「シートの座り心地がとてもいい」「ありがとうございます。ところでお客さん」と運転手は少しだけ首をこちらに曲げて言った。「ひょっとしてお急ぎですか?」「渋谷で人と待ち合わせがあります。だから首都高に乗ってもらったんだけど」「何時に待ち合わせてます?」「四時半」と青豆は言った。「今が三時四十五分ですね。これじゃ間に合わないな」「そんなに渋滞はひどいの?」「前の方でどうやらでかい事故があったようです。普通の渋滞じゃありません。さっきからほとんど前に進んでいませんから」 どうしてこの運転手はラジオで交通情報を聞かないのだろう、と青豆は不思議に思った。高速道路が壊滅的な渋滞状態に陥って、足止めを食らっている。タクシーの運転手なら普通、専用の周波数に合わせて情報を求めるはずだ。「交通情報を聞かなくても、そういうことはわかるの?」と青豆は尋ねた。「交通情報なんてあてになりゃしません」と運転手はどことなく空虚な声で言った。「あんなもの、半分くらいは噓です。道路公団が自分に都合のいい情報を流しているだけです。今ここで本当に何が起こっているかは、自分の目で見て、自分の頭で判断するしかありません」「それであなたの判断によれば、この渋滞は簡単には解決しない?」「当分は無理ですね」と運転手は静かに肯きながら言った。「そいつは保証できます。いったんこうがちがちになっちまうと、首都高は地獄です。待ち合わせは大事な用件ですか?」 青豆は考えた。「ええ、とても。クライアントとの待ち合わせだから」「そいつは困りましたね。お気の毒ですが、たぶん間に合いません」 運転手はそう言って、こりをほぐすように軽く何度か首を振った。首の後ろのしわが太古の生き物のように動いた。その動きを見るともなく見ているうちに、ショルダーバッグの底に入っている鋭く尖った物体のことを青豆はふと思い出した。手のひらが微かに汗ばんだ。「じゃあ、どうすればいいのかしら?」「どうしようもありません。ここは首都高速道路ですから、次の出口にたどり着くまでは手の打ちようがないです。一般道路のようにちょっとここで降りて、最寄りの駅から電車に乗るというわけにはいきません」「次の出口は?」「池尻ですが、そこに着くには日暮れまでかかるかもしれませんよ」 日暮れまで? 青豆は自分が日暮れまで、このタクシーの中に閉じこめられるところを想像した。ヤナーチェックの音楽はまだ続いている。弱音器つきの弦楽器が気持ちの高まりを癒すように、前面に出てくる。さっきのねじれの感覚は今ではもうずいぶん収まっていた。あれはいったいなんだったのだろう? 青豆は砧の近くでタクシーを拾い、用賀から首都高速道路三号線に乗った。最初のうち車の流れはスムーズだった。しかし三軒茶屋の手前から急に渋滞が始まり、やがてほとんどぴくりとも動かなくなった。下り線は順調に流れている。上り線だけが悲劇的に渋滞している。午後の三時過ぎは通常であれば、三号線の上りが渋滞する時間帯ではない。だからこそ青豆は運転手に、首都高速に乗ってくれと指示したのだ。「高速道路では時間料金は加算されません」と運転手はミラーに向かって言った。「だから料金のことは心配しなくていいです。でもお客さん、待ち合わせに遅れると困るでしょう?」「もちろん困るけど、でも手の打ちようもないんでしょう?」 運転手はミラーの中の青豆の顔をちらりと見た。彼は淡い色合いのサングラスをかけていた。光の加減で、青豆の方からは表情がうかがえない。「あのですね、方法がまったくないってわけじゃないんです。いささか強引な非常手段になりますが、ここから電車で渋谷まで行くことはできます」「非常手段?」「あまりおおっぴらには言えない方法ですが」 青豆は何も言わず、目を細めたまま話の続きを待った。「ほら、あの先に車を寄せるスペースがあるでしょう」と運転手は前方を指さして言った。「エッソの大きな看板が立っているあたりです」 青豆が目をこらすと、二車線の道路の左側に、故障車を停めるためのスペースが設置されているのが見えた。首都高速道路には路肩がないから、ところどころにそういう緊急避難場所が設けられている。非常用電話の入った黄色いボックスがあり、高速道路事務所に連絡することができる。そのスペースには今のところ、車は一台も停まっていなかった。対向車線を隔てたビルの屋上に大きなエッソ石油の広告看板があった。にっこり笑った虎が給油ホースを手にしている。「実はですね、地上に降りるための階段があそこにあります。火災とか大地震が起きたときに、ドライバーが車を捨ててそこから地上に降りられるようになっているわけです。普段は道路補修の作業員なんかが使っています。その階段を使って下に降りれば、近くに東急線の駅があります。そいつに乗れば、あっという間に渋谷です」「首都高に非常階段があるなんて知らなかった」と青豆は言った。「一般にはほとんど知られてはいません」「しかし緊急事態でもないのに、その階段を勝手に使ったりすると、問題になるんじゃないかしら?」 運転手は少しだけ間を置いた。「どうでしょうね。道路公団の細かい規則がどうなっているのか、私にもよくわかりません。しかし誰に迷惑をかけることでもなし、大目に見てもらえるのではないでしょうか。だいたいそんなところ、誰もいちいち見張っちゃいません。道路公団ってのはどこでも職員の数こそ多いけど、実際に働いている人間が少ないことで有名なんです」「どんな階段?」「そうですね、火災用の非常階段に似ています。ほら、古いビルの裏側によくついているようなやつ。とくに危険はありません。高さはビルの三階ぶんくらいありますが、普通に降りられます。いちおう入り口のところに柵がついていますが、高いものじゃないし、その気になればわけなく乗り越えられます」「運転手さんはその階段を使ったことがあるの?」 返事はなかった。運転手はルームミラーの中で淡く微笑んだだけだ。いろんな意味に取れそうな笑みだった。「あくまでお客さん次第です」、運転手は音楽に合わせて指先でハンドルをとんとんと軽く叩きながらそう言った。「ここに座って良い音で音楽を聴きながら、のんびりしてらしても、私としちゃちっともかまいません。いくらがんばってもどこにも行けないんですから、こうなったらお互い腹をくくるしかありません。しかしもし緊急の用件がおありなら、そういう非常手段もなくはないってことです」 青豆は軽く顔をしかめ、腕時計に目をやり、それから顔を上げてまわりの車を眺めた。右側には、うっすらと白くほこりをかぶった黒い三菱パジェロがいた。助手席に座った若い男は窓を開けて、退屈そうに煙草を吸っていた。髪が長く、日焼けして、えんじ色のウィンドブレーカーを着ている。荷物室には使い込まれた汚ないサーフボードが何枚か積んであった。その前にはグレーのサーブ 900が停まっていた。ティントしたガラス窓はぴたりと閉められ、どんな人間が乗っているのかは外からはうかがえない。実にきれいにワックスがかけられている。そばに寄ったら車体に顔が映りそうなくらいだ。 青豆の乗ったタクシーの前には、リアバンパーにへこみのある練馬ナンバーの赤いスズキ・アルトがいた。若い母親がハンドルを握っている。小さな子供は退屈して、シートの上に立って動き回っていた。母親はうんざりしたような顔で注意を与えている。母親の口の動きがガラス越しに読みとれた。十分前とまったく同じ光景だ。この十分のあいだに、車は十メートルも進んではいないだろう。 青豆はひとしきり考えをめぐらせた。いろんな要素を、優先順位に従って頭の中で整理した。結論が出るまでに時間はかからなかった。ヤナーチェックの音楽も、それにあわせるように最終楽章に入ろうとしていた。 青豆はショルダーバッグから小振りなレイバンのサングラスを出してかけた。そして財布から千円札を三枚取り出して運転手に渡した。「ここで降ります。遅れるわけにはいかないから」と彼女は言った。 運転手は肯いて、金を受け取った。「領収書は?」「けっこうです。お釣りもいらない」「それはどうも」と運転手は言った。「風が強そうですから、気をつけて下さい。足を滑らせたりしないように」「気をつけます」と青豆は言った。「それから」と運転手はルームミラーに向かって言った。「ひとつ覚えておいていただきたいのですが、ものごとは見かけと違います」 ものごとは見かけと違う、と青豆は頭の中でその言葉を繰り返した。そして軽く眉をひそめた。「それはどういうことかしら?」 運転手は言葉を選びながら言った。「つまりですね、言うなればこれから普通ではないことをなさるわけです。そうですよね? 真っ昼間に首都高速道路の非常用階段を降りるなんて、普通の人はまずやりません。とくに女性はそんなことしません」「そうでしょうね」と青豆は言った。「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」 青豆は運転手の言ったことについて考えた。考えているうちにヤナーチェックの音楽が終わり、聴衆が間髪を入れずに拍手を始めた。どこかのコンサートの録音を放送していたのだろう。長い熱心な拍手だった。ブラヴォーというかけ声も時折聞こえた。指揮者が微笑みを浮かべ、立ち上がった聴衆に向かって何度も頭を下げている光景が目に浮かんだ。彼は顔を上げ、手を上げ、コンサートマスターと握手をし、後ろを向き、両手を上げてオーケストラのメンバーを賞賛し、前を向いてもう一度深く頭を下げる。録音された拍手を長く聞いていると、そのうちに拍手に聞こえなくなる。終わりのない火星の砂嵐に耳を澄ませているみたいな気持ちになる。「現実はいつだってひとつしかありません」、書物の大事な一節にアンダーラインを引くように、運転手はゆっくりと繰り返した。「もちろん」と青豆は言った。そのとおりだ。ひとつの物体は、ひとつの時間に、ひとつの場所にしかいられない。アインシュタインが証明した。現実とはどこまでも冷徹であり、どこまでも孤独なものだ。 青豆はカーステレオを指さした。「とても良い音だった」 運転手は肯いた。「作曲家の名前はなんて言いましたっけ?」「ヤナーチェック」「ヤナーチェック」と運転手は反復した。大事な合い言葉を暗記するみたいに。それからレバーを引いて後部の自動ドアを開けた。「お気をつけて。約束の時間に間に合うといいんですが」 青豆は革の大振りなショルダーバッグを手に車を降りた。降りるときにもまだ、ラジオの拍手は鳴りやまず続いていた。彼女は十メートルばかり前方にある緊急避難用スペースに向けて、高速道路の端を注意深く歩いた。反対方向の車線を大型トラックが通り過ぎるたびに、高いヒールの下で路面がゆらゆらと揺れた。それは揺れというよりはうねりに近い。荒波の上に浮かんだ航空母艦の甲板を歩いているようだ。 赤いスズキ・アルトに乗った小さな女の子が、助手席の窓から顔を突き出し、ぽかんと口を開けて青豆を眺めていた。それから振り向いて母親に「ねえねえ、あの女の人、何しているの? どこにいくの?」と尋ねた。「私も外に出て歩きたい。ねえ、お母さん、私も外に出たい。ねえ、お母さん」と大きな声で執拗に要求した。母親はただ黙って首を振った。それから責めるような視線を青豆にちらりと送った。しかしそれがあたりで発せられた唯一の声であり、目についた唯一の反応だった。ほかのドライバーたちはただ煙草をふかし、眉を軽くひそめ、彼女が側壁と車のあいだを迷いのない足取りで歩いていく姿を、眩しいものを見るような目で追っていた。彼らは一時的に判断を保留しているようだった。たとえ車が動いていないにせよ、首都高速道路の路上を人が歩くのは日常的な出来事とは言えない。それを現実の光景として知覚し受け入れるまでにいくらか時間がかかる。歩いているのがミニスカートにハイヒールというかっこうの若い女性であれば、それはなおさらだ。 青豆は顎を引いてまっすぐ前方を見据え、背筋を伸ばし、人々の視線を肌に感じながら、確かな足取りで歩いていった。シャルル・ジョルダンの栗色のヒールが路上に乾いた音を立て、風がコートの裾を揺らせた。既に四月に入っていたが、風はまだ冷たく、荒々しさの予感を含んでいた。彼女はジュンコ・シマダのグリーンの薄いウールのスーツの上に、ベージュのスプリング・コートを着て、黒い革のショルダーバッグをかけていた。肩までの髪はきれいにカットされ、よく手入れされている。装身具に類するものは一切つけていない。身長は一六八センチ、贅肉はほとんどひとかけらもなく、すべての筋肉は念入りに鍛え上げられているが、それはコートの上からはわからない。 正面から仔細に顔を観察すれば、左右で耳のかたちと大きさがかなり異なっていることがわかるはずだ。左の耳の方が右の耳よりずっと大きくて、かたちがいびつなのだ。しかしそんなことにはほとんど誰も気がつかない。耳はだいたいいつも髪の下に隠されていたからだ。唇はまっすぐ一文字に閉じられ、何によらず簡単には馴染まない性格を示唆している。細い小さな鼻と、いくぶん突き出した頰骨と、広い額と、長い直線的な眉も、その傾向にそれぞれ一票を投じている。しかしおおむね整った卵形の顔立ちである。好みはあるにせよ、いちおう美人といってかまわないだろう。問題は、顔の表情が極端に乏しいところにあった。堅く閉じられた唇は、よほどの必要がなければ微笑みひとつ浮かべなかった。その両目は優秀な甲板監視員のように、怠りなく冷ややかだった。おかげで、彼女の顔が人々に鮮やかな印象を与えることはまずなかった。多くの場合人々の注意や関心を惹きつけるのは、静止した顔立ちの善し悪しよりは、むしろ表情の動き方の自然さや優雅さなのだ。 おおかたの人は青豆の顔立ちをうまく把握できなかった。いったん目を離すともう、彼女がどんな顔をしていたのか描写することができない。どちらかといえば個性的な顔であるはずなのに、細部の特徴がどうしてか頭に残らない。そういう意味では彼女は、巧妙に擬態する昆虫に似ていた。色やかたちを変えて背景の中に潜り込んでしまうこと、できるだけ目立たないこと、簡単に記憶されないこと、それこそがまさに青豆の求めていることだった。小さな子供の頃から彼女はそのようにして自分の身を護ってきたのだ。 ところが何かがあって顔をしかめると、青豆のそんなクールな顔立ちは、劇的なまでに一変した。顔の筋肉が思い思いの方向に力強くひきつり、造作の左右のいびつさが極端なまでに強調され、あちこちに深いしわが寄り、目が素早く奥にひっこみ、鼻と口が暴力的に歪み、顎がよじれ、唇がまくれあがって白い大きな歯がむき出しになった。そしてまるでとめていた紐が切れて仮面がはがれ落ちたみたいに、彼女はあっという間にまったくの別人になった。それを目にした相手は、そのすさまじい変容ぶりに肝を潰した。それは大いなる無名性から息を呑む深淵への、驚くべき跳躍だった。だから彼女は知らない人の前では、決して顔をしかめないように心がけていた。彼女が顔を歪めるのは、自分ひとりのときか、あるいは気に入らない男を脅すときに限られていた。 緊急用駐車スペースに着くと、青豆は立ち止まってあたりを見まわし、非常階段を探した。それはすぐに見つかった。運転手が言ったように、階段の入り口には腰より少し上くらいの高さの鉄柵があり、扉には鍵がかかっていた。タイトなミニスカートをはいてその鉄柵を乗り越えるのはいささか面倒だが、人目さえ気にしなければとくに難しいことでもない。彼女は迷わずハイヒールを脱ぎ、ショルダーバッグの中に突っ込んだ。素足で歩けばストッキングはたぶんだめになるだろう。でもそんなものはどこかの店で買えばいい。 人々は彼女がハイヒールを脱ぎ、それからコートを脱ぐ様子を無言のまま見守っていた。すぐ前に止まっている黒いトヨタ・セリカの開いた窓から、マイケル・ジャクソンの甲高い声が背景音楽として流れてきた。『ビリー・ジーン』。ストリップ・ショーのステージにでも立っているみたい、と彼女は思った。いいわよ。見たいだけ見ればいい。渋滞に巻き込まれてきっと退屈しているんでしょう。でもね、みなさん、これ以上は脱がないわよ。今日のところはハイヒールとコートだけ。お気の毒さま。 青豆はショルダーバッグが落ちないようにたすきがけにした。さっきまで乗っていた真新しい黒のトヨタ・クラウン・ロイヤルサルーンが、ずっと向こうに見えた。午後の太陽の光を受けて、フロントグラスがミラーグラスのようにまぶしく光っていた。運転手の顔までは見えない。しかし彼はこちらを見ているはずだ。 見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。 青豆は大きく息を吸い込み、大きく息をはいた。そして『ビリー・ジーン』のメロディーを耳で追いながら鉄柵を乗り越えた。ミニスカートが腰のあたりまでまくれあがった。かまうものか、と彼女は思った。