地下室

目 次 Ⅰ 地下室 Ⅱ ぼた雪に寄せて解 説 安岡 治子年 譜訳者あとがき © Haruko Yasuoka 2007 ◎ご注意本作品の全部または一部を無断で複製、転載、改竄、公衆送信すること、および有償無償にかかわらず、本データを第三者に譲渡することを禁じます。個人利用の目的以外での複製等の違法行為、もしくは第三者へ譲渡をしますと著作権法、その他関連法によって処罰されます。地下室の手記 Ⅰ 地下室 この手記の作者も、『手記』そのものも、むろん虚構である。にもかかわらず、こうした手記の作者のような人物は、そもそも我々の社会が形成された事情を考慮すれば、我々の社会に存在する可能性は大いにある。いや、それどころか、むしろ必ずや存在するに違いない。私は、読者の眼前に、つい最近過ぎ去った時代の典型の一つを、通常より少し目立つ形で描出したいと考えた。それは、いまだ生き残っている世代の代表者の一人である。「地下室」と題された断章では、この人物が自己紹介をしつつ自己の見解を披瀝し、こうした人物が我々のあいだに現れたこと、そして現れざるをえなかったことの原因を、いわば明らかにしようとしている。次の断章では、いよいよこの人物の生涯にあったある出来事に関する彼の実際の『手記』が登場する。フョードル・ドストエフスキー 1 俺は病んでいる……。ねじけた根性の男だ。人好きがしない男だ。どうやら肝臓を痛めているらしい。もっとも、病気のことはさっぱり訳がわからないし、自分のどこが悪いのかもおそらくわかっちゃいない。医者にかかっているわけでもなければ、今まで一度もかかったこともない。医学や医者は立派なものだとは思っているのだが……。そのうえ、俺はこのうえもなく迷信深いときている。まあ、少なくとも医学を立派なものだと信じこむほどには迷信深いわけだ(迷信を馬鹿にする程度には、教育も受けているはずなのだが、とにかく迷信深いのだ)。いや、金輪際、医者なんぞに診てもらうものか。意地でも嫌だ。ここんところは、誰にもわかっちゃもらえまい。まあいいさ、俺にはわかっているんだ。もちろんいったい誰に嫌がらせをするつもりでこんな意地を張っているのか、そんなことは俺にも説明できやしない。俺が医者に診てもらわないからといって、医者にとっちゃ痛くも痒くもないだろう。そんなことは百も承知だ。こうして意地を張り通して、損をするのは他の誰でもない、たった一人俺自身だけだってことぐらい、俺だってよくわかっているんだ。しかしそれでも、俺が医者にかからないのは、やっぱり腹立ちまぎれに意地を張っているせいだ。肝臓が悪いなら悪いでかまうもんか、もっとうんと悪くなりゃあいい! 俺はもうだいぶ前からこんな生き方だ──もう二十年ほどになる。今は四十だ。昔は役所勤めをしていたが、もうそれも辞めた。俺は意地の悪い役人だった。人につっけんどんな態度をして、それで憂さ晴らしをしていたわけだ。でも、賄賂は取らなかったんだから、せめてこれぐらいの褒美はもらっても当然だろう(気の抜けた警句だな。でも、これは消さないぞ。うんと気の利いたことを言うつもりでこれを書いたのだが、今こうして見てみると、何のことはない、ただ見苦しく機知の才をひけらかそうとしただけじゃないか。だから、わざと消さないでやる!)。 俺の座っている机に、何かの証明書を発行してもらいに依頼人がやって来る。俺はそいつらをがみがみと怒鳴りつけ、うまいこと相手をがっくりさせることができると、抑えがたい快感を覚えたものだ。しかも大抵いつもうまくいった。大方がおどおどした連中ばかりだからだ。そりゃあわかりきったことさ。なにしろ相手は頼みごとがあって来てるんだからな。それでもイケ好かない連中の中でもある将校のことが、俺はどうにも我慢できなかった。そいつは、これみよがしに嫌らしいサーベルをガチャガチャ鳴らして、どうしてもこっちに頭を下げようとしないんだ。俺はこのサーベルのことで、一年半もそいつと闘ったあげく、とうとう最後には屈服させてやった。奴はサーベルをガチャつかせるのをやめたよ。 これはまあ、まだ俺が若かったころの話だ。しかしだな、俺がねじけた根性で意地を張ることに関して、最大のポイントはどこにあるか、あんた方はそれを知っているかね? 問題のすべては、そう、もっとも忌々しいのは、実はこういう点なんだ。つまり、俺は絶えず、それこそいちばんひどい癇癪を起こしている時でさえ、自分はべつに意地が悪いわけじゃない、それどころか癇癪もちですらない、ただいたずらに雀どもを脅かしては、そんなことで自分を慰めているにすぎないのだと、恥知らずにもひそかに認めていたのだよ。口から泡を吹かんばかりに激昂していたとしても、ちっぽけな人形の一つもあてがわれたら、あるいは角砂糖付きのお茶の一杯も出されたら、それでたちまち怒りは鎮まっちまうに違いない。心から感激さえするんじゃないか。おそらくその後、己自身に歯ぎしりして、恥ずかしさのあまり何ヶ月も不眠症に苦しむにしても……。いつもこんなことの繰り返しだ。 俺がつい今しがた、自分は意地の悪い役人だったと言ったのは、でたらめだ。意地になってでたらめを言ったのだ。依頼人連中も将校も、ただちょっとおちょくってやっただけで、実際には一度だって意地悪な男になんぞなれやしなかった。それとはおよそ逆の要素が、嫌になるほどたくさん自分の中にあるのを、俺は絶えず意識していた。この逆の要素が俺の中でしきりに蠢いており、なんとか外へ出たがっていることはわかっていたが、わざとそいつらを外には出してやらなかったのだ。そいつらは、こっちが恥ずかしくなるほど俺を苦しめ、そのせいで俺は引きつけを起こしたことさえあるぐらいだ。いい加減、もううんざりだ! いや、こんな調子だと、ひょっとしてあんた方の前で俺はなにかの懺悔をして、あんた方に赦しを請うているようにでも思われないだろうか? きっとそう思われているに違いない……。しかし、はっきり言っておくが、たとえそうであっても、そんなことは俺にとっちゃ、どうでもいいことなんだ……。 俺は意地悪な人間になれなかっただけじゃない。何者にも──意地悪にも、善良にも、手のつけられないろくでなしにも、正直者にも、英雄にも、虫けらにさえ、なりえなかった。今じゃとうとう、俺の居場所と思い定めたどん詰まりのすみっこに引き籠ったきり、「賢い人間ならおよそ、まともな何者かになれるはずがない、何者かになりうるのは愚か者だけだ」という、ねじけた愚にもつかない慰めを口にしては、己をなぶりものにしている。そうだ、十九世紀の賢い人間は、概して意気地なしの人間であるはずだし、道義的にもそうあるべきなのだ。いっぱしの強い意志をもった人間、つまりやり手タイプは、概して浅はかな存在だからだ。これが四十歳の俺の確信だ。俺は今、四十だが、四十といえば全生涯だ。もう大変な本物の年寄りだ。四十を過ぎて生きるなんざ、みっともないし、最低だ、人の道にもとる! 四十過ぎて生きるなんて、いったいどんなやつだ? 正直に誠実に答えてくれ。俺が答えてやるよ。それは愚か者とろくでなしさ。俺はあらゆる年寄りに、敬うべき、銀髪の馥郁たる芳香を放つすべての老人に面と向って言ってやる。全世界にずばりと言ってやるんだ! 俺がこんなことを言う権利を持っているのは、俺自身が六十まで生きながらえるからだ。七十まで、いや八十までも、長々と生きるからだ! ……ちょっと待った! ひと息つかせてくれ……。 おそらくあんた方は、俺が笑いを狙っているとでも思っているんだろう? ところが、それも間違いさ。俺は、あんたたちが思うような、あるいは思っているかもしれないような、やけに明るい人間とは、およそわけが違う。とは言え、あんた方がこの長ったらしい駄弁にイライラしているとしたら(イライラしているのは、俺も既に感じているさ)、いったいお前は何者なんだ? と、訊ねたいだろう。答えてやるよ。俺は一介の八等官さ。糊口をしのぐために(まさにそのためだけに)、役所勤めをしていたが、去年、遠い親戚が六千ルーブルを遺言で残してくれたから、すぐさま退職して、この穴蔵のごとき部屋に引き籠ったのだ。以前もここに住んではいたが、今やここにどっかり根を下ろしたわけだ。 おれの部屋は、ゴミ溜め同然のどうしようもないおんぼろで、町外れにある。うちの女中は田舎女で老いぼれだ。愚か者の常で意地が悪く、そのうえいつも嫌な臭いがするときている。人はよく、ペテルブルグの気候は俺の体に障るだろうとか、しがない俺のはした金じゃペテルブルグ暮らしは高くつきすぎるだろうとか言うが、酸いも甘いも嚙み分けたわけ知り顔のお節介な連中におためごかしに言われなくったって、そんなことは何もかも、よくわかっているんだ。それでも俺は、ペテルブルグに居座っている。ペテルブルグから出て行くもんか! 俺が出て行かないのは……ちぇっ! 俺が出て行こうが行くまいが、そんなことはまったくどっちだって同じことだがな。 それはそうと、まっとうな人間が、心から楽しみながら話すことのできる話題とは何か? 答え──それは、己についての話である。 というわけで、俺も自分自身について話すことにする。 2 これから話したいのは、あんた方が聞きたかろうが聞きたくなかろうが、なぜ俺が虫けらにさえもなりそこなったかという話だ。胸を張って言うのだが、俺は本当に、幾度となく虫けらになることを望んだんだ。ところが、こんな願いすらもかなえられなかった。誓って言うが、意識しすぎること──これは病気だ。本物の完全な病気だ。人間の日常にとって、ふつうの人間が持つ意識だけでも充分過ぎるぐらいなのだ。つまり、不幸な我らが十九世紀の、知性が高度に発達した人間、とりわけペテルブルグみたいな町に住んでいる特別に不幸な人間が背負わされた意識の分量の半分、いや四分の一でも、実は充分過ぎるほどだ。ここは地球全体の中で最も抽象的で人工的な町なのだ(町には意図的に造られたものと、そうではないものがある)。例えば、いわゆる直情径行型の連中だの、やり手タイプだのが、それで生きている程度の意識で、まったくもって充分なのだ。賭けてもいいが、あんた方は、俺がこんなことを書いているのは、すべて、やり手タイプを皮肉るためにかっこをつけているのだ、しかもそれは悪趣味な気取りで、例の将校みたいにサーベルをガチャつかせているのだと思っているだろう。しかし自分の病気を鼻にかける奴が、ましてやそれを使ってかっこをつける奴が、どこにいるだろうか? とは言うものの、俺はいったい何を言っているんだ? そんなことは皆、誰でもやっているじゃないか。病気を鼻にかけるなんてことは。それにしてもたぶん、俺は人一倍鼻にかけている。とやかく言うのはやめよう。俺の反論なんぞ下らないものだ。しかしそれでもやはり、過剰な意識のみならず、いかなる意識でも、それは病気だってことを、おれは確信している。この点はあくまでも譲らない。まあこれもひとまず置いておこう。それよりも、教えてもらいたいことがある。どうして俺はよりによってあの瞬間に、つまり、かつて我々が盛んに口にした《すべての麗しく崇高なるもの( 1)》のあらゆる繊細なニュアンスを最もよく意識できるはずのそういう瞬間に、それを意識しないのか。それどころか……まあ端的に言って誰でもおそらくやってはいるのだろうが、それにしても不様な行いをまるでわざとのように、そんなことは絶対すべきでないと俺がいちばん思う時にすることになるのは、なぜなんだ? 俺は、善だの例の《麗しく崇高なるもの》だのについて意識すればするほど、自分の泥沼にますます深くはまり込んで、いい具合にどっぷりそこに浸りきることになるのだ。でもなんと言っても重要な特徴は、こうしたことすべてが、あたかも偶然起るのではなく、そうあらねばならなかったかのように俺の中に起る点である。あたかもこれが俺の最もノーマルな状態で、およそ病気でも欠陥でもないかのようだ。だからとうとう俺は、この欠陥と闘う気も失せてしまったほどだ。