ヤチマは、ポリスをとりまくドップラー偏移した星々を見渡した。天空を横切る凍りついた同心状の色の波を、膨張から収束へとたどる。自分たちが追っている相手とついに出会ったとき、どう自己紹介すればいいのだろうと思いながら。こちらからたずねたいことは無数にあるが、情報の流れは一方通行のみにはできない。トランスミューターが「なぜあなたがたはわれわれを追ってきたのか? なぜこんな遠くまでやってきたのか?」と知りたがったら、どこから説明をはじめればいいのだろう? ヤチマは、《移入》前の歴史についていろいろ読んだことがあるが、それはどれもひとつのレベルだけで語られていた。つまり、個人とはクォーク同様に分割できないものであり、惑星上の文明はそれぞれが自己充足した宇宙も同然だ、という虚構に束縛されたものだった。ヤチマ自身の履歴も、《ディアスポラ》の歴史も、そうした仮構の枠内にはおさまらない。現実世界は、知性をもつ生物とそれが作る社会を包含するそのちっぽけな一部分よりも、もっと大きな構造やもっと小さな構造、もっと単純だったりもっと複雑だったりする構造で満ちたものであり、スケールや相似性を近視眼的にしか見られない人だけが、そうした生物とか社会とかいう表層の奥にあるものは全部無視できると信じていられる。それは、合成観境のような閉鎖世界への引きこもりを選択した人だけの話ではない。肉体人がそうした近視眼を克服できた例はまったくないし、市民の中でもっとも外界指向の強い人々も同様だ。トランスミューターもその歴史のどこかの時点で同じ問題をかかえていたことは、疑う余地がなかった。 むろんトランスミューターはすでに、《ディアスポラ》を惑星スウィフトへ、さらにその先へと駆りたててきた、とても巨大で、完璧な死に満ちた天空の機械の存在に気づいているだろう。だからトランスミューターの問いは、こんなふうになるはずだ。「なぜあなたがたはこれほど遠くまで来たのか? なぜ自らの同朋を置き去りにしてきたのか?」 ヤチマは、自分とともに旅している者の答えを代弁することはできなかったが、自分の分の答えはスケールの正反対の端に、とても単純でとても小さな領域にあった。
孤児発生 《コニシ》ポリス、地球 二三 三八七 〇二五 〇〇〇 〇〇〇 連合標準時 二九七五年五月十五日、十一時〇三分十七秒一五四 グリニッジ時〈創出〉は非知性ソフトウェアで、《コニシ》ポリスそのものと同じ時代に起源をもつ。その主目的は、ポリスの市民が子孫をもてるようにすることだ。ひとり、またはふたり、あるいは二十人の親をもつ子どもを、部分的には親たち自身の姿から、部分的には親たちの望みに従って、部分的には偶然にゆだねて、形成すること。だが散発的に、具体的には一兆タウかそこらごとに、〈創出〉は親をまったくもたない市民、すなわち孤児を作りだしていた。《コニシ》では、ポリス生まれの市民はみな、精神種子から育てられる。精神種子とはデジタル版ゲノムにあたる命令コードの列だ。九世紀前にポリスの創設者たちが、神経発生の本質的プロセスをソフトウェア内で再現する〈シェイパー〉のプログラミング言語を考案して、精神種子第一号が DNAから翻訳された。けれど、そうした翻訳はどれも、生化学的な細部を機能的にほぼ等価な仕掛けと置き換えて体裁を繕ったものにすぎず、必然的に不完全であり、肉体人のゲノムの多様性をまったく損わずに移しかえることはできなかった。はじめから遺伝形質プールの規模が縮小されている上に、 DNAベースの古いマップが摩耗していく中で、新しいバリエーションの精神種子への影響を策定することは、〈創出〉にとって重大な課題だった。変化を完全に避けていては停滞の危険をまねくかもしれないが、かといって変化を無頓着にうけいれてもあらゆる子どもの正気を危険にさらしかねない。《コニシ》精神種子は十億のフィールドに分割されている。フィールドとは六ビット長の短いセグメントで、各々がひとつの単純な命令コードを含む。数ダースの命令のシークエンスがシェイパー──精神発生の際に用いられる基本的サブプログラム──を構成する。相互作用する千五百万のシェイパーで起きる、過去に例のない突然変異がおよぼす影響を、事前に予測するのは不可能に近かった。ほとんどの場合、もっとも信頼できる予測手段は、変異した種子それ自体がおこなうであろうあらゆる計算をおこなってみることであり……それはじっさいに種子を育てて精神を作りだすのと同じことで、予測でもなんでもない。〈創出〉が蓄積してきた技術的な知識は、《コニシ》精神種子の注釈つきマップの集合として表現されていた。マップの中でも最高レベルのものは精巧な多次元構造物で、種子自体を桁違いに小型化したものだ。その一方、何世紀ものあいだ《コニシ》市民が〈創出〉の作業の進行状況を判断するのに使ってきた、ごく単純なマップもある。そのマップは十億のフィールドを緯線、六十四の可能な命令コードを経線としてあらわしている。個々の種子は、そのマップを上方から下方へ、途中のあらゆるフィールドで命令コードをひとつずつ選びながらジグザグに走る経路としてあらわされるわけだ。 ひとつのコードだけが精神発生を成功させられることが知られている場所では、マップ上の経路という経路は孤島か狭い地峡に収束して、海の青い色を背景に黄土色に映えていた。そうした場所は基盤フィールドと呼ばれ、あらゆる市民が共通してもっている基本的精神構造を形成し、精神全体を支配するデザインと、不可欠なサブシステムの細部の両方を作りだす。 別の場所では、マップは広大な陸塊や散在する群島のかたちで可能性の範囲をあらわしていた。これは形質フィールドと呼ばれ、選択されたひと組のコードを各市民に提供する。コードの組のそれぞれは精神構造の細部に既知の影響をあたえ、その影響は、個人間で差の大きい固有の気質や美意識のように極度に高度なものから、肉体人の手の皺よりも重要性の低いわずかな神経組織の差異にまでおよぶ。形質フィールドは形質にあらわれる影響を反映して、コントラストがきつかったり、単調だったりする、緑色の濃淡を帯びていた。 フィールドの残りの部分は、まだ種子にあたえる変化がテストされておらず、それゆえ予言が不可能な部分であり、未確定と分類されている。そこでは、既知の標識となるテストずみのコードは、白地に灰色で示されていた──あらゆるものを隠している雲の帯の東端あるいは西端に突きだす山の頂のように。遠くからではそれ以上の細部は見わけられないし、雲の下になにがあるかはじっさいにそこへ行ってみなければわからない。〈創出〉が孤児を作りだすときは、模倣すべき、あるいは満足させるべき親というものがいないので、良性の変異が起きやすい形質フィールドのすべてに、ランダム抽出した妥当なコードをセットする。それから未確定フィールドを千個選択し、それをほぼ同じかたちで処理する。千個の量子サイコロをふって、未知の土地を通るルートをランダムに選ぶわけだ。孤児はみな、未踏査領域のマップ化に送りだされる探検家だった。 そして孤児はみな、本人自体が未踏査領域でもあった。〈創出〉は、新しい孤児の種子である一本きりの情報の鎖を、子宮のゼロクリアされたメモリの中央に置いた。種子はそれ自身にとってはなんの意味ももたない。単独のそれは、星ひとつない虚空を疾走するモールス信号の最後の部分だとしてもおかしくない。だが子宮というヴァーチャル・マシンは、そこからポリスそのものにいたるさらに一ダースのソフトウェアの層や、せわしなく切りかわる分子スイッチが作る格子と同様に、種子の命令を実行するために設計されている。種子である一連のビットは受動的データの列であり、なにをすることも、なにを変えることもできない──けれど子宮にはいると、種子のもつ意味は、子宮の下にある全レベルの不変のルールすべてと完璧にひとつながりになった。ジャカード紋織機にあたえられたパンチカードのように、種子は抽象的メッセージであることをやめ、機械の一部分と化したのだ。 子宮が種子を読みとると、種子の最初のシェイパーが周囲の空間を単純なデータのパターンで満たした。同じ一連の数の波列が、きれいにつらなる十億の砂丘のように、虚無に彫りこまれる。これによって、各々の点は同じ傾斜のすぐ上またはすぐ下の隣接する点との区別をつけられたが、それぞれの波の頂点はほかのすべての頂点と同一なままだし、それぞれの波の谷についても同様だった。子宮のメモリは三つの次元をもつ空間として設定され、各々の点にストアされた数はもうひとつの次元を意味する。なので砂丘は四次元だった。 最初の波に対して斜行し、ゆっくりと一定の割合で隆起するよう変調された次の波が加えられ、波の尾根のそれぞれに高さを増していく小丘のつらなりを刻んだ。そしてもうひとつ、さらにもうひとつと打ちつづく波のそれぞれがこのパターンを強化していき、その対称性を複雑化し、壊して──方向が定義され、勾配が増加し、スケールの階層が確立された。 四十番目の波がこの観念上の土地を洗うころには、そこには最初にあった結晶のような規則性は痕跡もなく、畝とそのあいだの溝が指紋のように渦を巻いていた。かならずしもあらゆる点がほかとは違うものへと変わっているわけではない──だが、この先あらわれてくるあらゆるものの枠組みとして機能するのに足るだけの構造が作りだされていた。そこで種子は自身の百のコピーに、用意されたての土地に散らばるよう命令した。 以上のプロセスが二度目に反復される際、子宮はすべての複製された種子を読み、そして最初は、複製された種子の発する命令はどこでも同じだった。だがそれから、ひとつの命令が次のようなパターンを呼んだ。各々の種子が読みとられたあと、周囲のデータの特定のパターン──特徴的だがそこ以外でも見られる特定の形状の畝のつらなり──に隣接した次のフィールドへ、ビット列沿いに前方へジャンプするようなパターンを。種子が埋めこまれた場所の地形はそれぞれで異なるので、この命令に合致する標識は場所ごとに位置が異なり、子宮は種子ごとに異なる部分から命令を読みとるようになった。複製された種子自体はこの時点でもすべてが同一だが、いまや各々の種子は異なる組みあわせのシェイパーを周囲の空間にまき散らせるようになり、精神胚──萌芽期の精神──のさまざまな特殊化された領域の基礎構造が準備された。 この技法は太古からあるものだ。つぼみをつける花の幹細胞は最初なんの特徴ももたないが、自ら設定した化学的合図のパターンに従って、萼片や花弁、雄しべや心皮に分化する。昆虫のさなぎが浸かっているタンパク質の勾配は、その量の違いによって、腹部、胸部、頭部のそれぞれを形成するのに必要な異なる一連の遺伝子活動を誘発する。このプロセスのエッセンスをすくいとったのが、《コニシ》のデジタル・バージョンだ。個別のしるしをつけて空間を細分化してから、その個別のしるしに以後の全命令の動作を変化させて、特殊化されたサブプログラムのスイッチをオン‐オフする──そしてこんどはそのサブプログラムが、よりこまかいスケールでサイクル全体を繰りかえして、荒削りな最初の構造が徐々に奇跡的なほど精密な金線細工状に変化していく。 反復が八回目になるまでには、子宮のメモリには精神種子のコピーが百兆も含まれていた。もうそれ以上の数は必要ない。種子の大半は周囲の土地にあらたなディテールを刻みつづけている──だがいくつかは、シェイパーをまき散らすのを完全にやめ、シュリーカーを走らせはじめた。シュリーカーは簡潔な命令のループで、種子間に生じた未発達なネットワークにパルス流を供給する。そのネットワークの通路が、シェイパーの作ったもっとも高い畝であり、パルスはそれより一、二ステップ高いちっぽけな矢尻だ。シェイパーは四次元で作業してきたので、ネットワークそのものは三次元だった。子宮はこうしてできあがってきた構造に生気を吹きこんで、トラックに沿ってパルスを走らせた。そのさまは、軌道が一万層あるモノレールの一兆のジャンクションのあいだを十の十五乗の列車が往復しているかのようだ。 シュリーカーのいくつかは機械的な規則正しさでビット流を送りだし、ほかは擬似ランダムなスタッターを生成していた。パルスがそのあいだを流れていく迷路状構造では、いまもネットワークの形成がつづいていて──まだ除去の決定はまったくおこなわれていないので、ほとんどありとあらゆるトラックがほかのあらゆるトラックとつながったままだった。だがトラフィックによって起動された新しいシェイパーが余分なジャンクションを分解しはじめ、要件を満たす数のパルスが同時に届いたところだけを残していった──無数の選択肢すべての中から、同時発生的に機能できる経路を選んだのだ。こうして形成の進むネットワークにも、袋小路は存在した。だが、もしある程度以上の頻度でそこにパルスが送られていれば、ほかのシェイパーがそれに気づいて延長路を作った。そこを流れる最初のデータ流が無駄になってもかまうことはない。いかなる種類のシグナルでも、最低レベルの思考機械を出現させる役には立つ。 多くのポリスでは、新しい市民は種子から育てられるのではなく、ありふれたサブシステムを直接組みあわせて作りだされていた。しかし《コニシ》方式は、一定の擬似生物学的な頑強性や、継ぎ目のないそれなりのなめらかさを、新しい市民にもたらす。形成過程でいくつものシステムがともに成長しながら、相互作用してたいていの潜在的不整合を自力で解決するので、外部の精神建造者が完成後の全パーツを微調整して不整合が生じないようにする必要はない。 