見たければ勝手に見ればいい。スカートの中の何を見たところで、私という人間が見通せるわけではないのだ。そしてほっそりとした美しい両脚は、青豆が自分の身体の中でいちばん誇らしく思っている部分だった。 鉄柵の向こう側に降りると、青豆はスカートの裾をなおし、手のほこりを払い、再びコートを着て、ショルダーバッグを肩にかけた。サングラスのブリッジを奥に押した。非常階段は目の前にある。灰色に塗装された鉄の階段だ。簡素で、事務的で、機能性だけが追求された階段。ストッキングだけの素足に、タイトなミニスカートをはいた女性が昇り降りするように作られてはいない。ジュンコ・シマダも、首都高速道路三号線の緊急避難用階段を昇り降りすることを念頭に置いてスーツをデザインしてはいない。大型トラックが反対車線を通り過ぎ、階段をぶるぶると揺らせた。風が鉄骨の隙間を音を立てて吹き抜けた。しかしとにかく階段はそこにあった。あとは地上に降りていくだけだ。 青豆は最後に後ろを振り返り、講演を終えて演壇に立ったまま、聴衆からの質問を待ち受ける人のような姿勢で、路上に隙間なく並んだ自動車を左から右に、そして右から左に見渡した。自動車の列はさっきからまったく前進していない。人々はそこに足止めされ、ほかにすることもないまま、彼女の一挙一動を見守っていた。この女はいったい何をしようとしているのだろう、と彼らはいぶかっていた。関心と無関心が、うらやましさと軽侮が入り交じった視線が、鉄柵の向こう側に降りた青豆の上に注がれていた。彼らの感情はひとつの側に転ぶことができぬまま、不安定な秤のようにふらふらと揺れていた。重い沈黙があたりに垂れ込めていた。手を上げて質問するものもいなかった(質問されてももちろん青豆には答えるつもりはなかったが)。人々は永遠に訪れることのないきっかけを、ただ無言のうちに待ち受けていた。青豆は軽く顎を引き、下唇を嚙み、濃い緑色のサングラスの奥から彼らをひととおり品定めした。 私が誰なのか、これからどこに行って何をしようとしているのか、きっと想像もつかないでしょうね。青豆は唇を動かさずにそう語りかけた。あなたたちはそこに縛りつけられたっきり、どこにも行けない。ろくに前にも進めないし、かといって後ろにも下がれない。でも私はそうじゃない。私には済ませなくてはならない仕事がある。果たすべき使命がある。だから私は先に進ませてもらう。 青豆は最後に、そこにいるみんなに向かって思い切り顔をしかめたかった。しかしなんとかそれを思いとどまった。そんな余計なことをしている余裕はない。一度顔をしかめると、もとの表情を回復するのに手間がかかるのだ。 青豆は無言の観衆に背を向け、足の裏に鉄の無骨な冷たさを感じながら、緊急避難用の階段を慎重な足取りで降り始めた。四月を迎えたばかりの冷ややかな風が彼女の髪を揺らし、いびつなかたちの左側の耳をときおりむきだしにした。 天吾の最初の記憶は一歳半のときのものだ。彼の母親はブラウスを脱ぎ、白いスリップの肩紐をはずし、父親ではない男に乳首を吸わせていた。ベビーベッドには一人の赤ん坊がいて、それはおそらく天吾だった。彼は自分を第三者として眺めている。あるいはそれは彼の双子の兄弟なのだろうか? いや、そうじゃない。そこにいるのはたぶん一歳半の天吾自身だ。彼には直感的にそれがわかる。赤ん坊は目を閉じ、小さな寝息をたてて眠っていた。それが天吾にとっての人生の最初の記憶だ。その十秒間ほどの情景が、鮮明に意識の壁に焼き付けられている。前もなく後ろもない。大きな洪水に見舞われた街の尖塔のように、その記憶はただひとつ孤立し、濁った水面に頭を突き出している。 機会があるごとに天吾はまわりの人に尋ねてみた。思い出せる人生の最初の情景は何歳のころのものですかと。多くの人にとって、それは四歳か五歳のときのものだった。早くても三歳だった。それより前という例はひとつもない。子供が自分のまわりにある情景を、ある程度論理性を有したものとして目撃し、認識できるようになるのは、少なくとも三歳になってかららしい。それより前の段階では、すべての情景は理解不能なカオスとして目に映る。世界はゆるい粥のようにどろどろとして骨格を持たず、捉えどころがない。それは脳内に記憶を形成することなく、窓の外を過ぎ去っていく。 父親でない男が母親の乳首を吸っているという状況の意味あいが、もちろん一歳半の幼児に判断できるはずはない。それは明らかだ。だからもし天吾のその記憶が真正なものであるとすれば、おそらく彼は何も判断せず、目にした情景をあるがまま網膜に焼き付けたのだろう。カメラが物体をただの光と影の混合物として、機械的にフィルムに記録するのと同じように。そして意識が成長するにつれて、その保留され固定された映像が少しずつ解析され、そこに意味性が付与されていったのだろう。でもそんなことが果たして現実に起こり得るのだろうか? 乳幼児の脳にそんな映像を保存しておくことが可能なのだろうか? あるいはそれはただのフェイクの記憶なのだろうか。すべては彼の意識が後日、なんらかの目的なり企みを持って、勝手に拵え上げたものなのだろうか? 記憶の捏造──その可能性についても天吾は十分に考慮した。そしておそらくそうではあるまいという結論に達した。拵えものであるにしては記憶はあまりにも鮮明であり、深い説得力をもっている。そこにある光や、匂いや、鼓動。それらの実在感は圧倒的で、まがいものとは思えない。そしてまた、その情景が実際に存在したと仮定する方が、いろんなものごとの説明がうまくついた。論理的にも、そして感情的にも。 時間にして十秒ほどのその鮮明な映像は、前触れもなしにやってくる。予兆もなければ、猶予もない。ノックの音もない。電車に乗っているとき、黒板に数式を書いているとき、食事をしているとき、誰かと向かい合って話をしているとき(たとえば今回のように)、それは唐突に天吾を訪れる。無音の津波のように圧倒的に押し寄せてくる。気がついたとき、それはもう彼の目の前に立ちはだかり、手足はすっかり痺れている。時間の流れがいったん止まる。まわりの空気が希薄になり、うまく呼吸ができなくなる。まわりの人々や事物が、すべて自分とは無縁のものと化してしまう。その液体の壁は彼の全身を呑み込んでいく。世界が暗く閉ざされていく感覚があるものの、意識が薄れるわけではない。レールのポイントが切り替えられるだけだ。意識は部分的にはむしろ鋭敏になる。恐怖はない。しかし目を開けていることはできない。まぶたは固く閉じられる。まわりの物音も遠のいていく。そしてそのお馴染みの映像が何度も意識のスクリーンに映し出される。身体のいたるところから汗がふきだしてくる。シャツの脇の下が湿っていくのがわかる。全身が細かく震え始める。鼓動が速く、大きくなる。 誰かと同席している場合であれば、天吾は立ちくらみのふりをする。それは事実、立ちくらみに似ている。時間さえ経過すれば、すべては平常に復する。彼はポケットからハンカチを取り出し、口に当ててじっとしている。手をあげて、何でもない、心配することはないと相手にシグナルを送る。三十秒ほどで終わることもあれば、一分以上続くこともある。そのあいだ同じ映像が、ビデオテープにたとえればリピート状態で自動反復される。母親がスリップの肩紐を外し、その硬くなった乳首をどこかの男が吸う。彼女は目を閉じ、大きく吐息をつく。母乳の懐かしい匂いが微かに漂う。赤ん坊にとって嗅覚はもっとも先鋭的な器官だ。嗅覚が多くを教えてくれる。あるときにはすべてを教えてくれる。音は聞こえない。空気はどろりとした液状になっている。聴き取れるのは、自らのソフトな心音だけだ。 これを見ろ、と彼らは言う。これだけを見ろ、と彼らは言う。お前はここにあり、お前はここよりほかには行けないのだ、と彼らは言う。そのメッセージが何度も何度も繰り返される。 今回の「発作」は長く続いた。天吾は目を閉じ、いつものようにハンカチを口にあて、しっかり嚙みしめていた。どれくらいそれが続いたのかわからない。すべてが終わってしまってから、身体のくたびれ方で見当をつけるしかない。身体はひどく消耗していた。こんなに疲れたのは初めてだ。まぶたを開くことができるようになるまでに時間がかかった。意識は一刻も早い覚醒を求めていたが、筋肉や内臓のシステムがそれに抵抗していた。季節を間違えて、予定より早く目を覚ましてしまった冬眠動物のように。「よう、天吾くん」と誰かがさっきから呼びかけていた。その声は横穴のずっと奥の方から、ぼんやりと聞こえてきた。それが自分の名前であることに天吾は思い当たった。「どうした。また例のやつか? 大丈夫か?」とその声は言った。今度はもう少し近くに聞こえる。 天吾はようやく目を開け、焦点をあわせ、テーブルの縁を握っている自分の右手を眺めた。世界が分解されることなく存在し、自分がまだ自分としてそこにあることを確認した。しびれは少し残っているが、そこにあるのはたしかに自分の右手だった。汗の匂いもした。動物園の何かの動物の檻の前で嗅ぐような、奇妙に荒々しい匂いだ。しかしそれは疑いの余地なく、彼自身の発する匂いだった。 喉が渇いている。天吾は手を伸ばしてテーブルの上のグラスをとり、こぼさないように注意しながら半分水を飲んだ。いったん休んで呼吸を整え、それから残りの半分を飲んだ。意識がだんだんあるべき場所に戻り、身体の感覚が通常に復してきた。空っぽになったグラスを下に置き、口元をハンカチで拭った。「すみません。もう大丈夫です」と彼は言った。そして今向かい合っている相手が小松であることを確認した。二人は新宿駅近くの喫茶店で打ち合わせをしている。まわりの話し声も普通の話し声として聞こえるようになった。隣のテーブルに座った二人連れが、何ごとが起こったのだろうといぶかってこちらを見ていた。ウェイトレスが不安そうな表情を顔に浮かべて近くに立っている。座席で吐かれるのを心配しているのかもしれない。天吾は顔を上げ、彼女に向かって微笑み、肯いた。問題はない、心配しなくていい、というように。「それって、何かの発作じゃないよな?」と小松は尋ねた。「たいしたことじゃありません。ただの立ちくらみのようなものです。ただきついだけで」と天吾は言った。声はまだ自分の声のようには聞こえない。しかしなんとかそれに近いものにはなっている。「車を運転してるときなんかにそういうのが起こると、なかなか大変そうだ」、小松は天吾の目を見ながら言った。「車の運転はしません」「それはなによりだ。知り合いにスギ花粉症の男がいてね、運転中にくしゃみが始まって、そのまま電柱にぶつかっちまった。ところが天吾くんのは、くしゃみどころじゃすまないものな。最初のときはびっくりしたよ。二回目ともなれば、まあ少しは慣れてくるけど」「すみません」 天吾はコーヒーカップを手に取り、その中にあるものを一口飲んだ。何の味もしない。ただなま温かい液体が喉を通りすぎていくだけだ。「新しい水をもらおうか?」と小松が尋ねた。 天吾は首を振った。「いえ、大丈夫です。もう落ち着きました」 小松は上着のポケットからマルボロの箱を取り出し、口に煙草をくわえ、店のマッチで火をつけた。それから腕時計にちらりと目をやった。「それで、何の話をしていたんでしたっけ?」と天吾は尋ねた。早く平常に戻らなくてはならない。「ええと、俺たち何を話してたんだっけな」と小松は言って目を宙に向け、少し考えた。あるいは考えるふりをした。どちらかは天吾にもわからない。小松の動作やしゃべり方には少なからず演技的な部分がある。「うん、そうだ、ふかえりって女の子の話をしかけてたんだ。それと『空気さなぎ』について」 天吾は肯いた。ふかえりと『空気さなぎ』の話だ。それについて小松に説明しかけたところで「発作」がやってきて、話が中断した。天吾は鞄の中から原稿のコピーの束を取り出し、テーブルの上に置いた。原稿の上に手を載せ、その感触を今一度たしかめた。「電話でも簡単に話しましたけど、この『空気さなぎ』のいちばんの美点は誰の真似もしていない、というところです。新人の作品にしては珍しく、何かみたいになりたいという部分がありません」、天吾は慎重に言葉を選んで言った。「たしかに文章は荒削りだし、言葉の選び方も稚拙です。だいたい題名からして、さなぎとまゆを混同しています。その気になれば、欠陥はほかにもいくらでも並べ立てられるでしょう。でもこの物語には少なくとも人を引き込むものがあります。筋全体としては幻想的なのに、細部の描写がいやにリアルなんです。そのバランスがとてもいい。オリジナリティーとか必然性とかいった言葉が適切なのかどうか、僕にはわかりません。そんな水準まで達していないと言われれば、そのとおりかもしれない。でもつっかえつっかえ読み終えたとき、あとにしんとした手応えが残ります。それがたとえ居心地の悪い、うまく説明のつかない奇妙な感触であるにしてもです」 小松は何も言わず天吾の顔を見ていた。更に多くの言葉を彼は求めていた。 天吾は続けた。「文章に稚拙なところがあるからというだけで、この作品を簡単に選考から落としてほしくなかったんです。この何年か仕事として、山ほど応募原稿を読んできました。まあ読んだというよりは、読み飛ばしたという方が近いですが。比較的良く書けた作品もあれば、箸にも棒にもかからないものも──もちろんあとの方が圧倒的に多いんだけど──ありました。でもとにかくそれだけの数の作品に目を通してきて、仮にも手応えらしきものを感じたのはこの『空気さなぎ』が初めてです。読み終えて、もう一度あたまから読み返したいという気持ちになったのもこれが初めてです」「ふうん」と小松は言った。そしていかにも興味なさそうに煙草の煙を吹き、口をすぼめた。しかし天吾は小松との決して短くはないつきあいから、その見かけの表情には簡単にだまされないようになっていた。この男は往々にして、本心とは関係のない、あるいはまったく逆の表情を顔に浮かべることがある。だから天吾は相手が口を開くのを辛抱強く待った。「俺も読んだよ」と小松はしばらく時間を置いてから言った。「天吾くんから電話をもらって、そのあとすぐに原稿を読んだ。いや、でも、おそろしく下手だね。てにをはもなってないし、何が言いたいのか意味がよくわからない文章だってある。小説なんか書く前に、文章の書き方を基礎から勉強し直した方がいいよな」「でも最後まで読んでしまった。そうでしょう?」 小松は微笑んだ。普段は開けることのない抽斗の奥からひっぱり出してきたような微笑みだった。「そうだな。たしかにおっしゃるとおりだ。最後まで読んだよ。自分でも驚いたことに。新人賞の応募作を俺が最後まで読み通すなんて、まずないことだ。おまけに部分的に読み返しまでした。こうなるともう惑星直列みたいなもんだ。そいつは認めよう」「それは何かがあるってことなんです。違いますか?」 小松は灰皿に煙草を置き、右手の中指で鼻のわきをこすった。しかし天吾の問いかけに対しては返事をしなかった。 天吾は言った。「この子はまだ十七歳、高校生です。小説を読んだり、書いたりする訓練ができてないだけです。今回の作品が新人賞をとるっていうのは、そりゃたしかにむずかしいかもしれません。でも最終選考に残す価値はありますよ。小松さんの一存でそれくらいはできるでしょう。そうすればきっと次につながります」「ふうん」と小松はもう一度うなって、退屈そうにあくびをした。そしてグラスの水を一口飲んだ。「なあ、天吾くん、よく考えろよ。こんな荒っぽいものを最終選考に残してみろ。選考委員の先生方はひっくり返っちゃうぜ。怒り出すかもしれない。だいいち最後まで読みもしないよ。選考委員は四人とも現役の作家だ。みんな仕事が忙しい。最初の二ページをぱらぱら読んだだけであっさり放り出しちまうさ。こんなもの小学生の作文並みじゃないかってさ。磨けば光るものがここにはあります、なんて俺が揉み手をしながら熱弁を振るったところで、誰が耳を傾ける? 俺の一存なんてものがたとえ力を持つにしても、そいつはもっと見込みのあるもののためにとっておきたいね」「ということは、あっさりと落としてしまうということですか?」「とは言ってない」、小松は鼻のわきをこすりながら言った。「俺はこの作品については、ちょっとした別のアイデアを持っているんだ」「ちょっとした別のアイデア」と天吾は言った。そこには不吉な響きが微かに聞き取れた。「次の作品に期待しろと天吾くんは言う」と小松は言った。「俺だってもちろん期待はしたいさ。時間をかけて若い作家を大事に育てるのは、編集者としての大きな喜びだ。澄んだ夜空を見渡して、誰よりも先に新しい星を見つけるのは胸躍るものだ。ただ正直に言ってね、この子に次があるとは考えにくい。俺もふつつかながら、この世界で二十年飯を食ってきた。そのあいだにいろんな作家が出たり引っ込んだりするのを目にしてきた。