しまいには、これがおそらく本当に俺のノーマルな状態だと危うく信じかけるところだった(いや、ひょっとすると、本当に信じたのかもしれない)。 しかし最初のうちは、俺だってこの闘いでどれだけ苦しんだことか! 他の連中にもこんなことがあるなんて、とても信じられなかったから、このことは生涯ずっと誰にも言わずに秘密にしてきた。俺は恥じていたんだ(ひょっとするといまだに恥じているのかもしれない)。それが昂じて、なにやらひそかなさもしい快感を覚えることもあるほどだった。ペテルブルグの深夜にしがない自分のあばら家に戻ってくると、ああ今日もまた汚らわしいことをしてしまった、やってしまったことはどうしたって元に戻せやしない、と痛切に意識しながら、内心密かにそのことで己に歯を剝いて嚙み付き、我が身を鋸で八つ裂きにして責め苛むのだ。そのうちに悔しさ情けなさがついには何かしら恥ずべき忌まわしい甘美となり、それがしまいには完全な紛れもない快楽に変わってしまう。そんなこともよくあったものだ。そう、快楽、まさしく快楽なのだ! この点は譲れない。俺がこんな話を始めたのも、他の連中にもこういう快楽があるのかどうか、それをはっきりと知りたいものだといつも望んでいるからなのだ。 説明しよう。この快楽は、自身の屈辱をあまりにありありと意識しすぎるがゆえに生まれるのだ。自分でこう感じるがゆえに生まれる。つまり、──俺はどん詰まりの壁まで行き着いてしまった。それはたしかに耐えがたいことではあるが、他に道もない。俺にはもはや出口はないのだ。決して他の人間になんぞなれるはずはないのだからな。仮に別の何者かになり変わるだけの時間や確信がまだあったとしても、おそらく自分はそれを望むまい。それを望んだとしても、何の行動も起こすまい。というのも実際は、たぶんなり変わるべき別のものなんぞないからだ。 肝腎肝要なのは、これらすべてが、通常の基本的な意識過剰の法則とその法則から直接生まれる無気力によって起るということだ。したがって、何者かになり変わることなど出来ないし、そもそもどうしようもないのである。強烈な自意識の結果は、例えばこんなことにもなってしまう──卑劣漢であることは正しい。もしその男自身が、自分はたしかに卑劣漢だと感じているのなら、それは、その卑劣漢にとっていわば慰めになっているのだから……というわけだ。しかし、もうたくさんだ……。ちぇっ、愚にもつかないことをあれこれ並べたが、何を説明できただろうか? ……快楽のなにが明らかになったというのか? しかし俺は、明らかにしてみせる! 最後までケリをつけてやる! そのために、わざわざペンを執ったのだから……。 例えば俺は、やけに自尊心が強い。せむしか小人みたいに疑り深くて怒りっぽい。しかしたしかに、そんな俺にしても、もし平手打ちでも喰らうことがあったら、ひょっとすると俺はそれさえも喜ぶかもしれないぞという、そんな瞬間もときにはあったんだ。真面目な話、俺はそんなことにも一種の快楽を見出せたに違いない。もちろんそれは、やけくその快楽だがね。しかしやけくその中にこそ、ひりひりと身を焦がすような快楽があるものだ。ことに己の絶体絶命の事態を強く意識させられる場合はそうだ。この平手打ちを喰らうというのはどうかといえば、これは、自分は完膚なきまでに叩かれてしまったという意識にすっかり打ちのめされるケースだ。重要なのは、いかに知恵を絞ってみても、やっぱり俺があらゆる点で真っ先に悪者になってしまうということだ。 しかもなにより腹立たしいのは、罪もないのに悪者になる、言わば自然の法則でそうなってしまう点だ。そもそも俺は周りの誰よりも賢いのだから、悪い(俺は周りの誰よりも自分が賢いと常に思ってきたし、ときには、いいかね、それを申し訳ないと恥じてさえいたんだ。少なくとも、生涯ずっと、どこかそっぽを向いて、決して人の目を直視することはできなかった)。仮に俺の中に寛大さがあったとしても、結局俺が悪いということになる。寛大さなど何の役にも立ちはしないのだ、という意識で、俺には人一倍苦しみが増えるだけだ。寛大さがあったからと言って、何一つできないに決まっているからな。赦すこともできない。だって俺を侮辱した奴は、ひょっとすると自然の法則ゆえに俺を殴ったのかもしれないんだぞ。自然の法則が相手じゃ、赦すもへちまもないだろう。さりとて、きれいサッパリ忘れちまうわけにもいかない。たとえ相手が自然の法則といえども、腹立たしいことに変りはないのだから。結局のところ、寛大さなどきっぱり諦めて、逆に侮辱した奴に復讐をしてやることにしたとしても、どうせ俺は誰にも何の復讐もできやしまい。もしそんな可能性があったとしても、おそらく何一つする決心がつかないからだ。なぜ決心がつかないか? それについては、あらためて一言、二言述べておきたい。 3 自分の恨みを晴らすことのできる、またそもそも自分の意見を主張できる人間の場合、たとえばそれはどんなふうに行われるのか? 連中はひとたび復讐心に取り憑かれたら、もはやしばらくはその全存在には、この感情のほかには何一つなくなるんじゃないか。そうした御仁は、荒れ狂った雄牛のように角を下へ突き出し、標的目指してまっしぐらに突進してゆくもんだから、壁のほかに奴を止められるものなど何もない(ついでながら、そうした御仁、つまり屈託のない率直な連中ややり手タイプは、壁に突き当ると本気でひるんでしまう。壁とは、たとえば我々思索する者、つまりはなにもしない者たちにとっては、ちょっと脇へ身をかわすべきものなのだが、連中にとってはそうではない。我々にとっちゃ道を引き返す良い口実、その口実を大抵は自分でも信じてはいないのだが、それでもそれがみつかればいつだって嬉しい口実になる。ところが連中ときたら、大真面目にひるんですっかり降参してしまうのだ。壁は連中にとっては、何か気を鎮めるような精神的解決を与えてくれる、決定的な、おそらくは何か神秘的なものでさえあるのだ。しかしまあ、この壁の話は後回しにしよう)。 ところでこういう率直な人物こそ、俺は本物の正常な人間だと思う。心優しい母なる自然がこの地上にそっと産み落としたときに、こうあってほしいと望んだ姿のままの人間だ。俺は悔しくて腸が煮えくり返るほど、そういう人間が羨ましい。なるほどそいつは馬鹿だろう。その点は俺も反対しやしない。しかし、ひょっとすると正常な人間というのは、馬鹿でなければならないものかもしれない。そうではないと、あんた方はどうしてそんなにハッキリ言えるのかね。ひょっとするとこれは、真に美しいことでさえあるのかもしれないじゃないか。そして俺は、たとえばその正常な人間と正反対の強烈な自意識をもつ人間のことを考えると、いま自分が述べた推測が正しいとますます確信を深めるのだ。自意識過剰の人間は、もちろん自然の懐から生まれたわけではない。化学実験装置の蒸留器から発生した(これはもはやほとんど神秘主義の領域だが、そんなことさえあるんじゃないかと俺は疑っているんだ)そういう人間は、自分と正反対の者を前にすると、ときにはすっかりひるんだあげく、強烈な自意識をもっているくせに、自分を人間ではなくネズミだと真面目に考えたりするからだ。たとえ強烈な自意識をもつネズミにしろ、それでもネズミには違いない。ところが相手は人間だ、したがって……云々というわけだ。そして重要なのは、彼が自ら自身をネズミだと考えている点だ。誰に頼まれたわけでもないのだ。ここが重要なポイントだ。 さて次に、このネズミの行動を見てみよう。仮にネズミもまた、侮辱を受けて腹を立てているとしよう(ネズミというものは、ほとんどひっきりなしに侮辱を受けているものだ)。そしてやはり恨みを晴らしてやろうと望んでいるとしよう。ネズミの憎しみは、ひょっとすると、《 l’ homme de la nature et de la vérité(自然と真理の人)( 2)》の場合よりいっそうひどく鬱積するものかもしれない。侮辱を与えた奴に同等の悪意で仕返しをしてやりたいという、嫌らしい品性下劣な野望は、《自然と真理の人》よりいっそう醜くネズミの心を搔きむしっている。なぜなら《自然と真理の人》は持って生まれた愚鈍さゆえに、己の復讐心をしごくあっさり正義だと思いこんでいるのだが、ネズミは強烈な自意識ゆえに、この際正義などというものは否定するからだ。そして、とうとう事は復讐の実行にまで立ち至るのである。不幸なネズミは、当初の不快さに加えて、自分の周りに疑問だの疑惑だのの新たな不快さを、山のように堆く積み上げてしまう。一つの疑問が生ずると、そこへまた山ほどの未解決の疑問を呼び寄せてしまうので、ネズミの周りには嫌でもなにやら宿命的などぶ水や悪臭ふんぷんたるぬかるみのようなものが溜まっていくのだ。このどぶ水、ぬかるみの成分は、ネズミ自身の疑惑、動揺、そして裁判官だの独裁者だのの姿をした率直なやり手タイプが、勝ち誇ったようにネズミを取り囲み、大口を開けて笑い、吐きかける唾なのだ。 もちろんネズミとしては、これらすべてを歯牙にもかけぬといったふうに、小さな手でひと払いして、我ながら疑わしい見せかけの軽蔑の笑みをにやりと浮かべるなり、自分の穴にすごすごと潜りこむしかない。この嫌になるほど悪臭ふんぷんたる自分の地下室で、侮辱を受けて笑い物にされ傷ついた我らがネズミは、たちまち冷ややかな毒気に満ちた、しかもいつ果てるとも知れぬ悪意に身を浸すのだ。四十年立て続けに、自分の受けた屈辱をその最も些細な恥ずべき細部に至るまで一つ一つ思い出しては、しかもそのたびに、自分でわざわざいっそう恥ずかしいディテールを付け加え、自分で作り上げたその虚構で、意地悪く己をからかい苛立たせるというわけだ。さすがに自分でも、でっち上げた虚構を恥じることになるのだが、それでもすべてを次から次へと思い出しては、ありそうもないデタラメを、そんなことだって我が身に起きたかもしれないじゃないかと考え出し、そうした屈辱をどれ一つとして赦そうとはしない。それでいて、おそらく復讐を始めるにしても、それはなんとなく中途半端に途切れがちの、みみっちいものであり、しかも自分はぬくぬくとした場所に隠れたまま、匿名でこそこそやるに違いない。自分に復讐の権利があることも、復讐が成功することも信じずに、むしろ復讐の試みゆえに自身が相手の百倍も苦しむことになり、しかも相手はたぶん、痛くも痒くもないに決まっていることもあらかじめ知っているのだ。臨終の床でも、またもや積もり積もった利子ともども、すべてを思い出し、そして……。 しかし、まさにこの冷ややかなおぞましい絶望と希望が相半ばした状態や、心痛のあまりやけを起こして我が身を地下室に四十年間も生きながら埋葬してしまうことや、こうした懸命に創り上げた、それでいてどこか疑わしい己の絶体絶命状態や、内面に流れ込んだまま満たされぬ願望のあらゆる毒素。激しく動揺したかと思うと永遠に揺るぎない決心をし、その一分後には再び後悔の念に苛まれるという、こうした熱病状態の中にこそ、さっき俺が言ったあの奇妙な快楽の核心があるのだ。この快楽は実に繊細なもので、ときには意識をすり抜けてしまうぐらいだから、多少足りない連中や、さもなければ神経の図太い連中にさえも、この快楽の特性は何一つわかりはしない。「それに、ひょっとすると、平手打ちを喰らったことのない連中もわからないんじゃないか」あんた方は、歯を剝き出して笑いながら、こう付け加えるだろう。そうやって、この俺が、たぶん、平手打ちを喰らった体験があるからこそ、わけ知り顔にこんな話をするのだろうと、それを慇懃にほのめかすわけだ。賭けてもいいが、あんた方は、そう思っているに違いない。しかし安心したまえ。俺は、一度も平手打ちを喰らったことはないのさ。あんた方がどう思おうと、そんなことは、こっちにはまるきり関係ないけどな。むしろ、ひょっとすると、俺のほうこそ、人生で、あまり人に平手打ちを喰らわしてやれなかったことを残念に思っているのかもしれないぜ。