こうした有機的ともいえる柔軟性や妥協が随所に見られる中でも、基盤フィールドは、どの市民でも変わらない数個の規格化されたサブシステム用の領域をきちんと確保していた。そのうちのふたつは流入するデータのためのチャンネルだ──ひとつは〝ゲシュタルト〟用、もうひとつは〝リニア〟用で、このふたつは全《コニシ》市民がもつ基本様式であり、それぞれが視覚と聴覚の遠い子孫にあたる。孤児の二百回目の反復までには、そのチャンネル自体は完成していたが、そのデータの供給先である内部構造、データを分類し意味をなすものにするネットワークはまだ未発達で、試用もされていなかった。《コニシ》ポリスそのものはシベリアのツンドラの地下二百メートルに埋められているが、孤児の入力チャンネルは光ファイバーおよび衛星リンク経由で、ポリス連合のどの公共観境からでも、また太陽系の惑星という惑星、衛星という衛星を周回するプローブからでも、あるいは地球上の森や海を放浪する遠隔操作機からでも、そして千万種類の観境や抽象的な感覚器からでも、データをとりこめた。認知における最初の問題は、この過剰な候補の中からいかにして選択するかを学ぶことだった。 孤児の精神胚の中で、入力チャンネルのコントロールに結線された形成途中のナヴィゲーターが、情報を絶え間なく請求しはじめた。最初の数千の請求に対しては、エラー・コードが淡々と返ってくるばかりだった。請求の形式が不正確だったり、存在しないデータ・ソースに照会していたりしたのだ。だがあらゆる精神胚はポリスのライブラリを見つけるようはじめから偏向させられていて(そうでなければ、数千年かかってしまうかもしれない)、請求をつづけているうちにナヴィゲーターは有効なアドレスにぶつかり、データがチャンネルを通ってなだれこんできた。それはライオンのゲシュタルト映像で、その動物に対応するリニアな単語が添付されていた。 ナヴィゲーターはすぐさまトライアル・アンド・エラーを放棄して、動かないライオンの同じ映像を何度も何度も、痙攣したように繰りかえし要求しはじめた。この繰りかえしによって、やがて形成がはじまったばかりのまったく不完全な変化弁別回路でさえ発火をやめてしまうと、ナヴィゲーターはトライアル・アンド・エラーにふらふらと戻っていった。 しだいしだいに、半ば意図的な妥協が、孤児の二種類の原好奇心──新奇なものを探そうとする衝動と、繰りかえされるパターンを探そうとする衝動──のあいだで生成されていった。孤児はライブラリをブラウズし、関連する情報流のとりこみかたを学んだ。まず、記録された動きの連続映像を、次に、より抽象的なクロスリファレンスの果てしない連鎖を。孤児はなにかを理解していたわけではないが、一貫性と変化の正しいバランスに行きあたったときには、その行動を強化するよう結線されていた。 映像や音声、シンボルや方程式が、孤児の分類されたネットワーク群をどっと通り抜けたが、そのあとには詳細なディテールは残らなかった──漆黒の空を背景に灰色と白の岩の上に立つ宇宙服姿の人間のことも、灰色のナノマシンの群れに埋もれてあわてず騒がず分解されていく裸の人間のことも。だが、もっとも単純な規則性や、もっとも一般的な関連性は刻みこまれた。ネットワーク群は、太陽や惑星の、虹彩や瞳孔の、地面に落ちた果実の、千の異なる芸術作品や製品や数学的図形の映像の中に、円/球を発見した。またネットワーク群は、〝人〟を指すリニアな単語を発見し、それをとりあえず、〝市民〟を指すゲシュタルト・アイコンを定義する規則性と、肉体人やグレイズナー・ロボットの映像多数に共通して見つかる特徴の、両方に結びつけた。 五百回目の反復までには、ライブラリのデータから抽出されたカテゴリーが、入力分類ネットワーク群に多数のこまかなサブシステムを生じさせていた。一万もの単語トラップや映像トラップが、作動するときを待ちうける。それは、情報流を注視して、各々に設定された特別なターゲットを休みなく見張っている、一万のパターン認識偏執狂だった。 そうしたトラップはたがいに結合を形成しはじめ、その結合を最初は判断を共有し、たがいの決定に影響をあたえるためだけに使っていた。たとえばライオンの映像を待ちうけているトラップが作動すると、リニアに表現されたライオンという名前や、ほかのライオンが発したのをきかれたことのある種類の音や、ライオンの行動に共通して見られる特徴(自分の子をなめる、アンテロープを追跡する)を待ちうけているトラップのすべてが過敏になる。流入するデータがリンクされたトラップのクラスター全体を同時に作動させて、トラップ相互の結合を強化することもあるが、熱心すぎる関連トラップが早まって発火をはじめることもあった。たとえば、ライオンの形状をしたものが認識されると、〝ライオン〟という単語はまだ検知されていないのに、〝ライオン〟の単語トラップがとりあえず発火し……〝自分の子をなめる〟や〝アンテロープを追跡する〟のトラップも発火する、というように。 こうして孤児は、予想をしたり、期待をいだいたりするようになった。 千回目の反復までには、トラップ間の結合は独自の精妙さをもつネットワークへと発達し、そのネットワークの中に新しい構造が生じていた。すなわちシンボルであり、それは入力チャンネルからのあらゆるデータによってと同様、ほかの構造によってもかんたんに作動させられるものだった。ライオンの映像トラップは、それ単独では一致か不一致かを表明するために世界にむかってさらされているテンプレートにすぎず、その判定にはなんの含意もない。一方、ライオンのシンボルは、含意の網を際限なく符号化できる──そしてその網はライオンが見えているいないに関係なく、いつでも呼びだされることがありえた。 単なる認識が、意味のかすかなきざしへと道をゆずっていく。 基盤フィールドはリニア用とゲシュタルト用両方の孤児の出力チャンネルを規格どおりに作っていたが、流出するデータに《コニシ》内の、あるいはその先の具体的な行き先をアドレス指定するのに必要なマッチング・ナヴィゲーターは、未作動のままだった。それでも二千回目の反復までには、シンボルどうしが出力チャンネルへのアクセスを争いはじめていた。シンボルは、学習して認識できるようになった音声や映像を、自分のもつトラップのテンプレートを使って物真似した。それが、〝ライオン〟とか〝子〟とか〝アンテロープ〟とかいうリニアな単語を虚無にむかってつぶやくのと同じことだとしても、かまいはしない。それによって入力と出力のチャンネルが内部で結線されたのだから。 孤児は自分自身の思考をきくようになったのだ。 無秩序な混沌の全体を、ではない。孤児はなにもかもに同時に音声を──あるいはゲシュタルトでさえ──あたえることはできなかった。ライブラリから入力される場面という場面が喚起する無数の関連性のうちから、まだ初期状態の言語生成ネットワークのコントロールを獲得できるのは、いちどきに二、三のシンボルだけ。だから、鳥たちが空で輪を描き、草がなびき、獣たちが通ったあとに塵や虫が雲のように舞いあがり──そしてもっとずっとたくさんのことが起きていても……場面全体が消え去る前に勝利をおさめるシンボルは、「アンテロープを追跡するライオン」 なのだった。 ナヴィゲーターは驚いて、外部からなだれこむデータを遮断した。チャンネルからチャンネルへ循環するリニアな単語が、沈黙を背景に際だった。ゲシュタルトな映像が、追跡の本質──忘れられたディティールをすべて削除して観念的に再構築されたその場面──を何度も何度も呼びおこす。 そこでメモリは黒くフェードして、ナヴィゲーターがふたたびライブラリに接触する。 孤児の思考全体は決してひとつに収束して整然としたかたちで進んでいくことはなく、むしろ数々のシンボルが前よりも豊かで、より精妙に整列したかたちで発火するようになっていった。正のフィードバックが焦点を狭め、精神は自分の中にあるもっとも強力な考えと共鳴する。こうして孤児は、シンボルを構成する千本の果てしない糸の中から一、二本を選びだすことを学んだ。それ自身の体験を物語ることを。 孤児はいまや、ほぼ五十万タウ歳だった。一万語のボキャブラリー、短期記憶、数タウ先の未来予測、それに単純な意識の流れなどをもっている。しかし、〝自分自身〟なるものが世界に存在するという考えは、まだ浮かびもしなかった。〈創出〉は発達中の精神を反復終了ごとにマップし、ランダムに変異させた未確定フィールドの影響を綿密にトレースしていた。知性をもつ存在が同じ情報を観察していたら、こんな光景を思い浮かべただろう──フィールドが読みとられて反応し、その影響がネットワークからネットワークへ広がるのにあわせて、噛みあう繊細な千のフラクタルが、もつれあう、羽毛状の、無重力下で作られた結晶のように、どんどん細くなる枝を送りだして子宮を縦横に刻みつけていく光景を。〈創出〉はなにも思い浮かべはしなかった。単に情報を処理し、結論を出しただけだった。 これまでのところ、突然変異はなんの害も引きおこしていないようだ。孤児の精神内のあらゆる構造は、おおよそ予想どおりに機能し、ライブラリとのトラフィックや、標本抽出されたほかのデータ流に、初期の全体的異常は見られなかった。 もし精神胚に損傷が見つかった場合、〈創出〉が子宮内に手をのばして、奇形の構造をひとつ残らず修繕することを止めるものは原則としてなかったが、そもそも種子を育てた結果どうなるかが予想不能なのと同様、その修繕の結果も予想不能だ。局所的な〝手術〟は、時として精神胚のほかの部分との不適合をまねくことがあるが、一方、絶対確実に成功する広範囲で徹底したほかの手段といえば、オリジナルの精神胚を跡かたもなく消滅させて、過去の健全な精神胚からクローンしたパーツの寄せ集めと置換するという、自滅的なものでしかなかった。 しかし、なにも手を打たなければ、それはそれでリスクがある。精神胚に自己認識が芽生えたなら、その精神胚は市民権をあたえられ、同意なしの干渉は不可能になってしまう。これは単なる習慣や法の問題ではない。それはポリスのもっとも深いレベルに組みこまれた原理だった。精神異常に陥った市民は、援助を認可することも、消滅を選択することもできないほど損傷した精神をかかえたまま、一兆タウを混乱と苦痛の中で送ることになるかもしれない。それが自律の代償だった。それは狂気と苦悩に陥る権利で、剥奪不能であり、孤独と平和を得る権利と不可分だった。 ゆえに《コニシ》の市民は、あやまちをおかすなら慎重すぎるがゆえにそうなるように、〈創出〉をプログラムしていた。〈創出〉は、機能不全の徴候が見えたらすぐに精神発生を終了させるよう備えつつ、子細に孤児の観察をつづけた。 五千回目の反復からまもなく、孤児の出力ナヴィゲーターが発火をはじめ──そして、主導権争いがはじまった。出力ナヴィゲーターは、フィードバックを探し、反応を示しただれかあるいはなにかに呼びかけるよう結線されている。しかし入力ナヴィゲーターはポリスのライブラリにのみ接続することがずいぶん前から慣習化していて、その習慣によって強力な報酬を得てきた。どちらのナヴィゲーターも、相手とひとつながりになり、同じアドレスに接続する衝動を結線されていて、これが市民に、きくのとしゃべるのを同じ場所でおこなうという、会話する上で有用な技術をあたえていた。だがそれは、孤児の無意味な発話とアイコンがライブラリに直接逆流し、完全に無視されることを意味した。 このとりつく島もない無関心に直面した出力ナヴィゲーターは、変化弁別回路ネットワークに抑制シグナルを送りこみ、ライブラリの催眠術ショー的な魅力を減じて、そのショーにとらわれていた入力ナヴィゲーターを引きずりだした。優雅さも秩序もない舞いを舞うように、両ナヴィゲーターは密着したまま、観境から観境へ、ポリスからポリスへ、惑星から惑星へとジャンプしてまわりはじめた。話しかける相手を探して。 その途中で両ナヴィゲーターは、物質世界の千の光景をランダムに一瞥した。火星の北極の氷冠をとりまく砂丘のうねりを渡って吹きすさぶ、砂塵嵐のレーダー映像。赤外線がかろうじてとらえた、天王星の大気中で分解する小さな彗星からあがる煙──これは数十年前のできごとだが、人工衛星の弁別メモリの中に残っていたものだ。東アフリカのサヴァンナでライオンの群れにむかって蛇行していくドローンからのリアルタイム中継にすら出くわしたが、ライブラリ映像の流れるように動くライオンと違って、その画像の中のライオンは意地を張ってでもいるようにじっとしていたので、数タウ後に両ナヴィゲーターは先に進んだ。 孤児は《コニシ》公共観境のアドレスに出くわし、そこで目にした広場は鉱物質の青や灰色のすべすべした菱形で舗装され、その菱形は定義しづらいさまざまな規則性に満ちているが決して同じパターンは繰りかえさないよう配置されていた。雲が縞模様を描く濃いオレンジ色の空にむけて、噴水が液状の銀のしぶきを飛ばしている。それぞれのしぶきは弧を描いて上昇する途中で鏡状のしずくに分裂し、その輝く小球は羽の生えた小さな子豚に変形して噴水のまわりを飛びかい、たがいの進路を横切っては楽しそうにぶ ーぶ ー鳴いて、そしてもとの水たまりに飛びこんだ。石造りの回廊が広場をとりまき、歩行路の内側には一連の幅広いアーチや凝った装飾の柱廊があった。