だから次がある人間と、次があるとは思えない人間の区別くらいはつくようになった。それでね、俺に言わせてもらえれば、この子には次はないよ。気の毒だけど、次の次もない。次の次の次もない。だいいちこの文章は、時間をかけ研鑽を積んで上達するような代物じゃないよ。いくら待ったってどうにもなりゃしない。待ちぼうけのまんまだ。どうしてかっていうとね、良い文章を書こう、うまい文章を書けるようになりたいというつもりが、本人に露ほどもないからさ。文章ってのは、生まれつき文才が具わっているか、あるいは死にものぐるいの努力をしてうまくなるか、どっちかしかないんだ。そしてこのふかえりっていう子は、そのどっちでもない。見ての通り天性の才能もないし、かといって努力するつもりもなさそうだ。どうしてかはわからん。でも文章というものに対する興味がそもそもないんだ。物語を語りたいという意志はたしかにある。それもかなり強い意志であるらしい。そいつは認める。それがナマのかたちで、こうして天吾くんを惹きつけ、俺に最後まで原稿を読ませる。考えようによっちゃたいしたもんだ。にもかかわらず小説家としての将来はない。南京虫のクソほどもない。君をがっかりさせるみたいだけど、ありていに意見を言わせてもらえれば、そういうことだ」 天吾はそれについて考えてみた。小松の言い分にも一理あるように思えた。小松には何はともあれ編集者としての勘が具わっている。「でもチャンスを与えてやるのは悪いことじゃないでしょう」と天吾は言った。「水に放り込んで、浮かぶか沈むか見てみろ。そういうことか?」「簡単にいえば」「俺はこれまでにずいぶん無益な殺生をしてきた。人が溺れるのをこれ以上見たくはない」「じゃあ、僕の場合はどうなんですか?」「天吾くんは少なくとも努力をしている」と小松は言葉を選んで言った。「俺の見るかぎりでは手抜きがない。文章を書くという作業に対してきわめて謙虚でもある。どうしてか? それは文章を書くことが好きだからだ。俺はそこも評価している。書くのが好きだというのは、作家を目指す人間にとっては何より大事な資質だよ」「でも、それだけでは足りない」「もちろん。それだけでは足りない。そこには『特別な何か』がなくてはならない。少なくとも、何かしら俺には読み切れないものが含まれていなくてはならない。俺はね、こと小説に関して言えば、自分に読み切れないものを何より評価するんだ。俺に読み切れるようなものには、とんと興味が持てない。当たり前だよな。きわめて単純なことだ」 天吾はしばらく黙っていた。それから口を開いた。「ふかえりの書いたものには、小松さんに読み切れないものは含まれていますか?」「ああ。あるよ、もちろん。この子は何か大事なものを持っている。どんなものだか知らんが、ちゃんと持ち合わせている。そいつはよくわかるんだ。君にもわかるし、俺にもわかる。それは風のない午後の焚き火の煙みたいに、誰の目にも明らかに見て取れる。しかしね天吾くん、この子の抱えているものは、この子の手にはおそらく負いきれないだろう」「水に放り込んでも浮かぶ見込みはない」「そのとおり」と小松は言った。「だから最終選考には残さない?」「そこだよ」と小松は言った。そして唇をゆがめ、テーブルの上で両手を合わせた。「そこで俺としては、言葉を慎重に選ばなくちゃならないことになる」 天吾はコーヒーカップを手に取り、中に残っているものを眺めた。そしてカップを元に戻した。小松はまだ何も言わない。天吾は口を開いた。「小松さんの言うちょっとした別のアイデアがそこに浮上してくるわけですね?」 小松は出来の良い生徒を前にした教師のように目を細めた。そしてゆっくりと肯いた。「そういうことだ」 小松という男にはどこかはかり知れないところがあった。何を考えているのか、何を感じているのか、表情や声音から簡単に読みとることができない。そして本人も、そうやって相手を煙に巻くことを少なからず楽しんでいるらしかった。頭の回転はたしかに速い。他人の思惑など関係なく、自分の論理に従ってものを考え、判断を下すタイプだ。また不必要にひけらかすことはしないが、大量の本を読んでおり、多岐にわたって綿密な知識を有していた。知識ばかりではなく、直感的に人を見抜き、作品を見抜く目も持っていた。そこには偏見が多分に含まれていたが、彼にとっては偏見も真実の重要な要素のひとつだった。 もともと多くを語る男ではなく、何につけ説明を加えることを嫌ったが、必要とあれば怜悧に論理的に自説を述べることができた。そうなろうと思えばとことん辛辣になることもできた。相手の一番弱い部分を狙い澄まし、一瞬のうちに短い言葉で刺し貫くことができた。人についても作品についても個人的な好みが強く、許容できる相手よりは許容できない人間や作品の方がはるかに多かった。そして当然のことながら相手の方も、彼に対して好意を抱くよりは、抱かないことの方がはるかに多かった。しかしそれは彼自身の求めるところでもあった。天吾の見るところ、彼はむしろ孤立することを好んだし、他人に敬遠されることを──あるいははっきりと嫌われることを──けっこう楽しんでもいた。精神の鋭利さが心地よい環境から生まれることはない、というのが彼の信条だった。 小松は天吾より十六歳年上で、四十五歳になる。文芸誌の編集一筋でやってきて、業界ではやり手としてそれなりに名を知られているが、その私生活について知る人はいない。仕事上のつきあいはあっても、誰とも個人的な話をしないからだ。彼がどこで生まれてどこで育ち、今どこに住んでいるのか、天吾は何ひとつ知らなかった。長く話をしても、そんな話題は一切出てこない。そこまでとっつきが悪く、つきあいらしきこともせず、文壇を軽侮するような言動を取り、それでよく原稿がとれるものだと人は首をひねるのだが、本人はさして苦労もなさそうに、必要に応じて有名作家の原稿を集めてきた。彼のおかげで雑誌の体裁がなんとか整うということも何度かあった。だから人に好かれはせずとも、一目は置かれる。 噂では、小松が東京大学文学部にいたときに六〇年安保闘争があり、彼は学生運動組織の幹部クラスだったということだ。樺美智子がデモに参加し、警官隊に暴行を受けて死んだときにすぐ近くにいて、彼自身も浅からぬ傷を負ったという。真偽のほどはわからない。ただそう言われれば、と納得できるところはあった。長身でひょろりと瘦せて、口がいやに大きく、鼻がいやに小さい。手脚が長く、指の先にニコチンのしみがついている。十九世紀のロシア文学に出てくる革命家崩れのインテリゲンチアを思わせるところがある。笑うことはあまりないが、いったん笑うと顔中が笑みになる。しかしそうなっても、とくに楽しそうには見えない。不吉な予言を準備しながらほくそ笑んでいる、年期を経た魔法使いとしか見えない。清潔で身だしなみは良いが、おそらく服装なんぞに興味がないことを世界に示すためだろう、常に似たような服しか着ない。ツイードのジャケットに、白のオックスフォード綿のシャツか淡いグレーのポロシャツ、ネクタイはなし、グレーのズボン、スエードの靴、それがユニフォームのようなものだ。色と生地と柄の大きさがそれぞれわずかに異なるツイードの三つボタンジャケットが半ダースばかり、丁寧にブラシをかけられ、自宅のクローゼットに吊されている光景が目に浮かぶ。見分けをつけるために番号だって振られているかもしれない。 細い針金のような硬い髪は、前髪のあたりがわずかに白くなりかけている。髪はもつれ、耳が隠れるくらいだ。不思議なことにその長さは、一週間前に床屋に行くべきだったという程度に常に保たれている。どうしてそんなことが可能なのか、天吾にはわからない。ときどき冬の夜空で星が瞬くように、眼光が鋭くなる。何かあっていったん黙り込むと、月の裏側にある岩みたいにいつまでも黙っている。表情もほとんどなくなり、体温さえ失われてしまったように見える。 天吾が小松と知り合ったのは五年ばかり前だ。彼は小松が編集者をしている文芸誌の新人賞に応募し、最終選考に残った。小松から電話がかかってきて、会って話をしたいと言われた。二人は新宿の喫茶店(今いるのと同じ店だ)で会った。今回の作品で君が新人賞をとるのは無理だろう、と小松は言った(事実とれなかった)。しかし自分は個人的にこの作品が気に入っている。「恩を売るわけじゃないが、俺が誰かに向かってこんなことを言うのは、とても珍しいことなんだよ」と彼は言った(そのときは知らなかったが、実際にそのとおりだった)。だから次の作品を書いたら読ませてもらいたい、誰よりも先に、と小松は言った。そうしますと天吾は言った。 小松はまた、天吾がどのような人間なのかを知りたがった。どういう育ち方をして、今はどんなことをしているのか。天吾は説明できるところは、できるだけ正直に説明した。千葉県市川市で生まれ育った。母親は天吾が生まれてほどなく、病を得て死んだ。少なくとも父親はそのように言っている。兄弟はいない。父親はそのあと再婚することもなく、男手ひとつで天吾を育てた。父親は NHKの集金人をしていたが、今はアルツハイマー病になって、房総半島の南端にある療養所に入っている。天吾は筑波大学の「第一学群自然学類数学主専攻」という奇妙な名前のついた学科を卒業し、代々木にある予備校の数学講師をしながら小説を書いている。卒業したとき地元の県立高校に教師として就職する道もあったのだが、勤務時間が比較的自由な塾の講師になることを選んだ。高円寺の小さなアパートに一人で暮らしている。 職業的小説家になることを自分が本当に求めているのかどうか、それは本人にもわからない。小説を書く才能があるのかどうか、それもよくわからない。わかっているのは、自分は日々小説を書かずにはいられないという事実だけだった。文章を書くことは、彼にとって呼吸をするのと同じようなものだった。小松はとくに感想を言うでもなく、天吾の話をじっと聞いていた。 なぜかはわからないが小松は、天吾を個人的に気に入ったようだった。天吾は身体が大きく(中学校から大学までずっと柔道部の中心選手だった)、早起きの農夫のような目をしていた。髪を短く刈り、いつも日焼けしたような肌色で、耳はカリフラワーみたいに丸くくしゃくしゃで、文学青年にも数学の教師にも見えなかった。そんなところも小松の好みにあったらしい。天吾は新しい小説を書き上げると、小松のところに持っていった。小松は読んで感想を述べた。天吾はその忠告に従って改稿した。書き直したものを持っていくと、小松はそれに対してまた新しい指示を与えた。コーチが少しずつバーの高さを上げていくように。「君の場合は時間がかかるかもしれない」と小松は言った、「でも急ぐことはない。腹を据えて毎日休みなく書き続けるんだな。書いたものはなるたけ捨てずにとっておくといい。あとで役に立つかもしれないから」。そうします、と天吾は言った。 小松はまた、天吾に細かい文筆の仕事をまわしてくれた。小松の出版社が出している女性誌のための無署名の原稿書きだった。投書のリライトから、映画や新刊書の簡単な紹介記事から、果ては星占いまで、依頼があればなんでもこなした。天吾が思いつきで書く星占いはよくあたるので評判になった。彼が「早朝の地震に気をつけて下さい」と書くと、実際にある日の早朝に大きな地震が起こった。そのような賃仕事は、臨時収入としてありがたかったし、また文章を書く練習にもなった。自分の書いた文章が、たとえどのようなかたちであれ、活字になって書店に並ぶのは嬉しいものだ。 天吾はやがて文芸誌の新人賞の下読みの仕事も与えられた。本人が新人賞に応募する身でありながら、一方でほかの候補作の下読みをするというのも不思議な話だが、天吾自身は自分の立場の微妙さをとくに気にするでもなく、公正にそれらの作品に目を通した。そして出来の悪いつまらない小説を山ほど読むことによって、出来の悪いつまらない小説とはどういうものであるか、身に滲みて学んだ。彼は毎回百前後の数の作品を読み、なんとか意味らしきものを見いだせそうな作品を十編ほど選び、小松のところに持っていった。それぞれの作品に感想を書いたメモを添えた。最終選考に五編が残され、四人の選考委員がその中から新人賞を選んだ。 天吾のほかにも下読みのアルバイトがいたし、小松のほかにも複数の編集者が下選考にあたった。公正を期していたわけだが、わざわざそんな手間をかける必要もなかった。少しでも見所のある作品は、どれだけ全体の数が多くてもせいぜい二つか三つというところだし、誰が読んでも見逃しようはなかったから。天吾の作品が最終選考に残ったことは三度あった。さすがに天吾自身が自分の作品を選ぶことはなかったが、ほかの二人の下読み係が、そして編集部デスクである小松が残してくれた。それらの作品は新人賞をとれなかったが、天吾はがっかりもしなかった。ひとつには「時間をかければいい」という小松の言葉が頭に焼き付いていたからだし、それに天吾自身、とくに今すぐ小説家になりたいわけでもなかったからだ。 授業のカリキュラムをうまく調整すれば、週に四日は自宅で好きなことをしていられた。七年間同じ予備校で講師をしているが、生徒たちのあいだではかなり評判が良い。教え方が要を得て、まわりくどくなく、どんな質問にも即座に答えることができたからだ。天吾自身が驚いたことに、彼には話術の才が具わっていた。説明も上手だったし、声もよくとおったし、冗談を言って教室をわかせることもできた。教師の仕事に就くまで、自分ではずっと話し下手だと思っていた。今でも誰かと面と向かって話をしていると、緊張して言葉がうまく出てこないことがある。少人数のグループに入ると、もっぱら聞き役にまわった。しかし教壇に立ち、不特定多数の人々を前にすると、頭がすっと晴れ渡った状態になり、いくらでも気軽に話し続けられた。人間というのはよくわからないものだ、と天吾はあらためて思った。 給料に不満はなかった。多額の収入とは言えないにせよ、予備校は能力に見合っただけの報酬を払う。生徒による講師の査定が定期的におこなわれ、評価が高ければそのぶん待遇は上がっていく。優秀な講師をほかの学校に引き抜かれることを恐れるからだ(実際にヘッドハンティングの話は何度かあった)。普通の学校ではそうはいかない。給料は年功序列で決まるし、私生活は上司によって管理され、能力や人気など何の意味も持たない。彼は予備校での仕事を楽しんでもいた。大半の生徒は大学受験という明確な目的意識を持って教室にやってきて、熱心に講義を聴いた。講師は教室で教える以外には何もしなくていい。これは天吾にとってはありがたいことだ。生徒の非行や校則違反といった面倒な問題に頭を悩ませる必要はない。ただ教壇に立ち、数学の問題の解き方を教えればよかった。そして数字という道具を使った純粋な観念の行使は、天吾が生来得意とするところだった。 家にいるときは、朝早く起きてだいたい夕方近くまで小説を書いた。モンブランの万年筆とブルーのインクと、四百字詰め原稿用紙。それさえあれば天吾は満ち足りた気持ちになれた。週に一度、人妻のガールフレンドが彼のアパートの部屋にやってきて、午後を一緒に過ごした。十歳年上の人妻とのセックスは、どこにも行きようがないぶん気楽であり、その内容は充実していた。夕方に長い散歩をし、日が暮れると音楽を聴きながら一人で本を読んだ。テレビは見ない。 NHKの集金人が来ると、申し訳ないがテレビはありませんと丁寧に断った。本当にないんです。中に入って調べてもらってもかまいません。しかし彼らは部屋には入ってこなかった。 NHKの集金人には家に上がり込むことが許されていないのだ。「俺が考えているのはね、もう少しでかいことなんだ」と小松は言った。「でかいこと?」「そう。新人賞なんて小さなことは言わず、どうせならもっとでかいのを狙う」 天吾は黙っていた。小松の意図するところは不明だが、そこに何かしら不穏なものを感じ取ることはできた。「芥川賞だよ」と小松はしばらく間を置いてから言った。「芥川賞」と天吾は相手の言葉を、濡れた砂の上に棒きれで大きく漢字を書くみたいに繰り返した。「芥川賞。それくらい世間知らずの天吾くんだって知ってるだろう。新聞にでかでかと出て、テレビのニュースにもなる」「ねえ小松さん、よくわからないんだけど、今ひょっとして僕らは、ふかえりの話をしているんですか?」「そうだよ。我々はふかえりと『空気さなぎ』の話をしている。それ以外に話題にのぼった案件はないはずだ」 天吾は唇を嚙んで、その裏にあるはずの筋を読みとろうとした。「でも、この作品は新人賞をとるのも無理だって、ずっとそういう話だったじゃないですか。このままじゃなんともならないって」「そうだよ、このままじゃなんともならない。そいつは明白な事実だ」 天吾には考える時間が必要だった。