しかし、もうたくさんだ。あんた方が並々ならぬ関心をもっているこの話題については、もうこれ以上ひと言も言わないぞ。 神経が図太くて、例の快楽の繊細なニュアンスを理解しない連中の話を落ち着いて続けることにしよう。こうした御仁は、たとえば、場合によってはまるで雄牛のように、あらん限りのうなり声をあげる。たしかにそれで立派な名誉を得ることもあるだろうが、既に述べたとおりこの連中は、不可能を目の前にするとたちまちおとなしくなってしまう。不可能とは即ち、石の壁のことか? いかなる石の壁なのか? それはもちろん、自然法則、自然科学の結果、数学のことである。たとえばお前は猿から進化したのだとひとたび立証されたら、顔をしかめたって仕方がない、あるがままを受け入れよ、というわけだ。実際のところ、己の脂肪の一滴は他者の十万滴よりも貴重なものであるに違いないのだから、いわゆる美徳も義務も、その他のさまざまな戯言も偏見も、とどのつまり、この事実に基づいて為されるのだと立証されたなら、それはその通りだ、仕方がないと受け入れてしまう。何しろ二、二が四は数学なのだから、というわけだ。試しに反論してみたらいい。「とんでもない」と、たちまちどやしつけられる。「反対するとは何ごとだ。これは二、二が四なんだぞ! 自然はあんた方にいちいち許しを請うたりはしない。自然にとっちゃ、あんた方がどう思おうが、自然法則を気に入ろうが気に入るまいが、そんなことはおかまいなしだ。あんた方はありのままの自然を、したがって自然の結果もすべてそのまま受け入れなくてはならない。何と言おうと壁は壁なんだからな……等々」ああ、何てこった! なぜだか俺はそういう法則やら二、二が四やらが気に食わないのに、自然法則だの算術だの、俺に何の関係があるってんだ? もちろん、俺だって、そういう壁を何が何でも頭突きして打ち破ってやろうというわけじゃない──実際問題として、それを突き破るだけの力がないとするなら……。 それでも俺はただそれが石の壁だからとか、俺は力不足だからという理由だけで、あっさりこの壁に降参するのは嫌なんだ。 あたかもそうした石の壁が、それが二、二が四であるというただそれだけの理由で、本当に安らぎであり、なにかしら世界に対するメッセージでも含んでいるかのようじゃないか。そんなのは愚の骨頂だ! それぐらいなら、不可能だの石の壁だの、そうしたすべてをしっかり意識して理解しようとするほうが、ずっとマシだ。そして妥協するのが嫌なら、不可能だの石の壁だのとは、どれ一つとして折り合いをつけることはない。こう組み合わせて行けば間違いなくある結論に到達するという、逃れようのない論理の組み合わせによって、石の壁に関してさえ、実は自分自身にも何らかの責任があるのだという、永遠のテーマをめぐる最も好ましくない結論にまで到達してやるのだ。もっとも、石の壁についての責任など、こっちにはこれっぽっちもないのは、またしても火を見るよりも明らかなのだが……。そして、結局のところむっつりと押し黙ったまま、力なく歯ぎしりでもしながら、無気力、惰性の中に陶然と浸りきって、こんなことを考える──俺には、腹を立てるべき相手さえいないわけだ、そうだ、対象物がないのだ、ひょっとすると、永久にみつからないのかもしれないぞ、ここにあるのは、すり替え、ごまかし、いんちき、いや、単なる得体の知れぬ戯言で、何が何だか、誰が誰だかもわからない、と……。しかし、こうしてすべてが正体不明にもかかわらず、それでも痛むのだ。わけがわからなければわからないほど、痛みはひどくなるのである! 4「ハハハ! そこまでくりゃ、きっと君は歯痛にも快楽を見出すね!」あんた方は、笑いながら叫ぶだろう。「それがどうした? 歯痛にだってたしかに快楽はあるのさ」と、俺は答える。俺は丸ひと月も歯が痛んでいたんだ。だから、快楽があるのは知っているのさ。この場合は、もちろん、黙ったまま腹を立てているわけじゃない。うめき声をあげるのだ。ただしこのうめき声は、あからさまなうめきではない。これは悪意のこもったうめき声なのだ。この悪意がある点こそが肝腎だ。こういううめき声には、苦しむ者の快楽がにじんでいるものだ。そこに快楽を感じなければ、人はうめき声を出したりはしない。これは君たち、いい例だから少し発展させよう。このうめき声には、まず第一に、俺たちの意識にとって実に屈辱的なこの痛みの無意味さがにじんでいる。つまり、自然法則という奴は、もちろんこちらはそんなものを気にしちゃいないのだが、それでもやっぱりその自然法則ゆえに苦しめられているというのに、向こうはまるきり平気ときている。うめき声にあらわれているのは、闘うべき敵の姿は見えないのに、痛みはある、という意識だ。いかに優秀な歯科医のワゲンハイム先生( 3)が何人かかっても、自分は完全に歯の奴隷だという意識、誰かがその気になれば、こちらの歯の痛みは止まるのだが、その気にならなければこのままさらに三ヶ月も痛み続けるだろうという意識だ。そして最後に、それでもなお承服しないで抵抗するのなら、後は自分の慰めのために己が身を殴りつけるか、さもなければいやというほど拳骨で壁をぶっ叩くしかない、他には文字通り何一つすべきことがないのだという意識である。さて、こうした血みどろの屈辱、誰から投げつけられているのかわからないような嘲笑ゆえにとうとう快楽の感覚が始まり、それがときには官能の絶頂を極めることさえあるのだ。 君たち、ぜひともお願いしたいのだが、歯痛に苦しむ十九世紀の教養人のうめき声に、いつか耳を傾けてくれたまえ。それも歯痛が始まって二日目か三日目、最初の日とはもはや違ううめき方をし始めたときだ。つまり単に歯が痛いからうめいているのではない、そこらのがさつな百姓のうめき方とは違う、進歩とヨーロッパ文明に冒された人間、最近の表現で言えば「大地と民衆的根源から隔絶された( 4)」人間のうめき方をするようになってからだ。そのうめき方は嫌らしい、うんざりするほどおぞましく悪意に満ちたものになり、それが何日も、昼となく夜となくひっきりなしに続くのだ。しかもなにしろこうしてうめいても、自分には何の足しにもならないし、自分はただいたずらに己も他人も苦しめていらいらさせているだけだということを、当人が誰よりもよく知っているのだ。その前で彼が盛んに奮闘してみせている観衆も、家族全員までもがもはや嫌悪感をもって彼のうめき声に耳を傾けており、彼のことをこれっぽっちも信用せず、もっと違ったふうに、わざとらしい抑揚や節回しをつけたりせず、もっと単純なうめき方をすればいいのに、こいつはただ悪意ゆえに、悪ふざけをしているのだと心密かに思っている──そんなことまで、当人は知っているのだ。 そう、まさにこうした意識や屈辱の中にこそ官能的な喜びがあるのである。〈俺はお前たちに気を揉ませ、心を責め苛んでやる。家中の者を寝かさないぞ。さあ、お前たちも眠らずに俺の歯が痛んでいることを、毎分毎秒感じるがいい。俺は今や、お前たちにとって、かつてそう見せたいと思った英雄なんかじゃない、単なる鼻持ちならない役立たずのろくでなしだ。それならそれでかまわないさ! 俺の正体を見抜いてくれて大いに嬉しいよ。俺の嫌らしいうなり声を聞くのがたまらないって? それならそれで結構。これからはもっと堪らないわざとらしい節回しをつけてやる……〉と、こんな調子だ。どうだ君たち、これでもわからないかね? いや、どうやら官能の喜びの微妙なニュアンスを極めるには、とことん進化を遂げて、意識を発達させなければならないようだな! あんた方は笑っているね? いや、大いに嬉しいよ。俺の冗談は、もちろん趣味は悪いし、ムラがあるし、支離滅裂で、我ながら頼りにならないと思っているんだが、それもこれも、自分で自分が尊敬できないからなんだ。そもそも自意識のある人間に、少しでも自分を尊敬することなんてできるだろうか? 5 屈辱感の中にさえ快楽を見出そうとしたような人間に、たとえわずかでも自分を尊敬することなど、いったいできるだろうか? 俺は、なにか感傷的な後悔の念から今こんなことを言っているのではない。 そもそも俺は、「ごめんなさいパパ、もうしません」などという台詞を口にするのは我慢ならなかった。そういうことが言えなかったからじゃない。むしろ逆で、ひょっとすると、あまりにもあっさりとそういうことが出来てしまう質であったせいかもしれない。それも単にできるなんてものじゃないんだ。自分にはおよそ何の罪もない、そんな時に限ってまるでわざとのように、そういう台詞を口にする羽目になったものだ。これがなによりも不愉快だった。しかも俺は感極まって後悔の涙を流し、自分自身を欺いていたのだが、もちろん決してただそんな振りをしていただけというわけでもない。もはやどうにでもなれと、心がやけを起こして、滅茶苦茶を望んでいたとでも言うべきか……。この場合は、例の自然法則を非難するわけにもいかない。自然法則には、何にも増して絶えず一生涯侮辱されっぱなしだったのはたしかなのだが……。こんなことはすべて、思い出すのもおぞましいし、あの当時だっておぞましかった。わずか一分もすれば、早くも俺は、後悔も感動も更生の誓いもすべて噓だ、忌まわしい見せかけだけの偽りだと、憎しみに燃えながら考えるのだから。 ところで、いったい何のために、俺はこんなに自分を歪めて苦しめたのかと訊かれるかもしれない。答え──ただ、手をこまねいているのがひどく退屈だったからだ。それで、奇妙な行動をしでかしたというわけだ。たしかにそうなのだ。あんた方ももっと良く自分を観察してみるがいい。そうすれば、たしかにそうだということがわかるはずだ。自分で珍事を考え出し、人生を創作したのは、せめてなんとかして少しはまともに生きてみたかったからだ。何度こんなことがあったろう──そう、たとえば腹を立てるのだ。それも、これといった理由もなく、ただわざと腹を立ててみる。ただ自分をけしかけて何の理由もなくむかっ腹を立てたことは、自分でもわかっているのだが、あまりにも真に迫って自分を追い詰めたあげく、しまいには本気で腹を立ててしまうのだ。どういうものか、俺は一生涯ずっと、この手の妙なことをしでかす衝動に駆られ続け、しまいには自分でもそれを抑えられなくなってしまった。ある時は何が何でも恋愛がしたくなった。それも一度ならず二度までもそんなことがあったのだ。ちゃんと苦悶もした。君たち、本当だとも。心の底では苦悶しているなんて信じられず、鼻でせせら笑ってはいるものの、それでも苦悶はした。しかも正真正銘の苦悶だ。嫉妬に駆られて我を忘れて……。 そしてこれはなにもかも、退屈の為せる業なのだ。無気力に押し潰されたというわけだ。なにしろ自意識の直接かつ当然の生産物は無気力、すなわち意識的に手をこまねいている状態なのだから。このことについては既に述べた。しかし、しつこくもう一度繰り返そう。すべての率直な人間、やり手タイプは、愚鈍で足りないがゆえに活動的なのだ。これをどう説明したものか? こう説明しよう。あの連中は、愚鈍さゆえに手近な二義的な原因を根本的な原因だと思いこみ、かくして、自分の為すべき仕事に対する揺るぎない根拠を見出したと、他人より素早く容易に確信し、それで気持ちが落ち着いてしまう。ここが肝腎だ。なにしろ活動を開始するにはあらかじめすっかり気持ちが落ち着いていなければならないし、いかなる疑念も残っていてはならないからだ。現に、たとえば俺なら、どうやったら自分の気持ちを落ち着かせることができるか? 俺が拠って立つべき根本原因、基礎はどこにあるのか? どこに見出せばよいのか? 俺などは思索に従事しているものだから、あらゆる根本原因はすぐさま別の、さらに根本的な原因を手繰り寄せてしまう……といった調子で、それが無限に続いてゆく。これが、あらゆる意識や思索の本質というものだ。これもまた、つまりは自然法則というわけだ。