いくつかのアーチには風変わりなひねりが加えられている──エッシャー風、あるいはクライン風に、不可視の余分な次元の中を斜めに走っているのだ。 孤児はライブラリでそうしたものに類似した建造物を見たことがあり、その大半に対応するリニアな単語も知っていた。この観境そのものにめざましいところはまったくなく、孤児はそれについての言葉はなにも発しなかった。また孤児は、市民が動いたりしゃべったりしている何千もの場面を見てきたが、ここにはそれとは違うところがあるのを敏感に意識していた。その違いがなにかは、まだ明確に把握できていなかったが。ゲシュタルト映像そのものを見てもっぱら孤児が思いだしたのは、以前見たアイコンや、具象芸術のかたちで見たことのある様式化された肉体人で、それは実物の肉体人がもつ制限をはるかに超えて、多様かつ活発だった。ゲシュタルト映像の形態に課せられた制限は、生理学や物理学ではなく、ただゲシュタルトに関する規約にのみ由来していた。形状や細部はさまざまでも、市民のゲシュタルトはなにより重要なひとつの意味を宣言する必要がある──わたしは市民だ、と。 孤児は公共観境に呼びかけた。「みなさん」 市民間のリニアな会話は、人目にさらされてはいるが、音量は落とされていて──観境内の距離に応じて弱められている──孤児には変化のないささやき声しかきこえなかった。孤児はもういちど、「みなさん!」 いちばん近くにいた市民のアイコン──高さ約二デルタの、ステンドグラスの彫刻に似た、まばゆい多色の人影──が、孤児のほうをふりむいた。孤児の入力ナヴィゲーターにもともと組みこまれている構造が、視角をそのアイコンとまっすぐむきあうよう回転させる。出力ナヴィゲーターはその動きに従うよう強制され、その時点で意図せずして相手の市民の幼稚なパロディになっていた孤児自身のアイコンを、視角にあわせてふりむかせた。市民が青と金色に光る。その半透明な顔が笑みを浮かべ、そしてこういった。「こんにちは、孤児」(ついに反応が得られた!)出力ナヴィゲーターのフィードバック検知器は、退屈のあまり叫びちらしていたのをやめ、探索の原動力となっていた欲求不満を静めた。そして、このかけがえのない発見に割りこんで気をそらしかねないあらゆるシステムを抑圧するシグナルを精神にあふれさせた。 孤児はオウム返しにいった。「こんにちは、孤児」 市民はまた笑みを浮かべ、「ああ、こんにちは」というと、また自分の友人たちにむきなおった。「みなさん! こんにちは!」 なにも起きない。「市民諸氏! みなさん!」 その集団は孤児を無視した。フィードバック検知器は、いちど出した満足度評価を撤回し、ナヴィゲーターをふたたび欲求不満な状態にした。欲求不満のあまりよそへ立ち去るほどではなく、その公共観境内で動きまわる程度に。 孤児は、「みなさん! こんにちは!」と叫びながら、せかせかとあちこちへ移動した。その移動は運動量も慣性も重力も摩擦も無視していて、入力ナヴィゲーターのデータ請求中の最下位の数ビットを微調整しているにすぎず、観境はそれを孤児の視点の位置と角度として解釈していた。それと調和する出力ナヴィゲーターのビットが、孤児の発話とアイコンがどこでどのように観境に溶けこまされるかを決定していく。 ナヴィゲーターは、声をききとってもらいやすくするために、もっと市民たちに近づくことを学んだ。何人かが反応を──「こんにちは、孤児」──返してから、よそをむいた。孤児はその人たちのアイコンを本人たちにむかって送った。アイコンには単純化されたものも複雑なものも、華麗なものも質素なものも、模擬生物学的なものも模擬人工的なものもある。その外観も、光る煙で螺旋状に縁どりされていたり、しゅ ーっと音を立てるほんものさながらの蛇がいっぱいにつまっていたり、あざやかなフラクタルの象眼で装飾されていたり、無地の黒に覆われていたりした──しかし、頭のおかしい百人の僧が彩色された写本に書きつけた Aの文字のように収拾のつかないバリエーションがある中で、市民たちのアイコンが二足歩行の霊長類であることはつねに同じで、不変だった。 しだいに、孤児の入力分類ネットワーク群は、公共観境にいる市民たちと、ライブラリで見たアイコンのすべてのあいだの違いを理解するようになった。映像とともに、ここにいるアイコンは非視覚ゲシュタルト・タグを放っていた。このタグは肉体人でいえば個人ごとに異なるにおいにあたる特性だが、届く範囲はもっと狭く、ずっと豊かな意味をこめることができる。孤児にはこの新しい形態のデータの意味を理解することはできなかったが、理解の欠落に対して、孤児の情報解析器──遅れて発達してきた構造で、新奇なものやパターンを対象とする検知器の上の、より複雑な新しいレベルとして育った──が反応をはじめた。情報解析器は漠然とした規則性の手がかりをひろいあげ(ここでは、あらゆる市民のアイコンに各人独特で不変のタグがついているぞ)、孤児がその規則性から外れていることに不満を表明した。孤児はこれまでタグを送りかえす手間はかけていなかったが、今回は、情報解析器にせきたてられて、三人の市民のグループに近づくと、そのひとりをタグまで含めてすべて模倣しはじめた。たちまち反応が返ってきた。 その市民は怒鳴った。「すぐにやめろ、このまぬけ!」「こんにちは!」「おまえがおれだと主張しても、だれも信じやしないぞ──とりわけこのおれはな。わかったか? もうあっちへ行け!」その市民の肌は金属質で白鑞の灰色をしていた。その人物は強調のために自分のタグを点滅させた。孤児も同じことをする。「やめろ!」市民は最初のものの横に、別のタグを送りだした。「わかったか? おれはおまえにチャレンジした──そしておまえは反応できなかった。嘘をついても無駄なんだよ」「こんにちは!」「あっちへ行け!」 孤児は釘づけになっていた。これほどの関心を寄せられたのは、はじめてだったから。「こんにちは、市民!」 嫌悪感を誇張表現したかのごとく、シロメの顔が融けるようにたるんだ。「おまえ、自分がだれかわからないのか? 自分自身のシグネチャーを知らない?」 グループの別の市民がおだやかに、「新しい孤児にちがいない──まだ子宮の中にいるんだ。きみたちの最新の友なる市民だよ、イノシロウ。歓迎してやらなくちゃ」 この市民は金茶色の短い柔毛で覆われていた。孤児はそれを見て、「ライオン」といい、この市民を模倣しようとした──するとグループの三人全員が突然笑い声をあげた。 三人目の市民が、「こんどはあなたになろうとしているよ、ガブリエル」 最初の、シロメの肌の市民がいった。「こいつが自分の名前を知らないなら、呼び名は〝阿呆〟で決まりだ」「ひどいこといわないで。わたしの部分同胞が幼かったときの記憶を見せてあげようか」三人目の市民のアイコンは、目鼻のない黒い影絵だった。「こんどはブランカになりたがってるぞ」 孤児は三人の市民を順に模倣しはじめた。三人の反応は、孤児がゲシュタルト映像とタグを送りだすのにぴったりあわせて、意味不明の奇妙なリニア音声を繰りかえすというものだった──「イノシロウ! ガブリエル! ブランカ! イノシロウ! ガブリエル! ブランカ!」 短期パターン認識器が関連性を理解したので、孤児はリニア音声での繰りかえしに加わった──そしてほかの三人が黙りこんでも、しばらくそれをつづけていた。だがそのまま数回同じことをつづけると、パターンは新奇さを失っていった。 シロメの肌の市民が胸の前で手を握って、「おれはイノシロウだ」 金色の毛の市民が胸の前で手を握って、「ぼくはガブリエル」 黒い影絵市民は手の輪郭に白い細線を浮かべて見わけがつくようにしてから、その手を胴の前にもってきて、「わたしはブランカ」 孤児はそれぞれの市民をいちどずつ模倣し、いま各人がしゃべったリニアな単語をしゃべり、手の動きを猿真似した。三人それぞれに対応するシンボルが形成され、タグまでついた各人のアイコンとリニアな単語を結びつけた──しかしながら、タグとリニアな単語はまだほかのなにとも結合されていなかったが。 全員に〝イノシロウ〟という言葉をいわせることになったアイコンをもつ市民が、「ここまではうまくいったな。しかし、こいつはどうやって自分自身の名前を手にいれるんだ?」 タグが〝ブランカ〟と結びついている市民が、「孤児は自分で自分に命名するの」 孤児はそれを繰りかえした。「孤児は自分で自分に命名するの」〝ガブリエル〟と結びついている市民が、〝イノシロウ〟と結びついている市民を指さして、「この人は──?」というと、〝ブランカ〟と結びついている市民が「イノシロウ」 すると、いま答えた市民を、〝イノシロウ〟と結びついている市民が指さして、「この人は──?」といい、こんどは、〝ブランカ〟と結びついている市民が「ブランカ」と応じる。孤児もそこに加わり、観境内の位置関係に意味を見出すのを助けてくれる組みこみシステムに誘導されて、ほかのだれかが指さした場所を指さし、やがて、指さしている人がほかにだれもいないときでさえ、楽々とパターンを完成させるようになった。 すると、金色の毛の市民が孤児を指さして、「この人は──?」 入力ナヴィゲーターが孤児の視角を回転させて、その市民が指さしているものを見ようとした。だが孤児の背後にはなにも見つからなかったので、入力ナヴィゲーターは視点を後退させて、金色の毛の市民に近づけ──ちょっとのあいだ、出力ナヴィゲーターとの歩調が乱れた。 突然、孤児は自分が投影しているアイコン──三人の市民のアイコンの幼稚な混合物で、黒い毛と黄色の金属だらけ──を見ていた。交差接続されたチャンネルからはいってくるいつものおぼろな心的イメージとしてだけでなく、ほかの三人の横に立つ鮮明な観境内物体として。〝ガブリエル〟と結びついている市民が指さしているのは、そのアイコンだった。 情報解析器は狂乱し、進行中のゲームを規則性に沿って完成させられなかった──この不思議な四人目の市民に関する質問に答えられなかった──だが、パターンに生じた穴は埋められる必要があった。 孤児は四人目の市民が観境の中で形と色を変化させるのを見つめ……その変化は孤児自身のでたらめないらだちの気持ちを完璧に反映していた。ほかの三人の市民のひとりを模倣することもあれば、ゲシュタルトに可能な表現をもてあそんでいるだけのこともあった。そのことがしばらくのあいだ規則性検知機を魅了したが、情報解析器はもっといらいらさせられただけだった。 情報解析器は手もとの全要素を結合させ、再結合させて、短期目標を設定した。シロメの肌をした〝イノシロウ〟のアイコンを、四人目の市民のアイコンが変化しつづけているのと同じように変化させること。この目標設定が引き金になって、関連するシンボル群──望んだできごとの心的イメージ──が期待でかすかに発火した。だが、市民アイコンがのたくったり脈打ったりするイメージはゲシュタルト出力チャンネルのコントロールを楽々と手にしたものの、変化したのは〝イノシロウ〟アイコンではなく……あいかわらず、四人目の市民のアイコンだけだった。 入力ナヴィゲーターが出力ナヴィゲーターとの協調をとり戻して同じ場所に注意をむけると、四人目の市民が突然消えた。情報解析器が両ナヴィゲーターを引き離すと、四人目の市民がふたたびあらわれた。「こいつ、なにしてるんだ?」ときいた〝イノシロウ〟市民に、〝ブランカ〟市民が答えた。「まあ黙って見てなさいって。そのうちわかるでしょ」 新しいシンボルがすでに形成されつつあった。奇妙な四人目の市民を表示したものだ。ただひとりその市民のアイコンだけが、観境内の孤児の視点と相互に関連しているように見え、ただひとりその市民の行動だけは、孤児にも非常にやすやすと予想しコントロールできた。(すると、四人の市民は全員が同じ種類の存在なのか──ライオンや、アンテロープや、円がそれぞれすべて同じだったように──それともそうではないのか?)シンボル間の結合は仮のもののままだった。〝イノシロウ〟市民が、「もう飽きた! こいつの子守は、だれかほかのやつにまかせよう!」といって、踊りながらグループのまわりをまわった──〝ブランカ〟と〝ガブリエル〟のアイコンを順に模倣してから、自分本来の形態に戻った。「わたしの名前はなに? わからないです! わたしのシグネチャーはなに? もってないです! わたしは孤児です! わたしは孤児です! 自分の外見すら知らないんです!」〝イノシロウ〟市民がほかのふたりのアイコンを身に帯びたのを知覚した孤児は、混乱のあまり分類体系を放棄しかけた。〝イノシロウ〟市民のいまのふるまいは、前よりも四人目の市民に似ていて──けれど、その行動はいまも、孤児の意図とは一致しなかった。 孤児がもつ四人目の市民に対応するシンボルは、その市民の外見と観境内の位置にあわせて変わりつづけていたが、同時に、孤児自身の心的イメージと短期目標の本質を純化して、孤児の精神状態の諸相のうちで四人目の市民のふるまいとなんらかの結びつきがありそうなものすべての要約を作りはじめてもいた。けれど、シンボルのほとんどは明確に定義された境界をもってはいない。大部分はプラスミドを交換するバクテリアのように、ほかのシンボルの浸透を許し、混じりあっていた。〝イノシロウ〟市民のシンボルは精神状態に関する構造のいくつかを、四人目の市民のシンボルからコピーして、自分で試しはじめていた。 最初、高度に要約された〝心的イメージ〟と〝目標〟を表現する能力は、まったく役に立たなかった──その能力はまだ孤児の精神状態とリンクされていたのだから。