「ということはつまり、応募してきた作品に手を入れるってことですか?」「それ以外に方法はないさ。有望な応募作に編集者がアドバイスして書き直させる例はよくある。珍しいことじゃない。ただし今回は著者自身ではなく、ほかの誰かが書き直すことになる」「ほかの誰か?」、そう言ったものの、その答えは質問を口にする前から天吾にはわかっていた。ただ念のために尋ねただけだ。「君が書き直すんだよ」と小松は言った。 天吾は適当な言葉を探した。しかし適当な言葉は見あたらなかった。彼はため息をつき、言った。「でもね、小松さん、この作品は多少手直しするくらいじゃ間に合いません。頭から尻尾まで根本的に書き直さないことにはまとまりがつかないでしょう」「もちろん頭から尻尾まで作り替える。物語の骨格はそのまま使う。文体の雰囲気もできるだけ残す。でも文章はほとんどそっくり入れ替える。いわゆる換骨奪胎だ。実際の書き直しは天吾くんが担当する。俺が全体をプロデュースする」「そんなにうまく行くものだろうか」と天吾は独りごとのように言った。「いいかい」、小松はコーヒースプーンを手に取り、指揮者がタクトで独奏者を指定するようにそれを天吾に向けた。「このふかえりという子は何か特別なものを持っている。それは『空気さなぎ』を読めばわかる。この想像力はただものじゃない。しかし残念ながら文章の方はなんともならん。お粗末きわまりない。その一方で君には文章が書ける。筋がいいし、センスもある。図体はでかいが、文章は知的で繊細だ。勢いみたいなものもちゃんとある。ところがふかえりちゃんとは逆に、何を書けばいいのかが、まだつかみきれていない。だから往々にして物語の芯が見あたらない。君が本来書くべきものは、君の中にしっかりあるはずなんだ。ところがそいつが、深い穴に逃げ込んだ臆病な小動物みたいに、なかなか外に出てこない。穴の奥に潜んでいることはわかっているんだ。しかし外に出てこないことには捕まえようがない。時間をかければいいと俺が言うのは、そういう意味だよ」 天吾はビニールの椅子の中で不器用に姿勢を変えた。何も言わなかった。「話は簡単だ」と小松はコーヒースプーンを細かく振りながら続けた。「その二人を合体して、一人の新しい作家をでっちあげればいいんだ。ふかえりが持っている荒削りな物語に、天吾くんがまっとうな文章を与える。組み合わせとしては理想的だ。君にはそれだけの力がある。だからこそ俺だってこれまで、個人的に肩入れしてきたんじゃないか。そうだろ? あとのことは俺にまかせておけばいい。力を合わせれば新人賞なんて軽いもんだよ。芥川賞もじゅうぶん狙える。俺だってこの業界で無駄飯を食ってきたわけじゃない。そのへんのやり方は裏の裏まで心得ている」 天吾は口を軽く開けたまま、しばらく小松の顔を見ていた。小松はコーヒースプーンをソーサーに戻した。不自然に大きな音がした。「もし芥川賞をとれたとして、それからどうなるんですか?」と天吾は気を取り直して尋ねた。「芥川賞をとれば評判になる。世の中の大半の人間は、小説の値打ちなんてほとんどわからん。しかし世の中の流れから取り残されたくないと思っている。だから賞を取って話題になった本があれば、買って読む。著者が現役の女子高校生ともなればなおさらだ。本が売れればけっこうな金になる。儲けは三人で適当に分けよう。そのへんは俺がうまく按配する」「金の分配みたいなことは、今のところどうでもいいです」と天吾は潤いを欠いた声で言った。「でもそんなことして、編集者としての職業倫理に抵触しないんですか。もしそんな仕掛けをしたことが世間にばれちゃったら、ずいぶんな問題になりますよ。会社にもいられないでしょう」「そんなに簡単にばれやしないよ。俺はその気になればとても用心深くことを運ぶことができる。それにもしばれたところで、会社なんて喜んでやめてやる。どうせ上の方には受けが悪くて、ずっと冷や飯を食わされてきたんだ。仕事くらいすぐに見つけられる。俺はね、何も金がほしくてこんなことをやろうとしてるんじゃない。俺が望んでいるのは、文壇をコケにすることだよ。うす暗い穴ぐらにうじゃうじゃ集まって、お世辞を言い合ったり、傷口を舐めあったり、お互いの足を引っ張り合ったりしながら、その一方で文学の使命がどうこうなんて偉そうなことをほざいているしょうもない連中を、思い切り笑い飛ばしてやりたい。システムの裏をかいて、とことんおちょくってやるんだ。愉快だと思わないか?」 天吾にはそれがとくに愉快だとも思えなかった。だいたい彼は文壇なんてものをまだ目にしたこともない。そして小松ほどの有能な男が、そんな子供っぽい動機から危険な橋を渡ろうとしていることを知って、言葉を一瞬失ってしまった。「小松さんの言ってることは、僕には一種の詐欺みたいに聞こえるんですが」「合作は珍しいことじゃない」と小松は顔をしかめて言った。「雑誌の連載マンガなんて半分くらいはそれだ。スタッフがアイデアを出しあってストーリーをこしらえ、それを絵描きが簡単な線画にし、アシスタントが細かい部分を描き足して彩色をする。そのへんの工場で目覚まし時計を作るのと同じだ。小説の世界にだって似たような例はある。たとえばロマンス小説がそうだ。あれの多くは、出版社サイドが設定したノウハウに従って、雇われ作家がそれらしく話をこしらえているだけだ。要するに分業システムさ。そうしないことには量産がきかないからね。ただしお堅い純文学の世界では、そんな方式は表向き通用しないから、実際的な戦略として我々は、ふかえりという女の子一人を表面に立てておく。もしばれたら、そりゃちっとはスキャンダルになるかもしれない。しかし法律に反しているわけじゃない。そういうのはもはや時代の趨勢なんだよ。それに我々はバルザックやら紫式部やらの話をしているわけじゃない。そのへんの女子高校生が書いた穴ぼこだらけの作品に手を加えて、よりまともな作品を作り上げようとしているだけだ。それのどこがいけない? 出来上がった作品が良質で、多くの読者がそれを楽しめたとしたら、それでいいじゃないか」 天吾は小松の言ったことについて考えた。そして言葉を慎重に選んだ。「問題がふたつあります。もっとたくさん問題があるはずだけど、とりあえずふたつだけにしておきます。ひとつは著者であるふかえりという女の子が、他人の手による書き直しを了承するかどうかです。彼女がノーと言えば、話はもちろん一歩も前に進まない。もうひとつ、彼女がそれを了承したとして、僕があの物語を実際にうまく書き直せるかどうかという問題があります。共同作業というのはすごく微妙なものだし、小松さんが考えているように簡単にはものごとは運ばないんじゃないですか」「天吾くんにならできる」、小松はその意見を前もって予期していたように、間を置かずに言った。「間違いなくできる。最初に『空気さなぎ』を読んだときに、それがまず俺の頭にぽっと浮かんだことだった。こいつは天吾くんが書き直すべき話なんだって。更に言えば、これは天吾くんが書き直すに相応しい話なんだ。天吾くんに書き直されることを待っている話なんだ。そうは思わないか?」 天吾はただ首を振った。言葉が出てこない。「何も急ぐことはない」と小松は静かな声で言った。「大事なことだ。二三日じっくり考えればいい。『空気さなぎ』をもう一度読み返してくれ。そして俺が提案したことについてよく考えてみてほしい。そうだ、こいつも君に渡しておこう」 小松は上着のポケットから茶色の封筒を出し、それを天吾に渡した。封筒の中には定型のカラー写真が二枚入っていた。女の子の写真だった。一枚は胸から上のポートレイト、もう一枚は全身が映ったスナップ写真。同じときに撮られたものらしい。彼女はどこかの階段の前に立っている。広い石の階段だ。古典的な美しい顔立ち、長いまっすぐな髪。白いブラウス。小柄で、やせている。唇は笑おうと努力しているが、目はそれに抵抗している。生真面目な目だ。何かを求める目だ。天吾はその二枚の写真をしばらく交互に眺めた。なぜかはわからないが、その写真を見ているうちに、その年代の頃の自分のことを思い出した。そして胸がわずかに痛んだ。それは長いあいだ味わったことのない特別な種類の痛みだった。彼女の姿にはそういう痛みを喚起するものがあるようだった。 小松が言った。「それがふかえりだ。なかなかの美人だろう。それも清楚なタイプだ。十七歳。申しぶんない。本名は深田絵里子。しかし本名は出さない。あくまで『ふかえり』で通す。芥川賞でもとったら、ちょっとした話題になると思わないか。マスコミは夕暮れどきのコウモリの群れみたいに頭上を飛び回るだろう。本は作る端から売れる」 小松はどこでその写真を手に入れたのだろう、天吾は不思議に思った。応募原稿に写真が添えられてくるわけはない。しかし天吾はそれについては質問しないことにした。回答を──どんな回答か予測もつかないが──知りたくなかったということもある。「そいつは君が持っていればいい。何かの役に立つだろう」と小松は言った。天吾は写真を封筒に戻し、『空気さなぎ』の原稿コピーの上に置いた。「小松さん、僕は業界の事情みたいなものはほとんど何も知りません。でも一般常識に照らし合わせて考えれば、これはすごく危なっかしい計画です。いったん世間に向けて噓をついたら、永遠に噓をつき通さなくちゃなりません。つじつまを合わせ続けなくちゃならない。心理的にも技術的にも、それは簡単なことじゃないはずです。誰かがどこかでひとつでもしくじれば、全員の命取りになりかねない。そう思いませんか?」 小松は新しい煙草を取り出して火をつけた。「そのとおりだ。君の言い分は健全で正しい。たしかにリスキーな計画だ。今の時点ではいささか不確定要素が多すぎる。何が起こるか予測がつかない。失敗して、それぞれに面白くない思いをすることになるかもしれない。そいつはよくわかっている。しかしな、天吾くん、すべてを考慮した上で、俺の本能は『前に進め』と告げている。なぜならこんなチャンスはまずお目にかかることのできないものだからだ。これまでだって一度もなかった。この先だってたぶんないだろう。賭け事にたとえるのは不適当かもしれんが、札も揃っている。チップもたっぷりある。いろんな条件がぴったりと合っている。この機会を逃したら、あとあと後悔することになる」 天吾は黙って、相手の顔に浮かんだいかにも不吉な微笑みを眺めていた。「そしてなによりも大事なのは、俺たちが『空気さなぎ』を、より優れた作品に作り直そうとしているという点にある。あれはもっとうまく書かれていいはずの話なんだ。あそこには何かとても大事なものがある。誰かがうまく取り出してやらなくちゃならん何かだ。天吾くんだって内心ではそう思っているはずだ。違うか? そのために我々は力を合わせる。プロジェクトを立ち上げ、それぞれの能力を持ち寄る。動機としてはどこに出しても恥ずかしくないものだよ」「しかし小松さん、どんな理屈を持ち出そうと、大義名分を掲げようと、これはどうみても詐欺行為ですよ。動機はどこに出しても恥ずかしくないものかもしれないけれど、実際にはどこに出すこともできない。裏でこそこそ動き回らなくちゃなりません。詐欺という言葉が不適当なら、背信行為です。法律には反していなくても、そこにはモラルという問題があります。だって編集者が自社の文芸誌の新人賞作品をでっちあげるなんて、株式で言えばインサイダー取引きみたいなものじゃないですか」「文学と株式を比較することはできない。その二つはまったく違うものだ」「たとえばどんなところが違うんですか?」「たとえば、そうだな、君はひとつ重大な事実を見落としている」と小松は言った。彼の口はこれまで見たことがないくらい大きく、楽しげに広がっていた。「というか、その事実から故意に目を背けている。それはね、君自身がすでにこいつをやりたがっているってことだ。君の気持ちはもう『空気さなぎ』の書き直しに向かっている。俺にはそれがよくわかる。リスクもモラルもへったくれもない。天吾くん、君は今では『空気さなぎ』を自分の手で書き直したくてたまらないはずだ。ふかえりの代わりに自分がその何かを取り出したくてたまらないはずだ。なあ、それがまさに文学と株式の違いなんだよ。そこでは良くも悪くも、金以上の動機がものごとを動かしていく。うちに帰って自分の本心をじっくり確かめてみるといい。鏡の前に立って自分の顔をよく眺めてみるといい。顔にしっかりとそう書いてあるぜ」 あたりの空気が突然薄くなったような気がした。天吾は短くまわりを見渡した。またあの映像がやってくるのだろうか? しかしそんな気配はなかった。その空気の希薄さはどこか別の領域からやってきたものだ。彼はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。小松の言うことはいつも正しいのだ。なぜか。 青豆はストッキングだけの素足で、狭い非常階段を降りた。むき出しの階段を風が音を立てて吹き抜けていった。タイトなミニスカートだったが、それでも時折下から吹き込む強い風にあおられてヨットの帆のようにふくらみ、身体が持ち上げられて不安定になった。彼女は手すりがわりのパイプを素手でしっかりと握り、後ろ向きになって一段一段下に向かった。ときどき立ち止まって顔にかかった前髪を払い、たすきがけにしたショルダーバッグの位置を調整した。 眼下には国道二四六号線が走っていた。エンジン音やクラクション、車の防犯アラームの悲鳴、右翼の街宣車が流す古い軍歌、スレッジハンマーがどこかでコンクリートを砕いている音、その他ありとあらゆる都会の騒音が、彼女を取り囲んでいた。騒音はまわり三六〇度、上から下から、すべての方向から押し寄せてきて、風に乗って舞った。それを聞いていると(とくに聞きたくもないが、耳をふさいでいる余裕もない)、だんだん船酔いに似た気分の悪さを感じるようになった。 階段をしばらく降りたところで、高速道路の中央に向けて戻っていく平らな通路があった。それからまたまっすぐ下に向かって降りていく。 むき出しの非常階段から道路をひとつ隔てて、五階建ての小さなマンションが建っていた。茶色の煉瓦タイルのけっこう新しい建物だ。こちらに向かってベランダがついていたが、どの窓もぴたりと閉ざされ、カーテンかブラインドがかかっている。いったいどんな種類の建築家が、首都高速道路と鼻をつき合わせるような位置にわざわざベランダをつけたりするのだろう? そんなところにシーツを干す人間もいないだろうし、そんなところで夕方の交通渋滞を眺めながらジン・トニックのグラスを傾ける人間もいないはずだ。それでもいくつかのベランダには、決まり事のようにナイロンの物干しロープが張ってあった。ひとつにはガーデンチェアと鉢植えのゴムの木まで置かれていた。うらぶれて色褪せたゴムの木だった。葉はぼろぼろになり、あちこちで茶色く枯れている。青豆はそのゴムの木に同情しないわけにはいかなかった。もし生まれ変われるとしてもそんなものにだけはなりたくない。 非常階段はふだんほとんど使われていないらしく、ところどころに蜘蛛の巣が張っていた。小さな黒い蜘蛛がそこにへばりついて、小さな獲物がやってくるのを我慢強く待っていた。しかし蜘蛛にしてみれば、とくに我慢強いという意識もないのだろう。蜘蛛としては巣を張る以外にとくべつな技能もないし、そこでじっとしている以外にライフスタイルの選択肢もない。ひとところに留まって獲物を待ち続け、そのうちに寿命が尽きて死んでひからびてしまう。すべては遺伝子の中に前もって設定されていることだ。そこには迷いもなく、絶望もなく、後悔もない。形而上的な疑問も、モラルの葛藤もない。おそらく。でも私はそうじゃない。私は目的に沿って移動しなくてはならないし、だからこそこうしてストッキングをだめにしながら、ろくでもない三軒茶屋あたりで、首都高速道路三号線のわけのわからない非常階段を一人で降りている。しみったれた蜘蛛の巣をはらい、馬鹿げたベランダの汚れたゴムの木を眺めながら。 私は移動する。ゆえに私はある。 青豆は階段を降りながら、大塚環のことを考えた。考えるつもりはなかったのだが、一度頭に浮かんでしまうと、考えることを止められなかった。環は彼女の高校時代のいちばんの親友であり、同じソフトボール部に属していた。二人はチームメイトとしていろんなところに一緒に行ったし、いろんなことを一緒にした。一度レズビアンのような真似をしたこともある。夏休みに二人で旅行をしていたとき、ひとつのベッドに寝ることになった。セミダブル・ベッドの部屋しかとれなかったのだ。そのベッドの中で二人はお互いの身体の様々な場所を触り合った。レズビアンだったわけではない。ただ少女特有の好奇心に駆られて、それらしきことを大胆に試してみただけだ。そのとき二人にはまだボーイフレンドがいなかったし、性的な経験もまったくなかった。