その結果は最終的にどうなるのか? 同じことなのだ。 ついさっき俺が復讐について述べたことを思い出してもらいたい(あんた方は、きっとよくわからなかったに違いないが)。俺はこう言ったのだ。人間が復讐するのはそこに正義を見出すからだ。つまり、根本原因、根拠、まさに正義を見出したわけで、こうなればそいつはすっかり落ち着いてしまい、したがって公明正大な義しいことを行っているのだという確信をもって、心穏やかにかつ成功裏に復讐を遂げることができるわけだ。ところが俺ときたら、そこに正義も美徳のかけらも見出せないのだから、したがって復讐するとなったら、もっぱら敵意、悪意ゆえということになる。むろん、敵意はすべてに勝り、俺の疑念なんぞ一から十まで抑えつけてしまえるものだ。なまじ理屈っぽい原因なんぞではないからこそ、りっぱな根拠のかわりを果たすこともできるだろう。 しかし、仮にその敵意、悪意さえも俺にはなかったとしたら(なにしろまさに俺の話はそこから始めたわけだが)いったいどうしたらいいのか。俺の敵意は、例の呪わしい意識の法則の結果、化学分解を起こしてしまう。見る見るうちに対象は消え失せ、論拠も蒸発し、罪を着せるべき相手はみつからず、侮辱は侮辱ではなくなり、誰を責めるわけにもいかない歯痛のような宿命となり、とどのつまりは、またしても同じ結論──つまり、壁をいやというほどぶん殴るしかなくなるのだ。そして、仕方がないと諦めて手をひと振りするしかない。なにしろ根本的な原因がみつからないのだから。せめて一時なりとも四の五の言わずに、根本原因のことなど忘れ、自意識を脇に退けて、自分の感情に盲目的に溺れてみたらどうか──。思いきり憎んだり愛したりするのだ。ただ手をこまねいているのを止めるために。そんなことをしたら、三日目には、まあ三日が限度だな、何もかもを承知の上で自分を欺いたことで、自分を軽蔑し始めるに違いない。とどのつまりは、シャボン玉と無気力だ。ああ君たち、なにしろ俺が自分を賢い人間だと思うのは、ひょっとすると全生涯で何一つ、始めることも終えることもできなかったという、ただそれだけのためかもしれないのだから。どうせ俺は、どこにでもいる無害な忌々しいおしゃべりにすぎないのさ。仕方ないじゃないか。あらゆる賢い人間の文字どおり唯一の使命は、饒舌、つまり空疎な無駄口を叩くことなのだとしたら。 6 ああ、もし俺が怠惰ゆえになにもしないのであれば……。そうであったなら、どれだけ自分を尊敬できることだろう。たとえ怠惰といえども、とにかくなにかにはなりえたという、まさにそれゆえに俺は自分を尊敬したはずだ。たとえたった一つの特性といえども、ともかく自分でも確信がもてるいわばポジティヴな特性が俺の中にあるというわけなのだから。質問──あいつは何者だ? 答え──怠け者だ。自分についてこんなことが聞けたら、どんなに愉快だろう。それはつまり、ポジティヴに定義されたということだし、俺についてなにか言うべきことがあるというわけなのだから。「怠け者だ!」これはもう立派な肩書きであり使命であり、職業とさえ言える。馬鹿にしちゃあいけない。本当にそうなのだから。そうなったら俺は、正々堂々と最高級クラブの会員になって、絶えず自分を尊敬することのみに専念するだろう。シャトー・ラフィットの赤ワイン通であることを生涯の誇りにしていた御仁を知っているが、そいつは、それを自分のポジティヴな長所とみなして、一度として己の存在に疑念を抱くことなどなかった。死ぬときも、奴の良心は少しも騒がずに安らかに、どころか、勝ち誇ったように死んでいったのだが、それでまったく正しかったのだ。 それなら俺だって何かの職業を選んでもいいだろう。俺なら、怠け者と大食漢がいい。ただし、単にそれだけじゃなくて、例えばすべての麗しく崇高なるものに共感を抱く怠け者と大食漢だ。どうだね君たち、気に入ったかい? 俺の目には、もうだいぶ前からこの影がちらついていたんだ。この《麗しく崇高なるもの》に四十歳の俺はもう辟易している。しかし、これは四十歳の俺だ。だがあの頃なら、ああ、あの頃ならまったく違うようになるはずだったのだ! 俺は、すぐさまふさわしい活動を見出しただろう。それはすなわち、あらゆる《麗しく崇高なるもの》の健勝を祝して飲むことである。あらゆる機会にかこつけて、まずは自分の杯に涙を一滴垂らしてから、やがてその杯を、あらゆる《麗しく崇高なるもの》のために飲み干しただろう。そうなったら、この世のあらゆるものを《麗しく崇高なるもの》に変えてしまうのだ。最も醜悪な、まぎれもない屑の中にさえ、《麗しく崇高なるもの》を見出しただろう。俺は水を吸った海綿のように涙もろくなったに違いない。例えば、ある画家がゲー( 5)のような絵を描いたとしよう。すぐさま、その絵を描いた画家の健康を祝して俺は乾杯する。なぜなら、あらゆる《麗しく崇高なるもの》を愛するからだ。 ある作家が『それぞれが思いのままに』( 6)という本を書いたとしよう。すぐさま俺は、「それぞれ」の作者の健康を祝して乾杯する。あらゆる《麗しく崇高なるもの》を愛するからだ。その代り、俺に対する尊敬を要求するし、俺に尊敬の念を示さぬ者は苦しめてやっただろう。心安らかに生き、勝ち誇ったように死んでゆく──これは素晴らしい、まったく素晴らしいことじゃないか! そうなったら太鼓腹を出っ張らせ、三重顎をこしらえて、酒焼けした赤鼻をテラテラさせた俺を見て、出会う人が誰しも言うだろう。「ほら、あれこそプラスというものだ! ほんもののポジティヴな存在とは、まさにあれだね!」君たちがなんと言おうと、我々のこのネガティヴな時代に、こういう反応が聞けるとは、実に愉快じゃないか。 7 しかし、こんなことはすべて、おめでたい夢想に過ぎない。ああ、教えてもらいたいものだ。人間が悪事を行うのは、ただ自分にとっての本当の利益を知らないためである、などと、最初に明言したのはいったい誰なんだ? 「人間を啓蒙してやり、本物の正常な利益に目を見開かせてやれば、人間はすぐさま悪事を行うのをやめ、たちまち善良かつ上品になるはずだ。なぜなら、啓蒙され自分にとって本当の利益を理解すれば、善の中にこそ己の利益を見出すはずであり、自己の利益に反すると知りながらみすみす悪事を為すことが出来る者など一人もいないからだ。したがって、言わば必然的に善を為すことになるはずではないか」などと、最初に宣言したのは誰なのだ? ああ、幼稚このうえない話だ! 純真無垢な幼児の論法ではないか! 第一、過去数千年のいったいいつ、人間がただ己の利益ゆえに行動したことなどあるというのか? 人々が、万事承知の上で、つまり真の利益の何たるかをよくわかっていながらそれを脇に置き去りにして、リスクを冒し運に任せて別の道へ突進してきたこと、誰にもなんにも強制されているわけでもないのに、まるで指示された道にだけは進むまいとでもいうように、意固地になって強情を張り、わざわざ別の困難なとんでもない道を、ほとんど暗闇の中を手探りで進むようにして切り拓いてきたこと、それを証す幾百万の事実をどう扱えばよいのだ? つまり、彼らにとっては、実際、この強情だのわがままだののほうが、いかなる利益よりも心地良かったということじゃないか……。 利益だって! そもそも利益とは何ぞや? 人間の利益がまさにどこにあるのか、それをあえて完全に正しく定義することなど、できるだろうか? 仮に人間の利益とは、どうかすると自分にとって有利なことではなく、不利なことを望むこともあるという、ときにはまさにそんな点にこそありうるのかもしれない、いや、それどころか、当然あるに違いないのだとしたらどうする? もしそうであるなら、そんなことがありうる場合に限っての話だが、すべての法則は無に帰すことになってしまう。あんた方はどう思うかい? そんなケースはあるだろうか? あんた方は笑っているね。笑うがいいさ。ただし、答えてくれ。人間の利益は、完全に正しく計算されているものなのだろうか? 今までの分類に納まらなかったものばかりでなく、いずれの分類法にも納まりえないような利益というものは、ないのか? なにしろあんた方は、俺の知る限り、人間の利益の目録を、統計数学や経済学の公式の平均値で作成している。あんた方の言う利益というものは、幸福、富、自由、平穏等々だ。だから、こうした目録に、あからさまに意識的に反抗するような者は、あんた方にしてみれば、もちろん俺にしてみても同じだが、よほどの反啓蒙主義者か、さもなければまったく頭がどうかしているということになるのではないか? ところがここに、実に驚くべきことがある。そうした統計学者だの、賢人だの、人類を愛する人々だのが、人間の利益を数えあげるときに、いつも必ずある利益を数え損ねてしまうのだ。いったいどうしてこんなことが起るのか? それは、しかるべき形で計算に入れられていないのだが、実は、それを入れるか入れないかで、全体の勘定もすっかり変わってしまうのだ。そんなことは、大したことじゃない、その利益を勘定に入れて、ちゃんとリストに書き込めばいいじゃないか。ところが、困ったことに、この厄介な利益はいかなる分類にも当てはまらないし、どのリストにもうまく納まらないのだ。 例えば俺に一人の友人がいる。いや、君たち! もちろん彼は、あんた方にとっても友人だ。誰にとっても友人に決まっている。この御仁は、何をするにつけても、いかに理性と真理の法則に従って行動せねばならぬか、まずはそのことを言葉巧みに明快に叙述してみせる。それどころか、興奮して熱っぽく、本物の正常な人間のさまざまな利益についてあんた方に語ったあげく、嘲笑を浮かべながら、己の利益も美徳の本当の意味もわきまえぬ目先の利かない愚か者どもを詰るだろう。そのくせ、きっかり十五分後には、これといった外部からの突然の理由があったわけでもないのに、彼のあらゆる利益よりも強烈な、まさに内的理由によって、それまでとはおよそ異なる突飛な行為をしでかすのだ。つまり、自分で言っていたことに──理性の法則にも、己の利益にも、端的に言えばすべてに──明らかに反する行為だ。あらかじめ言っておくが、私の友人というのは、実は集合的タイプであり、それゆえ彼個人を責めることはいささか難しい。君たち、まさにここんところが肝腎なのだよ。実際に、ほとんどあらゆる人にとって、その人の最良の利益よりもさらに貴重な何かが存在するのではないだろうか? あるいは、(論理に矛盾しないように表現するなら)、他のあらゆる利益よりも重要で有利な利益(まさに例の、たった今話したばかりの計算に入れ損なうことになる利益)だ。そのためには必要とあらば、人があらゆる法則に逆らってもかまわない、つまり理性も名誉も平穏無事な生活も幸福も、一言で言えば、こうしたあらゆる素晴らしいもの、有益なものに逆らってまでも、当人にとってなによりも大切な、この根本的な最も有利な利益さえ手に入れられたら、それでかまわないと思うような、そういうものがあるのではないだろうか?「それじゃあ、やっぱり利益なんじゃないか」と、あんた方は話の腰を折るだろう。失礼だが、こちらの話はまだ終わっちゃいない。それに問題は、そんな言葉尻をとらえる話じゃないんだ。そうではなくて、この利益の驚くべき点は、これが、我々のあらゆる分類法をぶち壊し、人類を愛する人々が人類の幸福のために作り上げたすべての体系を片っ端から打ち砕くことである。一言で言えば、すべてを混乱させるのだ。しかし、この利益の名をあんた方に告げる前に、俺は、あえて面目丸潰れになることも厭わずに、大胆に宣言しておこう。「人類は、本当の正しい利益を獲得すべく、必然的にそれを志向しさえすれば、たちまちにして善良かつ上品になるものだなどと、本当の正しい利益とやらについて説明しようとするすべての素晴らしい体系及び理論は、俺に言わせれば、今のところ、論理のための論理に過ぎない!」