闇雲にクローンされただけの〝イノシロウ〟シンボル内の機械的構造は、〝イノシロウ〟市民が孤児自身の思うとおりにふるまうと予想しつづけ……そしてそんなことはまったく起こらなかった。この繰りかえされる失敗を前にして、リンクはあっという間に衰退し──そして〝イノシロウ〟シンボル内に残された小さな未完成の精神モデルは独自に、市民本人のじっさいのふるまいともっとも一致度の高い〝イノシロウ〟精神状態を見つけようとした。 シンボルはもっとも意味をなすものを探し求めて、さまざまな結合、さまざまな理論を試し……やがて孤児は不意に、さっき〝イノシロウ〟市民が四人目の市民を模倣していたという事実を理解した。情報解析器はこの発見に飛びつき──逆に四人目の市民に〝イノシロウ〟市民を真似させようとした。 四人目の市民が宣言する。「わたしは孤児です! わたしは孤児です! 自分の外見すら知らないんです!」〝ガブリエル〟市民が四人目の市民を指さして、「こいつは孤児だ!」といい、〝イノシロウ〟市民もうんざりした声で同意した。「こいつは孤児だ。だからって、どうしてこんなにのろまなんだ!」 ひらめきを得て──つまり情報解析器に強制されて──孤児は「この人は──?」のゲームをもういちどやろうとした。こんどは、四人目の市民に〝孤児〟という返事をあてはめて。ほかの三人の反応もその選択がまちがいでないことを裏づけていて、すぐにその単語は四人目の市民に対応するシンボルに結びつけられた。 孤児の三人の友人たちは観境から去ったが、四人目の市民はあとに残った。しかし四人目の市民が興味深い驚きを孤児に提供する能力は品切れになっていたので、孤児はほかの何人かの市民を無駄にうっとうしがらせてから、ライブラリに戻った。 観境内で途中まで形成されたパターンを完成させる方法を探そうとした情報解析器は、ライブラリで使われている索引スキームのうちもっとも単純なものをすでに学んでいた入力ナヴィゲーターを操って、さっきの四人の市民が発していた謎のリニアな言葉に言及しているライブラリ内の場所に行くことができた。イノシロウ、ガブリエル、ブランカ、孤児。そうした単語のそれぞれが索引としてつけられたデータ流が存在したが、そのどれひとつとして市民本人には結びついていないようだった。たとえば孤児は、〝ガブリエル〟という単語と関連した肉体人の映像──翼をもっていることが多い──をとてもたくさん見たので、そこで見つかった規則性からシンボルをまるごと作りだすことができるほどだったが、その新しいシンボルに金色の毛の市民のシンボルと一致する点はほとんどなかった。 孤児は情報解析器に強制された探索から何度もふらふらと離れた。メモリに刻みこまれたライブラリ内の古いアドレスが、入力ナヴィゲーターを引き寄せる。垢まみれの肉体人の子どもが空っぽの木の椀をさしだしている場面を見ているうちに、孤児は退屈して、もっとなじみのある領域に戻ろうとした。その途中、大人の肉体人が途方に暮れている子ライオンの脇にしゃがんで、両腕でかかえあげる場面に出くわした。 血まみれでぴくりともしない雌ライオンが、そのうしろの地面に倒れている。肉体人は子ライオンの頭をなでた。「かわいそうなちっちゃなヤチマ」 その場面のなにかが、孤児を釘づけにした。孤児はライブラリにむかってささやいた。「ヤチマ。ヤチマ」その単語を耳にしたことはそれまでいちどもなかったが、その音は低く鳴り響いた。 子ライオンが哀れっぽく鳴いた。肉体人はあやすような声で、「わたしのかわいそうなちっちゃな孤児ちゃん」 孤児はライブラリと、空がオレンジ色で飛びまわる豚がいる噴水のある観境のあいだを行き来した。三人の友人たちがそこにいるか、ほかの市民がしばらくいっしょに遊んでくれることもあったし、四人目の市民しかいないこともあった。 四人目の市民は観境を訪問するたびに、ほぼ毎回、外見を変えていた──訪問前の数千タウにライブラリで目にしたいちばん印象的なイメージに似せようとしたのだ。だが、それでも四人目の市民はかんたんに見わけがついた。ふたつのナヴィゲーターが離れたときにだけ見えるようになるのは、四人目の市民だけだったから。観境にやってくるごとに、孤児は自分から離れて、四人目の市民を調べた。時として、孤児はアイコンを調節し、それを特定の記憶にある形状に近づけたり、入力分類ネットワーク群の美的嗜好──最初に数ダースの形質フィールドによって開拓され、その後のデータ流によって深められたり埋めたてられたりしてできたもの──にあうよう微調整することもあった。また孤児はときおり、子ライオンをひろいあげているところを見た肉体人を模倣した。すらりと背が高く、黒々とした肌と茶色の目をもち、紫色の衣服を着た姿を。 そしてあるとき、〝イノシロウ〟と結びつけられている市民が悲しげなふりをして、「かわいそうなちっちゃな孤児よ、まだ名前がないとは」といったのをきいた孤児は、あの場面を思いだすと、こう答えた。「かわいそうなちっちゃなヤチマ」 金色の毛の市民がいった。「もうあるようだぞ」 それ以降、グループの全員が四人目の市民を「ヤチマ」と呼んだ。四人はその言葉を何度となく口にし、派手に騒ぎたてたので、孤児はたちまちヤチマという言葉を〝孤児〟という言葉と同じくらい強力に、そのシンボルと結びつけた。 孤児は〝イノシロウ〟と結びつけられている市民が四人目の市民にむかって誇らかに歌うような口調で、「ヤチマ! ヤチマ! ハハハ! おれには親が五人と、部分同胞が五人いて、この先いつでもおまえより年上なんだ」 孤児は四人目の市民に答えさせた。「イノシロウ! イノシロウ! ハハハ!」 だが孤児は、それにつづいてなにをいったらいいか思いつけなかった。 ブランカがいった。「グレイズナー連中が小惑星の進路調整をしているの──たったいま、リアルタイムで。見にいきたい? イノシロウはそこに行っているし、ガブリエルもよ。わたしについてくればいいから!」 ブランカのアイコンは見慣れぬ新しいタグを出すと、いきなり姿を消した。公共観境にほとんど人けはなかった。噴水の近くにほんの数人常連がいるが、それは相手をしてくれないだろうとわかっている顔ぶればかりで、ほかにはいつもどおり、四人目の市民がいるだけだ。 ブランカがふたたび姿をあらわし、「どうしたの? わたしについてくる方法を知らないのか、それとも行きたくないのか?」 孤児の言語分析ネットワーク群は自らに符号化された普遍文法の微調整にすでに着手していて、急速にリニアの慣習になじみつつあった。その結果、単語は各々がシンボルの引き金を引く、単一の確固とした意味をもつだけの孤立した存在以上のものに変わっていた。微妙な規則や文脈や語形変化といったものが、複数のシンボルからひとつらなりの意味を生みだすようになったのだ。たとえばいまのブランカの言葉は、四人目の市民がなにを望んでいるかを知りたいという請求だった。「わたしと遊んで!」孤児は四人目の市民を、〝ヤチマ〟ではなく、〝わたし〟と呼ぶことを学んでいたが、それは文法の問題にすぎず、自己認識ではなかった。「わたしは進路調整を見たいのよ、ヤチマ」「だめ! わたしと遊んで!」孤児は興奮してブランカのまわりをジグザグに走りまわり、最近の記憶の断片を投影した。ブランカが共有観境内物体──番号のついた回転するブロックと、明るい色の弾むボール数個ずつ──を作りだし、それと相互作用する方法を孤児に教えているところ。「わかった、わかったから! じゃあ、新しいゲームね。あなたののみこみが早いといいんだけど」 ブランカはさっきとは別の特別タグを発した。前のタグと同じで香りはありふれたものだが、同一の香りではない。そしてまた姿を消すと……観境のむこう側の数百デルタ離れたところに即座にふたたび姿をあらわした。孤児は難なくブランカを見つけだし、一瞬でそこへ行った。 ブランカはふたたびジャンプした。そしてもういちど。そのたびにほんの少しずつ異なる新しい香りのタグを送りだしてから、姿を消す。孤児がこのゲームを退屈に感じはじめたちょうどそのとき、ブランカは新しい場所にあらわれる前の数分の一タウ、観境のどこにも姿が見えないようになり──孤児はその時間で次にブランカが出現する場所を推測して、そこへ先に行こうとした。 だが、出現場所にパターンはないように思えた。ブランカである濃い影は、公共観境をランダムにジャンプしてまわる。回廊のどこかから噴水へ。孤児の推測はすべて外れた。いらいらしてきたが……これまでのブランカのゲームにはすぐにはわからないなんらかの規則性があったので、情報解析器は我慢して、現存のパターン検知器を組みあわせ、さらに組みかえて新しい連結を作り、目下の問題にすじ道を通そうとした。(タグだ!)情報解析器が、ブランカの送ってきたタグの生のゲシュタルト・データの記憶を、孤児がその一瞬後にブランカの姿をとらえたときに組みこみの位置関係ネットワークが計算したアドレスと比較すると、ふたつのシークエンスのいくつかの部分がほぼぴったり一致したのだ。毎回毎回。情報解析器がふたつの情報源を結びつける──そのふたつを、同じことを知るためのふたつの手段として認識する──と、孤児は、ブランカがどこに再出現したかをたしかめるまで待たずに、観境内をジャンプしはじめた。 一回目はふたりのアイコンが重なってしまい、孤児は引きかえさざるをえず、ブランカがほんとうにそこにいるのかを確認して、情報解析器が早々と成功を主張しているのを裏づけることができなかった。二回目の孤児は前回の失敗を繰りかえすまいと、視覚でブランカを追っていたときに学んだ方法で反射的にタグのアドレスをわずかに修正して、衝突を起こさないようにした。三回目に、孤児はブランカより先に再出現場所に着いた。「わたしの勝ち!」「よくできました、ヤチマ! あなたはわたしについてこれた!」「わたしはあなたについていけた!」「じゃあ、進路調整を見にいかない? イノシロウやガブリエルのいるところに?」「ガブリエル!」「いまのはイエスってことにするわ」 ブランカはジャンプし、孤児はあとにつづいた──すると回廊に囲まれた広場は溶けるようにして十億の星に変わった。 孤児は見慣れぬ新しい観境をじっくり調べた。ブランカと孤児のあいだには、キロメートル長の電波から高エネルギーガンマ放射線にいたる、ほとんどあらゆる周波数で星々が輝いている。ゲシュタルトの〝色空間〟は無限に拡張可能で、孤児はライブラリでいくつかの天文学関係の映像にたまたまぶつかったことがあり、それはここと同じような範囲の色を使っていたけれど、地球上の光景のほとんどや観境の大半は、決して赤外線や紫外線からはみ出すことはなかった。人工衛星からの惑星地表の眺めでさえ、これと比較するとくすんでぼやけたものに感じられる。惑星は冷たすぎて、これほどのスペクトルの幅で輝くことはなかった。色が氾濫する中に、それとなく秩序があることを暗示するものがあった──一連の放射や吸収の線だとか、熱放射のなめらかな等位線などだ。だが圧倒された情報解析器は過負荷に陥って、データをただ単に通過させるにとどまった。あと千以上の手がかりが集まるのを待たなければ、分析をはじめられそうにない。星々には幾何学的な特徴はなかった。点状で、距離は遠く、観境アドレスは計算不能。けれど孤児はつかのま、星々にむかって移動していくという行為を心的にイメージし、一瞬だが星々を間近で見るという可能性を想像した。 孤児はすぐそばに市民の集団がいるのを目にとめ、星々の作る背景幕からいちど注意がそれると、何十ものグループが観境のあちこちに散らばっているのがわかってきた。市民たちのアイコンの中には、周囲の放射を反射しているものもあったが、大半のアイコンが可視状態なのは規則に従っているだけのことで、星の光との相互作用を装っているわけではなかった。 イノシロウがいった。「あれをつれてくる必要があったのか?」 イノシロウのほうをむいた孤児は、ほかのすべての星よりはるかに明るいが、地球の空で見慣れているのよりはずっと小さく、けれどいつもの気体や塵の覆いで濾過されていない星を視覚にとらえた。「太陽?」 ガブリエルが答えた。「そう、あれは太陽だ」金色の毛の市民が浮かんでいる脇には、星間の冷たく弱々しいバックグラウンド放射線よりも暗く、いつもと変わらずくっきりとした外見のブランカがいた。 イノシロウが泣き言をいうように、「なぜヤチマをつれてきた? これは若すぎる! なにも理解できやしない!」 ブランカが、「この人は無視して、ヤチマ」(ヤチマ! ヤチマ!)孤児にはヤチマがどこにいて、どんな外見をしているか、入出力の両ナヴィゲーターを引き離してチェックする必要がまったくなしに、正確にわかった。四人目の市民のアイコンは、ライブラリの映像で子ライオンを世話していた紫色の衣服を着た長身の肉体人の姿で固定していた。 イノシロウが孤児に話しかける。「心配しなくていいぞ、ヤチマ。おれが説明してやるから。もしグレイズナーどもが進路調整しなかったら、三十万年──一万テラタウだ──以内にこの小惑星が地球に衝突する可能性がある。そして早いうちに進路調整するほど、それに要するエネルギーは少なくてすむ。だが、方程式はカオス状態で、これまでは小惑星の接近をじゅうぶんにモデル化できなかったから、グレイズナーどもはいままで進路調整ができなかったんだ」 孤児にはその話がなにひとつ理解できなかった。