その夜の出来事は今となっては、人生における「例外的ではあるが興味深い」エピソードとして記憶に残っているだけだ。しかしむきだしの鉄の階段を降りながら、環と身体を触り合ったときのことを思い出していると、青豆の身体が奥の方で少し熱を持ち始めたようだった。環の楕円形の乳首や、薄い陰毛や、お尻のきれいな膨らみや、クリトリスのかたちを、青豆は今でも不思議なくらい鮮明に覚えていた。 そんな生々しい記憶をたどっているうちに、青豆の頭の中にまるでその背景音楽のように、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の管楽器の祝祭的なユニゾンが朗々と鳴り響いた。彼女の手のひらは大塚環の身体のくびれた部分をそっと撫でていった。相手は初めはくすぐったがっていたが、そのうちにくすくす笑いが止まった。息づかいが変わった。その音楽はもともと、ある体育大会のためのファンファーレとして作曲されたものだ。その音楽にあわせて、ボヘミアの緑の草原を風がやさしくわたっていった。相手の乳首が突然硬くなっていくのがわかった。彼女自身の乳首も同じように硬くなった。そしてティンパニが複雑な音型を描いた。 青豆は歩を止めて何度か小さく頭を振った。こんなところでこんなことを考えていてはいけない。階段を降りることに意識を集中しなくては、と彼女は思った。でも考えることはやめられなかった。そのときの情景が彼女の脳裏に次々に浮かんできた。とても鮮明に。夏の夜、狭いベッド、微かな汗の匂い。口にされた言葉。言葉にならない気持ち。忘れられてしまった約束。実現しなかった希望。行き場を失った憧憬。一陣の風が彼女の髪を持ち上げ、それをまた頰に打ちつけた。その痛みは彼女の目に涙をうっすらと浮かべさせた。そして次にやってきた風がその涙を乾かしていった。 あれはいつのことだっけ、と青豆は思った。しかし時間は記憶の中でからまりあい、もつれた糸のようになっている。まっすぐな軸が失われ、前後左右が乱れている。抽斗の位置が入れ替わっている。思い出せるはずのことがなぜか思い出せない。今は一九八四年四月だ。私が生まれたのは、そう一九五四年だ。そこまでは思い出せる。しかしそのような刻印された時間は、彼女の意識の中で急速にその実体を失っていく。年号をプリントされた白いカードが、強風の中で四方八方にばらばら散っていく光景が目に浮かぶ。彼女は走っていって、それを一枚でも多く拾い集めようとする。しかし風が強すぎる。失われていくカードの数も多すぎる。 1954, 1984, 1645, 1881, 2006, 771, 2041……そんな年号が次々に吹き飛ばされていく。系統が失われ、知識が消滅し、思考の階段が足元で崩れ落ちていく。 青豆と環は同じベッドの中にいる。二人は十七歳で、与えられた自由を満喫している。それは彼女たちにとって最初の、友だち同士ででかける旅行だ。そのことが二人を興奮させる。彼女たちは温泉に入り、冷蔵庫の缶ビールを半分ずつ分けて飲み、それから明かりを消してベッドに潜り込む。最初のうち二人はただふざけている。面白半分にお互いの身体をつつきあっている。でも環がある時点で手を伸ばして、寝間着がわりの薄いTシャツの上から、青豆の乳首をそっとつまむ。青豆の身体の中に電流のようなものが走る。二人はやがてシャツを脱ぎ、下着をとって裸になる。夏の夜だ。どこを旅行したんだっけ? 思い出せない。どこでもいい。彼女たちはどちらから言い出すともなく、お互いの身体を細かく点検してみる。眺め、さわり、撫で、キスし、舌でなめる。半ば冗談で、そして半ば真剣に。環は小柄で、どちらかといえばぽっちゃりとしている。乳房も大きい。青豆はどちらかといえば背が高く瘦せている。筋肉質で乳房はあまり大きくない。環はいつもダイエットをしなくちゃと言っている。でもこのままでじゅうぶん素敵なのにと青豆は思う。 環の肌はやわらかく、きめが細かい。乳首は美しい楕円形に膨らんでいる。それはオリーブの実を思わせる。陰毛は薄く細く、繊細な柳のようだ。青豆のそれはごわごわとして硬い。二人はその違いに笑い合う。二人はそれぞれの身体の細かいところをさわりあい、どこの部分がいちばん感じるか、情報を交換し合う。一致するところもあるし、しないところもある。それから二人は指をのばして、お互いのクリトリスをさわり合う。どちらも自慰の経験はある。たくさんある。自分のとはずいぶんさわり心地が違うものだ、とお互いが思う。風がボヘミアの緑の草原をわたっていく。 青豆はまた立ち止まり、また首を振る。深いため息をつき、握った階段のパイプをもう一度しっかり握り直す。こんなことを考えるのはやめなくてはいけない。階段を降りることに意識を集中しなくては。もう半分以上は降りたはずだ、と青豆は思う。それにしてもどうしてこんなに騒音がひどいのだろう。どうしてこんなに風が強いのだろう。それらは私を咎め、罰しているみたいにも感じられる。 それはともかく、この階段を地上まで降りたとき、もしそこに誰かがいて、声をかけられ事情をきかれたり、素性を尋ねられたりしたら、いったいなんと答えればいいのだろう。「高速道路が渋滞していたので、非常階段を使って降りてきたんです。急ぎの用事があったものですから」と言って、それで済むものだろうか? ひょっとしたら面倒なことになるかも知れない。青豆はいかなる種類の面倒にも巻き込まれたくなかった。少なくとも今日は。 ありがたいことに地上には、降りてくる彼女を見とがめるものはいなかった。地上に降りると青豆はまずバッグから靴を出して履いた。階段の下は二四六号線の上り線と下り線にはさまれた高架下の空き地で、資材置き場になっていた。まわりを金属の板塀で取り囲まれ、むき出しの地面に鉄柱が何本か転がっている。何かの工事のあとに余ったものなのだろう、錆びるままにうち捨てられていた。プラスチックの屋根が設置された一角があり、その下に布袋が三つ積み上げられていた。何が入っているのかはわからないが、雨に濡れないようにビニールのカバーがかけられている。それも何かの工事の最後に余ったものらしい。いちいち運び出すのが面倒なので、そのまま放ってあるようだ。屋根の下には、潰れた大きな段ボール箱もいくつかあった。数本のペットボトルと、漫画雑誌が何冊か地面に捨てられている。そのほかには何もない。ビニールの買い物袋があてもなく風に舞っているだけだ。 金網の扉のついた入り口があったが、チェーンが幾重にも巻き付けられ、大きな南京錠がかかっていた。高い扉で、てっぺんには有刺鉄線までめぐらされている。とても乗り越えられそうにはない。もし乗り越えられたとしても、服はずたずたになってしまう。ためしに扉を押したり引いたりしてみたが、ぴくりとも動かなかった。猫が出入りするほどの隙間もない。やれやれ、どうしてここまで戸締まりを厳しくしなくちゃならないんだ。盗まれて困るものなんて何もないっていうのに。彼女は顔をしかめ、毒づき、地面に唾まで吐いた。まったく、せっかく苦労して高速道路から降りてきたというのに、資材置き場に閉じこめられるなんて。腕時計に目をやった。時間にはまだ余裕がある。しかしいつまでもこんなところでうろうろしているわけにはいかない。そしてもちろん、今さら高速道路にとってかえすわけにもいかない。 ストッキングはかかとのところが両方とも破れていた。誰にも見られていないことを確かめてから、ハイヒールを脱ぎ、スカートをめくり上げてストッキングを下ろし、両脚からむしり取り、また靴を履いた。穴のあいたストッキングはバッグにしまった。それで気持ちが少し落ち着いた。青豆は注意深く視線を配りながら、その資材置き場を歩いてまわった。小学校の教室くらいの広さだ。すぐに一周できる。出入り口はやはりひとつしかない。鍵のかかったフェンスの扉だけだ。まわりを囲んでいる金属の板塀の材質は薄かったが、どれもしっかりボルトで固定されている。工具がなければボルトははずせそうにない。お手上げだ。 彼女はプラスチックの屋根の下に置いてある段ボール箱を調べてみた。そしてそれが寝床のようなかたちになっていることに気づいた。すり切れた毛布も何枚か丸めてあった。それほど古いものではない。たぶん浮浪者がここに寝泊まりしているのだろう。だから雑誌や、飲み物のペットボトルがあたりに散らばっているのだ。間違いない。青豆は頭を働かせた。彼らがここで寝泊まりしているからには、どこかに出入りできる抜け穴があるはずだ。彼らは人目につかず雨風のしのげる場所を見つけだす技術に長けている。そして彼らは自分たちだけの秘密の通路を、獣道のようにこっそりと確保している。 青豆は金属板の塀をひとつひとつ念入りに点検していった。手で押して、揺らぎがないか確かめてみた。案の定、何かの加減でボルトがはずれたらしく、金属板がぐらぐらしている箇所がひとつ見つかった。彼女はそれをいろんな方向に動かしてみた。ちょっと角度を変えて軽く内側にひっぱると、人がひとりくぐり抜けられる程度のスペースができた。その浮浪者はおそらく、暗くなるとそこから中に入ってきて、屋根の下で心おきなく眠るのだろう。この中にいるところをみつかったりすると面倒なことになるから、明るいうちは外で食糧を確保したり、空き瓶を集めて小銭を稼いだりしているのに違いない。青豆はその夜間の無名の住人に感謝した。大都会の裏側を、無名のままひっそり移動しなくてはならないという点では、青豆も彼らの仲間である。 青豆は身を屈めて、その狭い隙間を抜けた。高価なスーツを尖ったところにひっかけて破いたりしないように、細心の注意を払った。それはお気に入りのスーツであるというだけではなく、彼女の所有する唯一のスーツだったからだ。普段はスーツなんか着ない。ハイヒールを履くこともない。しかしこの仕事のためには、ときとしてあらたまった身なりをしなくてはならなかった。大事なスーツを駄目にするわけにはいかない。 幸いなことに、塀の外にも人影はなかった。青豆は服装を今一度点検し、表情を平静に戻してから、信号のあるところまで歩き、二四六号線をわたり、目についたドラッグストアに入って新しいストッキングを買った。女店員に頼んで奥のスペースを使わせてもらい、ストッキングをはいた。それで気分はかなりよくなった。胃のあたりにわずかに残っていた船酔いに似た不快感も、今ではすっかり消え失せていた。彼女は店員に礼を言って店を出た。 たぶん首都高速が事故で渋滞しているという情報が広まったせいだろう、それと並行して走る国道二四六号線の交通は、いつも以上に混み合っていた。だから青豆はタクシーに乗るのをあきらめて、近くの駅から東急新玉川線に乗ることにした。その方が間違いない。もうタクシーで渋滞に巻き込まれるのはごめんだ。 三軒茶屋の駅に向かう途中で一人の警官とすれ違った。若い長身の警官で、足早にどこかに向かって歩いていくところだった。彼女は一瞬緊張したが、警官は急いでいるらしく、まっすぐ前を向いて、青豆に視線を向けることすらしなかった。すれ違う直前に、彼女はその警官の服装がいつもと違うことに気づいた。見慣れた警官の制服ではない。同じ濃紺の上着だが、かたちが微妙に違う。もっとカジュアルな作りになっている。前ほどぴたりとしていない。材質もより柔らかいものにかわっている。襟が小さく、紺色もいくぶん淡くなっている。それから拳銃の型が違う。彼が腰につけているのは大型オートマチックだった。日本の警官がふつう支給されているのは回転式の拳銃だ。銃器犯罪がきわめて少ない日本で、警官が銃撃戦に巻き込まれるような機会はほとんどないから、旧式の六連発リボルバーでとくに不足はない。リボルバーの方が構造が単純で、安価で故障も少ないし、手入れも簡単だ。しかしこの警官はなぜか、セミオートマチックで発射できる最新型の拳銃を携行していた。九ミリの弾丸が十六発くらい装塡できるやつだ。たぶんグロックかベレッタ。いったい何が起こったのだろう。制服と拳銃の規格が、彼女の知らないうちに変更されてしまったのか? いや、そんなはずはない。青豆は新聞記事はこまめにチェックしている。そんな変更があったら、大きく報道されるはずだ。そしてまた彼女は警官たちの姿には常に注意を払っていた。今朝まで、ほんの数時間前まで、警官たちはいつものごわごわした制服を着て、いつもの無骨な回転拳銃を身につけていたのだ。彼女はそれをはっきり記憶していた。奇妙だ。 しかし青豆にはそれについて深く考えている余裕はなかった。済ませなくてはならない仕事がある。 青豆は渋谷駅のコインロッカーにコートを預け、スーツだけの姿になって、そのホテルに向かって急ぎ足で坂道を上った。中級のシティー・ホテルだ。とくに豪華なホテルではないが、一応の設備は揃っているし、清潔で、いかがわしい客も来ない。一階にはレストランがあり、コンビニエンス・ストアも入っている。駅に近く、ロケーションがいい。 彼女はホテルに入ると、まっすぐ洗面所に行った。ありがたいことに洗面所には誰もいなかった。まず便座に座って放尿をした。とても長い放尿だった。青豆は目を閉じて何を思うともなく、遠い潮騒に耳を澄ませるように自分の放尿の音を聞いていた。それから洗面台に向かい、石鹼を使って丁寧に手を洗い、ブラシで髪をとかし、鼻をかんだ。歯ブラシを出して、歯磨き粉をつけずに手早く歯を磨いた。時間があまりないからフロスは省いた。そこまでする必要はあるまい。デートに出かけるわけではない。鏡に向かってうっすらと口紅をひいた。眉も整えた。スーツの上着を脱いで、ブラジャーのワイヤの位置を調整し、白いブラウスのしわをのばし、脇の下の汗の匂いをかいだ。匂いはない。そのあとで目を閉じて、いつものようにお祈りの文句を唱えた。その文句自体には何の意味もない。意味なんてどうでもいい。お祈りを唱えるということが大事なのだ。 お祈りが終わると、目を開けて鏡の中の自分の姿を見た。大丈夫。どこから見ても隙のない、いかにも有能そうなビジネス・ウーマンだ。背筋はまっすぐ伸び、口元も引き締まっている。大きなずんぐりとしたショルダーバッグだけがいささか場違いだ。たぶん薄手のアタッシェケースでも持つべきなのだろう。しかしそのぶんかえって実務的に見える。念には念を入れて、ショルダーバッグの中の品物をもう一度点検した。問題はない。すべてあるべき場所に収まっている。なんでも手探りで取り出せるようになっている。 あとはただ決められたことを実行するだけだ。揺らぎのない信念と無慈悲さを持ち、まっすぐことにあたらなくてはならない。青豆はそれから、ブラウスのいちばん上のボタンをはずし、身をかがめたときに胸の谷間が見えやすいようにする。もう少し胸が大きいと効果的なのにな、と彼女は残念に思う。 誰に見とがめられることもなくエレベーターで四階に上がり、廊下を歩いてすぐに四二六号室のドアを見つける。ショルダーバッグの中から用意しておいた紙ばさみをとりだし、それを胸に抱え、部屋のドアをノックする。軽く簡潔にノックする。しばらく待つ。それからもう一度ノックする。ほんの少しだけより強く、より硬く。中からもぞもぞと声が聞こえ、ドアが小さく開く。男が顔をのぞかせる。年齢は四十歳前後。マリン・ブルーのワイシャツに、グレーのフラノのスラックスというかっこうだ。ビジネスマンがとりあえずスーツの上着を脱ぎ、ネクタイをはずしたという雰囲気が漂っている。いかにも不機嫌そうな赤い目をしている。おそらく寝不足なのだろう。ビジネス・スーツを着た青豆の姿を見て、いくらか意外な顔をした。たぶん室内の冷蔵庫の補充をするメイドでも予想していたのだろう。「おくつろぎのところを失礼いたします。ホテルのマネージメントの伊藤と申しますが、空調設備に問題が生じまして、点検に参りました。五分ばかりお部屋にお邪魔してよろしいでしょうか」と青豆はにこやかに微笑みながら、てきぱきとした口調で言った。 男は目を不快そうにすぼめた。「大事な急ぎの仕事をしているところなんだ。一時間くらいで部屋を出るから、そのときまで待ってもらえないかな? 今のところこの部屋の空調にはとくに問題もないみたいだし」「申し訳ございませんが、漏電に関係する緊急の安全確認なので、できれば早急に終えてしまいたいのです。このようにお部屋をひとつひとつ回っております。ご協力いただければ、五分もかからずに終わります」「しょうがないな」と男は言って舌打ちをした。「邪魔されずに仕事をするために、わざわざ部屋を借りたのに」 彼は机の上の書類を指さした。コンピュータからプリントアウトされた細かい図表が積み上げられている。今夜の会議のために必要な資料を準備しているのだろう。計算器があり、メモ用紙にはたくさんの数字が並べられている。 この男が石油関連の企業に勤めていることを青豆は知っている。