そうだ、屁理屈なのだ! なにしろ、全人類を、その利益体系の追求によって一新するなどという理論を認めることは、とうてい不可能だ。俺から見たらそれは、ほとんど……そう、例えばバックル( 7)に従って、文明のおかげで人間は穏やかになり、その結果、残忍さが軽減され、戦争には不向きになりつつあるなどという論を認めるのと同然だ。論理上は、たしかにバックルにおいては、そういうことになるようだ。しかし、人間は、体系やら抽象的な結論やらに執着するあまり、自分の論理を正当化するためとあらば、真理を意図的に歪めたり、目で見、耳で聞いたことさえ否定しかねないものだ。この例を取り上げたのは、これがあまりにも明白な例だからだ。 試しにあたりを見回してみるがいい。血は河のように流れ、しかもまるでシャンパンのように、やけに陽気にほとばしっているではないか。これが、バックルも生きた我らが十九世紀というものだ。ナポレオンはどうだ──大ナポレオンにしても、今のナポレオン( 8)にしても──。北アメリカも然り──永遠の連邦はどうなった。 そして最後に、あの馬鹿げたシュレスウィヒ =ホルシュタイン問題の茶番( 9)まである……。これでいったい、文明が我々のどこを穏やかにしているというのだ? 文明が人間の中に育むものは、ただ感覚の多面性のみだ。それ以外には、まったく何一つない。 そしてこの多面性の発達ゆえに、人間はおそらくは、血の中に快楽を見出すなどということにまで立ち至るのだろう。いや、現に、それはもはや起っていることじゃないか。最も洗練された殺戮者と言えば、ほぼ間違いなく最も文明開化された紳士諸君であり、彼らはどうかすると、いかなるアッティラだろうとステンカ・ラージン( 10)だろうと、皆、裸足で逃げ出すほど手強い連中なのだ、ということにあんた方は気づいているのかね? そして、もし彼らが、アッティラやステンカ・ラージンほどは目立たないとしたら、その理由はまさに、彼らにはあまりにもしょっちゅう出くわすからであり、あまりにもありふれた存在で、もはや見飽きているからに他ならない。少なくとも、文明ゆえに人間は、仮に残忍さが軽減されたとしても、その代り、以前にも増していっそう、質が悪く忌まわしい残忍さを身につけたと言えよう。以前の人間は、大量殺戮の内に正義を見ており、良心の呵責なしに当然殺してしかるべき相手を殺していた。ところが今の我々は、大量殺戮は忌まわしい行為である、と見なしていながら、そのくせ以前にも増して大規模にこの忌まわしい行為を営んでいるのだ。どちらのほうが質が悪いか? あんた方に自分で判断してもらいたい。クレオパトラは(ローマ史の例など持ち出して、失礼)、黄金のピンを自分の女奴隷の胸に突き刺すことを好み、奴隷たちの叫び声や痙攣に快楽を見出していたという。あんた方は、こう言うだろう。それは、どちらかと言えば野蛮な時代の話だと。だが現代もまた野蛮な時代なのだ。なぜなら(これもまた、どちらかと言えばの話だが)、現代でもやはり、ピンは突き刺されているからだ。現代人も、野蛮な時代と較べれば、ときには物事をはっきりと明晰に見通すことを学んだとは言え、理性や科学が教えるとおりに行動する習性を身につけたとは、とうてい言いがたい。 しかしそれでも、あんた方の確信はまったく揺るぎないのだろう。ある種の古き悪しき慣習が完全に払拭され、良識と科学が人間の本性を完璧に再教育し、正常な方向に導けば、人間は必ずや例の習性を身につけるはずだと。そうなれば、人間は故意に間違った道を選ぶことをやめ、自身の意志と自身にとっての正常な利益とを反目させることなど、否応なく望まなくなるはずだ、とあんた方は確信しているのだろう。そればかりか、あんた方はこう言うだろう「そうなれば、科学自身が教えてくれるはずだが(もっとも、俺に言わせれば、そんなことは余計なお世話だがね)、本当は人間に意志や気まぐれなんてものはないし、そもそもかつて一度もあった例などなく、人間そのものが、ピアノのキーかオルガンの音栓のようなものに過ぎないのだ( 11)。そのうえ、この世にはさらに自然法則というものがある。だから、人間が何をするにしても、それはおよそ、彼の欲求によって為されるものではなく自然法則によっておのずと為されるのだ。したがって、自然法則を発見しさえすればそれでいいのであり、人間は己の行為に責任を持つこともなくなり、極めて気楽な人生が送れるというわけだ。そうなれば、人間のすべての行動は、ひとりでにこれらの法則にしたがって計算に基づく対数表のように配分され、その数は十万八千に及び、行事日程表に記入されることになる。それよりもっと良いのは、現在の百科事典のような善意あふれる出版物がいくつか出て、その中であらゆることが正確にされれば、もはやこの世には、人間の意図的な行為だの思いがけない出来事だのはなくなってしまうだろう。」「そうなったら」と、これは皆、あんた方が語っていることなのだが「数学的正確さで算出され、完全に準備の整った新しい経済関係が確立され、それゆえに、ありとあらゆる問題はたちどころに消え失せることになる。なぜなら、それらにはありとあらゆる解答が即座に与えられるからだ。すると、いよいよ水晶宮( 12)が建設される。 それから……まあ一言で言えば、カガン鳥( 13)が飛来するわけだ」。 もちろん、そうなったら(ここは今度は俺の意見だが)、例えば恐ろしく退屈にならないという保証はどこにもない(なぜなら、すべてが一覧表に従って配分されてしまうのならなにもすることがないではないか)。その代り、すべてが極めて合理的になるだろう。もちろん、退屈のあまりどんなことを思いつくか、知れたものじゃないがね! なにしろあの黄金のピンを突き刺すことだって、退屈の為せる業なのだ。しかしこれは皆、どうでもいいことだ。おぞましいのは(これはまた俺の意見だ)、下手をすると、今度はその黄金のピンにも喜びを見出すかもしれないということだ。なにしろ人間は馬鹿だ。手のつけられない阿呆だからな。いや、仮に決して馬鹿ではないとしても、その代りおよそ他に例がないほど感謝の念がない。だから俺は、こんなことが起っても少しも驚かないね。 例えばもし将来、万事が合理的に納まっている中で、突如としてあまり上品とは言えぬ、というより人を小馬鹿にした、いかにも反動的な面差しのどこかの紳士が突如として姿を現したかと思うと、両手を腰に当てて偉そうに、我々皆に「どうだね諸君、理性、分別の類は一切合財、ひと思いに蹴飛ばして、木っ端微塵にしてしまわないか? あの対数表なんてものはすべてほっぽり出して、ただひたすら自分の愚かなる意志どおりに生きてみないかね!」などと恩知らずにも言い出したとしても……。これだけならまだなんということもないのだが、腹が立つのは、必ずや追従者が現れることである。人間とは、そんなふうに出来ているものなのだ。 そしてこれは何もかも、わざわざ指摘するまでもないほどの、最もくだらない理由によるものらしい。それは他でもない、人間はいついかなる時も、いかなる人間であっても、決して理性や利益が彼に命じるようにではなく、自分の望みどおりに行動することを好んできたのである。自己の利益に反することを望むこともありうるし、ときにはまったくそうならざるを得ないこともあるのだ(これも俺の意見だ)。自分自身の自由な欲求、たとえどんなに突飛なものであれ、自分自身の気まぐれ、ときには狂気と見まごうばかりにまで搔き立てられた自分の妄想、こうしたものこそがすべて、例の計算し損なわれ、いかなる分類にも当てはまらず、あらゆる体系や理論を木っ端微塵に砕き飛ばしてしまう、最も有利な利益なのである。 いったいどこから、賢人先生方は、人間には正常で高潔な欲求とやらが必要だなどという考えを引き出したものか? 何故人間には、よりによって合理的な有利な欲求がぜひとも必要であるなどと、思いこんだのか? 人間に必要なものは、ただ一つ、自発的な欲求のみである。その自発性がいかに高くつこうと、その結果、どこに行き着くことになろうと、かまやしない。なにしろその欲求だって、そもそもいかなる代物か知れたものではないのだから……。 8「ハハハ! そもそも欲求なんてものが、本当は、まあ強いて言えば、存在しないのかもしれないじゃないか!」と、あんた方は高笑いをしながら口を挟むだろう。「このごろは、科学が人間を解剖し分析を進め、今の時点でもすでに我々にとって明らかなんですよ。欲求やいわゆる自由意志などというものは、まさに……」「ちょっと待ってくれ、君たち、俺もその話をしようと思っていたんだ。実はぎくりとしたぐらいだ。俺はたった今、声を大にして言うつもりだった。欲求なんぞ何に左右されるかわかりゃしないが、そこがまた良いところなのかもしれない──と。でもそこで科学のことを思い出したものだから……言葉に詰まったんだ。するとちょうどあんた方が話し始めたというわけだ。いや実際、いつの日か、我々のあらゆる欲求だの気まぐれだのの公式がほんとうに発見されたなら、つまりそれらが何に左右され、どんな法則によって発生し拡大してゆくのか、これこれの場合にはどこを目指してゆくのか等々、つまり本物の数学的公式が発見されたなら──人間はたぶんすぐさま何かを欲求することを、それどころかおそらく存在することさえやめてしまうだろう。誰が好きこのんで、対数表どおりに何かを望んだりするものか。それどころか、そうなったら、人間はたちどころに人間からそれこそオルガンの音栓か何かに変わってしまうだろう。なぜなら、願望も意志も欲求もない人間なんて、オルガンの音栓以外の何物であろう? あんた方はどう思うかね? 果たしてそんなことがありうるかどうか、可能性を考えてみようじゃないか?」「ふむ……」と、あんた方は判定を下すだろう。「我々の欲求は、自分にとっての利益に対する間違った見方のせいで、大部分が誤ったものになりがちである。我々がときたまおよそとんでもないことを欲求するのは、そのとんでもないことこそ、あらかじめ想定された何らかの利益を達成する一番の近道であると、おろかにも思いこんでしまうからだ。さて、これらがすべて明らかにされ、紙の上で見積もりができてしまったなら(これは大いにありうることだ。なぜなら、ある種の自然法則は人間には決してわからないものだなどと決めてかかるのは情けないし、無意味だからだ)、そうなればもちろん、いわゆる願望などというものは姿を消す。なにしろもし欲求がいつの日か理性と完全に折り合いをつけた暁には、我々は好き勝手に何かを欲するのではなく、論理的に思考するようになるはずだ。というのも、例えば理性を保ちながら滅茶苦茶なことをしたがるなどありえないはずだし、つまりはわざわざ理性に反して己を害することなど望むはずもないからだ……。 いつかは我々のいわゆる自由意志の法則も発見されるのだから、あらゆる欲求も論理的思考も、実際に計算される。そうすれば、冗談事でなく一覧表のようなものが出来上がり、我々は実際にこの表の通りに願望するようになるわけだ。例えば私が、誰それに指を突き出して侮辱の仕草をして見せたとしても、それは侮辱せざるを得ない然るべき理由があったからで、必ずこれこれの指でその侮辱の仕草をするに違いなかったのだなどと、そんなことまで計算され実証されたなら、私の中に自由の余地など残るわけがないではないか? 私が然るべき学業を修めた教養ある人間であればことにそうだ。そうなったら、全生涯を三十年先までも見通すことができる。端的に言って、もしそういうことになったなら、もはや我々は何一つ為すべきことはなくなり、いずれにせよ、ただ受け容れるだけということになるのだ。それにそもそも、これは我々が飽くことなく己に繰り返し言い聞かせねばならぬことだが、時々刻々移り変わるさまざまな状況の中で、自然はいちいち我々に許しを請うてくるわけではないのだから、自然は、我々の好き勝手な空想に従ってではなく、自然のあるがままの姿で受け容れねばならないのだ。