「ブランカがわたしに進路調整を見てほしがった! だけどわたしは新しいゲームで遊びたかった!」 イノシロウは笑って、「それでブランカはどうした? おまえを誘拐したのか?」「わたしはブランカのあとについていって、ブランカはジャンプしてジャンプして……そしてわたしはブランカについていった!」孤児は話の要点を実演すべく三人のまわりで短いジャンプを数回おこなったが、それではじつのところ、ひとつの観境から別の観境へじかにジャンプするという行為は伝わらなかった。 イノシロウが、「し ーっ。見えてきたぞ」 孤児がイノシロウの視線をたどると、遠くにでこぼこな岩塊があった。太陽に照らされ、半分は深い闇になって、すばやく一定の速さで、市民たちが散らばっているほうにむかって進んでくる。観境ソフトウェアは小惑星の映像を、それの化学組成、質量、回転、軌道パラメータといったデータをそれぞれに含むいくつものゲシュタルト・タグで飾っていた。孤児はそのタグの香りのいくつかにライブラリで接したことがあるのに気づいたが、その意味をまだほんとうには把握していなかった。「レーザーがちょっとそれたら、肉体人どもは苦痛を感じながら死ぬことになるんだ!」イノシロウがシロメの眼をきらめかせる。 ブランカがそっけなく、「やり直そうにも、三十万年しかないしね」 イノシロウは孤児のほうをむいて、安心させるようにいい足した。「だが、おれたちは平気だ。たとえ小惑星が《コニシ》を地球から消し去っても、太陽系じゅうにバックアップがある」 小惑星は観境アドレスとサイズを孤児が計算できるところまで近づいていた。まだいちばん遠くの市民までよりも数百倍離れているが、急速に接近している。待ちうける見物人たちは、大まかに球の表面を形作るように位置していた。球は小惑星そのものの約十倍のサイズで、孤児は即座に気づいたのだが、もし小惑星がいまの軌道を維持していれば、その仮想の球のちょうど中心を通過するはずだ。 市民たちはみな、岩塊を注視している。これはいったいどういうゲームなのだろう、と孤児は思った。孤児の三人の友人を含む観境内のすべての他人を網羅する包括的なシンボルが形成され、このシンボルは四人目の市民がもっていた、物体のふるまいを予想するのにとても役立つことが証明ずみの、物体について確信をいだくという属性を継承していた。(もしかするとここにいる人々は、ブランカがジャンプしたように、岩塊が突然ランダムにジャンプしないかと待っているのでは?)だとしたらこの人たちはまちがっている、と孤児には信じられた。岩塊は市民ではないし、市民たちとゲームをしたりもしない。 孤児はその場の全員に、岩塊の軌道が単純なものであることを知ってほしいと思った。孤児は小惑星についての予測をもういちどチェックしたが、なにも変化はなかった。進行方向も速度も一定のままだ。孤児はそのことを人々に説明する言葉をもたなかった……けれど、人々は四人目の市民を見て学ぶことができるかもしれない。四人目の市民がブランカから学んだようにして。 孤児は観境内で大きくジャンプして、小惑星の進路上に再出現した。空の四分の一が灰色のあばた面になった。太陽方向にあるでこぼこな小丘が、迫りくる表面に帯状の濃い影を投げかけている。しばし孤児は驚きのあまり動けなかった──この物体のスケールや、スピードや、危険で無目的な迫力の虜になってしまったのだ──が、そのあとは岩塊と同じ速度で人々のほうへむかって戻っていった。 人々が興奮して叫びはじめ、その言葉は仮構の真空には影響されなかったものの、観境内の距離に応じて弱められ、混ざりあって、脈打つようなうなりになった。孤児が小惑星からふり返ると、いちばん近くの市民たちが手をふって、身ぶりでなにかを伝えようとしているのが見えた。 孤児の精神に直接接続された四人目の市民のシンボルは、四人目の市民が小惑星の今後の進路を描いてみせ、ほかの市民たちの考えを変えたという結論をすでに出していた。そして孤児がもつ四人目の市民のモデルは、ほかの市民がなにを信じているかについて確信をいだくという属性を獲得し……孤児がもつイノシロウやブランカやガブリエルや人々全体のシンボルは、孤児がやってみせた新機軸をわれ先に自分もやろうとした。 孤児が仮想球の内部にあたるエリアにはいると、人々が笑ったりはやし立てたりするのがきこえてきた。みな四人目の市民のほうを見ているが、孤児はやがて、じつはだれも小惑星の軌道を示してもらう必要などなかったのではないかと考えはじめた。岩塊がまだ進路を保っているか確認しようと孤児がふり返ったとき、小丘の一点が強烈な赤外線を発して輝きはじめ──そして太陽光を浴びた周囲の岩の何千倍もの明るさの光と、太陽自体よりも高温の熱スペクトルをともなって、爆発が起きた。 孤児は凍りつき、その間にも小惑星は接近をつづけた。小丘にできたクレーターから白熱する蒸気の柱が噴きだしている。映像は新しいゲシュタルト・タグであふれ、そのすべてが理解不能だったが、情報解析器は孤児の精神にひとつの約束を焼きつけた──(わたしはこの新しいタグ群を理解できるようになるだろう)。 自分がたどってきた参照地点の観境アドレスをずっとチェックしつづけていた孤児は、小惑星の進行方向に極微の変化が生じているのに気づいた。(あの光の爆発──とこのごくわずかな進路の変化──を見るために、人々は待っていたのだろうか? 人々がなにを知っていて、なにを考えていて、なにを待っているかについて四人目の市民はまちがっていて……いま人々はそのことを知っているのだろうか?)ネットワークが意味と安定性を求めるのにあわせて、含意がシンボル間で跳ねまわり、精神のモデルが精神のモデルを模倣した。 小惑星が四人目の市民のアイコンと重なりあう前に、孤児は友人たちのところへジャンプして戻った。 イノシロウは激怒していた。「なぜあんなことをした? おまえはなにもかも台無しにしたんだぞ! このひよっ子!」 ブランカがやさしくたずねる。「なにを見たの、ヤチマ?」「岩塊は少しだけジャンプした。でもわたしは人々に……そうはならないだろうと考えてほしかった」「この馬鹿! 目立ちたがり屋めが!」 ガブリエルが、「ヤチマ? イノシロウは、きみがなぜ小惑星の動きにあわせて飛んだと考えているのかな?」 孤児は間を置いてから答えた。「わたしにはイノシロウの考えていることがわからない」 孤児がもつ四人の市民たちのシンボルの配置は、以前にも千回は試したことのあるかたちをとった。四人目の市民、ヤチマが唯一の存在として──この場合は、なにを考えているかを孤児が確実に知ることのできる、四人のうちで唯一の市民として──選びだされ、ほかの三人から引き離される。そしてシンボルのネットワークがこの知識をよりうまく表現するかたちを求めるのにつれて、遠まわりな接続路は引きしまり、余剰なリンクは分解しはじめた。 ヤチマのシンボル内に埋めこまれた〝ほかの市民についてヤチマがいだく確信のモデル〟と、ヤチマがもつほかの市民各人のシンボル内の〝ほかの市民のモデル自体〟には、なんの違いもなかった。ネットワークはついにその認識にいたると、不要な中間段階を廃棄しはじめた。ヤチマがいだく確信のモデルが、シンボルを用いた孤児の知識のより広いネットワークのすべてになる。 そして、〝ヤチマの精神についてヤチマがいだく確信のモデル〟が、〝ヤチマの精神のモデルのすべて〟になった。小さな複製でも、不完全な要約でもなく、ループして存在自体に戻っていく、無駄のないただひとつの接続の束に。 孤児の意識の流れは新しい接続に殺到し、少しのあいだフィードバックで不安定になった。(ヤチマが考えているとわたしが考えているとヤチマが考えているとわたしが考えて……) だが、シンボルのネットワークが最後の余剰な部分を特定し、数個の内部リンクを切断すると、無限後退は崩壊して、次のような単純で安定した共鳴に変わった。(わたしは考えている── わたしは自分がなにを考えているかを知っていると考えている) ヤチマはいった。「わたしは自分がなにを考えているかを知っている」 イノシロウがなにげなく言葉を返した。「なぜそんなことをだれかが気にするなんて思うんだ?」〈創出〉は、孤児の精神構造を自己認識についてのポリスの定義に照らして、五千二十三回目のチェックをおこなった。 いまやあらゆる規準が満たされていた。〈創出〉は子宮を走らせている自分の一部に手をのばして、それを停止させ、孤児を停止させた。そして子宮の機構をわずかに修正して、それが独立して走れるようにし、また内部から再プログラムできるようにした。つづいて新しい市民のシグネチャー──ひとつはプライベート鍵、ひとつは公開鍵の、唯一の百万桁の数字──を作製し、それを孤児の〈暗号書記〉に埋めこんだ。〈暗号書記〉は休眠状態の小さな構造で、この数字を鍵として待ちつづける。そのあと〈創出〉は公共用シグネチャーのコピーをポリスにむけて送りだし、それがカタログに記載され、計算できるようにした。 最後に〈創出〉は、先刻まで子宮だったヴァーチャル・マシンをポリスのオペレーティング・システムの手にゆだね、その内容におよぼす力をすべて引き渡した。〈創出〉と切り離されたそれは、流れに浮かべられたゆりかごといったところ。こうしてヴァーチャル・マシンは、新しい市民の界面ソフトになった──市民をつつみこむ貝殻、知性をもたない甲殻に。市民は随意に自分の界面ソフトを再プログラムできるが、ほかのソフトウェアがそれに触れることをポリスは許可しない。このゆりかごは内部からでなければ沈められないのだ。 イノシロウが、「やめないか! こんどはだれのふりをしてるつもりなんだ?」 ヤチマには入出力の両ナヴィゲーターを引き離す必要がなかった。自分のアイコンの外見は変わっていないが、いまではゲシュタルト・タグを送りだしているのがわかる。そのタグは、飛びまわる豚のいる観境を最初におとずれたとき、市民たちが発信しているのに気づいたのと同じ種類のものだった。 ブランカがヤチマに別の種類のタグを送ってきた。その中身は、ヤチマのシグネチャーの公共用の分を使って符号化されたランダムな数字だった。ヤチマがそのタグの意味はなんだろうと思うより先に、ヤチマの〈暗号書記〉が自動的にそのチャレンジに反応した。ブランカのメッセージをデコードし、ブランカ自身の公共用シグネチャーを使ってそれを再暗号化して、それをまた別の種類のタグとして送りかえす。アイデンティティの主張。チャレンジ。反応。 ブランカがいった。「《コニシ》へようこそ、市民ヤチマ」ブランカがイノシロウのほうをむくと、この市民もブランカと同じチャレンジをヤチマに対して繰りかえしてから、小声でむっつりと、「ようこそ、ヤチマ」 ガブリエルが、「そしてポリス連合へようこそ」 ヤチマは儀礼上の言葉というものをよくわかっていなかったので、困惑して三人をじっと見つめ、自分の内部でなにが変化したというのか理解しようとしていた。ヤチマは自分の友人たちを、星々を、観境内の人々を見て、自分自身のアイコンを感じていた……そして、そうした通常どおりの思考や知覚はさまたげられることなく流れつづけていたものの、そのすべての裏の黒い空間から、新しい種類の疑問が飛びだしてくるように思えた。(これを考えているのはだれだ? いま星々や市民たちを見ているのはだれだ。こうした思考やこうした光景について思い悩んでいるのはだれだ?) 返答があったが、その答えは言葉だけによるものではなく、数千のシンボルの中のひとつが発するうなりだった。それは残りのシンボルすべてを代表しようとしていた。ありとあらゆる思考を反映するのではなく、結びつけ、皮膚のようにひとつにつなげようとしていた。(これを考えているのはだれだ? わたしだ) 2 真理採掘 《コニシ》ポリス、地球 二三 三八七 二八一 〇四二 〇一六 CS T 二九七五年五月十八日、十時十分三十九秒一七〇 U T「なにがわからないのかな?」 ラディヤのアイコンは、小枝や大枝でできた骸骨で肉はついておらず、頭蓋はこぶの多い切り株から彫りだされていた。この市民の専用観境はオークの森だ。ラディヤとヤチマはいつも森の中の同じ空き地で会っていた。ラディヤがここでどれくらいの時間をすごしているのかも、あるいは研究中にはつねに抽象的な数学空間に完全に引きこもってしまうのかも、ヤチマは知らない。だが森の複雑で恣意的な乱雑さは、ふたりが呼びだして探求する質素な物体の背景として、妙にふさわしかった。「空間の曲率です。わたしはまだ、それがなにに由来するのか理解できません」ヤチマは、半ダースの黒い三角形を埋めこんだ半透明の小球を作りだして、自分とラディヤのあいだで胸の高さに浮かべた。「もし多様体からはじめたなら、それにどんな幾何学でも好きなように押しつけることができてしかるべきなのではありませんか?」多様体は次元と位相以外なにももたない空間だ。角度もなく、距離もなく、平行線もない。ヤチマがしゃべるのにあわせて、小球はのびたり曲がったりし、三角形の辺はゆれたり波打ったりした。「わたしは、曲率はまったく新しいレベル、お好みしだいでどんなふうにでも書ける新しいひと組のルールの上に存在していると考えていました。だから、そうしたければどこにでもゼロ曲率を選べるのだと」ヤチマはすべての三角形をまっすぐのばして、変形しない二次元の図形にした。「いまではあまり自信がありません。