中東諸国での設備投資に関するスペシャリストなのだ。与えられた情報によれば、その領域では有能だということだった。物腰でそれはわかる。育ちが良く、高い収入を得て、ジャガーの新車に乗っている。甘やかされた少年時代を送り、外国に留学し、英語とフランス語をよく話し、何ごとによらず自信たっぷりだ。そしてどのようなことであれ、他人から何かを要求されることに我慢ならないタイプだ。批判にも我慢ならない。とくにそれが女性から向けられた場合には。その一方で、自分が他人に何かを要求することはちっとも気にならない。妻をゴルフクラブで殴って肋骨を数本折ることにもさして痛痒を感じない。この世界は自分が中心になって動いていると思っている。自分がいなければ地球はうまく動かないだろうと考えている。誰かに自分の行動を邪魔されたり否定されたりすると腹を立てる。それも激しく腹を立てる。サーモスタットが飛んでしまうくらい。「ご迷惑をおかけします」と青豆は営業用の明るい微笑みを浮かべたまま言った。そして既成事実を作るように、身体を半分部屋の中に押し込み、ドアを背中で押さえながら紙ばさみを広げ、ボールペンでそこに何かを書き込んだ。「お客様は、えー、深山さまでいらっしゃいますね」、彼女は尋ねた。写真で何度も見て顔は覚えているが、人違いでないことを確認しておいて損はない。間違えたら取り返しがつかない。「そうだよ、深山だ」とぞんざいな口調で男は言った。それからあきらめたようにため息をついた。わかったよ、なんでも勝手にすればいい、というように。そしてボールペン片手に机に向かい、読みかけていた書類をもう一度手に取った。メイクされたままのダブルベッドの上にはスーツの上着と、ストライプのネクタイが乱暴に放り出されている。どちらもいかにも高価そうなものだ。青豆はショルダーバッグを肩にかけたまま、まっすぐクローゼットに向かった。空調のスイッチパネルがそこにあることは前もって聞かされている。クローゼットの中にはソフトな素材で作られたトレンチコートと、濃いグレーのカシミアのマフラーがかけてあった。荷物は革製の書類鞄ひとつきりだ。着替えも化粧バッグもない。たぶんここに逗留するつもりはないのだろう。机の上にはルームサービスでとったコーヒーポットがある。三十秒ばかりパネルを点検するふりをしてから、彼女は深山に声をかけた。「どうもご協力をありがとうございました、深山さま。この部屋の設備には何も問題はありません」「だからこの部屋の空調には問題ないって、はじめから言ってるじゃないか」、深山はこちらを振り向きもせず、横柄な声で言った。「あの、深山さま」、青豆はおずおずと言った。「失礼ですが、首筋に何かがついているようです」「首筋に?」、深山はそう言って、手を自分の首の後ろにあてた。そして少しこすってから、その手のひらを不審そうに眺めた。「何もついてないみたいだけれど」「ちょっと失礼させていただきます」と青豆は言って机に近寄った。「近くで拝見してよろしいですか」「ああ、いいけど」と深山はわけがわからないという顔をして言った。「何かって、どんなもの?」「塗料のようなものです。明るい緑色をしています」「塗料?」「よくわかりません。色合いはどう見ても塗料のようですね。失礼ですが、手を触れてもかまいませんか。とれるかもしれませんから」「ああ」と言って、深山は前にかがみこんで、首筋を青豆に向けた。ヘアカットをしたばかりらしく、首筋に髪はかかっていない。青豆は息を吸い込み、呼吸を止め、意識を集中してその部分を素早く探り当てた。そしてしるしをつけるように指先でそこを軽く押さえた。目を閉じて、その感触に間違いがないことを確かめた。そう、ここでいい。本来であればもっとゆっくり時間をかけて念押ししたいところだが、そこまでの余裕はない。与えられた条件の中でベストを尽くす。「申し訳ありませんが、少しそのままの姿勢でじっとしていていただけますか。バッグからペンライトを出します。この部屋の照明ではよく見えないもので」「なんだって塗料なんかが、そんなところにつくんだ」と深山は言った。「わかりません。今すぐに調べます」 青豆は男の首筋の一点に指をそっとあてたまま、ショルダーバッグからプラスチックのハードケースを取り、蓋を開けて薄い布にくるまれたものを出した。片手で器用にその布をほどくと、中から出てきたのは小振りなアイスピックに似たものだった。全長は十センチほど。柄の部分は小さく引き締まった木製になっている。でもそれはアイスピックではない。ただアイスピックに似たかたちをとっているだけだ。氷を砕くためのものではない。彼女は自分でそれを考案し、製作した。先端はまるで縫い針のように鋭く尖っている。その鋭い先端は折れることがないように、小さなコルク片に突き刺してある。特別に加工して綿のように柔らかくしたコルクだ。彼女は爪先で注意深くそのコルクを取り、ポケットに入れる。そして剝き出しになった針先を深山の首筋のその部分にあてる。さあ落ち着いて、ここが肝心なんだから、と青豆は自分に言い聞かせる。十分の一ミリの誤差も許されない。もしほんの少しでもずれたら、すべての努力が水泡に帰してしまうことになる。何よりも集中力が要求される。「まだ時間がかかるのか? いつまでこんなことをやってるんだ」と男はじれたように言った。「すみません。すぐに終わります」と青豆は言った。 大丈夫よ、あっという間に終わるから、と彼女は心の中でその男に話しかけた。あとちょっとだけ待ってね。そうしたらあとはもう何も考えなくていいんだから。石油精製システムについても、重油市場の動向についても、投資グループへの四半期報告についても、バーレーンまでのフライトの予約についても、役人への袖の下やら、愛人へのプレゼントやらについても、もう何ひとつ考えなくていいのよ。そういうことをあれこれ考え続けるのもけっこう大変だったんでしょう? だから悪いけど、ちょっとだけ待ってちょうだい。私はこうして意識を集中して真剣にお仕事をしているんだから、邪魔をしないでね。お願い。 いったん位置を定め、心を決めると、彼女は右手のたなごころを空中に浮かべ、息を止め、わずかに間を置いてから、それをすとんと下に落とした。木製の柄の部分に向けて。それほど強くではない。力を入れすぎると針が皮膚の下で折れてしまう。針先をあとに残していくわけにはいかない。軽く、慈しむように、適正な角度で、適正な強さで、たなごころを下に落とす。重力に逆らわずに、すとんと。そして細い針の先がその部分に、あくまで自然に吸い込まれるようにする。深く、滑らかに、そして致死的に。大切なのは角度と力の入れ方なのだ──いや、むしろ力の抜き方だ。それにさえ留意すれば、あとは豆腐に針を刺すみたいに単純なことだ。針の先端が肉を貫き、脳の下部にある特定の部位を突き、蠟燭を吹き消すように心臓の動きを止める。すべてはほんの一瞬のうちに終わってしまう。あっけないくらい。それは青豆にしかできないことだった。そんな微妙なポイントを手さぐりで探しあてることは他の誰にもできない。でも彼女にはできる。彼女の指先にはそういう特別な直感が具わっている。 男がはっと息を呑む音が聞こえた。全身の筋肉がぴくりと収縮した。その感触を確かめてから、彼女はすばやく針を抜いた。そしてすかさず、ポケットに用意しておいた小さなガーゼで傷口を押さえた。出血をふせぐためだ。とても細い先端だし、それが刺さっていたのはほんの数秒のことだ。出血があったとしてもごくわずかなものだ。それでも念には念を入れなくてはならない。血の痕跡を残してはならない。一滴の血が命取りになる。用心深さが青豆の身上だった。 いったんこわばった深山の身体から、時間をかけて徐々に力が抜けていった。バスケットボールから空気が抜けるときのように。彼女は男の首筋の一点を人さし指で押さえたまま、彼の身体を机にうつぶせにした。その顔は書類を枕にして、横向きに机に伏せられた。目は驚いたような表情を浮かべたまま開いている。何かとんでもなく不思議なものを最後に目撃でもしたみたいに。そこには怯えはない。苦痛もない。ただの純粋な驚きがあるだけだ。自分の身に何か普通ではないことが起こった。しかし何が起こったのか、理解できていない。それが痛みなのか、痒みなのか、快感なのか、あるいは何かの啓示なのか、それさえわかっていない。世界にはいろんな死に方があるが、おそらくこれほど楽な死に方はあるまい。 あなたにはたぶん楽すぎる死に方よね、青豆はそう思って顔をしかめた。あまりにも簡単すぎる。私はたぶん五番アイアンを使ってあなたの肋骨を二三本折って、痛みをじゅうぶんに与え、そのあとで慈悲の死を与えてやるべきだったのでしょうね。そういう惨めな死に方がふさわしいネズミ野郎なんだから。それが実際にあなたが奥さんに対してやったことなんだから。でも残念ながら、私にはそこまでの選択の自由はない。この男を迅速に人知れず、しかし確実にあちらの世界に送り込むことが、与えられた使命だ。そして私は今その使命を果たした。この男はさっきまではちゃんと生きていた。でも今は死んでいる。本人も気がつかないまま、生と死を隔てる敷居をまたいでしまったのだ。 青豆はきっちり五分間、ガーゼを傷口にあてていた。指のあとが残らない程度の強さで、しんぼう強く。そのあいだ彼女は腕時計の秒針から目を離さなかった。長い五分間だ。永遠に続くように感じられる五分間。たった今誰かがドアを開けて部屋に入ってきたら、そして彼女が細身の凶器を片手に、男の首筋を指で押さえているところを目にしたら、それで一巻の終わりだ。言い逃れるすべはない。ボーイがコーヒーポットを下げに来るかもしれない。今にもドアがノックされるかもしれない。しかしそれは省くことのできない大事な五分間だった。彼女は神経を落ち着けるために静かに深く呼吸をする。あわててはいけない。冷静さを失ってはならない。いつものクールな青豆さんでいなくてはならない。 心臓の鼓動が聞こえる。その鼓動にあわせて、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』、冒頭のファンファーレが彼女の頭の中で鳴り響く。柔らかい風がボヘミアの緑の草原を音もなく吹き渡っていく。彼女は自分が二つに分裂していることを知る。彼女の半分はとびっきりクールに死者の首筋を押さえ続けている。しかし彼女のあと半分はひどく怯えている。何もかも放り出して、すぐにでもこの部屋から逃げ出してしまいたいと思っている。私はここにいるが、同時にここにいない。私は同時に二つの場所にいる。アインシュタインの定理には反しているが、しかたない。それが殺人者の禅なのだ。 五分がようやく経過する。しかし青豆は用心のために更に一分を加えた。あと一分待とう。急ぎの仕事ほど、念には念を入れた方がいい。いつ果てるともないその重い一分間を、彼女はじっと耐えた。それからおもむろに指をはなし、ペンライトで傷口を調べた。蚊にさされたほどのあとも残っていない。 その脳下部の特別なポイントをきわめて細い針で突くことでもたらされるのは、自然死に酷似した死だ。普通の医師の目にはどうみてもただの心臓発作としか映らないはずだ。机に向かって仕事をしているうちに、出し抜けに心臓発作に襲われ、そのまま息を引き取ってしまった。過労とストレス。不自然なところは見あたらない。解剖する必要も見あたらない。 この人物はやり手だったが、いささか働きすぎたのだ。高い収入を得ていたが、死んでしまってはそれを使うこともできない。アルマーニのスーツを着てジャガーを運転していても、結局は蟻と同じだ。働いて、働いて、意味もなく死んでいく。彼がこの世界に存在していたこともやがて忘れられていく。まだ若いのに気の毒に、と人は言うかもしれない。言わないかもしれない。 青豆はポケットからコルクを取り出し、針の先端に刺した。その繊細な道具をもう一度薄い布にくるみ、ハードケースに入れ、ショルダーバッグの底にしまった。浴室からハンドタオルを持ってきて、部屋に残した指紋をすべてきれいに拭き取った。彼女の指紋が残っているのは、空調パネルとドアノブだけだ。それ以外の場所には手を触れていない。そしてタオルをもとに戻す。コーヒーポットとカップをルームサービス用のトレイに載せて、廊下に出した。そうすればポットを下げにきたボーイがドアをノックすることはないし、死体の発見はそのぶん遅くなる。掃除のメイドがこの部屋で死体を発見するのは、うまくいけば翌日のチェックアウト時刻よりあとのことになる。 彼が今夜の会議に出てこなければ、人々はおそらくこの部屋に電話をかけるだろう。しかし受話器をとるものはいない。人々は不審に思ってマネージャーにドアを開けさせるかもしれない。あるいはべつに開けさせないかもしれない。それは成り行き次第だ。 青豆は洗面所の鏡の前に立ち、服装に乱れのないことを確かめた。ブラウスのいちばん上のボタンをとめた。胸の谷間をちらりと見せる必要はなかった。なにしろあのろくでもないネズミ野郎は、私のことをろくすっぽ見もしなかったのだから。人のことをいったいなんだと思っているんだ。彼女は顔を適度にしかめる。それから髪を整え、指で軽くマッサージして顔の筋肉を緩め、鏡に向かって愛想良く微笑みを浮かべた。歯医者に研磨してもらったばかりの白い歯も見せてみた。さあ、私はこれから死者のいる部屋を出て、いつもの現実の世界に戻って行くのだ。気圧を調整しなくてはならない。私はもうクールな殺人者ではない。シャープなスーツに身を包んだ、にこやかで有能なビジネス・ウーマンなのだ。 青豆はドアを少しだけ開け、あたりをうかがい、廊下に誰もいないことを確かめてからするりと部屋を出た。エレベーターは使わず、階段を歩いて降りた。ロビーを抜けるときも誰も彼女には注意を払わなかった。背筋を伸ばし、前方を見つめ、足早に歩いた。しかし誰かの注意をひくほど速くは歩かない。彼女はプロだった。それもほとんど完璧に近いプロだ。もしもう少し胸が大きければ、文句なく完璧なプロになれたかもしれない、と青豆は残念に思う。顔をもう一度軽くしかめる。でもしかたない。与えられたものでやっていくしかない。 天吾は電話のベルで起こされた。時計の夜光針は一時を少しまわっている。言うまでもなくあたりは真っ暗だ。それが小松からの電話であることは最初からわかっていた。午前一時過ぎに電話をかけてくるような知り合いは、小松のほかにはいない。そしてそこまでしつこく、相手が受話器をとるまであきらめずにベルを鳴らし続ける人間も、彼のほかにはいない。小松には時間の観念というものがない。自分が何かを思いついたら、そのときにすぐに電話をかける。時刻のことなんて考えもしない。それが真夜中であろうが、早朝であろうが、新婚初夜であろうが、死の床であろうが、相手が電話をかけられて迷惑するかもしれないというような散文的な考えは、どうやら彼の卵形の頭には浮かんでこないらしい。 いや、誰にでもそんなことをするわけではないのだろう。小松だっていちおう組織の中で働いて給料をもらっている人間だ。誰彼の見境なくそんな非常識な真似をしてまわるわけにはいかない。天吾が相手だからそれができるのだ。天吾は小松にとって多かれ少なかれ、自分の延長線上にあるような存在である。手足と同じだ。そこには自他の区別がない。だから自分が起きていれば、相手も起きているはずだという思いこみがある。天吾は何事もなければ夜の十時に寝て、朝の六時に起きる。おおむね規則正しい生活を送っている。眠りは深い。しかし何かでいったん起こされると、あとがうまく眠れなくなる。そういうところは神経質だ。そのことは小松に向かって、何度となく告げてきた。真夜中に電話をかけてくるのはお願いだからやめてほしいと、はっきり頼んだ。収穫前にイナゴの群れを畑に送りつけないでくれと、神さまにお願いする農夫のように。「わかった。もう夜中には電話をかけない」と小松は言う。しかしそんな約束は彼の意識に十分な根を下ろしていないから、一回雨が降ったらあっさりとどこかに洗い流されてしまう。 天吾はベッドを出て、何かにぶつかりながら台所の電話までなんとかたどり着いた。そのあいだもベルは容赦なく鳴り響いていた。「ふかえりと話したよ」と小松は言った。例によって挨拶らしきものはない。前置きもない。「寝てたか」もなければ「夜遅く悪いな」もない。たいしたものだ。いつもつい感心してしまう。 天吾は暗闇の中で顔をしかめたまま黙っていた。夜中に叩き起こされると、しばらく頭がうまく働かない。「おい、聞いてるか?」「聞いてますよ」「電話でだけどいちおう話したよ。まあほとんどこちらが一方的に話をして、向こうはそれを聞いていただけだから、一般的な常識からすれば、とても会話とは呼べそうにない代物だったけどね。なにしろ無口な子なんだ。