そしてもし実際に、我々が例の関数表だの日程表だの、それからあの蒸留器……あの化学実験装置さえも目指しているのなら、他にどうしようもあるまい、蒸留器も受け容れるしかない! さもなければ、こちらのことなどおかまいなしに、蒸留器は勝手に仕事にとりかかるまでだ……」 ああ、わかった。しかし俺にとっちゃそこが難点なんだ! 君たち、俺が屁理屈を捏ね回したことは、どうか赦してもらいたい。なにしろ地下生活四十年なんだからな! もう少し好き勝手な空想に耽らせてくれ。いいかね。君たち、理性はたしかに素晴らしいものさ。それは議論の余地がない。だが、理性はしょせん、理性に過ぎないわけで、人間の理性的側面にだけ応えるものだ。そこへ行くと欲求は全生活、というか、それこそ二、二が四の理性からそれではどうしても割り切れず、むしゃくしゃと頭を搔きむしることまで、ありとあらゆるものをひっくるめた人間の全生活の現れなのだ。そして我々の人生は、この現れにおいて、しばしば取るに足らぬ下らぬものであることが判明するのだが、とは言え、ともかくそれは人生であり、単に平方根を求める算術などとはわけが違う。例えば、俺はごく当然のこととして俺の生きる能力すべてに応えるために生きたいと望むのであり、俺の理性的能力、つまり全体の二十分の一やそこらの能力のみに応えるために生きたいとは思やしない。理性が知っているものとは何か? 理性が知っているのはただ認識しえたことだけであるが(おそらくあることについては決して認識しえない。そんなことがわかっても何の慰めにもならないが、隠し立てしても仕方あるまい)、人間の本性は、すべてを含んだ全体として、意識的にも無意識的にも活動するものであり、ときには間違うこともあるが、ともかく生きているのだ。 あんた方は、俺を哀れむように見ているな。またしても俺に言うつもりだろう。啓蒙された教養人は、端的に言って、未来の人間がそうなるように、なにもかも承知のうえでみすみす己にとって不利なことなど望むはずがない。これはもう数学のように明白な事実なのだと。たしかに、それは数学なのだろう。それは認めるよ。しかし、百回でも繰り返してあんた方に言いたいのだが、人間が自分にとって有害な愚かしい、どこから見ても愚の骨頂とさえ言えることを、わざと意識的に望みうるケースがひとつ、そう、たったひとつだけあるのだ。それはまさに、己のために愚の骨頂さえも望む権利、己のために賢明なることを望むという義務から解放される権利を持つことなのだ。なにしろこの愚の骨頂、己の気まぐれこそが、君たち、実際のところ我々にとってこの世のなによりも有利なものなのかもしれないのだからね。ことにある種のケースでは。とりわけ我々に明らかな害をもたらし、我々の理性が利益について出した極めて健全な結論と矛盾するケースにおいてさえ、それはあらゆる利益よりもさらに有利であるかもしれないのだ。なぜなら、いずれにしてもそれは我々にとっていちばん重要でいとしいもの、すなわち、我々の人格と個性を保ってくれているからだ。 ある人達は、これこそは本当に、人間にとってなによりも大事なものだと主張する。欲求も、もちろんその気にさえなれば、理性と折り合いをつけることだってできるだろう。もしこれを悪用せず節度をもって利用するなら、特にそうだ。それは有益でもあり、ときには称賛にさえ値する。ところが欲求は実にしばしば、いやむしろほとんどの場合、頑として理性とは相容れないものなのだ。そして……そして……いいかね、実はこれもまた有益でもあり、どうかすると極めて称賛すべきことでさえあるんじゃないか? 君たち、仮に人間は馬鹿ではないとしよう(実際、もし人間が馬鹿なら、いったい誰が利口なんだ、という一点のみから考えたって、人間が馬鹿だなどとはどうしたって言うことはできないのだ)。しかし、たとえ馬鹿でないとしても、呆れるほど感謝の念がない。桁外れの恩知らずだ。人間に最もふさわしい定義は、恩知らずの二本足だ、と俺は思っているくらいなんだ。しかしこれだけじゃない。これはまだ人間の主要な欠点ではない。最も重要な欠点は、絶え間なき善行の不在だ。それこそ大洪水からシュレスウィヒ =ホルシュタイン問題に至る人類の全行程における悪行の連続である。悪行、そしてその結果としての無分別である。というのも、無分別は悪行から生まれるに違いないことは、昔からよく知られたことだからだ。試しに人類の歴史を見てみるがいい、何が見えるか? 壮大な眺めだろうか? まあたしかに壮大には違いないだろう。例えば、ロードス島の巨像( 14)一つとってみたって、そりゃあ大したものだ! アナエフスキー氏( 15)がわざわざそれについて、ある者たちはこれは人間の手による作品だと言い、別の者たちは自然自らが創り出したものだと主張することを証言しているのも、あながち無意味なことでもないわけだ。種々雑多なものがごちゃごちゃとしている眺めだろうか? たしかに、ごちゃごちゃとはしているだろう。あらゆる時代のすべての民族の武官、文官の大礼服一つ取ってみたって、そりゃあ大変なものだし、略装まで入れた日にはそれこそややこしくて、何が何だかわかりゃしない、どんな歴史家でも音を上げてしまうだろう。単調な眺めだろうか? たしかに、単調でもあるかもしれない。戦いに継ぐ戦い、今も戦争、以前も戦争、今後も戦争だ。あまりにも単調すぎることは、あんた方も認めるだろう。 要するに、世界史に関しては何だって言える。最も調子っぱずれな想像力が思いついたことでも、かまわないというわけだ。ただ一つだけ言えないことがあるとすれば、それが道理にかなっているということだ。そんなことはひと言口にしただけで、むせかえってしまう。こんなことさえ絶え間なく目にするではないか──品行方正で道理をわきまえた人々、人類を愛する賢人先生方がひっきりなしに現れる。が、そういう先生方は全生涯の目的を、できるだけ身持ち良く道理をわきまえて振舞うこと、いわば己の存在によって隣人の道を照らすことと思い定めているのだが、それは隣人に、この世で品行方正に道理をわきまえて生き抜くことは実際に可能なのだと実証するためなのだ。それがどうだろう? その人類を愛する先生方の大多数が、遅かれ早かれ人生の終わり近くになると、己を裏切り、なにかしら、しかもときには飛び切り破廉恥なスキャンダルを引き起こすことは周知の事実である。 さて、あんた方に訊ねよう。これほど奇妙な特質を与えられた生き物としての人間に、いったいなにが期待できるだろうか? 人間にありとあらゆるこの世の恵みを浴びせかけ、ただぶくぶくと泡が幸福の水面に浮かび上がるほど、幸福の中に頭までどっぷりと浸からせてみるがいい。すっかり経済的に満足させ、ただ眠ったり、甘い菓子パンを食べたり、ひたすら世界史を中断させないように配慮したりするより他に、何一つすることがなくなるようにさせてみるがいい。まさにそんな状況のなかでさえも、人間はまったく恩知らずにも、ただ人を誹謗してやろうという悪意から、実にけしからんことをしでかすものなのだ。甘い菓子パンさえも手放す危険を冒してまで、わざわざ最も悪質なナンセンスを、最も非経済的なでたらめをやりたがる。それもただ、こうした良識に自分の破滅的な奇想天外の要素を混ぜこみたいがためなのである。自らの奇妙な願望、すなわち最も俗悪な愚行をなんとしても続けたいと望むのも、ただ次のことを確認したいためである(これこそがぜひとも必要不可欠なことであるかのように)。それはつまり、人間は依然として人間なのであり、決してピアノのキーなどではないということだ。もし人間がピアノのキーだとすれば、自然法則の手によって演奏されるわけだが、あまり勝手に弾きまくられると、ピアノのキーとしてはついには行事日程表に反したことは何一つ望まなくなるおそれもあるからだ。 いや、それだけではない。実際に人間がピアノのキーであることが判明したとしても、それが自然科学によって、また数学的にさえも証明されたとしても、人間は決して納得せず、ただひたすら忘恩の念ゆえに、まさに自分の主張を押し通すために、わざとなにかしらその証明に反することをしでかすに違いない。何の手段もない場合は破壊と混乱、ありとあらゆる苦しみを考え出してでも、自分の主張を押し通すだろう! 世の中に呪いを放ちもしよう。呪うことができるのは、人間だけなのだから、(これこそ、他の動物と人間を区別する人間の最も重要な特権である)。なにしろおそらくは呪うことによってのみ、人間は自分の目的を達成できる。つまり自分は人間であり、ピアノのキーではないということを実際に確信できるのだから! あんた方はこう言うだろう。いや、混乱も心の暗闇も呪いもすべて、対数表に従って見積もりができるのであり、事前の見積もりという可能性さえあれば、理性が本領を発揮してすべてを止めることが出来るはずだ、と。しかしそうなったら人間は、理性を持たずに己の立場を貫き通すためなら、今度はわざと狂人にもなってみせるだろう! 俺は、それを信じているし、それについては責任をもって言える。なぜなら人間の為してきたことは、つまるところ、自分は人間であり音栓ではない! と、絶えず自身に証明することのみだったように思われるからだ。たとえ自らの身体を痛めてでも、穴居人のような野蛮な振舞いを行ってでも、証明してきたのだ。そうしてみれば、まだそんな事態にはなっておらず、欲求とは今のところ何に左右されるかわからないものであることを、罪作りとは言え、つい讃美したくなるではないか。 諸君は俺に大声でこう言うだろう(もしいまだに俺を、声をかけてやるだけの相手だと見なしていてくれればの話だが)。誰もお前の意志を奪おうなどとは言っちゃいない、ただお前の意志が、自発的に、自分にとっての正常な利益や自然法則や算術と一致してくれるように、なんとかうまく行かないものかと腐心しているだけじゃないか、と──。 ああ、君たち、そんな一覧表だの算術だのに話が及ぶんじゃ、二、二が四だけが通用しているんじゃ、何が自分の意志なもんか! 二掛ける二は、俺の意志がなくたって、四に決まっているだろう。自分の意志ってのは、そんなもんじゃないはずだ! 9 君たち、俺が言ったのは、もちろん、冗談さ。しかもあまりうまい冗談じゃないということも、自分でわかっている。しかしなにもかもを冗談事にしてしまうわけにもいかない。ひょっとすると、俺は、歯ぎしりをしながら冗談を言っているのかもしれないんだぜ。ねえ君たち、俺を苦しめている問題がいろいろとあるんだ。それをなんとか解決してもらえないかね。例えば、あんた方は、人間に古い習慣を棄てさせ、科学と良識にしたがって意志を矯正しようとしている。しかし人間をそのように改造することは、可能なばかりか必要でもあるなどと、どうしてわかるのか? どうして人間の欲求を矯正することがそれほど必要であるなどと、決めてかかるのか? 端的に言って、どうしてそうした矯正が実際に人間に利益をもたらすなどとわかるのだ? もうこうなったらすべて言ってしまうが、理性の論証や算術によって保証されている自分にとって本当の正常な利益に逆らわないことが、実際に人間にとって常に有利であり、それが全人類共通の法則であるなどと、どうしてあんた方はそれほど確信を持って言えるのか? それは今のところ、あんた方の単なる仮定の一つに過ぎないじゃないか。それが論理的な法則であることは認めよう。しかし、ひょっとしてそれは、まるきり人類のためのものではないかもしれない。 たぶんあんた方は、俺のことを気が触れたと思っているのだろう? ちょっと釈明させてもらおう。人間とは主に創造に従事する動物であり、目的に向って意識的に邁進し、技術にたずさわること、つまり永遠に休みなく自らの道を、その道がどこへ向うものであれ切り拓いてゆくように運命づけられているものだ。そのことには俺も反対しない。しかしひょっとすると、まさにこのように道を切り拓くことを運命づけられているからこそ、人間は時としてひょいと脇道に逸れたくなるのかもしれない。