単純な二次元多様体というものがあり、たとえば球がそうですが、その図形をどうやったら平らにできるのか、わたしにはわかりません。ですが、それが不可能であることも証明できないのです」 ラディヤはそれに対して、「円環はどうかな? 円環にユークリッド幾何学をあたえることはできる?」「最初はできませんでした。でも、方法を見つけました」「やってみせて」 ヤチマは小球を消して、円環を作った。幅一デルタ、高さ四分の一デルタで、白い表面は赤い経線と円形の青い緯線で方眼になっている。ヤチマはライブラリで、あらゆる物体の表面を観境としてあつかえるようにする標準ツールを見つけていた。そのツールで、あらゆるものを適切なスケールに変え、架空の光線に円環表面の測地線をたどらせ、市民の側が二次元になる必要がないようにわずかな厚みをつけ加える。ラディヤがついてこれるよう、わざわざアドレスを提示しておいてから、ヤチマは円環の観境にジャンプした。 到着したふたりは、円環の外側の縁──円環の〝赤道〟──に、〝南〟をむいて立っていた。光線が円環表面に密着しているので、この観境は果てがないように見えたが、ヤチマにはラディヤと自分のアイコンのうしろ姿が短い一周分先にはっきりと見えたし、ふたつのうしろ姿のあいだにはその二倍の距離にいるラディヤがちょうど見えていた。森の空き地はどこにも見えない。ふたりの頭上はただまっ黒なだけだ。 真南の眺めはほとんど直線に近く、円環に巻きついた赤い経線が彼方の消失点にむけて収束している。だが東と西では、近くだとほとんどまっすぐで平行に見える青い緯線が、臨界距離に近づくにつれて大きくわかれていった。外側の縁のまわりで円環を周回している光線は、拡大レンズで集められたかのように、発せられた場所と正反対の地点に収束していた──そのため、円環をちょうど半周した赤道上のちっぽけな一点の像が、その北や南のあらゆるものの像を押しのけて視野を占拠している。中間地点の標識の先で青い線はふたたび近づいて、しばらくのあいだ通常の遠近法っぽいものを示すが、ちょうど一周したところからまた同じ現象を繰りかえす。だが今回、標識の先の視野は、水平線を横切ってのびる、上方を黒で薄く縁どられた紫色の広い帯にさえぎられていた──曲率によってゆがんだ、ヤチマ自身のアイコンだ。ヤチマがラディヤから完全に目をそらせていたなら、紫色と黒の縞を部分的に覆い隠している緑色と茶色の縞も見えたはずだ。「この埋めこみの幾何学は、あきらかに非ユークリッド的です」ヤチマは足もとの表面に数個の三角形をスケッチした。「三角形の内角の和は、それがどこにあるかによって変わる。外側の縁に近いここでは一八〇度を超えますが、内側の縁近くでは一八〇度より小さくなる。中間では、平均はほぼ一八〇度になります」 ラディヤはうなずいて、「なるほど。では、どうすればあらゆる場所で平均が一八〇度になるかな──幾何学を変化させることなしに?」 ヤチマが観境内物体にタグの流れを送りだすと、周囲の眺めが変容をはじめた。東西の水平線上でふたりのぼやけたアイコンは縮みはじめ、青い緯線がまっすぐになりはじめた。南のほうでは、直線状だった狭い眺めの範囲が、急速に拡大していた。「円筒を曲げて円環にしたら、円筒の軸に平行な線のそれぞれは、のびて大きさの異なる円になります。それこそが曲率のよってきたるところです。そしてその円のすべてを同じ大きさにしておこうとするなら、円をばらばらのままにしておく手段はありません。その途中で円筒をまっ平らにつぶすしかないのです。ですがそれが真実なのは、三次元においてのみです」 方眼の線はいまやすべて直線になり、あらゆるところで眺めは完全に直線状だった。ヤチマとラディヤは果てのない平面に立っているかのごとくで、じっさいにはそうでないことを示すのは、視野にいくつも見えているふたりのアイコンの像だけだ。三角形もまっすぐになっていた。ヤチマはそのひとつのまったく同一のコピーをふたつ作ると、三つを扇状に組みあわせて、内角の和が一八〇度になることを示した。「幾何学的には、なにひとつ変化していません。わたしは表面を切断も、接合もしませんでした。唯一違うのは……」 ヤチマは森の空き地にジャンプして戻った。円環の外見は変形して高さの短い筒状の輪になった。緯線である大きな青い円はすべて同じ大きさになっている──だが、経線であるそれより小さな赤い円は、のばされた直線になったように見えた。「わたしは各々の経線を、四つめの空間的次元の中に九〇度回転しました。経線が平らに見えるのは、端のほうから見ているからにすぎません」ヤチマはこのやり口を、より低次元の類似物で試してあった。ひと組の同心円にはさまれた帯状の部分を、平面から九〇度回転させて一端で立たせる。余分な次元が作りだす余地が、この帯全体に同じ半径をもたせた。円環の場合も、ほとんど同じことだ。緯線の円のすべては、四つめの次元で異なる〝高さ〟をあたえられて、それぞれを別々のままにしておけるようになっているかぎりは、同じ半径をもつことができる。 ヤチマは円環全体を濃淡がなめらかに変わっていく緑色で再着色して、隠された第四の座標を明示した。〝円筒〟の内側と外側の表面の色が一致しているのは上端と下端の縁だけで、そこで両者は第四の次元で出会っている。ほかのすべての場所では両側の色あいの違いが、両者が別々のままであることを示していた。 ラディヤがいった。「たいへんよくできました。じゃあ、同じことを球でもできる?」 ヤチマはいらだって顔をしかめた。「試してはみました! 直感的には、とにかく不可能に見えるんですが……正しいやり口を見つける前だったら、わたしは円環についても同じことをいったでしょう」しゃべりながら球を作りだして、それを立方体に変形させる。いや、これではだめだ──これでは単に、すべての曲率を八つの角という特異点に集めたにすぎず、曲率を消したわけではない。 「OK。じゃあヒント」ラディヤは立方体を球に戻すと、その上に黒で大きな円を三つ描いた。赤道と、たがいに九〇度離れた二本の完全な経線だ。「これで球の表面は分割されてなにになった?」「三角形。八つの三角形」四つは北半球に、四つは南半球にある。「そして、あなたが表面になにをしようとも──曲げても、のばしても、ひねって千のほかの次元にしても──つねにこれと同じように表面を分割できるはず、違う? 六つの点のあいだに描かれた八つの三角形に?」 ヤチマは試してみた。球を連続して異なる形に変形させる。「いわれたとおりのようです。ですが、それがどうヒントになるんです?」 ラディヤから答えはなかった。ヤチマはすべての三角形を同時に見られるように、物体を半透明にした。八つの三角形は目の粗い網を形作っている。頂点が六つあるネット。紐製の閉じた袋。ヤチマが十二本の辺すべてをまっすぐにすると、三角形は当然平らになって──しかし球は八面体のダイヤモンドに変形し、これでは立方体のときと同様に無意味だった。ダイヤモンドの各面は完全にユークリッド的だが、鋭い六つの頂点は、無限に凝縮された曲率の貯蔵庫さながら。 ヤチマは六つの頂点をなめらかにして平らにしようとした。それはむずかしくはなかったが──その結果、八つの三角形は最初の球の上にあったときと同じように、湾曲して、非ユークリッド的になった。頂点と三角形とを決して同時には平らにできないのは〝明白〟に思えたが……ふたつの目標が両立不能な理由が、ヤチマにはまだ突きとめられなかった。四つの三角形が接している部分──ダイヤモンドの頂点のひとつだったところの周囲──の角度を測ってみる。九〇度、九〇度、九〇度、九〇度。この結果は、完全に意味が通った。平らにして、隙間がまったくできないようにうまくくっつけたなら、四つの角度の和は三六〇度になるはずだからだ。ヤチマは頂点をなめらかにする前のダイヤモンドに戻って、同じ部分の角度を再計測した。六〇度、六〇度、六〇度、六〇度。合計二四〇度では、平らにするには小さすぎる。完全な円より小さなものは、表面を巻きあげて円錐の頂点のようにしてしまう……。(わかった!)これが矛盾の核心なのだ! あらゆる頂点は、平らになるために、その周囲に合計して三六〇度になる角度を必要とする……一方、あらゆる平らな、ユークリッド的三角形は一八〇度しかあたえてくれない。ちょうど半分だ。だから、頂点のちょうど二倍の数の三角形があれば、あらゆる計算がぴったりあう──けれど、六つの頂点に対して八つの三角形だけでは、すべての頂点に行きわたるだけの平らさが足りないことになる。 ヤチマは誇らしげににこりとすると、順を追って自分の論証の過程を話した。それをきいたラディヤはおだやかな声で、「よろしい。あなたはいま、オイラー数と全曲率を結びつけるガウス‐ボネの定理を発見したの」「そうなんですか?」ヤチマはプライドが高まるのを感じた。オイラーやガウスといえば、伝説的な採掘者だ──死んで久しい肉体人だが、その技能に並ぶ者はめったにない。「いまのはいいすぎだけれど」ラディヤはかすかに笑みを浮かべた。「その定理の厳密な表現を調べておきなさい。あなたはリーマン空間を形式的にとりあつかう準備ができていると思う。でも、すべてが抽象的すぎると思えはじめたら、いったん戻って、具体例で考えることをおそれてはいけません」「わかりました」授業が終了したことは、いわれなくてもわかった。ヤチマは感謝のしるしに片手をあげると、自分のアイコンと視点を空き地から引き離した。 少しのあいだ、ヤチマは無観境状態になり、入力チャンネルを自分の思考以外から隔離した。自分がまだ曲率を完全には理解していないのはわかっていた──それについてはほかに何ダースもの考えかたがある──が、少なくとも全体像のかけらをあらたにもうひとつつかんだのだ。 それからヤチマは、〈真理鉱山〉へジャンプした。 ヤチマが着いた先は、黒っぽい岩の壁、灰色の火成鉱物の粒団、くすんだ茶色の粘土、赤錆色の縞、などからなる洞穴状の空間だった。洞穴の床には奇妙な光る物体が埋めこまれている。数ダースの浮遊する閃光を、複雑に組みあわさった薄膜が囲いこんでいるのだ。膜は繰りこまれた同心の集団を形成し、ダリが描いたタマネギの皮のよう──ひとつづきの膜はひとつの閃光を囲む泡になっていて、ときおりふたつか三つの泡の集団になっていることもあった。閃光が漂うのにあわせて、それをどの囲いこみのレベルからもひとつとして逃がさないようなかたちで膜も流れるように動く。 ある意味では、〈真理鉱山〉は索引観境のうちのひとつにすぎない。ライブラリのコンテンツの何十万という専門的な抜粋にも、同様のかたちでアクセスすることができる──たとえばヤチマは、進化樹をのぼったり、周期表で石蹴りをしたり、肉体人とグレイズナーと市民の歴史が街路状になった時間線を散歩したりしたことがある。五十万タウ前には、真核生物の細胞の中を泳いでいた。そこでは、細胞質の中を漂っていくあらゆるタンパク質、あらゆるヌクレオチド、あらゆる炭水化物分解酵素が、そのとき問題となっている分子についてライブラリが言及を要するあらゆる事項へのリファレンスのついたゲシュタルト・タグを発信していた。 だが〈真理鉱山〉では、タグは単なるリファレンスではない。そこには、その物体が表現している定義、公理、定理の完全な記述が含まれていた。〈鉱山〉は自己充足的だ。肉体人とその末裔がこれまで証明してきたあらゆる数学的な結果が、まるごと展示されている。ライブラリによる解釈はたしかに有用だ──だが真理そのものはすべてここにあった。 洞穴の床に埋まった光る物体のそれぞれが発信しているのは、ひとつの位相空間の定義だ。ひと組の点(閃光)が、どのように点どうしが結びついているかを特定する〝開部分集合族〟(ひとつまたはそれ以上の要素)に──〝距離〟とか〝次元〟といった概念にまったくたよることなく──わけられている。構造をまったくもたない単純な集合を別にすると、入手可能な中ではこれがもっとも基礎に近い。もっとも風変わりなものまで含めて〝観境〟の名に値するほぼあらゆる存在の、共通の先祖だ。洞穴への入口となるただ一本のトンネルが、不可欠な先行概念の数々へのリンクを提供し、岩盤の中へゆるやかに〝くだって〟、出口となる半ダースのトンネルは、定義のさまざまな含意を追究している。『もし Tが位相空間だったら……どういうことになる?』というように。トンネルは小さな宝石の原石で舗装され、原石のそれぞれがなんらかの定理にいたる中間結果を発信していた。〈鉱山〉内のトンネルというトンネルは、鉄壁な証明の各ステップでできていて、あらゆる定理は、どれほど深く埋まっていても、その前提のひとつひとつまでもとをたどることができる。そして、〝証明〟がじっさいなにを意味するかを突きつめるために、数学のあらゆる分野がそれぞれの蓄積してきた形式的体系を使う。公理や定義や演繹法のルールといったものの組とともに、定義や推測を正確に述べるのに必要となる専門用語を。 はじめてラディヤと〈鉱山〉で出会ったとき、ヤチマはたずねた。非知性プログラムが採掘者の使っている形式的体系を用いて、その体系の定理をすべて自動的に作りだせば、市民の手間は省けるのに、と。 ラディヤの返事は、「二は素数だ。三は素数だ。五は素数だ。七は素数だ。十一は素数だ。十三は素数だ。十七は──」「もういいですよ!」