話し方も一風変わっている。実際に聞けばわかると思うけど。で、とにかく、俺の計画みたいなものをざらっと説明した。第三者の手を借りて『空気さなぎ』を書き直し、より完成されたかたちにして、新人賞を狙うというのはどうだろう、みたいなことだよ。まあ電話だからこちらとしても、おおまかなことしか言えない。具体的な部分は会って話すとして、そういうことに興味がありやなしやと尋ねてみた。いくぶん遠回しに。あまり率直に話すと、内容が内容だけに、俺も立場的にまずくなるかもしれないからね」「それで?」「返事はなし」「返事がない?」 小松はそこで効果的に間を置いた。煙草をくわえ、マッチで火をつける。電話を通して音を聞いているだけで、その光景がありありと目の前に浮かんだ。彼はライターを使わない。「ふかえりはね、まず君に会ってみたいって言うんだ」と小松は煙を吐きながら言った。「話に興味があるともないとも言わない。やってもいいとも、そんなことやりたくないとも言わない。とりあえず君と会って、面と向かって話をするのが、いちばん重要なことらしい。会ってから、どうするか返事をするそうだ。責任重大だと思わないか?」「それで?」「明日の夕方は空いてるか?」 予備校の講義は朝早く始まって、午後の四時に終わる。幸か不幸か、そのあとは何も予定は入っていない。「空いてますよ」と天吾は言った。「夕方の六時に、新宿の中村屋に行ってくれ。俺の名前で奥の方のわりに静かなテーブルを予約しておく。うちの会社のつけがきくから、なんでも好きなものを飲み食いしていい。そして二人でじっくりと話し合ってくれ」「というと、小松さんは来ないんですか?」「天吾くんと二人だけで話をしたいというのが、ふかえりちゃんの持ち出した条件だ。今のところ俺には会う必要もないそうだ」 天吾は黙っていた。「というわけだ」と小松は明るい声で言った。「うまくやってくれ、天吾くん。君は図体はでかいが、けっこう人に好感を与える。それになにしろ予備校の先生をしているんだから、早熟な女子高校生とも話し慣れているだろう。俺よりは適役だ。にこやかに説得して、信頼感を与えればいいんだ。朗報を待っているよ」「ちょっと待って下さい。だってこれはそもそも小松さんの持ってきた話じゃないですか。僕だってそれにまだ返事をしていません。このあいだも言ったように、ずいぶん危なっかしい計画だし、そんなに簡単にものごとが運ぶわけはないだろうと僕は踏んでいます。社会的な問題にもなりかねません。引き受けるか引き受けないか、僕自身がまだ態度を決めてないのに、見ず知らずの女の子を説得できるわけがないでしょう」 小松はしばらく電話口で沈黙していた。それから言った。「なあ天吾くん、この話はもうしっかりと動き出しているんだ。今さら電車を止めて降りるわけにはいかない。俺の腹は決まっている。君の腹だって半分以上決まっているはずだ。俺と天吾くんとはいわば一蓮托生なんだ」 天吾は首を振った。一蓮托生? やれやれ、いったいいつからそんな大層なことになってしまったんだ。「でもこのあいだ小松さんは、ゆっくり時間をかけて考えればいいって言ったじゃないですか」「あれから五日たった。それでゆっくり考えてどうだった?」 天吾は言葉に窮した。「結論はまだ出ません」と彼は正直に言った。「じゃあ、とにかくふかえりって子と会って話してみればいいじゃないか。判断はそのあとですればいい」 天吾は指先でこめかみを強く押さえた。頭がまだうまく働かない。「わかりました。とにかくふかえりって子には会ってみましょう。明日の六時に新宿の中村屋で。だいたいの事情も僕の口から説明しましょう。でもそれ以上のことは何も約束できませんよ。説明はできても、説得みたいなことはとてもできませんからね」「それでいい、もちろん」「それで、彼女は僕のことをどの程度知っているんですか?」「おおよその説明はしておいた。年齢は二十九だか三十だかそんなところで独身、代々木の予備校で数学の講師をしている。図体はでかいが、悪い人間じゃない。若い女の子を取って食ったりはしない。生活はつつましく、心優しい目をしている。そして君の作品のことをとても気に入っている。だいたいそれくらいのことだけどね」 天吾はため息をついた。何かを考えようとすると、現実がそばに寄ったり遠のいたりした。「ねえ、小松さん、もうベッドに戻っていいですか? そろそろ一時半になるし、僕としても夜が明ける前に、少しでも眠っておきたい。明日は講義が朝から三コマあるんです」「いいよ。おやすみ」と小松は言った。「良い夢を見てくれ」。そしてそのままあっさり電話を切った。 天吾は手に持った受話器をしばらく眺めてから、もとに戻した。眠れるものならすぐにでも眠りたかった。良い夢が見られるものなら見たかった。でもこんな時刻に無理に起こされて、面倒な話を持ち込まれて、簡単に眠れないことはわかっていた。酒を飲んで眠ってしまうという手もあった。しかし酒を飲みたいという気分でもなかった。結局水をグラスに一杯飲み、ベッドに戻って明かりをつけ、本を読み始めた。眠くなるまで本を読むつもりだったが、眠りについたのは夜明け前だった。 予備校で講義を三コマ終え、電車で新宿に向かった。紀伊国屋書店で本を何冊か買い、それから中村屋に行った。入り口で小松の名前を告げると、奥の静かなテーブルに通された。ふかえりはまだ来ていない。連れが来るまで待っている、と天吾はウェイターに言った。待たれているあいだ何かお飲みになりますかとウェイターが尋ね、何も要らないと天吾は言った。ウェイターは水とメニューを置いて去っていった。天吾は買ったばかりの本を広げ、読み始めた。呪術についての本だ。日本社会の中で呪いがどのような機能を果たしてきたかを論じている。呪いは古代のコミュニティーの中で重要な役割を演じてきた。社会システムの不備や矛盾を埋め、補完することが呪いの役目だった。なかなか楽しそうな時代だ。 六時十五分になってもふかえりは現れなかった。天吾はとくに気にかけず、そのまま本を読んでいた。相手が遅刻をすることにとくに驚きもしなかった。だいたいがわけのわからない話なのだ。わけのわからない展開になったところで、誰にも文句はいえない。彼女が気持ちを変えてまったく姿を見せなかったとしても、さして不思議はない。というか、姿を見せないでくれた方がむしろありがたいくらいだ。その方が話が簡単でいい。一時間ほど待っていましたが、ふかえりって子は来ませんでしたよ、と小松に報告すればいいのだから。あとがどうなろうが、天吾の知ったことではない。一人で食事をして、そのままうちに帰ればいい。それで小松に対する義理は果たしたことになる。 ふかえりは六時二十二分に姿を見せた。彼女はウェイターに案内されてテーブルにやってきて、向かいの席に座った。小振りな両手をテーブルの上に置き、コートも脱がず、じっと天吾の顔を見た。「遅れてすみません」もなければ、「お待ちになりましたか」もなかった。「初めまして」「こんにちは」さえない。唇をまっすぐに結び、天吾の顔を正面から見ているだけだ。見たことのない風景を遠くから眺めるみたいに。たいしたものだ、と天吾は思った。 ふかえりは小柄で全体的に造りが小さく、写真で見るより更に美しい顔立ちをしていた。彼女の顔の中で何より人目を惹くのは、その目だった。印象的な、奥行きのある目だ。その潤いのある漆黒の一対の瞳で見つめられると、天吾は落ち着かない気持ちになった。彼女はほとんどまばたきもしなかった。呼吸さえしていないように見えた。髪は誰かが定規で一本一本線を引いたようにまっすぐで、眉毛のかたちが髪型とよくあっていた。そして美しい十代の少女の多くがそうであるように、表情には生活のにおいが欠けていた。またそこには何かしらバランスの悪さも感じられた。瞳の奥行きが、左右でいくぶん違っているからかもしれない。それが見るものに居心地の悪さを感じさせることになる。何を考えているのか、測り知れないところがある。そういう意味では彼女は雑誌のモデルになったり、アイドル歌手になったりする種類の美しい少女ではなかった。しかしそのぶん、彼女には人を挑発し、引き寄せるものがあった。 天吾は本を閉じてテーブルのわきに置き、背筋を伸ばして姿勢を正し、水を飲んだ。たしかに小松の言うとおりだ。こんな少女が文学賞をとったら、マスコミが放っておかないだろう。ちょっとした騒ぎになるに違いない。そんなことをして、ただで済むものだろうか。 ウェイターがやってきて、彼女の前に水のグラスとメニューを置いた。それでもふかえりはまだ動かなかった。メニューに手を触れようともせず、ただ天吾の顔を見ていた。天吾は仕方なく「こんにちは」と言った。彼女を前にしていると、自分の図体がますます大きく感じられた。 ふかえりは挨拶を返すでもなく、そのまま天吾の顔を見つめていた。「あなたのこと知っている」、やがてふかえりは小さな声でそう言った。「僕を知ってる?」と天吾は言った。「スウガクをおしえている」 天吾は肯いた。「たしかに」「二カイきいたことがある」「僕の講義を?」「そう」 彼女の話し方にはいくつかの特徴があった。修飾をそぎ落としたセンテンス、アクセントの慢性的な不足、限定された(少なくとも限定されているような印象を相手に与える)ボキャブラリー。小松が言うように、たしかに一風変わっている。「つまり、うちの予備校の生徒だということ?」と天吾は質問した。 ふかえりは首を振った。「ききにいっただけ」「学生証がないと教室に入れないはずだけど」 ふかえりはただ小さく肩をすぼめた。大人のくせに、何を馬鹿なことを言いだすのかしら、という風に。「講義はどうだった?」と天吾は尋ねた。再び意味のない質問だ。 ふかえりは視線をそらさずに水を一口飲んだ。返事はなかった。まあ二回来たのだから、最初のときの印象はそれほど悪くなかったのだろうと天吾は推測した。興味を惹かれなければ一度でやめているはずだ。「高校三年生なんだね?」と天吾は尋ねた。「いちおう」「大学受験は?」 彼女は首を振った。 それが「受験の話なんかしたくない」ということなのか、「受験なんかしない」ということなのか、天吾には判断できなかった。おそろしく無口な子だよと小松が電話で言っていたのを思い出した。 ウェイターがやってきて、注文をとった。ふかえりはまだコートを着たままだった。彼女はサラダとパンをとった。「それだけでいい」と彼女は言って、メニューをウェイターに返した。それからふと思いついたように「白ワインを」と付け加えた。 若いウェイターは彼女の年齢について何かを言いかけたようだったが、ふかえりにじっと見つめられて顔を赤らめ、そのまま言葉を呑み込んだ。たいしたものだ、と天吾はあらためて思った。天吾はシーフードのリングイーネを注文した。それから相手にあわせて、白ワインのグラスをとった。「センセイでショウセツを書いている」とふかえりは言った。どうやら天吾に向かって質問しているようだった。疑問符をつけずに質問をするのが、彼女の語法の特徴のひとつであるらしい。「今のところは」と天吾は言った。「どちらにもみえない」「そうかもしれない」と天吾は言った。微笑もうと思ったがうまくできなかった。「教師の資格は持っているし、予備校の講師もやってるけど、正式には先生とは言えないし、小説は書いているけど、活字になったわけじゃないから、まだ小説家でもない」「なんでもない」 天吾は肯いた。「そのとおり。今のところ、僕は何ものでもない」「スウガクがすき」 天吾は彼女の発言の末尾に疑問符をつけ加えてから、あらためてその質問に返事をした。「好きだよ。昔から好きだったし、今でも好きだ」「どんなところ」「数学のどんなところが好きなのか?」と天吾は言葉を補った。「そうだな、数字を前にしていると、とても落ち着いた気持ちになれるんだよ。ものごとが収まるべきところに収まっていくような」「セキブンのはなしはおもしろかった」「予備校の僕の講義のこと?」 ふかえりは肯いた。「君は数学は好き?」 ふかえりは短く首を振った。数学は好きではない。「でも積分の話は面白かったんだ?」と天吾は尋ねた。 ふかえりはまた小さく肩をすぼめた。「だいじそうにセキブンのことをはなしていた」「そうかな」と天吾は言った。そんなことを誰かに言われたのは初めてだ。「だいじなひとのはなしをするみたいだった」と少女は言った。「数列の講義をするときには、もっと情熱的になれるかもしれない」と天吾は言った。「高校の数学教科の中では、数列が個人的に好きだ」「スウレツがすき」とふかえりはまた疑問符抜きで尋ねた。「僕にとってのバッハの平均律みたいなものなんだ。飽きるということがない。常に新しい発見がある」「ヘイキンリツはしっている」「バッハは好き?」 ふかえりは肯いた。「センセイがいつもきいている」「先生?」と天吾は言った。「それは君の学校の先生?」 ふかえりは答えなかった。それについて話をするのはまだ早すぎる、という表情を顔に浮かべて天吾を見ていた。 それから彼女は思い出したようにコートを脱いだ。虫が脱皮するときのようにもぞもぞと体を動かしてそこから抜け出し、畳みもせず隣の椅子の上に置いた。コートの下は淡いグリーンの薄手の丸首セーターに、白いジーンズというかっこうだった。装身具はつけていない。化粧もしていない。それでも彼女は目立った。ほっそりとした体つきだったが、そのバランスからすれば胸の大きさはいやでも人目を惹いた。かたちもとても美しい。天吾はそちらに目を向けないように注意しなくてはならなかった。しかしそう思いながら、つい胸に視線がいってしまう。大きな渦巻きの中心につい目がいってしまうのと同じように。 白ワインのグラスが運ばれてきた。ふかえりはそれを一口飲んだ。そして考え込むようにグラスを眺めてから、テーブルに置いた。天吾はしるしだけ口をつけた。これから大事な話をしなくてはならない。 ふかえりはまっすぐな黒い髪に手をやり、少しのあいだ指ではさんで梳いていた。素敵な仕草だった。素敵な指だった。細い指の一本一本がそれぞれの意思と方針を持っているみたいに見えた。そこには何かしら呪術的なものさえ感じられた。「数学のどんなところが好きか?」、天吾は彼女の指と胸から注意をそらせるために、もう一度声に出して自分に問いかけた。「数学というのは水の流れのようなものなんだ」と天吾は言った。「こむずかしい理論はもちろんいっぱいあるけど、基本の理屈はとてもシンプルなものだ。水が高いところから低いところに向かって最短距離で流れるのと同じで、数字の流れもひとつしかない。じっと見ていると、その道筋は自ずから見えてくる。君はただじっと見ているだけでいいんだ。何もしなくていい。意識を集中して目をこらしていれば、向こうから全部明らかにしてくれる。そんなに親切に僕を扱ってくれるのは、この広い世の中に数学のほかにはない」 ふかえりはそれについて、しばらく考えていた。「どうしてショウセツをかく」と彼女はアクセントを欠いた声で尋ねた。 天吾は彼女のその質問をより長いセンテンスに転換した。「数学がそんなに楽しければ、なにも苦労して小説を書く必要なんてないじゃないか。ずっと数学だけやっていればいいじゃないか。言いたいのはそういうこと?」 ふかえりは肯いた。「そうだな。実際の人生は数学とは違う。そこではものごとは最短距離をとって流れるとは限らない。数学は僕にとって、なんて言えばいいのかな、あまりにも自然すぎるんだ。それは僕にとっては美しい風景みたいなものだ。ただそこにあるものなんだ。何かに置き換える必要すらない。だから数学の中にいると、自分がどんどん透明になっていくような気がすることがある。ときどきそれが怖くなる」 ふかえりは視線をそらすことなく、天吾の目をまっすぐに見ていた。窓ガラスに顔をつけて空き家の中をのぞくみたいに。 天吾は言った。「小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する。そうすることで、僕という人間がこの世界に間違いなく存在していることを確かめる。それは数学の世界にいるときとはずいぶん違う作業だ」「ソンザイしていることをたしかめる」とふかえりは言った。「まだそれがうまくできているとは言えないけど」と天吾は言った。 ふかえりは天吾の説明に納得したようには見えなかったが、それ以上何も言わなかった。ワイングラスを口元に運んだだけだ。そしてまるでストローで吸うようにワインを小さく音もなくすすった。「僕に言わせれば、君だって結果的にはそれと同じことをしている。君が目にした風景を、君の言葉に置き換えて再構成している。そして自分という人間の存在位置をたしかめている」と天吾は言った。 ふかえりはワイングラスを持った手を止めて、それについてしばらく考えた。しかしやはり意見は言わなかった。