それからまだそんな気になるのは、率直なやり手タイプは大体においてたしかに愚かではあるが、それでもときにはこんなことをふと思いつくせいかもしれない。《道というものはほとんど常にどこかしらへは向っているのだが、大切なのはそれがどこへ向うかではなく、とにかくただ道が続くようにしてやることであり、品行方正な子供がそのまま、技術を馬鹿にしたりせずに、破滅的な無為に身を任せることがないようにしてやることである。周知のように、無為は諸悪の母なのだから》。 人間は創造を愛し、道を切り拓くことを愛する。これは紛れもない事実だ。しかしまたどうして、こうも激しく破壊と混乱をも愛するのか? このことを説明してもらいたいものだ! だがこれについては、まず俺自身が特にひと言述べておきたい。人間がこれほど破壊と混乱を好むのは(ときには大いに愛することもあるが、これはもう明々白々たる事実だ)、ひょっとすると目的を達成すること、創造している建物を完成させることを、自らが本能的に怖れているからではないか? もしかしたら人間が建物を好むのは遠くから見るときだけで、近くに寄ると全然好きになれないのかもしれない。建物を創造することだけを好み、中に住むのは嫌で、建ててしまったらそれを蟻だの羊だのその他の animaux domestiques(家畜)たちにくれてしまうのかもしれないのだ。そこへ行くと、蟻などはまったくセンスが違う。蟻にも同じような類の、永久に揺るぎないある驚嘆すべき建物がある──蟻塚だ。 尊敬すべき蟻たちは、この蟻塚から事を始め、おそらくは蟻塚によって事を終えるのだが、これは蟻たちの勤勉さと実務能力の評判を大いに高めるものだ。ところが人間ときたらおよそ軽率で、あまり立派な生き物とは言いがたい。もしかするとチェスの競技者のように目的達成のプロセスのみを愛しているのであって、目的そのものを愛しているのではないのかもしれない。そして誰にもわからないのだが(つまり、断言はできないが)、この世で人類が志向している目的というものはすべて、この達成への絶えざるプロセスにのみある。言い換えれば生そのものの中にあるのであって、目的自体の中にはないのかもしれない。目的とは、もちろん二、二が四、すなわち、公式に他ならないわけだが、二、二が四と言えば、君たち、これはもう生ではなく死の始まりではないか。少なくとも人間は常にこの二、二が四をいささか怖れていたし、俺は今でも怖れている。 たとえ人間のしていることと言えばただ一つ、二、二が四を探し求めることであり、そのためには大洋を渡り生命を犠牲にすることも厭わないとしても、実際にそれを見つけ出してしまうことは、確かになぜか怖れているのだ。見つけ出してしまったら、もう何もすることがなくなると察しているからだ。労働者なら、一仕事終えれば少なくとも金がもらえ、まずは居酒屋へ行くだろう。その後は警察の厄介になり、それで一週間はつぶせるわけだが、普通の人間はどこへ行けばよいのか? 少なくともそうした目的を達成するたびに、人間にはどことなくぎこちない居心地の悪そうな様子が見られる。人間は、なにかを達成するプロセスは好きなくせに、目的を達成してしまうことはあまり好まないときている。これはもちろんひどく滑稽なことだ。要するに人間は喜劇的に出来ているわけだ。明らかにこれらすべてが、駄洒落のようなものだが……。それにしても、二、二が四とは、実に鼻持ちならない奴だ。二、二が四なんぞ、俺に言わせれば、厚かましいにもほどがある。偉そうに恰好をつけて、腰に手を当てて人の行く手に立ちはだかり、頭から人を蔑んでいるじゃないか。二、二が四が実に申し分のない結構なものであることは認めるよ。でもなにからなにまで誉めるというなら、二、二が五だってときにはそれは可愛らしいものだと言えるんじゃないか? それにいったいどうして、正常でポジティヴなものだけが、つまり平穏無事な幸福だけが人間にとって有利なものだと、あんた方はそれほど断固として勝ち誇ったように言い切ることができるのだ? 理性が、利益の何たるかを見積もり損なうこともあるのではないか? ひょっとしたら人間が好むのは、平穏無事な幸福だけじゃないかもしれないだろう? もしかしたら、人間は同じくらい苦しみも好むのではないか? 苦しみは、平穏無事な幸福と同じくらい人間にとって有利なものかもしれないではないか? 人間は時として、苦しみを猛烈に熱愛することもある。これは事実だ。わざわざ世界史を調べてみるまでもない。自分も人間であり、多少なりとも生きた経験があるのなら、自分自身に問うてみればよい。俺の個人的意見では、平穏無事な幸福だけを愛するなんて、どこか見苦しいような気さえする。善かれ悪しかれ、ときには何かを破壊することも、実に気持ちがいいものだ。俺はなにも、特に苦しみの肩を持つわけでも、平穏無事を支持するわけでもない。俺が支持するのは……自分の気まぐれ、それに必要なときに俺が気まぐれを起こすのを保証してくれることだ。 苦しみは、たとえば軽喜劇には許されない。そんなことは俺だってわかっている。水晶宮で苦しむなんて、思いも寄らないだろう。苦しみとは疑念であり否認であるが、水晶宮の中にいながら疑念を抱くなら、それはもはや水晶宮でも何でもないじゃないか。ところで俺は確信するのだが、人間は本物の苦しみ、すなわち破壊や混乱を決して拒みはしない。なにしろ苦しみといえば、これこそが意識の唯一の根拠なのだから。俺は初めに、意識こそは人間にとって最大の不幸であると述べたが、実は人間は意識を愛しており、いかなる満足を与えられてもそれと交換するつもりはないことを知っている。意識は、例えば二、二が四なんぞに較べたら限りなく崇高なものだ。二、二が四の後には、もちろん何も残りはしない。為すべきこともなければ、認識すべきこともない。そのとき出来ることと言えば、ただ己の五感を閉ざして、瞑想に耽るだけだ。意識の場合は、たとえ結果は同じことでも、やはり為すべきことはなにもないとしても、少なくともときには己を鞭打つこともできるわけで、なんと言ってもこれで少しは活気づくのではないか。まあ反動的ではあるが、それでもなにもないよりはマシだろう。 10 あんた方は、永久に揺るぎない水晶宮、こっそりアカンベエと舌を突き出したり、ひそかに手で侮辱のしるしを作ってみせたりすることが許されない水晶宮の存在を信じている。俺はこの建物を怖れているが、その理由はもしかすると、これが水晶で出来た揺るぎない建物であり、こっそりとでさえも、これに対して舌を突き出したりできないからかもしれない。 いいかね、君たち、もし宮殿の代りに鶏小屋があるとして、そこへ雨が降り出したら、俺は濡れないように、たぶんその鶏小屋に潜りこむだろう。それでも、鶏小屋が雨から俺の身を守ってくれたからと言って、感謝のあまり鶏小屋を宮殿だなどと思いこんだりはしないぞ。あんた方は笑って、そういう場合なら鶏小屋でも大邸宅でも変りはないさ、とさえ言うだろう。俺は答える──その通り、もし雨露をしのぐためだけの生活であるなら同じことだ。 しかし、もし俺が、人はそのためだけに生きているのではない、それにどうせ住むなら大邸宅に住みたい──そんな考えに取り憑かれたなら、いったいどうすればいいのだ? これが俺の欲求であり、俺の願望なのだ。これを俺から取り去るというなら、俺の願望自体を別のものに取り替えてしまうしかない。替えたいのなら結構、俺を惹きつけるような別のもの、別の理想を与えてくれ。しかしそれまでは、俺は鶏小屋を宮殿だと思いこんだりは決してしないぞ。水晶宮なんてものはこけおどしにすぎず、自然法則から行けばあってはならぬ代物で、俺が自分の愚かさから、我々の世代特有のある種の旧き不合理な習慣から創り出したものであったとしても、そんなことはこの際かまうものか。あってはならぬ代物だろうと、そんなことはこっちには関係ない話だ。それが俺の願望の中に存在するなら──あるいは、こう言ったほうがいいかもしれない──俺の願望が存在する限りそれは存在するのだから、あってはならぬかどうかなんぞ、どっちでもいいことではないか? たぶん、あんた方は、また笑っているね。どうぞ好きなだけ笑いたまえ。俺はどんな嘲笑だって受け容れるが、それでも腹が空いているときに満腹だなどとは金輪際言わないつもりだ。とにかく俺は知っているんだ。自分が無限循環のゼロなんぞには決して妥協したり甘んじたりはしないことを。それが自然法則によって存在し、現実に存在するのだからというだけで、そんなものに甘んずるわけにはいかない。俺は貧乏な間借り人相手の千年契約の、万が一の用心に、歯科医ワゲンハイムの看板まで出ている広大なアパートなんぞを、自分のありとあらゆる願望の頂点として受け容れるつもりはない。俺の願望を打ち砕き、理想を消し去り、もっと良いものを見せてくれるなら、俺はいつでもあんた方に付きしたがうよ。関わり合いになるのは御免だ、とあんた方はたぶん言うのだろう。しかしそれなら、こっちだって同じ返事をしたいね。我々は、真剣に論じ合っているはずだ。それなのに、そっちが俺のことは歯牙にもかけないと言うなら、こっちだってへいこらするのは御免だ。俺にはなにしろ、地下室があるんだからな。 でも、俺がまだ生きて願望を棄てないうちは、このアパートのためには、たとえレンガ一つでも運ぶような真似はしたくない。そんなことをするくらいなら、俺の手など萎えてしまうがいい! ついさっき、俺自身が水晶宮を拒否するのは、ぺろりと舌を出してそいつを愚弄することができないという、ただそれだけの理由だと言ったことは、気にしないでくれ。俺があんなことを言ったのは、なにも舌を突き出すのがそれほど好きなせいではさらさらないのだ。もしかすると、あんた方が今まで造った建物のうち、こちらが舌を出さずに済むようなものがなに一つないことに、俺は腹を立てただけなのかもしれないぞ。それどころか、もう二度と舌を出したいなどという気が起らないぐらいに万事手筈を整えてさえくれれば、その感謝からだけでも、俺は舌なんぞちょん切られたって構わないくらいなんだ。そのような手筈は整わないから、例のアパートで我慢してもらわなくては困ると言われても、そんなことはこっちの知ったことじゃない。 それにしてもいったいどうして、俺はこんなに色々と願望をもつようにできているのだろう? まさか、俺という存在はなにからなにまでぺてんに過ぎないという結論に到達するためだけに創られたというわけでもなかろう。まさかそんなことにすべての目的があるというのか? 俺はそんなことは信じないね。 それはともかくとして、いいかね、俺は確信しているのだが、我々地下室の住人は、轡を嵌めて拘束しておかなければいけないな。地下室の住人は、四十年間黙ったまま地下室に籠りきっていることもできるが、ひとたび外へ出たら、それこそ堰を切ったように、喋って、喋って……止め処がないからだ。 11 とどのつまりは、君たち、なにもしないほうがいいのさ! 意識的な無気力のほうがマシだ! だから、地下室、万歳!というわけである。たしかに俺は、正常な人間が、腸が煮えくり返るほど羨ましいとは言ったが、今、目にしているようなありさまなら、正常な人間になぞなりたいとは思わないね(とは言うものの、やはり羨ましいことに変りはない。いや、いや、地下室は、いずれにしてもいちばんなのさ!)。地下室なら少なくとも……ああ! 俺はここでもまた噓をついているじゃないか! なぜ噓かと言えば、地下室のほうがマシだなどということは決してなくて、なにかもっと全然別のもののほうが良いに決まっているし、それを俺は渇望しているのだが、どうしてもみつけられないということぐらい、自分でも二、二が四と同じくらいよくわかっているからだ。地下室なんて、糞喰らえだ! いや、そんなことよりここで言うべきことは、今まで書いたことすべてのうちで、ほんの少しでも俺が自分で信じることができたらなあ、ということである。