「もしわたしが飽きなければ、ほかになにも発見することなく、いまのような真似をビッグクランチまでつづけていられたろうね」「ですがわたしたちは、すべてが異なる方向を採掘する数十億のプログラムをいっせいに走らせることができます。その中のいくつかが興味深いものをなにひとつ発見しないとしても、問題はないでしょう」「どの〝異なる方向〟をあなたは選ぶつもり?」「わかりません。すべてを、でしょうか?」「数十億の無目的な削岩機を使ったのでは、そんなことはできない。仮にあなたがひとつだけ公理をあたえられていて、あらたな言説を生成するために十の妥当な論理的ステップが使えるとする。一ステップ後、あなたは検討すべき十の真理を手にしている」ラディヤは説明のために、ヤチマの正面の空間に分岐する鉱坑のミニチュアを作りだした。「十ステップ後、あなたの手にあるのは百億、十の十乗だ」鉱山模型の中に扇状に広がるトンネル群は、すでに解像度を超えて不明瞭になっている──ラディヤはそこに百億の光る削岩機をつめこみ、露出した鉱床の表面を強く輝かせた。「二十ステップ後には十の二十乗。いちどに検討できる百億倍だ。正しいものをどうやって選ぶ? それとも、削岩機をすべてのトンネルでタイムシェアするか──それだと実用にならないレベルにまで遅くなってしまうね?」 削岩機がトンネルの数にあわせて光線を拡張すると、活動状態を示す輝きは弱まって見えなくなった。「幾何級数的増加は、どんなかたちをとろうとも災いになる。そのせいで肉体人が一掃されかけたのを知っている? わたしたちがあまりに正気を欠いていたなら、この星全体を──あるいは銀河全体を──必要とされる非知性の計算力をもたらすある種の機械に変えようとするかもしれない……けれどそうしてさえ、宇宙の終末までにフェルマーの最終定理に到達できるか、疑問だと思う」 それでもヤチマは引かずに、「プログラムをもっと洗練させることはできるはずです。もっと識別力のあるものに。そしてプログラムに実例から帰納させ、推測をおこなわせ……証明を目ざさせればいい」 ラディヤは不承不承、「たぶんそれは可能だろう。《移入》以前にそのアプローチを試みた肉体人もいる──たしかに、短命で、反応が遅く、気が散りやすい人間なら、死ぬまでに自分では絶対に探しだせないだろう鉱脈を、思考力のないソフトウェアに見つけさせるというのも、意味をなさないではない。しかし、わたしたちの場合は? 楽しみを得る機会を犠牲にする理由が、どこにある?」 真理採掘を自ら経験したいまでは、ヤチマもその言葉に同意するほかない。どんな観境にもライブラリのファイルにも、人工衛星や遠隔操作機がもたらす映像にも、数学よりも美しいものはなかった。ヤチマが観境に質問タグを送ると、タグはヤチマの視点からのみ見えるかたちで、ガウス‐ボネの定理にいたる道を空色の輝きで照らした。トンネルのひとつをゆっくりと漂いくだりながら、ヤチマは経路にはめこまれた宝石のタグをすべて読んでいった。 学習というのは、不思議な作業だ。やろうと思えば、自分の界面ソフトに命じて、この生の情報すべてを自分の精神に結線させるのは一瞬だ──アメーバが惑星をとりこむように、〈真理鉱山〉の完全なコピーをのみこむこともできる──が、そのやりかたでは、事実がいま以上に近しいものになることも、ヤチマの理解を向上させることも、なさそうだった。数学的概念を把握する唯一の手段は、それをいくつもの異なるコンテクストの中で見、何ダースもの具体例について考え抜き、直感的な結論を強化するメタファーを最低ふたつか三つ見つけることだ。『曲率は、三角形の内角の和が一八〇度にならないかもしれないことを意味する。曲率は、平面を一様でないかたちでのばすか曲げるかしなければ、平面で表面をつつめないことを意味する。曲率は、平行線をうけいれる余地がないことを──あるいは、かつてユークリッドが夢想だにしなかったほど大きな余地があることを、意味する』というように。ある考えを理解するとは、それを自分の精神内のほかのシンボルすべてと徹底的に絡みあわせ、あらゆることについての自分の考えかたを変えることだった。 とはいえ、ライブラリには過去の採掘者たちが定義を肉づけした方法がうなるほどあって、ヤチマはその詳細を生データに並べてつなぐことで、この道すじを以前にたどった何千という《コニシ》市民の理解の記録をうけとることができた。適切な精神接合をおこなえば、各人それぞれの考えた方向へ鉱床をさらに掘りさげている現存の全採掘者を、難なくとりこむことも可能になる……その場合ヤチマは、数学的にいうなら、その採掘者たちの影を追うだけの寄せ集めクローンと少しも変わらなくなってしまうが。 いっぱしの採掘者になろうとしたら、つまり鉱床で──ガウスやオイラー、リーマンやレヴィ・チヴィタ、ド・ラムやカルタン、ラディヤやブランカのように──自分独自の推測をおこなったり、それをテストしたりしたいなら、近道などないこと、〈鉱山〉をじかに探求する道はひとつであることを、ヤチマは知ることになるだろう。前例のない方向、かつてだれも選択していない道すじを開拓したいなら、古い結果に新しい解釈を加えるほかはない。〈鉱山〉の地図を自分で独自に作って──地図に独自の皺や染みがつき、ほかのだれのとも違う装飾や注釈が施されて──はじめて、ヤチマは次の未発見の真理の豊かな鉱脈がどこに埋まっているかを推測できるようになるのだ。 ヤチマが自分の専用観境であるサバンナに戻って、多角形が縦横に刻まれた円環をもてあそんでいると、イノシロウが名刺を送ってきた。そのタグは、風に乗ったなじみのにおいのように観境にはいってきた。ヤチマはいま現在の作業を楽しんでいて、ほんとうは邪魔されたくない気分だったのでためらったが、結局広い心で歓迎のタグを返信し、イノシロウに観境へのアクセスを許可した。「その小きたないがらくたはなんだ?」イノシロウの小馬鹿にするような視線は、小さな円環にむけられていた。イノシロウは《アシュトン‐ラバル》ポリスへの訪問をはじめてから、観境美学の判定者に入門したようにふるまっている。イノシロウの専用観境でヤチマが見たものはなにもかも、休みなくのたくり、さまざまなスペクトルで輝き、最低でも二・九のフラクタル次元をもっていた。「円環の全曲率がゼロであるという証明のスケッチです。これをここの永久備品にしようかと思っています」 イノシロウはうめいた。「すっかり体制派にとりこまれてしまったようだな。孤児は見たことを真似する」 ヤチマは激することなく答えた。「円環の表面を多角形に分割したところでした。面の数マイナス辺の数プラス頂点の数──オイラー数──はゼロに等しい」「もう違う」イノシロウは物体上に一本の線を書き加え、六角形のひとつを勝手に二分割した。「あなたは新しい面をひとつと新しい辺をひとつ加えただけです。ですから差し引きでゼロ」 イノシロウはひとつの正方形を四つの三角形に分割した。「新しい面が三、マイナス新しい辺が四、プラス新しい頂点が一。最終的な変化は、ゼロ」「雑魚鉱員が偉そうに。論理ゾンビめ」イノシロウは口をひらくと、でたらめな命題計算のタグを吐きだした。 ヤチマは笑って、「わたしを侮辱するよりましな用がないのなら……」といいながら、アクセス即時撤回のタグを出しかけた。「ハシムの新作を見に来いよ」「あとで行くようにします」ハシムはイノシロウが《アシュトン‐ラバル》で作った芸術家の友人のひとりだ。ヤチマはその芸術家たちの作品の大半には当惑させられるばかりだったが、それがポリス間での心的構造の違いのせいなのか、自分自身の個人的な嗜好にすぎないのかは、よくわからない。そうした作品もイノシロウにかかれば、すべてが〝崇高〟になるのはまちがいないが。「新作はリアルタイムで、刹那の存在なんだ。いま来なければ、二度と見られない」「そんなことはありません。あなたが記録したものをわたしがあとで見せてもらうことができますし、わたしが自分の代理を送ることも──」 イノシロウはシロメの顔をのばして、大げさなしかめ面を作った。「これだから俗物は。芸術家がいちど決めたパラメータは、神聖この上ない──」「ハシムのパラメータは、理解不能というだけです。というわけで、わたしは自分がその作品を気にいらないだろうとわかっています。あなたは見にいけばいい」 イノシロウは、ゆっくりと顔をふつうのサイズに縮めながら、ぐずぐずしていた。「おまえが望むなら、ハシムの作品を賞賛することもできるんだ。適切な価値ソフトを走らせれば」 ヤチマは相手をまじまじと見つめて、「あなたはそうしているというのですか?」「そうだ」イノシロウが片手をさしだすと、《アシュトン‐ラバル》ライブラリのアドレスを発する蘭が手のひらから生えて、緑色と紫色の花を咲かせた。「いままでいわなかったのは、おまえがブランカに話してしまうだろうからだ……そうなったら、親のだれかにも伝わる。おれの親たちのことは知ってのとおりだ」 ヤチマは肩をすくめた。「あなたは市民なのに、干渉されるなんてことがあるんですか」 イノシロウは目を剥いて、精いっぱい殉教者めいた表情をして見せた。自分には家族というものが決して理解できないのでは、とヤチマは思う。価値ソフトを使っているからといって、縁者のだれにもイノシロウを罰する手段はないし、価値ソフトの使用自体をやめさせる方法となるとなおさらだ。戒めのメッセージはフィルター除去されてしまうだろう。家族集会がひらかれても、説教大会になったとたんに離脱すればいい。けれどブランカの親たち──そのうち三人はイノシロウの親でもある──は、ブランカを説き伏せてガブリエルとの仲を終わりにさせたことがある(一時的にではあったが)。《カーター‐ツィマーマン》ポリスとのポリス外婚という可能性は、とうてい認められるものではなかったのだ。いまではふたりはもとの鞘に戻り、ブランカは(なんらかの理由で)イノシロウを、ほかの家族とひとまとめにして避けようとしている──だからいまのイノシロウには、この部分同胞になにかをいいふらされる心配などなさそうなのだが。 ヤチマは少し傷ついた気分で、「ブランカにはなにも話しません、あなたが話すなというなら」「ああ、そうかい。おれが忘れたとでも思ってるのか? おまえはブランカの養子も同然だったんだ」「それはあくまでもわたしが子宮にいたときの話です!」ヤチマはいまもブランカがとても好きだったが、最近は顔をあわせることすらあまり頻繁ではなくなっていた。 イノシロウはため息をついた。「わかった。価値ソフトの件をいわずにいたのは悪かった。これで作品を見にいく気になったか?」 ヤチマはもういちど、警戒しつつ花のにおいを嗅いだ。《アシュトン‐ラバル》のアドレスは、まぎれもなく異質なにおいがした……だがそれは、なじみがないということにすぎない。ヤチマは界面ソフトに価値ソフトのコピーを作らせ、入念にそれを点検した。 ラディヤやほかの採掘者の多くが、価値ソフトを使うことで、何十億タウにもわたって自分の作業に集中しているのはヤチマも知っていた。肉体人のものを大まかにモデルにした精神をもつ市民は、気移りをまぬがれない。最重視している目標や価値に対する関心でさえ、時間とともに衰えてしまうのだ。柔軟性は肉体人からうけ継がれた最重要事のひとつだが、《移入》前の寿命と計算的に等価な期間を一ダース送ったあとでは、もっとも頑強な人格でさえ、統一を失ってエントロピー的無秩序状態になりがちだった。だが、どこのポリスの創設者を見ても、事前に方向づけされた安定化機構を自分の基本デザインに組みこんだ者はいなかった。種全体が、ひと握りのミームに寄生された偏執狂者の一族として永遠に固定するのをおそれたのだ。個々の市民が幅広い種類の価値ソフトを自由に選べるようにしたほうが、はるかに安全だと判断された。よりどころが必要だと感じることがあったら、各人の界面ソフト内で走らせて、その人がもっとも価値を置く特性を強化することのできる、そんなソフトウェアを。短期間の異文化間実験が可能になったのは、ほとんど副次的な産物だった。 価値ソフトのそれぞれは、わずかに異なるひとそろいの価値観や美学を提供する。このソフトには、いまの多くの市民の精神に幾分か残っている、先祖伝来の〝しあわせの理由〟をもとに作られたものが少なくない。規則性と周期性──一日や季節のめぐりのようなリズム。音響や映像、思想の調和や精密さ。斬新さ。追憶と期待。うわさ話、親交、共感、思いやり。孤独と沈黙。そこにはささいな美学的嗜好から、他人との感情的関係、倫理観やアイデンティティの基礎にいたるまで広がる、連続体があった。 ヤチマはイノシロウが見せた価値ソフトを界面ソフトに分析させた結果を、それにもっとも大きな影響をうける神経構造の価値ソフト使用前使用後のマップとして、観境内の自分の前に表示させた。マップは網状で、あらゆる連結点にシンボルを表現する球があった。シンボルのサイズの変化の度あいが、価値ソフトがそれをどのくらい改変するかを示している。 「〝死〟の評価が十倍上昇する? 勘弁してください」「それは、最初の評価が低すぎただけのことだ」 ヤチマはイノシロウを不愉快そうに一瞥してから、マップを自分にしか見えないように変え、一心不乱に集中している雰囲気を発散しながら、それを吟味した。「その気になれよ。もうすぐはじまってしまう」「わたしの気持ちをハシムと同じにしろ、ということですか?」「ハシムは価値ソフトを使っちゃいない」「では、その作品は手の加わっていない芸術的才能だけから生まれたものだと? こういう場合はみんなそういいませんか?」