「そしてそのプロセスをかたちにして残した。作品として」と天吾は言った。「もしその作品が多くの人々の同意と共感を喚起すれば、それは客観的価値を持つ文学作品になる」 ふかえりはきっぱりと首を振った。「かたちにはキョウミはない」「かたちには興味がない」と天吾は反復した。「かたちにイミはない」「じゃあどうしてあの話を書いて、新人賞に応募したの?」 ふかえりはワイングラスをテーブルに置いた。「わたしはしていない」 天吾は気持ちを落ち着けるために、グラスを手にとって水を一口飲んだ。「つまり、君は新人賞に応募しなかったということ?」 ふかえりは肯いた。「わたしはおくっていない」「じゃあいったい誰が、君の書いたものを、新人賞の応募原稿として出版社に送ったんだろう?」 ふかえりは小さく肩をすくめた。そして十五秒ばかり沈黙した。それから言った、「だれでも」「誰でも」と天吾は繰り返した。そしてすぼめた口から息をゆっくり吐いた。やれやれ、ものごとはそんなにすんなりとは進まない。思った通りだ。 天吾はこれまでに何度か、予備校で教えた女生徒と個人的につきあったことがあった。といっても、それは彼女たちが予備校を出て、大学に入ったあとのことだ。彼女たちの方から連絡をしてきて、会いたいと言われて、会って話をしたり、どこかに一緒に出かけたりした。彼女たちが天吾のいったいどこに惹かれたのか、天吾自身にはわからない。でもいずれにせよ彼は独身だったし、相手はもう彼の生徒ではない。デートに誘われて断る理由もなかった。 デートの延長として、肉体的な関係を持ったことも二度ばかりあった。しかし彼女たちとのつきあいは、それほど長くは続かず、いつの間にか自然に立ち消えになってしまった。大学に入ったばかりの元気な女の子たちと一緒にいると、天吾は今ひとつ落ち着けなかった。居心地がよくないのだ。遊び盛りの子猫を相手にしているのと同じで、最初のうちは新鮮で面白いのだが、そのうちにだんだんくたびれてくる。そして相手の女の子たちも、この数学講師が教壇に立って数学について熱心に語っているときと、そうでないときとでは、別の人格になるのだという事実を発見し、いくぶん失望したみたいだった。その気持ちは天吾にも理解できた。 彼が落ち着けるのは、年上の女性を相手にしているときだった。何をするにせよ自分がリードする必要はないのだと思うと、肩の荷が下りた気持ちになれた。そして多くの年上の女たちは彼に好感を持ってくれた。だから一年ほど前に十歳年上の人妻と関係を持つようになってからは、若い女の子たちとデートをすることをすっかりやめてしまった。週に一度、アパートの自室でその年上のガールフレンドと会うことで、彼の生身の女性に対する欲望(あるいは必要性)のようなものはおおかた解消された。あとはひとりで部屋にこもって小説を書いたり、本を読んだり、音楽を聴いたり、時々近所の室内プールに泳ぎに行ったりした。予備校で同僚たちとわずかな会話を交わすほかは、ほとんど誰とも話をしなかった。そしてそんな生活にとくに不満を抱くこともなかった。いや、むしろそれは彼にとっては理想的な生活に近かった。 しかしふかえりという十七歳の少女を目の前にしていると、天吾はそれなりに激しい心の震えのようなものを感じた。それは最初に彼女の写真を目にしたときに感じたのと同じものだったが、実物を目の前にすると、その震えはいっそう強いものになった。恋心とか、性的な欲望とか、そういうものではない。おそらく何かが小さな隙間から入ってきて、彼の中にある空白を満たそうとしているのだ。そんな気がした。それはふかえりが作り出した空白ではない。天吾の中にもともとあったものだ。彼女がそこに特殊な光をあてて、あらためて照らし出したのだ。「君は小説を書くことに興味がないし、作品を新人賞に応募もしなかった」と天吾は確認するように言った。 ふかえりは天吾の顔から目をそらすことなく肯いた。それから木枯らしから身を守るときのように小さく肩をすぼめた。「小説家になりたいとも思わない」、天吾は自分も疑問符抜きで質問していることに気づいて驚いた。きっとその手の語法は伝染力を持っているのだろう。「おもわない」とふかえりは言った。 そこで食事が運ばれてきた。ふかえりには大きなボウルに入ったサラダと、ロールパン。天吾にはシーフード・リングイーネ。ふかえりは新聞の見出しを点検するときのような目つきで、レタスの葉をフォークで何度か裏返した。「しかしとにかく、誰かが君の書いた『空気さなぎ』を新人賞の応募原稿として出版社に送った。そして僕が応募原稿を下読みしていて、その作品に目を留めた」「くうきさなぎ」とふかえりは言った。そして目を細めた。 「『空気さなぎ』、君の書いた小説のタイトルだよ」と天吾は言った。 ふかえりは何も言わずにただそのまま目を細めていた。「それは君がつけたタイトルじゃないの?」と天吾は不安になって尋ねた。 ふかえりは小さく首を振った。 天吾の頭はまた少し混乱したが、タイトルの問題についてはそれ以上追求しないことにした。とりあえず先に進まなくてはならない。「それはどちらでもいい。とにかく悪くないタイトルだよ。雰囲気があるし、人目を惹く。これはなんだろうと思わせる。誰がつけたにせよ、タイトルについては不満はない。さなぎとまゆの区別が僕にはよくわからないけど、まあたいした問題じゃない。僕が言いたいのは、その作品を読んで僕は心を強く惹かれたということなんだ。それで僕は小松さんのところに持っていった。彼も『空気さなぎ』を気に入った。ただし新人賞を真剣に狙うなら、文章に手を入れなくてはならないというのが彼の意見だった。物語の強さに比べて、文章がいささか弱いから。そして彼はその文章の書き直しを、君にではなく、僕にやらせたいと思っている。僕はそれについて、まだ心を決めていない。やるかやらないか、返事もしていない。それが正しいことかどうか、よくわからないからだ」 天吾はそこで言葉を切って、ふかえりの反応を見た。反応はなかった。「僕が今ここで知りたいのは、僕が君にかわって『空気さなぎ』を書き直すということを、君がどう考えるかってことなんだ。僕がいくら決心したって、君の同意と協力がなくては、そんなことできっこないわけだから」 ふかえりはプチトマトをひとつ指でつまんで食べた。天吾はムール貝をフォークでとって食べた。「やるといい」とふかえりは簡単に言った。そしてもうひとつトマトをとった。「すきになおしていい」「もう少し時間をかけて、じっくり考えた方がいいんじゃないかな。けっこう大事なことだから」と天吾は言った。 ふかえりは首を振った。そんな必要はない。「僕が君の作品を書き直すとする」と天吾は説明した。「物語を変えないように注意して文章を補強する。たぶん大きく変更することになるだろう。でも作者はあくまで君だ。この作品はあくまでふかえりっていう十七歳の女の子が書いた小説なんだ。それは動かせない。もしその作品が新人賞をとれば君が受賞する。君ひとりが受賞する。本になれば君ひとりがその著者になる。僕らはチームを組むことになる。君と僕と、その小松さんっていう編集者の三人で。でも表に名前が出るのは君ひとりだけだ。あとの二人は奥に引っ込んで黙っている。芝居の道具係みたいに。言ってることはわかる?」 ふかえりはセロリをフォークで口に運んだ。小さく肯いた。「わかる」 「『空気さなぎ』という物語はどこまでも君自身のものだ。君の中から出てきたものだ。それを僕が自分のものにするわけにはいかない。僕はあくまで技術的な側面から君の手伝いをするだけだ。そして僕が手を貸したという事実を、君はどこまでも秘密にしなくちゃならない。つまり僕らは共謀して世界中に噓をつくことになる。それはどう考えても簡単なことじゃない。ずっと心に秘密を抱えていくということは」「そういうなら」とふかえりは言った。 天吾はムール貝の殻を皿の隅に寄せ、リングイーネをすくいかけてから、思い直してやめた。ふかえりはキュウリをとりあげ、見たことのないものを味わうみたいに、注意深く囓った。 天吾はフォークを手にしたまま言った。「もう一度尋ねるけど、君の書いた物語を僕が書き直すことについて異論はない?」「すきにしていい」とふかえりはキュウリを食べ終えてから言った。「どんな風に書き直しても、君はかまわない?」「かまわない」「どうしてそう思えるんだろう? 僕のことを何も知らないのに」 ふかえりは何も言わず、小さく肩をすぼめた。 二人はそれからしばらく何も言わず料理を食べた。ふかえりはサラダを食べることに意識を集中していた。ときどきパンにバターを塗って食べ、ワイングラスに手を伸ばした。天吾は機械的にリングイーネを口に運び、様々な可能性に思いを巡らせた。 彼はフォークを下に置いて言った、「最初に小松さんから話を持ち込まれたときには、冗談じゃない、とんでもない話だと思った。そんなことできっこない。なんとか断るつもりだった。でもうちに帰ってその提案について考えているうちに、やってみたいという気持ちがだんだん強くなってきた。それが道義的に正しいかどうかはともかく、『空気さなぎ』という君のつくり出した物語に、僕なりの新しいかたちを与えてみたいと思うようになった。なんて言えばいいんだろう、それはとても自然な、自発的な欲求のようなものなんだ」 いや、欲求というよりは渇望という方に近いかもしれない、と天吾は頭の中で付け加えた。小松の予言したとおりだ。その渇きを抑えることがだんだん難しくなっている。 ふかえりは何も言わず、中立的な美しい目で、奥まったところから天吾を眺めていた。彼女は天吾の口にする言葉をなんとか理解しようと努めているように見えた。「あなたはかきなおしをしたい」とふかえりは尋ねた。 天吾は彼女の目を正面から見た。「そう思っている」 ふかえりの真っ黒な瞳が何かを映し出すように微かにきらめいた。少なくとも天吾にはそのように見えた。 天吾は両手で、空中にある架空の箱を支えるようなかっこうをした。とくに意味のない動作だったが、何かそういった架空のものが、感情を伝えるための仲立ちとして必要だった。「うまく言えないんだけど、『空気さなぎ』を何度も読みかえしているうちに、君の見ているものが僕にも見えるような気がしてきた。とくにリトル・ピープルが出てくるところ。君の想像力にはたしかに特別なものがある。それはなんていうか、オリジナルで伝染的なものだ」 ふかえりはスプーンを静かに皿に置き、ナプキンで口元を拭いた。「リトル・ピープルはほんとうにいる」と彼女は静かな声で言った。「本当にいる?」 ふかえりはしばらく間を置いた。それから言った。「あなたやわたしとおなじ」「僕や君と同じように」と天吾は反復した。「みようとおもえばあなたにもみえる」 ふかえりの簡潔な語法には、不思議な説得力があった。口にするひとつひとつの言葉に、サイズの合った楔のような的確な食い込みが感じられた。しかしふかえりという娘がどこまでまともなのか、天吾にはまだ判断がつかなかった。この少女には何かしら、たがの外れたところ、普通ではないところがある。それは天賦の資質かもしれない。彼は生のかたちの真正な才能を今、目の前にしているのかもしれない。あるいはただの見せかけに過ぎないのかもしれない。頭のいい十代の少女は時として本能的に演技をする。表面的にエキセントリックなふりをすることがある。いかにも暗示的な言葉を口にして相手を戸惑わせる。そういった例を彼は何度も目にしてきた。本物と演技とを見分けることは時としてむずかしい。天吾は話を現実に戻すことにした。あるいはより現実に近いところに。「君さえよければ、明日からでも『空気さなぎ』書き直しの作業に入りたいんだ」「それをのぞむのであれば」「望んでいる」、天吾は簡潔に返事をした。「あってもらうひとがいる」とふかえりは言った。「僕がその人に会う」と天吾は言った。 ふかえりは肯いた。「どんな人?」と天吾は質問した。 質問は無視された。「そのひととはなしをする」と少女は言った。「もしそうすることが必要なら、会うのはかまわない」と天吾は言った。「ニチヨウのあさはあいている」と疑問符のない質問を彼女はした。「あいている」と天吾は答えた。まるで手旗信号で話をしているみたいだ、と天吾は思った。 食事が終わって、天吾とふかえりは別れた。天吾はレストランのピンク電話に十円硬貨を何枚か入れ、小松の会社に電話をかけた。小松はまだ会社にいたが、電話口に出るまでに時間がかかった。天吾はそのあいだ受話器を耳にあてて待っていた。「どうだった。うまくいったか?」、電話口に出た小松はまずそう質問した。「僕が『空気さなぎ』を書き直すことについて、ふかえりは基本的に承知しました。たぶんそういうことだと思います」「すごいじゃないか」と小松は言った。声が上機嫌になった。「素晴らしい。実のところ、ちょいと心配してたんだよ。なんていうか、天吾くんはこういう交渉ごとにはあまり性格的に向かないんじゃないかと」「べつに交渉したわけじゃありません」と天吾は言った。「説得の必要もなかった。おおよそのところを説明し、あとは彼女が一人で勝手に決めたみたいなものです」「なんでもかまわない。結果が出りゃ何の文句もない。これで計画を進められる」「ただその前に僕はある人に会わなくてはなりません」「ある人?」「誰かはわかりません。とにかくその人物に会って、話をしてほしいということです」 小松は数秒間沈黙した。「それでいつその相手に会うんだ?」「今度の日曜日です。彼女が僕をその人のところに案内します」「秘密については、大事な原則がひとつある」と小松は真剣な声で言った。「秘密を知る人間は少なければ少ないほどいいということだ。今のところ世界で三人しかこの計画を知らない。君と俺とふかえりだ。できることならその数をあまり増やしたくない。わかるよな?」「理論的には」と天吾は言った。 それから小松の声はまた柔らかくなった。「しかしいずれにせよ、ふかえりは君が原稿に手を加えることを了承した。なんと言ってもそれがいちばんの重大事だ。あとのことはなんとでもなる」 天吾は受話器を左手に持ち替えた。そして右手の人差し指でこめかみをゆっくりと押した。「ねえ、小松さん、僕はどうも不安なんです。はっきりした根拠があって言うんじゃないけど、自分が今、何かしら普通じゃないことに巻き込まれつつあるような気がしてならないんです。ふかえりって女の子と向かい合っているときには、とくに感じなかったんだけど、彼女と別れて一人になってから、そういう気持ちがだんだん強くなってきました。予感と言えばいいのか、虫の知らせなのか、でもとにかくここには何かしら奇妙なものがあります。普通ではないものです。頭でじゃなくて、身体でそう感じるんです」「ふかえりに会って、それでそんな風に感じたのか?」「かもしれない。ふかえりはたぶん本物だと思います。もちろん僕の直感に過ぎませんが」「本物の才能があるってことか?」「才能のことまではわかりません。会ったばかりだから」と天吾は言った。「ただ彼女は僕らの見ていないものを、実際に見ているのかもしれない。何かしら特殊なものを持っているのかもしれない。そのあたりがどうもひっかかるんです」「頭がおかしいということか?」「エキセントリックなところはあるけれど、頭はべつにおかしくないと思いますよ。話の筋はいちおう通っています」と天吾は言った。そして少し間を置いた。「ただ何かがひっかかるだけです」「いずれにせよ彼女は、君という人間に興味を持った」と小松は言った。 天吾は適切な言葉を探したが、そんなものはどこにも見つからなかった。「そこまではわかりません」と彼は答えた。「彼女は君に会い、少なくとも君には『空気さなぎ』を書き直す資格があると思った。つまり君のことを気に入ったということだ。実に上出来だよ、天吾くん。先のことは俺にもわからん。もちろんリスクはある。しかしリスクは人生のスパイスだ。今からすぐにでも『空気さなぎ』の改稿にとりかかってくれ。時間はない。書き直した原稿をなるたけ早く、応募原稿の山の中に戻さなくちゃならない。オリジナルと取り替えるんだよ。十日あれば書き上げられるか?」 天吾はため息をついた。「厳しいですね」「なにも最終稿である必要はないんだよ。先の段階でまた少しは手を入れることができる。とりあえずのかっこうをつけてくれればいい」 天吾は頭の中で作業のおおまかな見積もりをした。「それなら十日あればなんとかなるかもしれません。大変なことには変わりありませんが」「やってくれ」と小松は明るい声で言った。「彼女の目で世界を眺めるんだ。君が仲介になり、ふかえりの世界とこの現実の世界を結ぶ。君にはそれができる、天吾くん。俺には──」 そこで十円玉が切れた。

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