諸君、誓ってもいいが、今書き散らしたことのうち、なに一つ、一語たりとも、俺は信じていないんだ! いや、そうじゃない、俺はたぶん信じてもいるのだが、同時に、なぜだかわからないが、自分がどうも下手な噓をついているのではないかと、疑っているのだ。「それじゃいったい何のために、これをすべて書いたんだ?」と、あんた方は言うだろう。 試しに、あんた方を四十年間、なにもさせないで地下室に閉じ込めて、四十年後に、いったいどんなことになっているのか、覗いてみたいものだね。果たして人間を四十年間なにもさせずに、たった一人で置き去りにしておいていいものだろうか?「それで恥ずかしくないのか! 屈辱的な話じゃないか!」たぶんあんた方は、人を小馬鹿にしたように頭を振りながら言うだろう。「おまえは生を渇望していながら、切実な生の問題を混乱しきった論理で解決しようとしている。おまえのとんでもない言説は、実にしつこく、かつ図々しい。それでいて同時に、おまえはなんとおどおどしていることか! おまえはでたらめを口にしては、それに満足している。厚かましいことも口にするが、同時にのべつ幕なしにそのことでびくびくしては赦しを請うている。おまえはなにも怖れていないと言い張るが、そのくせ我々の見たところ、人におもねってばかりいる。歯ぎしりをしていると言うが、同時に我々に大笑いしてもらおうと、盛んに洒落を飛ばしている。その洒落があまり気が利いていないのは、自分でもわかっているくせに、どうやら文学的価値には大いにご満悦のようだ。ひょっとすると、本当に苦しみを味わったこともあるのかもしれないが、自分の苦しみに何の敬意も払おうとしない。実にくだらない虚栄心のために、せっかくの己の真実を大勢の人目に晒す見世物にして汚してしまっている……。おまえはたしかに何かを言いたいのだろうが、臆病ゆえに、最後のひと言を隠している。なぜなら、それを言い切るだけの決断力がなくて、あるのはおっかなびっくりの図々しさだけだからだ。おまえは自意識がご自慢だが、二の足を踏んでばかりいるじゃないか。それというのも、おまえは頭は働いても、心が悪徳で曇っているからだ。清らかな心なしには完全な正しい意識はありえないものだよ。それにしても、おまえはなんてしつこくて強引なんだ、なんて見栄っ張りなんだ! 噓、噓、噓で塗り固めているじゃないか!」 もちろんあんた方のこれらすべての言葉は、俺がいま自分で創ったものだ。これも地下室の産物というわけさ。俺はそこで四十年間ぶっ通しで、隙間越しにあんた方のこの言葉に耳を傾けていたのだ。自分でこの言葉を思いついたと言ったが、これしか思いつかなかったということだ。すっかり暗記してしまい、これが文学的体裁を取っているのも、なんの不思議もないだろう……。 しかしまさか、あんた方は、俺がこれをすべて印刷して、そのうえあんた方に読ませるとでも思いこんでいるんじゃなかろうね。それほど人に騙されやすいお人好しというわけでもあるまい。それにしても、まだもうひとつ俺には問題がある。実際なんのために、俺はあんた方に《君たち》などと、まるで本当の読者に向うように呼びかけたりするのだ? 俺がこれから述べようとしている告白は、印刷して他人に読ませるような代物ではない。少なくとも、俺はそれほどの確たる信念を持ち合わせていないし、またそんなものを持つことを必要だとも思わない。ところがだね、俺の頭にある気まぐれがふと思い浮かんで、どんなことがあってもそれを実現したくなってしまったんだ。それは、こういうことだ。 どんな人の思い出の中にも、誰にでも打ち明けるわけにはいかない、親友だけにしか打ち明けられないようなものがある。親友にも打ち明けられない、ただ自身にのみ、それもこっそりとしか明かすことのできないものもある。しかしさらに、自身にさえ打ち明けるのが怖ろしい思い出もあるわけで、そうした思い出はどんなまともな人間の中にも、かなりの量が積もり積もっているものだ。いや、それどころか、こんなふうにさえ言えるだろう。その人間がまともであればあるほど、そうした思い出は多いはずだ。少なくとも俺自身は、ある種の過去の出来事を思い出す決心がついたのは、つい最近のことである。今まではいつもそれらを回避してきたし、しかもなにやら不安まで抱えこんでいたのだ。それを単に思い出すばかりか、書き留めることさえ決心した今こそ、俺は、ぜひ試してみたいんだ。せめて自分自身には、完全に何から何まですべてを包み隠さず、すべての真実を怖れずに、打ち明けることができるかどうかを。 ついでに言っておけば、ハイネは、正確な自伝なるものはほとんど不可能であり、人間は己については、いくらでも噓をつくものだと断言している。ハイネによれば、例えばルソーは懺悔録の中で、確かに自分について、ある事ない事、中傷を並べ立てており、しかも虚栄心から意図的にそれをやっているのだと言う。俺はまったくハイネの言うとおりだと断言できる。ときとして、ただ虚栄心のみからありとあらゆる罪を自分で引っ被ってしまい、己を中傷誹謗することがあるのはよくわかるし、それがいかなる種類の虚栄心の為せる業なのか、それさえも俺はよく知っている。しかしハイネが評したのは、公衆の面前で懺悔した人物のことである。俺は、自分一人のために書いているのだ。ここできっぱりと宣言しておくが、たとえ読者に向けたように書いているとしても、それはまったくの見せかけの話で、そんなふうに書くほうが俺には書きやすいからなのだ。これは形式、そう単なる形式の問題にすぎない。俺には金輪際、読者なんて者は存在しないのだ。これは既に宣言したとおりだ……。 俺の手記は、自分の思い通りの形式で書きたい。いかなる秩序も体系も持ちこむつもりはない。思い浮かんだことをそのまま書き留めるのだ。 こんなことを書くと、たちまち言葉尻をとらえて、例えばこんなふうに俺に訊ねる奴もいるだろう。もし本当に読者を念頭に置いていないのなら、いったいなんのためにわざわざ、いかなる秩序も体系も持ちこむつもりはないだの、思い浮かんだことをそのまま書き留めるだの、そんな取り決めを自分と結んだりするのか。しかも文書にしてまで? 何のための釈明か? 何のための弁解なのか? 俺は、こう答えるしかない──そりゃ、たしかにそうなんだが……。 とはいえ、ここには、ありとあらゆる心理が働いているのだ。たぶん単に俺が臆病だということもある。ひょっとすると手記を書いているときに、なるべく上品に振舞うために、わざと目の前に読者がいると想像するのかもしれない。原因はいくらでも考えられるだろう。 しかし、それでもまだ問題はある。いったいなんのために、俺はこれを書きたいのか? もし読者のためでないと言うのなら、そのままただ頭の中で思い出すだけで、わざわざ紙に書き写すこともないではないか? その通りなのだが、紙に書いたほうがどことなく厳かな感じになるし、なんとなくその気にさせられる。自己批判も鋭さを増すし、表現力も上がる。しかも、それだけではない。手記を書くことで、たぶん俺は実際にほっと安らぐことができるのだ。例えば今日、俺は、ある昔の思い出にひどく苦しめられている。何日か前に俺はそれをふと、まざまざと思い出したのだが、以来それは、忌々しい音楽のメロディのようにつきまとってどうしても離れないのだ。とはいえ、なんとかしてそれを振りほどいてしまわなければならない。実は俺には、そういう思い出が何百もあって、そのうちの一つが、折に触れて入れ代り立ち代り現れては俺を苛むのだ。なぜか俺は、それを手記に書けばそれから解放されるのだと信じている。それなら、どうして試さずにいられよう? そして最後に、俺は退屈している。それなのに、いつもなに一つやっていない。手記を書くといえば、これはまるで本当の仕事のようじゃないか。人間、仕事をすれば、善良にも正直にもなれるという。少なくともそのチャンスはあるわけだ。 今日は、雪が降っている。ほとんどびしょびしょしたと言いたいほどの、黄色く濁ったぼた雪だ。昨日も数日前も降っていた。俺が思うに、この水っぽいぼた雪のせいで、俺はあのちょっとした出来事を思い出してしまい、今やそれがどうしても頭にこびりついて離れないのだ。そこでこれは、ぼた雪に寄せた物語、ということにしておこう。 1 「麗しく崇高なるもの」の起源は、十八世紀の英国の政治哲学者エドムンド・バークやドイツの哲学者イマヌエル・カントの論文などであるが、この概念は、一八四〇年代のロシアのロマン主義でもてはやされた後、一八六〇年代のチェルヌィシェフスキーの功利主義芸術論などでは否定的に使われた。 (本文へ戻る) 2 《自然と真理の人》は、ジャン‒ジャック・ルソーの言葉を念頭に置いている。 (本文へ戻る) 3 「サンクト・ペテルブルグ総住所録」によれば、一八六〇年代半ばに、ペテルブルグには、ワゲンハイムという名の歯科医が八人いた。また、当時、町中に、ワゲンハイム歯科の広告看板があったという。 (本文へ戻る) 4 この表現は、ドストエフスキーとその兄ミハイルが、一八六一 ~六五年に編集発行していた雑誌「時代」、「世紀」によく見られた。ドストエフスキーは「土壌主義者」を自称していた。 (本文へ戻る) 5 N・ N・ゲーは、当時のロシアの代表的画家。一八六三年にリアリズムの手法で描いた《最後の晩餐》を発表したが、ドストエフスキーは、後に「作家の日記(一八七九年九月)」でこの絵を痛烈に批判した。 (本文へ戻る) 6 『それぞれが思いのままに』は、ドストエフスキーの論敵、サルトゥイコフ =シチェドリンが一八六三年に発表した論文。同年、サルトゥイコフ =シチェドリンは、ゲーの《最後の晩餐》を讃美した論文も発表している。 (本文へ戻る) 7 英国の歴史家、 H・ T・バックルの論文「イングランドの文明史」(一八五七 ~六一年)を念頭に置いている。 (本文へ戻る) 8 ナポレオン一世と三世を指す。 (本文へ戻る) 9 当時、北米では南北戦争があり、シュレスウィヒ、ホルシュタイン両公国管理をめぐり、プロイセン、オーストリアとデンマークの間に戦争があった。 (本文へ戻る) 10 アッティラは、フン族の首長で、五世紀に東ローマ帝国、ペルシャ、ガリアなどを征服した。ステンカ・ラージンは、十七世紀のドン・コサックで、政府に対する反乱を起こした。 (本文へ戻る) 11 ピアノのキーのメタファは、十八世紀のフランスの思想家、ディドロの著作に遡る。 (本文へ戻る) 12 水晶宮は、ドストエフスキーの論敵チェルヌィシェフスキーの小説『何をなすべきか』(一八六三年)に出てくる未来の社会主義社会のユートピア的建造物を示唆している。そのモデルとなったのは、一八五一年のロンドン万博の鋳鉄とガラスのパヴィリオン。 (本文へ戻る) 13 ここでは幸福をもたらす神話的な鳥の意味で使われている。 (本文へ戻る) 14 ロードス島の巨像は、世界七不思議の一つで、ギリシャのロードス島に紀元前二八〇年に立てられた太陽神ヘリオスの像。 (本文へ戻る) 15 アナエフスキーは、一八四〇~六〇年代の雑文作家。その著作は、当時のジャーナリズムでしばしば嘲笑の的となった。 (本文へ戻る) Ⅱ ぼた雪に寄せて過ちの暗き闇の内より熱き信念の言葉によって私がおまえの堕落した魂を救い出したとき、おまえは全身、深き苦悩に満ちて、手を揉みしだきながら呪った、おまえをがんじがらめにしていた悪徳を。何事も忘れがちな良心を想い出によって責め苛みながら、おまえが私に、私に会うまでのすべてのことを話してくれたとき、おまえは不意に、両手で顔を覆うなり、恥ずかしさと恐怖で胸が一杯になり、思わず涙に咽んだ、感情が高ぶり、身も心も打ち震えながら……云々……

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