「いいから……決断しろ」 ヤチマの界面ソフトは寄生の危険性について非常に楽観的な評価をくだしていたが、保証はなにもない。価値ソフトを数千タウ走らせたら、停止させるべきだろう。 ヤチマは自分の手のひらから、イノシロウのとそっくりの花を生やした。「いつもこういう馬鹿げた見せ物に、わたしをつれだそうとするのはなぜです?」 イノシロウの顔は、感謝してもらえない恩人を意味する純粋なゲシュタルト・サインになった。「おれ以外のだれが、おまえを〈鉱山〉から救いだそうとするってんだ?」 ヤチマは価値ソフトを走らせた。とたんに、観境の特定の側面に注意を引きつけられた。青空の細いすじ雲、遠くに固まった木々、近くの草をゆらしていく風。それは、ひとつのゲシュタルト色マップから別のマップに切りかえたら、ほかのものより変化の大きかった物体が浮きだして見えてきたような感じだった。一瞬後、その影響は消えたが、ヤチマは修正されたという確信をまだ味わっていた。精神内の全シンボル間で勢力争いがおこなわれて力の均衡が変化し、意識のうなりに通常とはわずかに異なる音調が加わっている。「だいじょうぶか?」イノシロウは本気で気づかっているらしく、ヤチマは相手に対してめったにない心底からの好感がわくのを感じた。イノシロウはヤチマに、自分が連合の可能性を延々と漁って見つけだしたものを見せたがってばかりいる──〈鉱山〉ですごす以外の選択肢を、どうしてもヤチマに見せたいのだ。「わたしは自分のままです。たぶん」「そりゃ気の毒に」イノシロウがアドレスを送ってきて、ふたりはいっしょにハシムの芸術作品へジャンプした。 ふたりのアイコンが消えたのは、純粋な観察者になったしるしだ。ヤチマは自分が、体液と組織がいり混じって薄赤色に染まった、脈動する半透明の生体器官の塊を見つめているのに気づいた。各部位が分割され、溶解し、再組織化される。どうやら肉体人の胚らしい──だが写実主義的な映像とはほど遠かった。映像化テクニックは変化しつづけ、そのたびに別の組織が示される。伝播される光の薄片にとらえられたもろい四肢や臓器らしきものが見えた。X線の閃光にくっきりと写った骨の影。 MRIの無線周波数のかん高いさえずりの中に、こまかく分岐した神経系のネットワークが金線細工状の影になって突然浮かびあがり、ミエリン(有髄神経線維の軸索をつつむ物質)から脂質へ、小胞状に散らばる神経伝達物質へと収縮していく。 胚はふたつの体になっていた。双子なのか? だが大きさは違い──片方がもう片方よりずっと大きくなることもあった。ふたつの体は位置を変えつづけ、相手のまわりをまわって、映像の波長がスペクトルを不意に移るたびに、大きさも断続的に縮んだりのびたりした。 肉体人の子どもの片方が、ガラスに姿を変えた。神経や血管がガラス質に変化し、光ファイバーになる。いきなり、強烈な白色光の中に、生きて呼吸をしているシャム双生児の映像が浮かんだ。現実にはありえないかたちの切開面がさらしているのは、剥きだしの桃色と灰色の筋肉が、形状記憶合金や圧電性作動装置と協同で動いているところ。肉体人の組織とグレイズナーの構造物が浸透しあっているのだ。その場面は回転し、モーフィングして、ひとりきりで肉体人の子宮の中にいるロボットの子どもに変わった。もういちど回転して、その女性の脳に埋めこまれた市民の精神の輝くマップを見せる。そこからズームアウトすると、体を丸めたその女性がいるのは、光ケーブルと電線が作る繭の中。と思うと、群れなすナノマシンが女性の皮膚から爆発的にあふれ出し、なにもかもがばらばらになって灰色の塵の雲と化した。 肉体人の子どもがふたり、並んで手をつないで歩いている。それは父と子、あるいはグレイズナーと肉体人、または市民とグレイズナーかもしれず……ヤチマはそのふたりの正体を突きとめるのをあきらめ、印象だけを素通りさせた。ふたつの人影が都市のメインストリートに静かにたたずんでいる周囲で、高層ビル群がそびえては崩れ落ち、ジャングルや砂漠が押し寄せては退いた。 芸術家の作品に強制されて、ヤチマの視点はふたりの人物を周回する。ヤチマの目の前で、ふたりは視線を交わし、指先をあわせ、唇を触れあい──そして不器用に拳をぶつけあって、右腕どうしが手首で融合した。わかりあったしるしに、いっしょに溶けていく。小さいほうの人が大きいほうをもちあげて肩に乗せ──すると砂時計のように、上に乗った側の高さが、下の乗せた側に流れ落ちた。 ふたりは親子、兄弟姉妹、友人、恋人、同じ種といったもので、ヤチマはふたりの親密さに感じいった。ハシムの作品は、あらゆる境界線内での、またそれを超えての友情という概念を留出したものだった。そして、すべてが価値ソフトのせいかどうかはともかく、ヤチマはそれを目にできたことを──あらゆる映像が分解して、《アシュトン‐ラバル》の冷却液の流れの中でエントロピーのゆらめきとなって終わる前に、作品のいくらかを自分自身の中にとりこめたことを──うれしく思った。 観境はヤチマの視点をふたりの人物から引き離しはじめた。数タウ間、ヤチマはされるがままでいたが、都市全体が崩壊して平坦で裂け目のある砂漠と化し、遠ざかる人影以外に見るべきものはなくなってしまった。ジャンプしてふたりのところへ戻ったものの……自分の座標を前進させつづけていないと、同じ場所にとどまってすらいられないことがわかった。それは奇妙な体験だった。ヤチマには触覚も、バランス感覚も、自己受容の知覚もない──《コニシ》式デザインは、そうした物質性に関わる錯覚を排除していた──というのに、観境がヤチマを〝押し〟やろうとし、それに抵抗するために加速していると、その物理的な作業にきわめて近い体験ゆえに、自分に実体があると信じそうになる。 急激に時間が加速したかのように、ヤチマとむきあっていた人物の頬がくぼみ、両眼に薄膜が張った。まわりこんでもうひとりの顔を見ようとすると──観境はヤチマに砂漠の上を舞わせて、さっきとは反対方向に運んだ。ヤチマが苦労してもとの場所へ戻ると、そこにいるのは……母と娘であり、それがぼろぼろのロボットと輝く新しいロボットに変わり……そのふたつの人影は手と手をつないで寄り添っていたが、ヤチマはそれを引き裂こうとする力が感じられるように思った。 ヤチマは見た、肉体人の手が皮膚と骨を握りしめるのを、金属が肉を握りしめるのを、セラミックが金属を握りしめるのを。そのすべてが、ゆっくりとすべるようにほどけていった。ヤチマはそれぞれの人影の眼をのぞきこんだ。ほかのあらゆるものが流れるように変化している中で、ふたりの視線はしっかりと絡みあったままでいた。 観境がまっぷたつに裂け、地面が口をひらき、空が割れた。ふたつの人影も引き離される。ヤチマはふたりのいた場所から投げだされるように砂漠に戻された──こんどはその力には逆らえなかった。彼方にふたつの人影が見えた──なんの種かはわからないが、いまはまた双子になって、ふたりのあいだでしだいに広がっていくうつろな空間の両側から、必死で触れあおうとしている。両腕をさしのばし、指先がかすめかける。 そのとき、世界の片割れどうしが、一気に遠ざかった。だれかが憤怒と悲嘆に大声をあげた。 観境が暗黒に帰す前に、ヤチマはその叫びが自分のものだったことに気づいた。 飛びまわる豚がいる噴水のある観境はだいぶ前に打ち捨てられていたが、ヤチマはアーカイヴからそれをコピーして自分の専用観境に据えていた。広大な乾ききった低木地のまん中にぽつんと、回廊に囲まれた広場がある。人のいないその広場は、大きすぎるようにも小さすぎるようにも見えた。数百デルタ離れたところには、進路調整されるところをヤチマが見た小惑星のコピー(縮尺不正確)が、地面に埋まっていた。ある時点のヤチマは、同様の思い出の品々が広大なサバンナを覆う小道のように散らばっている光景を思い描いていた。自分の人生の分岐点をふり返りたくなったら、いつでもその地図の上を飛べばいい……だが時間が経つと、その発想全体が子どもじみたものに思えはじめた。ヤチマの見た品々がヤチマを変えたのなら、それはすでに起こったことであって、その品々を再現して記念物とする必要はどこにもない。この公共観境を自分のものにしているのは、そこをおとずれるのが純粋に好きだからだ──小惑星のほうは、それを片づけてしまいたいという衝動に逆らうことに、ひねくれた喜びを感じるからにほかならない。 ヤチマはしばらく噴水の脇に立って、部分的に手本としている物理的現象を難なく模倣している銀色の液体を眺めていた。それからヤチマは、ラディヤとの授業で作った八面体のダイヤモンド──頂点が六つあるネット──を噴水の横に再現した。物理学がポリスにおいて無意味であることは、大半の市民と同様、ヤチマも変わらぬ自明の理としていた。もちろんガブリエルは異議を唱えているが、それは《カーター‐ツィマーマン》ポリスの信条を口にしているだけだ。この噴水は流体動力学の法則に従うのも無視するのも、変わらずにやすやすとやってのける。噴水がなにをしても、それは任意のことでしかない。それぞれのしぶきが起点と子豚が形作られるまでのあいだで描く、重力に従った放物線は、美学的に選択されたものにすぎず──その美学もまた、先祖である肉体人の残した影響以外のなにものでもない。 だが、ダイヤモンド形ネットは違う。ヤチマはその物体をもてあそんで、大きく変形させ、見わけがつかなくなるほどにひねったりのばしたりした。それはいくらでも変形可能で……それでいて、ヤチマがそれを変化させる際のいくつかのささやかな制約が、ある意味でそれを不変にしていた。ヤチマがそれをどれほどゆがめても、どんなにたくさんの余分の次元を生じさせても、このネットが平らになることは決してない。それをまったく別のもの──たとえば円環を覆うネット──ととりかえて、その新しいネットを平らにすることはできる……だがそんなことをしても、イノシロウの形をした知性をもたない物体を作りだし、それを〈真理鉱山〉へ引きずっていってから、自分はほんものの友人を説得してここへいっしょに来させたのだと主張するのと同じくらいに無意味だ。 ポリスの市民たちは数学の産物だと、ヤチマは結論づけた。市民という存在のあらゆる諸相、市民がとれるあらゆる姿の中核に、数学がある。市民の精神がいかに変形可能といっても、ある意味では深層でダイヤモンド形ネットと同じ種類の制約に従っている──その変形は一種の自殺とあらたな再生だが、自らを完全に消失させて新しいだれかを組みたてるわけではない。それはすなわち、市民は各々が、不変の数学的シグネチャーを帯びていることを意味する──そのシグネチャーはオイラー数のようなものだが、桁違いに複雑だ。あらゆる市民の精神の混乱した細部に埋もれた状態で、時間に影響されることなく、記憶や体験の重みが変わっても左右されることなく、自己決定による変化によって変更されることもないなにかが、あるはずだった。 ハシムの芸術作品はエレガントで感動的だった──そして価値ソフトが走っていないいまも、それが喚起した強烈な感情は心に残っている──けれど、ヤチマの選択した天職がそのせいでぐらつくことはなかった。いまも芸術に居場所はある。肉体人がかつて無知ゆえに、不変の真実の具現化と勘違いした本能や衝動すべての名残をわずかに改良するためのものとして──しかしヤチマが、アイデンティティや意識の真の不変量を見つけだす望みをもてるのは、〈鉱山〉のほかになかった。 ヤチマが自分が何者であるかを理解するきっかけは、〈鉱山〉にしかないのだった。 3 架橋者たち アトランタ、地球 二三 三八七 五四五 三二四 九四七 CS T 二九七五年五月二十一日、十一時三十五分二十二秒一〇一 U T ヤチマのクローンはグレイズナーのボディの中で起動すると、次の一瞬で自分の置かれている状況を考察した。〝覚醒〟という体験に、新しい観境に到着するのと違いは感じられなかった。自分の精神がもういちどあらたに作られたところだ、という事実をとりたてて意識させるものはなにもない。じっさいは主観的な数瞬のあいだに、ヤチマは子宮や界面ソフトという仮想機械上で走る、《コニシ》風に手のはいった〈シェイパー〉から、このロボットのきわめて非ポリス的なハードウェアに実装されたグレイズナー・バージョンへとクロス翻訳されたのだが。ある意味で、いまのヤチマに自分自身の過去といえるものはなく、もっているのは模造された記憶と使い古しの人格だけだ……だが気分的には単にサバンナからジャングルへジャンプしてきたのと変わらないし、ジャンプの前後を通じて自分がひとりの同じ人物だと感じられる。すべての不変量に変化はなかった。 オリジナルのヤチマは翻訳前に界面ソフトによって一時停止されていて、すべてが計画どおりに進んだ場合、その凍結したスナップショットが再始動される必要は生じない。グレイズナーの中のヤチマ・クローンが《コニシ》ポリスに再クローンされ(そしてもとの《コニシ》の〈シェイパー〉に再翻訳され)てから、《コニシ》にあったオリジナルとグレイズナー内のクローンはともに消去される。哲学的にいえば、ポリス内で物理的メモリの一セクションから別のセクションへ移動するのとなんら変わりはなく──それは断片化されたメモリ空間を再生利用するため、オペレーティング・システム
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